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Posts Tagged ‘許容量’

以前、本ブログで、1956年に衆議院で表明された物理学者武谷三男の放射線許容量についての議論を紹介した。翌1957年、武谷は京大・阪大などが推進していた関西研究用原子炉を大阪府高槻市阿武山に設置する計画に反対する運動を支援した。その一環で、9月11日に開催された吹田市で開催された説明会に参加し、京大・阪大側の研究者と討論を展開した。この討論の速記録は『武谷三男現代論集』1に収録されている。

この中で、より明瞭に、武谷は放射線の許容量について論じている。ここで紹介しておこう。

武谷は、自身が戦後において原子力の平和利用を提唱したことを述べながら、最近は少し薬がききすぎて、今度は、原子力なら何でもいいんだという風潮が生まれたことを嘆き、文明の利器、とりわけ原子力は非常な危険を有しているから、非常に慎重に扱わなくてはならないと主張した。その上で、武谷は、戦前は放射線・放射能はそれほど危ないものと思っていなかったが、「戦後になりまして、人体に及ぼす影響が非常な微量なものまで危険がある。もちろんすぐ死んでしまうというようなそういう危険ではない。そういう危険でないからこそ大変心配なのであります」と述べた。

その上で、まず、軍事利用というものには許容量というものは許されないとした。例えば、水爆実験の死の灰などでは、どんな微量の放射性物質でも許されず、「警告単位」という考えでなければならないとしている。平和利用に限定して、許容量という考えが許されるとした。

許容量を原子力の平和利用に限定しつつ、武谷は次のように述べている。

 

ところがしかし、この平和利用といえども何の意味もなくこの放射線や放射能を受けるということは許してはならないということなんです。それに相当の掛替えがあるときに、許容量という概念が成立つのであります。

具体的に、武谷は、以上のような議論を展開している。放射線・放射能は量に比例して有害であり、毒物のような致死量が存在しない。「白血病やガンというものの発生も非常に微量に至るまで受けた線量と比例して現れるという問題がはっきりだんだんして参りました」と、ごく微量でも、白血病の発生率を増加させてしまうとしている。

そして、天然にも放射能があって、原水爆のそれよりも低いと主張されていることについては、このように批判した。

…白血病だっていろいろ発生するのは、天然の放射線や放射能でかなり沢山の人が死ぬわけです。
 ところが、これがもし相当乱暴な立場で原子炉などが運転されるということになりますと、たとえこれが天然の水準より少ないにしても、ある種の白血病を出すか遺伝障害を生むわけであります。
 したがってそういう点からいって、これは天然より少ないからといって許されるかというと、そうは参らない。

つまり、天然の放射線・放射能で白血病など発症して死亡することが多いとしても、どれほど少ないとはいえ、それに追加して死亡者を出すべきではないとしているのである。

そして、許容量については、このように説明している。例えば、レントゲン検査でも白血病を生むことには変わりない。

しかしながらその場合には白血病で死ぬ人に比べて、このレントゲン検査をやらなかったとすれば、それは100人の人が結核で死ぬとか、1000人の人が結核で死ぬとかということになるわけです。したがってどっちを選ぶかというと、この1人の白血病患者を選ぶということで許容量というものが成立つわけです。

放射線・放射能許容量とは、いわば、それをあびるリスクと、それを利用して得られるリターンとの差し引きで成立っているといえるのだ。つまり、許容量以下であっても、ガン・白血病などにかかるリスクは少ないまでも存在する。それでも許容されるのは、利用して得られるリターンのためであるといえる。

ゆえに、許容量といえども、放射線をむやみにあびていいわけではない。武谷は、このように指摘した。

 

したがって、だからといって何をやってもいいということにはならない。できるだけ慎重に、なるべく防備を完全にして無駄な放射線を照てないということが必要になるわけです。

そして、武谷は、このように憂いた。

 

それで、私は大変今後の原子力で心配することは、こうやれば大丈夫、ああやれば大丈夫というふうに言っておいて、それはなるほどそういう設備を整えるかも知れません。また、整えないかも知れません。それは分からない。設備は整えたとしても、結局のところそういうものを流す方が簡単な場合が多いのです。そういたしますとそれが結局文句を誰かが言うと、「こういう乱暴なやり方はいかんじゃないか」ーそう言うと、「これは厚生省の許容量以下である。だからそんなことに文句を言うのはいけない」または「遺伝学的許容量以下である。遺伝学的許容量みたいな厳密な許容量以下なんだから文句を言う方がおかしいではないか」というようなことに決まっているのです。
 こういうことは、今後日本が原子力をどんどんやっていくときに私が最も心配していることであります。

つまり、リスクとリターンとの関係で設定された「許容量」が一人歩きし、本来は許容量以下でも無駄な放射線をあびることはさけなくてはならないのに、許容量までならばなんでもいいということになってしまうことを武谷は懸念していたのである。

そして、現在、武谷の懸念はある意味で的中したといえる。許容量が設定されると、それまではよいとされてしまうことは、福島第一原発事故以後、往々みられることである。それは、空間放射線率、除染基準、食品などの規制でみられる。結局、許容量以下でも無駄な放射線をあびる努力が必要なのだが、許容量ならば安全であり、それは無駄なこととする議論がしばしばみられるのである。

このようなことが一般的なことなのだろうか。前回みた、国際放射線防護委員会( ICRP)は、結果的に平常の20倍の年間20mSvを汚染地帯の基準としてしまっており、そのことは評価できない。しかし、ガン・白血病・遺伝障害をひきおこす細胞レベルでの損傷については、サイト「原子力百科事典」(高度情報科学技術研究機構運営、略称ATOMICA)によると、このように説明している。

細胞レベルの損傷は、極低線量(あるいは低線量率)の被ばくによって引き起こされるため、障害が発生する確率は、被ばく線量(あるいは線量率)に比例して増加することになる。実質的にほとんど障害が発生しない線量は存在するが、障害発生の確立がゼロとなるしきい線量は存在しないと考えられる。したがって確率的影響は、被ばく線量を合理的に達成できる限り低く制限することによって、その発生確率を容認できるレベルまで制限することになる。
http://www.rist.or.jp/atomica/data/dat_detail.php?Title_No=09-04-01-08

基本的には、細胞レベルの損傷は低線量でも生じうるのであり、しきい線量は存在せず、被ばく線量を合理的に達成できる限り低く制限せよとしているのである。その点は、日本政府などの考え方よりも、武谷の考え方に近いということができる。

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2011年3月11日以後、食品にせよがれきにせよ、また環境放射線量にせよ、放射性物質の「許容量」以下ならば安全であると、政府や自治体の側から強固に主張されている。

この問題について、本ブログでは、ウルリヒ・ベックの所説を紹介したことがある。日本においても、原子力開発の開始された当初から、すでに問題になっていた。ここでは、著名な物理学者である武谷三男が、1956年5月22日の衆議院社会労働委員会で、放射性物質に対する許容度の問題について参考人として呼ばれた際の発言を紹介しておきたい。

この発言において、武谷は、まず、このように指摘している。

これは大体五十四年のリコメンデーションという今まで普通に放射線に対する許容量とかいろいろ言われておるのは、すべて放射線を扱うそういう仕事に携わっている人たちに対するものである。ですからたとえば物理学者とか放射線を扱っていらっしやるお医者さん、それから原爆工場で働いている人、アイソトープを扱っている人、そういった働いている人に対するものが許容量というものであります。それからまたお医者さんが患者をお扱いになる場合の患者に照射する場合に、許容量というようなことが考えられるのであります。つまりその許容量というものに対する概念として一生の間に感知されるような障害をからだに起さないであろうというような程度のことを言うわけであります。ところがその程度の放射線を受けていても、一生その人はお医者さんにその放射線ということでかかることはあるまいというような、大体そういう考えがもとになっている。われわれの知っていることはそういうことなんであります。ただこういう許容量におきましても、たとえばアメリカのいろいろな原子力の本をごらんになりましても、たとえばステフェンソンのものでも何でもごらんになりますと、放射線を扱うときの根本的なフィロソフィーはできるだけ放射線に当らないということである。もし当ってもその一生を通じてそういう障害はないであろうというけれども、しかしそれがはっきりはしないのだ。つまりそういう障害があってもしようがないかもしれないというようなことが書かれてあります。ただわれわれ物理学者にしても、お医者さんにしても、それから患者にしても、放射線に当るということは多かれ少なかれ有害なことなのですけれども、それと引きかえに得をしている。得をしているというと悪いですけれども、何か得るところがある。得るところがあるのと引きかえに失うという場合には、これは許容量ということがある程度意味がある。ところが何の関係もない人に、そういう放射線をこの程度なら当ててもよろしいという理由はどこにもないのであります。
http://kokkai.ndl.go.jp/cgi-bin/KENSAKU/swk_dispdoc.cgi?SESSION=7825&SAVED_RID=3&SRV_ID=2&PAGE=0&TOTAL=0&DPAGE=1&DTOTAL=5&DPOS=3&SORT_DIR=1&SORT_TYPE=0&FRAME=2&MODE=1&DMY=28582/

つまり、武谷は、放射線に当たるということは多かれ少なかれ有害なのであって、それによって得ることのない人は当たるべきではないとし、得ることがある人ー物理学者・医者・患者などーにのみ許容量は意味があるとしたのである。武谷は、そのことを「ですから根本的な考え方は、放射線を何の理由もなしに受けるということはよくない。それから広い大衆が受けるという場合には、遺伝的な問題まで当然考慮しなければならない。」と概括している。

その上で、武谷は、このように警告している。

それからもう一つ、こういうふうな最大の許容量とかいうものが出ますと、今度はそれまでなら幾ら受けてもいいというふうに、どうも日本では考え方が変ってくる。その点私は大へん心配しております。むしろ逆に、許容量というよりは危険量という名前でもおつけになった方がいいんじゃないか。そうするとだいぶん考え方が違ってくるんだろうと思います。で、この許容量の考え方にしても何でもそうでもございますが、一般に日本人が衛生問題に対して考えておりますのは、これは戦時中のわれわれの痛切な印象でございますが、どこまで粗食しても人間は死なないか、どこまで栄養不良やっても死なないか、そういうふうな考え方が、栄養学とかなんとかの根本的な精神にどこか無意識のうちに残っているのじゃないか。栄養学とか衛生学とかいうようなものは、人間をより健康にするための学問であるはずですが、これは社会のいろいろの問題で、やむを得ず学者がそうさせられてしまう面もありますが、どこまで粗食しても死なないとか、どこまで不衛生なものを食べても死なないとかいうふうに考えが働かざるを得ないように、社会の方が学者をしてしむけてしまうのではないかというふうに私は考えます。ですから、同じことでございますが、先ほど申しましたように、一般大衆の場合と専門家の場合とをできるだけ区別されるようにしていただきたいと思います。

武谷は、許容量という概念が認められると、その範囲内ならばどれだけ受けてもかまわないということになってしまうということになってしまうであろうと主張しているのである。

彼にとって、許容量とは、放射線を浴びて何らかの利益を得る人びとのためのものなのであった。一般大衆は、とにかく受けるべきではないというのである。

翻って、現在の「許容量」をみてみれば、武谷の警告通りの形で使われているといえる。結局、利益もなしに、ある程度の放射線をあびることを正当化するために使われているということが、現状なのだということができよう。

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