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2014年8月6日、広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式(平和記念式典)にて、安倍晋三首相が昨年とほぼ同様の挨拶を行い、まるでコピペをしているようにみえるということが主にインターネット上で話題となっている。そのことを報じている東京新聞のネット配信記事をまずみてほしい。

広島平和式典 首相スピーチ「コピペ」 昨年と冒頭ほぼ同じ

2014年8月8日 朝刊

 広島市で六日に開かれた被爆から六十九年の平和記念式典で、安倍晋三首相が行ったスピーチの冒頭部分が昨年とほぼ同じ内容だったことから、インターネット上で「使い回し」「コピペ(文章の切り貼り)だ」と批判を集めている。
 安倍首相は「人類史上唯一の被爆国としてわが国には『核兵器のない世界』を実現していく責務がある」などとあいさつ。読み上げた文章を昨年と比較すると「六十八年前の朝」が「六十九年前の朝」となり、「せみ時雨が今もしじまを破る」という表現がなくなった以外は冒頭三段落が一字一句同じだった。今年は四十三年ぶりに雨の中で式典が開かれていた。
 後半部分は、いずれも「軍縮・不拡散イニシアチブ」の会合や原爆症認定について触れているが、表現は異なっていた。
 東京都世田谷区の上川あや区議が、テキスト比較ソフトを使って両者の冒頭四段落を並べた写真を七日未明、短文投稿サイトのツイッターに投稿。五千人以上が転載した。
 広島県原爆被害者団体協議会(金子一士理事長)の大越和郎事務局長(74)は「厳粛な慰霊碑の前で前年と同じあいさつをするとは、広島や被爆者、平和を軽視している証左だ。それが底流にあるから集団的自衛権の行使容認を閣議決定したのではないか」と話した。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2014080802000132.html

実際、どうなのだろうか。まず、首相官邸サイトにアップされている昨年と本年の「挨拶」を見比べてみよう。まず、前半はこのようになっている

【2013年】
広島市原爆死没者慰霊式、平和祈念式に臨み、原子爆弾の犠牲となった方々の御霊に対し、謹んで、哀悼の誠を捧げます。今なお被爆の後遺症に苦しんでおられる皆様に、心から、お見舞いを申し上げます。
 68年前の朝、一発の爆弾が、十数万になんなんとする、貴い命を奪いました。7万戸の建物を壊し、一面を、業火と爆風に浚わせ、廃墟と化しました。生き長らえた人々に、病と障害の、また生活上の、言い知れぬ苦難を強いました。
 犠牲と言うべくして、あまりに夥しい犠牲でありました。しかし、戦後の日本を築いた先人たちは、広島に斃れた人々を忘れてはならじと、心に深く刻めばこそ、我々に、平和と、繁栄の、祖国を作り、与えてくれたのです。蝉しぐれが今もしじまを破る、緑豊かな広島の街路に、私たちは、その最も美しい達成を見出さずにはいられません。
 私たち日本人は、唯一の、戦争被爆国民であります。そのような者として、我々には、確実に、核兵器のない世界を実現していく責務があります。その非道を、後の世に、また世界に、伝え続ける務めがあります。
http://www.kantei.go.jp/jp/96_abe/statement/2013/0806hiroshima_aisatsu.html

【2014年】
 広島市原爆死没者慰霊式、平和祈念式に臨み、原子爆弾の犠牲となった方々の御霊に対し、謹んで、哀悼の誠を捧げます。今なお被爆の後遺症に苦しんでおられる皆様に、心から、お見舞いを申し上げます。
 69年前の朝、一発の爆弾が、十数万になんなんとする、貴い命を奪いました。7万戸の建物を壊し、一面を、業火と爆風に浚わせ、廃墟と化しました。生き長らえた人々に、病と障害の、また生活上の、言い知れぬ苦難を強いました。
 犠牲と言うべくして、あまりに夥しい犠牲でありました。しかし、戦後の日本を築いた先人たちは、広島に斃れた人々を忘れてはならじと、心に深く刻めばこそ、我々に、平和と、繁栄の、祖国を作り、与えてくれたのです。緑豊かな広島の街路に、私たちは、その最も美しい達成を見出さずにはいられません。
 人類史上唯一の戦争被爆国として、核兵器の惨禍を体験した我が国には、確実に、「核兵器のない世界」を実現していく責務があります。その非道を、後の世に、また世界に、伝え続ける務めがあります。
http://www.kantei.go.jp/jp/96_abe/statement/2014/0806hiroshima_aisatsu.html

三段落目までは、記事の指摘の通りである。「68年前」を「69年前」に言い換え、「蝉しぐれが今もしじまを破る」というフレーズを抜いただけで、あとはほとんど同じである。今年の広島の式典は降雨の中で行われたということだから、もし晴れていれば「蝉しぐれ」云々も残されていたかもしれない。

四段落目の前半の表現はさすがにかえている。しかし、「私たち日本人は、唯一の、戦争被爆国民であります。そのような者として、我々には」(【2013年】)といっても、「人類史上唯一の戦争被爆国として、核兵器の惨禍を体験した我が国には」(【2014年】)といっても、意味はそれほど変わらないだろう。細かくいえば「私たち日本人」が「我が国」に主体が転換しており、それ自体、国家中心主義的な志向が強まったといえるかもしれない。そして、この後段の文章は「」の有無程度の違いはあるが、「確実に、核兵器のない世界を実現していく責務があります。その非道を、後の世に、また世界に、伝え続ける務めがあります」とともになっている。

続いて、後半の文章をみておこう。

【2013年】
 昨年、我が国が国連総会に提出した核軍縮決議は、米国並びに英国を含む、史上最多の99カ国を共同提案国として巻き込み、圧倒的な賛成多数で採択されました。
 本年、若い世代の方々を、核廃絶の特使とする制度を始めました。来年は、我が国が一貫して主導する非核兵器国の集まり、「軍縮・不拡散イニシアティブ」の外相会合を、ここ広島で開きます。
 今なお苦痛を忍びつつ、原爆症の認定を待つ方々に、一日でも早くその認定が下りるよう、最善を尽くします。被爆された方々の声に耳を傾け、より良い援護策を進めていくため、有識者や被爆された方々の代表を含む関係者の方々に議論を急いで頂いています。
 広島の御霊を悼む朝、私は、これら責務に、旧倍の努力を傾けていくことをお誓いします。
 結びに、いま一度、犠牲になった方々の御冥福を、心よりお祈りします。ご遺族と、ご存命の被爆者の皆様には、幸多からんことを祈念します。核兵器の惨禍が再現されることのないよう、非核三原則を堅持しつつ、核兵器廃絶に、また、恒久平和の実現に、力を惜しまぬことをお誓いし、私のご挨拶といたします。

【2014年】
 私は、昨年、国連総会の「核軍縮ハイレベル会合」において、「核兵器のない世界」に向けての決意を表明しました。我が国が提出した核軍縮決議は、初めて100を超える共同提案国を得て、圧倒的な賛成多数で採択されました。包括的核実験禁止条約の早期発効に向け、関係国の首脳に直接、条約の批准を働きかけるなど、現実的、実践的な核軍縮を進めています。
 本年4月には、「軍縮・不拡散イニシアティブ」の外相会合を、ここ広島で開催し、被爆地から我々の思いを力強く発信いたしました。来年は、被爆から70年目という節目の年であり、5年に一度の核兵器不拡散条約(NPT)運用検討会議が開催されます。「核兵器のない世界」を実現するための取組をさらに前へ進めてまいります。
 今なお被爆による苦痛に耐え、原爆症の認定を待つ方々がおられます。昨年末には、3年に及ぶ関係者の方々のご議論を踏まえ、認定基準の見直しを行いました。多くの方々に一日でも早く認定が下りるよう、今後とも誠心誠意努力してまいります。
 広島の御霊を悼む朝、私は、これら責務に、倍旧の努力を傾けていくことをお誓いいたします。結びに、いま一度、犠牲になった方々のご冥福を、心よりお祈りします。ご遺族と、ご存命の被爆者の皆様には、幸多からんことを祈念します。核兵器の惨禍が再現されることのないよう、非核三原則を堅持しつつ、核兵器廃絶に、また、世界恒久平和の実現に、力を惜しまぬことをお誓いし、私のご挨拶といたします。

後半をみてみると、もちろん、政策の展開を触れた部分は異なっていることがわかる。ただ、テーマは、2013年も2014年も「国連総会」「軍縮・不拡散イニシアティブ」「原爆症援護」をあげている。その意味では、ここも「前年踏襲」なのである。

さらに結びの部分は、ほとんど同じといってよいだろう。行替えの有無、そして「旧倍」を「倍旧」にしていること、さらに「お誓いいたします」を「お誓いします」と言い換えているくらいしか、違った部分を見つけることはできなかった。

全体でいえば、2013年の「挨拶」原稿に、一年間にあった政策展開の部分を修正し、それ以外に多少表現上の手直しをしたというにとどまっている。そして、遠慮なく、前年の「挨拶」を流用しているのである。同じなのは「冒頭」だけではない。「おわりに」もほとんど同じなのだ。

これは、もちろん、セルフコピーだから著作権上の問題にはならない。しかし、随分、人を食った話である。オリジナルかのように発話しているが、しかし、それは前年の踏襲でしかない。知的に誠実であれば、「昨年も同様のことを申し述べましたが、大事なことなのでもう一度申し上げます」というだろう。

この場が、日本の平和政策を世界にむけてアピールする場でもあるはずだが、前年と同じでは全くインパクトがない。さらに、そのようなことを平然とする首相のレベルが世界的に疑われることになるだろう。「核兵器の惨禍が再現されることのないよう、非核三原則を堅持しつつ、核兵器廃絶に、また、世界恒久平和の実現に、力を惜しまぬことをお誓い」と最後にいっているが、このようなアピールすら前年踏襲で、どこが「力を惜しまぬ」というのだろうか。「言葉」すらも選ぶ努力をしないのである。本当に「言葉」だけなのだ。

もちろん、首相などのスピーチは本人が書いているものではないだろう。官僚などのスタッフが原案を書いているに違いないのだ。首相は、どんなことを発話したいか、それをスタッフに指示すれば、スタッフが原案を作成するだろう。たぶん、そのような指示すらしなかったと考えられる。

そして、これは、原爆死没者という「死者」たちに向けた「言葉」でもあることにも注目しなくてはならない。安倍首相にとって「死者」たちーしかも「国家」によって犠牲とされたーへの言葉は、それこそ通り一遍のもので構わないのである。

ある意味で、この一件には、安倍晋三首相の姿勢が如実に表現されているといえよう。平和については「言葉」すら選ぶ努力をしないのに、「力を惜しまぬ」と主張しているのである。

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さて、今回は、フランスの文学者ジャン・ジオノ(1895〜1970)の『木を植えた男』を題材にして、ディストピアからユートピアを作り上げる言葉の可能性について語ってみたい。本書は、荒廃したフランス・ブロヴァンス地方で、森を復興することを目的にして、後半生を通じて木を植えていった男の話である。以下のように、絵本として出版されている。私は旅先の旅館で本書に初めて接した。ただ、かなり有名な本で、大抵の公立図書館には収蔵されているようである。

http://www.amazon.co.jp/%E6%9C%A8%E3%82%92%E6%A4%8D%E3%81%88%E3%81%9F%E7%94%B7-%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3-%E3%82%B8%E3%82%AA%E3%83%8E/dp/4751514318

話は、第一次世界大戦直前の1913年に遡る。本書の語り手である「わたし」は、フランスの地中海側にあるプロヴァンス地方の山間に足を踏み入れていた。そこは、「草木はまばら、生えるのはわずかに野生のラベンダーばかり」という、全くの荒れ地で、たどりついたところは「無残な廃墟」であり、泉もかれはてていた。「わたし」は水を求めて歩き、そこである羊飼いの男に出会った。羊飼いの男は、まず、「わたし」に皮袋にあった水を飲ませ、さらに、高原のくぼ地にあり深い湧き井戸がある自分の羊小屋につれていってくれた。「わたし」は次のように語っている。

男はほとんど口をきかなかった。孤独の人とはそうしたもの。
それでかえって、その存在を、つよく人びとに植えつけるものだ。
潤いのないこの地にあって、かれはまことに清涼な命の水とも思われた。

「わたし」はこの羊小屋に泊まることになった。元廃屋であった羊小屋はきっちりと修理が施され、部屋もさっぱりかたづいており、「犬も飼い主同様に、まことに静かな性格で、ごく自然になついてくれた」と「わたし」は記している。他方で、この地域全体については、次のように描いている。

そのあたりの四つか五つかの村々は、
車もかよわぬ山腹に、点在し、孤立していた。
村人は、きこりと炭焼きで暮らしていたが、生活は楽ではなかった。
冬も夏も気候はきびしく、家々はきゅうくつそうに軒を接して、
人びとはいがみあい、角つきあわせて暮らしていた。
かれらの願いはただ一つ、なんとかして、その地をぬけだすことだった。

男たちは、焼いた炭を二輪車で
都会に売りに出かけては、またとって返すのくりかえし。
まるで、水とお湯のシャワーを交互に浴びるようなもので、
どんなに堅い良心も、いつしかひびいってしまおうというもの。
どんなことにもめらめらと、競争心の火を燃やす。
炭の売上げをめぐっても、教会の陣どりをめぐっても、
争いのたえぬありさま。

おまけに吹きすさぶ強い風が、
たえず神経をいらだたせ、
自殺と心の病いとが
はやりとなって
多くの命をうばいさる。

この記述を見ると、この地域は、単に厳しい気候風土だけではなく、「炭売り」という形で行われる商品経済への従属によっても荒廃していたということができよう。まさに、「ディストピア」そのものである。

さて、再び、羊飼いの男についての話にもどろう。かれは、夜になると、袋の中からどんぐりを出し、よりわけて、100粒のどんぐりを選別した。そして、朝になると、羊のえさ場のかたわらにある小さな丘に登って、どんぐりを一つ一つ植え込んでいた。「わたし」は次のように語っている。

かれは、カシワの木を植えていたのだった。
「あなたの土地ですか?」と聞くと、「いいや、ちがう」とかれはこたえた。
「だれのものだか知らないが、そんなことはどうでもいいさ」と、
ただただかれは、ていねいに、100粒のどんぐりを植えこんでいった。

この羊飼いは、3年前から木を植え続けていた。すでに10万個の種を植え、そのうち2万個が発芽した。半分くらいは生き残るとして、この不毛の地に1万本のカシワの木が根づくことになるだろうとこの羊飼いの男は見込んでいた。

そして、「わたし」は、このように物語っている。

ところでそのとき、わたしは急に、男の年が気になりはじめた。
50以上には見えていたが、聞くと55歳だという。
名をエルゼアール・ブフィエといい、かつては、ふもとに農場を持って、
家族といっしょに暮らしていた。

ところがとつぜん、一人息子を失い、まもなく奥さんもあとを追った。
そこで世間から身をひいて、まったくの孤独の世界にこもり、
羊と犬を伴侶にしながら、ゆっくり歩む人生に、ささやかな喜びを見いだした。
でも、ただのんびりとすごすより、なにかためになる仕事をしたい。
木のない土地は、死んだも同然。せめて、よき伴侶を持たせなければと
思い立ったのが、不毛の土地に生命の種を植えつけること。

「わたし」は、30年もすれば1万本のカシワの木が育っているのだろうといい、ブフィエは、神さまが30年も生かし続けてくれれば、今の1万本も大海のほんのひとしずくということになろうとこたえた。そして二人は別れた。

「わたし」は第一次世界大戦に従軍し、1920年に再び、この地を訪れた。ブフィエは、「戦争なんぞはどこ吹く風、と知らぬ顔して木を植え続けていた」。彼の林はすでに長さ11キロ、幅3キロにまでなっていた。「わたし」は「それはまさに、この無口な男の手と魂が、なんの技巧もこらさずにつくりあげたもの。戦争という、とほうもない破壊をもたらす人間が、ほかの場所ではこんなにも、神のみわざにもひとしい偉業をなしとげることができるとは」と語っている。

その後、「わたし」は幾度となくこの地を訪問した。ブフィエの植えた林は、「自然林」として国家によって保護されたり、戦時中の「木炭バス」の燃料にされかけたりした。しかし、ブフィエは「第一次大戦同様、第二次大戦中も、ただ、黙々と木を植えつづけた」のであった。

「わたし」が最後にブフィエにあったのは、第二次大戦が終結した1945年7月であった。まるで、見違えるようになったこの土地について、「わたし」は次のように語っている。

1913年ごろ、村には、11、2軒の家があったが、
住んでいたのは、たった3人だけであった。
みな、粗野な人間で、それぞれがいがみあいながら、生活をしていた。

未来への夢もなく
気品や美徳を育くむような環境でもなく、
かれらはただ、死を迎えるために生きていた。

いまはすっかり変わっていた。空気までが変わっていた。
かつてわたしにおそいかかった、ほこりまみれの疾風のかわりに
甘い香りのそよ風が、あたりをやわらかくつつんでいた。
山のほうからは、水のせせらぎにも似た音が聞こえてきたが、
それは、森からそよぎくる、木々のさざめく声だった。
いや、水場に落ちるような水の音も、どこからか聞こえてくる。
いってみると、なみなみと水をたたえた噴水がつくられていた。
さらに驚いたことには、そのすぐそばに、1本の菩提樹が立っている。
葉の茂りぐあいからすると、芽生えて4年にもなるだろう。
それはまさしく、この地の再生を象徴するものだった。

さらにそのうえヴェルゴンの村には、
未来への夢と労働の意欲がみなぎっていた。
廃屋は、あとかたもなくかたづけられ、
あらたに5軒の家が建てられていた。
村の人口の、28人にふえて
なかには4組の若夫婦もいた。

植生の復興は、社会の復興につながったと「わたし」は語っているのである。この地域では、村が続々と再興され、「平地に住んでいた人たちが、高く売れる土地をひきはらって移り住み、このいったいに若さと冒険心をもたらした…人びとは生活を楽しんでいる。それら1万を越える人たちは、その幸せを、エルゼアール・ブフィエ氏に感謝しなくてはならないはず」と「わたし」は述べ、さらに、次のような言葉で、ブフィエを称えている。

ところで、たった一人の男が、
その肉体と精神をぎりぎりに切りつめ、
荒れはてた地を、
幸いの地としてよみがえらせたことを思うとき、
わたしはやはり、
人間のすばらしさをたたえずにはいられない。

魂の偉大さのかげにひそむ、不屈の精神。心の寛大さのかげにひそむ、たゆまない熱情。
それがあって、はじめて、すばらしい結果がもたらされる。
この、神の行いにもひとしい創造をなしとげた名もない老いた農夫に、
わたしは、かぎりない敬意を抱かずにはいられない。

「わたし」は、次のようにこの物語をしめくくっている。

1947年、エルゼアール・ブフィエ氏は、
バノンの養老院において、
やすらかにその生涯を閉じた。

この『木を植えた男』は年代記風に書かれており、現実に生きた人の個人史を書いたと思われるだろう。実際、1953年にジオノへ執筆を依頼したアメリカの『リーダーズダイジェスト』誌の依頼の趣旨は、「あなたがこれまで会ったことがある、最も並外れた、最も忘れ難い人物はだれですか」ということであった。しかし、ジオノが描いたエルゼアール・ブフィエがバノンの養老院で亡くなったという事実はなかった。つまりはフィクションなのである。そのことを知った『リーダーズダイジェスト』誌は掲載を拒否した。そこで、ジオノは著作権を放棄し、この物語を公開した。英語原稿は『ヴォーグ』誌に1954年3月に掲載され、世界に広まった。だが、フランスでは、ジオノ死後の1983年にようやく出版された。しかし、これらの版でフィクションであることを明示することは積極的にはなされず、多くの読者はエルゼアール・ブフィエが実在の人物であったと思い込んでいた(この過程については②を参照した)。

1987年に『木を植えた男』をアニメーション化したカナダのアニメーション作家であり、翻訳本の絵を書いているフレデリック・バックも、エルゼアール・ブフィエを実在の人物と思い込んで感動した一人であった。しかし、バックは、アニメーション化の途中で、この物語がフィクションであったことを知った。しかし、それでも、バックはこのアニメーション化をやめなかった。このアニメーションは、1987年アカデミー賞短編映画賞を獲得した。しかし、それよりも、重要な影響があった。②において、日本のアニメーション作家である高畑勲は、次のように指摘している。

すでに述べてきたように、この物語は1954年に出版されて以来、何ヶ国語にも翻訳されて森林再生の努力を励ましてきた。そしてフレデリック・バックのアニメーションが放映されたカナダでは一大植樹運動がまき起こり、年間3000万本だったものがその年一挙に2億5000万本に達した。『木を植えた男』は、人を感動させただけでなく、人を具体的な行動に立ち上がらせたのだ。

このように、実在しなかったエルゼアール・ブフィエを扱ったこの物語は、多くの実在するエルゼアール・ブフィエを誕生させたといえるのである。

たぶん、ジオノのねらいもそこにあったのだと思われる。1950年代はいまだ世界的にみてもエコロジーには関心がなかった。そんな中で進行する環境破壊の中で、権力の手を借りず、独力で木を植えて自然を復興させていく人物は必要であったが、そういう人物は実在していなかった。ジオノは、そういう人物も生き生きと語ることによって、フィクションを作り上げ、そのなかで、このことの必要性を形象化したのである。

この物語は実話ではない。しかし、結局は、現実になっていく。構図としては「ヨハネ福音書」などのそれを借りているといえる。「ヨハネ福音書」においては「初めに言があった…万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった…言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人びとには神の子となる資格を与えた」とある。そして、洗礼者ヨハネはキリストの到来を主張したが、しかし、実際のキリストに対面した時、「わたしはこの方を知らなかった」といっている。ヨハネをジオノ、キリストをエルゼアール・ブフィエに置き換えれば、この構図がより明瞭になるだろう。

といっても、ジオノは、キリスト教の構図を借用しているだけで、キリスト教の教理そのものを主張しているわけではない。彼は、たった一人の無名の個人が、独力で、自然を甦らせ、社会を復興させていく可能性を言葉で提示することに賭けていたといえる。エルゼアール・ブフィエの営為にとって、権力とは攪乱要因でしかなかった。ジオノは農村アナーキストの思想をもち、1930年代にプロヴァンスの山中で「新しい村」を建設する運動を従事したとされている(③参照)。そして、エルゼアール・ブフィエの営為は、二度の大戦で破壊することしかできなかった多くの人びとのあり方と対比されている。ジオノにとって、エルゼアール・ブフィエの営為こそが神にも等しい「人間の尊厳」なのである。

エルゼアール・ブフィエの死が象徴しているように、「木を植える」ことには物質的な見返りは何もないことが想定されている。しかし、「そこで世間から身をひいて、まったくの孤独の世界にこもり、羊と犬を伴侶にしながら、ゆっくり歩む人生に、ささやかな喜びを見いだした。でも、ただのんびりとすごすより、なにかためになる仕事をしたい」とあるように、孤独であるがゆえの「ためになる仕事」なのである。そして、このようなブフィエのあり方は、「炭焼き」に従事し利己主義によって引き裂かれている周辺住民と対比されている。

最終的に、エルゼアール・ブフィエは、自分の住んでいた荒れ地を楽園の地にかえた。この物語では、ディストピアがユートピアになったといえる。しかし、エルゼアール・ブフィエが実在の人物でないと同様、この土地も実在していなかった。ユートピアの語源通り「どこにもない土地」なのである。しかし、実在しない人物によるどこにもない土地を作り上げるフィクションが、言葉によって語られ、アニメーションとして表現されて、人びとの心に火を灯し、現実の行動につながっていった。無数のエルゼアール・ブフィエが実在するようになり、ユートピアを実現しようとする努力をはらうようになった。言葉のもつ一つの可能性がそこにあるといえる。

*『木を植えた男』には多数の日本語訳がある。今回は、次の三つを参照した。
①ジャン・ジオノ原作、フレデリック・バック絵、寺岡襄訳『木を植えた男』、あすなろ書房、1989年(絵本版)
②高畑勲訳・著『木を植えた男を読む』、徳間書店、1990年
③ジャン・ジオノ著、フレデリック・バック絵、寺岡襄訳『木を植えた男』、あすなろ書房、1992年

①は絵本版で、たぶんそのことを意識して、訳者が短く意訳し、日本では一般的ではないキリスト教的な表現などを省略している部分がある。②で高畑はそのことを批判し、フランス語の原文を掲げるとともに、より逐語訳に近い形の訳文を掲載している。そして、③では、絵本という形態を脱して、より完全に近い形で翻訳されている。ここでは、一般的に普及していると思われる①を訳文として掲げた。

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  • 「私」にとっての2014年3月11日
  • 東日本大震災から3年たった2014年3月11日の朝、新聞やテレビは、東日本大震災の回顧報道一色であった。もちろん、この中には、有意義な報道もある。しかし、なんとなく違和感を感じていた。

    その後、仕事で武蔵野市立中央図書館に行った。この図書館前には、いつも、日の丸と武蔵野市旗(確認していないがたぶんそうだろう)が掲揚されている。この日は、この2つの旗がいつもより低い位置で掲揚されていた。つまり、弔意をあらわす「半旗」である。

    この「半旗」を見て、2つのことを考えた。まず、マスコミ・自治体・国家の側が押しつけてくる「鎮魂」なるものへの違和感である。もう一つは、それでは、私個人は、どうするべきかということである。この日、何もしないままでいいのだろうか。とりあえず、そんな思いがないまざって、もともと参加する予定がなかった下記の催しに参加することにした。

    忘れない「3・11」キャンドルプロジェクト~ 被災地に思いをはせ、日本社会を見つめなおす日に ~ 3月11日の夜に歩きます

    2011年3月11日14時46分、東日本を激しい揺れが襲いました。
    人も、建物も、あらゆるものを飲み込んでいく大津波。
    息をつく間もなく入ってくる福島第一原発事故のニュースと放射能の恐怖――。

    忘れることのできない3月11日から3年。家族や友人を失った被災者の無念の思いは癒えず、厳しい避難生活が続いています。放射能汚染という目に見えない命と健康の危機、原発事故の危険は今なお存在しています。

    大震災と原発事故が明らかにした社会のゆがみはなんだったのか。被災者の「いま」を、これまでの日本社会のあり方を、私たちはもう一度見つめなおさなければなりません。

    あの日から3年となる3月11日、私たちはキャンドルに灯りをともします。

    被災者の深い悲しみを分かち合う追悼の灯り。
    被災者とともに復興をめざす新たな決意の灯り。
    貧困を拡大し原発依存の日本社会をもたらした政治への怒りの灯りを。
    http://candle311tokyo.blog.fc2.com/

    この催し自体は、渋谷の町をキャンドルを片手にパレードし、上記のことを呼びかけるというものであった。出発地点の代々木公園のケヤキ並木に到着してみると、数十人ほどが集まっており、地面の上に、キャンドルが並べられていた。

    忘れない「3・11」キャンドルプロジェクトにおいて並べられていたキャンドル

    忘れない「3・11」キャンドルプロジェクトにおいて並べられていたキャンドル

    ここで、主催者の人びとは、キャンドルになっているビニールコップにメッセージを書くことを参加者に促していた。実際、多くのコップにはメッセージが書かれていた。しかし、何も書かれていないコップもまだあった。

    私は…どうしても、メッセージを書くことはできなかった。震災や原発事故で亡くなった人びと、そのために今なお苦しんでいる人びとに対して、どのようなメッセージを書くことができようか。「鎮魂」などと短く書くことはできる。しかし、それだけで、どのような意味があるのか。万言を費やしても、なお「その言葉」を発することの意義が問われているように思えたのだ。

    そして、パレードの前に、小さな集会が開かれた。この集会では、主催者の人びとがパレードの意義を話し、さらに被災者や支援者たちがそれぞれメッセージを語っていた。その中で、最も印象に残ったのは、被災地に10回ぐらい足を運んでいる女子高校生の発言だった。彼女は石巻市の大川小学校(記憶ではそうだったと思う)の小学生が被災した話をして、「自分と同じぐらいの年の子どもが、なぜ死んだのか、友達を失ったのか」などと涙ながらに語っていた。彼女は、3.11時点で、まだ小学生だったのである。そのことに驚くとともに、また「言葉の可能性」について思いを巡らしていた。

    パレードが始まった。夜の渋谷をキャンドルをもってデモ行進するというものだったが、通常のデモのように、シュプレヒコールやドラム・サウンドでデモンストレーションするというものではなく、「イマージン」などのBGMにのって、前述の高校生などがメッセージを語るというものであった。途中から参加した人びともいて、最終的には130人が共に歩いた。

    主催者の人びとは、「私にとっての『3.11』」と題されたプラカードを用意していた。しかし、多くは、メッセージを書く欄が「白紙」になっていた。主催した人びとや私以外の参加者の問題ではないのだが、まるで私自身の心象風景のようだった。

    忘れない「3・11」キャンドルプロジェクトのパレード

    忘れない「3・11」キャンドルプロジェクトのパレード

    3.11をいわば短い言葉で「名づける」こと、そして、そのように「名づけた」もので、3・11を「厚く」記述すること、それは、このブログなどで、日常的に私自身が多少なりとも行ってきたことではあった。しかし、そのことは、被災によって亡くなった人びと、今なお苦しんでいる人びとに向けられたものだったのか。むしろ、自らと同じ年代の子どもたちの死を泣きながら悼んだ女子高校生の発話のほうが、人びとの情動を動かす「言葉」であったのではなかろうか。そんな思いにかられたのである。

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