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2015年5月15日、台湾は、日本産食品の規制を強化した。まず、そのことを伝える朝日新聞のネット配信記事をみておこう。

台湾、日本食品の規制強化開始 日本政府は提訴も検討
台北=鵜飼啓2015年5月15日17時47分

 台湾は15日、日本産食品の輸入に都道府県別の産地証明を義務づけるなどの規制強化を始めた。日本政府は撤回を求めている。ただ、台湾はこれまでも必要だった輸出関連書類の記載を「証明」として扱うことを決めたため、影響は限定的になりそうだ。

 規制強化は福島第一原子力発電所の事故に関連したもので、東京産の水産物など一部地域の特定品目については放射性物質の検査証明を添付するよう義務づけた。15日以降に日本から出荷されるものが対象で、台湾に空輸される生鮮食品などにまず適用される。

 台湾は原発事故後、福島など5県で生産・製造された食品の輸入を全面的に禁止してきた。だが、3月にこの5県の産品が、産地が明示されずに台湾に入っていたことが発覚し、規制強化を決めた。

 これに対し、日本側は「表示問題と規制強化は別。科学的根拠がない」と猛反発。台湾は日本政府や地方自治体の公的な産地証明を求めたが、日本側は証明書の様式などの話し合いに応じていなかった。

 このため、台湾は14日、一次産品については日本からの輸出にもともと必要な検疫証明にある都道府県記載を「証明」として受け入れると発表。加工食品については、商工会議所の証明書に都道府県を注記すれば良いとした。日系食品メーカーによるとすでにこうした対応は始まっており、規制強化後も大きな混乱はなさそうだという。

 放射性物質の検査については既定方針通りに行われる。保存の難しい生鮮水産物などは対象地域からの輸出は難しくなりそうだ。(台北=鵜飼啓)

■農水相「WTO提訴も含め検討」

 台湾が日本産食品の輸入規制強化に踏み切ったことについて、林芳正農林水産相は15日、閣議後会見で「科学的根拠に基づいて輸入規制の撤廃緩和を強く求めていく」と述べ、引き続き撤回を求めていく方針を強調した。その上で、進展がみられない場合には「WTOの提訴も含めて検討していきたい」と語った。

 林氏は台湾の規制強化を「科学的根拠に基づかない一方的な措置」と批判。「具体的な事実関係の説明がない中で行われたということで極めて遺憾」と不満をあらわにした。

 一部の産地と品目が放射性物質の検査対象とされたことについては、「証明書を作成、発行するには時間と経費がかかる」と懸念を表明。「どういう影響があるのか注視していきたい」と述べた。

 農林水産省によると、台湾は香港、米国に次ぐ日本産の農林水産物・食品の輸出先で、2014年の輸出額は約837億円。
http://www.asahi.com/articles/ASH5G7RDTH5GUHBI039.html

3.11以後、台湾は、顕著な放射能汚染がみられた福島・茨城・栃木・群馬・千葉県で生産・製造された食品を輸入禁止にしていたが、3月にこれらの県で製造された食品が産地を偽って輸入されていたとして、都道府県別の産地証明書をつける、一部品目の放射能検査を義務づけるなどの規制強化に乗り出したのである。一方、日本政府は「表示問題と規制強化は別。科学的根拠がない」として反発し、WTOへの提訴も含めて撤回を求めていく方針をあきらかにしたのである。

それでは、もともとの「産地偽装」とは、どのようなものだったのだろうか。3月25日に配信した朝日新聞のネット配信記事をみておこう。

台湾で日本食品回収騒ぎ 輸入業者が産地偽装か
台北=鵜飼啓2015年3月25日18時34分

 台湾で、東京電力福島第一原子力発電所事故後に輸入が禁止された日本産食品が輸入されていたとして回収騒ぎになっている。台湾は今も福島など5県でつくられた食品の輸入を全面的に禁じているが、業者が産地表示を変えて持ち込んだ疑いがあるという。

 食品薬物管理署が24日、発表した。問題になっているのはカップ麺や飲料など283品。製品に記載された記号から生産工場を調べたところ、輸入を禁じている福島、茨城、栃木、群馬、千葉の5県で生産されたことが分かったという。輸出用の中国語ラベルには、東京や大阪など食品メーカーの本社所在地とみられる場所が記載されていた。

 台湾では日本産食品が人気で、メーカーと無関係の業者が独自に輸入しているケースも多い。日本の窓口機関、交流協会はこれまでも、「日本は厳しいモニタリング制度があり、国内で流通している食品は安全」として、台湾側に輸入解禁を働きかけている。(台北=鵜飼啓)
http://www.asahi.com/articles/ASH3T56JSH3TUHBI01X.html

283品目にも及ぶ加工食品が「産地偽装」とされたのである。基本的には、この5県に所在する工場で製造された食品が、本社所在地などで生産されたように中国語ラベルに記載されていたというのである。朝日新聞のこの報道では、日本の食品メーカーではなく、台湾側の輸入業者側に責任があるようなことを示唆している(本当かどうかはわからないが)。

それにしても、どのような食品が「産地偽装」されたのであろうか。台湾側がリストを出しているので、次に掲載しておこう。

産地偽装が指摘された日本産食品リスト1

産地偽装が指摘された日本産食品リスト1

産地偽装が指摘された日本産食品リスト2

産地偽装が指摘された日本産食品リスト2

産地偽装が指摘された日本産食品リスト3

産地偽装が指摘された日本産食品リスト3

産地偽装が指摘された日本産食品リスト4

産地偽装が指摘された日本産食品リスト4

産地偽装が指摘された日本産食品リスト5

産地偽装が指摘された日本産食品リスト5

(http://www.mohw.gov.tw/MOHW_Upload/doc/%E9%99%84%E4%BB%B6%E4%B8%80_0048810002.pdfより)

本ブログの写真は少し読みにくいので、可能なら上記のサイトでみてほしい。最初が明星海鮮ラーメン、次が日清天ぷら粉、その次が日清お好み焼き粉、その次がヱスビーのカレー……、最後がエバラの焼き肉のたれで終っている。ほとんどが日本を代表する食品メーカーの一般的な製品で、日本社会ならば、一日どれかを摂取しているだろう。あまり考えてこなかったが、日本社会では、3.11直後放射線量が高かった福島・茨城・栃木・群馬・千葉県で生産・製造された食品をあたりまえのように飲食していたのである。しかし、このような地域で製造・生産された食品は、台湾では輸入禁止になっているのだ。日本の「あたりまえ」は、世界では「あたりまえ」でないのだ。このことについて……怒るべきか、笑うべきか、微妙な気持ちになってしまう。そもそも、日本政府は、日本列島に住む人々(国籍の有無にかかわらず)の健康保全を第一に考えているのだろうか。

確かに、日本の「あたりまえ」からいえば、自然の中で生産される農水産物と、ある程度環境を操作できる工場内の加工食品はわけて考えるべきかもしれない。しかし、それだからといって「産地偽装」が許されるわけではない。これは、「科学的根拠」以前の法や倫理の問題である。この「産地偽装」に日本側が直接関与しなかったとしても、やはり遺憾なことであり、台湾側の対策に積極的に協力しなくてはならないだろう。そもそも、商品表示が信用できないならば、商取引における等価性は担保されないのである。規制緩和以前の問題である。そのことを放置したまま、日本政府がWTO提訴などいろいろ手を尽くして、台湾に規制緩和措置を強制させることに成功したとしても、逆にそのことによって、日本産食品にとどまらない日本製品全体の不買につながってしまうかもしれないのである。

日本政府は、日本列島に住む人々に対して日本産の食品はすべて安全であり、放射能汚染への恐怖から買い控えることは「風評被害」になるのだと宣伝してきた。このようなことが台湾のような外国で通用するわけはないのである。そして、台湾の今回の反応は、日本社会の危機を客観的に見直す視座を提起しているのだと思う。

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本年2014年、富岡製糸場が世界遺産に登録された。それを伝える朝日新聞のネット配信記事をまずみておこう。

富岡製糸場、世界遺産に決定 国内18件目
長屋護=ドーハ、藤井裕介2014年6月21日17時13分

カタールのドーハで開かれているユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界遺産委員会は21日、「富岡製糸場と絹産業遺産群」(群馬県)を世界文化遺産に登録することを決めた。日本からの文化遺産への登録は昨年の「富士山」(山梨、静岡両県)に続く14件目。自然遺産と合わせた国内の世界遺産は18件となった。国内で近代以降につくられた産業施設の登録は初めて。

特集:富岡製糸場
「富岡製糸場と絹産業遺産群」は、1872年に殖産興業を担う官営工場として設立された「富岡製糸場」(富岡市)のほか、蚕の卵の品種改良や農家への養蚕指導の拠点となった「田島弥平旧宅」(伊勢崎市)と「高山社跡」(藤岡市)、自然の冷気を利用した卵の貯蔵施設「荒船風穴」(下仁田町)の4資産で構成。富岡製糸場を中心に、海外から導入した技術を改良して良質な繭を生産し、かつては春に1回だった養蚕を夏や秋にも可能として生糸の増産につなげた。政府は、世界の絹産業発展させた象徴的な施設として推薦した。

今年4月、ユネスコの諮問機関の国際記念物遺跡会議(イコモス)が「日本が近代工業化世界に仲間入りする鍵となった」と高く評価し、ユネスコに登録を勧告していた。

登録決定を会場で見届けた群馬県の大沢正明知事は、採決後に英語でスピーチし、「今後はこの喜びを忘れることなく、この遺産を保全し、将来の世代に伝えていくために最善を尽くします」と語った。(長屋護=ドーハ、藤井裕介)http://www.asahi.com/articles/ASG6M5Q0TG6MUCLV00F.html

そして、イコモスによる世界遺産への登録勧告がなされた4月以降、富岡製糸場への見学者が激増するようになった。例えば、8月15日のJ-CASTテレビウオッチは、次のように伝えている。

世界遺産に登録後初めてのお盆休みとなった富岡製糸場(群馬県富岡市)は、きのう14日(2014年8月)の入場者数が8576人と過去最高となった。入場待ちの行列がオープンしてすぐ200メートルを超え、待ち時間は約1時間30分。正午前の気温を木内亨・取材ディレクターが測ると31・4度と酷暑ではないが、湿度は84%もある。製糸場はうちわを配ったり、ミスト扇風機を設置したりと対応に追われた。
http://www.j-cast.com/tv/2014/08/15213176.html

11月23日(日)、私は別の用事で群馬県で訪れたが、そのついでに富岡製糸場にむかった。やや遠くだが無料駐車場などもあり、車をとめることには苦労しなかった。しかし、町並みを抜けて、富岡製糸場の前にきて驚いた。下記の写真をみてほしい。

富岡製糸場前

富岡製糸場前

富岡製糸場前は、それこそ黒山のような人だかりであった。入場を待っている人々の列は、100−200メートルぐらいになっていた。たぶん、先の記事のように、待ち時間は1時間半ぐらいになっていただろう。製糸場内もかなり混雑しているだろうと予測できた。結局、入場をあきらめざるを得なかった。

まあ、世界遺産になれば、当然ながらそれまでよりも入場者は増えることになるだろう。東京からも比較的近くてアクセスも容易である。また、そもそも観光地として開発されたものではないから、施設のキャパシティも限定されるだろう。人ごみもまた仕方なかろう。

とはいえ、これほどまでに近代化遺産としての「富岡製糸場」の人気が高いとは想定していなかった。それは、一つに「近代化」の時代についての郷愁があると思えるのである。そして、それは、日本を「先進」とし、中国・朝鮮などの東アジア諸国を「後進」とするものでもあった。その意味で、「近代化」とは、日本のナショナリズムの大きな源泉でもあったのである

現在、中国・韓国の成長の前で、「先進」日本というアイデンティティは脅かされているといえる。中韓両国に対する過剰な対抗意識の表出はその一つの現れであろう。他方で、「近代化」時代への「郷愁」を生むことになったのではないか。まさに、近代化の「先進」国であった時代に回帰したいという思いへと。そして、それは、脅かされたアイデンティティを一時的でもナショナリズム的に「癒す」ものともいえよう。それが、近代化遺産である富岡製糸場への人気につながっていったのではなかろうか。

しかし、それは、一面的なものである。製糸業が日本の近代化に寄与したのは事実だが、実際にその労働を担った女工たちの待遇は、「ああ野麦峠」に書かれているように、一般的に劣悪だった。官営模範工場であった富岡製糸場はそれほど劣悪ではなかったらしいが、民営化されて待遇が悪化したようである。ハフィトンポストは「富岡製糸場はブラック企業だったのか? 世界遺産に登録される理由とは」(2014年4月28日)次のように伝えている。

しかし、各種報道によると実際には富岡製糸場は、少なくとも設立当初の官営時代は1日8時間労働で夏冬の長期休暇があるなど、明治期の労働環境としては世界でも異例なほど恵まれていた。日本の民営工場の模範になることを目指した官営施設だったため、採算を度外視して福利厚生にも力を入れていたようだ。
(中略)
ただし、富岡製糸場が官営工場だった時代は、115年の歴史のうちのごく一部だ。創業19年後の1891年には、三井家に払い下げられ民間工場となった。その後、1902年に原合名会社、1939年に片倉製糸紡績会社(現片倉工業)と経営母体は変わっていった。民営化されたことで、繁忙期には1日あたりの勤務時間が約12時間になるなど、労働環境は厳しくなったようだ。

http://www.huffingtonpost.jp/2014/04/27/tomioka-silk-mill_n_5224176.html

ハフィトンポストは、「日本の近代化に大きな貢献を果たした富岡製糸場。世界遺産指定でその正と負の両方の面が問われることになりそうだ」と問いかけている。今や「近代化」の功罪こそが検討されなくてはならない。しかし、たぶん、多くの見学者にそのような認識はなかろう。日本が「先進国化」した「近代化の時代」への回帰という幻想的な郷愁、それが富岡製糸場に人を向かわせているのではなかろうか。そして、このような「幻想的な郷愁」は、現代日本社会の随所で見出だせるのである。

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 1970年代の原発建設反対運動が、反公害運動―市民運動の性格を帯びていたことをこのブログの中で述べてきた。

友人らと話してみたり、フェイスブックの議論をみていたりすると、反公害運動の源流としての足尾鉱毒事件への関心が非常に強くなっていると感じている。そこで、やや「東日本震災の歴史的位置」の趣旨から離れてしまうかもしれないが、私が『館林市史』資料編6(2010年 館林市)で執筆した資料解説をもとに、次の一文を書いてみた。

なお、よろしければ、『館林市史』資料編6-鉱毒事件と戦争の記録ーを購入していただければと思う。送料は別だが3000円で購入できると思う。あまり、多くの図書館に寄贈していないので、それぞれの図書館にでも購入希望を出していただければと思う。連絡先は374-8501 館林市城町1-1 市史編さんセンターである。本論では割愛した資料が載せられている。

『館林市史』資料編6

『館林市史』資料編6

足尾鉱毒事件は、とにかく大きな事件であり、私自身、すべての状況を把握しているとはいえない。特に、館林市史とは直接関係のない谷中村については、まだよくみていない。

解説全体では、足尾鉱毒事件の全体像を執筆したが、とてもブログで全体を語りえるとも思えない。機会があれば、その部分も紹介したい。

ここでは、田中正造と群馬県館林地域の人々との関係性にしぼってみてみることにする。あまり知られていないが、足尾鉱毒の被害地は栃木・群馬両県に及んでいた。有名な1900年の川俣事件に参加した人々の半数が群馬県民であり、事務所がおかれていた雲龍寺も現在の群馬県館林市内にある。とりあえず、館林の場所を確認しておこう。渡良瀬川の南岸にある。北岸が栃木県であり、田中正造の本拠地であった。そして、渡良瀬川下流、現在は栃木市内になっているところに谷中村があった。

足尾鉱毒反対運動は、その指導者である田中正造の影響が極めて強く現れたものであったといえる。いうなれば、田中正造に言及せずして足尾鉱毒反対運動を語ることは一般的ではなかったといえる。しかし、いかに民衆的心情を有しているといっても、そもそも立憲改進党―進歩党―憲政本党所属の衆議院議員として鉱毒反対運動を指導し、その後もいわば、自身の生活をかえりみず鉱毒反対運動に挺身した田中と、既存の地域社会秩序を前提として自身の生活・生命が危機に陥ったために運動に立ち上がった地域民衆とは、もちろん重なりあう部分も多いが、立場が違っているといえる。特に、1904年以降は、鉱業停止を前提として栃木県谷中村救済を課題とした田中正造と、治水問題としての解決を模索した館林地域の民衆とは立場の相違が顕著となってくるようになった。しかし、1913年に田中正造は、館林地域に隣接した栃木県足利郡吾妻村で倒れた。館林地域も含めた地域住民は、田中正造の看護組織をつくりあげた。そして、9月3日に田中が死去すると、地域住民ぐるみで壮大な葬式を営み、死後は「義人」としてたたえるようになった。ここでは、このような関係を、『田中正造全集』に収録された書簡や、市史編纂の過程で見いだされた大塚家文書などを中心として検討することをめざしている。なお、田中正造の書簡は『田中正造全集』第十四―十九巻に多くが収められており、田中正造に宛てて出された書簡は、同全集別巻に収録されている。ここでとりあげたものは、その一端にすぎないことをまず付記しておきたい。

田中正造は、下野国安蘇郡小中村(現佐野市)の名主の家で1821年に出生した。1877年以後さかんになる自由民権運動に積極的に参加し、1880に栃木県会議員になるなど、栃木県を代表する立憲改進党系の自由民権家となった。1890年の帝国議会開設後は、栃木三区(安蘇・足利・梁田郡)を選挙区とする衆議院議員として活動した。田中は、立憲改進党所属の衆議院議員として、藩閥政府を帝国議会において鋭く追求した。

1890年頃より足尾鉱毒問題は表面化していくが、田中正造は、1891年に開かれた第二回帝国議会に12月18日質問書を提出し、足尾銅山の鉱業停止を訴えた。そして、1892年に開かれた第三回帝国議会でも、鉱業停止を訴える質問を行った。

しかし、当時、館林地域を含めた鉱毒被害地では、古河の働きかけによる示談交渉が進行中であった。そのため、田中正造の議会活動と鉱毒被害地の動向は連動したものにはならなかった。1895年には、示談の欺瞞性がしだいに明確となってきて、鉱毒被害地においても鉱毒反対運動が顕著となってくるが、田中正造の活動とは独立したものであったように思われる。

田中正造の活動が鉱毒被害地の運動と連携したものになってくるには、渡瀬村雲竜寺に鉱毒事務所が設置された1896年以降となってくると思われる。これ以降、元来は少なかった館林地域を含む群馬県域の人々と田中正造との書簡の往復が多くなってくる。例えば、三野谷村の荒川高三郎と郷谷村の大塚源十郎に宛てた、1896年10月13日付田中正造書簡が残っている。二人は、県会議員として鉱毒反対運動に携わった。ただ、県会選挙においては互いにライバル視していたといわれる。また、運動事務所があった雲竜寺にも田中正造は書簡を送っている。そして、1897年頃より、大島村の大出喜平とも書簡の往復をするようになった。ここでは割愛せざるをえないが、田中正造は鉱毒反対運動のため多くの書簡を館林地域の人々に送っている。この頃の鉱毒反対運動は、田中正造が東京において質問演説や請願書紹介などの議会活動を担い、さらに東京の知識人や新聞世論に働きかける一方で、鉱毒被害地において、鉱毒事務所での会合・地域集会開催や請願書作成、鉱毒被害調査などの活動、さらには郡役所・県庁などへの陳情活動など実施していたといえよう。そして、東京と鉱毒被害地を結びつける示威行動としていわゆる「東京押し出し」が行われたといえよう。1900年におきた川俣事件裁判の被告となった多々良村の永沼政吉や先の大出喜平らに田中正造は書簡を送っている。

しかし、1904年には、田中正造と館林地域の人々との間で一つの亀裂が入った。元来、田中正造は立憲改進党―進歩党―憲政本党系に属し、群馬県でも中島祐八衆議院議員ら憲政本党系の政治家を応援していた。それは、鉱毒反対運動事務所もそうであったと考えられる。ところが、1904年3月1日に行われた総選挙において、田中正造は、太田町出身で、自由党―憲政党―立憲政友会に近い人脈をもつ武藤金吉を、鉱毒反対運動に挺身すると自身が誓約したとして、衆議院候補として推薦した。ただ、田中正造は武藤と中島が共に当選することを望んでいたようである。しかし、武藤金吉は、中島祐八を敵視した選挙活動を展開した。大出喜平は、鉱毒反対運動の分裂をおそれ、鉱毒反対派の人々における票の分配を田中正造自身によって行ってほしいと依頼した。結局、総選挙において武藤は中島に僅差で勝利した。武藤は、『義人全集』第一巻序で、選挙における油断・慢心をとがめた田中正造の一喝によって、選挙態勢を立て直し、当選できたと語っている。結局、大出喜平らは、恩があると思われる中島を応援し、その正当性を田中正造に書簡で述べている。これに対し、田中は、中島の落選は、新規票田の開拓などを指導したのに中島が怠ったなどと弁明する書簡を送っている。ただ、このことで、完全に田中正造と館林地域の人々が断絶したわけではない。1904年4月17日の書簡では、大出喜平・左部彦次郎がこの地域での演説会について周旋活動をしているのがわかる。なお、左部彦次郎は、群馬県利根郡池田村の左部家の養子で田中正造の側近として当時行動していた。

当選当初の武藤金吉は、足尾鉱毒反対運動に協力する姿勢をとっていた。1904年12月10日には、渡良瀬川沿岸特別地価修正の杜撰・不公平を批判した質問書を帝国議会に提出している。1905年2月7日の書簡で、武藤は田中正造に、谷中村問題の演説会を開催したこと、渡良瀬川沿岸地方特別地価修正漏れについての請願を院議に付していることを述べ、自身が特別地価修正について衆議院で質問したことについて、政府答弁を「無恥なる、無責任なる」と批判している。1907年1月28日には、足尾銅山の鉱業予防工事が不十分であることを指摘し、鉱業停止を命じないことの不当性を主張した質問主旨書を帝国議会に提出し、2月7日には、その主旨により帝国議会において質問演説を行った。

 1906年5月、渡良瀬川遊水地とするため、栃木県谷中村は廃村となり、藤岡町に合併された。さらに1907年1月には、旧谷中村民で立ち退きに応じない者に対し土地収用法に基づき強制立ち退きを行うことが公告された。そして、6月29日から7月5日にかけて、残留十六戸の家屋が次々と強制撤去されたが、これら十六戸の住民は即日仮小屋を建てて、抵抗する姿勢を示した。そして、7月29日に谷中村残留民や田中正造らは、土地収用補償額が不当に廉価であることを理由にして宇都宮地方裁判所栃木支部に訴訟を起こした。この裁判は、1918年8月18日に原告の要求を不十分ながらも認めた控訴審判決をえて終わった。

 一方、上流部の群馬県域では、この時期、全く別の様相を示していた。武藤金吉が大塚源十郎に書簡にて書き送っているように、武藤は1906年から政権与党であった立憲政友会に1907年8月に正式入党してしまうのである。武藤は、県会議員であった黒田孝蔵他多くの人々が立憲政友会に入党したことを誇示するとともに、邑楽郡民である大塚源十郎に対して治水事業における利益誘導をはかるために邑楽郡も一円政友会に入党してほしいと勧誘している。政友会入党後の武藤は、1907年末より内務省への陳情、栃木県知事との交渉、他県会への働きかけ、帝国議会への運動など、治水問題に対して積極的な関与を行った。そして、川俣事件以前から、栃木・群馬両県の渡良瀬川上流部における田中正造の同志であった、大島村の大出喜平、山本栄四郎や、郷谷村の大塚源十郎らは、谷中村廃村を前提とした治水工事に賛成し、武藤の活動を積極的にささえようとすることになった。

1908年2月29日に提出された渡良瀬川水害救治請願書は、この武藤の活動と呼応するものとみられる。この請願書は、渡良瀬川水害の激化は足尾銅山によるものとし、根本的な解決は鉱毒の流下と煙害の飛散を防止し樹木伐採を禁止することとしながらも、このことは長い年月にわたる政治道徳の改善が必要で、目下焦眉の急には対応できないものとして、鉱毒流下や煙害飛散さらに森林乱伐の禁止とならんで、利根川・渡良瀬川の早期改修を求めるものであった。この請願書には大塚源十郎他二五五六名が署名し、邑楽郡の各町村の町村長・助役が副署している。

もちろん、田中正造は怒った。1907年9月17日付田中正造書簡は、郷谷村長であったかつての同志大塚源十郎に送ったものであるが、「但し邑楽も亦近き未来に谷中の兄とも申べき有様に至るや必せり」と書かれており、何らかの皮肉を大塚に浴びせているように思われる。この時期には、谷中村の残留民の家屋が強制的に破壊されるとともに、館林地域が立憲政友会の基盤となっており、これらのことを風刺しているように考えられる。1907年12月3日付大出喜平・野口春蔵宛田中正造書簡では、谷中村を遊水池にする渡良瀬川改修工事が効果のないことを力説しつつ、この改修工事についての幻想に地域住民がとらわれるようになったとし、反対運動の中心であった邑楽郡大島村の大出喜平、栃木県安蘇郡界村の野口春蔵も欺かれるようになったと批判し、このことを山本栄四郎などにも伝えてほしいと述べた。

田中正造の批判に対し、館林地域の人々の意見として1907年12月29日の書簡で弁明したのが、山本栄四郎であった。この時、山本は大島村長であったとみられる。山本は、志と違い生活問題に余念がなく、大洪水で人類の滅亡がせまっているのに、政治家は利害獲得に狂奔し民衆を苦しめているとした。これらの悪人に渡良瀬川沿岸民がうち勝たねば、谷中の二の前であると山本はしつつ、邑楽郡としては一時的でも堤防の改良をはかって余命をつなぎ、さらに河身改良・鉱業停止を獲得していくべきであると述べた。その上で、田中の言っていることに大出・野口ともども力を尽くすことを誓うとした。

しかし、田中正造は、館林地域の人々を批判する姿勢を崩さなかった。しかし、1908年10月16日の書簡のように、田中正造は自分の傍らに昔の同志である大出喜平・山本栄四郎らがいないことを嘆く時もあった。

1909年9月には、旧谷中村の遊水池化を含めた渡良瀬川改修計画が政府から群馬・栃木・埼玉・茨城県に諮問され、各県では臨時県会を召集した。立憲政友会が制していた群馬県会は、諮問案が提案された9月10日当日、全員起立で渡良瀬川改修計画に賛成した。栃木県会は9月10日より審議に入った。田中正造は、谷中村地域の人々とともに、渡良瀬川改修計画に反対する運動をくりひろげた。しかし、以前、足尾鉱毒反対運動で田中の同志であった野口春蔵や大出喜平は、田中の面前で渡良瀬川改修計画に賛成する運動を行った。栃木県会では、碓井要作のように反対を主張する県会議員もいて即座には決しなかったが、9月27日に賛成多数で渡良瀬川改修計画は可決された。

 しかし、茨城県会は、9月29日に、この改修案の賛否を現状では決することができないという議決を行った。また、田中正造らの働きかけもあって、10月4日、埼玉県会も渡良瀬川改修計画を否決した。武藤金吉が、田中正造らの動きに抗しつつ、必死に茨城県会・埼玉県会を渡良瀬川改修計画に賛成させようと働きかけており、地域社会でも、大塚源十郎は、武藤のよびかけにこたえて活動していた。

11月30日、茨城県会は渡良瀬川改修計画に賛成する議決を行った。1910年1月には埼玉県会のみが問題となったが、結果的には2月9日に渡良瀬川改修計画に賛成の議決を行った。各県県会の賛成を受けて、政府は1910年3月に帝国議会に対して渡良瀬川改修費予算を提案し、帝国議会は可決した。このような過程をへて、鉱毒問題は、治水問題に転化させられたのであった。1910年より渡良瀬川改修工事は着手され、同年8月に発生した大水害により大幅な変更を余儀なくさせられた。

このように、1909年には、大出喜平ら館林地域の人々と、田中正造との意見の違いがより明白になった。しかし、それでも田中正造は、書簡において、山本栄四郎へ自らの行動や治水論を語っていた。そして、1910年水害に際しても、自らの治水論を大出喜平に説いていた。

特に興味深いのは、1911年1月8日付大出喜平宛田中正造書簡である。この書簡で田中正造は、大島村・西谷田村で、鉱毒被害民に北海道移住をすすめていると聞き、大出喜平にこのことに賛成したのかと怒気を込めて詰問した。谷中村をはじめとする鉱毒被害地では、政府は反対運動を弱体化させるため、北海道などへの移住をすすめていた。それに対して、大出喜平・山本栄四郎は、書簡で弁明した。大出・山本の両名は、田中の治水論の正当性を認めながら、現在の渡良瀬川改修工事は応急処置であり、田中の治水論とは矛盾しないとした。その上で、北海道などへの移住勧奨には自身は関与していないと両名とも述べている。大出は、移住勧奨への反抗は紛擾を招き、一村の平和を破壊するので黙止しているとしながら、武藤金吉が移住勧奨を批判していることを述べた。山本は、鉱毒被害地の現状では移住もしかたがないと諦めていると述べた。このように、治水問題で立場を異にした大出・山本は、それでも田中正造の正当性を最終的には認めていたのであった。そして、1912年3月6日の書簡において、大出喜平は、田中正造に足尾鉄道工事が渡良瀬川水源を破壊していることを批判する請願書の写しを田中正造に送った。自分たちなりに社会の公益に尽くしていることを田中にみせたかったのだろうと推測される。

しかし、大出喜平に多くの時間は残されていなかった。1912年11月21日付田中正造宛山本栄四郎書簡では、大出喜平が死病に陥っており、一度は田中に会いたいとしているが、今としては何ともできず、またこの私事で田中を煩わせることも遠慮したいので、せめて田中正造の肖像に揮毫をいれてもらい、自らの死後家に伝わるようにしてほしいと頼まれたことが記されている。山本は、できれば生前大出にあってほしいと田中に願った。しかし、この書簡の翌日である22日、大出は死去し、山本の願いはかなわなかったのである。「田中正造日記」によると、11月28日田中は大出家に弔問に訪れた〔『田中正造全集』第十三巻〕。なお、1913年3月18日の書簡によると、山本栄四郎もまた田中正造についていけなかったことを悔やんでいたことを田中正造に告げていた。

そして、この書簡が書かれてからそれほど時間のたっていない1913年8月2日、田中正造は、栃木県足利郡吾妻村下羽田の庭田清四郎宅で倒れた。倒れた直後、田中正造は谷中村に戻りたいと訴えたが、周囲の人々にとめられた。そこで、田中正造は用談があるといって付近の有志を集めてくれと申し出た。渡瀬村村長谷津富三郎・助役小林善吉が庭田宅によばれ、彼らにより、群馬県多々良村・渡瀬村・大島村・西谷田村、栃木県久野村・吾妻村・植野村・界村・犬伏町の代表者が呼び集められた。この九ヶ村は、この地域における足尾鉱毒反対運動の中核であった。そして彼らにより、田中正造の看護体制が決められたのである〔『田中正造全集』別巻・島田宗三『田中正造翁余録』下巻・木下尚江『田中正造翁』などを参考〕。

地域の町村役場や有力者は、田中正造の見舞金を贈った。それに対して礼状が出された。礼状は、田中正造の寄付で生家に学習会などの開催を目的として設置された小中農協倶楽部からも出された。田中正造の病状は郵便で伝えられた。

9月4日、田中正造は、看護人であり過去の同志であった栃木県毛野村の岩崎佐十に「お前方、大勢来て居るようだが、嬉しくも何とも思はねえ。お前方は、田中正造に同情して呉れるか知らねえが、田中正造の事業に同情して来て居るものは、一人も無い。―行って、皆んなに然う言へッ」〔木下尚江『田中正造翁』〕という言葉を最後に残して死去した。

田中正造の死は、郵便で各町村役場にも伝えられた。9月6日、鉱毒反対運動事務所が所在した雲龍寺で密葬が行われた。密葬といっても参列者五〇〇名を数えた。そして、佐野町春日岡山惣宗寺で開かれた一府五県の有志総会で田中正造の葬儀が同寺にて10月12日に行うことが決められた。委員長は同町の津久井彦七が勤めることになった。郷谷村長の大塚源十郎も葬儀委員となった。この葬儀は、会葬者三万人を数えたというが、資料二五六にあるようにつつがなく済み、四十九日をかねて残務処理のため常務委員が参集した。

田中正造の死後も谷中村での闘争は続いた。また、渡良瀬川改修工事を行っても鉱毒問題の根本的な解決ではなく、随時鉱毒問題は再燃した。しかし、田中正造の死は、狭義の意味での鉱毒反対運動の終焉を象徴するものであったといえよう。

田中正造の最後の言葉には、大出喜平や山本栄四郎への書簡と同様に、谷中村の破壊につながる渡良瀬川改修工事に賛成した地域民衆への田中正造の憤りが感じられる。しかし、田中正造は、そうはいっても、大出喜平や山本栄四郎らを切り捨てはせず、説得を続け、大出喜平の死に際しては弔問にいっている。

また、山本や大出などがそうであるように、最後の地の民衆が、全く田中正造の事業に同情がなかったとはいえないであろう。田中正造の主張に正当性を感じつつ、生活を守るために田中正造に従えないジレンマを抱えていたというのが、地域民衆の実情ではなかったのではなかろうか。それが、地域ぐるみの看護体制と壮大な葬式の開催に結果し、さらに田中正造を義人としてあがめる心性が形成されていくことにつながっていったと考えられるのである。

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