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Posts Tagged ‘築地’

福島第一原発事故による放射能汚染の恐怖の原型として、1954年のビキニ環礁水爆実験による第五福竜丸他の日本漁船の被曝とその後の水産物の買い控えについて、かつて「東日本大震災の歴史的位置ー放射能汚染への恐怖の源流としての第五福竜丸における「死の灰」」と題して本ブログで紹介したことがある。そのことについては、下記を参照されたい。

https://tokyopastpresent.wordpress.com/2011/04/15/%E6%9D%B1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%A4%A7%E9%9C%87%E7%81%BD%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%9A%84%E4%BD%8D%E7%BD%AE%E3%83%BC%E6%94%BE%E5%B0%84%E8%83%BD%E6%B1%9A%E6%9F%93%E3%81%B8%E3%81%AE%E6%81%90%E6%80%96/

この記事を書いた頃から、ずっと東京都夢の島公園にある東京都立第五福竜丸展示館を見学したいと思ってきた。昨日ー2011年12月7日、他の用事もあって、ようやく実現することができた。

まず、東京都立第五福竜丸展示館の設立趣旨を同館のサイトから紹介しておこう。

この展示館には、木造のマグロ漁船「第五福竜丸」およびその付属品や関係資料を展示しています。「第五福竜丸」は、昭和29年(1954年)3月1日に太平洋のマーシャル諸島にあるビキニ環礁でアメリカが行った水爆実験によって被害を受けました。
 木造漁船での近海漁業は現在も行われていますが、当時はこのような木造船で遠くの海まで魚を求めて行ったのです。
 「第五福竜丸」は、昭和22年(1947年)に和歌山県で建造され、初めはカツオ漁船として活躍し、後にマグロ漁船に改造され遠洋漁業に出ていました。水爆実験での被爆後は、練習船に改造されて東京水産大学で使われていましたが、昭和42年(1967年)に廃船になったものです。
 東京都は、遠洋漁業に出ていた木造漁船を実物によって知っていただくとともに、原水爆による惨事がふたたび起こらないようにという願いをこめて、この展示館を建設しました。
<東京都 昭和51年(1976)6月10日開館>
http://d5f.org/top.htm

あたりまえのことだが、開館は美濃部亮吉が東京都知事に就任していた1976年であることに注目しておこう。
 

行きたい方もあるかもしれないので、ここで、どこにあるかをグーグルの地図で示しておこう。東京都立第五福竜丸展示館は、JR・東京メトロ・東京臨海鉄道の駅である新木場駅から、大体徒歩10分の位置にある。カナリーヤシなど、ちょっと南国的な植栽のある夢の島公園を横断して、マリーナのある海辺にいくと、第五福竜丸展示館が建っている。

これが、第五福竜丸展示館の全景である。基本的には鉄骨・鉄板造りのようだが、ほとんど屋根ばかりが目立つ構造で、塗装もあいまって竪穴式住居のような印象がある。

第五福竜丸展示館全景(2011年12月7日撮影)

第五福竜丸展示館全景(2011年12月7日撮影)

入口には、まず第五福竜丸の大漁旗が展示されている。ビキニ環礁で被曝した際、漁獲したマグロも被曝し、結局廃棄処分せざるをえなかったことを考えると、いささか複雑な気分になる。

第五福竜丸大漁旗(2011年12月7日撮影)

第五福竜丸大漁旗(2011年12月7日撮影)

そして、中に入ると、真ん中にスクリューや舵がある第五福竜丸の船尾部分がみえてくる。あまり船底まで船はみないので、なかなか迫力のある光景である。木造船のていねいに作りこまれた美しさがそこにはあるといえる。ただ、もちろんであるが、かなり傷んでいる。

第五福竜丸船尾(2011年12月7日撮影)

第五福竜丸船尾(2011年12月7日撮影)

船尾部分から船首のほうむかっていく通路に、メイン展示がある。ここには、第五福竜丸にふりそそいだ死の灰、第五福竜丸の航海や被曝に関する同船自体の資料、第五福竜丸被曝を報じた読売新聞の記事、乗組員の被曝とその看護、無線長久保山愛吉の死、水産物の被曝調査と廃棄処分さらには買い控え、原水爆禁止をもとめる署名運動の開始、ビキニ環礁を含む原水爆実験場となったマーシャル群島の被曝状況、核実験などでの全世界における被曝者の状況などが、わかりやすくまとめられている。

第五福竜丸展示館のメイン展示(2011年12月7日撮影)

第五福竜丸展示館のメイン展示(2011年12月7日撮影)

船首部分も外形は残っている。この船首部分から階段を上って、甲板部分をみることができる。

第五福竜丸船首(2011年12月7日撮影)

第五福竜丸船首(2011年12月7日撮影)

甲板部分はそれほど広くはない。前部マストには帆が装備されていたようである。1954年3月1日、この甲板に死の灰が降下したのだ。

第五福竜丸前部甲板(2011年12月7日撮影)

第五福竜丸前部甲板(2011年12月7日撮影)

第五福竜丸ブリッジ(2011年12月7日撮影)

第五福竜丸ブリッジ(2011年12月7日撮影)

この第五福竜丸展示館の船尾と船首に近いところに、中学生らが「世界平和」を祈願しておった千羽鶴が多数つるされていた。2007年前後のものらしい。その中に「世界がいつまでも平和でありますように 宮城県石巻市立石巻小学校」というラベルをつけた千羽鶴をみつけた。たぶん、もう中学校は卒業しているだろうが、この子たち自身は無事なのだろうか。この子たちのために千羽鶴を折らざるを得なくなっている状況なのだ。

石巻中学校生徒の折った千羽鶴(2011年12月7日撮影)

石巻中学校生徒の折った千羽鶴(2011年12月7日撮影)

さて、外にも展示物はある。まず、第五福竜丸のエンジン部分が展示されている。このエンジンは、1967年に廃船となった第五福竜丸から取り外されて第三千代川丸という船につけられたのだが、翌年この船が座礁・沈没し、海中に沈んだ。1996年にこのエンジンは引き上げられ、2000年よりこの地に展示するようになったのである。撮影した写真は、色が薄くなっているが、現物はかなり黒っぽいものである。

第五福竜丸のエンジン(2011年12月7日撮影)

第五福竜丸のエンジン(2011年12月7日撮影)

他に、展示館の外には、二つの碑が建っている。一つは、「マグロ塚」の碑である。この「マグロ塚」の碑は、1954年の第五福竜丸の被曝の際、廃棄処分となり、築地市場に埋められたマグロを供養するものである。展示版には築地市場に設置するのがふさわしいが市場が整備中(たぶん築地市場移転計画をさしているのだろう)のため、暫定的に第五福竜丸のそばに設置したと書かれている。なお、このブログでも紹介したが、築地市場にも「マグロ塚」のプレートはある。実際には、ここに設置されていたのだ。

「マグロ塚」(2011年12月7日撮影)

「マグロ塚」(2011年12月7日撮影)

さらに、被曝からほぼ半年後に死んだ久保山愛吉の記念碑もある。この記念碑には、久保山愛吉の「原水爆の被害者はわたしを最後にしてほしい」という遺言が刻まれている。

久保山愛吉記念碑(2011年12月7日撮影)

久保山愛吉記念碑(2011年12月7日撮影)

この第五福竜丸展示館は、まさに第五福竜丸の被曝状況をはだにで実感できるものということができる。もし、機会があれば、一度はみてほしいと思う。展示も、前述したように、要領よくまとめられ、わかりやすい。ただ、結局のところ、原発など原子力の平和利用についての問題性にはほとんど言及されず、核兵器実験の被害と、それを食い止めるための運動が中心的に展示されているような印象がある。もちろん、それはこの館だけの問題ではない。この館の展示は、趣旨からみて、これでよいのだろう。むしろ、原発問題について、将来このような展示館が必要になっていくのではなかろうか。

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さて、1923年の関東大震災において、被災者が自力で被災地にバラックー仮設建築物を建設したこと、そして、それが生活者としての被災者それぞれにとっての復興の開始であったことを述べてきた。当時の政府は、バラック建設を容認しただけではなく、用材供給という形で支援していたといえる。そして、帝都復興区画整理事業でも、減歩による道路・公共用地の確保という全体的な方針は維持しつつも、被災者が地域で再び生活することを考慮していたことを指摘した。

当時のバラックの景況について、震災・戦災について展示している東京都復興記念館が写真を展示している。ここであげておこう。実際に焼け跡のかなりの部分がバラックで埋め尽くされていたことがわかる。

震災直後のバラック(東京都復興記念館にて展示。2011年9月17日撮影)

震災直後のバラック(東京都復興記念館にて展示。2011年9月17日撮影)

1924年1月に、本建築建設も許可されるようになった。また、それ以降は、バラック建設も地方長官の許可制となった。しかし、区画整理が遅延しており、区画整理前に現実に本建築建設が認められることはきわめて少なかったと、田中傑の『帝都復興と生活空間』(2006年、東京大学出版会)は語っている。

結局、バラック建設に頼らざるを得なかった。バラック建設の着手は、1924年2月に延長された。さらに1924年8月には、区画整理の換地処分決定までバラック建設ができるようになった。そして、撤去期限も通常1933年8月となった。

そして、バラック自体も掘建小屋以上のものが建てられるようになった。そういう状況において、1925年1月に政府は「本建築以外ノ工作物築造物願処理方針」をだし、よりバラックについての規制を強めた。そこでは、換地処分が決まっている場合は換地予定地以外にはバラック建設は認めない、換地が決まっていない場合においては、煉瓦造、石造、鉄骨造、RC造以外で、建坪合計50坪以下もしくは建築延坪当たり平均単価120円を超えないという制限がかけられた。基本的に、換地処分以前においては、簡易に除去・移転できる構造で、建築費用も安価なものがバラックとして建築が認められたのである。

結果的に、バラックは約23万戸建設された。区画整理の障害になったそれらのバラックはどうなったのだろうか。撤去されてしまったのであろうか。撤去されたものもあるのだが…大半はそうではなかった。

大半のバラックは、区画整理による換地先に移転されたのである。これは、かなり大がかりなものであった。まず、軍の偵察機を借りて、復興事業を担当する復興局は、詳細な航空写真をとって、バラック移転計画を作成した。移転先も、また移転経路にもバラックが建設されていることが予想されるので、これは、大変な作業であった。そして、田中によると「多くの場合、バラックは部分的に除去して小さくした後、ジャッキアップし、轆を用いて換地先へ曳家された」(田中前掲書p165)としている。区画整理は、いずれにしても公共用地確保のために減歩するので、前の敷地において建設されたバラックは、小さくしないと移転できない。そこで、部分的にバラックを除去して小さくしてから、そのバラックを曳家して、移築するのである。

このような建物移転は、1927年から本格化し、最盛期の1928年8月には一日当たり500棟、合計1万5252坪の建物が移転したという。東京市では総計20万3485棟のバラックが移築された。戸と棟とは多少違いはあるが、まず大半のバラックは区画整理の換地先に移転されたのである。

バラック移築中、被災者は、国と東京市が用意した臨時収容家屋に住んだ。また、移転工事費・動産移転費・休業損失費など1坪当たり43円20銭が支給された。バラック建築費が120円以下と規定され、それに比べると被災者それぞれには家屋新築費にもならない金額であったが、移転したバラック建築面積が340万坪であり、総額では1億円かかった計算となった。当時の国家予算が約17億円弱であり、かなり大きな財政負担となったといえよう。

結局、区画整理事業で、街路は拡幅されたが、建てられた建築物の多くはバラックであったというのが、関東大震災の復興事業であったといえる。関東大震災は火災によって被害が拡大したのであるが、結局のところ、建物の不燃化率は、震災前よりも低下した。田中は「この間、建築物の不燃性能の点では、神田区、日本橋区、京橋区で1920年時点の棟数比で17~27%という水準から3~4%程度へと著しく低下した」(田中前掲書p116)と述べている。

バラックを改築して本建築にすることも進まなかった。そして、本建築といっても、木造建築物が多かったと思われる。次にあげるのは、現中央区築地に1930年に建設された商家である浜野家住宅である。

浜野家住宅(2011年1月15日撮影)

浜野家住宅(2011年1月15日撮影)

中央区のホームページでは、次のように紹介されている。

濱野家住宅
  区民有形文化財・建造物
  所在地:中央区築地七丁目10番8号
地図はこちら(電子マップ「ちゅうおうナビ」へ)

 濱野家は、海産物を扱う商家として、昭和5年現在地に建てられました。
 入口には、人見梁という背の高い梁がかけられ、軒は出桁造 という形式になっています。また、以前は、家に入ってすぐの場所が広い土間になっていて、鰹節 を入れた樽が山のように積まれていたといいます。
 濱野家住宅は東京の古い商家の造りを今に伝える貴重な建造物です。(内部非公開)
http://www.city.chuo.lg.jp/info/bunkazai/bunka002.html

つくりからみて、バラック建築とは思えない。本建築であろう。しかし、それでも、木造二階建てで、むしろ江戸的な家屋なのである。港区愛宕、中央区築地、中央区月島など、戦災をまぬがれた震災復興期の市街地は多少残っている(ただ、いまや再開発でほとんどが消滅していこうとしている)が、多くの建物は、銅版張りやモルタルで防火をしている建物はあるものの、それらを含めて、ほとんどが木造なのである。

このような震災復興のあり方は、防災上大きな課題を残した。ほとんどが木造家屋の町並みでは、空襲による戦災を免れえなかったのである。ある意味で、市街地の建築物のあり方は、バラックの移転などを認めるなど、被災者の生活を配慮したものであった。しかし、それは、将来の災害を防ぐという観点からは、問題をはらんでいた。それは、現在の津波被災地における、将来の防災のために住宅の高台移転を促進しようとする動きと、仮設店舗建設など早急に住民生活を再建させなくてはならないとする動きとの相克をある種先取りしていたとみることができる。

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東京・築地市場の「マグロ塚」(2011年1月15日撮影)

東京・築地市場の「マグロ塚」(2011年1月15日撮影)

前回は、第五福竜丸事件における「死の灰」の恐怖について述べた。ここでは、「死の灰」-放射性降下物で汚染されたとみなされた「水爆マグロ」についてみてみよう。この「水爆マグロ」は、築地他、全国の市場に混乱を招き、全く関係のない魚類も忌避され、それこそ大きな風評被害をうんだ。

これは、また、第五福竜丸事件をスクープした、1954年3月16日の読売新聞にもどってみなくてはならない。その日の朝刊のスクープ記事では、焼津港に「死の灰」が付着した第五福竜丸が放置されていること、また船員の多くが「死の灰」をつけたまま、焼津市内を自由に往来していることが報道されたが、第五福竜丸が漁獲したマグロ・サメなどについては報道されていなかった。ところが、同日の夕刊では、驚くべき報道がなされた。

出荷の魚販売中止―静岡分はすでに食卓へ
[焼津発]第五福竜丸が焼津港に水揚げしたマグロは二千五百貫で十五日ひる四十六貫五百匁が大阪市内大水会社へ、約五十貫が四日市魚市場へ出荷されたほか名古屋、京都、東京方面を中心に静岡市内東海道沿線にそれぞれ少量ずつ出荷されている。
被曝当時マグロは福竜丸の魚ソウ(槽)に氷や紙などで、五重に密閉されてあったので焼津漁協組では大丈夫だとみているが、万一マグロが放射能を含んでいる場合を恐れ同漁組はじめ各団体は十六日朝あわてて出荷先に連絡、県外出荷分は販売中止に成功したもよう。しかし県内向けは十四日に出荷し、ほとんど売りつくされ各家庭でもすでに多く食べ終わっているとみられる。

このように、第五福竜丸で漁獲したマグロ類が、各地に販売されたというのである。県外分は、差し止められたが、県内分は食べてしまったとのことであった。

この水爆マグロは、各地の水産物市場に大混乱をまきおこした。『東京築地魚市場仲買協同組合月報』第6号(1954年4月13日 『原水爆禁止運動資料集』第一巻所収)の「原爆被災漁の記録」によると、築地市場に焼津からマグロ・サメ類が16日の午前2時半届いたが、東京都衛生局市場分室の当直が現場に急行して、手をふれないように指示し、10時より専門家がガイガー・カウンターで検査した結果、マグロ・サメともに高濃度の汚染が認められたので、市場内野球場のネット裏に深夜穴をほりマグロ・サメを埋めたということである。

しかし、これだけではすまなかった。読売新聞3月17日夕刊では「運搬人のズボンに放射能 築地市場」と報じられ、3月18日朝刊では、「放射能マグロ 到着の各地で続々検出」と伝えられた。

さらに、この朝刊では、「また放射能漁船入港 三崎の俊洋丸 ビキニの海水付着か」と報じられた。被曝したのは第五福竜丸だけではなかったのである。あまり知られていないことだが、この当時、ビキニ海域では850隻あまりの漁船が被曝し、結果的には460トン近くの汚染漁が見つかったのである。

『東京築地魚市場仲買協同組合月報』によると、「ここに市場に放射能が充満してゐるが如き消費者の誤った恐怖が拡大して行ったのである」と述べている。具体的には、16日の報道により「驚愕した国民が一斉に魚の購入を差し控へたのは人情として当然であり俄然十七日の市況は暴落して市場入場者(買出人)は平日の七割減で半数以下、仲買店舗は閑古鳥の鳴く様な始末となり、就中大物類(マグロ類のことと思われる)とさめ製品としての練製品については全く売上のない有様で、新聞ラジオは次々と情勢の報道を続け市場は十八日、十九日に至るも依然たる停滞を続けこの状況は何時まで続くのか見透も出来ない混乱となった。」としている。

築地魚市場では、記者会見をしたり、ポスターを配布したりしたが、全然効果がなく、19日には、先の大物のセリが中止された。この購入差し控えは、被曝したとされるマグロ・サメ以外の魚種にもおよび、3月21日には横浜市場が臨時休止となっている。

まさしく、「死の灰」の恐怖が、放射能汚染にあった魚だけではなく、すべての魚類に及んだことがわかるだろう。まさしく、「風評」被害そのものである。見てもわからない、もしくは不可視の「死の灰」は、魚を購入したり摂取したりする時にはわからず、事後になって放射能被害を及ぼす。ある意味では、消費者の合理的判断ではさけようがない。そのことによって、「死の灰」に関連するすべてのことをさけようとする。逆にいえば、「死の灰」を連想させるすべてのものが、恐怖の対象となるのである。

ただ、このような書き方では、一面的に理解されてしまうであろう。「死の灰」をかぶった「水爆マグロ」への恐怖、これは、当時、マグロを食べていた消費者としての国民一人一人が共有した恐怖であった。この恐怖への対抗が、原水爆禁止運動であった。そして、まさに、国民一人一人が共有していた恐怖に基づいていたからこそ、「国民運動」であったのである。

この運動を詳細に述べるためには、より多くの紙面が必要であろう。ただ、前述してきたように、アメリカすらも世界戦略遂行のためには対応を考慮しなくてはならないような運動であった。その意味で、原水爆禁止運動の意義は大きい。

翻って、現状を考えてみよう。今、放射能汚染があるとされる人・物を忌避する風評被害と、原子力発電に反対する運動が平行してみられている。しかし、この二つは、放射能への「恐怖」という意味では同じところに根差しているといえる。それは、1954年の、魚への「風評被害」と原水爆禁止運動との関係と同一の位相にあるとはいえないか。ある意味で、既視感(既視感はこれだけではないのだが)に襲われるのである。

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電信創業の地

電信創業の地(2010年8月27日撮影)


運上所跡

運上所跡(2010年8月27日撮影)

この築地居留地を当初管理した部門が、東京運上所である。東京開市にあたり設けられた役所であるが、当初は外国事務局と称し横浜を管轄した神奈川県裁判所が管理していた。東京開市後、東京府の管轄となり、東京運上所となった。この東京運上所は、居留地の造成・管理・財務、日本人―外国人間の裁判、外国人応接のための翻訳、輸出入管理(税関事務)、密貿易取締、外国公使・外国商人・居留地の警衛にあたる別手組(警察組織)管轄など、多様な職務を担っていた。国家機構が整備されるにしたがって、しだいに職務が整理され、1875年には、裁判業務は裁判所に移管され、税関業務については横浜税関出張所となり、居住地業務は東京府支庁となった。
現在、東京運上所跡は割烹となり、プレートのみが残されている。同地は、隅田川に面しており、築地に入ってくる船舶を取り締まるのに都合のよい土地であった。また、日本で最初に電信局が設けられた地でもあり、記念碑が残されている。

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女子学院発祥の地

女子学院発祥の地(2010年8月27日撮影)


立教女学院跡

立教女学院跡(2010年8月27日撮影)


関東学院の源流ー東京中学院発祥の地

関東学院の源流ー東京中学院発祥の地(2010年8月27日撮影)


このように、設置当初の築地居留地は、外国商人たちにとって人気がなかった。1872年の新橋―横浜間の鉄道開通は、それに拍車をかけた。確かに横浜から交通至便になったものの、横浜からの日帰りが可能となり、築地に根拠地を置く必要性はますます薄れたのである。
築地居留地の真の主となったのは、キリスト教各派の教会とそれが経営するキリスト教系学校であった。プロテスタントを中心にカソリックなどまで13会派が進出し、ほぼ10の聖堂が建設された。これらの教会は、関東大震災までにほぼ移転し、現在はカトリック築地教会のみが残されている。これらの教会は、それぞれのキリスト教系の学校を開設した。このようなキリスト教系の大学を源流として、明治学院大学・女子学院・青山学院大学・立教大学・双葉学園・暁星学園・関東学院大学・女子聖学院・アメリカンスクールなどがうまれている。その他工手学校(現工学院大学)や築地カトリック神学校・啓蒙小学校・明教小学校・サンマー英語学校・聖三一神学校・女子聖書学館・女子神学校などが創立された。さらに、フォールズのツキジホスピタルや、トイスラーの聖路加病院など、キリスト教系病院も生まれている。現状では、学校は同地に残されておらず、聖路加国際病院のみが残されている。
この地は、さまざまなキリスト教系学校の発祥地であり、明石町には、多くの学校の創立記念碑が建てられている。これらの「記憶の場」としての築地といえるであろう。

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築地居留地跡

築地居留地跡(2010年8月27日撮影)

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1858年の日米通商条約で、1862年に江戸を開市することが定められた。この開市は再三延長され、明治維新後の1868年にようやく江戸―東京開市が明治新政府の手によって行われた。この江戸―東京の開市にあたり、外国商人の根拠地として設定されたのが築地居留地である。近世、築地・明石町の地域は鉄砲州とよばれた地域で、隅田川に面した地域は河岸場として使われ、内陸部分には大名などの武家屋敷が林立していた。築地居留地設置を構想したのは幕府であり、武家地などを収公して、居留地建設をすすめたのである。
築地居留地は、南は旧松平定信邸の浴恩園(現築地市場、地図では波除神社南側)の北側からはじまり、西側は築地本願寺東側の水路(地図では聖路加看護大学西側の道路)で画され、北は八丁堀(地図では中央小学校北側)まで続いていた。現況の町名では、北から、湊一・二・三丁目、入船一・二・三丁目、新富町一・二丁目、明石町・築地六・七丁目が該当する。なお、主に新富町一・二丁目にあたる部分は、1872年に拡張された部分である。
この居留地は、北部・中部・南部に分割される。現在の明石町にあたる中部地区が本来の居留地であり、この地区の武家屋敷や町地はすべて取り払われ、街路を付け直し、整地した上で、1870年より当初52区画に分割して外国人に貸し出された。一方、残余の北部・南部地区は、日本人が外国人に相対で地所・家屋を貸し出す地区となり、旧武家屋敷を整地して日本人に貸し出した。両方の地区全体が広義の築地居留地といえる。この地域は、水路が縦横に張り巡らされたところで、築地居留地はすべて水路で囲まれていた。さらに、幕末維新期の尊皇攘夷派士族の襲撃を防止するとして、1871年まで築地居留地に繋がる各橋梁には関門が設けられていた。
本来条約上は、江戸―東京に居住する外国人はすべて築地居留地にすむこととされていた。しかし、首都という特殊性より、外国公使館員やお雇い外国人については、それぞれの仕事に便利な居留地外での居住を認めざるをえなかった。そして、公平を保つという観点から、一般外国人にも居留地外の居住を認めることになった。結局、居留地外に住む外国人のほうが多くなったのである。
加えて、すでに横浜が開港場としての地位を確立しており、幕藩制の解体によって衰微した江戸―東京にわざわざ外国商人が進出するメリットは少なかった。港湾設備にしても東京は横浜におとっていた。その上、整地などの造成費もかさみ、築地居留地の地代は横浜のそれよりも高かった。そのような悪条件が重なって、設置当初の築地居留地は人気がなく、1870年の外国人に対する貸し出しにおいては、52区画のうち20区画しか応募がなく、現実に建設されたのは10区画のみであった。この52区画全域がうまるのは、1884年までかかっている。

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吉野屋築地一号店

吉野屋築地一号店(2010年10月16日撮影)

吉野屋築地一号店看板

吉野屋築地一号店看板(2010年10月16日撮影)

最近、移転問題でさかんに議論されている築地市場の場内に、牛丼チェーン吉野屋の築地一号店がある。市場場内の他の店よりは、洗練された造りであるが、決して広いわけではない。接客スペースは数坪程度であろうか。カウンター席しかなく、それも精々十数人程度しか入れない。小さな立ち食い蕎麦屋程度の店だ。このように小さい店は、吉野屋ではみかけたことがない。メニューは、牛丼(並380円)中心で、他の店のように牛鍋丼(並280円)は無かった。店の入口には、吉野屋が魚河岸に1899年に開業したこと、そして魚市場で吉野屋の牛丼の味が育まれたとする看板がかけられている。そして、店内には日本橋魚河岸で開業した吉野屋のレリーフが掲げられている。つまり、吉野屋は元々日本橋魚河岸で開業したのであり、築地に市場が移転した1926年に吉野屋も移転してきたのだ。つまり、地理的にいえば、同地は吉野屋の発祥の地ではない。
しかし、店内に入ってみよう。この築地第一号店は、他の吉野屋とは違った雰囲気を有している。前述のように牛丼中心のメニューだが、ほとんどの客が、細かな味の調整を求めて隠語を使って注文している。ある客については、顔をみたとたん、店員のほうから隠語を発し、注文をとっていた。つまりは、築地市場を中心とした常連客で、この店はなりたっている。そして、それが、吉野屋の食文化をささえているといえるのだ。吉野屋のウィキペディアには、築地一号店しか通用しない隠語が多く掲載されている。
この築地一号店は、吉野屋のアイデンティティの拠り所とされており、公式ホームページに大々的にとりあげられている。地理的な発祥地ではなく、常連客と形成してきた食文化に、吉野屋は自身の過去の「記憶の場」を求めたといえよう。

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