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Posts Tagged ‘第二次世界大戦’

さて、今回は、フランスの文学者ジャン・ジオノ(1895〜1970)の『木を植えた男』を題材にして、ディストピアからユートピアを作り上げる言葉の可能性について語ってみたい。本書は、荒廃したフランス・ブロヴァンス地方で、森を復興することを目的にして、後半生を通じて木を植えていった男の話である。以下のように、絵本として出版されている。私は旅先の旅館で本書に初めて接した。ただ、かなり有名な本で、大抵の公立図書館には収蔵されているようである。

http://www.amazon.co.jp/%E6%9C%A8%E3%82%92%E6%A4%8D%E3%81%88%E3%81%9F%E7%94%B7-%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3-%E3%82%B8%E3%82%AA%E3%83%8E/dp/4751514318

話は、第一次世界大戦直前の1913年に遡る。本書の語り手である「わたし」は、フランスの地中海側にあるプロヴァンス地方の山間に足を踏み入れていた。そこは、「草木はまばら、生えるのはわずかに野生のラベンダーばかり」という、全くの荒れ地で、たどりついたところは「無残な廃墟」であり、泉もかれはてていた。「わたし」は水を求めて歩き、そこである羊飼いの男に出会った。羊飼いの男は、まず、「わたし」に皮袋にあった水を飲ませ、さらに、高原のくぼ地にあり深い湧き井戸がある自分の羊小屋につれていってくれた。「わたし」は次のように語っている。

男はほとんど口をきかなかった。孤独の人とはそうしたもの。
それでかえって、その存在を、つよく人びとに植えつけるものだ。
潤いのないこの地にあって、かれはまことに清涼な命の水とも思われた。

「わたし」はこの羊小屋に泊まることになった。元廃屋であった羊小屋はきっちりと修理が施され、部屋もさっぱりかたづいており、「犬も飼い主同様に、まことに静かな性格で、ごく自然になついてくれた」と「わたし」は記している。他方で、この地域全体については、次のように描いている。

そのあたりの四つか五つかの村々は、
車もかよわぬ山腹に、点在し、孤立していた。
村人は、きこりと炭焼きで暮らしていたが、生活は楽ではなかった。
冬も夏も気候はきびしく、家々はきゅうくつそうに軒を接して、
人びとはいがみあい、角つきあわせて暮らしていた。
かれらの願いはただ一つ、なんとかして、その地をぬけだすことだった。

男たちは、焼いた炭を二輪車で
都会に売りに出かけては、またとって返すのくりかえし。
まるで、水とお湯のシャワーを交互に浴びるようなもので、
どんなに堅い良心も、いつしかひびいってしまおうというもの。
どんなことにもめらめらと、競争心の火を燃やす。
炭の売上げをめぐっても、教会の陣どりをめぐっても、
争いのたえぬありさま。

おまけに吹きすさぶ強い風が、
たえず神経をいらだたせ、
自殺と心の病いとが
はやりとなって
多くの命をうばいさる。

この記述を見ると、この地域は、単に厳しい気候風土だけではなく、「炭売り」という形で行われる商品経済への従属によっても荒廃していたということができよう。まさに、「ディストピア」そのものである。

さて、再び、羊飼いの男についての話にもどろう。かれは、夜になると、袋の中からどんぐりを出し、よりわけて、100粒のどんぐりを選別した。そして、朝になると、羊のえさ場のかたわらにある小さな丘に登って、どんぐりを一つ一つ植え込んでいた。「わたし」は次のように語っている。

かれは、カシワの木を植えていたのだった。
「あなたの土地ですか?」と聞くと、「いいや、ちがう」とかれはこたえた。
「だれのものだか知らないが、そんなことはどうでもいいさ」と、
ただただかれは、ていねいに、100粒のどんぐりを植えこんでいった。

この羊飼いは、3年前から木を植え続けていた。すでに10万個の種を植え、そのうち2万個が発芽した。半分くらいは生き残るとして、この不毛の地に1万本のカシワの木が根づくことになるだろうとこの羊飼いの男は見込んでいた。

そして、「わたし」は、このように物語っている。

ところでそのとき、わたしは急に、男の年が気になりはじめた。
50以上には見えていたが、聞くと55歳だという。
名をエルゼアール・ブフィエといい、かつては、ふもとに農場を持って、
家族といっしょに暮らしていた。

ところがとつぜん、一人息子を失い、まもなく奥さんもあとを追った。
そこで世間から身をひいて、まったくの孤独の世界にこもり、
羊と犬を伴侶にしながら、ゆっくり歩む人生に、ささやかな喜びを見いだした。
でも、ただのんびりとすごすより、なにかためになる仕事をしたい。
木のない土地は、死んだも同然。せめて、よき伴侶を持たせなければと
思い立ったのが、不毛の土地に生命の種を植えつけること。

「わたし」は、30年もすれば1万本のカシワの木が育っているのだろうといい、ブフィエは、神さまが30年も生かし続けてくれれば、今の1万本も大海のほんのひとしずくということになろうとこたえた。そして二人は別れた。

「わたし」は第一次世界大戦に従軍し、1920年に再び、この地を訪れた。ブフィエは、「戦争なんぞはどこ吹く風、と知らぬ顔して木を植え続けていた」。彼の林はすでに長さ11キロ、幅3キロにまでなっていた。「わたし」は「それはまさに、この無口な男の手と魂が、なんの技巧もこらさずにつくりあげたもの。戦争という、とほうもない破壊をもたらす人間が、ほかの場所ではこんなにも、神のみわざにもひとしい偉業をなしとげることができるとは」と語っている。

その後、「わたし」は幾度となくこの地を訪問した。ブフィエの植えた林は、「自然林」として国家によって保護されたり、戦時中の「木炭バス」の燃料にされかけたりした。しかし、ブフィエは「第一次大戦同様、第二次大戦中も、ただ、黙々と木を植えつづけた」のであった。

「わたし」が最後にブフィエにあったのは、第二次大戦が終結した1945年7月であった。まるで、見違えるようになったこの土地について、「わたし」は次のように語っている。

1913年ごろ、村には、11、2軒の家があったが、
住んでいたのは、たった3人だけであった。
みな、粗野な人間で、それぞれがいがみあいながら、生活をしていた。

未来への夢もなく
気品や美徳を育くむような環境でもなく、
かれらはただ、死を迎えるために生きていた。

いまはすっかり変わっていた。空気までが変わっていた。
かつてわたしにおそいかかった、ほこりまみれの疾風のかわりに
甘い香りのそよ風が、あたりをやわらかくつつんでいた。
山のほうからは、水のせせらぎにも似た音が聞こえてきたが、
それは、森からそよぎくる、木々のさざめく声だった。
いや、水場に落ちるような水の音も、どこからか聞こえてくる。
いってみると、なみなみと水をたたえた噴水がつくられていた。
さらに驚いたことには、そのすぐそばに、1本の菩提樹が立っている。
葉の茂りぐあいからすると、芽生えて4年にもなるだろう。
それはまさしく、この地の再生を象徴するものだった。

さらにそのうえヴェルゴンの村には、
未来への夢と労働の意欲がみなぎっていた。
廃屋は、あとかたもなくかたづけられ、
あらたに5軒の家が建てられていた。
村の人口の、28人にふえて
なかには4組の若夫婦もいた。

植生の復興は、社会の復興につながったと「わたし」は語っているのである。この地域では、村が続々と再興され、「平地に住んでいた人たちが、高く売れる土地をひきはらって移り住み、このいったいに若さと冒険心をもたらした…人びとは生活を楽しんでいる。それら1万を越える人たちは、その幸せを、エルゼアール・ブフィエ氏に感謝しなくてはならないはず」と「わたし」は述べ、さらに、次のような言葉で、ブフィエを称えている。

ところで、たった一人の男が、
その肉体と精神をぎりぎりに切りつめ、
荒れはてた地を、
幸いの地としてよみがえらせたことを思うとき、
わたしはやはり、
人間のすばらしさをたたえずにはいられない。

魂の偉大さのかげにひそむ、不屈の精神。心の寛大さのかげにひそむ、たゆまない熱情。
それがあって、はじめて、すばらしい結果がもたらされる。
この、神の行いにもひとしい創造をなしとげた名もない老いた農夫に、
わたしは、かぎりない敬意を抱かずにはいられない。

「わたし」は、次のようにこの物語をしめくくっている。

1947年、エルゼアール・ブフィエ氏は、
バノンの養老院において、
やすらかにその生涯を閉じた。

この『木を植えた男』は年代記風に書かれており、現実に生きた人の個人史を書いたと思われるだろう。実際、1953年にジオノへ執筆を依頼したアメリカの『リーダーズダイジェスト』誌の依頼の趣旨は、「あなたがこれまで会ったことがある、最も並外れた、最も忘れ難い人物はだれですか」ということであった。しかし、ジオノが描いたエルゼアール・ブフィエがバノンの養老院で亡くなったという事実はなかった。つまりはフィクションなのである。そのことを知った『リーダーズダイジェスト』誌は掲載を拒否した。そこで、ジオノは著作権を放棄し、この物語を公開した。英語原稿は『ヴォーグ』誌に1954年3月に掲載され、世界に広まった。だが、フランスでは、ジオノ死後の1983年にようやく出版された。しかし、これらの版でフィクションであることを明示することは積極的にはなされず、多くの読者はエルゼアール・ブフィエが実在の人物であったと思い込んでいた(この過程については②を参照した)。

1987年に『木を植えた男』をアニメーション化したカナダのアニメーション作家であり、翻訳本の絵を書いているフレデリック・バックも、エルゼアール・ブフィエを実在の人物と思い込んで感動した一人であった。しかし、バックは、アニメーション化の途中で、この物語がフィクションであったことを知った。しかし、それでも、バックはこのアニメーション化をやめなかった。このアニメーションは、1987年アカデミー賞短編映画賞を獲得した。しかし、それよりも、重要な影響があった。②において、日本のアニメーション作家である高畑勲は、次のように指摘している。

すでに述べてきたように、この物語は1954年に出版されて以来、何ヶ国語にも翻訳されて森林再生の努力を励ましてきた。そしてフレデリック・バックのアニメーションが放映されたカナダでは一大植樹運動がまき起こり、年間3000万本だったものがその年一挙に2億5000万本に達した。『木を植えた男』は、人を感動させただけでなく、人を具体的な行動に立ち上がらせたのだ。

このように、実在しなかったエルゼアール・ブフィエを扱ったこの物語は、多くの実在するエルゼアール・ブフィエを誕生させたといえるのである。

たぶん、ジオノのねらいもそこにあったのだと思われる。1950年代はいまだ世界的にみてもエコロジーには関心がなかった。そんな中で進行する環境破壊の中で、権力の手を借りず、独力で木を植えて自然を復興させていく人物は必要であったが、そういう人物は実在していなかった。ジオノは、そういう人物も生き生きと語ることによって、フィクションを作り上げ、そのなかで、このことの必要性を形象化したのである。

この物語は実話ではない。しかし、結局は、現実になっていく。構図としては「ヨハネ福音書」などのそれを借りているといえる。「ヨハネ福音書」においては「初めに言があった…万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった…言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人びとには神の子となる資格を与えた」とある。そして、洗礼者ヨハネはキリストの到来を主張したが、しかし、実際のキリストに対面した時、「わたしはこの方を知らなかった」といっている。ヨハネをジオノ、キリストをエルゼアール・ブフィエに置き換えれば、この構図がより明瞭になるだろう。

といっても、ジオノは、キリスト教の構図を借用しているだけで、キリスト教の教理そのものを主張しているわけではない。彼は、たった一人の無名の個人が、独力で、自然を甦らせ、社会を復興させていく可能性を言葉で提示することに賭けていたといえる。エルゼアール・ブフィエの営為にとって、権力とは攪乱要因でしかなかった。ジオノは農村アナーキストの思想をもち、1930年代にプロヴァンスの山中で「新しい村」を建設する運動を従事したとされている(③参照)。そして、エルゼアール・ブフィエの営為は、二度の大戦で破壊することしかできなかった多くの人びとのあり方と対比されている。ジオノにとって、エルゼアール・ブフィエの営為こそが神にも等しい「人間の尊厳」なのである。

エルゼアール・ブフィエの死が象徴しているように、「木を植える」ことには物質的な見返りは何もないことが想定されている。しかし、「そこで世間から身をひいて、まったくの孤独の世界にこもり、羊と犬を伴侶にしながら、ゆっくり歩む人生に、ささやかな喜びを見いだした。でも、ただのんびりとすごすより、なにかためになる仕事をしたい」とあるように、孤独であるがゆえの「ためになる仕事」なのである。そして、このようなブフィエのあり方は、「炭焼き」に従事し利己主義によって引き裂かれている周辺住民と対比されている。

最終的に、エルゼアール・ブフィエは、自分の住んでいた荒れ地を楽園の地にかえた。この物語では、ディストピアがユートピアになったといえる。しかし、エルゼアール・ブフィエが実在の人物でないと同様、この土地も実在していなかった。ユートピアの語源通り「どこにもない土地」なのである。しかし、実在しない人物によるどこにもない土地を作り上げるフィクションが、言葉によって語られ、アニメーションとして表現されて、人びとの心に火を灯し、現実の行動につながっていった。無数のエルゼアール・ブフィエが実在するようになり、ユートピアを実現しようとする努力をはらうようになった。言葉のもつ一つの可能性がそこにあるといえる。

*『木を植えた男』には多数の日本語訳がある。今回は、次の三つを参照した。
①ジャン・ジオノ原作、フレデリック・バック絵、寺岡襄訳『木を植えた男』、あすなろ書房、1989年(絵本版)
②高畑勲訳・著『木を植えた男を読む』、徳間書店、1990年
③ジャン・ジオノ著、フレデリック・バック絵、寺岡襄訳『木を植えた男』、あすなろ書房、1992年

①は絵本版で、たぶんそのことを意識して、訳者が短く意訳し、日本では一般的ではないキリスト教的な表現などを省略している部分がある。②で高畑はそのことを批判し、フランス語の原文を掲げるとともに、より逐語訳に近い形の訳文を掲載している。そして、③では、絵本という形態を脱して、より完全に近い形で翻訳されている。ここでは、一般的に普及していると思われる①を訳文として掲げた。

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現天皇が12月23日に80歳を迎えた。誕生日をひかえた12月28日に宮内庁で記者会見を行った。まず、冒頭の部分をみておこう。

問1 陛下は傘寿を迎えられ,平成の時代になってまもなく四半世紀が刻まれます。昭和の時代から平成のいままでを顧みると,戦争とその後の復興,多くの災害や厳しい経済情勢などがあり,陛下ご自身の2度の大きな手術もありました。80年の道のりを振り返って特に印象に残っている出来事や,傘寿を迎えられたご感想,そしてこれからの人生をどのように歩もうとされているのかお聞かせ下さい。

〈天皇陛下〉
80年の道のりを振り返って,特に印象に残っている出来事という質問ですが,やはり最も印象に残っているのは先の戦争のことです。私が学齢に達した時には中国との戦争が始まっており,その翌年の12月8日から,中国のほかに新たに米国,英国,オランダとの戦争が始まりました。終戦を迎えたのは小学校の最後の年でした。この戦争による日本人の犠牲者は約310万人と言われています。前途に様々な夢を持って生きていた多くの人々が,若くして命を失ったことを思うと,本当に痛ましい限りです。

戦後,連合国軍の占領下にあった日本は,平和と民主主義を,守るべき大切なものとして,日本国憲法を作り,様々な改革を行って,今日の日本を築きました。戦争で荒廃した国土を立て直し,かつ,改善していくために当時の我が国の人々の払った努力に対し,深い感謝の気持ちを抱いています。また,当時の知日派の米国人の協力も忘れてはならないことと思います。戦後60年を超す歳月を経,今日,日本には東日本大震災のような大きな災害に対しても,人と人との絆きずなを大切にし,冷静に事に対処し,復興に向かって尽力する人々が育っていることを,本当に心強く思っています。

http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/kaiken-h25e.html

ここで、重要なことは、第二次世界大戦を「本当に痛ましい限り」と表現した上で、「戦後,連合国軍の占領下にあった日本は,平和と民主主義を,守るべき大切なものとして,日本国憲法を作り,様々な改革を行って,今日の日本を築きました。」と主張していることである。これは、天皇が日本国憲法の原理である「平和と民主主義」を擁護しているといえるであろう。

これは、改憲をかかげる安倍首相とは全く相反した意見といえるだろう。例えば、天皇誕生日の前日である12月22日に、安倍首相はNHKのテレビで次のような発言をしている。日本経済新聞が12月23日に配信した記事でみてみよう。

首相「落ち着いて仕事」 長期政権に意欲
2013/12/23 0:46

 安倍晋三首相は22日夜のNHK番組で「衆院(議員)もまだ3年任期がある。日本を正しい方向へ導いていくためにも、この期間に落ち着いて仕事をしていかなければいけない」と述べた。「そう簡単には辞めるわけにはいかない」とも語り、長期政権に意欲をにじませた。

 集団的自衛権の行使容認に向けた憲法解釈の変更や憲法改正などには腰を据えて取り組む考えを強調したものとみられる。集団的自衛権に関して日本維新の会やみんなの党と連携したい意向を示すとともに「憲法改正は私のライフワークだ。なんとしてもやり遂げたい」とも力説した。
http://www.nikkei.com/article/DGXNASFS2201Q_S3A221C1PE8000/

安倍晋三は「憲法改正は私のライフワークだ」とまでいっているのである。天皇の意向との違いはあきらかである。

さらに天皇の発言を紹介しておこう。次の部分を読んでほしい。

問3 今年は五輪招致活動をめぐる動きなど皇室の活動と政治との関わりについての論議が多く見られましたが,陛下は皇室の立場と活動について,どのようにお考えかお聞かせ下さい。

〈天皇陛下〉
日本国憲法には「天皇は,この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ,国政に関する権能を有しない。」と規定されています。この条項を遵守することを念頭において,私は天皇としての活動を律しています。

しかし,質問にあった五輪招致活動のように,主旨がはっきりうたってあればともかく,問題によっては,国政に関与するのかどうか,判断の難しい場合もあります。そのような場合はできる限り客観的に,また法律的に,考えられる立場にある宮内庁長官や参与の意見を聴くことにしています。今度の場合,参与も宮内庁長官始め関係者も,この問題が国政に関与するかどうか一生懸命考えてくれました。今後とも憲法を遵守する立場に立って,事に当たっていくつもりです。

実は、この発言は、日本国憲法の規定に抵触する恐れがある。下記の条文にあるように、天皇は国政に関する権能はもたず、国事に関する行為のみが許されている。しかし、今まで触れてきた発言は、あきらかに「国政」への発言を含んでいるのであり、それ自体が問題をはらんでいる。そしてまた、憲法では、国事行為においては内閣の助言と承認が必要であるとしている。何が国事行為にあたるのかということも、本来、内閣の助言と承認が必要であるはずである。にもかかわらず、天皇は、何が国事行為で、何が国政に関与する行為であるということについて、宮内庁長官や参与の意見を参考にして「判断」しているのである。

第三条  天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。
第四条  天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。
○2  天皇は、法律の定めるところにより、その国事に関する行為を委任することができる。
(中略)
第六条  天皇は、国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する。
○2  天皇は、内閣の指名に基いて、最高裁判所の長たる裁判官を任命する。
第七条  天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。
一  憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること。
二  国会を召集すること。
三  衆議院を解散すること。
四  国会議員の総選挙の施行を公示すること。
五  国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状を認証すること。
六  大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を認証すること。
七  栄典を授与すること。
八  批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること。
九  外国の大使及び公使を接受すること。
十  儀式を行ふこと。

http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S21/S21KE000.html

このことは、現天皇が、厳密にいえば憲法の規定通り行動していないこと示しているといえる。しかし、それでも、現天皇は「今後とも憲法を遵守する立場に立」つと宣言しているのである。そして、本意としては「内閣の助言と承認」つまり安倍政権の天皇の行為への関与を限定的なものにしたいという意向があるといえる。

日本国憲法では「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」(前文)とし、天皇の位置については、「第一条  天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」と定めている。主権者は国民であり、その総意によって天皇は「日本国の象徴」となっているのである。それゆえ、「国政の権能」はもたず、「国事行為」には、国民の代表である内閣の助言と承認が必要となっている。言うなれば、独自の政治的主体として公的に行動することは憲法上は認めていないのである。

しかし、少なくとも、現天皇は、主体的に「憲法を遵守」すると宣言している。そして、これは、私的な意見の表明ではない。国事行為と国政との境界については、宮内庁長官や参与などと協議して判断しているとしており、公的な意見の表明である。そして、この記者会見での発言を見る限り、内閣とは独立した立場なのである。非常に微妙なのだが、ある種の憲法に拘束されない立場をもつ天皇が、平和と民主主義を原理とする日本国憲法を「遵守」しているということになろう。いわば、天皇制が民主主義を護持しているのであり、「天皇制民主主義」ともいえるだろう。その意味で、実は、天皇の発言は、微妙なものである。

たぶん、この問題は、もともと内包されていた日本国憲法と天皇制の微妙な関係が、改憲をライフワークとする安倍政権の登場によって露呈されたとみることができるだろう。天皇の個々の行動が内閣の助言と承認を得たものではなくても、それらがおおむね内閣の方針と食い違うものでなければ、このよう問題は表面化しない。しかし、安倍政権と現天皇の憲法に対する見解が食い違ってくると、この問題に矛盾が内包されているが露呈されてくることになるのである。

そして、より微妙なのは、安倍政権は自民党を中心とした政権であり、自民党は昨年4月に「日本国憲法改正草案」を発表していることである。この草案では、現在の憲法前文にはない、次のような表現がなされている。

日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される(後略)
http://www.geocities.jp/le_grand_concierge2/_geo_contents_/JaakuAmerika2/Jiminkenpo2012.htm#0

そして、草案第一条では「天皇は、日本国の元首であり、日本国及び日本国民統合の象徴であって、その地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」とし、草案第六条第四項では「天皇の国事に関する全ての行為には、内閣の進言を必要とし、内閣がその責任を負う。ただし、衆議院の解散については、内閣総理大臣の進言による」としている。天皇を元首化するとともに、内閣の関与を「助言と承認」から「進言」とトーンダウンさせている。天皇の立場をより権威化しようとしたものといえる。しかし、安倍政権自体は、現天皇の意向とは矛盾した方向性をとっている。より矛盾が深まっているといえよう。そして、このことは、安倍政権が意図しない形で、「戦後政治」の見直しにつながっていくのではないかと考えられるのである。

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ここで考えておきたいことは、「原子力の平和利用」の「平和」ということである。原発などの原子力の産業的利用において、特に日本では、常に「平和利用」ということが強調される。1951年に制定された原子力基本法には「平和の目的に限り」と原子力研究・開発が限定されている。

しかし、そもそも、原子力の利用・開発は、核兵器開発の「軍事利用」として、本格的に開始されたといえる。特にそのことを示しているのが、原爆製造のためにアメリカが第二次世界大戦中に実施したマンハッタン計画である。このマンハッタン計画については、平田光司「マンハッタン計画の現在」(歴史学研究会編『震災・核災害の時代と歴史学』、青木書店、2012年)が要領よく整理しているので、これに依拠してみていこう。

ウラン (U235)の核分裂反応が発見されたのは1938年であった。この発見は、ドイツのベルリンにおいて、O・ハーンとF・シュトラスマンによって行われたが、そのことは1939年にはアメリカに伝わった。アメリカでは、カリフォルニアの E・ローレンスのもとで最新鋭の粒子加速器サイクロトロンがつくられており、すぐにウランの核反応の詳細が調べられた。1940年には、サイクロトロンを使った連鎖核分裂反応をおこすプルトニウム(Pu239)の生成にバークレーのG・シーボーグ等により成功した。しかし、プルトニウムの発見・合成はすでに兵器開発の一環とされ、公表されることはなかった。

そして、1941年には、元マサチューセッツ工科大学副学長V・ブッシュが科学研究開発部長になり、原爆の本格的開発をめざしたマンハッタン計画の実施が決定された。この時期想定された原爆製造方法としては、ウラン(U235)とプルトニウム(Pu239)の二つを用いる方法が考えられた。周知のように、天然ウランにおいては、核分裂反応を起こす U235は0.7%しかなく、ほとんどはU238である。原爆としてU235を使うためには、純度を90%以上にする必要があった。これがウラン濃縮である。大量にウラン濃縮をすることは難しく、ガス拡散法やサイクロトロン用に開発された巨大磁石を使う(電磁分離法)などの大規模施設が必要であった。このウラン濃縮施設はテネシー州オークリッジに建設された。
 
他方、プルトニウムの場合は、E・フェルミやL・シラードによって考案された原子炉を使うことが構想された。原子炉(黒鉛炉)の中で天然ウランを「燃焼」させ、天然ウラン中のU235を核分裂させて中性子を発生させ、中性子がU238にあたってPu239に転換になる反応を利用してプルトニウムを生産させるという方策がとられた。シカゴ大学に世界最初の原子炉CP−1(シカゴパイル)がつくられ、1941年12月には連鎖反応が確認された。そして、安全性を配慮して、人口の少ないワシントン州ハンズフォードにプルトニウム生産炉は建設された。このように、原子炉とは、まず原爆製造のためのプルトニウム生産の装置であったのである。
 
このようにして生産されたウランとプルトニウムを原爆に製造する施設として、1943年、ニューメキシコ州にロスアラモス研究所が作られ、所長に理論物理学者のオッペンハイマーが就任した。1945年7月16日、ロスアラモス南方のアラゴモードでプルトニウム原爆の核実験(トリニティ実験)が行われた。そして、周知のように、8月6日には広島にウラン原爆が、8月9日には長崎にプルトニウム原爆が投下されたのである。

第二次世界大戦後、原子力エネルギーの管理は、軍部ではなく、文民の原子力委員会( AEC)に移された。AECは、(1)核兵器の開発、(2)核エネルギーの利用(原子力)、(3)核(素粒子)物理学を管轄した。つまり、アメリカにおいては、第二次世界大戦後も、核兵器の開発と、核エネルギーの利用、核物理学研究は一体のものであった。

そして、いわゆる核エネルギー(原子力)の利用自体も、兵器生産と結びついて開始されたのである。前述したように、そもそも原子炉は原爆材料としてのプルトニウムを生産するために設置されたが、原子炉のエネルギーを動力源とすることをはじめて行ったのは原子力潜水艦であった。原子力潜水艦に搭載するために、水を減速材および冷却材として使い、濃縮ウランを燃料とする軽水炉が開発された。1954年には初の原子力潜水艦ノーチラス号が完成した。原子力潜水艦開発にはウェスティングハウス社とゼネラル・エレクトリック社が協力したが、原子力潜水艦用の軽水炉は民需用原子炉のモデルとなり、両社は、二大原発メーカーとして成長していくのである。

他方で、プルトニウム生産炉としての原子炉は、高速増殖炉計画へとつながっていく。高速増殖炉においては、U235の核分裂反応によるエネルギーによって発電するとともに、放出される中性子により、U238がPu239に転換し、核燃料がより増加していくことになる。プルトニウム生産炉としての原子炉のそもそもの性格を発展させたものといえる。しかし、ここで生産されるプルトニウムは、単に原発の燃料となるだけでなく、原爆・水爆などの核兵器の材料ともなるのである。
 
平田は、次のように指摘している。

原子炉は、もともと原爆製造のために作られたものであり、軽水炉も原子力潜水艦の動力源として開発された。原子力の平和利用は、兵器の製造過程を多少変えて、一般にも役立つようにしたものである。このため、原子力で発電する装置は即軍事に転用できる。…原子力は核兵器と同じ体系のものである。原子力が広まれば、核武装の可能性も同じように広まる。(平田前掲書91頁)

まず、原子力の本格的利用を開始したアメリカにおいて、原子力を原発などの民需に使う「平和利用」とは、核戦争のための軍事利用と一体のものとして位置づけられて開始されていたことに注目しておかねばならない。

その上で、平田は、このように述べている。

アメリカ、フランスなど原子力を進めようとしている国は核武装しており、国防という経済性を無視した聖域のなかで核兵器および原子力の開発を一体として進めてきた。原子力におけるマンパワーも豊富である。軍が基本的な開発をおこなって、ある程度のノウハウが確立してから民間を参入させている。リスクが莫大で事実上計算不能であり、投資が回収できる保証のない原子力の技術とは、国家が国防のために開発するしかないものではなかろうか。この観点からすると、導入の経緯が問題なのではなく日本の原子力は最初から平和利用のみであったため、輸入技術に依存したひよわな産業構造しか持てなかったのかもしれない。(平田前掲書98頁)

高速増殖炉や核燃料再処理などのプルトニウム生産にこだわる日本の原子力政策が「平和利用」目的だけかは疑問の余地があるが、その主流が軽水炉をつかった原発開発という「原子力の平和利用」であることは相違ないといえる。そもそも、核兵器開発と一体として開始された「原子力の平和利用」であり、名目としては「平和利用」に限定せざるをえない日本の「原子力研究・開発」は、そもそも矛盾をかかえていたといえるのである。

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さて、尖閣諸島問題について、9月19日、訪中したアメリカのバネッタ国防長官に対し、中国で次期最高指導者と目される習近平国家副主席が尖閣諸島の領有の正当性を次のように語ったと朝日新聞は9月20日に報道した。

習近平氏「尖閣国有化は茶番」 日本政府を批判

 中国の習近平(シーチンピン)・国家副主席は19日、訪中した米国のパネッタ国防長官と会談し、「日本軍国主義は米国を含むアジア太平洋国家に大きな傷を与えた」としたうえで、日本政府の尖閣諸島国有化について「日本の一部政治勢力は(歴史を)反省せず、茶番を演出した」と批判した。次の最高指導者就任が確実視される習氏の尖閣国有化に対する発言が明らかになるのは初めて。新華社通信が伝えた。「米国が言動を慎み、釣魚島を巡る主権争いに介入しないことを望む」と牽制(けんせい)した。(北京)
http://www.asahi.com/international/update/0920/TKY201209190924.html

ここで、朝日新聞は新華社通信を典拠としている。それでは、新華社はどのように伝えているか。新華社通信のネットである新華網日本語版より、当該記事の部分を引用しておこう。

また、習副主席は釣魚島問題における中国の厳正な立場を次のように述べた。日本国内のある政治勢力は、隣国やアジア太平洋諸国に与えた戦争の苦しみを深く反省するどころか、さらに間違いを重ね、『島購入』という茶番劇をして、『カイロ宣言』と『ポツダム宣言』の国際法としての効力を公然と疑問視し、隣国との領土紛争を激化させた。日本は中国の主権と領土保全を損害するすべての言動をやめるべきだ。米国が、地域の平和と安定の大局に着目し、慎重な言動を取ると共に、釣魚島の主権紛争に関わらず、情勢を複雑化させるようないかなることも介入しないよう希望する。
http://jp.xinhuanet.com/2012-09/20/c_131861842.htm

両者を見比べてみよう。もちろん、表現には違いがある。また、朝日新聞が短縮して伝えている部分もある。ただ、大きな違いとしては、新華社報道において習近平が領有の根拠としたカイロ宣言とポツダム宣言に、朝日新聞はふれていないということである。なお、ここでは朝日新聞をあげているが、読売新聞・毎日新聞・産經新聞など、多くの日本の新聞もカイロ宣言とポツダム宣言にはふれていない。

まず、ここで、カイロ宣言について紹介しておこう。1943年11月22日、日本やナチスドイツなどの枢軸諸国に抗していた米英中三国の首脳であるルーズベルト・チャーチル・蒋介石がカイロにて会談し、これら連合国の対日方針などを決めた宣言を発した。それがカイロ宣言である。公文書は残されていないが、新聞発表などでは、次のようなものであった。

「ローズヴェルト」大統領、蒋介石大元帥及「チャーチル」総理大臣ハ、各自ノ軍事及外交顧問ト共ニ北「アフリカ」ニ於テ会議ヲ終了シ左ノ一般的声明ヲ発セラレタリ

各軍事使節ハ日本国ニ対スル将来ノ軍事行動ヲ協定セリ
三大同盟国ハ海路陸路及空路ニ依リ其ノ野蛮ナル敵国ニ対シ仮借ナキ弾圧ヲ加フルノ決意ヲ表明セリ右弾圧ハ既ニ増大シツツアリ
三大同盟国ハ日本国ノ侵略ヲ制止シ且之ヲ罰スル為今次ノ戦争ヲ為シツツアルモノナリ右同盟国ハ自国ノ為ニ何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ス又領土拡張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ス
右同盟国ノ目的ハ日本国ヨリ千九百十四年ノ第一次世界戦争ノ開始以後ニ於テ日本国カ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト並ニ満洲、台湾及澎湖島ノ如キ日本国カ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ返還スルコトニ在リ
日本国ハ又暴力及貧慾ニ依リ日本国ノ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ駆逐セラルヘシ

前記三大国ハ朝鮮ノ人民ノ奴隷状態ニ留意シ軈テ朝鮮ヲ自由且独立ノモノタラシムルノ決意ヲ有ス
右ノ目的ヲ以テ右三同盟国ハ同盟諸国中日本国ト交戦中ナル諸国ト協調シ日本国ノ無条件降伏ヲ齎スニ必要ナル重大且長期ノ行動ヲ続行スヘシ
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/01/002_46/002_46tx.html

これは、米英中三国が日本の無条件降伏を対日方針として決めたもので、この方針は、1945年のポツダム宣言に継承される。このカイロ宣言において、日本が旧ドイツ領で第一次世界大戦以後統治していた太平洋諸島を放棄させ、日本の植民地であった朝鮮を独立させることとならんで、「満洲、台湾及澎湖島ノ如キ日本国カ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域」を中国に返還させることを定められた。ここで「満州、台湾及澎湖島の如き」といっていることに注目していきたい。以前、本ブログで、下関講和条約で明示的に割譲させられた台湾・澎湖諸島だけでなく、尖閣諸島も日清戦争で日本が獲得した領土として中国がみているということを指摘した。中国としては、このカイロ宣言の規定を、広い意味で日本に割譲させられた領土として位置づけているのだと思われる。

このカイロ宣言は、そもそも合意された文書自体が存在せず、署名もないので、公文書としての効力を疑う意見もある。ただ、前述したように、日本の無条件降伏を定めたポツダム宣言(1945年7月26日)にこの方針は継承された。ポツダム宣言には次の条項がある。

八、「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルヘク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルヘシ
http://www.ndl.go.jp/constitution/etc/j06.html

いうなれば、ポツダム宣言はカイロ宣言を追認したものとみることができる。ここで、習近平が、アメリカのバネッタ国防長官にカイロ宣言・ポツダム宣言を典拠にして尖閣諸島の領有の根拠としているのは、第二次世界大戦における対ファシズム戦線としての連合国の一員としての記憶を呼び起こさせようとしているのだといえる。

ただ、結果的にいえば、1951年のサンフランシスコ講和条約では、次のように決まった。

第二条

 (a) 日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。

 (b) 日本国は、台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。

 (c) 日本国は、千島列島並びに日本国が千九百五年九月五日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。

 (d) 日本国は、国際連盟の委任統治制度に関連するすべての権利、権原及び請求権を放棄し、且つ、以前に日本国の委任統治の下にあつた太平洋の諸島に信託統治制度を及ぼす千九百四十七年四月二日の国際連合安全保障理事会の行動を受諾する。

 (e) 日本国は、日本国民の活動に由来するか又は他に由来するかを問わず、南極地域のいずれの部分に対する権利若しくは権原又はいずれの部分に関する利益についても、すべての請求権を放棄する。

 (f) 日本国は、新南群島及び西沙群島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。

   第三条

 日本国は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/docs/19510908.T1J.html

基本的には、カイロ宣言にそった形で国境線が定められたといえる。ただ、この講和条約において、「台湾及び澎湖諸島」という限定された形で国境線がひかれ、沖縄については、小笠原諸島とともに、アメリカの信託統治のもとにおかれることになったことに注目しておきたい。沖縄には尖閣諸島も含められるとされ、1972年の沖縄復帰とともに日本政府が実効支配するもととなった。

この講和条約を交渉した講和会議には、当時の中華人民共和国も参加していない。また、台湾の中華民国も参加していない。講和条約について、日本国内では、米英などの資本主義諸国中心に講和条約を結ぶという単独講和論と、ソ連や中華人民共和国とも結ぶべきである全面講和論が対立していた。いわば、その当時の単独講和論の問題点が現在に引き継がれたかっこうになっている。当時、中華人民共和国も中華民国もどのような見解をもっていたかということを表明される機会もなく、いわば中国の合意ぬきで講和条約は結ばれ、国境線が確定されていったのである。そして、中華人民共和国によれば、沖縄の日本復帰が日米で合意された1971年に日本に対して尖閣諸島の帰属について異議申し立てをしたということになるといえる。そして、これは、アメリカ中心で再編成された東アジアの政治秩序への異議申し立てにもなっているといえる。

このように、習近平がバネッタ国防長官に「カイロ宣言」と「ポツダム宣言」を出して尖閣諸島の問題を語っていることを説明することができる。ここで表明されていることは、単に尖閣諸島の帰属の問題というだけでなく、日清戦争、アジア侵略、ファシズム陣営への参加、第二次世界大戦、無条件降伏、サンフランシスコ講和条約、沖縄復帰という、日本の近現代史総体を含めた「歴史問題」が、ここで問われているということなのである。

帰属の根拠については、私自身としては中心的に問題にはしないつもりである。中国はさまざまな国境紛争をかかえていることは事実である。日本もまた、竹島/独島や北方領土などの国境紛争を有している。そこには、さまざまな根拠がある。ただ、概していえば、前近代国家の領域概念と近代の国民国家の領域概念の違いがそれらの背景にあるといえる。そして、それらを解決するのはよくも悪くも「政治」ということになるだろう。

ただ、尖閣諸島ー竹島/独島にも共通していえるのだがー問題の背後にある「歴史問題」の深みということを理解しなければならないということである。その意味で、朝日新聞その他の日本の新聞が、習近平が「カイロ宣言」や「ポツダム宣言」を根拠にしていること自体を報道しなかったことは、問題性を少なからずはらんでいると思う。彼らからすれば、「カイロ宣言」や「ポツダム宣言」は、歴史の遠い物語かもしれない。しかし、現在の戦後世界は、多かれ少なかれ、「カイロ宣言」「ポツダム宣言」の枠組みで動いている。最早、そのことへの想像力が働かせることができず、現状の尖閣諸島が日本に領有するという「国益」にそぐわないと判断して報道をさけているといえる。

そのことがどのような結果をもたらすのか。例えば、韓国の朝鮮日報は、9月20日にこのように報道している。ほとんど、新華社通信のままだといえるだろう。

習副主席は「日本のこうした行動は、カイロ宣言やポツダム宣言の国際法的効力に公然と疑問を投げ掛けるもので、第2次世界大戦以降に樹立された戦後秩序に対する挑戦。国際社会は、反ファシズム戦争勝利の成果を否定しようとするこうした日本の企てを決して容認しないだろう」とし、さらに「日本は中国の領土主権を害する時代錯誤的言動を直ちに中断しなければならない」と強調した。
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2012/09/20/2012092000611.html

そして、韓国は「歴史問題」での中国に接近ということになった。このことを産經新聞が9月25日に報道している。

中韓が対日圧力でタッグ 領土に歴史問題絡め協調 外相会談
2012.9.25 11:39 (1/2ページ)[韓国]
 【ニューヨーク=黒沢潤】国連総会に出席するため訪米中の中国の楊潔●(=簾の广を厂に、兼を虎に)外相と、韓国の金星煥外交通商相は24日、ニューヨークで会談した。韓国の聯合ニュースなどによると、金外交通商相は会談後、「国連の場で正しい歴史を広めていく必要性で一致した」と語り、歴史問題とからめて領土問題で日本に共同で圧力をかける意向を示した。

 中国はこれまで、沖縄県・尖閣諸島の領有権について、歴史的な正当性を国際社会に訴えていく姿勢を示していた。楊外相は同日の会談で、「関係国が正しい歴史認識を持っていなければ、北東アジアの秩序は挑戦を受ける」と述べるなど、名指しこそ避けながらも日本を批判したという。

 韓国も、日本と竹島の領有権、慰安婦問題をめぐって対立しており、国連の場で共闘することで、双方の立場を強固にしようという狙いがあるとみられる。

 野田佳彦首相が26日、国連総会の一般討論演説で領土問題に言及するのに続き、楊外相は27日に尖閣諸島問題、金外交通商相も28日に竹島、慰安婦問題に言及する見通しだ。中韓両国とも野田首相の演説次第では強硬な姿勢を打ち出し、日本との対立が一段と悪化する恐れもある。
http://sankei.jp.msn.com/world/news/120925/chn12092511390008-n1.htm

ある意味で、過度に歴史問題を意識しないということも必要ではある。しかし、現在の朝日新聞などの論調は、いわば「歴史問題」を欠落させた報道を行い、それを強く意識している人びとがアジアにはいるということを報じない。そのことは、日本の官民の対応を、よりアジアの人びとの神経を配慮しないものにおいやっているといえるのだと思う。それは、より事態を悪化させていくことになっていくのである。その意味で、今回の朝日新聞などの責任は大きいのである。

ただ、このような、アジア侵略などについての「歴史問題」の欠落は、朝日新聞などのマスコミだけには限られないことも忘れてはならない。

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