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Posts Tagged ‘笠原太吉’

さて、1960年代において、福島県知事や双葉郡選出の山村基県議らの原発誘致に対する積極的な発言をみてきた。福島県議会において、多数をしめていた自民党の県議たちは、どうであったのであろうか。すでに、このブログで述べたが、1958年3月14日の福島県議会で自民党所属県議である大井川正巳は、常磐地方への原発誘致を提起した。たぶんに、当時の佐藤善一郎知事が原発誘致方針を確立することに、この提起がなにがしかの影響を与えたと思われる。しかし、その後、しばらく、自民党県議たちは、原発問題について目立った発言はしていない。

しかし、1963年4月の県議選で、双葉郡選出議員として山村基にかわって笠原太吉が選出されてから状況が異なってきた。笠原は双葉町出身の自民党県議であった。前のブログでふれた同じく双葉町出身である岩本忠夫の競争相手であった。いや、岩本は1971~1975年の間しか県議をしておらず、岩本が県議だった時期を除いて、笠原は1963~1987年の間県議をつとめているのであり、むしろ、岩本にとって「大きな壁」であったといえる。とりあえずは、「政敵」といってよいだろう。

笠原太吉は、積極的に原発問題をとりあげた。1964年3月17日の福島県議会で、笠原太吉は、原発について、「次に、十五日ですか、新聞紙上に突如として双葉郡下に原子力発電所が設置されたやの用地取得に関する県開発公社の計画が発表になっております」と述べ、この際、原発誘致についての東電との従来の交渉経過や、今後の方針について発表すべきだと主張した。さらに、笠原は、このようにいうのである。

なおあわせて、電源開発そのものより、先ほど申し上げました只見川の電源開発は、いわゆる電気水利使用料だとか資産税というだけにその恩典がある。ここに原子力発電所ができれば、その経済効果、これに関連する産業の誘致が問題でございます。そのためには、どうしても水資源の開発をはからなければならない。百万キロの発電所をただ一ヵ所につくるということになりますと、いま常磐線の電化あるいは国道六号線の完全舗装といった中に、残された双葉の開発は、おそらくこれが中心として展開するものと私は考えます。したがって、この関連産業誘致に対する水資源の確保の構想並びに今後、双葉、大熊を中心とした、少なくとも富岡町、大熊町、双葉町。浪江というものを包含した、いわゆる産業構造というものを描いた都市計画の調査に入るべきだと思うが、県にその用意があるかどうかをお尋ねをいたしておくわけでございます。

笠原は、この発言の前に、奥只見の電源開発は産業誘致を目的としたものであったけれど、結局は使用料・固定資産税が入ってくるにすぎない、このために移転を余儀なくされている人びとの現在の生活状況はどうなっているのかと疑問をなげかけている。笠原は、原発はその轍を踏んではならないとし、産業誘致、水資源開発、鉄道・道路などの交通インフラの整備、都市計画などの計画策定が必要であるとしているのである。笠原にとっても、原発は、ただ電力供給の見返りに金銭が入ってくるものではなく、それを起爆剤とした双葉郡地域の総合開発につながっていくべきものなのであった。

笠原の登場以降、自民党県議たちも、原発誘致に積極的に発言することが増えてくるようになった。例えば、1964年12月12日の福島県議会において、一般質問のトップバッターとして、須賀川市選出の平栗欣一が「自由民主党を代表いたしまして」質問しているが、その中で、短いながらも福島第一原発建設についてふれている。平栗は、原発建設を「本県の開発の上に一大福音がもたらされる」と表現している。その上で、受け入れ態勢は万全を期さなくてならないとし、県もあたう限りの協力をすべきであるのだが、実際の建設計画はどうなっているのかと質問した。この後、1960年代半ばの福島県議会では、定例会の冒頭の自民党議員(双葉郡選出とは限らない)の質問で、県知事に原発建設計画の進捗状況を質問し、知事が答えることで進捗状況を公表するというようなやり取りがかなり続くことになる。

笠原太吉は、原発建設を契機とする双葉郡開発構想を、さらに福島県議会でよく述べている。1965年7月14日の福島県議会において、笠原は、原発問題について、かなり長い間、論じている。笠原によれば、原子力発電所の発生電力は、福島県内の火力・水力発電所を合算したそれに匹敵するものであり、「世紀の大事業」であるとした。また、県開発公社が、町当局・町議会の協力を得て一人の反対者もなく短い期間で用地買収を完了してことにつき、「双葉郡民が県を信頼し、知事の手腕に全幅の信頼をおき、土地買収に協力したたまもの」と評価した。そして、彼は、短期間で土地買収が達成されたことについて、このように言っている。

その根本的理由は、双葉郡民がこの原子力発電所の将来に期待をして、すみやかに双葉郡の後進性を脱却せんとする悲願達成の熱望がこの結果をもたらしたものと私は信じておるわけでございます。したがって、この発電所の完成の暁には、本県の発展はもちろん、わが国経済の発展に偉大なる貢献をするものと信じて疑わないのでございます。したがって、東京電力におきましても、県におきましても、当地方の地域住民の福祉向上のために、最大の努力をいたすべきものと考えておるのでございます。

そして、双葉郡の発展のため、町村合併を促進させ、双葉地方の地域開発計画構想を樹立し、水資源確保ー端的にいえばダム建設ーをはかるべきと主張したのである。自治体統合も含んだ、総合的な双葉郡の開発を原発建設を契機に行うべきというのが笠原の考えであったといえる。これは、同時期に県議会で表明していた、佐藤善一郎、木村守江の原発誘致に向けた見解と相通ずるところがあったいいえよう。笠原の考えは、全体として双葉郡地域総体の開発を期待しており、原発マネーのみをあてにしていなかったことについて、ここでも指摘しておくことにする。

このような笠原の質問に対し、当時の知事であった木村守江は、1959年頃から佐藤前知事をはじめとして熱心に誘致運動をしてきた成果として原発が建設されるのであると評価し、原発建設計画が遅れたのは原発から発生する電力が採算がとれるかいなかの問題があったためだが、明年(1966年)から建設に着手するのは喜びにたえないと述べた。その上で、笠原の提起した町村合併や水資源確保に賛意を示したのであった。

その後の県議会でも、笠原は熱心に原発建設問題をとりあげていく。ある意味では、知事の原発誘致運動を県議会内部で下支えしたものということができるのである。

原発反対派の県議岩本忠夫が県議会に登場するためには、同じ双葉町出身で熱心に原発誘致を求めていた笠原太吉に打ち克っていかねばならなかったのである。

さて、同時期の社会党県議たちは、どのように行動していたのであろうか。それについては、今後みていきたい。

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