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Posts Tagged ‘科学’

最近、必要があって、環境関係の書籍を乱読している。その中で、最も感銘深かったのは、原著が1962年に出版されたレイチェル・カーソンの『沈黙の春』(青木簗一訳、新潮社、2001年)であった。レイチェル・カーソンは、本書執筆中に癌を発病し、1964年に亡くなっているので、事実上彼女の遺著でもある。

『沈黙の春』の内容について、ごく簡単にまとめれば、第二次世界大戦後において顕著となった、DDTなどをはじめとした殺虫剤・除草剤などの農薬を飛行機などを利用して大規模に散布することについて、それは、ターゲットとなった害虫や雑草だけでなく、無関係な昆虫・魚類・哺乳類・鳥類・魚類・甲殻類や一般の植物をも「みな殺し」にして生態系を破壊するものであり、その影響は人間の身体にも及ぶのであって、他方で、ターゲットとなった害虫や雑草を根絶することはできないと指摘しているものである。よく、『沈黙の春』について農薬全面禁止など「反科学技術的」な主張をしたものといわれることがあるが、カーソン自身が「害虫などたいしたことはない、昆虫防除の必要などない、と言うつもりはない。私がむしろ言いたいのは、コントロールは、現実から遊離してはならない、ということ。そして、昆虫といっしょに私たちも滅んでしまうような、そんな愚かなことはやめよーこう私は言いたいのだ。」(本書p26)、「化学合成殺虫剤の使用は厳禁だ、などと言うつもりはない。毒のある、生物学的に悪影響を及ぼす化学薬品を、だれそれかまわずやたら使わせているのはよくない、と言いたいのだ。」(本書p30)というように、殺虫剤一般の使用を禁止してはいない。彼女は、農薬散布よりも効果ある方法として、害虫に寄生・捕食する生物の導入や、放射線・化学薬品その他で不妊化した昆虫を放つことなどを提唱しているが、それらもまた科学技術の産物である。

このように、彼女の主張は「科学」的なものである。ただ、一方で、倫理的なものでもある。彼女は、マメコガネ根絶のために行われたアメリカ・イリノイ州などでの農薬散布について叙述し、次のように言っている

 

イリノイ州東部のスプレーのような出来事は、自然科学だけではなく、また道徳の問題を提起している。文明国といわれながら、生命ある、自然に向って残忍な戦いをいどむ。でも自分自身はきずつかずにすむだろうか。文明国と呼ばれる権利を失わずにすむだろうか。
 イリノイ州で使った殺虫剤は、相手かまわずみな殺しにする。ある一種類だけを殺したいと思っても、不可能なのである。だが、なぜまたこうした殺虫剤を使うのかといえば、よくきくから、劇薬だからなのである。これにふれる生物は、ことごとく中毒してしまう。飼猫、牛、野原のウサギ、空高くまいあがり、さえずるハマヒバリ、などみんな。でも、いったいこの動物のうちどれが私たちに害をあたえるというのだろうか。むしろ、こうした動物たちがいればこそ、私たちの生活は豊かになる。だが、人間がかれらにむくいるものは死だ。苦しみぬかせたあげく、殺す。…生命あるものをこんなにひどい目にあわす行為を黙認しておきながら、人間として胸の張れるものはどこにいるのであろう?(本書pp120-121)

本書では、それぞれの農薬、そして、それらが大規模に散布された結果としての生態系の破壊、さらには、散布された農薬が人間の身体を害し、遺伝的な影響を与えていくことが科学的に叙述されている。そして、その科学を前提にして、このような問題を放置していてよいのだろうかという、倫理的な課題が提起されている。多くの生物は、結果まで考えて生きているわけではない。人間は、ある種の結果を想定して行為することによって生きている。自らの営為による生態系の破壊、人類の破滅が科学的に想定された場合、それを避けるということは、人間の倫理的な責任ということができよう。その意味で、本書は、一般化するならば、科学を追求した結果として人間の倫理的な問題が問われていくことを示した書といえるのである。

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先週のことだが、6月27日(土)、下記のようなシンポジウムが早稲田大学で開催された。

【タイトル】歴史認識問題と国際社会:「日本の歴史家を支持する声明」が意味するもの
【日 時】 6月27日(土) / 14:00-17:00
【会 場】 早稲田キャンパス11号館501教室
【講演者】 ジョルダン・サンド(ジョージタウン大学 教授)
       ”歴史への感受性を復権させるために-政治と歴史のはざまで”
      浅野 豊美(早稲田大学政治経済学術院 教授)
       ”村山談話以来の歴史問題の軌跡-脱政治化の可能性をめぐって”

このシンポジウムのテーマは、2015年5月5日にアメリカを中心とした世界の日本研究者が出した「日本の歴史家を支持する声明」の署名者の一人であるジョルダン・サンド氏と、その翻訳者である浅野豊美氏をよんで、この声明について議論するということであった。「日本の歴史家を支持する声明」は、2014年10月15日に日本の歴史学会の一つである歴史学研究会が発表した「声明 政府首脳と一部マスメディアによる日本軍「慰安婦」問題についての不当な見解を批判する」を念頭におき、日本政府などが押し進めようとしている日本軍「慰安婦」問題の矮小化・否認に対抗する日本の歴史家たちを支持するというというものであった。この声明、さらに歴史学研究会の声明は、本記事の末尾に掲載するので参照してほしい。

このシンポジウムにきて注目したことは、慰安婦問題を否認しようとする人びとがそれなりに多く参加し、活発に発言したことである。特に、いわゆる「自由主義史観」の提唱者で「新しい歴史教科書を作る会」(保守系の歴史教科書をつくることを目的にしている)を創設したメンバーである藤岡信勝氏が参加したことには驚いた。サンド氏・浅野氏の報告のあと、1時間ぐらい討論の時間が設けられていたが、半分以上は、慰安婦問題を否認しようとする人びとが我勝ちに議論していた。今後、このような会があるたびに、こういう状況を覚悟しなければならないと思うと、頭がクラクラしてきた。ただ、他方、日常的に彼らのような人びとに会うことはないので、そういう点では刺激的だった。メモなどとっていないのだが、彼らの議論から私個人が印象づけられたことを、ここで述べておこう。

まず、第一に感じたことは、とにかく、彼らは「事実」にこだわるのだなということであった。この声明とは別に、「マグローヒルの教科書に関する米歴史学者の声明」というものが3月1日に出されている。この声明は、この高校歴史教科書の慰安婦問題についての記述について日本の外務省が修正を要求したことに抗議するというものである。「日本の歴史家を支持する声明」とは直接関連ないのだが、藤岡氏も含めて、彼らは執拗に、その高校教科書が「事実」に基づいていないことを指摘していた。

このシンポジウムの中で、サンド氏は「歴史学は解釈の学問、単なる事実の積み重ねではない。解釈は一方では自分の倫理観全体を動員し、他方では大きな歴史的文脈の理解を動員する」(レジュメ)と主張した。しかし、こういう主張に対して、理科系研究者を自認する人から、「事実」ではなく「倫理」をもちこむ点でアカデミックサイエンスではなく、ポリティカルサイエンスだと軽蔑する発言がなされた。執拗に歴史叙述における「事実」にこだわる姿勢とあわせて考えると、彼らは、自分自身を「事実に依拠する」科学者と自認していると考えられる。

とはいえ、たぶん、大体の歴史研究者は、サンド氏の「歴史学は解釈の学問、単なる事実の積み重ねではない。解釈は一方では自分の倫理観全体を動員し、他方では大きな歴史的文脈の理解を動員する」ということに賛意を示すだろう。このように考えてみると、彼らの主張は、慰安婦・軍国主義というだけではなく、歴史学総体への批判になっているのである。そして、裏返しの「実証主義」を道具として、彼らは「知的優位」を誇っているといえる。

例えば、「慰安婦」の史料は、それこそ断片的にしか残っていない。通常は、断片的な史料を事例にして、解釈によって全体を展望しようとするだろう。しかし、彼らは、断片的な史料は断片的なままでとどめることが「事実」に忠実な科学的振る舞いだというのであろう。このように考えれば、例えば、慰安婦問題については、どのような史料が出てきたとしても、それは部分的な問題に過ぎないということになる。個々の慰安婦がどれほどの苦難をあじわっても、それは、個々の慰安婦とそれにかかわった「個人」の問題でしかないということになる。それは、南京虐殺でも日米開戦過程でも同じだ。断片的な史料にかかわる「小さな物語」だけが「事実」であるということになる

とはいえ、断片しか残らない史料を前提として、「事実」のみに固執するならば、広大な不可知の領域が現出するだけのはずである。「慰安婦」問題については、史料から描けるイメージを解釈によって慰安婦一般に援用できないのであれば、慰安婦問題について、だれも発話できないはずである。そうなると、慰安婦の待遇については、史料から描けるよりも、よかったかもしれないし、悪かったのかもしれない。この二つは不可知であるがゆえに等価なのである。

この広大な不可知の領域をどのように把握するのか。そこにおいて「日本人として生きてきた」という感覚が重要になってくるのだと思う。このシンポジウムの中で、ある年長者が「自分は戦争も体験し、学生時代にはマルクス主義にもはまっていた。しかし、長く生きてきて、やはり日本はいい国だと思う」などと発言した。個人的に飲み屋でしみじみと語り合うならば、こういうことも話すだろうが、私の感覚では、通常シンポジウムで話すようなことではないと思ってしまう。しかし、よくよく考えてみると、「日本人として生きてきた」という感覚でもないと、「事実」しか対象としない「歴史」をまとめることができないという思惟構造になっているような気がするのである。現実には「日本人として生きてきた」という感覚を基準にして過去の事実を把握し解釈しているのだが、たぶん、そう意識はされていないのだろう。「日本人として生きてきた」という感覚は、すべての解釈理論に先行して、アプリオリにあるものとして意識されていると考えられる。

「事実」にしたがって、歴史に加えられた捏造・歪曲を排除するという「科学」を実践すれば、元々あった「日本人として生きてきた」という感覚を再認識することができるというのが、彼らの論理なのではなかろうか。換言すれば、「実証科学」を実践することによって、そこに「日本人」の「真善美」の世界が現出するということになるのではなかろうか。もちろん、これは、いまだ「実証」できないことであるが、「仮説」としては考えられるのである。

日本の歴史家を支持する声明(2015年5月5日)

下記に署名した日本研究者は、日本の多くの勇気ある歴史家が、アジアでの第二次世界大戦に対する正確で公正な歴史を求めていることに対し、心からの賛意を表明するものであります。私たちの多くにとって、日本は研究の対象であるのみならず、第二の故郷でもあります。この声明は、日本と東アジアの歴史をいかに研究し、いかに記憶していくべきなのかについて、われわれが共有する関心から発せられたものです。
また、この声明は戦後七〇年という重要な記念の年にあたり、日本とその隣国のあいだに七〇年間守られてきた平和を祝うためのものでもあります。戦後日本が守ってきた民主主義、自衛隊への文民統制、警察権の節度ある運用と、政治的な寛容さは、日本が科学に貢献し他国に寛大な援助を行ってきたことと合わせ、全てが世界の祝福に値するものです。
しかし、これらの成果が世界から祝福を受けるにあたっては、障害となるものがあることを認めざるをえません。それは歴史解釈の問題であります。その中でも、争いごとの原因となっている最も深刻な問題のひとつに、い
わゆる「慰安婦」制度の問題があります。この問題は、日本だけでなく、韓国と中国の民族主義的な暴言によっても、あまりにゆがめられてきました。
そのために、政治家やジャーナリストのみならず、多くの研究者もまた、歴史学的な考察の究極の目的であるべき、人間と社会を支える基本的な条件を理解し、その向上にたえず努めるということを見失ってしまっているかのようです。
元「慰安婦」の被害者としての苦しみがその国の民族主義的な目的のために利用されるとすれば、それは問題の国際的解決をより難しくするのみならず、被害者自身の尊厳をさらに侮辱することにもなります。しかし、同時に、彼女たちの身に起こったことを否定したり、過小なものとして無視したりすることも、また受け入れることはできません。二〇世紀に繰り広げられた数々の戦時における性的暴力と軍隊にまつわる売春のなかでも、「慰安婦」制度はその規模の大きさと、軍隊による組織的な管理が行われたという点において、そして日本の植民地と占領地から、貧しく弱い立場にいた若い女性を搾取したという点において、特筆すべきものであります。
「正しい歴史」への簡単な道はありません。日本帝国の軍関係資料のかなりの部分は破棄されましたし、各地から女性を調達した業者の行動はそもそも記録されていなかったかもしれません。しかし、女性の移送と「慰安所」の管理に対する日本軍の関与を明らかにする資料は歴史家によって相当発掘されていますし、被害者の証言にも重要な証拠が含まれています。確かに彼女たちの証言はさまざまで、記憶もそれ自体は一貫性をもっていません。しかしその証言は全体として心に訴えるものであり、また元兵士その他の証言だけでなく、公的資料によっても裏付けられています。
「慰安婦」の正確な数について、歴史家の意見は分かれていますが、恐らく、永久に正確な数字が確定されることはないでしょう。確かに、信用できる被害者数を見積もることも重要です。しかし、最終的に何万人であろうと何十万人であろうと、いかなる数にその判断が落ち着こうとも、日本帝国とその戦場となった地域において、女性たちがその尊厳を奪われたという歴史の事実を変えることはできません。
歴史家の中には、日本軍が直接関与していた度合いについて、女性が「強制的」に「慰安婦」になったのかどうかという問題について、異論を唱える方もいます。しかし、大勢の女性が自己の意思に反して拘束され、恐ろしい暴力にさらされたことは、既に資料と証言が明らかにしている通りです。特定の用語に焦点をあてて狭い法律的議論を重ねることや、被害者の証言に反論するためにきわめて限定された資料にこだわることは、被害者が被った残忍な行為から目を背け、彼女たちを搾取した非人道的制度を取り巻く、より広い文脈を無視することにほかなりません。
日本の研究者・同僚と同じように、私たちも過去のすべての痕跡を慎重に天秤に掛けて、歴史的文脈の中でそれに評価を下すことのみが、公正な歴史を生むと信じています。この種の作業は、民族やジェンダーによる偏見に染められてはならず、政府による操作や検閲、そして個人的脅迫からも自由でなければなりません。私たちは歴史研究の自由を守ります。そして、すべての国の政府がそれを尊重するよう呼びかけます。
多くの国にとって、過去の不正義を認めるのは、未だに難しいことです。第二次世界大戦中に抑留されたアメリカの日系人に対して、アメリカ合衆国政府が賠償を実行するまでに四〇年以上がかかりました。アフリカ系アメリカ人への平等が奴隷制廃止によって約束されたにもかかわらず、それが実際の法律に反映されるまでには、さらに一世紀を待たねばなりませんでした。人種差別の問題は今もアメリカ社会に深く巣くっています。米国、ヨーロッパ諸国、日本を含めた、十九・二〇世紀の帝国列強の中で、帝国にまつわる人種差別、植民地主義と戦争、そしてそれらが世界中の無数の市民に与えた苦しみに対して、十分に取り組んだといえる国は、まだどこにもありません。
今日の日本は、最も弱い立場の人を含め、あらゆる個人の命と権利を価値あるものとして認めています。今の日本政府にとって、海外であれ国内であれ、第二次世界大戦中の「慰安所」のように、制度として女性を搾取するような
ことは、許容されるはずがないでしょう。その当時においてさえ、政府の役人の中には、倫理的な理由からこれに抗議した人がいたことも事実です。しかし、戦時体制のもとにあって、個人は国のために絶対的な犠牲を捧げることが要求され、他のアジア諸国民のみならず日本人自身も多大な苦しみを被りました。だれも二度とそのような状況を経験するべきではありません。
今年は、日本政府が言葉と行動において、過去の植民地支配と戦時における侵略の問題に立ち向かい、その指導力を見せる絶好の機会です。四月のアメリカ議会演説において、安倍首相は、人権という普遍的価値、人間の安全保障の重要性、そして他国に与えた苦しみを直視する必要性について話しました。私たちはこうした気持ちを賞賛し、その一つ一つに基づいて大胆に行動することを首相に期待してやみません。
過去の過ちを認めるプロセスは民主主義社会を強化し、国と国のあいだの協力関係を養います。「慰安婦」問題の中核には女性の権利と尊厳があり、その解決は日本、東アジア、そして世界における男女同権に向けた歴史的な一歩となることでしょう。
私たちの教室では、日本、韓国、中国他の国からの学生が、この難しい問題について、互いに敬意を払いながら誠実に話し合っています。彼らの世代は、私たちが残す過去の記録と歩むほかないよう運命づけられています。性暴力と人身売買のない世界を彼らが築き上げるために、そしてアジアにおける平和と友好を進めるために、過去の過ちについて可能な限り全体的で、でき得る限り偏見なき清算を、この時代の成果として共に残そうではありませんか。
署名者一覧(名字アルファベット順)
ダニエル・オードリッジ(パデュー大学教授)
ジェフリー ・アレクサンダー(ウィスコンシン大学パークサイド校准教授)
アン・アリソン(デューク大学教授)
マーニー・アンダーソン (スミス大学准教授)
E・テイラー・アトキンズ(北イリノイ大学教授 )
ポール・バークレー(ラファエット大学准教授)
ジャン・バーズレイ(ノースカロライナ大学チャペルヒル校准教授)
ジェームズ•R・バーソロミュー (オハイオ州立大学教授)
ブレット・ド・バリー(コーネル大学教授)
マイケル・バスケット(カンザス大学准教授)
アラン・バウムラー(ペンシルバニア・インディアナ大学教授)
アレキサンダー・ベイ(チャップマン大学准教授)
テオドル・ベスター(ハーバード大学教授)
ビクトリア・ベスター(北米日本研究資料調整協議会専務理事)
ダビンダー・ボーミック(ワシントン大学准教授)
ハーバート・ビックス(ニューヨーク州立大学ビンガムトン校名誉教授)
ダニエル・ボツマン(イェール大学教授)
マイケル・ボーダッシュ(シカゴ大学教授)
トマス・バークマン(ニューヨーク州立大学バッファロー校名誉教授)
スーザン・L・バーンズ(シカゴ大学准教授)
エリック・カズディン(トロント大学教授)
パークス・コブル(ネブラスカ大学リンカーン校教授)
ハルコ・タヤ・クック(ウイリアム・パターソン大学講師)
セオドア・クック(ウイリアム・パターソン大学教授)
ブルース・カミングス(シカゴ大学教授)
カタルジナ・シュエルトカ(ライデン大学教授)
チャロ・ディエチェベリー(ウィスコンシン大学マディソン校准教授)
エリック・ディンモア(ハンプデン・シドニー大学准教授)
ルシア・ドルセ(ロンドン大学准教授)
ロナルド・P・ドーア(ロンドン・スクール・オブ・エコノミックス名誉フ
ェロー)
ジョン・W・ダワー(マサチューセッツ工科大学名誉教授)
マーク・ドリスコル(ノースカロライナ大学チャペルヒル校教授)
プラセンジット・ドアラ(シンガポール国立大学教授)
アレクシス・ダデン(コネチカット大学教授)
マーティン・デューゼンベリ(チューリッヒ大学教授)
ピーター・ドウス(スタンフォード大学名誉教授)
スティーブ・エリクソン(ダートマス大学准教授)
エリサ・フェイソン(オクラホマ大学准教授)
ノーマ・フィールド(シカゴ大学名誉教授)
マイルズ・フレッチャー(ノースカロライナ大学チャペルヒル校教授)
ペトリス・フラワーズ(ハワイ大学准教授)
ジョシュア・A・フォーゲル(ヨーク大学教授)
セーラ・フレドリック(ボストン大学准教授)
デニス・フロスト(カラマズー大学准教授)
サビーネ・フリューシュトゥック(カリフォルニア大学サンタバーバラ校教
授)
ジェームス・フジイ(カリフォルニア大学アーバイン校准教授)
タカシ・フジタニ(トロント大学教授)
シェルドン ・M・ ガ ロン(プリンストン大学教授)
ティモシー・S・ジョージ(ロードアイランド大学教授)
クリストファー・ガータイス(ロンドン大学准教授)
キャロル・グラック(コロンビア大学教授)
アンドルー・ゴードン(ハーバード大学教授)
ヘレン・ハーデーカー(ハーバード大学教授)
ハリー・ハルトゥニアン(ニューヨーク大学名誉教授)
長谷川毅(カリフォルニア大学サンタバーバラ校教授)
橋本明子(ピッツバーグ大学教授)
サリー・ヘイスティングズ(パデュー大学准教授)
トム・ヘイブンズ(ノースイースタン大学教授)
早尾健二(ボストンカレッジ准教授)
ローラ・ハイン(ノースウェスタン大学教授)
ロバート・ヘリヤー(ウェイクフォレスト大学准教授)
マンフレッド・ヘニングソン(ハワイ大学マノア校教授)
クリストファー・ヒル(ミシガン大学助教授)
平野克弥(カリフォルニア大学ロサンゼルス校准教授)
デビッド・ハウエル(ハーバード大学教授)
ダグラス・ハウランド(ウィスコンシン大学ミルウォーキー校教授)
ジェムス・ハフマン(ウイッテンバーグ大学名誉教授)
ジャネット・ハンター(ロンドン・スクール・オブ・エコノミックス教授)
入江昭(ハーバード大学名誉教授)
レベッカ・ジェニスン(京都精華大学教授)
ウィリアム・ジョンストン(ウェズリアン大学教授)
ジャン・ユンカーマン(ドキュメンタリー映画監督)
イクミ・カミニシ(タフツ大学准教授)
ケン・カワシマ(トロント大学准教授)
ウィリアム・W・ケリー(イェール大学教授)
ジェームス・ケテラー(シカゴ大学教授)
ケラー・キンブロー(コロラド大学ボルダー校准教授)
ミリアム・キングスバーグ(コロラド大学助教授)
ジェフ・キングストン(テンプル大学ジャパン教授)
ヴィキター・コシュマン(コーネル大学教授)
エミ・コヤマ(独立研究者)
エリス・クラウス(カリフォルニア大学サンディエゴ校名誉教授)
ヨーゼフ・クライナー(ボン大学名誉教授)
栗山茂久(ハーバード大学教授)
ピーター・カズニック(アメリカン大学教授)
トーマス・ラマール(マギル大学教授)
アンドルー・レビディス(ハーバード大学研究員)
イルセ・レンツ(ルール大学ボーフム名誉教授)
マーク・リンシカム(ホーリークロス大学准教授)
セップ・リンハルト(ウィーン大学名誉教授)
ユキオ・リピット(ハーバード大学教授)
アンガス・ロッキャー(ロンドン大学准教授)
スーザン・オルペット・ロング(ジョンキャロル大学教授)
ディビッド・ルーリー(コロンビア大学准教授)
ヴェラ・マッキー(ウーロンゴン大学教授)
ウォルフラム・マンツェンライター(ウィーン大学教授)
ウィリアム・マロッティ(カリフォルニア大学ロサンゼルス校准教授)
松阪慶久(ウェルズリー大学教授)
トレント・マクシー(アマースト大学准教授)
ジェームス・L・マクレーン(ブラウン大学教授)
ガビン・マコーマック(オーストラリア国立大学名誉教授)
メリッサ・マコーミック(ハーバード大学教授)
デイビッド・マクニール(上智大学講師、ジャーナリスト)
マーク・メッツラー(テキサス大学オースティン校教授)
イアン・J・ミラー(ハーバード大学教授)
ローラ・ミラー(ミズーリ大学セントルイス校教授)
ジャニス・ミムラ(ニューヨーク州立大学ストーニーブルック校准教授)
リチャード・マイニア(マサチューセッツ州立大学名誉教授)
中村美理(ウェズリアン大学准教授)
ユキ・ミヤモト(デポール大学准教授)
バーバラ・モロニー(サンタクララ大学教授)
文有美(スタンフォード大学准教授)
アーロン・ムーア(マンチェスター大学准教授)
テッサ・モーリス=スズキ(オーストラリア国立大学教授)
オーレリア・ジョージ・マルガン(ニューサウスウェールズ大学教授)
リチャード・タガート・マーフィー(筑波大学教授)
テツオ・ナジタ(シカゴ大学名誉教授)
ジョン・ネイスン(カリフォルニア大学サンタバーバラ校教授)
クリストファー・ネルソン(ノースカロライナ大学チャペルヒル校准教授)
サトコ・オカ・ノリマツ(『アジア太平洋ジャーナル:ジャパンフォーカス』
エディター)
マーク・ノーネス(ミシガン大学教授)
デビッド·桃原·オバミラー(グスタフ・アドルフ大学准教授)
尾竹永子(ウエズリアン大学特別講師、アーティスト)
サイモン・パートナー(デューク大学教授)
T・J・ペンペル(カリフォルニア大学バークレー校教授)
マシュー・ペニー(コンコルディア大学准教授)
サミュエル・ペリー(ブラウン大学准教授)
キャサリン・ フィップス(メンフィス大学准教授)
レスリー・ピンカス(ミシガン大学准教授)
モーガン・ピテルカ(ノースカロライナ大学チャペルヒル校准教授)
ジャネット・プール(トロント大学准教授)
ロジャー・パルバース(作家・翻訳家)
スティーブ・ラブソン(ブラウン大学名誉教授)
ファビオ・ランベッリ(カリフォルニア大学サンタバーバラ校教授)
マーク・ラビナ(エモリー大学教授)
シュテフィ・リヒター(ライプチヒ大学教授)
ルーク・ロバーツ(カリフォルニア大学サンタバーバラ校教授)
ジェニファー・ロバートソン(ミシガン大学教授)
ジェイ・ルービン(ハーバード大学名誉教授)
ケネス・ルオフ(ポートランド州立大学教授)
ジョルダン・サンド(ジョージタウン大学教授)
ウエスリー・佐々木・植村(ユタ州立大学准教授)
エレン・シャッツナイダー(ブランダイス大学准教授)
アンドレ・シュミット(トロント大学准教授)
アマンダ・C・シーマン(マサチューセッツ州立大学アマースト校准教授)
イーサン・セーガル(ミシガン州立大学准教授)
ブォルフガング·ザイフェルト(ハイデルベルク大学名誉教授)
マーク・セルデン(コーネル大学上級研究員)
フランツイスカ・セラフイン(ボストンカレッジ准教授)
さゆり・ガスリー・清水(ライス大学教授)
英子・丸子・シナワ(ウィリアムス大学准教授)
パトリシア・スイッペル(東洋英和女学院大学教授)
リチャード・スミスハースト(ピッツバーグ大学名誉教授)
ケリー・スミス(ブラウン大学准教授)
ダニエル・スナイダー(スタンフォード大学アジア太平洋研究センター副所
長)
M・ウイリアム・スティール(国際基督教大学教授)
ブリギッテ・シテーガ(ケンブリッジ大学准教授)
ステファン・タナカ(カリフォルニア大学サンディエゴ校教授)
アラン・タンスマン(カリフォルニア大学バークレー校教授)
セーラ・タール(ウィスコンシン大学マディソン校准教授)
マイケル・ティース(カリフォルニア大学ロサンゼルス校准教授)
マーク・ティルトン(パデュー大学准教授)
ジュリア・トマス(ノートルダム大学准教授)
ジョン・W・トリート(イェール大学名誉教授)
ヒトミ・トノムラ (ミシガン大学教授)
内田じゅん(スタンフォード大学准教授)
J・キース・ヴィンセント(ボストン大学准教授)
スティーブン・ブラストス(アイオワ大学教授)
エズラ・ヴォーゲル(ハーバード大学名誉教授)
クラウス・フォルマー(ミュンヘン大学教授)
アン・ウォルソール(カリフォルニア大学アーバイン校名誉教授)
マックス・ウォード(ミドルベリー大学助教授)
ローリー・ワット(ワシントン大学(セントルイス)準教授)
ジェニファー・ワイゼンフェルド(デューク大学教授)
マイケル・ワート(マルケット大学准教授)
カレン・ウイゲン(スタンフォード大学教授)
山口智美(モンタナ州立大学准教授)
山下サムエル秀雄(ポモナ大学教授)
ダーチン・ヤン(ジョージ・ワシントン大学准教授)
クリスティン•ヤノ(ハワイ州立大学マノア校教授)
マーシャ・ヨネモト(コロラド大学ボルダー校准教授)
米山リサ(トロント大学教授)
セオドア・ジュン・ユウ(ハワイ大学准教授)
吉田俊(西ミシガン大学教授)
ルイーズ・ヤング(ウィスコンシン大学マディソン校教授)
イヴ・ジマーマン(ウェルズリー大学准教授)
ラインハルト・ツェルナー(ボン大学教授)

この声明は、二〇一五年三月、シカゴで開催されたアジア研究協会(AAS)定期年次大会のなかの公開フォーラムと、その後にメール会議の形で行われた日本研究者コミュニティ内の広範な議論によって生まれたものです。ここに表明されている意見は、いかなる組織や機関を代表したものではなく、署名した個々の研究者の総意にすぎません。
https://networks.h-net.org/system/files/contributed-files/japan-scholars-statement-2015.5.4-jpn_0.pdf

声明 政府首脳と一部マスメディアによる日本軍「慰安婦」問題についての不当な見解を批判する

  2014年8月5日・6日、『朝日新聞』は「慰安婦問題を考える」という検証記事を掲載し、吉田清治氏の証言にもとづく日本軍「慰安婦」の強制連行関 連の記事を取り消した。一部の政治家やマスメディアの間では、この『朝日新聞』の記事取り消しによって、あたかも日本軍「慰安婦」の強制連行の事実が根拠 を失い、場合によっては、日本軍「慰安婦」に対する暴力の事実全般が否定されたかのような言動が相次いでいる。とりわけ、安倍晋三首相をはじめとする政府 の首脳からそうした主張がなされていることは、憂慮に堪えない。
  歴史学研究会は、昨年12月15日に、日本史研究会との合同シンポジウム「「慰安婦」問題を/から考える――軍事性暴力の世界史と日常世界」を開催す るなど、日本軍「慰安婦」問題について、歴史研究者の立場から検討を重ねてきた。そうした立場から、この間の「慰安婦」問題に関する不当な見解に対し、以 下の5つの問題を指摘したい。
  第一に、『朝日新聞』の「誤報」によって、「日本のイメージは大きく傷ついた。日本が国ぐるみで「性奴隷」にしたと、いわれなき中傷が世界で行われて いるのも事実だ」(10月3日の衆議院予算委員会)とする安倍首相の認識は、「慰安婦」の強制連行について、日本軍の関与を認めた河野談話を継承するとい う政策方針と矛盾している。また、すでに首相自身も認めているように、河野談話は吉田証言を根拠にして作成されたものでないことは明らかであり、今回の 『朝日新聞』の記事取り消しによって、河野談話の根拠が崩れたことにはならない。河野談話をかかげつつ、その実質を骨抜きにしようとする行為は、国内外の 人々を愚弄するものであり、加害の事実に真摯に向き合うことを求める東アジア諸国との緊張を、さらに高めるものと言わなければならない。
  第二に、吉田証言の真偽にかかわらず、日本軍の関与のもとに強制連行された「慰安婦」が存在したことは明らかである。吉田証言の内容については、 1990 年代の段階ですでに歴史研究者の間で矛盾が指摘されており、日本軍が関与した「慰安婦」の強制連行の事例については、同証言以外の史料に基づく研究が幅広 く進められてきた。ここでいう強制連行は、安倍首相の言う「家に乗り込んでいって強引に連れて行った」(2006年10月6日、衆議院予算委員会)ケース (①)に限定されるべきものではない。甘言や詐欺、脅迫、人身売買をともなう、本人の意思に反した連行(②)も含めて、強制連行と見なすべきである。①に ついては、インドネシアのスマランや中国の山西省における事例などがすでに明らかになっており、朝鮮半島でも被害者の証言が多数存在する。②については、 朝鮮半島をはじめ、広域にわたって行われたことが明らかになっており、その暴力性について疑問をはさむ余地はない。これらの研究成果に照らすなら、吉田証 言の内容の真偽にかかわらず、日本軍が「慰安婦」の強制連行に深く関与し、実行したことは、揺るぎない事実である。
  第三に、日本軍「慰安婦」問題で忘れてはならないのは、強制連行の事実だけではなく、「慰安婦」とされた女性たちが性奴隷として筆舌に尽くしがたい暴 力を受けたことである。近年の歴史研究では、動員過程の強制性のみならず、動員された後、居住・外出・廃業のいずれの自由も与えられず、性の相手を拒否す る自由も与えられていない、まさしく性奴隷の状態に置かれていたことが明らかにされている。「慰安婦」の動員過程の強制性が問題であることはもちろんであ るが、性奴隷として人権を蹂躙された事実が問題であることが、重ねて強調されなければならない。強制連行に関わる一証言の信憑性の否定によって、問題全体 が否定されるようなことは断じてあってはならない。
  第四に、近年の歴史研究で明らかになってきたのは、そうした日本軍「慰安婦」に対する直接的な暴力だけではなく、「慰安婦」制度と日常的な植民地支 配、差別構造との連関性である。性売買の契約に「合意」する場合があったとしても、その「合意」の背後にある不平等で不公正な構造の問題こそが問われなけ ればならない。日常的に階級差別や民族差別、ジェンダー不平等を再生産する政治的・社会的背景を抜きにして、直接的な暴力の有無のみに焦点を絞ることは、 問題の全体像から目を背けることに他ならない。
  第五に、一部のマスメディアによる『朝日新聞』記事の報じ方とその悪影響も看過できない。すなわち、「誤報」という点のみをことさらに強調した報道に よって、『朝日新聞』などへのバッシングが煽られ、一層拡大することとなった。そうした中で、「慰安婦」問題と関わる大学教員にも不当な攻撃が及んでい る。北星学園大学や帝塚山学院大学の事例に見られるように、個人への誹謗中傷はもとより、所属機関を脅迫して解雇させようとする暴挙が発生している。これ は明らかに学問の自由の侵害であり、断固として対抗すべきであることを強調したい。
  以上のように、日本軍「慰安婦」問題に関しての政府首脳や一部マスメディアの問題性は多岐にわたる。安倍首相は、「客観的な事実に基づく正しい歴史認 識が形成され、日本の取り組みが国際社会から正当な評価を受けることを求めていく」(2014年10月3日、衆議院予算委員会)としている。ここでいう 「客観的な事実」や「正しい歴史認識」を首相の見解のとおりに理解するならば、真相究明から目をそらしつづける日本政府の無責任な姿勢を、国際的に発信す る愚を犯すことになるであろう。また、何よりもこうした姿勢が、過酷な被害に遭った日本軍性奴隷制度の被害者の尊厳を、さらに蹂躙するものであることに注 意する必要がある。安倍政権に対し、過去の加害の事実と真摯に向き合い、被害者に対する誠実な対応をとることを求めるものである。

2014年10月15日
歴史学研究会委員会

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さて、前回のブログで、ドイツの社会学者ウルリヒ・ベックの『危険社会ー新しい近代への道』について部分的に紹介した。今回は、ベックの「危険」=「リスク」という概念について説明しておこう。

本書の翻訳者の一人である東廉は、本書の原題”RISIKOGESELLSCHAFT”の中の”Risiko”を英語の”Risk”にあたるものとしている。つまりは、『危険社会』とは「リスク社会」ということがいえるであろう。そして、東は、”Risk”を「誰かに何か(損害・不利益)を起こる可能性」としつつ、さらに「近代化と文明の発展に伴う危険」としている。(本書p.p462-463)

ベックによれば、現代社会における「危険」=「リスク」とは、近代化によって生み出された科学と産業の副産物としての環境破壊をさす。この環境破壊は、もちろん放射性物質から始まって、有害な工業廃棄物、農薬、大気汚染、酸性雨などが含まれている。このような科学と産業によって自然が作り替えられることによって、人びとの生活が危機に瀕している社会を「危険社会」とよんでいるのである。

しかしながら、ここから問題が発生する。環境破壊における「危険」=リスクは、少なくとも初期においては、目に見えるものではない。ベックは、このように言っている。

放射線や化学物質による汚染、食物汚染、文明病などといった新しいタイプの危険は多くの場合人間の知覚能力では直接には全く認識できない。それらは、しばしば被害者には見ることもできなければ感じとることもできない危険である。当人の存命中には全く気づかれず、子孫の代になってその弊害が顕著となる場合もある。この種の危険が一段と目立っている。いずれにせよ、危険を危険として、「視覚化」し認識するためには、理論、実験、測定器具などの科学的な「知覚器官」が必要である。(本書p.p35-36)

ある意味で、科学的な測定により、目に見えない放射性物質などを認識することが必要なのである。ベックは、それだけでは「危険」を承認することはできないとしている。まず、ベックは「危険であると言明するためには、事実だけでは十分ではない。それが近代的な工業生産方法の結果として生じた副産物であるという因果関係の確定が必要である」(本書p36)と述べている。さらに、ベックは、次のように主張している。

 

社会的に分離されている個々の現象の因果関係を決定しただけでは、危険であるというには十分ではない。身をもって危険を感じとるためには、安全性や信頼性が失われたという意味での規範的な見方が前提として必要である。危険が数値や数式の形で提示されても、その内容は基本的に個々人の規範的な見方次第で大きく違う。つまり生きるに値する生活への侵害が、数値や数式に圧縮され表現されているのである。そこで、危険の存在自体を信じることが必要となる。危険そのものは数値や数式の形では、身をもって感じることはできないからである。(本書p.p37-38)

そして、ベックは、次のように論じている。

そして、どのように生きたいのか、という古くて新しいテーマが浮上してくる。つまりわれわれが守らなくてはならない人間のうちの人間的なるものとは何か、自然のうちの自然なるものとは何なのかという問題といってよい。「破局的事件」の可能性をいろいろ語るということは、この種の近代化の進展を望まないという規範的な判断を、極端な形で述べることに他ならない。(本書p38)

いわば、危険ーリスクを承認するにあたっては、まずは測定し因果関係を確定するという意味での科学的認識とともに、そのような危険性に脅かされた生活は望まないという規範的価値観が必要であるとしているのである。

このように「危険」の認識には「科学」は不可欠である。しかし、実際に存在している「科学」は、放射性物質その他の有害な副産物を自ら生み出したものである。そこで、「科学的な合理性」と「社会的な合理性」の対立ということが生じてくる。このことをベックは、原子炉の問題を事例にして論じている。

危険についての科学的研究がこのように他分野の研究とかかわっている。この事実は、科学が合理性を独占しようとしている領域でいずれ明るみに出されよう。そしてそれは対立を引き起こすだろう。例えば、原子炉の安全性に関する研究は、事故を想定してはいるが、その研究対象を、数量化し表現することが可能なある特定の危険を推定することだけに限定している。そしてそこでは、推定された危険の規模は研究を開始した時点から既に技術的な処理能力に制約されてしまっている。これに対し、住民の大半や原発反対者が問題にするのは、大災害をもたらすかもしれない核エネルギーの潜在能力そのものである。目下事故の確率が極めて低いと考えられていても、一つの事故がすなわち破滅を意味すると考えられる場合には、その危険性は高すぎる。さらに、科学者が研究の対象としなかった危険の性質が大衆にとっては問題なのである。例えば、核兵器の拡散、人的なミスと安全性との矛盾、事故の影響の持続性、技術的決定の不可逆性などであり、これらはわれわれの子孫の生命をもてあそぶものである。言い換えるならばこうである。危険をめぐる討論のなかで浮き彫りにされるのは、文明に伴う危険に潜在する、科学的な合理性と社会的な合理性との対立なのである。(本書p.p40-41)

このように、「危険」=「リスク」を承認することは、複雑な問題を抱えている。「危険」=リスクは、近代の科学技術が生み出したものであるが、それを承認するためには「科学技術」によるしかない。しかし、そのことは、近代の科学技術の根本的基礎を疑うことになるのである。

なお、ベックの『危険社会』で環境破壊を扱った部分においては、科学技術が全面におかれて批判されているが、ベックは「危険を生産しておきながら、それを正しく認識できない大きな理由は、科学技術の合理性が『経済しか見ない単眼構造』にあるからである」(本書p94)としており、科学の背後にある経済もまた批判すべきものとしているといえるだろう。

この「科学的な合理性」と「社会的な合理性」の対立の諸相については、次回以降言及していきたい。

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