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愛宕山三角点(2011年1月4日撮影)

愛宕山三角点(2011年1月4日撮影)

さて、ここで、愛宕山の地理について、ちょっと説明しておこう。六本木や築地とちがってそれほど知られていない地域である。現在の住所でいえば、港区愛宕・虎の門地区となる。南が増上寺のある芝公園、北が霞ヶ関、西が六本木、東が新橋で、最寄駅は地下鉄日比谷線神谷町駅・都営地下鉄三田線御成門駅。

最大の特徴は、二十三区内では最も高い標高26mの愛宕山があるということ。この愛宕山の頂上に愛宕神社がある。この山は、南に続き、東京タワーまで高地になっている。

近世では、増上寺のある芝公園に続く、寺社が密集している地域であった。とりあえず、そういう地域だ。

まあ、愛宕地区の話も書くけれど、鬼子母神のお会式の話や築地・六本木の話も継続するので、お楽しみに。

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愛宕神社門前

愛宕神社門前

「出世の石段」掲示板

「出世の石段」掲示板

出世の石段を登るビジネスマンたち

出世の石段を登るビジネスマンたち

現代の市街地再開発において歴史はどのように扱われているかーそのことを森ビルが中心となって開発した港区の愛宕山地域を事例に検討することにして、本日(1月4日)撮影に行った。本日、愛宕山頂上の愛宕神社にいってみると様子がおかしい。確かに、この神社は1603年に徳川家康によって創建された神社で、標高26mの山で江戸市中の眺望地であり、由緒ある神社なのだが、普段は静まりかえっている。しかし、本日行くと朝早くから黒いスーツを着たビジネスマンらしき人々で境内があふれかえっている。なんだろう、仕事始めに近所のオフィスから参詣しにきたのだろうか。疑問に思いつつ、愛宕神社を後にして、その周辺地域の撮影に従事した。
十時頃、また愛宕神社の前を通りかかってみると、愛宕神社参道の石段に行列ができていた。ちょっとみていると、タクシーでわざわざ駆けつける人までいる。そんな人々から、「ここは出世階段らしいよ」という声がきこえた。
これは、いったいなんなんだろう。愛宕神社門前の幡をよくみてみると「出世勝運」と書いてある。また、石段の前には「出世の石段」という掲示板がかかげられている。なんというか、愛宕神社は、いわば出世の神様として崇敬を受け、「出世の石段」を登るビジネスマンが後を絶たない状態になっているようなのだ。
といっても、愛宕神社は本来火伏の神で、別に出世の神様ではなかった。「出世の石段」が有名になったのは、この石段を乗馬で登った曲垣平九郎の故事による。「寛永三馬術」という講談に出ていることだが、三代将軍家光の求めに応じて、四国丸亀藩の家臣曲垣平九郎が乗馬で石段を登って山上の梅を手折ってもどり、将軍に献上した。将軍に賞され、出世の糸口になったとのことである。この石段は斜度40度、馬で登るのは簡単ではない。
それにしても、この周囲は、青松寺などの寺院境内地を利用した森ビルの愛宕グリーンヒルズなど、それこそビジネスでの再開発がすすみ、たぶん再開発予定地として地上げされれたのであろう空地や駐車場が目立っている。ビジネスにとって、寺社などの歴史的遺産は、利用対象である。他方で、ビジネスマンは、自分の出世のことでは、仕事始めから、近世の歴史的故事にすがって、現世利益な「神頼み」をしている。仕事始めから神社に参詣しないで、年初から全力で仕事したほうがよいのではないかと思うけれど。時々、携帯電話でビジネスの話をしている人もいた。まあ、自らがかかえている欲望を前提に歴史的伝統を意識するという点は同じとはいえるのだけれど。それこそ、愛宕山地域を舞台として歴史と現在の関係性を今後みていくことにしたい。
なお、私個人でいえば、出世の石段は登らず、愛宕グリーンヒルズに設置されたエレベーターで愛宕山に登った。朝早いので、行列に並ぶ必要もなく参詣できた。しかし、これでは出世できないのかもしれない。出世したい方は、出世の石段を自分の足で登り、行列に並んで苦労して参詣したほうがよいのかもしれない。

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雑司ヶ谷大鳥神社(2010年12月10日撮影)

雑司ヶ谷大鳥神社(2010年12月10日撮影)

雑司ヶ谷鬼子母神は、神仏分離によって大きな変容を蒙った。近世の多くの神社は、修験(山伏)を含む仏教寺院が別当寺として管理するところが多かった。明治維新による神仏分離令により、そのような多くの神社では、仏教寺院による管理が廃止され、専門神職によって管理されるようになった。また、それまでの神社祭祀には仏教的儀礼が多く取り入れられていたが、新しく神道独自なものに切り替えられていった。
鬼子母神は、微妙であった。鬼子母神は雑司ヶ谷の産土神であり、本来祭礼も歩射と草薙という神事系のものであり、歩射は雑司ヶ谷村民の宮座によって運営されていた。しかし、鬼子母神は仏教の護法神であり、別当寺大行院の本寺である法明寺によって仏教色が強く植え付けられていた。そのため、鬼子母神は、神仏分離にあたって、仏教寺院として位置づけられるようになったのである。ここで、産土神としての鬼子母神は否定されたといえよう。
一方、鬼子母神境内社であった疫病除神である鷺大明神が鬼子母神門前の料亭に移築され、大鳥神社と改称された。その後、旧幕臣の矢島昌郁が自身の宅地を寄進し、現在地に移築された。この社が雑司ヶ谷の産土となっている。この神社の祭礼は9月の例祭と11月の酉の市であり、鬼子母神の祭礼は受け継いでいない。
参考:『豊島区史』(1951年)

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明治神宮外拝殿

2010年10月23日撮影

本日、明治神宮国際神道文化研究所主催の「明治神宮造営をめぐる人々ー近代神社における環境形成の転換点」というシンポジウムに参加した。報告は、青井哲人 氏「明治神宮創建から復興までー神社建築設計の系譜」、畔上直樹 氏「明治神宮内苑造営と「その後」ー近代林学・造園学の「鎮守の森」論」、藤田大誠氏 「近代神苑の展開と明治神宮内外苑の造営ー「公共空間」としての神社境内」 で、コメンテーターは山口輝臣氏であった。なかなか興味深かった。
いわば、明治神宮はモダン(近代)の神社モデルとなったということが全体のコンセプトになる。青井報告は、明治神宮は、神社建築のスタンダートになったとし、伊東忠太の進化論にもとづく新様式創出論が後退して「最も普通な」流造が採用される一方で、祭祀における機能的な空間創出をめざして、社殿の複合化がなされていくと論じた。これだけ聞いているとよくわからないかもしれないが、実際、明治神宮をみていると、回廊に囲まれ、拝殿も外拝殿と内拝殿の二カ所あり、思った以上に複雑な建築である。青井氏の聞き取りによると、このほうが、神社祭祀に都合がよいそうである。
畔上報告は、もともと庭園学において、鎮守の森とは杉や檜などの針葉樹林をイメージしていたが、都市において針葉樹の枯死に直面したため、常緑広葉樹林に転換せざるをえなかった、それを前提に、まさに後付けの論理として、鎮守の森=常緑広葉樹林(極相林)のイメージが植え付けられたと論じていた。
藤田報告は、神社の神苑が神宮外苑の建設により、公園的な公共空間のイメージに転換したと(まとめていえば)述べていた。山口氏は、明治神宮がなぜ東京で建設され、しかもなぜ東京色を脱しなくてはならなかったか、また、神社を議論するためには信仰の問題を考えなくてはならないなどとコメントしていた。
畔上氏は、この明治神宮における神社イメージの転換には、近代化=西欧化という動きによるきしみが背景にあると述べていた。明治神宮については、「過去」の創造という意味でも、東京の「現在」を語る意味でも、重要な課題であり、山口氏の『明治神宮の出現』(吉川弘文館)、青井氏の『植民地神社と帝国日本』(吉川弘文館)、畔上氏の『「村の鎮守」と戦前日本』(有志舎)などを読んでから、このブログでも論じていきたい。

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