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Posts Tagged ‘社会運動’

さて、前回は、『現代思想』10月臨時増刊号「総特集 安保法制を問う」に掲載されたSEALDs KANSAIの一員である大澤茉実の「SEALDsの周辺から 保守性のなかの革新性」という文章を引用して、SEALDsのような若い世代の人びとにおいては、一見「保守的」にみえる態度のなかに、現代社会が戦後日本社会と断絶しているという歴史認識があるのではないかと論じた。前回のブログでも述べたが、大澤は「原発事故による価値観の転換(既存の権威の失墜と社会運動の必要性・可能性の再発見)」としており、3.11が一つの分岐点であったと述べている。

この『現代思想』には、東京で活動しているSEALDsのメンバーの一人である芝田万奈が「絶望の国で闘う」という文章をよせている。彼女は冒頭から、3.11について、次のように述べている。

 

 テレビの画面からは伝わってこなかった震災の現実がそこにあった。2011年の夏、当時高校三年生だった私が母親の実家である宮城県の東松島を訪れた際に目の当たりにしたのは、何もかも破壊された人々の生活そのものだった。他人ごとじゃない。親戚の赤ちゃんが亡くなったことを私はフィクションとしか受け入れることができなかった。あまりにも残酷すぎる事実を前に、私は人生を、以前のように何も考えずに送ることができなくなった。生きることの意味を考えるたびに自分を見失い、過ぎ去っていく厖大な時間と情報を私は焦点の合わない目で見つめていた。

彼女は、翌2011年夏、福島県南相馬市小高を訪れた。小高の空気はとても穏やかだったそうだが、そこに所在した中華料理店は内外ともに壊れたまま放置されて「意地悪そうな表情の猫」しかおらず、それでも外の花壇は手入れをされていたそうである。
彼女は、

この断片的な記憶の中では、大通りの情景に色褪せたセピアのフィルターがかかっている。これがゴーストタウンということか、と改めて絶句した。これを期に3・11は人災であったということをようやく理解し、原発の本を読んだり、勉強をするようになった

と記している。

この原発・福島の勉強と平行して国際関係学を彼女は勉強していたが、「世の中に対しての失望が大きくなるばかりであった」。アメリカで教育を受けていたこともあって、アメリカが世界中を「民主化」すべく繰り広げている政策とアメリカ国内に存在する矛盾が「民主主義」という言葉によって美化されていることに大きな違和感を覚えたという。

そして、このように記している。

 

 大学二年になって、原発にともなう社会の矛盾によって生じるしわ寄せが母親や子どもにくると知った。3・11をテーマに福島から避難したお母さんたちの研究を始めた。その過程で、自分にもいつか子どもを産む日が来るのかと思うと何度も恐怖感に襲われた。子どもは大好きなのに、やはり社会を見ると、子どもを安心して育てられるとは思えなかったし、その社会を自分では変えることができないという無力感も自分の中で大きくなった。

  * * *

 この頃には政治家はもちろん、大人も、政府も、「復興」や「民主主義」という言葉に対してでさえ嫌悪感を持つようになった。自分の力ではどうしようもない何か、それが私にとっての「社会」のイメージである。原発の実態で露わになった、無力感と恐怖感と絶望と怒りを生み出してきた「社会」。東北に行けばせっせと防潮堤の工事が進んでいるし、沖縄の辺野古ではオスプレイを仰いで座り込みを続ける人々がいる。

この状況の中で、反原発運動などの社会運動は「希望」であったと彼女は述べている。

 

 金曜官邸前の抗議の存在や震災後原発ゼロが続いてきた事実は、日本社会における私にとっての希望であった。市民が起こした社会運動が本当に変化を呼ぶということが証明されたのは、震災後に起きたポジティブな出来事の一つだと思う。そして2013年の秋、私はSEALDsの前進(ママ)団体であるSASPL(特定秘密保護法に反対する学生有志の会)に出会い、今ではコアメンバーとして活動している。震災後の社会運動の上にあるSEALDsは、私の四年間の怒りと絶望をポジティブに変換する役割を果していると思う。

そして、2015年8月11日に川内原発が再稼働したことについて、「未だにこの事実は受け入れられないし、再び無力感に苛まされ、何もできなかったのだろうかと絶望はする」としながら、「だが、SEALDsの活動を通して気付いたことは、時には現状を嘆きながらも、希望を自ら作り出していくしかないということである」と述べている。

最後に、彼女は次のように語っている。

 

 けれど、この数ヶ月で感じたことは、自らが変える力となることで未来は切り拓かれていくということだ。あの日、震災はこの国から光を奪った。真っ暗なこの国の路上で私は闘うことを選んだ。特別なことじゃない。私はただ、当たり前のことをしているだけ。

3.11ー震災と原発事故の衝撃を契機とした日本社会への怒り、それを変えることのできない自分自身の無力感、その絶望のなかで、社会運動が社会を変えていく可能性に気付いたことが「希望」であり、「震災後に起きたポジティブな出来事」であると彼女は言っている。その上で自らが変える力になることで未来は切り拓かれていくと主張している。

たぶん、3.11直後、彼女らにとどまらず、日本社会の多くの人がそう考えていただろう。とはいえ、「昨日と同じ明日」を取り戻すなどという幻想のなかで、そういう思いはあいまいにされてきた。芝田は、現状に対するより真摯で透徹した「絶望」の中で、社会運動の可能性・必要性を意識しつづけ、「真っ暗なこの国の路上で私は闘うことを選んだ」のである。

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2014年4月16日、仁川発済州島行きの清海鎮海運所属「セウォル号」が全羅南道珍島付近で転覆し沈没、そのために乗客・乗員476名のうち295名が死亡し、9名が行方不明となった。この「セウォル号」の転覆・沈没について、韓国では、予想外に発生した不幸な出来事という意味での「事故」ではなく、「事件」もしくは「惨事」にあたるのではないかといわれている。かなり以前から進められた船舶業の規制緩和・アウトソーシング化は、船舶改造や積載量や避難訓練などすべての面での安全管理を無視させ、「セウォル号」の転覆・沈没につながった。また、「セウォル号」の転覆・沈没の際に朴大統領自身が犯した初期対応の遅れとその後の救出作業における混乱は、助けられる人を助けられないという状況に陥ることになった。この状況を増幅させたのは、マスコミ各社の報道であり、政府発表をうのみにしつつ、重大な誤報をしたり、生存者や遺族の心を逆なでするような報道を行なった。本来、「交通事故」であったものが、「事件」もしくは「惨事」にかえられてしまったのだとされている。そして、「韓国人は生放送でセウォル号の沈没を目の当たりにし、国家の無能さと個人の無力さを同時に感じることになった」(歴史問題研究所・アジア民衆史研究会編『国際学術会議 新しい民衆史研究の方向を模索するために』、2015年2月、非売品)という感慨をうむことになった。

私の所属しているアジア民衆史研究会のメンバーは、国際学術会議の一環として、韓国の歴史問題研究所のメンバーとともに、2015年2月9日、「セウォル号」惨事において多数の高校生の犠牲者が出た京畿道安山市を訪問した。セウォル号の乗客・乗員総数は476名だが、そのうち済州島への修学旅行に向かっていた安山市の壇園高校(二年生)の生徒が325名、引率教師が14名をしめていた。この惨事において、高校生246名、引率教師9名が死亡し、その他高校生4名、引率教師2名が行方不明となっている。生存者は、高校生75名、引率教師3名にすぎない。四分の三が犠牲になったのである。なお、一般乗客は104名中71名、船員では23名中18名が生存している。生存者のほうが多いのだ。このことについては、「救助された学生たちによると、船が傾いていた状況でも、『その場にじっとしていなさい』という船内放送が流れていたという。間違った案内放送に、学生たちは素直に従い、結果、多くの学生が犠牲になった」(歴史問題研究所・アジア民衆史研究会前掲書)と指摘されている。

安山市において、セウォル号関係では、「セウォル号を記録する市民ネットワーク」が運営している「416記憶貯蔵所」、壇園高校、「セウォル号犠牲者合同焼香場」を訪れた。まず、気が付いたことは、これらの場所が近接しているということである。特に、「416記憶貯蔵所」と壇園高校は同じ「コジャン洞」に所在しており、歩いてすぐのところにあった。この周辺には同じようなデザインの集合住宅が多数建設されていた。安山市の都市化は1970年代以降の中小企業中心の産業団地形成を契機としており、この集合住宅もその一環ではないかと考えられる。話を聞いてみると、壇園高校の生徒は、この周辺に多く居住しているということだった。壇園高校の生徒は、地域の若者でもあったのである。そして、彼らを失ったことについて、単に彼らの家族やクラスメートだけではなく、地域の人びともまた悲しんだのである。

壇園高校周辺の集合住宅

壇園高校周辺の集合住宅

まず、「416記憶貯蔵所」にいった。この「416記憶貯蔵所」は、商店などが入居している2階建ての建物の中にある、さほど大きくはない事務所であった。なお、今後、倉庫などを確保するとのことであった。壁の一面には、遺品などが展示されているスペースがあり、もう一方には段ボールの箱が積み上げられていた。展示スペース側の写真をここに掲載する。この展示スペースに飾られている絵も、犠牲者の一人で、画家を目指していた高校生が描いていたものである。

「416貯蔵所」

「416貯蔵所」

この「416記憶貯蔵所」は「セウォル号」に関連する民間の記録センターであり、セウォル号遺族のための共同体運動を目指して」おり、「政府主導の公共記録とは区別され、市民中心の記録収集、管理、展示する役割を担っている」(歴史問題研究所・アジア民衆史研究会前掲書)とされている。「セウォル号を記録する市民ネットワーク」関係者の話によると、彼らが集めようとしている記録は三種類あるという。第一には、「セウォル号」惨事の真相究明に関連する記録である。遺族たちは政府に真相究明を求めており、その要望に一部そった形で、昨年11月7日、「4・16 セウォル号惨事真相究明及び安全社会建設等のための特別法」が制定された。しかし、特別法が制定されても、セウォル号を引き揚げる姿勢を見せないなど、現政権は真相究明を進めようとはしていない。そのため、遺族たちは、デモンストレーションのため光化門でのハンスト、安山から惨事現場の珍島まで徒歩行進、真相究明を求める署名集めなどを行なっている。第二には、遺族や市民がこの「惨事」にどう対応したかという記録である。その例として、「惨事」の際に、家族待機所が設けられ、そこで家族たちが寝泊まりしている際に使っていた布団をあげている。第三が、犠牲者たちの遺品である。

段ボールの箱をいくつかあけて、遺品類をみせてくれた。犠牲者である高校生自身が写った写真・プリクラなどもあったが、あまりにも生々しいので、衣服中心の遺品の写真をここで掲載しておく。なお、後ろに写っている段ボール箱の一つ一つに高校生一人一人の遺品が入っているという。遺品収集は、個々の家族にあって、話を聞きながらの作業であり、大変なものであるとのことだった。

「セウォル号」惨事によって犠牲者となった高校生の遺品

「セウォル号」惨事によって犠牲者となった高校生の遺品

食事をしてから、壇園高校に歩いて向かった。

壇園高校

壇園高校

前述したが、済州島への修学旅行に向かっていた壇園高校二年生が「セウォル号」惨事の犠牲になった。この二年生たちは10クラスに編成されていた。生き残った高校生たちは、とても今までの教室では授業が受けられないということで別の教室に移され、現在、事件当時の二年生の10教室が「惨事」当時のままに残されていた。この学年が卒業するまでは、そのままにするという。つまり、犠牲となった生徒・教師の机がそのまま残されているのである。そして、この10教室は、犠牲となった生徒・教師の追悼の場となった。次の写真をみてほしい。

壇園高校二年生の教室

壇園高校二年生の教室

この写真では1教室だけだが、10教室すべてがこのような情景なのである。1クラス10人も生き残ればいいほうで、1〜2人しか生き残ることができなかったクラスもあるという。犠牲となった生徒・教師の机には、花、お菓子、写真、メッセージなどがおびただしく供えられていた。よく、日本でも、交通事故や殺人事件などで犠牲となった子どもの死亡現場に花やお菓子などが供えられているのを目にするが、教室全体がそういう状況になっているのである。さらに、そういう教室が10もあるのだ。

それぞれの机を見ると、供物が画一的でないことに気付く。花もそれぞれ違っていたりする。あるところでは写真が供えられ、あるところではメッセージがあり、さらにはイラストが供えられ、本やノートが積み上っていたところもあった。これは、犠牲者となった高校生一人一人の関係性が反映しているのだと思う。犠牲になった高校生たちには、それぞれ、もちろん、親もいたし、部活や委員会などで、先輩・後輩もいただろう。それぞれ個性をもった高校生が200名以上犠牲となったのだ。

私は、全くハングルが読めないのであるが、ハングルを読める人にメッセージの内容を聞くと、多くが、親や友だちが「助けられなくてごめんなさい」と書いてあったとのことだった。

机の上だけでなく、黒板その他にも、追悼とおぼしいメッセージが書き込まれていた。黒板の上には、大韓民国の国旗が掲揚されている。しかし、大韓民国は彼らを救えなかったのだ。たぶん、これほどまでに「セウォル号」惨事の悲劇性を伝えるところはないだろう。「追悼」の場と表現したが、犠牲になった高校生たちと、生き残った高校生・家族たち双方の「鎮魂」の場とするのがふさわしい。

壇園高校を出て、私たちはセウォル号犠牲者合同焼香場に向かった。ここに向かう途中、「セウォル号を記憶する市民ネットワーク」関係者の方が、ある集合住宅を見ながら、こんな話をしてくれた。

ここにも生徒の一人(セウォル号惨事犠牲者)が住んでいた。

以前、彼の父親が私にこういった。
「この町を出たい。ここには、息子の思い出でいっぱいだ。どこへ行っても、息子のことを思い出してしまう。どうしてこの町にいられようか」。

私は怒った。
「あんたがこの町を出たら、だれが彼のことをおぼえているんだ」。

私たちは、親たち、彼の友だちたち30人で、泣きながら、笑いながら、彼の誕生会を行なった。

彼の両親は、この町から出ていかないと語った。

この方は、「ここで(安山市)、遺族の人たちが住み続けること、これも『セウォル号を記憶する市民ネットワーク』の目的の一つである」と強調していた。

そうした後、大きな公園のなかにある、セウォル号犠牲者合同焼香場に到着した。ここは、政府の「公式」な追悼所である。2014年4月29日、朴大統領がこの場を訪問した際、慰問の言葉をかけた女性が遺族でなかったことが発覚し、物議を醸すことになった場所でもある。この焼香場は、仮設ではあるが、体育館ほどもある空間である。内部撮影は許されなかったが、行方不明者も含めて約300名の犠牲者の写真が掲げられ、真ん中に「焼香場」があった。「416記憶貯蔵所」の遺品や壇園高校の生徒・教師それぞれの机は、犠牲者たち一人一人が個性をもった存在として確実に生きていたことをうかがい知ることができた。しかし、セウォル号犠牲者合同焼香場では、この惨事の規模がいかに大きかったことを知ることはできるのだが、犠牲者それぞれの個性は「マス」の中に埋没してしまっているような印象を受けた。合同焼香場の係員の儀礼的な対応もあいまって、私的な「記憶」と公的な「追悼」の違いに気付かされたのである。

セウォル号犠牲者合同焼香場

セウォル号犠牲者合同焼香場

しかし、いわば政府の「セウォル号犠牲者合同焼香場」の中でも、「セウォル号を記録する市民ネットワーク」関係者は独自の活動を続けていた。全国規模で4.16セウォル号惨事の真相追求を求める署名が集められているが、「セウォル号犠牲者合同焼香場」内部でも、同署名を集めることを認めさせていたのだ。また、この合同焼香場のテリトリーの中にいくつかプレハブの事務所があり、そこでも「セウォル号を記録する市民ネットワーク」関係者は、政府側と対峙しながら、活動していた。前述の特別法制定を求める署名をこのプレハブの中に収蔵してもいた。この事務所の中で、「セウォル号を記録する市民ネットワーク」の運動がいまどのような状態であるかを話してもらった。いわば「公的な慰霊空間」を占拠して自主的な活動の場を形成しようとしているという印象を受けたのである。

合同焼香場内の「セウォル号を記録する市民ネットワーク」側の活動拠点

合同焼香場内の「セウォル号を記録する市民ネットワーク」側の活動拠点

さらに、「セウォル号を記録する市民ネットワーク」側は、この場所に、犠牲になった高校生たちの母親が縫物などをしてセラピーする場を設けていた。犠牲になった高校生の母親が手作りしたバッチをいただいたので、ここで紹介しておこう。「416」という数字と「花」が刺繍されている。このバッチも「鎮魂」の意味をもっているのである。

犠牲者の母親が手作りしたバッチ

犠牲者の母親が手作りしたバッチ

最後に「セウォル号を記録する市民ネットワーク」の関係者の方がこういった。「記録の勝利者こそ、最後の勝利者である」と。

安山市を訪問し、単に一市民というだけでなく、歴史を研究してきた者として、さまざまな感慨をもった。セウォル号惨事がなぜ起きたのか、その際、国家やマスコミがどのように対応したのか、この事実過程を実証的に追求し、責任の所在をあきらかにしながら、その後の社会運営につなげていくということは、実証主義的歴史研究の課題である。しかし、一方で、政治の課題でもある。政権やマスコミ側の隠蔽工作などを排除しながら、可能な限り記録に基づいて、実証的に、合理的に、客観的に、セウォル号惨事の事実過程を分析するということは、実証主義的な科学ー学術の問題でもあるが、政治ー社会運動の問題でもあるのだ。前述した、「記録の勝利者こそ、最後の勝利者である」という言葉は、そういう意味で使われているのだと思う。

しかし、この実証的、客観的に、事実過程を分析するという、実証主義的歴史研究ー政治の課題は、他方で、犠牲になった高校生たちと、彼らを失ってしまった、生き残った高校生たち、家族たち、地域の人びとを「鎮魂」するという課題と結びついていることを忘れてはならない。「セウォル号を記録する市民ネットワーク」関係者たちの人びとは、真相追求を求める運動について述べながら、はしばしで「犠牲になったこの子たちを忘れないでください」と語りかけていた。犠牲者を追悼し、記憶するということ、そして、そのことに歴史的な意味を付与していくということは、犠牲者たちを「鎮魂」するとともに、生き残った人びとの心を癒していくということでもある。他方で、犠牲者たちのかけがえのない生に思いをいたすということは、そのような犠牲を強いた者たちの所業を実証的に追及するモチベーションを高めていくことになるのだ。

セウォル号惨事に限らず、大きな歴史的出来事ー8.15でも、3.11でもよいがーには、犠牲者ではないとしてもその出来事で人生を変えられてしまった多くの直接的な当事者たちが存在していた。彼らそれぞれの個性は、本来「マス」に回収できないものなのだ。そして、彼らの人生だけではなく、家族・友人・地域など、彼らをとりまく人びとの人生もまた存在している。大きな歴史的出来事を事後的に叙述する際に無視される、これらの人びと、これらの民衆たちの思いを含めて、広義の意味での「歴史」は存在している。そして、それは、事実過程を実証的に追及する営為の原動力にもなっていくといえよう。たぶん、これが、歴史的出来事をめぐる「歴史意識」形成の初発にあることなのだと考える。

翻って、現代の日本社会はどうだろう。もちろん、こういう意識は存在しているだろう。しかし、こういう意識をかき消すように、出来事を忘れさせ、なかったことのようにすべきだという主張が声高になされている。産経新聞は2月2日に配信したネット記事『【西論】「“中韓に期待”外交」の愚…日本の「行くべき道」は神話に学ぼう』で、次のように主張している。

 「水に流す」という日本人の知恵もここ(黄泉から帰還したイザナギの禊ー引用者注)から生まれた。災いや恨みごとに区切りをつけ、生まれ変わったような清新な心と体で、新たな月日を迎える。

 再生の知恵は、日本人の潔さを生んだ。好例は昨年、御嶽山の行方不明者捜索を秋の深まりとともに打ち切った際の家族の対応だろう。慰霊の花束をささげ、春に迎えに来ると誓い、警察や消防、自衛隊などの捜索隊に深い謝意を示して下山した。寝泊まりしていた公共施設にこれ以上迷惑をかけたくなかった、と言う家族もいた。

 これがお隣の国、韓国ならどうだろうかと考える。旅客船セウォル号の沈没事故で、行方不明者の捜索中止が決まったのが約7カ月後の昨年11月。行方不明者9人の家族は抗議し、待機場所の体育館で寝泊まりを続けた。地元から明け渡しを求める声が出ているにもかかわらず、である。「怨」のお国柄そのものの反応だった。
http://www.sankei.com/west/news/150129/wst1501290008-n1.html

そもそも、天災と人災を比べることがどうかとも思うが…。ここでの問題は、悲しみ、追悼、真相追及、責任の所在、今後への課題など、「歴史」意識の源流になりえるだろうことを、すべて「水に流し」、なかったことにすべきだという産経の主張である。そして、そのような主張を、記紀という「神話的歴史」によって正当化している。ここでは「公共施設にこれ以上迷惑をかけたくなかった」という同調意識が称揚されている。そして、多くの責任問題ー植民地、戦争、福島第一原発事故、「イスラム国」人質殺害などーがないがしろのままにされているのだ。

*ほとんど知らないことばかりで、メモをとらずに記憶のみで書いているので、事実誤認などもあるかもしれない。もしあれば、折々に訂正していきたい。
*犠牲者などのプライバシーを考慮し、遺影やメッセージを直接写した写真の掲載は遠慮した。ただ、その上で、「鎮魂」の雰囲気を伝えるために、必要最低限度と思われる写真を掲載させていただいた。

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昨日である2013年2月11日、「歴史の逆流を許さず憲法を力に未来をひらこう」ということをテーマにして、「建国記念の日反対2・11集会が日本橋公会堂ホールで開催された。講演は渡辺治氏(一橋大学名誉教授)の「新段階の日本政治と憲法・アジア」であり、その他、反原発の運動、東京の教科書問題、沖縄と基地・安保についての現場からの発言があった。参加者は約450名であり、NHKテレビのニュースにも報道された。なお、2・11集会は、東京だけでなく、全国各地の都市でも開催されている。ここでは、NHKがネット配信した記事をあげておく。

建国記念の日 各地で式典や集会
2月11日 18時6分

建国記念の日の11日、これを祝う式典や、反対する集会が、各地で開かれました。

このうち東京・渋谷区では、神社本庁などで作る「日本の建国を祝う会」が式典を開き、主催者の発表でおよそ1500人が参加しました。
主催者を代表して、國學院大学教授の大原康男さんが、「建国記念の日を日本再生に向けた確実な一歩とすべく、改めて決意したい」とあいさつしました。
そして、「新政権は、憲法改正など国家の根本に関わる問題に着手しつつある。誇りある国造りへ向けて、尽力することを誓う」などとする決議を採択しました。
参加した40代の女性は、「領土問題をきっかけに、若い世代を中心に国の在り方を議論すべきだと感じるようになりました。憲法を改正し、子どもたちが安心して暮らせる世の中にすべきだ」と話していました。
一方、東京・中央区では、歴史研究者や教職員など主催者の発表でおよそ450人が参加して、建国記念の日に反対する集会が開かれました。
この中で、一橋大学名誉教授の渡辺治さんが、「総選挙で、改憲を志向する政党が勢力を大きく伸ばすなか、平和憲法を守ることの意味を改めて考えるべきだ」と述べました。
そして、「国防軍設置が主張されるなど憲法は戦後最大の危機にある。歴史の逆流を許さず、憲法を力として、平和なアジアと日本社会の未来を開こう」などとする宣言を採択しました。
参加した高校3年生の女子生徒は、「平和を守るうえで、憲法の存在は非常に大きいと考えています。私はまだ有権者ではありませんが、もし憲法改正が問われれば、きちんと考えて判断したいと思います」と話していました。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130211/k10015437921000.html

現在、私は東京歴史科学研究会という団体の代表をつとめており、この団体は「建国記念の日に反対し思想・信教の自由を守る連絡会」(2・11連絡会)という本集会の主催団体の事務局団体の一つであったため、この集会の開会あいさつをすることになった。2・11集会の開会あいさつを行うにあたって、ある程度、この集会が開始された際の状況を調べた。もちろん、あいさつには一部しか利用できなかった。そこで、このブログで、もう少し、東京の2・11集会が開始された状況についてみておこう。

「建国記念の日」の源流は、1872年に明治政府が定めた「紀元節」である。この「紀元節」の日取りは、初代神武天皇が即位した日を2月11日と比定して定められた。戦前においては、四方節(元日)、明治節(明治天皇誕生日)、天長節(当代の天皇誕生日)とならんで、学校の場で、教育勅語がよみあげられ、御真影(天皇の画像)への遥拝が行われており、天皇制教育の一つの柱であった。しかし、戦後、GHQの指令により「紀元節」は廃止された。

この紀元節が「建国記念の日」として復活したのが、高度経済成長期の1967年である。前年の1966年、佐藤栄作政権によって祝日法が改正されて「建国記念の日」が設けられることになった。そして、学識経験者からなる建国記念日審議会に諮問するという形をとって、「建国記念の日」が2月11日に定められ、1967年から設けられることになった。

この建国記念の日については、当時の歴史学界ではおおむね反対していた。そして、実際に1967年2月11日の第一回建国記念の日において、全国各地で抗議行動が行われた。東京では、有力な歴史学会の一つである歴史学研究会が「『建国記念の日』に反対する歴史家集会」を開催した。歴史学研究会の機関誌である『歴史学研究』324号(1967年5月)には「『建国記念の日』に反対する歴史家集会」記事(松尾章一文責)が掲載されている。まず、その状況をみてみよう。

 

 当日の東京の朝は、前夜からふりつづいた何年ぶりかの大雪のために、白一色にうずまっていた。いぜんとしてはげしくふりしきるふぶきにもかかわらず、集会のはじまった午前10時半には、200名をこえる参集者で会場となった全逓会館の9階ホールはほとんど満員となった。
 集会は歴研委員会の会務幹事である江村栄一氏の開会の挨拶ではじめられた。まず議長団に土井正興、松尾章一の両名が選出されたあと、石母田正氏の講演が行われた。(『歴史学研究』324号p71)

なお、石母田正の講演のあと、太田秀通歴研委員長が集会の世話役として運動の経過と今後の決意を述べた。さらに歴史教育者協議会の佐藤伸雄が、

紀元節復活反対運動は、歴史家がもっとも早くからとりくんできた。しかしながら、マスコミなどによってこの問題は、歴史家や宗教家の問題であるかのようにいわれる傾向がつよかったために、反対運動をすすめてゆく革新陣営の側にも弱さがあった。このことが運動の発展にとって大きな障害となった。これは歴史家が反省するより以上に、歴史学界以外の各界の人々の側にも責任がある。今後はさまざまな分野の人々との連けいによる反対運動を組織する必要がある。
(『歴史学研究』324号p72)

と指摘した。

その後、各地での集会の状況などが報告され、活発なーというかかなり激しい討論が行われた。その上で、建国記念の日に反対する声明が提案され、採択された。

なお、重要なことは、この集会は「歴史家の集会」であって、一般の人びととは分離された形で行われたことである。記事では、次のように説明されている。

 

この集合の最初の予定は午前10時から12時までで、その後、同じ会場でおこなわれる国民文化会議主催の「『建国記念の日』ー私たちはどう考えるか」というシンポジュームがおこなわれることになっており、この集会にわれわれ歴史研究者、歴史教育者を中心とするこの集会に参加した全員が、軍国主義、帝国主義、天皇制の復活に反対し、これと対決してたたかう日本人民の1人として午後からの集会に合流することになっていた。そのために、国民文化会議のお骨折りで、われわれの集会を同じ会場で午前中におこなうことができるようにご援助をいただき、そのうえ、午後の集会の時間をずらして、われわれの集会を1時間ほど延長させていただいたご好意に厚く感謝したい。
 最後に、第1回の「建国記念の日」反対集会(今後、廃止される日まで毎年続けていくべきである)は、成功裡に終り、かつ今後のわれわれのたたかいにとってきわめて有意義なものであったことを記して、この簡略にして不十分な報告を終わらせていただくことにする。
(『歴史学研究』324号p72〜73)

このように、歴史学研究会主催の「歴史家の集会」と、労働組合のナショナルセンターであった総評などが結成した国民文化会議主催のシンポジウムは、会場こそ同一だが、時間をわけて実施されたのである。この状況は、それこそ、佐藤が指摘しているような、歴史家と「革新陣営」全体が十分連携していないことの象徴にもみえるといえよう。

しかし、1967年中にも、この状況はかえられていくことになった。これもまた有力な歴史学会の一つである歴史科学協議会が発行している『歴史評論』210号(1968年2月)には、次のような記事が載せられている。

 「

明治百年祭」「靖国神社法案」反対の集会開かれる!
 「建国記念の日」反対のたたかいをおしすすめてきた紀元節問題連絡会議(総評、日教組、憲法会議、日本宗平協、歴教協など広汎な団体が参加)は、昨年十一月九日、東京銀座の教文館で、「明治百年祭」と「靖国神社法案」反対の研究集会をもちました。
 集会は、松尾章一氏から「明治百年祭をめぐる問題」、芳賀登氏から「靖国神社創設の問題」の二つの報告をうけたあと、強まる反動攻勢にたいしどう対処していくべきかという問題を中心に熱心な討議がおこなわれました。たとえば、不服従の姿勢のよりどころをどこにおくか、民主的な憲法や強固な労働組合組織をもっているとはいえ、具体的にみれば、悲観的な材料がけっしてすくなくないこと、伊勢神宮に海上自衛隊が集団参拝した事例などが提起・報告されました。
 なお、同会議がよびかけ人となり、実行委を結成、来る二月十一日全電通会館(東京お茶の水)において、「紀元節復活・靖国神社国営化・明治百年祭に反対する中央集会」が開かれることになりました。(平田)
(『歴史評論』210号p69)

この「紀元節問題連絡会議」こそ、現在の2・11集会の主催団体である「『建国記念の日』に反対し思想・信教の自由を守る連絡会」の源流である。現在の集会でも都教組が参加しているが、この時は、総評・日教組・憲法会議(憲法改悪阻止各界連絡会議)・日本宗平協(日本宗教者平和協議会)・歴教協が参加しており、労働組合の比重が大きいといえる。議論の中でも「強固な労働組合組織」があることが前提となっている。単に「紀元節復活」反対だけでなく、靖国神社国家護持問題や、1968年に予定されていた「明治百年祭」など、より広汎な歴史的な問題に対する国家の「攻勢」に対処していくことがめざされていた。そして、ここから、一般の人々と歴史家がともに集まる、「2・11集会」のスタイルが作り出されたといえるのである。

1968年2月11日に開催された、東京の「2・11集会」について、『歴史評論』212号(1968年4月)において、次のように叙述されている。

戦争準備の思想攻勢を告発するー「紀元節」復活、靖国神社国営化、「明治百年祭」に反対する中央集会ー
 二月十一日、第二回「建国記念日」を迎え、「『紀元節』復活・靖国神社国営化・『明治百年祭』に反対する中央集会が東京全電通ホールで開催された。主催は「紀元節」問題連絡会議で、総評・日教組・国民文化会議ほか三十団体がこれに結集した。歴科協は歴研・歴教協とともに新たに加盟し、集会の成功のため積極的に働いた。
 集会は、権力側が急ピッチに進めている戦争準備の思想攻勢に加えて、エンタープライズ「寄港」、プエブロ事件、南ベトナム諸都市における解放軍民の決起、倉石農相憲法否定発言など緊迫した内外情勢を反映し、定員四百四十名の会場に千三百名が溢れ、届出六百名のデモに千名が参加するという盛りあがりを見せた。
 十二時半、京都府作製の護憲スライド「この樹枯らさず」上映で幕をあけ、家永三郎、高橋磌一両氏の講演が行われた。家永氏は「教科書問題と明治百年」と題し、教科書問題に露呈されたところの、政府の意図する歴史の軍国主義的偽造を告発し、高橋氏は「明治百年と国防意識」と題して、「紀元節」も「明治百年」も、教育・思想・文化の軍国主義化、さらには七〇年安保改定に向けての権力側の布石であると強調した。ついで別に女子学院で千六百名の大集会を成功させたキリスト者の集会を代表して日本キリスト教団総会議長鈴木正久氏のメッセージ、「紀元節」復活反対の声明を出した日歴協(日本歴史学協会)を代表して副会長林英夫氏の挨拶のあと、社会党猪俣浩三、共産党米原いたる、宗平協中濃教篤、教科書訴訟全国連絡会四位直毅、マスコミ共闘上田哲の諸氏から報告と決意表明があり、主催団体を代表して国民文化会議日高六郎氏が総括を行った。最後に倉石農相罷免要求の決議と集会アピールが採択され、午後四時閉会した。
 散会後、明大および東京教育大の学内集会を成功させ、会場まで行進してきたデモ隊と合流し、十数年来はじめて許可をかちとった日本橋の目抜き通りを東京駅八重洲口まで、力強いデモ行進が行われた。
   決議文
 アメリカのベトナム侵略戦争が、ますます狂暴化するなかで、これに対する佐藤政府の加担は、昨年十一月の「日米共同声明」いらい、内外の多くの人々の反対にもかかわらず急速に深まってきています。すなわち、佐藤政府はアメリカの原子力空母エンタープライズの日本寄港をゆるし、沖縄復帰の国民の念顧をうらぎり 沖縄の「核つき返還」を促進し、日本全土の核基地化を公然とすすめようとしています。
 また外国人学校制度法案の国会上提をもくろみ、東京都私学審議会における朝鮮大学校の認可問題に不当な圧力をかけるなど在日朝鮮公民の諸権利の抑圧をおしすすめ、北朝鮮帰国を一方的に打切り、さらに、日本を基地として出発したプエブロ号の朝鮮民主主義人民共和国に対する挑発行動をゆるしています。それは政治的・軍事的な面ばかりではなく教育・文化・思想の領域においてもはげしくおしすすめられております。「自分の力で自国を守らなければならない」という佐藤首相の発言、「小学校から防衛意識を植えつけなければならぬ」という灘尾文相の談話、「憲法は他力本願で……こんなばかばかしい憲法をもっている日本はメカケのようなもの……日本にも原爆と三十万の軍隊がなければだめだ」という倉石農相の発言などに、端的に示されています。
 政府・自民党は、さらに、「建国記念の日」の制定つまり旧紀元節の復活、社会科教育への神話のもちこみや公民教育の復活などにくわえて、国会に靖国神社の国営化法案の提出の準備を急いでいます。これらは、ベトナム侵略戦争に積極的に加担している政府が、軍国主義をもりあげ、「国家愛」の美名のもとに国民を戦争にかりたてようとするものです。そのため、政府は、教科書の事実上の検閲をさらにつよめ、放送法の改悪をたくらむなど、さまざまな形で思想統制を強化してきています。
 今年は、これらにつづいて「明治百年祭」の一大カンパニアを展開しています。明治いらい「大日本帝国」政府は、国民の平和と民主主義を求める希望を裏切り、そのための努力をねじまげ、朝鮮、中国をはじめアジア諸国に対する残虐な侵略をおこない、国民にもはかりしれない犠牲をおわせました。政府は、そのようなような事実をおおいかくし、過去の軍国主義の道を栄光化する歴史解釈を、「明治百年祭」のお祭りさわぎのなかで国民におしつけてきています。
 これはまさに、日本国憲法の平和と民主主義の原則を真向から否定しようとするものであり、憲法改悪への道にそのまま通ずるものであります。心から祖国を愛し、真の独立と平和と民主主義とをもとめてやまないわたしたちは、このようなたくらみをだんじてゆるすことはできません。
 旧「紀元節」が復活されて、二度目の二月十一日をむかえ、ひろく各界から「紀元節」復活・靖国神社国営化・「明治百年祭」に反対する中央集会に結集した私たちは、全国いたるところでまきおこっている反対運動と呼応しながら、これら一連の戦争準備の反動思想攻勢を断固として告発し、力をあわせて、あくまでもそれに反対してたたかいぬくことを誓います。
   1968年2月11日
            「紀元節」問題連絡会議
大塚史学会 大塚史学会学生部委員会 映像芸術の会 「紀元節」問題懇話会 「紀元節」に反対する考古学者の会 教科書検定訴訟を支援する会 憲法改悪阻止各界連絡会議 憲法擁護国民連合 国民文化会議 駒場わだつみ会 社会主義青年同盟 新日本婦人の会 東京都教職員組合連合会 日本科学者会議 日本キリスト教団 日本教職員組合 日本高等学校教職員組合 日本子どもを守る会 日本児童文学者協会 日本宗教者平和協議会 日本戦没学生記念会 東京地区大学教職員組合連合会 日本婦人会議 日本民主青年同盟 日本労働組合総評議会 婦人民主クラブ マスコミ産業労働組合共闘会議 歴史科学協議会 歴史学研究会 歴史教育者協議会
(『歴史評論』212号p62〜63)

このことから、次のようなことがわかるといえる。まず、総評(日本労働組合総評議会)や日教組、都教組などの労働組合が大きな比重をもつ形で「紀元節問題連絡会議」が結成されたということができる。その上で、構成団体として、社会党系団体(憲法擁護国民連合、社会主義青年同盟、日本婦人会議など)と共産党系団体(新日本婦人の会、憲法改悪阻止各界連絡会議、日本民主青年同盟など)が共存しているのである。そして、集会自体でも社会党員と共産党員がともにあいさつをしている。総評は、全体的には社会党系といえるが、反主流派として共産党系の人々もいた。その意味で、内部抗争がたえなかったといいうるが、逆に、労働組合の組織力を基盤とし、さらに社会党系の人々と共産党系の人々を結びつけて大きな運動を展開しうる可能性を有していた。その可能性が発揮されたのが、この「紀元節問題連絡会議」だったといえる。1967年2月11日の「歴史家の集会」では200名しか参加していなかったが、1968年2月11日の集会では1300名が参加し、1000名のデモ行進まで行われたのである。ある意味で、1960年の安保闘争にも類似しているといえる。総評や日教組もいろいろ問題を抱えていたといえるが、社会運動において、生活の場に拠点を有する労働組合の存在は大きいといえる。現在の2・11集会においても、労働組合である都教組の存在は大きい。このように、現在においても社会運動における労働組合は重要な存在なのである。

他方で、この場が、当時の歴史家たちの「社会参加」の「場」にもなったといえる。1968年の集会では、「建国記念の日」反対だけでなく、当時の佐藤政権のさまざまな問題に言及しながら、それらを「戦争準備」の動きとし、建国記念の日設定、靖国神社国営化、明治百年祭実施などを「戦争準備の思想攻勢」として総体として批判するというスタンスをとった。ある意味で、狭義の「歴史問題」だけではなく、そのような「歴史問題」を、労働組合も参加した集会において社会全体の動向をふまえて把握し、訴えていくことになったといえる。そのような意味で、当時の歴史家たちの「社会参加」の場でもあったといえよう。

わたしのあいさつでも話したが、今や、佐藤栄作の時代よりもはるかに強い形で、「思想攻勢」は進められている。そして、抵抗の拠点となった総評はもはや存在しない。それでも、いまだに1960年代の社会運動の伝統は、「2・11集会」という形で生き続けている。そして、創立された1960年代の時よりも、今のほうが、大きな意義をもつようになっているのである。

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