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2016年4月18日現在、九州の熊本地方に地震が襲っている。4月14日夜、マグニチュード6.5、最大震度7の地震が起こり、16日未明にはマグニチュード7.3、最大震度6強の地震が発生した。16日以後、震源域は東側の阿蘇地方・大分地方にも拡大しつつ、最大震度6・5クラスの地震が相続いている。最大震度5以上の地震は4月14日に3回、15日に2回、16日に9回発生した。17日に大きな地震はなかったが、4月18日の夜、本記事を書こうとした際、最大震度5強の地震が発生したという報道に接した。

この地震については、地震の専門家である気象庁が「観測上例がない」と困惑を見せている。次の毎日新聞のネット配信記事を見てほしい。

<熊本地震>気象庁課長 観測史上、例がない事象を示唆
毎日新聞 4月16日(土)11時21分配信

<熊本地震>気象庁課長 観測史上、例がない事象を示唆

 ◇熊本、阿蘇、大分へと北東方面に拡大していく地震現象に

 気象庁の青木元(げん)地震津波監視課長は16日午前の記者会見で、熊本、阿蘇、大分へと北東方面に拡大していく地震現象について「広域的に続けて起きるようなことは思い浮かばない」と述べ、観測史上、例がない事象である可能性を示唆。「今後の(地震)活動の推移は、少し分からないことがある」と戸惑いを見せた。

 また、14日の最大震度7の地震を「前震」と捉えられなかったことについて、「ある地震が発生した時に、さらに大きな地震が発生するかどうかを予測するのは、一般的に困難だ」と述べた。

 熊本地方などを含む九州北部一帯は低気圧や前線の影響で、早い所で16日夕方ごろから雨が降り始め、16日夜から17日明け方にかけては広い範囲で大雨が予想されている。青木課長は「揺れが強かった地域は土砂災害の危険が高い。さらに雨で(地盤が)弱くなっている可能性があるので注意をしてほしい」と呼びかけた。【円谷美晶】
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160416-00000052-mai-soci

気象庁に言わせれば「観測史上例がないこと」なのだろう。しかし、本当に未曾有のことなのだろうか。熊本地震の報道に接しながら、地震学者石橋克彦著の『大地動乱の時代』(岩波新書、2014年)を想起した。本書の冒頭部分は「幕末ー二つの動乱」と題されている。嘉永6年(1853)にペリーの黒船艦隊が来航し、それ以来、日本は幕末の動乱を迎えていくことになる。石橋によると、この時期は日本列島で地震活動が盛んになった時期でもあった。ペリー来航より少し前の嘉永6年2月2日(1853)、マグニチュード7の「嘉永小田原地震」が発生した。
 
翌嘉永7年(1854)にペリーは再来航し、日米和親条約が締結される。この年の6月15日に、伊賀上野・四日市・笠置山地でマグニチュード7.2、6.7、6.8の地震が相次いで発生し、桑名から京都・大阪までの広い範囲で震度5以上の揺れとなり、1000人以上が死亡したという。11月4日には、駿河ー南海トラフを震源としたマグニチュード8.4の「安政東海地震」が発生した。東海地方の多くの地域が震度6以上の揺れとなり、さらに伊豆半島から熊野灘まで海岸に津波が襲来した。場所によっては津波は10m以上に達したという。
 
 そして、「安政東海地震」発生の約30時間後の11月5日、紀伊半島・四国沖の南海トラフを震源とするマグニチュード8.4の「安政南海地震」が発生した。紀伊半島南部と四国南部は震度6以上の揺れに見舞われ、伊豆半島から九州までの沿岸には津波が襲来した。大阪にも津波は及んだのである。そして、黒船来航、御所焼失とこれらの一連の地震を考慮して、11月27日に年号は「安政」に改元されたのである。

しかし、改元されても、地震は止まなかった。安政2年10月2日(1855)、安政江戸地震が発生した。マグニチュードは6.9であったが、都市直下型地震であったため、江戸市中を中心に震度6以上の揺れになった。火事も発生し、1万人以上が死んだとされている。そして、これらの地震活動は、石橋によると1923年の関東大震災にまで継続していったとされている。

このように、3年あまりの間で、日本列島は5回もの大地震に遭遇したのである。石橋は次のようにいっている。

江戸時代末の嘉永6年(1853)、日本列島の地上と地下で二つの激しい動乱が口火を切った。二つの激動は時間スケールこそ多少ちがっていたが、ともに、そのご十数年から数十年のあいだに日本の歴史を左右することになる。(石橋前掲書p4)

確かに、このような短い時期に大地震が集中したのは希有のことだっただろう。しかし、日本列島で、大地震が連続して発生することは未曾有のことではないと歴史的に言える。

石橋は次のように指摘している。

黒船に開国を迫られた幕末の動乱期、関東・東海地方の大地の底では、もう一つの「動乱の時代」が始まっていた。嘉永小田原地震を皮切りに、東海・南海巨大地震がつづき、安政大地震が江戸を直撃する。そして、明治・大正の地震活動期をへて、ついに大正12年の関東巨大地震にいたる。
 それから71年。東京は戦災の焦土の中から不死鳥のごとくに蘇り、日本の高度経済成長と人類史上まれにみる急速な技術革新の波に乗って、超過密の世界都市に変貌した。しかし、この時期は、幸か不幸か、大正関東地震によって必然的にもたらされた首都圏の「大地の平和の時代」(地震活動静穏期)にピタリと一致していた。敗戦による「第二の開国」のあと日本は繁栄を謳歌しているが、首都圏は大地震の洗礼を受けることなく、震災にたいする脆弱性を極限近くまで高めてしまったのである(石橋前掲書p1)

日本の戦後復興・高度経済成長・技術革新の時代は、石橋によれば首都圏の「大地の平和の時代」(地震活動静穏期)でもあった。「技術革新」の中には、地震科学の発展も含まれるであろう。気象庁などによる精緻化された「地震科学」は、「大地の平和の時代」における経験の産物なのであり、幕末のような「大地動乱の時代」にはそのままの形では対応しきれないのではなかろうか。

『大地動乱の時代』出版の翌年である1995年に阪神淡路大震災が発生した。2011年には東日本大震災が起きた。これ以外にも様々な地震が起きている。そして、今回の熊本地震の発生である。「大地動乱の時代」の再来を意識せざるをえない。そして、とにかく確認しなくてはならないことは、日本列島に住むということは、現状の科学で把握できるか否かは別として、このような地震の発生を覚悟しておかねばならないということである。

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今回もまた、2012年3月24日の歴史科学協議会主催のシンポジウム「原発震災・地震・津波ー歴史学の課題ー」で、石橋克彦氏の報告「史料地震学と原発震災」を聞いて考えたことを書いていくことにする。

石橋克彦氏は、2011年以前から、地震被災による原発事故の危険性を主張していたことでよく知られている。石橋氏の原発論の原点は、1997年10月に発表した「原発震災」(『科学』67巻10号、1997年10月所収)である。この論文の中で、石橋氏は、まず、「活断層がなければ直下のM7級大地震はおこらない」という当時の通産省の考え方を批判し、北丹後地震(1927年)、鳥取地震(1943年)、福井地震(1948年)を例に出して、活断層がなくても大地震は起こりえるとした。

さらに、M8級の東海巨大地震発生が懸念されている想定震源断層面のほぼ真上に位置している浜岡原発を事例にして、原発が大地震に直撃された際の原発災害の状況を石橋氏は次のように想定している。地震動、地盤変形、津波で原発の各施設が損傷し、外部電源が止まり、ディーゼル発電機やバッテリーが作動しないなどの故障が同時発生する。運転員も対処しきれない状態となる。その場合、原子炉建屋の耐震性は問題ではなく、配管・原子炉・制御棒・ECCSが破壊される可能性があると石橋氏は指摘している。そして、このような状況が現出するだろうと石橋氏は述べている。

原子炉が自動停止するというが、制御棒を下から押し込むBWR(沸騰水型炉)では大地震時に挿入できないかもしれず、もし蒸気圧が上がって冷却水の気泡がつぶれたりすれば、核暴走がおこる。そこは切り抜けても冷却水が失われる多くの可能性があり(事故の実績は多い)、炉心溶融が生ずる恐れは強い。そうなると、さらに水蒸気爆発や水素爆発がおこって格納容器や原子炉建屋が破壊される…その結果、膨大な放射能が外部に噴出される。(「原発震災」p723) http://historical.seismology.jp/ishibashi/opinion/9710kagaku.pdfより

石橋氏は、この論文の中で、浜岡原発が大事故を起こした場合、風下側であると17km以内で90%以上の人が急性死し、南西風であると首都圏を中心に434万人の人が晩発性障害(がん)で死亡するという推定を紹介している。また、チェルノブイリ事故の白ロシア共和国の基準であると、茨城県から兵庫県までが風下側ならば長期間居住不可になるとしている。

その上で、石橋氏は、このように述べている。

東海地震による”通常震災”は、静岡県を中心に阪神大震災より一桁大きい巨大災害になると予想されるが、原発災害が併発すれば被災地の救援・復旧は不可能になる。いっぽう震災時には、原発の事故処理や住民の放射能からの避難も、平時にくらべて極度に困難だろう。つまり、大地震によって通常震災と原発災害が複合する”原発震災”が発生し、しかも地震動を感じなかった遠方にまで何世代にもわたって深刻な被害を及ぼすのである。膨大な人々が二度と自宅に戻れず、国土の片隅でガンと遺伝的障害におよびながら細々と暮らすという未来図もけっして大袈裟ではない。(「原発震災」p723)

前もいったように、石橋氏のこの発言は1997年に行われた。そして、このことは、実際に2011年に福島で現出してしまったのである。福島の被災状況は、石橋氏のいう通常震災と原発災害が複合する「原発震災」といえるであろう。このような状況は、すでに1997年には予測可能であったのだ。

その上で、石橋氏は、もっとも焦眉の課題として、浜岡原発の廃炉をあげている。石橋氏は、このように主張している。

正常な安全感覚があるならば、来世紀半ばまでには確実に発生する巨大地震の震源域の中心に位置する浜岡原発は廃炉を目指すべきであり、まして増設を許すべきではない。(「原発震災」p723)

そして、浜岡原発以外でも原発震災が発生する可能性があるとして「防災基本計画」以下の防災対策を全国規模で、原発震災を具体的に想定したものに早急にかえるべきであると石橋氏は主張している。さらに、石橋氏は次のように述べている。

しかし、防災対策で原発震災をなくせないのは明らかだから、根本的には、原子力からの脱却に向けて努力すべきである。86年のチェルノブイリ原発事故によって日本まで放射能の影響を受けたことを考えれば、地震大国日本が原発を多数運転しているのは世界にたいしても大迷惑である。(「原発震災」p724)

石橋氏によれば、使用済み核燃料や廃炉の問題を考えると原発は経済的ではないし、地球環境問題にも有効ではないとし、電力の規制緩和をすすめ、ごみ焼却熱や自然エネルギーを活用すれば、適正な電力を供給できるとしている。そして、石橋氏は、次のように主張している。

電力需要の増加を当然のこととして、それを原発の増加でまかなうというやり方は、持続可能な人間活動が切実に求められるいま、もはや通用しない。(「原発震災」p724)

そして、石橋氏は、東アジア地域で原発が急増していることについて、「東アジアの原発で大事故がおこった場合、日本にも重大な影響がおよぶことは疑いないから、原子力に頼らないでほしいと思うが、日本が率先しなければ説得力はない」(「原発震災」p724)と述べている。

石橋氏は、脱原発の流れが定着しているヨーロッパと違い、民意が政策決定に反映されにくく、政府が原発推進を堅持し、原子力産業の圧力が強大で、立地地域の経済が原発に依存させられている日本では、脱原発にむけて歩みだすのは容易なことではないとし、「原発をめぐる社会的閉塞状況は、破局的敗戦に突き進むほかなかった昭和10年代と酷似しているようにも思える」(「原発震災」p724)という。だが、石橋氏は、次のように主張して、この論文を締めくくっている。

しかし、原子力開発最盛期以降の2,30年間に日本列島の地震発生様式の理解を深めた地震科学が、原発の直近で大地震はおこらないという楽観論を否定し、原発震災による破滅を避けるための具体策の必要性を示しているのである。全国の原発について、原発震災のポテンシャルが相対的に高い原子炉から順次廃炉にし、日本全体の原発震災の確率を段階的に下げていくというような道筋を、真剣に考えなくてはならない。(「原発震災」p724)

この思いが、石橋氏の原発問題への警告の出発点となったといえよう。結局、この警告は実質的にいかされることはなく、福島の原発震災は現実のものとなってしまった。石橋氏は、3月24日のシンポジウムの中で、そのことをくやんでいた。そして、今は、国会の事故調査委員会の一員として活動している。

石橋氏は、3月24日のシンポジウムの中で、このように指摘している。

地上の脆弱な高度文明社会が、地下の動乱時代に遭遇するのは、人類史上初である。

地球上で最も過酷な地震空間が、最も活動的時間にあるという、厳然とした自然条件。
→大自然の猛威を何とかすりぬけてきた日本人が、それに直撃される。

「人々の幸せのための物々交換」から「金儲けのための自由貿易至上主義」へ、「暮らしを支えるための技術」から「利潤追求のための欲望刺激型技術開発」へ、「大自然をよりよく知りたい科学」から「欲望実現の用心棒としての科学」へと発展してきた現代文明。それが「進歩」だったのか。

このような人類史を根底から問い直すべき秋が到来したのではないか?(石橋克彦「史料地震学と原発震災」報告レジュメより)

このような、いわゆる科学の分野から提起された課題は、現代における「歴史」の課題でもある。そして、どのように、この問いに応えていくか、私たちそれぞれ自身が考えていかねばならないのだ。

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さて、ここでもまた、2012年3月24日の歴史科学協議会主催のシンポジウム「原発震災・地震・津波ー歴史学の課題ー」で、石橋克彦氏の報告「史料地震学と原発震災」を聞いて考えたことを書いていくことにする。

石橋氏の主要な業績の一つに「歴史地震学」がある。歴史地震学とは、過去の歴史史料から、地震関連の記事(地震史料)を収集し、その記事内容から、過去の地震活動を復元することを第一の目的としている。近代においては、地震計により地震震度を計測することは可能となった。しかし、前近代においては地震計による観測データはない。そのため、地震史料から過去の地震活動による各地の震度を算定し、さらに震源域と規模を復元することが必要になっている。そして、過去の地震活動を認識することが、未来における地震活動を予測することにつながるのである。

石橋氏によると、すでに明治期より現代にかけてr、『大日本地震史料』『増訂大日本地震史料』『日本地震史料』『新収日本地震史料』『「日本の歴史地震史料」』などという形で地震史料集が編纂されているとのことである。石橋氏は「世界にも類を見ない歴史地震研究の「データ集」と表現している。

その上で、石橋氏は、彼自身の取り組みとして、「[古代・中世]地震・噴火史料データベース(β版)」(を共同研究によって実現したことをあげている。その目的として、今までの地震史料集ではキーワード検索ができないこと、編纂過程で史料の吟味や校訂が不十分であったことをあげている。特に、校訂の過程で実在しない地震が記録されていたことを、ニセ地震(fake earthquake)と呼んでいることは興味深い。

実際「[古代・中世]地震・噴火史料データベース(β版)」をつかってみた。基本的に年代順に地震や噴火がならんでいて、キーワードや年代検索が可能となっている。そして、その地震の項目をクリックすると、その地震史料の本文が出てくることになっている。ちなみに、869年(貞観11)に、東北地方を襲った貞観地震をみてみよう。

事象番号:08690713  種別:地震
貞観11年5月26日/869年7月9日(J)/869年7月13日(G)
(A)〔日本三代実録〕○新訂増補国史大系
《廿六日癸未》{(貞観十一年五月)}、陸奥國地大震動、流光如晝隠映、頃之、人民叫呼、伏不能起、或屋仆壓死、或地裂埋殪、馬牛駭奔、或相昇踏、城〓倉庫、門櫓墻壁、頽落顛覆、不知其數、海口哮吼、聲似雷霆、驚濤涌潮、泝〓漲長、忽至城下、去海數十百里、浩々不弁其涯〓、原野道路、惣為滄溟、乘船不遑、登山難及、溺死者千許、資産苗稼、殆無孑遺焉、
《七日辛酉》{(九月)}、(中略)以從五位上行左衛門權佐兼因幡權介紀朝臣春枝為檢陸奥國地震使、判官一人、主曲一人、
《十三日丁酉》{(十月)}、 詔曰、義農異代、未隔於憂勞、堯舜殊時、猶均於愛育、豈唯地震周日、姫文於是責躬、旱流殷年、湯帝以之罪己、朕以寡昧、欽若鴻圖、脩徳以奉靈心、莅政而從民望、思使率土之内、同保福於遂生、編戸之間、共銷〓於非命、而惠化罔孚、至誠不感、上玄隆譴、厚載虧方、如聞陸奥國境、地震尤甚、或海水暴溢而為患、或城宇頽壓而至殃、百姓何辜、罹斯禍毒、憮然《〓》{(愧イ)}懼、責深在予、今遣使者、就布恩煦、使與國司、不論民夷、勤自臨撫、既死者盡加收殯、其存者詳崇賑恤、其被害太甚者、勿輸租調、鰥寡孤、窮不能自立者、在所斟量、厚宜支濟務盡矜恤之旨、俾若朕親覿焉、
http://sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/erice/db/

これだけでは、よくわからないと思うので、中世史研究者保立道久氏による前半部の釈文をのせておこう。

陸奥国の地、大いに震動す。流光、昼の如く隠映す。このころ、人民叫呼して、伏して起きることあたわず。あるいは屋たおれて、圧死し、あるいは地裂けて埋死す。馬牛は駭奔(驚き走る)し、あるいは互いに昇踏す。城郭・倉庫、門櫓・墻壁など頽落して顛覆すること、その数を知らず、海口は哮吼し、その聲、雷霆に似る。驚濤は涌潮し、泝洄(さかのぼる)し、漲長す。たちまちに城下にいたり、海を去ること数十百里、浩々としてその涯を弁ぜす。原野道路、すべて滄溟となり、船に乗るいとまあらず、山に登るも及びがたし、溺死するもの千ばかり、資産苗稼、ほとんどひとつとして遺ることなし。
http://hotatelog.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/post-1e1c.html

なお、「城下」というのは、陸奥国府のあった多賀城のことである。現在、多賀城市にある。そして、東日本大震災でも、高台にある多賀城址は被災しなかったが、「城下」の多賀城市域は津波に被災した。

このように、石橋氏の主要業績の一部は、このような史料から過去の地震の震度・震源・規模を推定することであるといえる。

さて、ここからは、私の感想を記すことにしたい。人間の活動領域が存在することによって、地震・噴火・暴風雨などの自然現象が「災害」として認識されることになったことを前のブログで述べた。これは、地震史料にもいえる。人間がその災害を認識し、会話や史料などによって、他者に伝えようとすることによって、はじめて地震は「記録」されるのである。

といっても、地震史料が残されるということは、そこに人間が活動していたというだけにとどまらない。何らかの形で、情報を保存する手段をもっている人びとがそこにいるがゆえに、史料が作成されるのである。具体的には識字者がいるということである。そして、その史料が現代にまで残されるということも、簡単なことではない。

例えば、貞観地震の記録は、律令制国家によって編纂された正史である「六国史」の一つである「日本三代実録」に残されている。この「日本三代実録」は六国史の最後のもので、901年に完成した。編者は藤原時平・菅原道真・大蔵善行らであった。

この記録が残されるにあたっては、次の二つが必要である。まず、いまだ、この時期は、律令制国家による中央集権的地方行政は維持されており、多賀城にあった陸奥国府から京都の朝廷にあてて、何らかの形で報告があげられていたと考えられる。そして、律令制国家の正史編纂事業は続いていて、この年の特記事項である貞観地震を記録することができたのである。

この後、律令制国家による中央集権的地方行政は衰退していくと考えられる。そして、正史編纂事業も中止され、史料は、個人の日記や文書に限定されていくのである。それゆえ、京都から離れた陸奥の地震・津波はあまり記録されなくなる。近代になっても、4回は大津波に襲われた東北地方沿岸(陸奥)においては、中世でもかなり津波・地震に襲われたと思うが、データベースには次の地震しか貞観地震以後のものでは記録されていない。しかも、これも、鎌倉幕府の歴史書である『吾妻鏡』に収録されていることに注意されたい。なんらかの歴史編纂と関係しないと、この地域の地震史料は残すことが困難であった。

事象番号:12301129a  種別:地震
寛喜2年10月16日/1230年11月22日(J)/1230年11月29日(G)
(A)〔吾妻鏡〕○新訂増補国史大系
《八日》{(寛喜二年十一月)}乙未、晴、大進僧都観基参御所、申云、去月十六日夜半、陸奥国芝田郡、石如雨下云々、件石一進将軍家、大如柚、細長也、有廉、石下事廿余里云々、

そして、1611年(慶長16)の慶長三陸地震がこの地域の地震として記録されている。

石橋氏は、古代・中世よりも、近世のほうが地震が多く記録されているのはなぜかという質問に答えて、地震自体が多くなったというよりも、地震史料が多く残されるようになったためであろうと述べている。近世の幕藩制において、日本全国各地に大名が置かれ、さらに城下町を築くにつれ、地震史料も多く作成されたのであろうとしているのである。

このことは、重要である。近世の幕藩制においても、律令制国家とは違った形だが、村請制を基盤とする文書行政が行われた。そして、他方で、村落レベルでも、中世とは違って、識字者が増え、地方文芸が展開している。このような中で、地震が記録されていくことも増えていくのである。

そして、近代の地震史料の収集も、実は国家レベルでの修史事業と連動したものであった。近代において史料編纂所が設置され、『大日本史料』などが編纂されていくが、初期の地震史料集は、このような史料編纂所の修史事業と連動したもので、記事の形態すらも『大日本史料』などに依拠したものであったことを石橋氏は報告の中で述べている。

このように、「科学的データ」として利用されていく過去の地震史料は、実は、それ自身が「歴史」の産物であることがわかるであろう。このような地震史料は、当時の歴史的背景に左右されて作成された。そして、それが残され、利用可能のものになるためには、何らかの歴史編纂事業の中で取り上げられなければならなかったのである。そのことを、石橋氏の報告により再確認させてもらったといえる。

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もはや、旧聞に属するのかもしれないが、2012年3月24日に、東京にて歴史科学協議会(歴史学の学会団体)主催でシンポジウム「原発震災・地震・津波」が開催された。このシンポジウムでは、石橋克彦氏が「史料地震学と原発震災」、渡辺治氏が「戦後史のなかで大震災・原発事故と復旧・復興を考える」、西村慎太郎氏が「文書(もんじょ)の保存を考える」という報告を行った。それぞれ興味深いが、ここでは石橋氏の議論に触発されて考えたことを語っていこう。

石橋氏は、神戸新聞夕刊(2005年5月6日付)に掲載された随想「地震と震災」を報告資料の一部として提示した。その中で、このように語っている。

 

(地震の講演をする際…引用者注)いつも最初に話すのは、「地震と震災は違う」ということである。
 日常生活では、ふつう、私たちが感じる地面の揺れを「地震」という。しかし、地震や震災の問題を合理的に考えるためには、地震学や耐震工学の用語を理解しておくとよい。そこでは、揺れの原因となる地下の出来事、つまり、地下の岩盤が破壊して岩石の振動の波を放出する現象、を「地震」という。それによる地面の揺れは「地震動」と呼んで区別している。
 これに対して「震災」とは、激しい地震動を受けた人間社会に生ずる災害である。つまり、兵庫南部地震は地下の出来事で、阪神・淡路大震災は私たちの社会の現象であった。
 この違いがわかると「地震は自然現象だから止められないが、震災は社会現象だから私たちの努力で軽減できる」という大事なことがはっきり見えてくる。ただし、努力というのは、対処療法的な対策だけでなくて、私たちの暮らし方を自然と共生する方向に考え直すといった根本的なことを含む。

「地震は自然現象」とはどういう意味か。石橋が報告資料の一部として提示した神戸新聞夕刊(2005年7月7日付)の随想「0.5エムエイ」では、このように指摘されている。

 

大規模な地震や津波や火山噴火は、日常の時間感覚では突然わけもなく発生するように思えるが、Ma(百万年前…引用者注)を単位として見ると、一つ一つ必然性をもっている。そして、私たちの生活基盤である平野や盆地や山地は、それらによって造られてきたとも言える。

地震・津波・火山噴火は自然現象であって、逆にそれによって生活基盤である大地が形成されてきたということになるのである。

このことを私なりに敷衍して考えると、災害は、いわゆる天災であっても人災であっても、人間の生活に関わるがゆえに、「災害」として認識されたといえる。地震などの地殻変動、また台風や豪雪などの気象活動などにより引き起こされた「自然現象」は、対象地域に住む人間の生活に影響を及ぼすがゆえに、災害になるのである。例えば、ほとんど人の住まない南極大陸や無人島などで起こった地震・火山噴火・暴風雨などは、災害としては認識されない。

そして、人類史において、居住・利用する地域が拡大し、人口が増えていくにつれ、自然現象としての災害は拡大していくということができる。旧石器時代でも縄文時代でも、地震・津波・火山噴火・暴風雨などの災害は存在し、居住していた地域の人びとを襲ったであろう。しかし、農耕地や都市、交通路など大地を面的に利用する時代になって、より災害は深刻化したといえる。

しかも、それは、日常的にはより自然を制御することが可能になったがゆえともいうことができるのだ。農耕を中心とする経済が確立していく時代において、人びとは定住し、農耕地を開墾することによってより大きな規模で自然を制御していこうとする。そして、農業の生産物は、漁業・鉱工業・林業などの社会的分業を促し、より広範囲な地域が人間によって利用される。さらに、都市などを中心とした社会的分業の結集点を創出し、これらの人間の活動地域を結びつける交通路が設置される。このように、農業の開始以来、人間の活動地域は面的に拡大していく。そのことは、逆にいえば、より自然現象における災害を人間の生活が受けやすくなっていくことにもなる。そして、さらに、このように拡大した人間の生活領域内部において、人間の活動を契機とする戦災・火災・環境破壊などの人災が深刻な影響をもたらしていくことになった。

もちろん、このような災害について、何も対処しなかったわけではない。河川災害には堤防などが築かれ、低湿地は干拓され、海岸などには防潮堤が築造されていく。少々の規模の地震・津波などでは壊れない建物が建設されていく。これらの災害対策によって、日常的な規模の災害は防止されていくようなる。しかし、逆に、災害対策が行われるがゆえに、よりリスクの大きい地域が人間によって利用されるようになる。そして、想定外の規模の自然災害に襲われた時、破滅的な影響を人間社会にもたらしてくことになるといえるのである。

その意味で「地震と震災」は違うのだといえるのである。人間の活動が面的に拡大し、自然をより制御することによって、災害もまた拡大していくのであるといえよう。

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