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Posts Tagged ‘湯川秀樹’

大飯原発再稼働の一つの理由が「夏場の電力不足」とされていたことー今や、それも根拠薄弱なのだがーは、周知のことといえる。

しかし、原子力利用が開始された草創期である1956年にも、電力会社の連合体である電気事業連合会は、将来の電力不足を名目とした原発建設を、原子力委員会に陳情した。『科学朝日』1956年7月号には次のような記事が掲載されている。

   

電気事業連合会のお願い
 4月12日電気事業連合会の松根理事と関西電力の一本松常務とは原子力委員会を訪れて、正力、石川、藤岡の3委員に「原子力発電計画に関するお願い」をした。
 それにはまず昭和40年度に数十万kw(後に再び資料が出されて45万kwと発表された)の原子力発電を必要と予想されることをのべ、「われわれは以上を考慮して、これに対処すべき万全の態勢をととのえ、営業用原子力発電の開発と運営に当る所存でありますが、貴委員会において原子力開発利用基本計画の策定ならびにその実施計画の策定に当っては左記の事項を考慮されることを切望致します」として、次のような要望事項をあげている。
A 原子力発電の年次計画として、昭和32年10月までに動力用試験炉を発注。昭和35年10月までに動力用試験炉を完成。昭和36年までに営業用動力炉を発注。昭和38年から40年末までに順次営業用動力炉を完成するものとし、この仕事は電気事業者が行う。
B 動力用試験炉は2台以上。炉の型は適当な型を2種以上、場所は東京、大阪など。容量は電力10000kw以上とする。これらの原子炉は「早期実現のため」輸入すべきである。
C 営業用動力炉は電力10万kw級とし、これは電気事業者が直接やる。初期は輸入する。国産化は原子力委員会で考える。
D 以上の対策の確立を助けるため先進国から適当な技術顧問団を招いてもらいたい。

1965年(昭和40)には電力が不足するので、原発建設を急いでほしいということなのである。

このことをテーマとして推進派の物理学者である伏見康治らによって「座談会 日本の原子力コース」が行われ、その記事が『科学朝日』に掲載されている。伏見は「お伺いしたいのは足りなくなるという推定が妥当なものか相当狂う可能性のあるものなのか…。」と問いかけた。この問いに答えたのが、科学技術庁科学審議官・東京大学教授であり、河川学・土木学を専攻していた安芸皎一である。安芸は、電気需要が年に7〜4%づつ伸びるなどと述べながらも「実をいうとわからない」とした。安芸は「いままではいかにたくさんのエネルギーを早く供給しうるかだったが、いまは安いエネルギーがほしいということなんです」と主張している。具体的には、当時の電力の源の一つであった石炭火力発電所において、今後石炭価格の高騰が見込まれるということが指摘されている。結局は、安価な電力を得たいということだったのである。

電気事業連合会による発電設備予測(1956年)

電気事業連合会による発電設備予測(1956年)

後に、中島篤之助と服部学が「コールダー・ホール型原子力発電所建設の歴史的教訓Ⅱ」(『科学』44巻7号、1974年)で上記のように実績と比較している。1965年の電力は、電事連の予測では水力1435万kw、火力776万8千kw、原子力45万4千kw、総計で2257万2千kwであったが、実績は水力1527万kw、火力2116万2千kw、原子力0kw、総計で3643万2千kwであった。結局、火力発電が予想以上に伸び、原子力発電に依存する必要は、まだなかったのである。

この座談会に出席していた科学者たちは、早期の原発建設には否定的であった。北大教授で物理学者の宮原将平が「俗論」といい、東大教授で化学者であった矢木栄は「原子力がなかったらどうするつもりか」とこの座談会で述べている。伏見は「研究者を無視した恐ろしい高い目標がかかげられて、正直な研究者がその階段を上ろうとして落っこちてしまうという結果になるんです」と懸念していているのである。この座談会に出席していないが、原子力委員であった湯川秀樹も早期の原発建設には否定的であった。この時期は、世界でもソ連のオブニンスク発電所(1954年)くらいしか原子力発電所はなかった(なお、1954年よりアメリカは原子炉を電源とした原子力潜水艦を使用していた)。また、ようやく原子力委員会や日本原子力研究所が創設されたが、まだ、ようやく日本原子力研究所の敷地が決まったばかりで、日本では全く原子炉などはなかったのである。

しかし、原子力委員長であった正力松太郎は、早期の原発建設に積極的であった。そして、コールダーホール型原発を開発していたイギリス側の売り込みを受けた。結局、1965年までに原発を建設することを1956年12月に原子力委員会は決定してしまう。1957年には湯川秀樹が原子力委員を辞任し、1958年にはコールダーホール型原発の導入が決定されたのである。このように、科学者たちの懸念をよそに、電事連の「電力不足」を理由とした原発建設が結果的に実現していくのであった。これが、日本で初めての原発である、東海発電所になっていくのである。

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今、福島第一原発の周辺はどうなっているのだろうか。福島第一原発事故の処理にかかわっている東電関係者、放射線の影響を調べる研究者、境界周辺にいるであろう警察官など、とりあえず、「関係者」以外の立ち入りが許されない土地になっている。津波被害を受けなかったところでも、人の影はこの土地から消えた。森や野原、渓谷などには、放射線の影響を受けつつも、動物・植物は存在している。しかし、恒常的に人をみることはない。そして、人がこの土地に住んだあかしといえる、家屋、田畑などは、時の経過とともに朽ちていく。放置すれば、森や野原になっていくであろう。

もちろん、すべての周辺地域がそうなるというわけではない。福島第一原発事故は、とりあえずチェルノブイリ事故ほど大きな事故ではなく、チェルノブイリ周辺ほどの大きな「強制移住区域」は必要ではないかもしれない。より精密に放射能の検査をし、大規模に除染をすれば、とりあえず住める土地もあろう。しかし、確実に、ある程度長期にわたって、人が住めない土地がいくばくかはあるだろう。

そして、もし戻れたとしても、放射能による健康被害の不安と背中合わせの生活が続くことになる。このことは、何も福島第一原発周辺だけではなく、ある程度は、首都圏なども同様なのである。

ある意味では、まるで、「人類滅亡後の地球」をみているようである。放射能をまきちらす原子炉跡や核廃棄物貯蔵所を背景にして、放射能で傷つきながらも、ある程度は適応して、緑の木や草がしげり、鳥が飛び、獣が走り、虫がはっている。海や川には魚が群れをなしている。しかし、そこには「人」だけがいない。

戦時期に日本の原爆開発に協力させられ、戦後は平和運動を担った原子物理学者の湯川秀樹は、1947年に、このように語っている。

原子爆弾が文明の破滅に導くか否かは、これが出現した地球的世界に人類が全体として適応するか否かにかかっている。…自然科学だけでなく、人文科学も社会科学も含めた人類の持っている知識の全体としての学問の進展こそ、本当の意味で人類を救済するものである。万一原子爆弾が人間を戦争にかり立て破壊ー自滅へと導くことになってならば、それは物理学のうちたてた高度の文明世界に生物としての人類が適応しなかった証拠になるといえるのかも知れぬ。(湯川「科学の進歩と人類の進化」、『京都日日新聞』1947年8月14日)

この文章については、新しく創刊された歴史学の雑誌『史創』創刊号の特集「『想定外』と日本の統治ーヒロシマからフクシマへー」に掲載された、田中希生「<特殊な>知識人ー湯川秀樹と小林秀雄」で知った。この特集については、また、別に議論しなくてはならないと感じている。しかし、この言葉が、一番、ずっしりと胸にこたえた。田中さんは「科学の見出した知ーたとえば原子力ーだけが、人類不在の場所で運動をつづける世界。人類不在の地球の空にも、月は昇り日もまた昇る」と書いている。

冷戦終結まで、日本でも「核戦争」というかたちで湯川のいうような危機感をもっていた。しかし、冷戦が終結すると、とりあえず全面的核戦争の脅威は意識されなくなった。ある意味で、イデオロギーとしての「原子力の平和利用」を前提として、原子力のもつ危険性から、日本の人々ー私も含めてー目をそらしていたのである。

結局、「物理学のうちたてた高度の文明世界に生物としての人類が適応しなかった」ことになるのだろうか。田中さんが本稿を書かれた意図とは別に、そのような感慨をもたざるをえなかった。もちろん、地球温暖化など、すでにそのような意識はよくみられている。しかし、福島第一原発事故は、「人のいない大地」が存在しうることを、いわば実証してしまったといえるのである。

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