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Posts Tagged ‘渡良瀬遊水地’

つい先日(2013年8月11日)、仕事のついでに足尾鉱毒問題において遊水池として「廃村」させられた旧谷中村に行ってみた。この旧谷中村遺跡は何度か訪れたことがある。しかし、3.11以後はいったことがなかった。

今、いってみると、大きな樹木が生えている塚がたくさん立ち並んでいることに目をみはった。次の写真をみてほしい。

旧谷中村の「水塚」(2013年8月11日撮影)

旧谷中村の「水塚」(2013年8月11日撮影)

これは、ただ一つのものを写したものだが、このような大きな樹木が生えた塚がそこら中にある。全てではないかもしれないが、これらの多くは、旧谷中村の住居跡なのである。

この地域は、足尾鉱毒問題が起こる以前から、渡良瀬川の水害にさらされてきた地帯であった。そのため、住居には堤防などの高地が必要であった。隣接する群馬県板倉町には、水害から一時的に避難するために、住居の裏に高台を築き、そこに避難用の家屋を建てている。これは水塚(みづか)とよばれている。

同じような生活文化は、隣村の旧谷中村にもあったと考えられる。住居には高地が必要であったのである。もちろん、神社や寺院にも高地は必要であった。例えば、次の写真は雷電神社跡(もちろん、神社そのものは残っていない)であるが、かなりの高地にあることがわかるだろう。

雷電神社跡(2013年8月11日撮影)

雷電神社跡(2013年8月11日撮影)

はっきりと整備され、遺跡であることがわかるものもある。次の写真は、谷中村役場が置かれた大野孫右衛門屋敷跡であるが、きれいに整備され、標柱もある。布川了『田中正造と足尾鉱毒事件を歩く』(改訂2009年)では、「谷中村役場跡は広場の左手に行ったところにある。大地主で、村長も務めた大野孫右衛門の屋敷の水塚の一棟が、谷中村役場にあてられていた」(p105)とされている。たぶん、大野家の屋敷の裏が土盛りされ、そこに水塚として避難用家屋が建てられ、それが谷中村役場になったのであろう。

旧谷中村役場・大野孫右衛門屋敷跡(2013年8月11日撮影)

旧谷中村役場・大野孫右衛門屋敷跡(2013年8月11日撮影)

しかし、ほとんど多くの住居跡は、単なる樹木の生えた塚にしかみえなくなり、自然のものか人工のものか区別できなくなっている。もちろん、全部を歩き回ったわけではないし、夏草におおわれて掲示板などが見えないものもあるかもしれない。『田中正造と足尾鉱毒事件を歩く』では「役場跡の下の道を北に歩きだせば、三〇近い住居跡が明治に亡びたまま、竹やぶや雑木の、いわゆる『やしきボッチ』として連なっている」(p105)と書かれ、「谷中村集落図」(p106)が掲載されている。

谷中村集落図

谷中村集落図

現時点では、樹木(たぶん屋敷林の名残り)が生えた塚が住居跡であり、葭原になってしまった湿原がかつての水田跡なのだろうと推測する他はない。まるで、自然がそのまま残されているかのような光景。しかし、これは、かつて、生活していた人びとを追い出し、その結果生まれた「自然」なのである。

旧谷中村遺跡の光景(2013年8月11日撮影)

旧谷中村遺跡の光景(2013年8月11日撮影)

そして、他方、完全に水没した地もある。戦後、渡良瀬遊水地が改修され、「谷中湖」ができた。その際、谷中村遺跡全体の水没もはかられたが、必死の抵抗運動で、谷中村遺跡全体の水没はまぬがれた。現在、谷中湖はハート形をしているが、それは谷中村遺跡を保存するためである。しかし、それでも、谷中村の下宮・内野地区は水没せざるをえなかったのである。次の写真は谷中湖である。この、非常に人工的な水面の下に、谷中村の一部は眠っているのである。

谷中湖(2013年8月11日撮影)

谷中湖(2013年8月11日撮影)

今、この谷中村遺跡を含んだ渡良瀬遊水地は、水鳥などの生息地である湿地を保護するラムサール条約の登録地になっている。もちろん、ラムサール条約登録には何の異論もない。しかし、足尾銅山の鉱毒による自然破壊の結果生まれた渡良瀬遊水地の「自然」を保護するというのは、非常に皮肉なことに思えるのである。

そして、この谷中村遺跡の状況は、また、福島で再現されようとしているのである。

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