Feeds:
投稿
コメント

Posts Tagged ‘清水山憩いの森’

東京都練馬区大泉町1-6に清水山憩いの森というところがある。ここは、白子川という小さな川に面した傾斜地であり、クヌギ・コナラ・イヌシデ・エゴノキなどの落葉樹の雑木林が保存されている。その林床には多くの野草が自生し、特にカタクリが約30万株も群生している。このカタクリ群生地の環境が歴史的にどのような経過をたどって保護されてきたのかということをみていくことで、私たちは歴史を通じて未来を展望していくことにしたい。

清水山憩いの森の景況

まず、3月下旬の同地の景況を紹介しておこう。まず、全体は、下記の写真のようなところである。傾斜地上に雑木林が生えている。

清水山憩いの森の雑木林(2014年3月31日撮影)

清水山憩いの森の雑木林(2014年3月31日撮影)

この雑木林の中には湧水がある。この湧水は、東京の名湧水57選にも選ばれた。また、地名の「清水山」も、この湧水から名付けられたのであろう。

清水山憩いの森の湧水(2014年3月31日撮影)

清水山憩いの森の湧水(2014年3月31日撮影)

そして、雑木林は白子川に面している。訪れた日は、川岸のサクラが満開であった。

白子川(2014年3月31日撮影)

白子川(2014年3月31日撮影)

前述したように、この林床にカタクリが群生している。この写真ではたまたま、白い花のキクザキイチゲも写っている。この雑木林のすべての部分というわけではないが、かなり広い範囲でカタクリが咲いている。これでも五分咲きということである。

林床のカタクリとキクザキイチゲ(2014年3月31日撮影)

林床のカタクリとキクザキイチゲ(2014年3月31日撮影)

カタクリの花のアップの写真をあげておこう。カタクリは暖かな晴天の朝に開花し、夕方には閉じてしまう。曇天や雨天には開花しない。花びらの中の模様は、ハチなどに蜜の在処を知らせているそうである。

カタクリ(2014年3月31日撮影)

カタクリ(2014年3月31日撮影)

革新都政によるカタクリ群生地保護の開始

続いて、カタクリ群生地がなぜ保護されるにいたったかをみていこう。練馬区発行のパンフレット『清水山憩いの森 カタクリ』では、この地について次のように説明している。

 

憩いの森は、武蔵野の面影をとどめる樹木を残そうと、練馬区が土地所有者から樹林を借り受け、区民に開放しているものです。清水山憩いの森は昭和51年3月に憩いの森の第1号として指定されました。そのきっかけとなったのがカタクリの自生地が確認されたことでした。
 昭和49年6月、区民の方から、白子川流域の斜面林にカタクリが自生しているという情報が練馬区に寄せられ、翌年3月にカタクリがたくさん残っていることが確認されました。この貴重な自然を永く保存するため、この樹林は昭和51年に「清水山憩いの森」として整備され、その後練馬区で管理しています。
 また、その後、区内各地の雑木林・屋敷林などが「憩いの森」として整備され保全されています。

要約すれば、1974年(昭和49)に区民からカタクリが自生しているという情報が寄せられ、翌年確認し、1976年(昭和51)に憩いの森として指定したということである。私有地を区が借り上げて管理しているということになっている。

まず、このカタクリ群生地が保護されることが決定した時期に着目したい。この時期は、美濃部亮吉が東京都知事に就任していた時期である(1967〜1979年)。1950〜1960年代の高度経済成長期、公害や乱開発などの社会問題は激化していた。東京などの大都市周辺では、田畑や山林はスプロール的に住宅地や工場に乱開発され、河川や空気は著しく汚染されていた。このような状況を前提にして誕生した美濃部革新都政は、同時期に多く出現したその他の革新自治体と同様に、環境問題にも積極的に取り組んだ。また、この当時の練馬区長田畑健介は、もともと東京都職員であり、1973年に美濃部知事によって練馬区長に選任された人で、1974年に区長公選制となって翌1975年に区長選が行われた際には、社会党、共産党、民社党、公明党の4党の推薦、支持を受け、自民党推薦の無所属候補を破って公選区長となり、1986年まで勤めた。この時期においては、広い意味で革新陣営の側にいた人といえよう。このような、革新自治体の気運を前提として、カタクリ群生地の環境保護がなされるようになったといえよう。

*田畑健介については、Wikipediaの記述とともに、次のサイトにある、井田正道「1987年練馬区長選挙」(『明治大学大学院紀要 政治経済学篇』 25、1988年)の抄録を参考にした。
http://altmetrics.ceek.jp/article/jtitle/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E9%99%A2%E7%B4%80%E8%A6%81%20%E6%94%BF%E6%B2%BB%E7%B5%8C%E6%B8%88%E5%AD%A6%E7%AF%87

その後の保護状況については、たまたま毎日新聞朝刊1986年8月24日付の連載記事「がんばれ生きもの36」に植物写真家安原修次が「練馬に自生 ”女王”カタクリ」という文章を寄せ、次のように伝えている。

 

しかし、住宅地に囲まれた都内で毎年カタクリの花が見られるのは、保存するために努力する人がいるからだ。ここは民有地だが、昭和五十年に無償で借り上げた練馬区が管理しており、二月から五月まで常時二人の臨時職員が現地に派遣されている。そのひとり七十五歳の郷土史家、森田和好さん(七五)はもう十一年間もカタクリを守っている。参観者がサクから入って写真を撮ったり掘り採ろうとすると、
「そこに入ってはだめ」と、だれかれかまわず大声でどなりつける。でも見に来た人へは親切に接し、カタクリについて丁寧に説明してくれる。また周りの住民によって「カタクリを保存する会」(沢開茂宣会長)という団体も作られ、花の時期は夜中も交代で巡視しているそうである。

現在は、「清水山憩いの森を管理する区民ボランティアを中心に、カタクリ群生を守り育てるなどさらに見事なものにつくりあげていく」(練馬区サイト)と、ボランティアが中心として管理しているようである。私が行った時は、管理するための小屋が設置され、「カタクリガイド」といわれる人が二、三人いて、参観者に説明などを行っていた。すでにあげた写真をみればわかるように、林床では笹などの背の高い下草は除去され、カタクリなどの低い野草に日の光りがあたるようになっている。また、説明パネルによると、定期的に高木類を交代して伐採し、雑木林の更新がはかられているということである。革新都政の時代に始まったカタクリ群生地の環境保護が、今の時代にも受け継がれているのである。

「即身入仏」が行われた「聖なる土地」としての清水山

清水山憩いの森には、もう一つの顔がある。伝説によれば、禅海法師という僧侶がこの地で即身入仏したとされている。次の2つの写真は、禅海法師の入定塚とその説明パネルである。

禅海法師の入定塚(2014年3月31日撮影)

禅海法師の入定塚(2014年3月31日撮影)

禅海法師の入定塚説明パネル(2014年3月31日撮影)

禅海法師の入定塚説明パネル(2014年3月31日撮影)

説明パネルの内容を紹介しておこう。

   

禅海法師の入定塚
 別荘橋の南側、清水山憩いの森一帯は旧小榑村の飛び地で、東の稲荷山までの北斜面はカタクリの群生地と湧水地帯であった。
 毎年3月下旬から四月上旬を中心にたくさんの可憐なカタクリの花が咲き乱れ、区内外から訪れる見学者も多い。
 この一隅に小さな祠がある。明暦三年(一六五七)八月、禅海という一人の僧が洞窟の中で、念仏の鐘の音が消えた時が今生の別れであると言い残して入定したという伝説の行人塚である。供養の碑が一基建っている。
                      (「練馬の伝説)所収」)。

  禅海法師と入定塚
 明暦年間、村の樋沼家に旅装を解いた禅海法師は、背負仏の薬師如来像を開帳して村人の信仰を集めた。約一年を過ぎた後、即身入仏という一大悲願を達成の為、清水ほとりの洞窟で入定、成仏された禅海法師を村人は、ねんごろに葬りその冥福を祈った。自らが用意した墓石と後に淀橋柏木施主 栗原ぎん(昭和七年十二月八日と刻された)花立石が据えられている。因みに禅海法師の過去帳は大泉の教学院に保存されているという。

 禅海法師が見守ってくれていたお陰で今年も又、たくさんの早春の妖精たちの美しい花が見られると感謝しています。カタクリ はかな草たちよ。
                            合掌

即身入仏とは、仏教の修行の一環として、僧侶が土中の穴などに入って瞑想状態のまま絶命しミイラ化することをさしている。この説明パネルでは、ここで即身入仏した禅海法師が見守っているからカタクリなどが見られると述べているのである。

これは、あまりにも、文学的もしくは宗教的すぎる表現と思われるかもしれない。私も最初、そう考えた。しかし、ある意味では一理あるとも思うようになった。

なぜならば、ここが禅海法師の即身入仏した地として伝承される(そのことの真偽は問わない)ことで、この地の「聖性」が強められ、結果的に開発を抑止する一因になったのではないかと考えられるからである。

まず、たぶん、この清水山は、東京57選にも数えられる湧水があることで、もともと「聖なる土地」だったのではなかろうか。柳田国男監修・民俗学研究所編『民俗学辞典』(東京堂、1951年)の「泉」の項目においては、次のようにいわれている。

清い泉のかたわらには例外なしに、神の社または仏堂が建っている。水の恩徳を仰ぐことの深かった素朴な住民は、泉の出現を神仏の御利益に結びつけて考えようとした。霊泉発見の功績を弘法台紙に帰する伝説は国の隅々に行き渡っている〔弘法清水〕。

つまり、民俗では、そもそも泉ー湧水の出現自体が神仏に関連したものとして認識されているのである。特に、弘法大師=空海に結び付けられていることが多々みられる。そして、ここの引用にある「弘法清水」について、『民俗学辞典』は、次のように指摘している。

旅の高僧に対して親切にもてなした結果、望ましいところに湧泉を得、逆に不親切にしたもののところの泉がとめられてしまったという類型の伝説をいう。ほとんど全国的にみられ、その旅僧は大体弘法大師というように伝えられている。

『民俗学辞典』では、「弘法清水」伝説の類型を紹介しながら、「弘法清水」の泉は神聖なもので日常の使用を忌むこと、とめられてしまった場合は掘り返すと罰があたると伝えてその地がタブー視されることも付記している。つまり、「弘法清水」の地は、タブー視される「聖なる土地」になるということになる。

さて、今度は、即身入仏についてみておこう。弘法大師ー空海は、死去の際、即身仏になったと伝承されている。そうなると、禅海法師の即身入仏は、弘法大師のそれを模倣し、その生き方を再現しようとした行為としても認識されていたと考えられる。この清水山の地は、もともと「泉」として「聖なる土地」であったと考えられる(もしかすると、すでに「弘法清水」の伝説もあったかもしれない)。この地で禅海法師が即身入仏したと伝承されることは、ある意味で弘法大師の修行をこの地で再現したことになるだろう。そして、この地にも「弘法大師」の聖性が付加されていくことになったと思われる。

弘法大師の聖性をもった「弘法清水」の地は、日常的使用が避けられたり、掘り返すこともできないタブーの地であったりするような「聖なる土地」なのである。この地が、近世から現代にかけて、どのような変遷をたどったか、今は不明である。ただ、仮説的にいえば、「泉」があること、そして弘法大師の修行を再現した「即身入仏」がなされたと伝承されることによって、この地は「聖なる土地」となり、開発がタブー視され、その結果、開発されずにカタクリが群生する雑木林が残されたとみることができるのではなかろうか。その意味で、この地で即身入仏したとされている禅海法師が見守ることで、カタクリなどの花が咲いているということは一ついえると思うのである。

おわりに
さて、ここでまとめておこう。カタクリが群生する環境が保護される前提には、前近代において「泉」であり「即身入仏」が行われた「聖なる土地」として地域住民に認識されることが必要であったといえる。そのように「聖なる土地」として認識されることで、タブー視され、開発が抑止されたといえるのではなかろうか。
そして、環境保護が強く意識された革新都政の時代になって、この地は、公共的に保護されるようになった。いわば、前近代の「聖なる土地」が、現代の環境保護の前提となっているのである。そのことの意味を私たちは問わなくてはならない。前近代と現代、この二つの時代の論理はもちろん違う。しかし、いわば人間を越えたものを尊重しなくてはならないと考えたところに両者の共通点があるのではなかろうか。そして、前近代からの課題を現代において再検討するという営為によって、私たちは多少なりともオルタナティブな未来を展望できるのだと思う。

広告

Read Full Post »