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Posts Tagged ‘浪江町’

前回のブログでは、5月8日に私が常磐道を使って福島県浜通りを北上しようとしたが、常磐道が片道一車線、対面通行で、以前よりも交通量が増え、横風にもあったため、いわき市最北のいわき四倉インターチェンジで常磐道を下りたことを紹介した。この時点で、私は迷った。常磐道でも帰還困難区域を通過せざるをえないのだが、一般道国道6号線は福島第一原発の前を通過しており、より高線量の地点があると予想せざるをえない。

実際、後から調べたことだが、国道6号線は常磐道より多くの被曝を強いられることになっているようだ。「物流ニッポン」というサイトの2015年7月13日付の記事では、次のように説明されている。

内閣府の原子力災害対策本部原子力被災者支援チームが6月24日に公表した資料によると、避難指示区域通過による被ばく線量は、国道6号で放射線量が最も多い区間(42.5キロ)を時速40キロで通過した場合が「1.2マイクロシーベルト」。これは、胸部X線集団健診の被ばく線量60マイクロシーベルトの50分の1程度だ。また、常磐道・広野インターチェンジ(IC)―南相馬IC(49.1キロ)を時速70キロで通過した際の被ばく線量は0.37マイクロシーベルトで、X線健診の160分の1に当たる――としている。
http://logistics.jp/media/2015/07/13/251

今、考えてみると、常磐道でもそれなりの被曝を覚悟しなくてはならないが、その3倍以上の被曝になっていたようである。沿道のモニタリングでも、常磐道では最大毎時4μSv程度だが、国道6号線沿いには毎時12μSvの地点もあるようだ。福島第一原発により近い国道6号線では、より被曝を覚悟しなくてはならないのである。

とはいえ、多分、公開されている限り、一度は福島第一原発前を通りたいと考えてもいた。そこで、四倉から国道6号線を使って、浜通りを北上することにした。

とはいえ、四倉から楢葉町までの区間は避難指示が解除されている。事故後、行ったこともある。事故後に行かなかったところは、富岡町から浪江町の区間だ。大雑把に言えば、富岡町中心部は居住制限区域(年間20〜50mSv)、富岡町北部ー大熊町ー双葉町が帰還困難区域(年間50mSv以上)、浪江町(海岸部)以北が避難指示解除準備区域(年間20mSv以下)となっている。とにかく、行ってみることにした。

このあたりは、山地と海に挟まれ、山地からは小河川が流れ、小河川に沿って平坦地があって田畑や小さな街並みが所在し、それぞれの小河川流域を区切るように岡があって、そこに林地が広がっているという地形だ。その地形にはもちろん変化はない。国道6号線沿いに所在する林地は新緑となっており、そこここで、藤の花が満開となっていた。見た目だけでは、「美しい自然」なのである。

国道6号線における帰還困難区域の通行は、放射線を多少でも遮蔽できる自動車でしか許されない。自動二輪や徒歩は通行禁止となっていた。そこで、帰還困難区域の境界は、車道は開放されているが、警官もしくは警備員が警戒していた。たぶん、自動二輪や歩行者を追い返すことが任務なのだろう。

帰還困難区域に入ってみると、津波に遭わなかったところでは、意外と町並みはかたづいている感じがした。地震で壊れていたような家屋は撤去されたようであり、残っていた家も青いビニールシートなどで屋根が補修されていた。ただ、国道6号線の沿いにある全ての家の前にはバリケードが築かれていた。また、国道6号線と交差する道路の多くは封鎖され、そこも警官もしくは警備員で警備されていた。

当たり前だが、警官・警備員以外に人はいない。富岡町(北部)・大熊町・双葉町の街並みに住民はいない。新緑の林に囲まれた、それらの街には人は住んでいないのである。

もちろん、線量の高低などは体感できるわけはない。ただ、ところどころに線量を表示する電光掲示板があった。表示されている線量は、最高毎時3μSV台だったかと記憶している。ただ、「ここは帰還困難区域(高線量区域を含む)」や「この先帰還困難区域につき通行止」という立看がそこここにあった。

この帰還困難区域内には、福島第一原発入口もある。しかし、それも封鎖されている交差点の一つにすぎない。

この帰還困難区域の通行に大きな支障はなかった。しかし、車の外に出ることが許されない地域である。信号以外で車を一時停止する気にもならず、写真撮影もしなかった。とにかく、早く通過したいと願うばかりであった。

ようやく、双葉町をぬけ、浪江町に入った。浪江町の海岸部は比較的線量が低く、避難指示解除準備区域となっている。しかし、そこも、それなりに家屋は補修されているものの、住民はほとんどいなかった。

住民をみかけたのは、浪江町をぬけて南相馬市小高に入ってからであった。そして、北上し、南相馬市の中心部である原町に入ると、それなりの賑わいをみることができた。そこから、飯舘村をぬけて、福島市にむかい、帰京の途についた。

帰還困難区域の印象を一言でいうことは難しい。「高線量」の危険とは目に見えないものであり、直接的には常磐道の対面通行のほうが危険に感じてしまう。帰還困難区域の「自然」の美しさが目をひき、「危険」を感じさせなくしている面もある。

しかし、放射線量の高さは、この地に人が自由に出入りしたり、住むことを許さない。たぶん、除染家屋の補修、地震・津波被災の後片付け、避難住民の荷物の運び出し、福島第一原発の廃炉作業など、それぞれの用務で立ち入っている人々はいるだろう。でも、一般には、短時間であっても、車などの遮蔽物から外に出ることは許されていない。

結局、立ち入ること禁止する警官・警備員をのぞけば、街並みだけしか残っていない。そこにいたはずの人々は、立ち退いたままなのだ。帰還を強く望む国・県すら、この地への早期帰還は想定していない。帰還困難区域のありようは、東日本大震災と福島第一原発事故の一つの結果ともいえよう。

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福島県浪江町津島に居住し、3.11以後福島市に避難していた、ある農民が84歳でなくなった。名を三瓶明雄氏という。そのことを伝える福島民報2014年6月8日付につき、写真とテクストで以下にしめしておく(なお、本記事は東京の早稲田大学所蔵の福島民報からとった。いろいろネットなどをみていると、福島県ではすでに6月7日付福島民報で報じられていたらしい)。

福島民報2014年6月8日(6版)21面

福島民報2014年6月8日(6版)21面

 

「 DASH村」出演

三瓶明雄氏(さんぺい・あきお=「DASH」村出演者)6日午前8時50分、急性骨髄性白血病のため伊達市の病院で死去、84歳。自宅は福島市新浜町2の38。通夜は9日午後6時から、告別式は10日正午からともに福島市泉のさがみ福島ホールで。喪主は美智子(みちこ)さん。
 日本テレビ系の番組「ザ!鉄腕!DASH!!」に出演。人気グループTOKIOのメンバーと浪江町津島の山村「DASH村」で農作業などに当たった。東京電力福島第一原発事故により浪江町が避難区域となり、福島市に避難していた。

この三瓶明雄氏は、日本テレビ系の番組「ザ!鉄腕!DASH!!」に出演し、福島県外でも知られた人だったようである。そこで、東京の各新聞も、三瓶明雄氏の氏を報じた。下記に、拙宅(東京)に配達された朝日新聞における死亡記事をあげておく。

朝日新聞2014年6月7日朝刊(14版)38面

朝日新聞2014年6月7日朝刊(14版)38面

 

三瓶明雄さん(さんぺい・あきお=農業)6日、福島県伊達市内の病院で死去、84歳。通夜は9日午後6時から、葬儀は10日正午から福島市泉下鎌15の1のさがみ福島ホールで。
 日本テレビ系のバラエティー番組「ザ!鉄腕!DASH!!」で、アイドルグループTOKIOが同県浪江町で農作業などをする人気企画「DASH村」に出演。メンバーに農作業の指導をしていた。

福島民報より簡略になっているが、記事内容に大きな違いはない。しかし、一点違いがある。福島民報では死因が「急性骨髄性白血病のため」となっている。しかし、朝日新聞の記事は死因の記述はない。ネットでみる限り、読売新聞・毎日新聞なども死因の記載はないのである。スポニチアネックスによると「死因は不明」とされている。
(スポニチアネックスはhttp://news.livedoor.com/article/detail/8911823/より引用。)

そして、日本テレビの『ザ!鉄腕!DASH!!』では6月8日の放送で、番組レギュラーの TOKIOが三瓶明雄氏を追悼するメッセージが流された。感動的なものであったが、三瓶氏が「急性骨髄性白血病」でなくなったことには一言もふれていないのである。ここでは、メッセージの動画と、それを報道した朝日新聞のネット配信記事をあげておこう。

TOKIO、三瓶明雄さん追悼「見守ってね」
2014年6月8日

 日本テレビ系『ザ!鉄腕!DASH!!』(毎週日曜 後7:00)が8日放送され、看板コーナー「DASH村」で農作業を指導し、今月6日に他界した三瓶明雄(さんぺい・あきお)さんをTOKIOのメンバーが偲んだ。番組の最後、これまでの思い出を振り返るVTRが流され、ナレーションで優しく語りかけるように感謝を伝えた。

     ◇

 明雄さん、僕達は正直、まだ心の整理がつかずにいます。

 本当はまた今年の米を一緒に収穫したかった。

 もう会えないなんて、今は信じることができません。

 明雄さん、僕たちは明雄さんに教えてもらった、自分の手で作り、育てることの素晴らしさや大切さをずっと忘れずにやっていきます。

 だから僕達がしっかりやれているか見守っていてね。

 そして天国で少しはゆっくり休んで下さい。

 TOKIO

 三瓶さんは企画開始時からTOKIOのメンバーに農作業や山仕事のいろはを教え、訃報に際しネット上では「6人目のTOKIO」とその功績や人柄が讃えられている。
http://www.asahi.com/and_w/interest/entertainment/CORI2038375.html?iref=comtop_list_andw_f01

がんや白血病は、放射線被曝で発生することもあると一般的に想定されている病気である。福島県でも、児童の甲状腺がん患者が発生していると報道され、このブログでも紹介している。ただ、福島県では、放射線被曝との関連性を認めていない。

そのようなことから類推するならば、三瓶明雄氏の死因が「急性骨髄性白血病」であったとしても、原因を放射線被曝であるということは否定できるはずだといえる。にもかかわらず、福島県外のメディアは、おしなべて三瓶明雄氏の死因を隠蔽した。

この隠蔽によって、逆説的に次のことがいえるだろう。福島県外のメディアは、福島県内のがんや白血病の罹患は放射線被曝の影響かもしれないと考えている。しかし、彼らは、そのことを報道することをタブーとしているといえるだろう。ある意味で「美味しんぼ」批判がきいている。「急性骨髄性白血病」の罹患が、放射線被曝によるものであるかないか、これはだれにも確定的には答えられない。ただ、福島県の関係者のように、「この程度の被曝線量では白血病は発症しえない」と言い切ることは可能であろう(そのことが妥当であるかどうか、これこそ歴史の審判が必要だろうが)。しかし、福島県外のメディアは、そうする自信もなく、死因を報道しないことを選択している。その際、放射線が現実に影響するかどうかではなく、「福島県に居住し続けている人びとの思いを慮って」というだろう。

まことに「優しい」ことである。ただ、この「優しさ」とは、がん患者にがんに罹患していることを伝えない「優しさ」に似ていると思う。私個人がどう判断するかということではない。この「隠蔽」と「優しさ」は、福島県外のマスコミが「急性骨髄性白血病」という病名への意識と、それを報道することへのリアクションを、問わず語りに語っているといえるのだ。

そして、この「優しい隠蔽」の背後で、以下の福島県のサイトをみるように、 TOKIOを起用した、福島県の野菜販売促進キャンペーンは続いていっているのである。

http://www.new-fukushima.jp/tvcm_vege

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2013年3月25日、全域が立ち入りが制限される警戒区域のもとにあった富岡町は、避難指示区域を再編し、避難指示解除準備区域と居住制限区域には昼間の立ち入りが認められるようになった。

しかしながら、この措置は問題がないとはいえない。そもそも、国が決めた基準では、被曝線量年間20mSv以下の地域を避難指示解除準備区域、20〜50mSvの地域を居住制限区域、50mSvを超える地域を帰還困難区域としている。国としては、将来的には被曝線量年間1mSvをめざして除染を進めるとはしているが、20mSv以下の地域では、水道などの生活上必要なインフラが整備されれば、避難指示を解除し、居住を認めるということになっている。そして、居住制限区域も除染などの進行によって放射線量が20mSv以下になれば避難指示解除準備区域に移すことにしている。

つまりは、被曝線量年間20mSvを居住可能の線引きとしているのである。一般公衆の場合は被曝線量年1mSv(毎時0.23μSv)未満とされ、これが除染基準となっているが、その20倍の被曝線量が福島第一原発地域の基準となっているのである。

そして、もう一つの問題がある。いろいろ検討してみると、被曝線量年間20〜50mSvになる居住制限区域も、避難指示解除区域と同様に、昼間の立ち入りが認められているということである。ある意味で、無用な被曝を惹起しかねないということである。

それでは、現実に、富岡町の区域再編をみていこう。3月に富岡町が出した、「富岡町への立入りのしおり」によると、区域再編は次のようなものになっている。

富岡町における避難指示区域の見直し地図

富岡町における避難指示区域の見直し地図


http://www.tomioka-town.jp/living/cat4/2013/03/000807.html

富岡町では、ほとんど国の基準に忠実に区画の線引きをしたことがわかる。立ち入りが制限される帰還困難区域は、北東部の一部だけである。その他の50mSv未満の地域は、昼間は原則的に立ち入ることができる。国道6号線上における帰還困難区域との境界にある富岡消防署前においては検問所が設置され、国道6号線から帰還困難区域に通ずる道路は封鎖されているが、その他の検問所はないのである。

そして、さらに問題なのは、富岡町の放射線量がかなり高いということである。上の図でもわかるが、避難指示解除準備区域においても、その多くが年間10〜20mSvという放射線量を示している。年間1mSv未満のところはどこにもなく、低線量地帯でも多くは5mSv以上なのである。

それは、現在の放射線量モニタリング調査の結果からもわかる。

町内空間線量(3月分)

町内空間線量(3月分)


http://www.tomioka-town.jp/living/cat25/2013/04/000852.html

一番低いところが毛萱集会所の毎時0.63μSvであるが、それすら、一般公衆の基準の2倍以上である。1μSvを下回るところは少ない。高いところは14μSvをこえている。なお、この14μSvをこす線量を示した太平洋ブリーディングというところは、小良が浜という富岡町の北東部にあり、帰還困難区域に属しているようである。

このように、富岡町も推奨しているように、防護装備がないと立ち入ることに懸念をおぼえる地域なのである。しかし、この地域への立ち入りは可能なのである。

なお、4月1日に区画再編を実施した浪江町も基準自体は同じである。ただ、避難指示解除準備区域に指定された浪江町の海側は富岡町よりも概して低く、年間1〜5mSvの場所が多い。そして、浪江町では、町外の人が浪江町内に立ち入る場合には「臨時浪江町通行証」を発行し、ある程度制限している。また、町内の検問所も7ヵ所と多い。

この区域再編について、富岡町では、本格的除染を進め、インフラなどの復旧をはかるためとしている。ある程度、自由に立ち入ることができないと、除染やインフラ復旧がすすまないというのである。

富岡町の区域の見直しにあたって

富岡町の区域の見直しにあたって


(「富岡町への立入りのしおり」より)

しかし、多くの富岡町民は、元の居住地に戻ることが難しいと感じている。昨年末に実施した、富岡町住民意向調査調査結果(速報版) では、多くの住民が富岡町に戻らないと答えている。

富岡町住民意向調査調査結果(速報版)より

富岡町住民意向調査調査結果(速報版)より


http://www.tomioka-town.jp/living/cat16/2013/02/000731.html

上記のように、現時点で、戻りたいと考えている人は約15%。判断がつかない人は約43%であるが、戻らないことに決めている人が約40%で、戻りたいと考えている人の2倍以上となる。若い人びとほど戻らないと決めている人たちが多い。特に30代が多いが、これは子育て世代のためなのだろう。世代が高くなるたびに戻りたい人たちが増えてくるが、それでも、戻りたいと考える比率が大きくなるのは70代以上のみ。この推移でいくと、富岡町は老人のみの町になってしまうだろう。

そして、戻らない理由として、多くの人が放射線や福島第一原発事故への不安をあげている。

富岡町住民意向調査調査結果(速報版) より

富岡町住民意向調査調査結果(速報版) より


http://www.tomioka-town.jp/living/cat16/2013/02/000731.html

戻らない理由として80%の人が放射線量への不安をあげ、70%が福島第一原発への不安をあげている。その他、家荒廃や、商業施設や医療施設の不備を多くあげている。なお、戻るかいなかの判断基準については約82%がインフラ整備をあげているが、放射線への不安については約77%が判断基準としている。仕事がないから戻らないというのは、思ったよりも少なく、36%にすぎない。たぶんに、福島第一原発、福島第二原発、広野火発などの東電の施設における雇用を念頭に置いているといえる。確かに、富岡町に戻ることが出来たら、東電での雇用が期待できるだろう。このような形での雇用確保は、この地域における原発再稼働への期待の一因となっていると思われる。しかし、放射線や福島第一原発事故への不安は、多くの住民に富岡町に戻ること自体を断念させているのである。

昨年9月に出された富岡町災害復興計画(第一次)でも、早くても町内への住民の帰還が開始されるのは、2017年度からとしている。しかも、その時点での生活拠点は比較的線量が低い富岡町の南東部に限定されている。そして、町内への帰還を望まない町民の生活拠点をいわき市と郡山市に設けるとしている。防護設備がないと立入り自体に懸念をおぼえるような、年間20mSvの被曝線量下の生活は、富岡町の多くの住民は望んでいないといえよう。

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さて、前回は、1968年に建設計画が発表した東北電力の浪江・小高原発が、地元の浪江町棚塩の地域住民の反対運動によって、3.11直前まで着工が阻止されてきたことを述べつつ、最終的に福島第一原発事故によって、同地域が居住困難な地域になってしまったことを述べた。

この棚塩地区の現状はどのようなものであろうか。まず、Googleによる3.11以後の航空写真をみてほしい。

この航空写真は、棚塩地区の原発建設反対運動の指導者であった舛倉隆が住んでいた中舛倉を中心としたものである。中舛倉は、南棚塩に属し、水田に囲まれていた。しかし、この航空写真をみればわかるように、3.11の津波襲来により、ほとんど集落は原型をとどめていない。中舛倉の海側には、南棚塩のいくつかの集落が点在しているが、それらの多くも、ほとんど原型をとどめていないのである。そして、周辺に広がっていた水田も、津波によって泥の海となっている。

この棚塩地区の状況について、風船によって空中から2011年4月16日に撮影された動画がある。撮影者である「義援バルーン空撮」は「撮影位置は海岸線から1kmの地点」(http://www.t01.com/11041603z.html)と解説している。中舛倉よりもやや陸側の地点ではないかと推定される。しかし、この地点でも津波が押し寄せ、水田に瓦礫が散乱しているのである

他方、浪江・小高原発の建設される予定地であった北棚塩のほうをみておこう。この地図の三枚岩というところを中心に浪江・小高原発は建設される予定であった。この地域は標高20m以上ある台地にあり、山林や畑が多い地域であった。航空写真だけからみるならば、津波の直撃はさけられた模様である。

このように、原発建設反対運動の根拠であった南棚塩の土地や家屋は、東日本大震災の津波によって大きな被害を受けたのである。

なお、放射線量は、2013年2月18日21時において棚塩集会所のモニタリングポストの値が0.110μSv/hであり、とりあえず、年間1mSvをこえる線量となる0.23μSv/hを下回っている。浜通り各地の海側の放射線量は比較的低いが、この地域もそうなのだといえる。この地域だけならば、隣接する南相馬市小高区浦尻地区のように、立入りはできるが居住はできない避難指示解除準備区域になることも可能かもしれない。実際、2013年1月25日、浪江町は、棚塩地区などを避難指示解除準備区域にする方針を示した。しかし、浪江町の山側の放射線量は非常に高い。この棚塩地域が避難指示解除準備区域となっても、水道他のインフラを整備するのはかなり困難であろうと思われる。

そして、津波で壊滅した低地の集落や水田を復旧することにも困難が予想されるのである。

このように、浪江・小高原発建設反対運動の拠点であった浪江町棚塩地区は、東日本大震災による津波と福島第一原発事故によって大きな打撃を蒙ったのである。この両方で、浪江町棚塩地区を含めた福島県浜通りが被害を受けたということ、そして、単に原発事故だけでなく、津波被害からの復旧という課題もこの地域にあることを忘れてはならないのである。

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ここで、福島県浪江町・小高町(現南相馬市)に建設される予定であった東北電力浪江・小高原発建設反対運動についてみておこう。このことについては、反対運動の指導者舛倉隆への取材に基づいたルポルタージュである恩田勝亘『原発に子孫の命は売れないー舛倉隆と棚塩原発反対同盟23年の闘い』(七つ森書館 1991年)が克明に記載している。同書に依拠しながら、成立期の反対運動の論理をみていこう。

東京電力の福島第一原発が立地するにあたり、浪江町も候補地の一つとなり調査された。そして、東北電力労組出身で民社党所属の福島県議浜島隆の示唆により1967年5月26日に浪江町議会が原発誘致促進の決議をあげ、福島県や東北電力に陳情するにいたった。そして、1968年1月4日、木村守江福島県知事により、東京電力の福島第二原発建設計画とともに浪江町棚塩地区・小高町浦尻地区にまたがって東北電力によって原発を建設することが発表された。

しかし、浪江・小高原発建設計画は、浪江町議会で誘致決議があげられているにもかかわらず、建設される地点付近の住民にも、一般町民にも、1968年1月4日の知事発表までふせられていた。そのため、建設される地点付近(浪江町棚塩地区、小高町浦尻地区)の住民は強く反発し、反対運動が結成されるようになった。すでに、1968年1月21日には、「浪江原子力発電所建設誘致反対決議」が出されている。ここで、まず、紹介しておきたい。

浪江原子力発電所建設誘致反対決議
 東北電力株式会社は、昭和四十三年一月五日早々に、相馬郡小高町浦尻地区の一部を含む双葉郡浪江町棚塩地区一円を原子力発電所建設予定地として内定した旨の正式発表をし、去る一月十三日、浪江町長を通じ、用地の確保について関係地域民に対する協力方の説明がなされたが、関係地域農民としては事前に何らの話し合いも説明会もないままに建設予定地として内定されたことは、まさに、農民の権利と利益を無視し、工業優先、地域開発の美名のもとに、我々農民の多年に渉る努力によって培われてきた土地を収奪し、生活権を侵害する以外のなにものでもない。
 我々は、あらゆる圧迫に屈することなく、いたずらな言動に迷わされることなく、農民自身の利益を守るため、あらゆる力を結集して断固反対するものである。
 おもえば当該地域には水田、畑、採草地、放牧地、山林、入植増反地及び墓所など様々の形態を示し、そのほとんどが約五百戸に及ぶ地域農民の所有地である。特に、戦後に於ける農地改革によって山林の三分の二はすでに入植地や代替地として解放され、一戸当りの山林所有面積が平均化し、所有地の減少をみるに至っている。加えて、その後農業基本法の立法化に伴い農業の選択的拡大を図り水田酪農による経営の安定を目指して、解放後の限られた山林を改良しつつ、家畜の粗飼料を確保、これを活用して畜産振興への途を拓いたのである。とりわけ、水田単作地帯である当地区は、必然的に畑地が少なく、個々の所有地は零細化され、僅かに自給野菜を生産するに止まる状態である。
 また、農業近代化を推進する農林省並に県の強力な指導助言により四十年度には、第二次開拓営農振興法に基づく入植地の耕土改善事業に着手、水田酪農を基本とする飯米自給農家の育成に力を注ぎ過去三年間の努力によって開田作業が急ピッチで進められ、漸次経営安定に向いつつある農家も少なくない現状である。
 しかも、全戸が農家であり、水田単作地帯であるために、これら地勢的条件を生かして農業の近代化を図り、格差のない豊かな生活を保証していくためには、海岸線一帯に展開されている山林の開発により、開田、開畑、及び牧野改良による自給飼料の確保がどうしても必要であることはいうまでもない、これらの豊かな自然条件を電源基地として失うことは、農民としてまことに忍び難いものがある。
 例えこれらの見返りとしての補償金を得たとしても、いったん手放した農地は再びわれわれの手には還らない。農民にとって土地は生きるすべてであり、農民のいのち、こころのふるさとである。いわんや、祖先以来営々として、生きかわり死にかわりしつつ、絶ゆることなく耕してきた貴重な遺産である。
 今後、営農の規模拡充のため、益々山林はその必要性を増し、且つ高度利用化に専心すべき時期に来ている。養蚕経営と併せて昭和四十二年一月より逐次開田または開畑による耕地の増反が年次計画として第一歩をふみ出している矢先でもあり、金ヶ森の堤の改修ならびに掛け入れ耕土の構造改善を計画し、基盤整備をすすめようとしている現状にある。一方すでに開発された農免道路の新規開通によって果樹園形成の第一候補地として、若い農業後継者たちの期待もきわめて大きいものがある。特に波浪による山林の浸蝕を防ぐため護岸推進もそのためである。
 以上のような土地利用上の特殊事情にある当地域としては仮りに東北電力のいうような広大な土地を必要とする原子力発電の用地として転用された場合は、今まであらゆる努力を傾注して築き、且つ夢みてきた繁栄する地域農村のビジョンは一場の夢と消えさるのみか、土地を提供することによって徒らに耕地が細分化され生産意欲は減退し、農林省のいう生産基盤の拡大はおろか、益々小規模農家が増えることは必至である。なかんずく開拓農家に至っては完全な失業者に転落することは明白な事実であると言わねばなるまい。
 我々は、このような自滅への道を辿る愚さをお互に戒しめ相共に固い団結の力によって財産権の不可侵を主張し、働らく農民の利益を守るため、あらゆる障害を排除して、この土地を守り抜くことを誓うものである。従って、我々の土地を東北電力の原子力発電基地にすること及びこれを誘致しようとする町当局のあらゆる措置に対し、慎重で且つ良識ある反省を促しながら断固反対するものである。
右、決議する。
 昭和四十三年一月二十一日
            浪江原発建設絶対反対棚塩・浦尻地域住民
            小高・浪江一般町民反対者決起期成同盟町民大会
(恩地『原発に子孫の命は売れないー舛倉隆と棚塩原発反対同盟23年の闘い』)29頁

この決議文は、いくつかの特徴を有している。まず、この決議文は、農地解放後の農政の展開を前提として、山林も漸次開拓したり畜産飼料の採取地とするなど将来的に利用することによって、それぞれの農家が経営を安定させ、その上で、「地勢的条件を生かして農業の近代化を図り、格差のない豊かな生活を保証」することをめざしてきたとしている。そして、原発建設による大規模な用地買収は「今まであらゆる努力を傾注して築き、且つ夢みてきた繁栄する地域農村のビジョン」を消し去るものとしているのである。このような反対運動の論理は、原発建設が工業化推進を前提とすることと大きく違っているのである。

このような論理は、同時期の福島第二原発建設に対する富岡町毛萱地区の反対運動にもみてとれるが、この決議文では、より鮮明にあらわれているといえよう。浪江町・小高町の周辺住民にとって、原発建設とは「農民の権利と利益を無視し、工業優先、地域開発の美名のもとに、我々農民の多年に渉る努力によって培われてきた土地を収奪し、生活権を侵害する」ものなのであった。

さらに、「農民にとって土地は生きるすべてであり、農民のいのち、こころのふるさとである。いわんや、祖先以来営々として、生きかわり死にかわりしつつ、絶ゆることなく耕してきた貴重な遺産である。」とまで指摘している。まずは、祖先以来の土地を守っていくこと、それが彼らの心情の基礎にあったといえる。

これは、ある意味で、この棚塩地区のあり方にねざしたものであった。棚塩地区は、浜通りでは数少ない水田耕作が盛んな地域であった。農業だけでも経営が安定できる条件を有していたのである。原発敷地予定地の大半は山林・桑畑であったが、この時期は、そのような土地に対しても、開田・開畑や家畜飼料採取地として利用することによって、農業経営を安定化させようとしていたのであった。そのようなことが、この決議文の背景にあるといえるのである。

他方、この決議文では、かなり長文でありながら、原発固有の、放射能問題が全くふれられていないことにも注目しておかねばならない。恩地前掲書では、広島の原爆体験を有する住民もいて、放射能の問題について発言していたようであるが、この決議文には反映していないのである。ただ、恩地前掲書によると、しだいに反対運動側も放射能問題について学習していったのである。

この運動の後の経過については、別の機会にまわしたい。しかし、この浪江・小高原発建設反対運動の端緒となったこの決議文を読んでいると、複雑な感慨にとらわれる。この浪江・小高原発建設反対運動は、原発建設反対運動の中では成功した部類であるといえる。運動の指導者舛倉隆の死後も、東北電力は浪江・小高原発建設着工はできず、3.11を迎えた。しかし、3.11以後、この地域も含めて、浪江町一帯は福島第一原発事故のために、居住が困難な地域になってしまった。そして、結局、「農民にとって生きるすべてであり、農民のいのち、こころのふるさと」であった「土地」は、この地域の反対運動の帰趨とは無関係に失われてしまったのである。そこには「歴史」の「残酷さ」が表出されているといえよう。

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さて、このブログで、河北新報記事に依拠して、福島県児童36万人を対象とした甲状腺検査で、すでに1名のがん患者が発生しており、さらに甲状腺異常が約42.1%、二次検査が必要な児童が0.5%発見されたことを伝えた。

このことを打ち消すかのごとく、2012年11月25日付朝日新聞朝刊は、一面トップで次のような記事をのせた。まず、ネット配信した分をみてみよう。

福島のがんリスク、明らかな増加見えず WHO予測報告

 【大岩ゆり】東京電力福島第一原発事故の被曝(ひばく)による住民の健康影響について、世界保健機関(WHO)が報告書をまとめた。がんなどの発生について、全体的には「(統計学的に)有意に増える可能性は低いとみられる」と結論づけた。ただし、福島県の一部地域の乳児では、事故後15年間で甲状腺がんや白血病が増える可能性があると予測した。報告書は近く公表される。

 福島第一原発事故による健康影響評価は初めて。100ミリシーベルト以下の低線量被曝の影響には不確かな要素があるため、原爆やチェルノブイリ原発事故などの知見を参考に、大まかな傾向を分析、予測した。

 WHOはまず、福島県内外の住民の事故による被曝線量を、事故当時1歳と10歳、20歳の男女で甲状腺と乳腺、大腸、骨髄について、生涯分と事故後15年間分を推計した。その線量から甲状腺がんと乳がん、大腸がんなどの固形がん、白血病になるリスクを生涯と事故後15年間で予測した。

 成人で生涯リスクが最も高かったのは福島県浪江町の20歳男女。甲状腺がんの発生率は被曝がない場合、女性が0.76%、男性は0.21%だが、被曝の影響により、それぞれ0.85%、0.23%へ1割程度増えると予測された。他のがんは1~3%の増加率だった。
http://www.asahi.com/special/energy/TKY201211240631.html

これだけみると、リスクが低いようにみえるだろう。しかし、これは、成人の場合に限られる。さらに、成人の場合でも、甲状腺がんの増加傾向は認めざるをえないのである。成人の場合については、朝日新聞本紙に掲載されたこの記事の続きで「福島県のほかの地区の成人の増加率は甲状腺以外はおおむね1%以下で、全体的には統計的有意に増加する可能性は低いとの結論になった。」としている。

しかし、浪江町だけ、それなりに影響を認めているのはなぜだろう。この予測に使った被曝線量について、朝日新聞はこのように報道している。

 

予測に使った被曝線量
 福島の原発事故による被曝線量推計の報告書(WHOが5月に公表)などをもとに、性別、年齢ごとに臓器別の線量を被爆後15年間と生涯で地域ごとに計算した。この結果、1歳児の甲状腺の生涯の被曝線量は、浪江町が122ミリシーベルト、飯舘村で74、葛尾村が49、南相馬市が48、福島市や伊達市、川俣町、楢葉町などは43などと推計された。
 国連によると、チェルノブイリ原発事故の避難民の甲状腺被曝は平均490ミリシーベルト。子どもを中心に約6千人が甲状腺がんになった。ただし、甲状腺がんの治療成績は良く、死亡は十数人にとどまる。

なんのことはない。浪江町の被曝線量は生涯で122mSvで、健康に影響があるとされる年間100mSvに近くなるのだ。「通説」に従った結果なのである。

そして、児童については、甲状腺がん・甲状腺異常が増加する傾向を認めざるを得なくなっているのである。朝日新聞は、このように伝えている。

 

一方、被曝の影響を受けやすい子どもでは地域によって増加率が高くなった。浪江町の1歳女児が16歳までに甲状腺がんになる可能性は0.004%から、被曝の影響で0.037%へと9.1倍になった。飯館村では5.9倍、福島市などで3.7倍に増えると予測された。浪江町の1歳男児の白血病は0.03%が1.8倍になるとされた。
 胎児のリスクは1歳児と同じ。県外の住民は全年齢で健康リスクは「無視できる」と評価された。
 また、低線量でも若い時期に甲状腺に被曝すると良性のしこりや嚢胞(液状の袋)ができる可能性が高まるとも指摘。「がん化の可能性は低いが、注意深く見守っていくことが重要」と指摘した。

これは、どういうことなのだろうか。浪江町女児1歳の場合、いくら元来甲状腺がんの発がんリスクは高くないとしても、それが9倍になるということは、放射線の影響がないとはいえないのではないか。また、放射線被曝によって児童の場合は、甲状腺異常が発生する可能性も増えているとしている。しかも、これは「予測」なのである。

もちろん、この WHOの予測自体が、低線量被曝は人体への影響が少ないという「通説」に依拠するものだと考えられる。それでも、さすがに、チェルノブイリ事故による小児甲状腺がんの多発により、甲状腺がんはそれなりにデータが得られており、低線量被曝でもがんリスクが増加することを認めざるを得ないというのが、この報告書なのだと考えられる。

しかし、朝日新聞では「がんリスク 福島原発事故の影響、明らかな増加見えず」と、少なくとも児童においてはあてはまらない見出しをつけている。

そして、三面の解説記事では、このように説明している。

 

世界保健機関(WHO)は、福島第一原発事故の被曝による健康影響について、全体的には、がんが「有意に増える可能性は低い」とした。
 これは、被曝でがんが発生がないという意味ではない。日本人の2人に1人は一生のうちにがんが見つかっており、福島県民約200万人のほぼ半数はもともとがんになる可能性がある。このため、仮に被曝で千人にがんが発生しても増加率が小さく、統計学的に探知できないということだ。
 一方で、小児の甲状腺がんのように患者数が少ないと、わずかな増加も目立つ。福島県浪江町の1歳女児が16歳までに甲状腺がんになる可能性は、0.004%が0.037%へ、約9倍に増えるとされた。これは、仮に浪江町に1歳女児が1万人いたら、甲状腺がんになるのは0.4人から3.7人に増える可能性があるということだ。

予測において統計的に有意の結果は出しにくいというのは事実だろう。しかし、人口の半数が被曝しなくてもがんになるから、放射線被曝の影響によるがん発生率がわからないというならば、調査しなくても同じになる。記者が書いているように、それこそ1000人が被曝によってがんになっても、統計的にはわからないということになる。もし、人口の50%ががんになるにせよ、それが、放射線被曝によって50.001%になるかいなかを調べることが必要とされているのではないか。

そして、小児甲状腺がんにおいては、予測ですらも、低線量被ばくでがん発生率は9〜3.7倍になっている。元来、小児甲状腺がんの発生率が低いとしても、それは大きな増加なのではなかろうか。

そして、このブログでも伝えているように、福島県の児童36万人を対象とした甲状腺検査で、甲状腺異常が約42.1%、二次検査の必要な児童が0.5%発見されている。もちろん、二次検査が必要な児童全員ががんになるわけではない。しかし、放射線被曝がない場合の甲状腺がんの発生率が0.004%というならば、最悪、その100倍が甲状腺がんとなったということになる。9倍などというものではないのである。

WHOなどが予測すること自体はよいだろう。そして、予測が、それまでの通説に基づいてたてるしかないことは了解できる。しかし、福島県の児童を対象とした甲状腺検査結果からみるならば、予測は「過小評価」でしないと考えて比較すべきなのだと思う。その上で、早急に対策をたてるべきなのだ。どうせ人口の半分はがんになるなどとして、何の対策もたてないということは、福島県民を棄民することであり、朝日新聞が「福島のがんリスク、明らかな増加見えず」などと報道することは、それに加担することなのだと思う。

追記:http://www.pref.fukushima.jp/imu/kenkoukanri/240911siryou2.pdfによって福島県の現時点における調査結果を確認した。いまだ、約9万6000人しか調査していないのだが、その調査での甲状腺異常は18119人(43.1%)、二次検査が必要な者が239人(0.6%)である。なお、この調査結果ではがん患者発生は認めていない。つまり、実際に甲状腺がんを発症していても、福島第一原発事故関係ではないと「判断」されてはじかれてしまっているのである。なお、誤解を招いてはいけないので、36万人を基準に検討した人数についての言及は削除させていただくことにした。

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さて、前回は、1960年11月29日に原発受け入れ方針を福島県知事佐藤善一郎が表明したことをみていた。これに対し、福島県議会はどのように対応したのであろうか。

前々回のブログで前双葉町長岩本忠夫が、1971年に日本社会党所属の県議会議員として登場し、原発建設批判を行ったことを述べた。それからみると、日本社会党などが原発建設に反対し、自民党などが賛成していたように想定されるかもしれない。

しかし、全く違うのである。1960年半ばまでの福島県議会では、原発建設をほとんどが歓迎していたのだ。その一例として、原発建設受け入れ方針が表明された1960年11月29日直後の、12月13日の福島県議会における、山村基の発言をみておこう。

 

質問の第一番目は、原子力発電所誘致問題でございますが、質問に入る前に、本問題についての知事のとられた労苦に対してはまことに多としております。のみならず、今後大いに期待し、希望し、そうして来年の知事選挙には、なおかつ佐藤知事がまた県政を担当していただくことが双葉郡民の大体における希望じゃないかということを申し伝えておきます。

単純化すれば、佐藤知事の原発建設受け入れ方針の表明をもろ手をあげて歓迎し、双葉郡民は佐藤知事の再選を支持するであろうと山村は述べたのである。

その上で、山村は、楢葉町龍田海岸、浪江町幾世橋海岸などをあげて、双葉郡には大熊町以外にも適地があるとした。なお、この両地点は、その後発表された福島第二原発、計画された浪江・小高原発の建設地点と重なる。そして、山村は、このようにいったのである。

こうした双葉郡、相馬郡にわたって原子発電所のまことにいい条件のところが少なくとも三カ所はございます。聞くところによれば、東京電力、それから東北電力と双方で発電所を作るというような話でございますけれども、そうだといたしましたならば、二カ所の土地というものが設定されるだろうと思いますが、県はこの土地に調査を進めてみるお考えがあるかどうかお尋ねしたいと思います。

東北電力が原発立地を進めているという話を前提に、県も調査をすすめるつもりがあるかを聞いているのである。いわば、もっと原発誘致を進めてほしいと、暗に訴えているといえよう。

この山村の質問に対し、佐藤善一郎知事は、このように答えている。

 

原子力発電所につきましては、その実現について調査研究を進めている段階でございます。本県でも現在その立地条件を検討中でございます。私は双葉郡、これは率直に申し上げまして本県の後進郡だと申し上げてよろしいと思うのであります。従って、ここの開発につきましては、いろいろと皆様とともに考えておりまして、最も新しい産業をこの地に持っていきたいと考えております。

つまりは、現在、原発立地のため調査を続けているとし、県内でも後進地域であるため、新しい産業を誘致したいと知事は答えているのである。単に、電源開発だけではなく、後進地域とされる双葉郡に新しい産業を誘致することー一応、原発誘致における、福島県側の建前を知事は述べているのである。県議会では、原発誘致に反対する声はなかった。全体としては、福島県議会は、原発誘致を認めていたといえるであろう。

さて、この山村基は、どのような人物だったのだろうか。山村の議論全体は、双葉郡を代表してされており、たぶん双葉郡選出の県議会議員であったことがわかる。また、県知事は山村が医者であることに言及している。さらに、自民党の大井川正巳は「もっとあの避難港を促進させるとするならば、やはり、血は水よりも濃いというたとえの通り、山村議員がわが党に入党して、そして大幅に自民党現政府から予算獲得するということが一番手近でありますので、この際考えていただきたい」と述べているので、保守系無所属であると考えていた。

しかし、調査を続けていくうちに、興味深いことが判明した。『福島県議会史』昭和編第六巻(1976年)に1959年4月23日に執行した県議選当選者一覧が掲載されているが、それによると、山村基は双葉郡浪江町出身で「日本社会党所属」であったことがわかる。山村は、少なくとも一度は社会党に所属していたのだ。

ただ、山村の発言には、ほとんど社会党らしさは感じない。良くも悪くも双葉郡の利益代表という印象がある。後に「無所属クラブ」という会派に入っていることがわかるので、すでに日本社会党を脱党していたのかもしれない。

いずれにせよ、前述したように、他の議員から原発誘致を批判する発言はなかった。県議会で、原発誘致の問題点を検証する営為はみられず、「後進地域」とされる双葉郡の発展を期待する、地元出身の山村基により原発誘致を認め、推進していく発言がなされたのであった。なお、正直にいえば、他地域選出の県議会議員たちは、この時期においては、概して原発誘致についてあまり個人的な関心をもっていない様子がうかがえる。結局、双葉郡を中心とした「開発」幻想の中で、佐藤善一郎の原発誘致方針は県議会の中で認められていくのである。

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