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Posts Tagged ‘浪江・小高原発’

前回、拙著『戦後史のなかの福島原発 ー開発政策と地域社会』(大月書店、2500円+税)が近日中に出版されることをこのブログに投稿した。自己宣伝かたがた、本書の全体のコンセプトについて紹介しておこう。

本書のテーマは、なぜ、福島に原発が立地がなされ、その後も10基も集中する事態となったのかということである。そのことを、本書では、実際に原発建設を受容したり拒否したりする地域住民に焦点をあてつつ、「リスクとリターンのバーター」として説明している。原発事故などのリスクがある原発建設を引き受けることで、福島などの立地社会は開発・雇用・補助金・固定資産税などのリターンの獲得を期待し、それが原発建設を促進していったと私は考えている。

まず、リスクから考えてみよう。原子力についてのリスク認識は、1945年の広島・長崎への原爆投下と1954年のビキニ環礁における第五福竜丸の被曝を経験した日本社会について一般化されていた。1954-1955年における原子力開発体制の形成においては平和利用が強調され安全は問題視されなかったが、1955年における日本原子力研究所の東海村立地においては、放射能汚染のリスクはそれなりに考慮され、大都市から離れた沿海部に原研の研究用原子炉が建設されることになった。その後も、国は、公では原子炉ー原発を「安全」と宣言しつつ、原発事故の際に甚大な被害が出ることを予測し、1964年の原子炉立地審査指針では、原子炉の周囲に「非居住区域」「低人口地帯」を設け、人口密集地域から離すことにされていたのである。

他方で、1957-1961年の関西研究用原子炉建設問題において、関西の大都市周辺地域住民は、自らの地域に研究用原子炉が建設されることをリスクと認識し、激しい反対運動を展開した。しかし、「原子力の平和利用は必要である」という国家や社会党なども含めた「政治」からの要請を否定しきることはなかった。結局、「代替地」に建設せよということになったのである。そして、関西研究原子炉は、原子炉建設というリスクを甘受することで地域開発というリターンを獲得を希求することになった大阪府熊取町に建設されることになった。このように、国家も大都市周辺地域住民も、原発のリスクをそれなりに認識して、巨大原子炉(小規模の研究用原子炉は大都市周辺に建設される場合もあった)ー原発を影響が甚大な大都市周辺に建設せず、人口が少なく、影響が小さいと想定された「過疎地域」に押し出そうとしたのである。

他方で、実際に原発が建設された福島ではどうだっただろうか。福島県議会では、1958年に自民党県議が最初に原発誘致を提起するが、その際、放射能汚染のリスクはすでに語られていた。むしろ、海側に汚染物を流せる沿海部は原発の適地であるとされていた。その上で、常磐地域などの地域工業化に資するというリターンが獲得できるとしていたのである。福島県は、単に過疎地域というだけでなく、戦前以来の水力発電所集中立地地帯でもあったが、それらの電力は、結局、首都圏もしくは仙台で多くが使われていた。原発誘致に際しては、より立地地域の開発に資することが要請されていた。その上で、福島第一原発が建設されていくのである。しかし、福島第一原発の立地地域の人びとは、組織だって反対運動は起こしていなかったが、やはり内心では、原発についてのリスクは感じていた。それをおさえるのが「原発と原爆は違う」などの東電側が流す安全神話であったのである。

さて、現実に福島第一原発が稼働してみると、トラブル続きで「安全」どころのものではなかった。また、1960-1970年代には、反公害運動が展開し、原発もその一連のものとして認識された。さらに、原発について地域社会側が期待していたリターンは、現実にはさほど大きなものではなかった。すでに述べて来たように、原発の立地は、事故や汚染のリスクを配慮して人口密集地域をさけるべきとしており、大規模開発などが行われるべき地域ではなかった。このような要因が重なり、福島第二原発、浪江・小高原発(東北電力、現在にいたるまで未着工)の建設計画発表(1968年)を契機に反対運動が起きた。これらの運動は、敷地予定地の地権者(農民)や漁業権をもっている漁民たちによる、共同体的慣行に依拠した運動と、労働者・教員・一般市民を中心とした、住民運動・社会運動の側面が強い運動に大別できる。この運動は、決して一枚岩のものではなく、内部分裂も抱えていたが、少なくとも、福島第一原発建設時よりははっきりとした異議申し立てを行った。そして、それまで、社会党系も含めて原発誘致論しか議論されてこなかった福島県議会でも、社会党・共産党の議員を中心に、原発批判が提起されるようになった。この状況を代表する人物が、地域で原発建設反対運動を担いつつ、社会党所属の福島県議として、議会で原発反対を主張した岩本忠夫であった。そして、福島第二原発は建設されるが、浪江・小高原発の建設は阻止されてきたのである。

この状況への対策として、電源三法が1974年に制定されたのである。この電源三法によって、工業集積度が高い地域や大都市部には施行されないとしつつ、税金によって発電所立地地域において道路・施設整備などの事業を行う仕組みがつくられた。同時に立地地帯における固定資産税も立地地域に有利な形に変更された。大規模開発によって原発立地地域が過疎地帯から脱却することは避けられながらも、地域における反対運動を抑制する体制が形成された。その後、電源三法事業・固定資産税・原発雇用など、原発モノカルチャー的な構造が立地地域社会で形成された。このことを体現している人物が、さきほどの岩本忠夫であった。彼は、双葉町長に転身して、原発推進を地域で強力に押し進めた。例えば、2002年に福島第一・第二原発の検査記録改ざんが発覚するが、岩本は、そのこと自体は批判しつつも、原発と地域社会は共存共栄なのだと主張し、さらに、国と東電は最終的に安全は確保するだろうとしながら、「避難」名目で周辺道路の整備を要求した。「リスク」をより引き受けることで「リターン」の拡大をはかっていたといえよう。岩本忠夫は議会に福島第一原発増設誘致決議をあげさせ、後任の井戸川克隆もその路線を受け継ぐことになった。

3.11は、原発のリスクを顕然化した。立地地域の多くの住民が生活の場である「地域」自体を奪われた。他方で、原発のリスクは、過疎地にリスクを押しつけたはずの大都市にも影響を及ぼすようになった。この3.11の状況の中で、岩本忠夫は避難先で「東電、何やってんだ」「町民のみんなに『ご苦労さん』と声をかけてやりたい」と言いつつ、認知症となって死んでいった。そして、後任の井戸川克隆は、電源三法などで原発からリターンを得てきたことは認めつつ、そのリターンはすべて置いてこざるをえず、借金ばかりが残っているとし、さらに「それ以外に失ったのはって、膨大ですね。先祖伝来のあの地域、土地を失って、すべてを失って」と述べた。

原発からのリターンは、原発というリスクがあってはじめて獲得できたものである。しかし、原発のリスクが顕然化してしまうと、それは全く引き合わないものになってしまう。そのことを糊塗していたのが「安全神話」ということになるが、3.11は「安全神話」が文字通りの「神話」でしかなかったことを露呈させたのである。

この原発をめぐるリスクとリターンの関係において、福島の多くの人びとは、主体性を発揮しつつも、翻弄された。そして、このことは、福島外の私たちの問題でもある。

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7月22日、拙著『戦後史のなかの福島原発 ー開発政策と地域社会』(大月書店、2500円+税)が出版されることになった。大月書店のサイトから、目次と内容紹介をここであげておく。

戦後史のなかの福島原発 これから出る本

目次
第一章 原子力開発の開始と原子力関連施設の大都市圏からの排除
第一節 原子力開発の開始
第二節 日本原子力研究所東海村立地とリスク認識
第三節 「反原発運動」の源流としての関西研究用原子炉設置反対運動
第四節 原子炉立地審査指針の確定

第二章 地域開発としての福島第一原発の建設(一九六〇-一九六七)
第一節 福島県による原発誘致活動
第二節 福島第一原発立地と地域社会
第三節 福島第一原発の建設

第三章 福島県における原発建設反対運動の展開(一九六八-一九七三)
第一節 原発建設予定地における地権者の反対運動
第二節 一般住民による原発建設反対運動
第三節 福島県議会における反対意見の噴出

第四章 電源交付金制度と原発建設システムの確立(一九七四-一九七九)
第一節 電源交付金制度の成立
第二節 原発依存社会の行方
第三節 「日常の風景」を切り裂いた三・一一

内容説明
「平和利用」と「安全」を信じ、町の繁栄を願って立地を決めた地域。他方、放射能汚染を恐れ立地を阻んだ地域。実験炉導入前後から現在まで、地域社会における原発の受容~変容過程をリスクとリターンの交換という視点から描く。

 

http://www.otsukishoten.co.jp/book/b181018.html

 

本書の源流はこのブログにある。このブログに掲載した文章をもとにいくつかの論考を発表し、さらに、それらをまとめ直して本書になった。本書の執筆・校正の過程で、資料・文献を再度照合しており、より正確な記述になったと思う。出版していただいた大月書店と、細部にわたって的確な意見をいただいた担当編集者の角田三佳さんには感謝の念を申し述べておきたい。

また、このブログを読んでいただいたり、ご意見を頂いたりした皆さまの力があってこそ、本書の出版にこぎ着けられたといえる。そのことにも感謝しておきたい。

しかし、本書が出版されても、福島の原発周辺地域の人びとが苦難していることにはかわりがない。さらに、原発再稼働・原発輸出の動きもやむことはない。安倍政権の動きをみていると、「国民を守る」という大義名分のもとに核兵器保有すらしかねないとさえ思う。そういうことを見直す一助に本書がなることを私は祈念する。

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以前、福島第二原発建設反対運動において、建設予定地の富岡町毛萱などの地権者ー農民たちの抵抗が1970年に終息した後、むしろ一般住民の反対運動が展開されるようになったことを、本ブログで論じた。

その後、平工業高校教員であり、後に原発・火発反対福島県連絡会事務局長となる早川篤雄の「福島県楢葉町・富岡町の事例について」(『東北地方の「地域開発」政策と公害』、1973年)という論文を入手した。この早川の論文は、日本科学者会議福島支部などが主催してが973年2月3日にいわき市で開いた『東北地方「地域開発と公害」』シンポジウムにおける報告の一つである。この中で、多分、自身も当事者として参加したと思われる「公害から楢葉町を守る会」について詳述している。この会も一般住民の反対運動の一つといえる。

早川によれば、楢葉町の一般住民の反対運動は、地権者たちの抵抗が終息した後に開始されている。まず、早川の回想をみておこう。

 

「公害から楢葉町を守る町民の会」は、火発・原発の建設が本決まりとなって?、ブルの音が聞かれるようになって、ようやく生まれました。町長選挙が来年の夏に迫った、46年12月、“第1回「町長を囲む懇談会」”が楢葉町南地区(6日)と北地区(7日)で開催された。町長の町政説明の後で質問、意見を述べた者は85名(2日間)のうち28名であった。そのうち火発・原発の不安について訴えを述べた者は3名であった。この時の町長・町側の答弁に疑いと不安を深くした1人、松本巻雄氏(いわき中央高校)が住民運動を呼びかけたのである。(『東北地方の「地域開発」政策と公害』17頁)

 この論文より、一般住民における反対運動の端緒は、原発(福島第二原発)、火発(広野火力発電所)の建設が本決まりになったことであることがわかる。福島第二原発は1968年に建設計画が発表され、富岡町毛萱を中心とした地権者ー農民の反対運動が起きたが、1970年には地権者ー農民の反対運動は終息した。他方、東電の広野火力発電所は、1971年に広野町議会が誘致決議をし、その年のうちには、建設予定地の85%が確保されたといわれている。この時期の火力発電所は、煤煙処理施設などの公害防止施策が十分ではなく、原発以上に公害源と目されていた。そして、1971年末に表明された原発、火発問題についての町側の対応に疑惑と不安を持った、いわき中央高校教員の松本巻雄によって、住民運動を起こすことが提唱されたのである。

早川によると、1972年1月15日には松本他10名によって準備会が開催されたという。そして、2月11日には、会員130名で「公害から楢葉町を守る町民の会」が結成された。

「公害から楢葉町を守る町民の会」結成時の決議文が『楢葉町史』第三巻に収録されている。すでに、本ブログで紹介していているので、概略だけ紹介しておこう。この会は「美しい自然の山河と町民の平和な暮らしと、我々の子孫を守る」ことを目的とした。自然、町民生活、町民の子孫を守ることが、この会の目的であったのである。そして、活動内容としては、

一町民各位への啓蒙、宣伝活動
一公害の科学的調査、研究会、資料の蒐集
一楢葉町の自然保護
一各種公害の予防、防止対策と補償要求運動
一機関紙の発行
一全国各地の公害反対組織運動との連携
一その他公害から楢葉町を守る仕事に関すること

であった。町民への啓蒙・宣伝活動や、公害の科学的調査・研究に力点がおかれていたといえる。いわば、市民運動としての原発反対運動なのである
 
早川によると、この会は、環境庁長官、楢葉町長、楢葉町議会、福島県などに陳情をするとともに、楢葉地区労などと共闘して楢葉町有権者を対象にして火発・原発建設即時中止を求める署名運動を展開し、さらに“公害を知る講演会”を実施しているのである。

そして、早川は、「福島県楢葉町・富岡町の事例について」の中で、次のように一年間の活動を回顧している。

1年間の活動から得た?、もう一つはー大企業があって国があって県があって町がある。その大前提は当地域のようなもの言わぬ住民である。ーこれは私個人のおそすぎた目覚めである。
 41年12月に、福島原発1号機の建設が始められたこと、42年5月に、浪江・小高両町に東北電力の原発誘致問題が起こったこと、43年にはわが町にも原発が誘致されるらしいこと、そして浪江町の地権者や富岡町の毛萱地権者が猛烈な反対運動を繰り広げていたこと等々、私はそれぞれの時点からよく知っていました。電力開発は公共事業なんだから、これはやらねばならんだろうし、又これからのこの地域のためにもある程度の犠牲は仕方ないだろうぐらいに、正直なところ、そんなふうに考えていました。そして46年4月に、広野町に火発が誘致されるらしいと知ったときに、これは大変なことになる、下手にしたら住めなくなると、はじめて自分のこととして驚きました。それで、二、三の知人あるいは隣近所の人達と困ったことになったと、話し合ったりしているうちに、みんなも自分と同じくらいな考えと心配をしていることが判った時、重大な誤解をしていることに気づきました。誤解でなく、気付かなかったのである。火発で驚いてはじめて気が付いたのです。ところがそれでもまだ“これからの世の中”と“誰か”に賭けていました。ーあれは、アカだ。ーの殺し文句が未だに生きている地域でもあるからです。こうした情況が、昭和版「谷中村事件」の再演をここでも一つ許していたー毛萱にも広野にも地を吐くような思いで、土地を手放した?人がいたのである。『県勢長期展望』を見ると、ー本展望のメーンテーマは「人間尊重」であり……「福島県に住んで良かったとしみじみ思う社会」ーの建設を試みたとあります。どこの、だれが住むでしょうか。

・ 原発の不安=どういうことか漠然としてわかりにくい。(原子力なんて、われわれにはとても理解できない科学・技術である、と考えているので)
・ “原発反対”は、住民の立ち上がりだけでは相当困難である。
・ “双葉地区の特殊性”から一番先頭に立つのは、まず小・中・高の教職員以外にないと思われる。(『東北地方の「地域開発」政策と公害』18〜19頁)

まず、早川は「大企業があって国があって県があって町がある。その大前提は当地域のようなもの言わぬ住民である。ーこれは私個人のおそすぎた目覚めである。」と述べている。これは、1973年時点の発言だが、現在でもー3.11以後でもー変わらない状況が続いているといえよう。

そして、早川は、福島第一原発の建設、浪江・小高原発の建設計画、福島第二原発の建設計画、そして、地権者たちの反対運動があったことは承知していたが、「電力開発は公共事業なんだから、これはやらねばならんだろうし、又これからのこの地域のためにもある程度の犠牲は仕方ないだろうぐらいに、正直なところ、そんなふうに考えていました。」と、率直に反省している。

そのような早川の認識を変えたのが、広野火力発電所建設計画であった。早川は「46年4月に、広野町に火発が誘致されるらしいと知ったときに、これは大変なことになる、下手にしたら住めなくなると、はじめて自分のこととして驚きました。それで、二、三の知人あるいは隣近所の人達と困ったことになったと、話し合ったりしているうちに、みんなも自分と同じくらいな考えと心配をしていることが判った時、重大な誤解をしていることに気づきました。誤解でなく、気付かなかったのである。火発で驚いてはじめて気が付いたのです。」と述べている。広野火力発電所建設計画が表面化し、ようやく「下手したら住めなくなる」と、自分のこととして驚いたと早川は告白している。そして、それは、早川だけでなく、知人や隣近所の人びとが共有している思いだったのである。

これは、現在、日本全国の多くの人びとが考えている意識と共通するものがあるといえる。3.11の福島第一原発事故があり、「下手したら住めなくなる」という意識がうまれ、それによりやっと原発問題を自分のこととして考えはじめた人は多いのではなかろうか。私も、その一人であることを、ここで告白しておこう。

しかし、それでも、自分自身の行動により、異議申立をしようとする人びとは少なかった。早川は、「ところがそれでもまだ“これからの世の中”と“誰か”に賭けていました。ーあれは、アカだ。ーの殺し文句が未だに生きている地域でもあるからです。こうした情況が、昭和版「谷中村事件」の再演をここでも一つ許していたー毛萱にも広野にも地を吐くような思いで、土地を手放した?人がいたのである。」と述べている。

冷戦終結後、異議申立を「アカ」=共産主義者として抑圧することは少なくなったといえる(ただし、むしろ、今は「非国民」などとレッテル張りされているのかもしれない)。しかし、2012年末の総選挙にあるように、「“これからの世の中”と“誰か”に賭け」ることは横行している。その上で、公害のために村を犠牲にした「谷中村」事件は、今や、村落レベルをこえた形で「再演」されてしまっているのである。

その上で、早川は、当時の福島県の『県勢長期展望』に「福島県に住んで良かったとしみじみ思う社会」の建設を試みたとあることに、このように切り返す。ー「どこの、だれが住むでしょうか」と。

そう、いま、楢葉町において、どこの、だれが住んでいるのであろうか。そして、だれが「福島県に住んで良かったとしみじみ」と思っているのであろうか。今から40年前の、1973年の発言が、まるで予言のように思えてならないのである。

もちろん、そのような未来を実現させないことが「公害から楢葉町を守る会」の目的であった。当時において、懸命に活動していたといえる。しかし、結果的には、このような未来が実現してしまった。このことについて、私たちは、もっと深く考えていかねばならないと思う。

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さて、前回は、1968年に建設計画が発表した東北電力の浪江・小高原発が、地元の浪江町棚塩の地域住民の反対運動によって、3.11直前まで着工が阻止されてきたことを述べつつ、最終的に福島第一原発事故によって、同地域が居住困難な地域になってしまったことを述べた。

この棚塩地区の現状はどのようなものであろうか。まず、Googleによる3.11以後の航空写真をみてほしい。

この航空写真は、棚塩地区の原発建設反対運動の指導者であった舛倉隆が住んでいた中舛倉を中心としたものである。中舛倉は、南棚塩に属し、水田に囲まれていた。しかし、この航空写真をみればわかるように、3.11の津波襲来により、ほとんど集落は原型をとどめていない。中舛倉の海側には、南棚塩のいくつかの集落が点在しているが、それらの多くも、ほとんど原型をとどめていないのである。そして、周辺に広がっていた水田も、津波によって泥の海となっている。

この棚塩地区の状況について、風船によって空中から2011年4月16日に撮影された動画がある。撮影者である「義援バルーン空撮」は「撮影位置は海岸線から1kmの地点」(http://www.t01.com/11041603z.html)と解説している。中舛倉よりもやや陸側の地点ではないかと推定される。しかし、この地点でも津波が押し寄せ、水田に瓦礫が散乱しているのである

他方、浪江・小高原発の建設される予定地であった北棚塩のほうをみておこう。この地図の三枚岩というところを中心に浪江・小高原発は建設される予定であった。この地域は標高20m以上ある台地にあり、山林や畑が多い地域であった。航空写真だけからみるならば、津波の直撃はさけられた模様である。

このように、原発建設反対運動の根拠であった南棚塩の土地や家屋は、東日本大震災の津波によって大きな被害を受けたのである。

なお、放射線量は、2013年2月18日21時において棚塩集会所のモニタリングポストの値が0.110μSv/hであり、とりあえず、年間1mSvをこえる線量となる0.23μSv/hを下回っている。浜通り各地の海側の放射線量は比較的低いが、この地域もそうなのだといえる。この地域だけならば、隣接する南相馬市小高区浦尻地区のように、立入りはできるが居住はできない避難指示解除準備区域になることも可能かもしれない。実際、2013年1月25日、浪江町は、棚塩地区などを避難指示解除準備区域にする方針を示した。しかし、浪江町の山側の放射線量は非常に高い。この棚塩地域が避難指示解除準備区域となっても、水道他のインフラを整備するのはかなり困難であろうと思われる。

そして、津波で壊滅した低地の集落や水田を復旧することにも困難が予想されるのである。

このように、浪江・小高原発建設反対運動の拠点であった浪江町棚塩地区は、東日本大震災による津波と福島第一原発事故によって大きな打撃を蒙ったのである。この両方で、浪江町棚塩地区を含めた福島県浜通りが被害を受けたということ、そして、単に原発事故だけでなく、津波被害からの復旧という課題もこの地域にあることを忘れてはならないのである。

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ここで、福島県浪江町・小高町(現南相馬市)に建設される予定であった東北電力浪江・小高原発建設反対運動についてみておこう。このことについては、反対運動の指導者舛倉隆への取材に基づいたルポルタージュである恩田勝亘『原発に子孫の命は売れないー舛倉隆と棚塩原発反対同盟23年の闘い』(七つ森書館 1991年)が克明に記載している。同書に依拠しながら、成立期の反対運動の論理をみていこう。

東京電力の福島第一原発が立地するにあたり、浪江町も候補地の一つとなり調査された。そして、東北電力労組出身で民社党所属の福島県議浜島隆の示唆により1967年5月26日に浪江町議会が原発誘致促進の決議をあげ、福島県や東北電力に陳情するにいたった。そして、1968年1月4日、木村守江福島県知事により、東京電力の福島第二原発建設計画とともに浪江町棚塩地区・小高町浦尻地区にまたがって東北電力によって原発を建設することが発表された。

しかし、浪江・小高原発建設計画は、浪江町議会で誘致決議があげられているにもかかわらず、建設される地点付近の住民にも、一般町民にも、1968年1月4日の知事発表までふせられていた。そのため、建設される地点付近(浪江町棚塩地区、小高町浦尻地区)の住民は強く反発し、反対運動が結成されるようになった。すでに、1968年1月21日には、「浪江原子力発電所建設誘致反対決議」が出されている。ここで、まず、紹介しておきたい。

浪江原子力発電所建設誘致反対決議
 東北電力株式会社は、昭和四十三年一月五日早々に、相馬郡小高町浦尻地区の一部を含む双葉郡浪江町棚塩地区一円を原子力発電所建設予定地として内定した旨の正式発表をし、去る一月十三日、浪江町長を通じ、用地の確保について関係地域民に対する協力方の説明がなされたが、関係地域農民としては事前に何らの話し合いも説明会もないままに建設予定地として内定されたことは、まさに、農民の権利と利益を無視し、工業優先、地域開発の美名のもとに、我々農民の多年に渉る努力によって培われてきた土地を収奪し、生活権を侵害する以外のなにものでもない。
 我々は、あらゆる圧迫に屈することなく、いたずらな言動に迷わされることなく、農民自身の利益を守るため、あらゆる力を結集して断固反対するものである。
 おもえば当該地域には水田、畑、採草地、放牧地、山林、入植増反地及び墓所など様々の形態を示し、そのほとんどが約五百戸に及ぶ地域農民の所有地である。特に、戦後に於ける農地改革によって山林の三分の二はすでに入植地や代替地として解放され、一戸当りの山林所有面積が平均化し、所有地の減少をみるに至っている。加えて、その後農業基本法の立法化に伴い農業の選択的拡大を図り水田酪農による経営の安定を目指して、解放後の限られた山林を改良しつつ、家畜の粗飼料を確保、これを活用して畜産振興への途を拓いたのである。とりわけ、水田単作地帯である当地区は、必然的に畑地が少なく、個々の所有地は零細化され、僅かに自給野菜を生産するに止まる状態である。
 また、農業近代化を推進する農林省並に県の強力な指導助言により四十年度には、第二次開拓営農振興法に基づく入植地の耕土改善事業に着手、水田酪農を基本とする飯米自給農家の育成に力を注ぎ過去三年間の努力によって開田作業が急ピッチで進められ、漸次経営安定に向いつつある農家も少なくない現状である。
 しかも、全戸が農家であり、水田単作地帯であるために、これら地勢的条件を生かして農業の近代化を図り、格差のない豊かな生活を保証していくためには、海岸線一帯に展開されている山林の開発により、開田、開畑、及び牧野改良による自給飼料の確保がどうしても必要であることはいうまでもない、これらの豊かな自然条件を電源基地として失うことは、農民としてまことに忍び難いものがある。
 例えこれらの見返りとしての補償金を得たとしても、いったん手放した農地は再びわれわれの手には還らない。農民にとって土地は生きるすべてであり、農民のいのち、こころのふるさとである。いわんや、祖先以来営々として、生きかわり死にかわりしつつ、絶ゆることなく耕してきた貴重な遺産である。
 今後、営農の規模拡充のため、益々山林はその必要性を増し、且つ高度利用化に専心すべき時期に来ている。養蚕経営と併せて昭和四十二年一月より逐次開田または開畑による耕地の増反が年次計画として第一歩をふみ出している矢先でもあり、金ヶ森の堤の改修ならびに掛け入れ耕土の構造改善を計画し、基盤整備をすすめようとしている現状にある。一方すでに開発された農免道路の新規開通によって果樹園形成の第一候補地として、若い農業後継者たちの期待もきわめて大きいものがある。特に波浪による山林の浸蝕を防ぐため護岸推進もそのためである。
 以上のような土地利用上の特殊事情にある当地域としては仮りに東北電力のいうような広大な土地を必要とする原子力発電の用地として転用された場合は、今まであらゆる努力を傾注して築き、且つ夢みてきた繁栄する地域農村のビジョンは一場の夢と消えさるのみか、土地を提供することによって徒らに耕地が細分化され生産意欲は減退し、農林省のいう生産基盤の拡大はおろか、益々小規模農家が増えることは必至である。なかんずく開拓農家に至っては完全な失業者に転落することは明白な事実であると言わねばなるまい。
 我々は、このような自滅への道を辿る愚さをお互に戒しめ相共に固い団結の力によって財産権の不可侵を主張し、働らく農民の利益を守るため、あらゆる障害を排除して、この土地を守り抜くことを誓うものである。従って、我々の土地を東北電力の原子力発電基地にすること及びこれを誘致しようとする町当局のあらゆる措置に対し、慎重で且つ良識ある反省を促しながら断固反対するものである。
右、決議する。
 昭和四十三年一月二十一日
            浪江原発建設絶対反対棚塩・浦尻地域住民
            小高・浪江一般町民反対者決起期成同盟町民大会
(恩地『原発に子孫の命は売れないー舛倉隆と棚塩原発反対同盟23年の闘い』)29頁

この決議文は、いくつかの特徴を有している。まず、この決議文は、農地解放後の農政の展開を前提として、山林も漸次開拓したり畜産飼料の採取地とするなど将来的に利用することによって、それぞれの農家が経営を安定させ、その上で、「地勢的条件を生かして農業の近代化を図り、格差のない豊かな生活を保証」することをめざしてきたとしている。そして、原発建設による大規模な用地買収は「今まであらゆる努力を傾注して築き、且つ夢みてきた繁栄する地域農村のビジョン」を消し去るものとしているのである。このような反対運動の論理は、原発建設が工業化推進を前提とすることと大きく違っているのである。

このような論理は、同時期の福島第二原発建設に対する富岡町毛萱地区の反対運動にもみてとれるが、この決議文では、より鮮明にあらわれているといえよう。浪江町・小高町の周辺住民にとって、原発建設とは「農民の権利と利益を無視し、工業優先、地域開発の美名のもとに、我々農民の多年に渉る努力によって培われてきた土地を収奪し、生活権を侵害する」ものなのであった。

さらに、「農民にとって土地は生きるすべてであり、農民のいのち、こころのふるさとである。いわんや、祖先以来営々として、生きかわり死にかわりしつつ、絶ゆることなく耕してきた貴重な遺産である。」とまで指摘している。まずは、祖先以来の土地を守っていくこと、それが彼らの心情の基礎にあったといえる。

これは、ある意味で、この棚塩地区のあり方にねざしたものであった。棚塩地区は、浜通りでは数少ない水田耕作が盛んな地域であった。農業だけでも経営が安定できる条件を有していたのである。原発敷地予定地の大半は山林・桑畑であったが、この時期は、そのような土地に対しても、開田・開畑や家畜飼料採取地として利用することによって、農業経営を安定化させようとしていたのであった。そのようなことが、この決議文の背景にあるといえるのである。

他方、この決議文では、かなり長文でありながら、原発固有の、放射能問題が全くふれられていないことにも注目しておかねばならない。恩地前掲書では、広島の原爆体験を有する住民もいて、放射能の問題について発言していたようであるが、この決議文には反映していないのである。ただ、恩地前掲書によると、しだいに反対運動側も放射能問題について学習していったのである。

この運動の後の経過については、別の機会にまわしたい。しかし、この浪江・小高原発建設反対運動の端緒となったこの決議文を読んでいると、複雑な感慨にとらわれる。この浪江・小高原発建設反対運動は、原発建設反対運動の中では成功した部類であるといえる。運動の指導者舛倉隆の死後も、東北電力は浪江・小高原発建設着工はできず、3.11を迎えた。しかし、3.11以後、この地域も含めて、浪江町一帯は福島第一原発事故のために、居住が困難な地域になってしまった。そして、結局、「農民にとって生きるすべてであり、農民のいのち、こころのふるさと」であった「土地」は、この地域の反対運動の帰趨とは無関係に失われてしまったのである。そこには「歴史」の「残酷さ」が表出されているといえよう。

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1、はじめにー問題の所在
福島第一原発事故を考えた時、いつも頭から離れないことの一つに、地元福島県に電力が供給しない東京電力が設置したということがある。もちろん、福島県の地元に供給していたとしても、事故の悲惨さは変わらないとはいえるのだが。しかし、やはり、不条理である。

といっても、基本的に、原発の生産した電力は、地元ではなく、遠隔の都市部で使われることがほとんどである。そもそも、原発は人口の少ない過疎地に多くは建設される。東海村のような例外は別として、原発自体はそれほど関連企業を吸引する存在ではない。例え、個々の電力会社の営業範囲に原発が立地していたとしても、原発の生産した電力は、大都市部のような電力消費地に送電され、そこで多くが消費される。

しかし、それで、原発が立地している地域が納得したかということは別である。何よりも問題であることは、原発の安全性である。さらに、原発が立地することによって、地域開発にどのような貢献があるのか。そのことは福島県議会でも重大な問題であった。

本ブログでは、これまで、1950~1960年代中葉までの福島県議会において、原発誘致について、日本社会党所属議員も含めて、ほとんど批判がなく、佐藤善一郎や木村守江などの歴代知事たちの、双葉地域を中心とする地域開発―地域工業化の核としての原発建設という論理にのった形で、誘致をおおむね評価する姿勢でいたことを述べてきた。

しかし、1960年末から1970年代初めにおいて福島県議会では、原発建設の問題性が追求されるようになった。ここから、しばらく、この時期の福島県議会における原発問題の論議をみていくことにする。

2、木村守江福島県知事による福島第二原発、浪江・小高原発建設計画の表明
福島県議会における原発問題の論戦の発火点となったのは、1968年1月4日に、木村守江が発表した福島第二原発、浪江・小高原発の誘致計画であった。

福島第二原発の建設反対運動については、本ブログでも、鎌田慧『日本の原発地帯』(1988年)などに依拠しながら、「福島第二原発建設に部落総会で反対した富岡町毛萱の人々ー東日本大震災の歴史的位置」(2011年6月2日)などでみてきた。また、いまだ計画中の浪江・小高原発の反対運動については、恩田勝亘『原発に子孫の命は売れないー舛倉隆と棚塩原発反対同盟23年の闘い』(1991年)が詳細に叙述している。福島第一原発誘致時とかなり違う点の一つとしては、地元に明確な反対運動があるかないかということが、これらの原発についてはあげられよう。そのことを念頭におきつつ、福島県議会の状況をみておくことにする。

1968年1月4日に発表された原発誘致方針は、同年2月14日に行われた福島県議会における木村守江の施政方針演説にもとりいれられた。木村は、1968年度の施策の中心として「南東北工業地帯の造成」「あしたの道路の建設」「住みよい都市の建設」「明るい農村の建設」「教育の振興」の五点をあげた。ある意味で、1960年代を象徴する、「開発」志向がそこにあらわれているといえる。

原発建設について、木村守江は「南東北工業地帯の造成」のなかでふれている。少々長いが、会議録の中から、その部分を引用しておこう。

まずその第一は、南東北工業地帯の造成であります。最近における企業の立地状況を見まするときに、常磐・郡山地区、あるいは県北地区のみならず、会津、県南、相双の各地区にも多数の企業が誘致されており、これらを拠点といたしまして、県内各地区相互の有機的関連をはかりつつ工業化を促進するとともに、公害防止などについて企業の社会的責任を高め、もって一体として南東北における理想的な工業地帯を造成しようとするものであります。そのため、一つには化学コンビナートをはじめとする近代的企業の誘致促進をはかり、二つには最近における企業立地の状況にかんがみ、県内各地区において積極的な工業用地造成を行ない、三つには小名浜港について、新港湾整備五カ年計画に基づき四号埠頭の建設などその画期的な整備を行ない、四つには現在建設中の東京電力原子力発電所に加えまして、今後二大原子力発電施設をはじめ、重油専焼火力発電所、石炭専焼火力発電所の建設によりまして、あわせて将来におきましては二千万キロワットに及ぶエネルギー供給基地を造成することであります。特に本年は原子力発電所、石炭専焼火力発電所の建設に意欲的に取り組む考え方であります。さらには、水資源総合開発基本計画を策定するとともに、猪苗代湖の総合開発をはじめ、特定地域の利水対策の推進をはかろうとするものであります。また、労働力の確保のため、新規学卒者の県内就職を促進し、職業訓練施設の整備を行なうなど、これらによりまして南東北工業地帯の造成に資せんとするものであります。(『福島県議会会議録』 国立国会図書館所蔵)

とにかく、野心的な計画である。常磐や郡山などの既存の工業地帯だけでなく、ある意味で、福島全県を「南東北工業地帯」として開発をすすめることとし、県内各地で工業団地造成をすすめていくというものなのである。その中で、原発を中心とした発電所建設は、重点目標なのであった。福島民報などには、1月4日に木村知事が福島第二原発、浪江・小高原発の誘致計画発表の記事が掲載されているが、そこでも「南東北工業地帯」造成が主張されている。木村は、この年知事選を迎えるが、そのための選挙公約としての意味もあるといえる。

しかし、それまでの原発において目標とされた双葉地域の開発とはイメージが違っていることに注目しておきたい。地域開発は、全県におよぶものとされるとともに、発電所建設は「エネルギー供給基地」造成のためのものとされたのである。元々、建前では、原発の電力を使って立地地域それ自体の工業化をはかることが目的とされていた。ここでは、原発立地地域は、ただの「エネルギー供給基地」になるのである。福島全県が「南東北工業地帯」となるのだが、その中で、原発が立地している双葉地域は、特別な便宜をはかるべき対象ではなくなるのである。

3、原発誘致に懸念を示す自由民主党議員鈴木正一
さて、このような木村の方針は、どのように福島県議会では受け取られたのであろうか。実は、かなり微妙な対応が、木村の与党である自由民主党の議員からもみられたのである。2月21日、自民党の鈴木正一(信夫郡選出)が県議会で代表質問を行った。鈴木は、木村の功績の一つとして「原子力発電所の建設」をあげている。さらに、鈴木は、このように木村県政を評価した。

県土を開発して産業基盤の整備と近代化をはかり、県民の富を増大して県民生活の向上を期するための基本方針として、今回南東北工業地帯の造成、あるいは住みよい都市の建設、あるいは明るい農村の建設を打ち出されましたことは、まことに力強い施策であります(『福島県議会会議録』 国立国会図書館所蔵)。

加えて、鈴木は、京浜・京阪神に比肩する一大工業地帯の形成をめざすものとして、「南東北工業地帯」造成をたたえたのであった。そして、質問の最後のほうで、木村知事に知事選出馬を促している。

だが、鈴木は、「南東北工業地帯」について、部分的には懸念も表明している。

しかしながら、南東北工業地帯造成の推進に当たり、ややもすれば常磐・郡山地区を中心とする新産業都市建設に重点が注がれ、県内各地域の均衡ある工業開発がおくれをとるような事態が生じないよう十分な配慮がなされるべきであると考えられるのでありますが、これが方策をお聞きしたいのであります。
 また工業開発に伴いまして、とかく発生しがちな公害の問題につきましては、快適な県民生活を守るという立場でこれを完全に防止する必要があると思うのでありますが、従来のような後手後手に回りがちな公害防止対策ではなく、これを未然に防止するような具体的な方策を立てるべきだと思うのであります。
 また電力供給基地の中核となる原子力発電所の建設につきましては、その安全性について一部に危惧の念があるようでありますが、これらの不安を解消するためにもこの本会議場において確信のほどを明確にされることを望むものであります。
 なお原子力発電所につきましては、これに関連する企業が少ないのではないかと聞いているのでありますが、この発電所が真に本県の開発に役立つものであるかどうか。この点についてもあわせて明確にされたいと思うのであります(『福島県議会会議録』 国立国会図書館所蔵)。

つまりは、まず、「南東北工業地帯」造成ということで、逆に新産業都市の常磐・郡山だけの開発にならないようにと指摘している。そして、公害についても、未然に防止することが必要であるとしている。

さらに、原発については、安全性に不安があることが指摘されている。加えて、原発は関連企業誘致の波及効果がないことが論じられている。自民党の鈴木にとっても「原発は安全か」「この発電所が真に本県の開発に役立つものであるかどうか」は、疑問になってきたのである。

もちろん、鈴木が、木村知事のいう「南東北工業地帯」造成に賛成であることは確認しておかねばならない。その意味で、究極的には原発建設を容認していたといえる。しかし、それでも、原発がかかえている問題にふれざるをえなかったのである

これまで、自民党議員はおろか社会党議員も含めて、原発建設に懸念を示すということはなかった。原発は安全か。原発建設は立地する地域社会の開発に貢献するのか。公害や、県内における地域開発の落差も含めて、原発がかかえている問題を、自民党議員すら気づくようになったのである。これは、まさしく、1950~1960年代中葉までの福島県議会の認識とは大きく異なっているのである。

4、今後の展望
自民党議員すら原発に懸念を表明するようになったことをここでは述べた。もう少したつと日本社会党の議員たちが、原発建設を批判するようになってくる。特に、このブログではなんども触れたが、1971年に福島県議会に初当選する岩本忠夫(双葉郡選出)は、その急先鋒であった。
 しかし、自民党議員たちも、実は1960年末から1970年代初めにかけて、原発建設には賛成しつつも、原発の安全性などを議会における質問項目に加えていたのである。ある意味で、原発が建設されている地域社会において反対運動がおきていたことと照応するのであろう。もちろん、自民党議員は反対運動を代表するわけではなく、むしろそれを抑圧し、原発を推進する側にいた。しかし、反対運動が提起した原発の問題性を考えようとする意識は、自民党の県議すら共有することになったといえる。ここに、原発問題への意識における転換の始まりを読み取れよう。原発の安全性、さらに原発は地域社会の開発に貢献するのか。それは、推進側の自民党議員すら目をそらすことができなくなった問いなのであった。
そして、社会党議員が中心に指摘し、自民党議員すら感じていた原発の問題性について、次回以降より詳しくみていくことにする。

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さて、再び、1960年代の福島県をみてみよう。福島県で正式に原発受け入れ方針を表明したのは、1960年である。もう一度、『東京電力三十年史』(1983年)をみてみよう。

 福島県の双葉郡は六町二か村からなり、南の小名浜地区は良港や工業地帯をもち、また北の相馬地区は観光資源のほか、小規模ながら工場もあるのに対し、双葉郡町村は特段の産業もなく、農業主導型で人口減少の続く過疎化地区であった。したがって、県、町当局者は、地域振興の見地から工業立地の構想を熱心に模索し、大熊町では三十二年には大学に依頼して地域開発に関する総合調査を実施していた。 
 こうした地域事情を勘案しつつ、当時の佐藤善一郎福島県知事は、原子力の平和利用に熱意を示し、三十三年には、商工労働部開発課に命じて原子力発電の可能性に関する調査研究を開始するとともに、三十五年には日本原子力産業会議に入会、企画開発担当部門のスタッフにより、県独自の立場から双葉郡内数か所の適地について原子力発電所の誘致を検討していた。そのうち大熊町と双葉町の境にあり、太平洋に面する海岸段丘上の旧陸軍航空隊基地で、戦後は一時製塩事業が行われていた平坦地約一九〇万平方メートルの地域を最有力地点として誘致する案を立て、当社に対し意向を打診してきた。
 当社は、前述の検討経緯もあり、三十五年八月、大熊町と双葉町にまたがる広範な区域を確保する方針を固め、県知事に対し斡旋方を申し入れた。知事は、この申入れをきわめて積極的に受け止め、同年十一月には原子力発電所誘致計画を発表した。
 このように、当社が原子力発電所の立地に着眼する以前から、福島県浜通りの未開発地域を工業立地地域として開発しようとの県、町当局の青写真ができており、この先見性こそ、その後の福島原子力にかかわる立地問題を円滑に進めることができた大きな理由といえよう。

このように、東京電力は、自身でも候補地選定を行いつつも、いわば工業立地による双葉郡の開発をめざした、福島県側の積極的な働きによって、福島第一原発建設を決めたとしている。

福島県企画開発部開発課長であった横須賀正雄も「東電・福島原子力発電所の用地交渉報告」(『用地補償実務例』(Ⅰ) 1968年)でこのように語っている。

 

さきに水力、火力発電に努力してきた本県では、さらに原子力利用による発電事業が、本県内で実施できるかどうかを調査することとし、昭和35年にこれを実施した。
 福島県の海岸線は、南部の小名浜地区、北部の相馬地区を除くとほとんど単調な海岸が南北に連なり、漁業の発展も比較的少ない。この海岸線に着目し、特に中央の双葉郡の海岸線を利用した発電所の建設が可能かどうかを調査した。県内でも双葉郡は別表のとおり産業活動がおくれ、人口も少なく、しかも海岸線は大体海面から30m程度の断崖になっている所が多く、適地がいくつかあることがわかったのでその調査書を作成した。
 調査を行った地点は、双葉郡の大熊町と双葉町にまたがる地点、双葉町、浪江町、この3地点を選び、その地点についての気象条件、気象状況、人口の分布状況、あるいは土地の形態、地目等を調査し、1冊の調査書を作成し、東京電力、東北電力、あるいは電子力産業会議(原子力産業会議の間違いであろう)等に話を持ち込み、検討を願ったのである。
 この結果、東京電力としては内々に原子力発電所建設を意図していたらしく、私どもが提出した資料では、まだ不十分な点があるということから、さらに幾つかの調査を東電から依頼された。当時、福島県では財団法人福島県開発公社を設置してあったために、以後の調査等については、この開発公社に依頼し、調査が進められた。その結果、原子力発電所建設地としては十分耐えられるという評価が出されたので、東京電力では、この場所(大熊町)に原子力発電所を建設しようとする意向がほぼ内定したわけである。

横須賀も、福島県側の積極的な働きかけによって福島第一原発の立地が決められたとしている。重要なことは、現在福島第一原発のある大熊町・双葉町だけではなく、より北方の双葉町、浪江町も候補地とされていたことである。さらに働きかけは、東京電力だけではなく、東北電力や日本原子力産業会議にもされていたことである。福島第一原発誘致と同時に他の原発も誘致されていたのである。そして、東北電力による福島県浜通りの原発建設計画は、1968年に浪江・小高原発建設計画として具体化されるが、すでにこの時期から、このことは進行していたのだ。

そして、福島県知事は1960年11月29日に、原発建設を受け入れ方針を正式に表明した。1960年11月30日付読売新聞朝刊は、次のように伝えている。

福島に原子力センター計画 東電が発電所建設へ

【福島発】東京電力はこのほど福島県夫沢地内旧陸軍飛行場と隣接海岸の旧塩田跡に営業用原子力発電所を建設するため地下水ゆう水量を測定するボーリング調査を行いたいと申し入れていたが、二十九日開かれた福島県開発公社第二回理事会(理事長、佐藤善一郎福島県知事)でこの調査を同公社が引き受けることを決めた。調査は来年五月までに終わるが、有望な水脈が確認されれば九電力会社による日本で初めての営業用原子力発電所が福島県に建設される公算が大きい。

 佐藤知事の話では旧飛行場跡と旧塩田を合わせて約三百三十万平方メートルもあり、海岸沿いであることから立地条件は茨城県東海村をしのぐほどで、東京電力は遅くとも十年後に百万キロワットの出力を持つ原子力発電所を設置する意向だという。

一方東北電力も東京電力の建設地の北隣に三十万キロワットの出力を持つ原子力建設計画を進め両社の話し合いは同知事のあっせんでついているので、これが実現すれば茨城県東海村の東海原子力センターにつづいて新しい東北原子力センターが生まれる見込みである。

この記事では、東電の建設計画を福島県が受け入れた形になっている。しかし、東電、福島県双方の記述とも、原発誘致における福島県側の積極的な働きかけを伝えている。その意味で、正式な発表では、福島県側の働きかけは隠蔽されたといえる。

他方、重要なことは、この記事でも福島第一原子力発電所の北側に東北電力が原発を建設する計画があることを伝えている。そして、二つの原発を建設することで、この地域を東海村に比肩する「原子力センター」とすることがうたわれている。後述するが、福島県としては、東電だけではなく、福島県内に電力を供給できる東北電力もこの地域で原発建設を行い、この地域を「原子力センター」とすることを要望したのである。

そして、この方針発表の場が「福島県開発公社」で行われたことにも注目したい。この公社は、調査だけでなく土地買収なども担当していくのである。

この福島県の対応につき、県議会はどのように反応したのか。次回以降みていきたい。

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