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ここで、福島県浪江町・小高町(現南相馬市)に建設される予定であった東北電力浪江・小高原発建設反対運動についてみておこう。このことについては、反対運動の指導者舛倉隆への取材に基づいたルポルタージュである恩田勝亘『原発に子孫の命は売れないー舛倉隆と棚塩原発反対同盟23年の闘い』(七つ森書館 1991年)が克明に記載している。同書に依拠しながら、成立期の反対運動の論理をみていこう。

東京電力の福島第一原発が立地するにあたり、浪江町も候補地の一つとなり調査された。そして、東北電力労組出身で民社党所属の福島県議浜島隆の示唆により1967年5月26日に浪江町議会が原発誘致促進の決議をあげ、福島県や東北電力に陳情するにいたった。そして、1968年1月4日、木村守江福島県知事により、東京電力の福島第二原発建設計画とともに浪江町棚塩地区・小高町浦尻地区にまたがって東北電力によって原発を建設することが発表された。

しかし、浪江・小高原発建設計画は、浪江町議会で誘致決議があげられているにもかかわらず、建設される地点付近の住民にも、一般町民にも、1968年1月4日の知事発表までふせられていた。そのため、建設される地点付近(浪江町棚塩地区、小高町浦尻地区)の住民は強く反発し、反対運動が結成されるようになった。すでに、1968年1月21日には、「浪江原子力発電所建設誘致反対決議」が出されている。ここで、まず、紹介しておきたい。

浪江原子力発電所建設誘致反対決議
 東北電力株式会社は、昭和四十三年一月五日早々に、相馬郡小高町浦尻地区の一部を含む双葉郡浪江町棚塩地区一円を原子力発電所建設予定地として内定した旨の正式発表をし、去る一月十三日、浪江町長を通じ、用地の確保について関係地域民に対する協力方の説明がなされたが、関係地域農民としては事前に何らの話し合いも説明会もないままに建設予定地として内定されたことは、まさに、農民の権利と利益を無視し、工業優先、地域開発の美名のもとに、我々農民の多年に渉る努力によって培われてきた土地を収奪し、生活権を侵害する以外のなにものでもない。
 我々は、あらゆる圧迫に屈することなく、いたずらな言動に迷わされることなく、農民自身の利益を守るため、あらゆる力を結集して断固反対するものである。
 おもえば当該地域には水田、畑、採草地、放牧地、山林、入植増反地及び墓所など様々の形態を示し、そのほとんどが約五百戸に及ぶ地域農民の所有地である。特に、戦後に於ける農地改革によって山林の三分の二はすでに入植地や代替地として解放され、一戸当りの山林所有面積が平均化し、所有地の減少をみるに至っている。加えて、その後農業基本法の立法化に伴い農業の選択的拡大を図り水田酪農による経営の安定を目指して、解放後の限られた山林を改良しつつ、家畜の粗飼料を確保、これを活用して畜産振興への途を拓いたのである。とりわけ、水田単作地帯である当地区は、必然的に畑地が少なく、個々の所有地は零細化され、僅かに自給野菜を生産するに止まる状態である。
 また、農業近代化を推進する農林省並に県の強力な指導助言により四十年度には、第二次開拓営農振興法に基づく入植地の耕土改善事業に着手、水田酪農を基本とする飯米自給農家の育成に力を注ぎ過去三年間の努力によって開田作業が急ピッチで進められ、漸次経営安定に向いつつある農家も少なくない現状である。
 しかも、全戸が農家であり、水田単作地帯であるために、これら地勢的条件を生かして農業の近代化を図り、格差のない豊かな生活を保証していくためには、海岸線一帯に展開されている山林の開発により、開田、開畑、及び牧野改良による自給飼料の確保がどうしても必要であることはいうまでもない、これらの豊かな自然条件を電源基地として失うことは、農民としてまことに忍び難いものがある。
 例えこれらの見返りとしての補償金を得たとしても、いったん手放した農地は再びわれわれの手には還らない。農民にとって土地は生きるすべてであり、農民のいのち、こころのふるさとである。いわんや、祖先以来営々として、生きかわり死にかわりしつつ、絶ゆることなく耕してきた貴重な遺産である。
 今後、営農の規模拡充のため、益々山林はその必要性を増し、且つ高度利用化に専心すべき時期に来ている。養蚕経営と併せて昭和四十二年一月より逐次開田または開畑による耕地の増反が年次計画として第一歩をふみ出している矢先でもあり、金ヶ森の堤の改修ならびに掛け入れ耕土の構造改善を計画し、基盤整備をすすめようとしている現状にある。一方すでに開発された農免道路の新規開通によって果樹園形成の第一候補地として、若い農業後継者たちの期待もきわめて大きいものがある。特に波浪による山林の浸蝕を防ぐため護岸推進もそのためである。
 以上のような土地利用上の特殊事情にある当地域としては仮りに東北電力のいうような広大な土地を必要とする原子力発電の用地として転用された場合は、今まであらゆる努力を傾注して築き、且つ夢みてきた繁栄する地域農村のビジョンは一場の夢と消えさるのみか、土地を提供することによって徒らに耕地が細分化され生産意欲は減退し、農林省のいう生産基盤の拡大はおろか、益々小規模農家が増えることは必至である。なかんずく開拓農家に至っては完全な失業者に転落することは明白な事実であると言わねばなるまい。
 我々は、このような自滅への道を辿る愚さをお互に戒しめ相共に固い団結の力によって財産権の不可侵を主張し、働らく農民の利益を守るため、あらゆる障害を排除して、この土地を守り抜くことを誓うものである。従って、我々の土地を東北電力の原子力発電基地にすること及びこれを誘致しようとする町当局のあらゆる措置に対し、慎重で且つ良識ある反省を促しながら断固反対するものである。
右、決議する。
 昭和四十三年一月二十一日
            浪江原発建設絶対反対棚塩・浦尻地域住民
            小高・浪江一般町民反対者決起期成同盟町民大会
(恩地『原発に子孫の命は売れないー舛倉隆と棚塩原発反対同盟23年の闘い』)29頁

この決議文は、いくつかの特徴を有している。まず、この決議文は、農地解放後の農政の展開を前提として、山林も漸次開拓したり畜産飼料の採取地とするなど将来的に利用することによって、それぞれの農家が経営を安定させ、その上で、「地勢的条件を生かして農業の近代化を図り、格差のない豊かな生活を保証」することをめざしてきたとしている。そして、原発建設による大規模な用地買収は「今まであらゆる努力を傾注して築き、且つ夢みてきた繁栄する地域農村のビジョン」を消し去るものとしているのである。このような反対運動の論理は、原発建設が工業化推進を前提とすることと大きく違っているのである。

このような論理は、同時期の福島第二原発建設に対する富岡町毛萱地区の反対運動にもみてとれるが、この決議文では、より鮮明にあらわれているといえよう。浪江町・小高町の周辺住民にとって、原発建設とは「農民の権利と利益を無視し、工業優先、地域開発の美名のもとに、我々農民の多年に渉る努力によって培われてきた土地を収奪し、生活権を侵害する」ものなのであった。

さらに、「農民にとって土地は生きるすべてであり、農民のいのち、こころのふるさとである。いわんや、祖先以来営々として、生きかわり死にかわりしつつ、絶ゆることなく耕してきた貴重な遺産である。」とまで指摘している。まずは、祖先以来の土地を守っていくこと、それが彼らの心情の基礎にあったといえる。

これは、ある意味で、この棚塩地区のあり方にねざしたものであった。棚塩地区は、浜通りでは数少ない水田耕作が盛んな地域であった。農業だけでも経営が安定できる条件を有していたのである。原発敷地予定地の大半は山林・桑畑であったが、この時期は、そのような土地に対しても、開田・開畑や家畜飼料採取地として利用することによって、農業経営を安定化させようとしていたのであった。そのようなことが、この決議文の背景にあるといえるのである。

他方、この決議文では、かなり長文でありながら、原発固有の、放射能問題が全くふれられていないことにも注目しておかねばならない。恩地前掲書では、広島の原爆体験を有する住民もいて、放射能の問題について発言していたようであるが、この決議文には反映していないのである。ただ、恩地前掲書によると、しだいに反対運動側も放射能問題について学習していったのである。

この運動の後の経過については、別の機会にまわしたい。しかし、この浪江・小高原発建設反対運動の端緒となったこの決議文を読んでいると、複雑な感慨にとらわれる。この浪江・小高原発建設反対運動は、原発建設反対運動の中では成功した部類であるといえる。運動の指導者舛倉隆の死後も、東北電力は浪江・小高原発建設着工はできず、3.11を迎えた。しかし、3.11以後、この地域も含めて、浪江町一帯は福島第一原発事故のために、居住が困難な地域になってしまった。そして、結局、「農民にとって生きるすべてであり、農民のいのち、こころのふるさと」であった「土地」は、この地域の反対運動の帰趨とは無関係に失われてしまったのである。そこには「歴史」の「残酷さ」が表出されているといえよう。

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