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今回は、宮城県の津波被災地を揺るがしている防潮堤建設問題について、私自身の心覚えのため、みてみることにする。

まず、毎日新聞夕刊2013年2月6日付に掲載された、次の記事をみてほしい。

特集ワイド:東日本大震災 巨大防潮堤、被災地に続々計画 本音は「反対」だが…復興が「人質」に 口閉ざす住民
毎日新聞 2013年02月06日 東京夕刊

 東日本大震災の被災地で、巨大防潮堤建設計画が進んでいる。高いコンクリート壁で海を覆えば、海辺の生態系を壊し、津波からの避難が遅れるとの指摘がある。防潮堤問題に揺れる被災地を歩き、失われゆく潮騒を聞いた。【浦松丈二】

 <計画堤防高さ TP+9・8m 高さはここまで>

 宮城県気仙沼市の大谷海岸に電信柱のような看板があった。荒れ地の中に青い海だけが広がる。TPとは「東京湾平均海面」だ。つまり、東京湾を基準に高さ9・8メートルの防潮堤がここに建つのだ。間近に見ると高さに圧倒される。この高さの壁がどこまでも続く……想像したらその重苦しさにめまいがした。9キロ南の海岸にはなんと14・7メートルの防潮堤が計画されている。
 気仙沼市民有志の「防潮堤を勉強する会」の発起人、酒造会社社長の菅原昭彦さん(50)が説明する。「防潮堤は2011年9月に宮城県の震災復興計画として最初に示されました。震災から半年しかたっておらず、これで確定とは誰も思わなかった。県と市は昨年7月から説明会を始めたが内容は当初のまま。しかも防潮堤の位置や形状は話し合えるけれど、高さは変えられないという。あまりに唐突、強引だった」
 住民は昨年8月から専門家を招いて「勉強する会」を計13回開き、毎回100人以上が参加した。だがあえて賛成反対を言わなかった。「私たち住民は復興の予算とスピードを人質に取られているようなもの。文句を言うことで復興全体が遅れることがあっては困るから」と説明する。
 同じ被災地でも地域によって実情は異なる。「工場や産業エリアなら防潮堤が高くてもいいが、海辺の景観で商売をしている所は問題になる。ワカメや昆布などの資源のある地域では生態系への影響が懸念される。でも、防潮堤計画には背後地の利用計画がセットにされていて、復興を進めようとしたら計画をのまざるをえないのです」
 話の途中、菅原さんの携帯電話に友人からメールが入った。「防潮堤各地でどんどん決まっていきますね。いいんですか。このままで?」とあった。年度末が迫り、県は合意形成を急ぐ。菅原さんは「県の担当者が『隣の人は合意した』と戸別訪問したことがあり、強く抗議しました。そんなやり方では、地域の信頼関係が壊れてしまう」と懸念する。
 多くの地域で防潮堤計画はなし崩し的に進んでいる。石巻市雄勝町立浜の銀ザケ・ホタテ養殖業、末永陽市さん(55)は「管理者の県が示した高さだから」と不本意ながら受け入れる意向だ。防潮堤は高さ6・3メートルと震災前に比べ約3メートル高くなる。
「地震発生後は防潮堤の上で海を見ていた。湾内にじわりじわりと海水が上がってきて、後ずさりしながら見守っていたが、防潮堤を越えたら早かった。やばいと思って、一気に裏山まで走った。海が見えていたから避難できた」。全49戸160人の集落ごと流されたものの、死者は5人にとどまった。これまで津波を経験してきた住民たちは、地震直後に裏山にほぼ全員が避難したからだ。だが、海が見えないまま津波がいきなり防潮堤を越えてきたら……。
 大津波で、末永さんは自宅だけでなく、養殖していた銀ザケ12万匹とホタテ35万個を失った。船に同乗し、再開した銀ザケ養殖のエサやりに同行させてもらった。風がごうごうと音をたて、潮騒を聞くどころか寒さで耳がちぎれそうだ。この海と生きる、という末永さんの強い意志を感じる。しかし、巨大防潮堤はそこにも影を落とす。
 末永さんは、自宅跡地に水産加工工場の建設を計画している。今後はサケの加工もして、ブランド化を目指すしかないと考えるからだ。だが防潮堤が高くなれば、自宅跡地横の小川の土手もかさ上げしなければならない。地続きの自宅跡地のかさ上げも必要になる。「待っていたらいつになるか分からない。さっさと自己資金で工場を建ててしまおうか」と迷う。
 雄勝地区の人口は1565人(昨年12月)と震災前の3分の1だ。末永さんは14世紀から続く24代目網元。「先祖が代々頑張って何とかつないできてくれた。それを考えると……」と意欲的だが、その前に防潮堤が立ちはだかる。
 「巨大防潮堤は被災地だけの問題ではない。国土強靱(きょうじん)化を掲げる政権下では、日本全体がコンクリート壁に囲まれてしまう恐れがある」と警鐘を鳴らすのは、気仙沼市のNPO法人「森は海の恋人」副理事長の畠山信さん(34)だ。
 畠山さんの地元、同市西舞根(にしもうね)地区は住民要望で防潮堤計画を撤回させた。畠山さんらは「堤防ができれば海と山が分断されて取り返しがつかなくなる」と計画が固まる前の段階で、集落に残る全戸(34戸)の意見を取りまとめ、市側を動かした。「人口や組織の多い市街地で合意を形成するのは大変。私の地域は長老がいて、その下に役員がいてという古い集落だから決まりやすかった」と語る。
 同地区では津波で全52戸中44戸が流され、地盤は約80センチ沈んだ。「沈下でできた干潟にアサリが増え、絶滅危惧種のニホンウナギが生息している。野鳥が来て、子どもたちの遊び場になっている。この干潟は地域で守っていくことにしています」。これも合意形成の成果だ。
「環境省や宮城県は『森・里・川・海のつながり』を重視すると言っていたのに、現場は逆行している。災害に備えるために必要なのは、管理費のかかる防潮堤というハードではなくて自然の見方というソフト。津波なら前兆のとらえ方です。これは自然体験からしか学べない。でもそこに予算はついていない」
 自民党は今国会に「国土強靱化基本法案」を議員立法で提出する方針だ。防災の柱として「強靱な社会基盤の整備」を盛り込んでおり、巨大防潮堤の整備を後押ししそうだ。
 畠山さんらを招いて公益財団法人「日本自然保護協会」が3日に東京都内で開いたシンポジウムでは、専門家から「海辺を利用してきた沿岸部住民で本音で賛成している人はいないだろう」「(住民が声を上げられない以上)外から声を上げるしかないのでは」などの意見が出た。同協会は4日、慎重な防潮堤復旧を求める意見書を安倍晋三首相らに提出した。
 海と陸の境目にコンクリートの巨大な壁を打ち立てて、本当にふるさとは再生するのか。何かゆがんだ発想がこの国を覆おうとしていないか。http://mainichi.jp/feature/news/20130206dde012040022000c.html

つまり、宮城県においては、津波被災地にこれまで以上の高さの防潮堤を建設することを強制しており、その計画について、漁業や観光で生きてきた地域住民たちが困惑しているというのである。生業にも差し支え、自然破壊にもなるということである。また、高い防潮堤は、近づいてくる津波がみえなくなる恐れがあり、かえって危険ではないかという声もある。しかし、国土強靭化法案をひっさげた安倍自民党政権の誕生によって、防潮堤拡充の動きが加速しているのではないかとも、この記事では懸念している。

さらに、3月7日付毎日新聞夕刊において、次のような続報が掲載されている。

特集ワイド:巨大防潮堤に海が奪われる 宮城・気仙沼で住民が計画見直し要請
毎日新聞 2013年03月07日 東京夕刊

 ◇セットバック案に制度の壁 東日本大震災級は防げず

 万里の長城のような巨大防潮堤が東日本大震災の被災地に築かれようとしている。本欄(2月6日付)で「巨大防潮堤に、本音は反対」という地元の声を紹介したところ、多くの反響が寄せられた。防潮堤計画の何がそんなに問題なのか? 続報をお届けしたい。【浦松丈二】

 「私たちは豊かな自然を後世まで残すため、防潮堤建設に当たっては住民の意見を反映するよう1324名の署名を添えて要請致します」
 宮城県気仙沼市の菅原茂市長に、巨大防潮堤計画見直しの要請書と署名が提出されたのは昨年11月12日だった。1324人は、同市大谷地区の人口の半数近い。
 宮城県内で防潮堤計画見直しを求める大規模な署名が提出されたのは初めてだ。避難が難しいお年寄りや障害者には高い防潮堤を必要とする人もいる。同じ被災者でも世代や職業、被災体験などによって意見は異なる。何より防潮堤計画が決まらないと復興計画が動かない地域が多く、反対の声を上げにくい−−それでもなお、コンクリートの壁で海を覆う計画に違和感を感じる人は多いのだ。
 問題の計画は、宮城県有数の海水浴場である大谷海水浴場一帯に高さ9・8メートル、全長約1キロのコンクリート製防潮堤を建設するもの。巨大なのは高さだけではない。津波で倒されないために土台の幅は実に45メートルもある。海水浴場の砂浜を覆い尽くして海までせり出す構造だ。
 大谷地区で生まれ育ち、署名集めの中心となったNGO職員、三浦友幸さん(32)は「防潮堤で消える砂浜は大谷地区のアイデンティティーそのもの。ここで生まれた子どもたちは卒業式、成人式などの節目節目に砂浜に集まって記念撮影をしてきた。砂浜がなくなるのは嫌だ。この一点に絞ることで住民の合意が形成できたのです」と説明する。
 要請書を受け取った菅原市長は「現在の計画では砂浜は残らない。署名のような地域住民の意向が分かるものがあると大変ありがたい。強い説得材料になります」と述べ、住民の意見を尊重して県や林野庁などに砂浜を残すよう働きかけると約束した。
 住民が要請し、市側が同意したのは防潮堤の建設予定地を砂浜から陸側に後退させる「セットバック案」だ。防潮堤を海から離せば離すほど砂浜が守られる。津波や高潮の脅威は衰え、海抜も上がるため、構造物を低くして建設・維持費用を安くできる。
 だが、いいことずくめに思えるセットバック案を実行しようとすると、制度の壁が立ちはだかるのだ。
 防潮堤に関するルールは海岸法に定められている。防潮堤を建設できる位置は、原則的に海岸線から陸側50メートルと海側50メートルの間の海岸保全区域だけ。これ以上陸側に移動するには県知事の指定など複雑な手続きが必要になる。防潮堤をセットバックしようとすると国道45号やJR気仙沼線も陸側に移動させないといけなくなる。
 気仙沼市は大谷地区住民の要請を受け、3通りのセットバック案を作成中だ。難しい作業を部下に指示した菅原市長だが「防潮堤の高さは安全度そのもの」と高さの変更は退ける。県も同じ姿勢だ。
 防潮堤は、国が方針を決め、県知事が計画を策定し、県や市町村などの海岸管理者が設計することになっている。今回の防潮堤の高さを決める方法は、2011年7月8日に国土交通省など関連省庁課長名で出された通知で示された。「数十年から百数十年に1度程度」の津波を防ぐ高さにする内容だ。
 不思議なことに通知は、東日本大震災級の津波は「最大クラス」の例外として防潮堤で防げなくてもいいことにしている。同年6月の中央防災会議専門調査会中間報告で示された専門家の見解を踏まえたという。震災で大谷地区の海岸には20メートル級の津波が押し寄せた。あの津波を防げない防潮堤に砂浜を覆われるのは釈然としない。
 県担当者が説明する。「今回計画されている防潮堤は明治三陸地震(1896年)の津波に対応したもの。災害復旧事業として費用の3分の2以上が国庫から出る。前の防潮堤が建設された1960年代は県の財政事情が悪く、チリ地震(1960年)にしか対応していなかったから今回は高くなった」
 国の補助金が出るから無理にでも通知に合わせて防潮堤の高さを決める、と聞こえる。

  ■

 では、巨大防潮堤の建設費用はいくらかかるのか。県河川課によると、県発注分の事業費だけで約3140億円。ほとんどが国からの補助金だ。港湾を管理する国交省や市町村の発注分を加えると、さらに増加する。無論別に維持補修費用もかかる。
 県内最高の14・7メートルの防潮堤が計画されている気仙沼市小泉地区でも不満がくすぶっている。「小泉地域の子どもたちに街づくりに関する絵を描いてもらったら、マリンスポーツ基地など海や砂浜を利用した内容が多かったそうです。防潮堤の絵を描く子はいなかった」(前出・三浦さん)
 すでに県発注の防潮堤275カ所、総延長163キロのうち、岩沼、石巻市など52カ所で着工されている。コンクリートの巨大な塊が姿を現しつつあるのだ。
 海辺の景観街づくりが専門の岡田智秀・日本大学理工学部准教授は「ハワイでは州法で決めたセットバックルールに基づき、防潮堤などの海岸構造物に極力依存しない街づくりを実施しています。目的は防災、景観、観光、環境の全て。全て密接に関連していますから」と語る。
 ハワイのルールとは、砂浜の自然観察を通じて高波などの最高到達ラインを調査し、住宅などの建造物は10〜15メートルの標準距離をセットバック(陸側に後退)させる。さらに砂浜の自然浸食と建物の耐用年数を考慮して、追加的に後退させる。街づくりには海岸線との距離が常に考慮される。
 岡田さんは「日本の防災計画も日常の暮らしの豊かさと非常時の防護の両方を表裏一体にして考えていくべきです。人口減少時代を迎えて、地方都市ではコンパクトシティーと呼ばれる集約型の街づくりが注目されています。セットバックは時代の流れにも合致しているのではないでしょうか」と訴える。
 大震災から2年。津波にえぐられた被災地の海岸に、ようやく砂が戻りつつある。防潮堤の巨額予算の一部でも住民本位の街づくりに回すことはできないのか。
http://mainichi.jp/feature/news/20130307dde012040002000c.html

気仙沼市では、すでに地域住民によって昨年11月に堤防建設の見直しを求める要請書が提出され、気仙沼市長も、防潮堤をより陸側に建設するセットバック案を検討することになった。しかし、このセットバック案については、海岸に建設しなくてはならないとという制度の壁がたちはだかっていると、この記事は伝えている。さらに、防潮堤の高さの変更は、この記事が書かれた時点では気仙沼市も宮城県も認めていないのだ。

しかし、この防潮堤の高さがどのように決められたかをみると、一驚する。ここで、問題になっている気仙沼市大谷の防潮堤は、9.8mにすることが予定されている。しかし、東日本大震災の津波では、20m程度の津波が襲来したとされている。そもそも、この高さでは、東日本大震災クラスの津波は避けられないのだ。

この9.8mという高さは、実は、東日本大震災クラスの津波をさけるものではない。このクラスの津波は1000年に1度のものとして、防潮堤で防御することをあきらめ、総合的に防災するとしている。そして、100年に1度程度はくる津波から守ることを目標にしてそれぞれの地域の防潮堤の高さを決めている。この気仙沼市大谷の場合、1896年の明治三陸津波の高さ8.8mを基準として設定されたのである。

つまり、この程度の防潮堤では、想定されうるすべての津波から、地域を守り切ることはできないのである。にもかかわらず、住民生活の利便とは反し、さらに自然破壊にしかならないような防潮堤建設が、国の補助金をめあてにして、津波被災地で強行されようとされてきたのである。

すでに、気仙沼市西舞根のように、地域住民の要求によって、防潮堤建設計画を撤回させたところもある。また、2013年3月7日付河北新報では、宮城県も防潮堤の高さについて譲歩の姿勢をみせているようである。

防潮堤の高さ変更示唆 宮城・村井知事、方針転換か

 宮城県議会2月定例会は6日、予算特別委員会を開き、総括質疑を行った。東日本大震災で被災した海岸防潮堤の整備をめぐり、村井嘉浩知事は、県が設定した高さで住民合意が得られていない地区のうち、漁港や集落の背後地に高台がある場合は地勢を考慮し、高さの変更もあり得るとの認識を示した。
 気仙沼市の小鯖や鮪立(しびたち)など一部地区が対象になるとみられる。村井知事は「位置をよく考え、合意を得るため最大限に努力する」と述べ、住民との意見調整の中で弾力的な対応を認める方針を示唆した。
 これまで、沿岸部の一部地域から「県が示した計画高は高すぎる」との反発が出ていた。村井知事は「命を守ることが大前提だ」と、変更に応じない姿勢を示していた。
 近く決定する復興交付金の第5次配分額に関して、上仮屋尚総務部長は、約108億円を申請した県事業分に対し、「2倍の200億円程度が配分されるのではないか」との見通しを示した。
 県が導入を決めたドクターヘリについて、県は基地病院の選定や医師の確保など、稼働に向けた課題を検討する委員会を新設する考えを明らかにした。18日の県救急医療協議会に諮り、正式決定する。

2013年03月07日木曜日
http://www.kahoku.co.jp/news/2013/03/20130307t11025.htm

このことは、現在進行中のことで、予断を許さない。少しでも、地域住民の主体性を尊重し、防潮堤などの計画が進められることを私は望む。結局のところ、地域住民自体が、想定される津波被災と、地域における生活の実情を勘案しつつ、自主的に、防災計画をともなった形で地域の復旧計画を決めるべきなのだと思う。そして、このように、地域住民の生活を無視し、その合意をとらない形で、「復興」がすすめられていることが、津波被災地のかかえる問題の一つなのだと考えるのである。

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さて、宮城県石巻市において、支援ボランティアを中心として、復興の象徴としてのひまわりを植栽する活動がなされていることを、前回のブログで述べた。

石巻市の北側にある、同じく津波被災地の南三陸町や気仙沼市では、やはり復興の象徴でありつつも、鎮魂の意味をもつ「はるかのひまわり」が植栽されている。

南三陸町の「はるかのひまわり」

南三陸町の「はるかのひまわり」


(南三陸 ホテル観洋のサイトより)

神戸新聞は、2011年8月11日に、次のような記事をネット配信している。

被災地結ぶヒマワリ満開 宮城・南三陸町 

花を咲かせた「はるかのひまわり」と牧野駿さん=7月30日、宮城県南三陸町
 1995年の阪神・淡路大震災で11歳で亡くなった女の子にちなんだ「はるかのひまわり」が東日本大震災の被災地、宮城県南三陸町の畑で花を咲かせ、被災者の心を和ませている。
 はるかのひまわりは、阪神・淡路大震災で亡くなった神戸市の小学6年加藤はるかさんの自宅跡地に咲いたヒマワリ。地元の人が育て、新潟県中越地震の被災地など各地に種が配られ、はるかさんのエピソードとともに復興のシンボルとして広がってきた。
 南三陸町に伝わったのは東日本大震災の後。同町の会社経営及川博之さん(64)が新潟市から炊き出しに来ていた親類の男性から種を受け取ったのがきっかけだった。合併前の旧歌津町長を務め、震災で長男(46)が行方不明となった牧野駿さん(72)が共鳴し、4月中旬から所有する高台の畑に地元住民と一緒に種をまき続けた。
 及川さんや牧野さんらは「三陸ひまわりの会」を立ち上げ、南三陸町と隣の同県気仙沼市の住民とともに国道沿いに種をまく運動を展開。1日には仙台市で開かれる防災をテーマとしたアジア太平洋経済協力会議(APEC)の会合参加者にヒマワリの切り花も贈る。
 牧野さんは「住民の間で出会いや絆が生まれている。来年以降も続けていきたい」と話している。
特集】東日本大震災
(2011/08/01 10:00)

単純にいえば、1995年の阪神・淡路大震災において亡くなった小学生加藤はるかの自宅跡地に咲き、「復興のシンボル」となったひまわりの種を南三陸町や気仙沼市で植える運動が展開されているということなのだ。

この「はるかのひまわり」は、すでに神戸新聞の記事で言及されているように、元々は、阪神・淡路大震災の犠牲者の記憶なのである。この「はるかのひまわり」は、阪神・淡路大震災の記憶において、かなりメジャーなものになり、それを伝える絵本もある。まずは、絵本『あの日をわすれない はるかのひまわり』(指田和子作、鈴木びんこ絵、2005年、PHP研究所)から、「はるかのひまわり」についてみておこう。

『あの日をわすれない はるかのひまわり』(amazonより)

『あの日をわすれない はるかのひまわり』(amazonより)

この話は、単純にいえば、阪神・淡路大震災で亡くなった小学生加藤はるかの自宅跡に自然に咲いたひまわりが「はるかのひまわり」とよばれ、復興の象徴になったということである。

まず、なぜ、「はるかのひまわり」と呼ばれるようになったか、経緯をみてみよう。本書はつぎのように述べている。

その年の 夏の ことです。
「ひまわりが さいた……」
ガレキが かたづけられた いえの あとから かえってきた おかあさんが、ぽつりと いいました。
うどんやの おっちゃんたちが、はるかを たすけだした あのばしょ(引用者注…助け出された時、すでにはるかは亡くなっていた)。
そこに、はるか みたいに まんまるの かおをした 大きな 大きな ひまわりがさいた。
「はるかの うまれ かわりや!」
おっちゃんも きんじょの ひとも いいました。

ーもしかしたら、それ、おとなりさんが かってた オウムの えさが こぼれんたかもしらん。なあ、はるか?

その秋、おっちゃんは、ひまわりの タネを しゅうかくしました。
そして つぎの年の 春から タネを まきはじめたのです。
ガレキが、すこしずつ かたづられた あとの
あきちや みちの はしっこに。
『あの日をわすれない はるかのひまわり』(amazonより)

まずは、「はるかのひまわり」は、震災で亡くなったはるかの「生まれ変わり」として認識されたことに注目してほしい。ある意味では、輪廻転生やギリシャ神話におけるアネモネになったアドニスなどがを思い起こされる。つまりは、神話的もしくは宗教的な意味が「はるかのひまわり」にはあるといえる。そして、この「はるかのひまわり」を植えることは、阪神・淡路大震災の犠牲者に対する一つの「鎮魂」ともいえるであろう。

他方で、この「はるかのひまわり」は、復興の象徴でもある。本書は、このように語っている。

震災の復興の花
 震災から6年目の2001年、神戸市で「KOBE2001 ひと・まち・みらい(神戸21世紀・復興記念事業)」という9か月にもわたるイベントが開催されました。これはたくさんの神戸市民が参加してつくりあげたイベントで、このイメージフラワーにひまわりが選ばれたのでした。ガレキのあとに咲いたあの「はるかのひまわり」は、震災からの一日も早い「復興」を願う人すべての心の花になったのです。
 この年、神戸ではいたるところにひまわりのタネがまかれ、夏にはおひさまのような黄色い花がまちをかざりました。その数150万本。これは、当時の神戸市民の数と同じでした。

このように、「はるかのひまわり」は、このイベントの中で震災復興の象徴となっていくのである。

さらに、この「はるかのひまわり」は、皇室によって正統化づけられていく。「はるかのひまわり」の普及活動を神戸で担っているNPO法人阪神淡路大震災「1.17希望の灯り」のサイトは、次のように伝えている。

2009年12月 9日 (水)

はるかのひまわり報告

  5年前のお話 両陛下が神戸を訪問された時に 一人の少女より 
 皇后陛下のお手に はるかのひまわりの種と 指田和子さんの著書 
皇后陛下もご存知の「あの日を 忘れない はるかのひまわり」が
たくされてからの ひまわりがたどった日々が 平成22年1月2日 
月曜日 午前5時~5時40分に 
 フジテレビの皇室ご一家 新春スペシャルの
内で 放映されます ご期待下さい
http://117kibou.cocolog-nifty.com/blog/cat3051143/index.html

ある意味では、「はるかのひまわり」は、国家が認定したものになったといえるであろう。

なお、気仙沼市・南三陸町に「はるかのひまわり」を送ったのは「はるかのひまわり 絆プロジェクト」という団体だったようである。その団体のサイトでは、次のように、「はるかのひまわり」を普及する意義を語っている。

「はるかのひまわり」を育て採取した種を配布する過程で由来を伝え、災害の悲惨さと共に命の尊さを再考する機会とする事で、「人の尊厳」と「人との関わりの大切さ」を知る感性豊かな地域社会を醸成する事を目的とします。

阪神大震災での災害の教訓と命の尊さを、「はるかのひまわり」の命の連鎖に例え、実際にその手で育てる過程で、社会の最小単位である「家族」。咲いたひまわりを愛でる「見知らぬ人」。会社で育てる事で「社員」。そのひまわりを愛でる「近隣の人々」・・・・に出来事を伝えることで、少しでも地域社会での「絆」と、はるかちゃん、の「命」の連鎖を紡いでゆきたい。

そんな折に東北地方を襲った未曽有の地震と津波。
自然の営みには非情さと、人間にはかなわない力があるのでしょう。
しかし、人間には智恵と勇気と絆があります。
http://www.season.co.jp/haruka_sunflowerFB.htm

このプロジェクトでは、女の子よりひまわりへの転生の過程を、人間社会における関係性の連鎖とアナロジーで捉えているのである。

このように、宮城県の南三陸町・気仙沼市においては、阪神淡路大震災の記憶を源流とした、鎮魂と復興の象徴としての「はるかのひまわり」が植えられたのである。三陸ひまわりの会の中心人物である元歌津町長牧野駿の長男が行方不明であるということも想起されたい。阪神淡路大震災において、鎮魂と復興は、共に課題であった。そして、その課題を解決する象徴としての「はるかのひまわり」という伝統が、同様の状況にある南三陸町・気仙沼市に引き継がれたといえるのである。

付記:三浦博光「『はるかのひまわり』運動が生んだもの」(『世界』2011年8月号)には、地域の自生的な復興運動として「はるかのひまわり」が挙げられている。後述するつもりだが、被災地でひまわりの植栽活動が広まったのは、私自身も、だれでも参加できる復興運動としての意味合いがあると思われる。ただ、この論文には、「はるかのひまわり」がもつ思想史的意義が言及されていないのである。

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前々から述べてきたように、都市計画などを理由とした宮城県の建築制限は、現状では9月11日に期限を迎える。そこで、建築制限について、様々な動きがみられようになった。

宮城県としては、全体として、建築制限を11月まで延長する方針である。2011年9月1日、日本経済新聞は、気仙沼市、名取市、東松島市、女川町、南三陸町、山元町の6市町を対象とした建築制限を二か月延長する方針を宮城県が定めたと報道している。日本経済新聞によると、9月の制限解除までに、この6市町は、補助金などで優遇される「復興推進地域」を定める予定であったが、集団移転などの国の負担額が示されず、市町の街づくり計画策定が遅れているので、建築制限を二か月延長することにしたということである。(http://www.nikkei.com/news/local/article/g=96958A9C93819490E1E2E2E7918DE2E3E2EBE0E2E3E39EE2E3E2E2E2;n=9694E3E4E3E0E0E2E2EBE0E0E4E1より)

事実上の先送りであり、この二か月間においても建設は認められないことになるのだ。

一方、気仙沼市では、建築制限の一部解除を検討していると、河北新報は報じている。

建築制限期間延長へ 解除面積4割に 気仙沼市

宮城県が沿岸市町の都市計画区域内で行っている建築制限期限が11日に切れ、気仙沼市ではさらに2カ月間の延長が見込まれていることについて、菅原茂市長は2日の記者会見で「面的整備を行わない所など相当部分が外れる」との見通しを示した。解除面積は全体の4割程度になる見込みだ。
同市の制限区域は津波の浸水地域をベースにした465ヘクタール。市は土地利用方針を含む震災復興計画を今月末までにまとめる予定で、基本的には制限を2カ月延長。被災市街地復興推進地域の区域設定作業に取り掛かる。
菅原市長は記者会見で「産業の復興を早めるために、区画整理事業などの面的整備を行う必要のない所は極力外していく」と述べ、事業所の再開を促す方針を示した。
制限を継続する地域についても「排水施設などが基準を満たせば、積極的に再開に取り組んでほしい。個別に相談しながら進めたい」と、事業所側の意向に沿った対応を進める方針を示した。

2011年09月03日土曜日
http://www.kahoku.co.jp/news/2011/09/20110903t11025.htm

気仙沼市としては、復興推進地域としては、現在の建築制限がかけられている地域を4割縮小した形で指定し、建築制限がかけられる復興推進地域でも個別に相談に応じていく方針を示したといえる。

石巻市の建築制限についても報道されている。朝日新聞は9月2日に次のように報道している。

石巻市 449ヘクタール復興推進地域に
2011年09月02日

東日本大震災で大きな被害を受けた石巻市は1日、被災した市街地のうち、新たに街づくりを進める「復興推進地域」を決めた。この地域では11日まで建築制限がかけられ、12日以降も区画整理事業や再開発を進めるために最長1年半、一定の制限がかかる。
市都市計画審議会で約449ヘクタールを指定することを決めた。期限の2013年3月10日までに復興事業を始める。被災3県の市町村で、復興推進地域の指定は初めて。阪神大震災を受けて制定された被災市街地復興特別措置法に基づくもので、指定地域での事業には国の補助が手厚くなる。
具体的な事業計画をまとめる前に復興推進地域を決められるのも特徴。国の復興方針や財源は示されていないが、市は「復興を急ぐため、議論のたたき台を作った」としている。
復興推進地域では12日以降、一定の要件を満たした建物なら、県の許可を得て新築できるようになる。ただ、区画を整理したり、公営住宅や避難ビルなどを整備したりするため、移転を求められる可能性がある。10月以降、より具体的な図面を示し、市民と意見交換をして事業計画を立てる。
事業計画を作るまでには課題が多い。区画整理には所有者の同意が要るが、大半が避難所や仮設住宅で暮らしたり、県外に移転したりしているため、把握や連絡に手間取りそうだ。市内の死者・行方不明者は計約4千人で、交渉相手の特定も困難を極める。
石巻市の復興基本計画案では、市街地では防潮堤とカサ上げ道路の二重の津波対策を施す。復興推進地域はカサ上げ道路の内陸側と海側に分かれるが、海側を事業用地区とし、住めなくすることも検討している。
事業用地区になりそうな門脇地区に住む主婦阿部利津子さん(64)は「移転するなら早く移転したい」。自宅は津波で浸水し、2部屋の畳を入れ替えた。今のところ不自由はないが、これ以上補修しようにも「移転するなら、あまりお金をかけられない」と言う。
同じ門脇地区に工場を持つ千葉タイヤ商会の千葉隆志社長は「ほっとしている」。事務所は水没したが、ここで事業を続けられるかどうか悩み、大がかりな補修をしていなかった。「内装を奇麗に直し、事業を続けたい」と話した。(吉田拓史、高橋昌宏)
■復興推進地域に指定される地区
【西部地区】
門脇、中屋敷、新館、中浦、三ツ股、築山、大街道南、大街道東、双葉町、重吉町、三河町、中島町、南光町の各一部
【中部地区】
中瀬、湊町、川口町の全域。中央、門脇町、門脇、南浜町、大門町、明神町、湊、住吉町、雲雀野町、日和が丘、不動町、八幡町の各一部
【東部地区】
松原町、長浜町、幸町、渡波町、万石町、塩富町の各一部
(http://mytown.asahi.com/miyagi/news.php?k_id=04000001109020001より)

この朝日新聞の報道では、建築制限がただ延長しているような印象を受ける。しかし、河北新報の報道はニュアンスが異なっている。「地域内での建築行為は、復興計画の土地利用に影響を及ぼさない範囲で、簡易な建物(木造もしくは鉄骨2階以下、敷地300平方メートル未満)の建設に限り認める。」ことに重点がある報道である。

石巻市の復興推進地域、12日から

石巻市は1日、市役所であった都市計画審議会で、建築制限区域となっていた同市南浜町や大街道など市内約450ヘクタールについて、被災市街地復興特別措置法に基づき市街地再生に向けて基盤整備が補助金などで優遇される「被災市街地復興推進地域」とすることを決めた。
期間は12日から2013年3月11日まで。建築制限区域を西部、中部、東部の3区域に分け、住民の意見を参考にしながら区画整理や防災拠点施設整備などの各種事業に取り組む。
地域内での建築行為は、復興計画の土地利用に影響を及ぼさない範囲で、簡易な建物(木造もしくは鉄骨2階以下、敷地300平方メートル未満)の建設に限り認める。
同様に建築制限区域となっている同市鮎川、雄勝両地区の約100ヘクタールについては、11月11日まで制限を続ける方針。

2011年09月02日金曜日
(http://www.kahoku.co.jp/news/2011/09/20110902t11033.htm)

つまり、同じことを報道しても、中央の朝日新聞の視点と地方の河北新報の視点は異なっているのである。朝日新聞においては、国の復興方針が遅れたため、建築制限が継続されているというストーリーで記事は構成されているといえる。一方、河北新報においては、復興推進地域においては、復興計画に支障がでない範囲で、建設が認められるというストーリーとなっているといえる。

もちろん、国の復興方針が明示されないのは問題である。ただ、現状においては、現行法でできる範囲で復興をみとめていくしかないのではないか。その意味で、石巻市や気仙沼市の取り組みは注目できる。ある意味では、仮設でもよいから、早期の建設を認めていくことが重要である。そのためには、気仙沼市のように復興推進地域の縮小も考えられるであろうし、石巻市のように復興推進地域に仮設建築物の建設を認めていくことも考えられるのである。

といっても、現状は、建築制限が解除されても、市内全域で復興がすすむという状況ではない。河北新報は9月1日に次のような報道をしている。

疲弊商店街、津波追い打ち 石巻中心部、再建に踏み出せず

東日本大震災で甚大な被害を受けた宮城県石巻市の中心商店街に、さらなる空洞化が懸念されている。復興需要で活況を呈す郊外の大型店に対し、中心商店街では既に廃業した店が出ている。震災から6カ月近くたった今も市の具体的な事業計画が見えず、再建に踏み出せない店主は多い。

「店を閉めるという決断しかなかった」。石巻市中央2丁目で履物店を営んでいた藤沼信夫さん(81)は、市内の仮設住宅で寂しそうな表情を見せた。
先代から90年以上続いた店は、1階が天井近くまで浸水した。シャッターはひしゃげて壁紙ははがれ落ち、修理用具や商品はすべて水に漬かって使い物にならなくなった。
藤沼さんに、後継者はいない。「体が動くうちは続けたかった。ほかの商売仲間もつらい立場だと思う。商店街の行く末が心配だ」と話す。
店舗・駐車場賃貸業「本家秋田屋」が中心商店街で貸し出す約20の物件のうち、震災後、半数以上が退去した。浅野仁一郎社長(60)は「行政の青写真も明確に出ていない。高齢の店主らは、再建を諦めざるを得なかったのだろう」と話す。
中心商店街は2000年ごろから閉店が目立ち始めた。09年6月に県が実施した調査では、立町や駅前大通りなど8商店会に所属する266店のうち82店が空き店舗だった。
市商工会議所とタウンマネジメント機関「街づくりまんぼう」などは07年、中心地のにぎわいを取り戻そうと協議会を発足。10年2月には「彩り豊かな食と萬画のまち」を掲げた中心市街地活性化基本計画が、県内で初めて内閣府に認定された。新たな街づくりの胎動が始まった直後に津波が襲い、疲弊する商店街に追い打ちを掛けた。
一方、中心市街地から約3キロ内陸にある同市蛇田地区は津波の被害が小規模にとどまり、今は震災前以上のにぎわいを見せる。来春には、飲食や美容院などのテナント10店を連ねた複合施設がオープンする予定だ。
市内の不動産業者は「復興需要で、大型店などは活況だ。車で行動する若い家族層は、確実に蛇田側に買い物行動の軸足を置いている」とみる。
街づくりまんぼうの西条允敏社長は「中心地は、旧北上川沿いのロケーションなど替え難い魅力がある。市の復興計画とうまく連動して商店の新規参入を促すなどし、何とかにぎわいを取り戻したい」と話している。

2011年09月01日木曜日

http://www.kahoku.co.jp/news/2011/09/20110901t13021.htm

ここでいう「蛇田」とは、次のような地域である。

市街地からみるとやや郊外よりであり、国道などが通っている地域である。私が訪れた際も、国道沿いにある、駐車場をともなった大型店舗の復興ぶりは目をみはった。しかし、この地図では石巻駅と旧北上川の間にある市街地中心部においては、かなり多くの店舗が原形をとどめているにもかかわらず、閉店となったところが多く、まさにシャッター通りの様相を呈していたといえる。

石巻市中心市街地(2011年7月26日)

石巻市中心市街地(2011年7月26日)

この問題は、被災地石巻市だけの問題ではない。市街地中心部の商店街が衰退し、道路や駐車場の確保などで車でアクセスしやすい郊外の大型店舗が繁昌するというのは、どこの地方でもみられる。

結局、新築しなくても、リフォームですむ物件が、石巻市街地には存在している。しかし、今まで営業していた人たちも、営業できない現状では、店舗はあまり、賃貸料は低下し、地価も下がっていく。この中で、地価上昇を前提とした区画整理事業で都市計画が進められることになれば、相当な困難が予想されるのである。事業費を整理後の土地の放出ではねん出できず、道路の拡張においても、住民負担が大きくなるといえるのである。

一方的な建築制限を改善していくという一部自治体の努力は評価できよう。しかし、それだけでは問題は解決しないのである。

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前回は、宮城県が実施しようとする都市計画・区画整理・住宅地高台移転につき、現状の政治状況で、どれだけ財政的に実現可能性を有しているのかということを検討してみた。今回は、区画整理事業にしぼって、その問題性をみてみよう。

土地区画整理事業について、土地区画整理法(1954年制定)では、「この法律において「土地区画整理事業」とは、都市計画区域内の土地について、公共施設の整備改善及び宅地の利用の増進を図るため、この法律で定めるところに従つて行われる土地の区画形質の変更及び公共施設の新設又は変更に関する事業をいう。」と規定している。都市計画の手法の一つであり、主に、市街地の区画を整理し、街路を設置もしくは拡張し、広場・小学校用地などの公共施設を創設するものである。例えば、農地を宅地とする際とか、まがりくねった路地しかない既存の市街地に大きな街路を通し、区画を整理する際などに行われている。

特徴的なことは、原則的には、公に土地を買い上げるというのではなく、区画整理の該当用地の地権者が、それぞれ道路を中心とする公共用地にするためと区画整理事業費にあてるために、一定の割合で平等に土地を供出し(減歩)、道路などを設置した後で、それぞれの地権者が有していた面積に応じてその区画で土地を割り当てる(換地)というやりかたをしていることである。詳しくは、次に、ウィキペディアによる「土地区画整理事業」の項目を一部抜粋するので、それをみてほしい。

制度の仕組み [編集]

施行者 [編集]
土地区画整理事業を施行する者(施行者)は、以下の通り法定されている。
宅地について所有権若しくは借地権を有する者 – 個人施行者
宅地について所有権若しくは借地権を有する者の同意を得た者 – 同意施行者(都市再生機構、地方住宅供給公社など)
土地区画整理組合
区画整理会社
都道府県及び市町村
国土交通大臣
都市再生機構
地方住宅供給公社
土地区画整理組合は、土地所有者または借地権者7人以上からなり、都道府県知事の認可を必要とする。
区画整理会社は、土地区画整理事業の施行を主たる目的とした株式会社であり、都道府県知事の認可を必要とする。
換地計画 [編集]
施行者は、施行地区内の宅地について換地処分を行うため、換地計画(かんちけいかく)において以下の事項を定めなければならない。
換地設計
各筆換地明細
各筆各権利別清算金明細
保留地その他の特別の定をする土地の明細
その他国土交通省令で定める事項
清算金は、従前の宅地と換地の不均衡を清算する金銭をいう。
保留地は、土地区画整理事業の施行の費用に充てるため、換地として定めない一定の土地をいう。
仮換地の指定 [編集]
施行者は、換地処分を行う前において、工事または換地処分を行うため必要がある場合においては、施行地区内の宅地について仮換地を指定することができる。
仮換地が指定された場合、従前の土地の使用収益権者は、換地処分の公告があるまで仮換地の使用収益ができるようになり、従前の土地の使用収益権を失う。
換地処分 [編集]
換地処分は、関係権利者に換地計画において定められた関係事項を通知してするものとする。そのうえで、都道府県(または国土交通大臣)が公告をおこなう。
換地計画において定められた換地は、その公告があった日の翌日から従前の宅地とみなされ、所有権等が移転し、清算金が確定する。また、保留地を施行者が取得する。
減歩 [編集]
道路、公園などの公共施設の整備のために必要な公共用地と、事業費を生み出すために必要な保留地は、地権者から土地の一部を提供させることにより確保する。これにより土地が減少する事を減歩(げんぶ)と呼ぶ。(ただし土地区画整理法には、下記の照応の原則を定めるのみで、減歩という用語自体は無い。)
減歩には、公共用地のための減歩(公共減歩)、保留地のための減歩(保留地減歩)があり、両者を合計したものを合算減歩と呼ぶ。土地収用の場合と異なり、減歩そのものに対する金銭による補償はない。(下記の精算金・減価補償金は減歩そのものに対するものではない。)これは、事業のために減歩を課されて土地の評価(土地の経済的価値ではなく施工者が算出した評価点)が地積の減少したぶん下がっても、事業の完成による「土地利用の増進」があるので、結果としては事業前と同じ評価となって財産権を侵害しないという考え方による。
換地 [編集]
換地は、換地とその従前地(施行前の宅地)の位置、地積、土質、水利、利用状況、環境等が照応するように定めなければならないとされている。これを照応の原則と呼ぶ。ただし、この照応とは、各諸事情を総合勘案して、換地とその従前地が大体同一条件にあり、換地相互が概ね公平に定められることをいうものと解釈されており、全くの同一条件で換地するという意味ではない。ここから、照応していれば地積が減少することもあり得るところから、土地区画整理法上の明文の規定は無くとも減歩を課すことは可能とされている。
清算金 [編集]
換地を定める際に、計算上の換地面積(権利地積)どおりに換地を過不足なく配置することは技術的には不可能であり、換地相互に多少の不均衡が生じる。その不均衡の是正は、実際に換地した土地の評価と計算上交付すべき土地の評価の差を金額換算した清算金の徴収または交付によって行われる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%9C%B0%E5%8C%BA%E7%94%BB%E6%95%B4%E7%90%86%E4%BA%8B%E6%A5%AD

このように、区画整理は、地権者が土地を供出することによって、道路などの公共用地を取得し、さらには事業費までねん出できるものなのである。この場合、地権者だけが一方的に負担を強制されているようにみえる。しかし、区画整理された以後の土地は、それ以前の土地と比べて価値が高くなっている。例えば、農地を宅地にすることを考えてみよう。農地の一部を削って道路とすると、その分だけ土地所有面積は少なくなる。しかし、宅地にすることによって、その土地の使用価値も高まり、ひいては地価も上昇することが予想される。そのため、地権者も潤うことになるのである。区画整理事業は、そのような発想に基づいている。

都市計画をする官庁からいえば、コストなしで道路などを取得でき、さらには事業費も賄うという点で、コストをあまりかけない開発が可能となる。地権者側では、決して反対がなくはないが、最終的により高度な土地利用ができれば、むしろ利益になる。そのように、公私ともども利益になるといえる。そして、関東大震災や阪神大震災の市街地復興において、区画整理の手法は全面的に使われてきた。

しかし、この手法は、現代においては大きな問題をかかえている。先ほどのウィキペディアの記事は、的確な指摘をしている。

最近の事業の動向 [編集]

戦後からバブル期までの土地区画整理事業は、特に組合施行においては、日本の高度経済成長という社会情勢下で、純粋な事業効果よりも社会全体のインフレーションに伴う地価上昇に依存した安定した事業運営と権利者の利益傍受への期待から来るモチベーションにより発展してきたと言える。
しかしながら、バブル期以降の低成長期においては、デフレーションによる地価下落や保留地販売の不振の影響により、事業採算が確保しづらい状況となった組合もあり、経営破綻に陥った例もある。 これら組合においては、地権者からの賦課金徴収などの再建策が採られる場合があるが、実際の徴収は困難な場合が多く、特定調停や民事再生などの法的整理を申請した組合もある。 ただし、すべての組合が破綻しているわけではなく、適正な事業運営を行っている組合や昨今の地価回復傾向の影響により順調に進められている事業もまた多い。 いずれにしても、土地区画整理事業(特に組合施行)は、外的経済の影響を受けやすい収支構造を持っていると言え、低成長型の経済情勢下において、事業の仕組みを構築する転換期となっていると考えられる。
資産価値に対する影響 [編集]
施行者側からは「減歩により土地の面積は減っても、周辺の基盤整備が行われて土地の利用価値が増し、土地の価格も上昇するため、資産価値は減少しない。」という説明がなされる場合が多い。 しかしながら、事業外要因であるデフレーションなどにより、土地価格が下落し結果的に資産価値が減少する場合がある。 一方、事業内要因のみによっても整理後の宅地全体の資産価値が、整理前と比べて減少するケースもある(事業後も地価の上昇が見込めない地区の場合)。この場合、土地区画整理法第109条の規定により減価補償金を支払うことになるが、実務上、減価補償金で整理前において減価補償金を交付することに代えて、宅地を先買いする手法が使われる。先買いすることで各宅地の減歩は緩和でき、整理後の宅地の資産価値が、整理前より減少しないようにできると考えられている。

いってしまえば、区画整理事業は、将来の地価上昇があってはじめて引き合う事業となるのである。現状において、デフレが進行する中で、区画整理事業後、むしろ地価が下がることが予想される。そうなると、区画整理事業費ねん出のために売り出す予定であった土地が売れなくなる。さらには、地権者には「減価補償金」を支払うケースも想定されるのである。

ある意味では、いまだ土地・家屋の需要がある、東京や神戸のような大都市においては、区画整理は有効といってよいだろう。また、私のみた仙台市やその周辺の多賀城市などの衛星都市群においても、このような区画整理はいまだに有効なのではないかと考えられる。しかし、震災前から、例えば三陸地方など東北の各地域は、過疎に苦しんでいた。過疎ということは、人口が流出しているということであり、その結果、土地や家屋が過剰となっていることを意味するであろう。そうなると、地価は下降傾向となる。その中で、区画整理事業を行うということは、コストが都市計画を行う官庁や地権者にかかってくるということになりかねないのである。

津波被災後復興にむかう多賀城市(2011年7月25日)

津波被災後復興にむかう多賀城市(2011年7月25日)

震災後は、より深刻な状況なのではないかと考える。津波被災地よりの人口流出は、震災以前よりも激しくなっているといえる。住居も生業の場も失った人びとが、他地域に移転していくことは、簡単には押しとどめられないであろう。そうなると、地価は下がり、土地を売却することすら難しくなってくると考えられる。

復興が遅れている女川町(2011年7月26日)

復興が遅れている女川町(2011年7月26日)

岩手県や福島県が、あまり積極的に建築制限をかけないのは、そのような観点もあるだろう。

宮城県の場合、大都市仙台を擁しているということで、大きな違いがある。しかし、かなり過疎地であることが想定される、気仙沼市・女川町・南三陸町・石巻市(もちろん、部分的には区画整理が有効なところもあると思うが)にまで建築制限をかけたことは、かなりの問題であると思われる。もちろん、理想的な都市を構築することはどこの町(東京においても)課題なのであるが。

私は、むしろ、人口流出を押しとどめ、津波被災地の再定住化をはかるということが、区画整理を実施するにも必要なことなのだろうと思う。そのような見通しがないと、区画整理をしても、自治体や地権者が多大な負担と背負うことになってしまう。それに、宮城県知事の主張するように、その負担を国が背負ったとしても、それによる地方利益は一時的なものにすぎないと考えられる。原発と同じだ。当たり前のことであるが、津波被災地に、人びとを呼び戻すこと、それが基本なのではなかろうか。

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さて、前回は、宮城県が独自に津波被災地において都市計画・区画整理のために行っている建築制限が、現地の人びとの自主的な復興をさまたげているのではないかと述べた。その是非は置くとしても、そもそも、このような都市計画・区画整理を含んだ宮城県の復興事業が財政的にみて実現可能なものであるかを検討しておきたい。

河北新報は、7月29日に、次のように報道している。

復興事業費23兆円 宮城県試算12.8兆円 「全然足りない」

 宮城県は東日本大震災の復興財源について、2020年度までの10年間で、県と市町村分を合わせ12兆8327億円が必要と試算した。政府は10年間の復興事業費を23兆円規模と決めたが、村井嘉浩知事は「全然足りない」と批判。8月4日に行う国の3次補正予算に向けた要望活動で、見直しを強く迫る方針だ。
 県によると、内訳は県分が震災復興計画2次案に明記した316事業を含む7兆190億円。市町村分は特定被災地31市町村の総額5兆8137億円で、丸森、加美、色麻、七ケ宿4町は含まれていない。
 県分は、住宅の高台移転費や防潮堤整備費など公共土木施設分野が2兆4320億円、がれき処理費を含む環境生活衛生分野が1兆2260億円、漁港復旧費など農林水産分野が1兆1360億円となった。
 企業誘致の促進事業費を含む経済商工観光分野は4860億円。県立学校再建費など教育分野は2270億円、仮設診療所整備費など保健福祉医療分野は1170億円とそれぞれ算出した。
 東京電力福島第1原発事故に伴う放射能被害対策も計上。県全域での健康被害追跡調査、土壌汚染被害調査、放射性セシウムに汚染された稲わらや牛肉の処理対策、肉用牛の全頭検査などの費用を大まかに見積もった。
 市町村分は、仙台市が5年間の復旧・復興事業費として試算した1兆円のほか、高台移転や土地区画整理、防災緑地整備などに要する8591億円を盛り込んでいる。
 放射線被害が拡大したり、JR復旧費に県負担が発生したりすれば、額はさらに増える。
 村井知事は8月4日、県市長会長の奥山恵美子仙台市長、県町村会長の鈴木勝雄利府町長と合同で、政府に被災地の積算に基づく復興財源の確保を要請する。
 達増拓也岩手県知事や佐藤雄平福島県知事にも呼び掛け、被災3県で政府に再考を求めることも検討している。
 村井知事は「被災地の試算結果を待たず、政府が復興事業費を決めた根拠が分からない。宮城だけで13兆円かかり、どう考えても足りるとは思えない。23兆円の財源確保で幕引きすることは許されない」と話している。

2011年07月29日金曜日
(http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1062/20110729_07.htm)

つまり、7月末時点で、宮城県は県内だけで約13兆円事業費がかかるとして、国が算出した、東日本大震災全体の復興事業費23兆円では少ないと批判しているのである。

その是非は置くとしても、現在(8月29日)行われている民主党代表選において、多くの候補が復興事業費を増税ではなく、国債などで賄おうと主張しており、大幅な財政出動が可能かどうか疑問である。私自身は、増税のリスクをおっても、東北の復興事業費に投資すべきである(ただし、宮城県のような方針でよいのかどうかは問題だが)と考えているが、新自由主義的な減税志向の中で主体形成をしてきた民主党議員たちが、大幅な復興事業に賛成するかいなかは判断できかねるといってよい。

他方で、特例公債法案を政争の具にした自由民主党・公明党が、復興事業費を大幅に増額しようとするとも思えない。彼らもまた、新自由主義的な減税志向の中で主体形成をしてきているのである。

そして、復興増税が実現しても、財務省としては、増税額の圧縮をはかり、復興事業費の増額ははからないであろうと予想される。毎日新聞は、8月10日に、次のように報道している。

東日本大震災:政府がJT株一部売却検討 復興財源確保で

 政府・民主党は10日、東日本大震災の復旧・復興事業の財源確保のため、保有する日本たばこ産業(JT)株を一部売却し、最大6000億円程度を調達する検討に入った。今後数年間で、出資比率を現在の50%から33.3%に段階的に引き下げる案が有力で、復興財源を賄うための臨時増税の規模圧縮につなげたい考えだ。ただ、売却には政府の過半出資を義務づけるJT法改正が必要で、今後与野党での調整が難航する可能性もある。

 政府はこのほか、エネルギー対策特別会計を見直し、500億円以上を復興財源に充てる方針。また、公務員の人件費削減で年間2900億円を捻出できるとしている。

 政府は、今後5年間の復旧・復興事業に19兆円以上が必要と試算。既に11年度補正予算で措置している約6兆円を除く13兆円について、歳出削減や、政府保有資産の売却など税外収入で約3兆円、残る約10兆円を臨時増税で充てる方針だった。歳出削減では子ども手当の見直しや高速道路の無料化実験の廃止で約2兆5000億円を確保できる見通し。JT株売却などが実現すれば、増税幅は最大1兆円程度圧縮できる可能性がある。【小倉祥徳】

毎日新聞 2011年8月10日 19時40分(最終更新 8月10日 19時44分)
http://mainichi.jp/select/biz/news/20110811k0000m020037000c.html

政府は、JT株の売却により、増税額の圧縮をはかるというのである。結局、財源をかき集めても、復興事業費増額にまわらないと予想されるのである。

さらに、「市町村分は、仙台市が5年間の復旧・復興事業費として試算した1兆円のほか、高台移転や土地区画整理、防災緑地整備などに要する8591億円を盛り込んでいる。」ということに着目してみよう。この8591億円は、仙台市を除く高台移転や区画整理事業にかかる市町村の費用をさしている。実は、これ自体が、現行法では国に支払う義務は規定されていないのではないかと思われる。産経新聞は、6月11日に、このように報道している。

宮城の復興費2兆円超 現行制度なら「12市町すべて破綻」
2011.6.11 21:22
 宮城県は、東日本大震災の津波被害を受けた沿岸12市町の新たなまちづくりに必要な事業費が2兆1079億円に上るとの試算をまとめた。11日の政府の「復興構想会議」に村井嘉浩知事が提示した。

 このうち国と県などの負担を除いた市町負担分は8591億円と算出。新たな財源措置がなく現行制度を前提とした場合は「12市町すべてがまちづくりだけで財政破綻する」と指摘、自治体負担を軽減する財政支援策を早期に打ち出すよう重ねて求めた。

 試算には政令市である仙台市の事業費は含まれていない。宮城県全体ではさらに額が膨らむことになる。

 県によると、復興まちづくりの対象となるのは4万2700戸。住宅の高台移転費用や土地区画整理事業費で約1兆円、道路や鉄道、防災緑地などの公共施設整備費で約1兆1千億円と試算した。
(http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110611/dst11061121250045-n1.htm)

つまりは、現行法では国の支出が明記されない、本来は市町村負担である区画事業費など8591億円も含めて、宮城県は県全体の復興事業費を約13兆円と試算しているのである。宮城県の要求する復興事業費が実現するには、法改正が必要ということになる。その是非は問わないが、現状において、このことは実現可能なのであろうか。そして、もし、法改正ができなければ、8591億円は、丸々沿岸市町の自己負担となるのである。

これは、村井嘉浩県知事自身が試算している。次の記事は、村井県知事が6月3日に日本記者クラブで行った記者会見の要旨である。日本記者クラブのサイトから引用した。これによると、高台移転などにかかる総事業費につき、現行法では地元負担のほうが多くなるのである。

村井嘉浩・宮城県知事が「宮城県の復興・再構築に向けて」と題して記者会見し、宮城県の復興計画について話した。
村井知事は、東日本大震災後の宮城県の復興について、復旧期3年、再生期4年、発展期3年間の計10年間を計画期間とし、9月県議会に震災復興計画を議案として上程する、と説明した。復興のポイントとして10項目をあげ、そのうち、①災害に強いまちづくり宮城モデルの構築②水産県みやぎの復興③ものづくり産業の早期復興による「富県宮城の実現」――の3点について詳しく述べた。津波被害を受けたA町(人口2700人)の場合、高台移転による復興事業費について、総事業費519億円のうち地元負担は388億円にものぼるという試算を紹介し、国の支援が欠かせないことを訴えた。また「水産業復興特区」制度により民間資本が漁業に参入する新たな選択肢を説明した。質疑応答では、菅内閣不信任案、国の復興構想会議、義援金の配分、女川原発、漁業振興などの質問に答えた。
司会 日本記者クラブ企画委員 篠原昇司(日本経済新聞)
http://www.jnpc.or.jp/activities/news/report/2011/06/r00022768/

結局、宮城県の打ち出している復興事業は、国の方針が決まらないと実現できないものといえる。さもないと、多大の地元負担がかかるのである。これは、今まで、過疎や財政で苦しんできた、この地域で可能なことなのであろうか。ある意味では、中央依存の復興構想といえるのである。

そして、現在、宮城県の沿岸市町では、8月26日付朝日新聞朝刊で報道されたような現実に直面している。

財源示さぬ国
 「国の方針が決まっていない中で、議論しても何もならない」。津波で市街地の6割が浸水した宮城県東松島市の「まちづくり懇談会」では、住民から不満の声が相次いでいる。
 市は6月に「まちづくり構想図」をつくり、住民に示した。防潮堤と二つの道路をかさ上げする3重の津波対策と居住地の高台移転、沿岸部の再整備などを地区ごとに定めた。
 だが、政府が7月末に示した復興基本方針では、高台移転への国の負担額が明示されなかった。集団移転を希望していた7地区では、反対する住民も出始めた。移転が進まないことを不安視し、「やはり住み慣れた場所のほうがいい」と思い直したからだ。市の担当者は「現状は被災者にさらなる痛みを与えている」と嘆く。

動けぬ自治体
 津波で壊滅的な被害を受けた南三陸町。平地が少ない同町は、浸水した集落の高台移転がまちづくりの柱で、町は移転先の候補用地を取得する議案を議会に提出した。しかし、議会は「町の負担額が分からない」と反発、町は議案の撤回を余儀なくされた。22日に再提出したが、委員会付託になった。

結局のところ、国の負担額が不明のため、沿岸市町では高台移転などに難色を示しているのである。

この状況に対して、宮城県は、9月11日までかけている建築制限を二か月延長することを検討している。宮城県としては、9月11日までに、国の助成などで優遇されるが、しかし建築の規制を受ける「復興推進地域」を定め、それ以外は制限を解除する予定であった。しかしながら、都市計画などがまったく進まないため、建築制限を特例法で定める上限にまで延長するとしているのである。

 上記の朝日新聞によれば、次のような状況がうまれているという。

 

建築制限が長引くなか、宮城県の企業が工場を移す動きもある。気仙沼市の大手水産会社は、岩手県陸前高田市に新たな加工場を建設している。気仙沼商工会議所の臼井賢志会頭は、7月のシンポジウムで不安を漏らした。「企業は規制がないところで事業をやらざるを得ない。戻ってきてくれるだろうか」

津波で破壊された気仙沼市の水産業加工地帯(2011年7月27日)

津波で破壊された気仙沼市の水産業加工地帯(2011年7月27日)

この状況に対して、先の朝日新聞の報道では「ある県幹部は『菅政権は何もしていないのに等しい』とあきれる」と述べている。確かに、菅政権が有能だとはいえない。しかし、それは、前述したように、新自由主義的な減税志向の強い、民主党・自由民主党・公明党などの体質もあわせて考えるべきなのであろう。

そして、宮城県の責任について、翻って考えてみよう。菅政権の無策は、被災した地域全体に及んでいる。しかし、気仙沼の企業が隣接する岩手県陸前高田市に拠点を移すということは、宮城県の建築制限のためである。いわば、中央依存の大規模開発を指向したため、中央が決めないと、企業流失もとめられないのは、宮城県固有の責任といえるのである。

村田県知事の特区構想は、そもそも水産だけではなかった。民間投資促進や集団移転円滑化のための規制緩和も構想されていたように記憶している。今や、「建築制限」という規制のもと、人や企業の流失を逆に促進している「逆特区」という状況に陥っているのが、宮城県の状況といえなくもないのである。

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さて、ここで、再び、宮城県の津波被災地の復興についての問題をみていこう。宮城県では、都市計画もしくは区画整理予定地として、建築基準法84条の規定に従い、2011年4月8日に、名取市・東松島市・女川町・南三陸町・気仙沼市の市街地に建築制限をかけた。そのことを報ずる朝日新聞の報道は、次のようなものである。

宮城県、被災地に建築制限 復興計画前の乱開発防ぐ狙い
2011年4月7日21時51分

 宮城県は7日、東日本大震災の津波で被災した市街地に、建築基準法に基づく建築制限をかけると発表した。無秩序な乱開発を防ぐのが狙い。役場の消滅や被災者への対応に追われる市町に代わり、県が復興計画づくりを担う。

 県が建築を制限するのは、気仙沼、東松島、名取の3市と南三陸、女川の2町。石巻市も独自に制限をかける。建築制限は阪神大震災以来で、東日本大震災では初めて。

 制限は8日から5月11日まで。現行の建築基準法は、災害の日から2カ月しか制限を認めていない。5月以降は阪神大震災を機に制定された被災市街地復興特別措置法を適用し、さらに2年間延期できるが、その場合は、どのエリアで街を再建するのか、場所を事前に決定する必要がある。

 今回の震災では広い範囲が津波で浸水し、どこで街づくりを進めるのかを決めるには相当な時間がかかるとみられる。このため、国には、制限できる期間を延長できるよう法改正を求めていく。

 壊滅的な被害で市町の機能が低下しており、県は制限がかからない農漁村中心の市町も含めた7市7町でも、首長の意向も踏まえて復興計画を練る方針。

 阪神大震災では、神戸市や兵庫県西宮市など5市町が制限をかけ、土地の区画整理や市街地の再開発を進めた。(http://www.asahi.com/politics/update/0407/TKY201104070464.html)

この建築制限によって、公共用の仮設建築、工事用の仮設建築、その他知事が特に認めた場合以外、新築・増築・改築・移転(曳家)は認められないことになった。既存の法律では、二か月間で復興エリアを決めなくてはならないが、5月の特例法で、11月まで延長することが認められた。現在のところは9月11日まで適用となっている。

しかし、この措置は、宮城県独自のものである。例えば、岩手日報は、このように報じている。

行政決定、待てない 本県津波浸水区域への店舗再建

 

 本県の沿岸地域で、東日本大震災の津波被害があった場所に店舗などを再建する動きが止まらない。政府の復興基本方針には財源も明記されず、自治体のまちづくりの計画も進まないため「行政の決定を待っていられない」と、事業主らがやむにやまれず着工したケースが多く、建築に理解を示す自治体もある。

▽車で1時間

 スーパー「マイヤ」(本社・大船渡市)は4日、陸前高田市の津波浸水区域の土地を借りて仮設店舗を開業した。市内の主なスーパーは全壊。夫婦で来店した農業の男性(78)は「これまで車で1時間以上かけて隣町に買い物に行っていた。本当に便利になった」と笑顔を見せた。

▽生活のため

 震災後、沿岸部に建築制限をかけた宮城県と違い、本県は浸水区域内の建築を制限する条例を定めるよう市町村に求めた。結果として、条例を定めた自治体はない。

 県などによると、震災後に県が許可した浸水区域内の建築確認申請は7月末までに計65件。飲食店などの店舗も17件含まれる。県の担当者は「制限する条例がないため、建築確認が申請されたら基本的には許可している」と話す。

 コンビニ大手ローソンも、陸前高田市のマイヤ仮設店舗そばで営業を再開。同社広報は「支援関係者やボランティアのニーズがあり、インフラとして必要。沿岸店舗は再開させず、避難マニュアルを徹底するなど個別に判断している」と説明する。

 被災地の建築制限 宮城県では被災地の復興過程で無秩序な開発を防ぐという観点から、建築基準法84条に基づき、県内7市町の被災市街地で新築や増改築を制限している。期間は特例で通常の2カ月間から最長8カ月まで延長された。一方、岩手県は沿岸市町村に対し、同法39条に基づき津波などの危険が大きい「災害危険区域」を指定、建築を制限する条例を定めるよう求めているが、成立例はまだない。

(2011.8.14)

(http://www.iwate-np.co.jp/311shinsai/sh201108/sh1108141.html)

つまり、岩手県では、建築基準法による建築制限をかけてはいない。そして、建築基準法39条に規定された「災害危険区域」に指定して建築制限を適用する条例を市町村に求めているが、そのような自治体はないとのことである。

それでは、福島県はどうか。福島民報は次のように報道している。

津波復興で「災害危険区域」 県と沿岸市町 住宅建築を制限 
 東日本大震災の大津波で被害を受けた福島県浜通りの復興で、県といわき、相馬、新地の3市町は19日までに、津波の危険がある沿岸部を住宅建築が許可されない建築基準法の「災害危険区域」に指定する方向で協議に入った。国の護岸整備方針などを踏まえ、県は沿岸部から離れた場所に住居を集積し、魚市場など水産業関連施設を海のそばに残す「職住分離」のまちづくりを目指す。ただ、住民との合意形成や代替地選定など課題もある。
 19日、開かれた県議会全員協議会で県が明らかにした。(http://www.minpo.jp/view.php?pageId=4147&blockId=9845931&newsMode=article)
(2011/05/20 09:09)

福島県の場合、このような「災害危険区域」指定を行ったのは、相馬市のようである。相馬市では、沿岸部においては、住宅建設を制限することになったが、産業関連の建築は制限していないようである。南相馬市でも条例化を進めていると報道されている。

つまり、岩手・福島両県では、区画整理もしくは都市計画を前提とした建築制限は適用せず、激甚な津波被災地についてのみ「災害危険区域」として建築制限をかけることとし、それ自体、それぞれの自治体にまかせるという対応をとっているといえる。宮城県とは、大きく違っている。

岩手県では、建築制限がないため、被災地に個人個人が建築することは、原則的に自由である。現状では、たぶん、相馬市以外の福島県領域(もちろん、原発関係地は除く)でもそうであろう。相馬市においても、住宅建設のみが制限されているに過ぎない。しかし、宮城県では、そうではないのである。例えば、河北新報は、次のように報じている。

見えぬ生活再建 在宅避難者、住宅修繕踏み切れず 石巻

 1階が津波で被災した自宅の2階などで生活する「在宅避難者」が多い宮城県石巻市では、東日本大震災の発生から5カ月がたった今も、台所や風呂が使えない厳しい環境で暮らす被災者も目立つ。被災規模が大きいことに加え、仮設住宅への入居や、自治体の復興計画づくりが遅れていることなどが背景にある。

<ガスも電気もなく>
 旧石巻市役所に近い中央1丁目の会社員杉山創さん(62)は、1階天井まで水に漬かり、ガスも電気もない自宅で暮らす。夜は懐中電灯で明かりを採り、携帯式ラジオを聞く。食事は、地区の配給所に市から届く弁当やおにぎり、パンだ。
 妻の愛子さん(59)は震災当日、外出先から「渋滞に巻き込まれている」とのメールを送ってきたのを最後に行方不明。「妻を迎える準備をしたい」と6月の百か日に合わせ、近所の避難所から自宅に戻った。
 仮設住宅を申し込んでおり、台所も風呂も改修しないつもりだ。自宅はいずれ取り壊すしかないと考えている。泥を払った仏壇の近くに妻の写真を飾ったが、葬式を出す気にはまだなれない。「仮設住宅が当たるまで今の生活を続ける」と話す。
 店舗兼自宅が立ち並ぶ中央地区では、現地での住宅再建を目指す人も多い。ただ、建築基準法による建築制限が掛かる区域で新築や改築は困難。土地利用の方針を示す復興計画がなかなか見えず、住宅再建にも影響を与えている。
<建築制限が障壁に>
 中央1丁目の菓子製造販売の西條稔さん(70)は、1階が浸水した鉄骨3階の店舗兼自宅の壁がはがれて工事用の足場が組めず、都市ガスを自宅に引き込めない。ガス復旧には改築が必要だが見通しは立たない。西條さんは「建築制限が外れないと前に進めない」と嘆く。
 「復興計画の内容次第では移転を求められる」として、自宅の本格修繕に踏み切れない被災者も少なくない。
 1階が浸水した全壊状態の住宅が広範囲に広がる大街道地区。大街道南3丁目の自宅の一部を、住民向けの食料配給所として提供している会社社長佐々木公男さん(65)は「費用を掛けて直していいものか、多くの住民が迷っている」と明かす。周辺では約180人が食料配給を受け生活する。
 石巻市によると、3食相当分の配食を受けている在宅避難者は約1万人。車がなければ日常の買い物が難しい地域の市民も含まれており、避難生活の解消には時間がかかりそうだ。

2011年08月13日土曜日
(http://www.kahoku.co.jp/news/2011/08/20110813t13006.htm)

8月になっても、この惨状には驚くしかない。ただ、この惨状からの復興を妨げる要因として、建築基準法による建築制限もあることをみてほしい。そもそも、都市計画も区画整理も決まっていないのに、すべての建築を制限するということが、いわゆる復興の大きな妨げになっているといえる。

石巻市市街地中心部(2011年7月26日)

石巻市市街地中心部(2011年7月26日)

気仙沼市では、漁港機能の回復も建築制限で妨げられていると河北新報は報道している。

気仙沼でサンマ初水揚げ 被災漁船が漁獲、帰港

 本州有数のサンマの水揚げ量を誇る宮城県気仙沼市の気仙沼港に24日、東日本大震災後初めてサンマが水揚げされ、市場が活気づいた。半面、津波で壊滅した冷凍施設の再建は遅れており、加工業者の市外流出など、影響を懸念する声も出ている。
 水揚げしたのは、石巻市の第6安洋丸(199トン)。午前5時40分ごろに着岸し、北海道根室沖で捕れた約15トンをタンクに移した。160グラム以上の大型魚が8割を占め、入札では最高で1キロ820円の高値がついた。
 安洋丸は気仙沼港に係留中に津波で陸に打ち上げられ、岸壁から約300メートルのがれきの上に座礁していた。
 漁労長の三浦恵三さん(47)は「当初は出港できるかどうか不安だった。第1船で入港できてうれしい」と満足そう。気仙沼漁協の佐藤亮輔組合長も「打ち上げられた船が無事に帰ってきてくれて良かった」と語った。
 昨年の気仙沼港のサンマ水揚げ量は2万5000トンで、花咲港(北海道根室市)に次いで全国2位。震災前は1日1000トンの水揚げを記録する日もあった。
 しかし、津波で壊滅した冷凍施設の復旧が進まず、当面は「1日200~300トンが目標」(気仙沼漁協)という。
 水産加工業者の間には再建が遅れている気仙沼を離れ、市外の工場に業務を移す動きもある。同市の水産加工業「阿部長商店」は市内の工場の再開のめどが立たないため、この日仕入れたサンマを大船渡工場に運んで選別した。
 別の加工業者は「工場が再開できないのは、建築制限が足かせになっているためだ。このままでは加工業の市外移転が加速し、漁船の気仙沼離れにもつながりかねない」と話している。

2011年08月25日木曜日
(http://www.kahoku.co.jp/news/2011/08/20110825t13004.htm)

この要因は、もちろん、国の施策の遅れがある。しかし、それだけではなかろう。宮城県が、住宅地の大規模な高台移転、職住分離、漁港集約化、水産特区などの、大規模な復興計画案を策定していることはよく知られている。この建築基準法による建築制限も、大規模な区画整理・都市計画の実施を想定しているからであると考えられる。

本ブログで女川町の復興計画でみたように、このような大規模な復興計画自体が問題があるといえる。もちろん、今後の津波被災を防止するという観点は必要であるが、それだけではなく、たぶんに大規模開発を構想していると思われる。その是非は一応置くとしても、このような大規模開発を、増税を志向しない政治家たちを前提として、現状の国費で賄うことが可能かどうかもわからないといえる。

区画整理というもの、都市計画というものの重要性は、都市史研究者のはしくれとして、よく理解している。しかし、現状では、区画整理・都市計画を進めることが、住民の排除につながっているような気がしてならないのだ。

朝日新聞が南三陸町で仮設店舗ができたことについて、次のような報道をしている。

がれきの街に仮設店舗続々 南三陸町
2011年08月26日

 津波で大きな被害を受けた南三陸町で、住民が避難所から仮設住宅に移り始めたのをきっかけに、町中心部に仮設店舗が次々とオープンしている。県の建築制限がかかる浸水区域内にあるため、すぐに撤去可能なプレハブでの営業だが、日常生活を営み始めた被災者らでにぎわっている。

 「がれきだらけのこの場所から始めたかった」。武山英明さん(41)は10日、壊滅した公立志津川病院のすぐ近くで、プレハブの総菜店「一歩」を開いた。経営していた魚屋は流失。魚の水揚げがほとんどないため、知人に借りた土地でコロッケやヒレカツなどを販売している。「店がないとこの町からどんどん人が出て行ってしまう。店を開くことで復興に協力したい」

 25日には町の仮庁舎で、飲食店や生鮮食品店などが入る仮設商店街の説明会が開かれた。約60人が参加し、南三陸商工会から入居の条件などが説明された。

 商工会は年内にも、独立行政法人・中小企業基盤整備機構の制度を使って、志津川地区に約50店舗、歌津地区に約10店舗の仮設商店街を建設したい考えだ。

 商工会の及川善祐・商業部会長(58)は「仮設商店街を成功させて、町民の暮らしを支えたい」と意気込んだ。

 同町中心部ではこれまで、スーパーや雑貨店などがすべて流されたため、避難所や仮設住宅の住民らは巡回バスなどを使い、近隣市のショッピングセンターなどで買い物をしていた。

 仮設住宅で暮らす主婦(52)は「買い物に行くのも一日仕事だった。町の中にコンビニもいくつかできたし、震災直後と比べれば、ずいぶんと便利になった」と話している。(三浦英之)
(http://mytown.asahi.com/miyagi/news.php?k_id=04000001108260003)

復興計画とは、このような人びとの手助けをすることではなかろうか。そのような思いにかられるのである。

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さて、2011年7月27日に、気仙沼市市街地北部の被災地をみたことは前回のブログで述べた。その後、地理不案内にて、さんざん気仙沼市の高台をさまよったのだが、ようやく魚町に戻ってきた。

そこから、「お魚いちば」という看板につられて、港町にやってきた。ここは、気仙沼の漁港の一部であり、南側には気仙沼市魚市場が所在している。

同行した気仙沼での調査経験のある中世史研究者は、「お魚いちば」は被災前からあったのだが、その時は行けず、ずっと行きたかったのだがと話していた。

気仙沼市お魚いちば(2011年7月27日)

気仙沼市お魚いちば(2011年7月27日)

中に入ってみると、そこは水産物の小売店舗と飲食店であった。

お魚いちばの内装(2011年7月27日)

お魚いちばの内装(2011年7月27日)

すでに、カツオや銀鮭などが販売されていた。

お魚いちばで販売されていたかつお(2011年7月27日)

お魚いちばで販売されていたかつお(2011年7月27日)

お魚いちばで販売されていた銀鮭(2011年7月27日)

お魚いちばで販売されていた銀鮭(2011年7月27日)

ちょうど昼時だったので、「港町丼」という、海鮮物の丼を注文してみた。聞くと4日前に開店したとのことである。

お魚いちばの港町丼(2011年7月27日)

お魚いちばの港町丼(2011年7月27日)

福島・宮城県で、被災地で特産物を食べるのは初めてである。そこまで復旧したといえるのではなかろうか。

周辺で、写真撮影してみた。お魚いちばの前は、埠頭となっている。浸水の跡があり、地盤沈下したのであろう。恒久的な復旧ではないと思われるが、それでもとりあえず整備され、漁船が繋留されていた。

気仙沼市港町の埠頭(2011年7月27日)

気仙沼市港町の埠頭(2011年7月27日)

港町の市街は、さすがに津波に被災した建築物が目立った。ただ、それでも、瓦礫などは片づけられ、整備されている印象はあった。

気仙沼市港町の景況(2011年7月27日)

気仙沼市港町の景況(2011年7月27日)

港町の南側にある気仙沼市魚市場は6月23日から再開されているはずで、実際、かなり整備されている印象をもった。ただ、併設されているリアスシャークミュージアムは、到底開館している印象はない。まだ館前に漁船が残置されていた。

リアスシャークミュージアム(2011年7月27日)

リアスシャークミュージアム(2011年7月27日)

このように、市街地北部と比較すると、市街地中心部に属する港町は、かなり整った印象がある。しかし、ここも甚大な被害を受けた被災地なのである。3月11日、港町の南側の魚市場から撮影した動画があるので、みてみよう。

(http://www.youtube.com/watch?v=48zK7Te8yxc&feature=relatedより)

低層階は水没し、巨大な船が港町に乗り上げていく。湾奥と比べると、大規模な火災はなかったようだが、それでも甚大な被害であった。

5月8日でも、このような景況であった。 火災がないだけましというくらいで、市街地北部とそれほど違わない状態といえよう。

(http://www.youtube.com/watch?v=YT_cD-3i9YEより)

このような状態から、とりあえず瓦礫などは片づけられ、漁港も修繕され、使用可能な家屋は整備され、たぶん水没したであろう魚市場も再開するようになったといえるのである。それが、気仙沼市港町の「今」といえよう。

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