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昨日である2013年2月11日、「歴史の逆流を許さず憲法を力に未来をひらこう」ということをテーマにして、「建国記念の日反対2・11集会が日本橋公会堂ホールで開催された。講演は渡辺治氏(一橋大学名誉教授)の「新段階の日本政治と憲法・アジア」であり、その他、反原発の運動、東京の教科書問題、沖縄と基地・安保についての現場からの発言があった。参加者は約450名であり、NHKテレビのニュースにも報道された。なお、2・11集会は、東京だけでなく、全国各地の都市でも開催されている。ここでは、NHKがネット配信した記事をあげておく。

建国記念の日 各地で式典や集会
2月11日 18時6分

建国記念の日の11日、これを祝う式典や、反対する集会が、各地で開かれました。

このうち東京・渋谷区では、神社本庁などで作る「日本の建国を祝う会」が式典を開き、主催者の発表でおよそ1500人が参加しました。
主催者を代表して、國學院大学教授の大原康男さんが、「建国記念の日を日本再生に向けた確実な一歩とすべく、改めて決意したい」とあいさつしました。
そして、「新政権は、憲法改正など国家の根本に関わる問題に着手しつつある。誇りある国造りへ向けて、尽力することを誓う」などとする決議を採択しました。
参加した40代の女性は、「領土問題をきっかけに、若い世代を中心に国の在り方を議論すべきだと感じるようになりました。憲法を改正し、子どもたちが安心して暮らせる世の中にすべきだ」と話していました。
一方、東京・中央区では、歴史研究者や教職員など主催者の発表でおよそ450人が参加して、建国記念の日に反対する集会が開かれました。
この中で、一橋大学名誉教授の渡辺治さんが、「総選挙で、改憲を志向する政党が勢力を大きく伸ばすなか、平和憲法を守ることの意味を改めて考えるべきだ」と述べました。
そして、「国防軍設置が主張されるなど憲法は戦後最大の危機にある。歴史の逆流を許さず、憲法を力として、平和なアジアと日本社会の未来を開こう」などとする宣言を採択しました。
参加した高校3年生の女子生徒は、「平和を守るうえで、憲法の存在は非常に大きいと考えています。私はまだ有権者ではありませんが、もし憲法改正が問われれば、きちんと考えて判断したいと思います」と話していました。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130211/k10015437921000.html

現在、私は東京歴史科学研究会という団体の代表をつとめており、この団体は「建国記念の日に反対し思想・信教の自由を守る連絡会」(2・11連絡会)という本集会の主催団体の事務局団体の一つであったため、この集会の開会あいさつをすることになった。2・11集会の開会あいさつを行うにあたって、ある程度、この集会が開始された際の状況を調べた。もちろん、あいさつには一部しか利用できなかった。そこで、このブログで、もう少し、東京の2・11集会が開始された状況についてみておこう。

「建国記念の日」の源流は、1872年に明治政府が定めた「紀元節」である。この「紀元節」の日取りは、初代神武天皇が即位した日を2月11日と比定して定められた。戦前においては、四方節(元日)、明治節(明治天皇誕生日)、天長節(当代の天皇誕生日)とならんで、学校の場で、教育勅語がよみあげられ、御真影(天皇の画像)への遥拝が行われており、天皇制教育の一つの柱であった。しかし、戦後、GHQの指令により「紀元節」は廃止された。

この紀元節が「建国記念の日」として復活したのが、高度経済成長期の1967年である。前年の1966年、佐藤栄作政権によって祝日法が改正されて「建国記念の日」が設けられることになった。そして、学識経験者からなる建国記念日審議会に諮問するという形をとって、「建国記念の日」が2月11日に定められ、1967年から設けられることになった。

この建国記念の日については、当時の歴史学界ではおおむね反対していた。そして、実際に1967年2月11日の第一回建国記念の日において、全国各地で抗議行動が行われた。東京では、有力な歴史学会の一つである歴史学研究会が「『建国記念の日』に反対する歴史家集会」を開催した。歴史学研究会の機関誌である『歴史学研究』324号(1967年5月)には「『建国記念の日』に反対する歴史家集会」記事(松尾章一文責)が掲載されている。まず、その状況をみてみよう。

 

 当日の東京の朝は、前夜からふりつづいた何年ぶりかの大雪のために、白一色にうずまっていた。いぜんとしてはげしくふりしきるふぶきにもかかわらず、集会のはじまった午前10時半には、200名をこえる参集者で会場となった全逓会館の9階ホールはほとんど満員となった。
 集会は歴研委員会の会務幹事である江村栄一氏の開会の挨拶ではじめられた。まず議長団に土井正興、松尾章一の両名が選出されたあと、石母田正氏の講演が行われた。(『歴史学研究』324号p71)

なお、石母田正の講演のあと、太田秀通歴研委員長が集会の世話役として運動の経過と今後の決意を述べた。さらに歴史教育者協議会の佐藤伸雄が、

紀元節復活反対運動は、歴史家がもっとも早くからとりくんできた。しかしながら、マスコミなどによってこの問題は、歴史家や宗教家の問題であるかのようにいわれる傾向がつよかったために、反対運動をすすめてゆく革新陣営の側にも弱さがあった。このことが運動の発展にとって大きな障害となった。これは歴史家が反省するより以上に、歴史学界以外の各界の人々の側にも責任がある。今後はさまざまな分野の人々との連けいによる反対運動を組織する必要がある。
(『歴史学研究』324号p72)

と指摘した。

その後、各地での集会の状況などが報告され、活発なーというかかなり激しい討論が行われた。その上で、建国記念の日に反対する声明が提案され、採択された。

なお、重要なことは、この集会は「歴史家の集会」であって、一般の人びととは分離された形で行われたことである。記事では、次のように説明されている。

 

この集合の最初の予定は午前10時から12時までで、その後、同じ会場でおこなわれる国民文化会議主催の「『建国記念の日』ー私たちはどう考えるか」というシンポジュームがおこなわれることになっており、この集会にわれわれ歴史研究者、歴史教育者を中心とするこの集会に参加した全員が、軍国主義、帝国主義、天皇制の復活に反対し、これと対決してたたかう日本人民の1人として午後からの集会に合流することになっていた。そのために、国民文化会議のお骨折りで、われわれの集会を同じ会場で午前中におこなうことができるようにご援助をいただき、そのうえ、午後の集会の時間をずらして、われわれの集会を1時間ほど延長させていただいたご好意に厚く感謝したい。
 最後に、第1回の「建国記念の日」反対集会(今後、廃止される日まで毎年続けていくべきである)は、成功裡に終り、かつ今後のわれわれのたたかいにとってきわめて有意義なものであったことを記して、この簡略にして不十分な報告を終わらせていただくことにする。
(『歴史学研究』324号p72〜73)

このように、歴史学研究会主催の「歴史家の集会」と、労働組合のナショナルセンターであった総評などが結成した国民文化会議主催のシンポジウムは、会場こそ同一だが、時間をわけて実施されたのである。この状況は、それこそ、佐藤が指摘しているような、歴史家と「革新陣営」全体が十分連携していないことの象徴にもみえるといえよう。

しかし、1967年中にも、この状況はかえられていくことになった。これもまた有力な歴史学会の一つである歴史科学協議会が発行している『歴史評論』210号(1968年2月)には、次のような記事が載せられている。

 「

明治百年祭」「靖国神社法案」反対の集会開かれる!
 「建国記念の日」反対のたたかいをおしすすめてきた紀元節問題連絡会議(総評、日教組、憲法会議、日本宗平協、歴教協など広汎な団体が参加)は、昨年十一月九日、東京銀座の教文館で、「明治百年祭」と「靖国神社法案」反対の研究集会をもちました。
 集会は、松尾章一氏から「明治百年祭をめぐる問題」、芳賀登氏から「靖国神社創設の問題」の二つの報告をうけたあと、強まる反動攻勢にたいしどう対処していくべきかという問題を中心に熱心な討議がおこなわれました。たとえば、不服従の姿勢のよりどころをどこにおくか、民主的な憲法や強固な労働組合組織をもっているとはいえ、具体的にみれば、悲観的な材料がけっしてすくなくないこと、伊勢神宮に海上自衛隊が集団参拝した事例などが提起・報告されました。
 なお、同会議がよびかけ人となり、実行委を結成、来る二月十一日全電通会館(東京お茶の水)において、「紀元節復活・靖国神社国営化・明治百年祭に反対する中央集会」が開かれることになりました。(平田)
(『歴史評論』210号p69)

この「紀元節問題連絡会議」こそ、現在の2・11集会の主催団体である「『建国記念の日』に反対し思想・信教の自由を守る連絡会」の源流である。現在の集会でも都教組が参加しているが、この時は、総評・日教組・憲法会議(憲法改悪阻止各界連絡会議)・日本宗平協(日本宗教者平和協議会)・歴教協が参加しており、労働組合の比重が大きいといえる。議論の中でも「強固な労働組合組織」があることが前提となっている。単に「紀元節復活」反対だけでなく、靖国神社国家護持問題や、1968年に予定されていた「明治百年祭」など、より広汎な歴史的な問題に対する国家の「攻勢」に対処していくことがめざされていた。そして、ここから、一般の人々と歴史家がともに集まる、「2・11集会」のスタイルが作り出されたといえるのである。

1968年2月11日に開催された、東京の「2・11集会」について、『歴史評論』212号(1968年4月)において、次のように叙述されている。

戦争準備の思想攻勢を告発するー「紀元節」復活、靖国神社国営化、「明治百年祭」に反対する中央集会ー
 二月十一日、第二回「建国記念日」を迎え、「『紀元節』復活・靖国神社国営化・『明治百年祭』に反対する中央集会が東京全電通ホールで開催された。主催は「紀元節」問題連絡会議で、総評・日教組・国民文化会議ほか三十団体がこれに結集した。歴科協は歴研・歴教協とともに新たに加盟し、集会の成功のため積極的に働いた。
 集会は、権力側が急ピッチに進めている戦争準備の思想攻勢に加えて、エンタープライズ「寄港」、プエブロ事件、南ベトナム諸都市における解放軍民の決起、倉石農相憲法否定発言など緊迫した内外情勢を反映し、定員四百四十名の会場に千三百名が溢れ、届出六百名のデモに千名が参加するという盛りあがりを見せた。
 十二時半、京都府作製の護憲スライド「この樹枯らさず」上映で幕をあけ、家永三郎、高橋磌一両氏の講演が行われた。家永氏は「教科書問題と明治百年」と題し、教科書問題に露呈されたところの、政府の意図する歴史の軍国主義的偽造を告発し、高橋氏は「明治百年と国防意識」と題して、「紀元節」も「明治百年」も、教育・思想・文化の軍国主義化、さらには七〇年安保改定に向けての権力側の布石であると強調した。ついで別に女子学院で千六百名の大集会を成功させたキリスト者の集会を代表して日本キリスト教団総会議長鈴木正久氏のメッセージ、「紀元節」復活反対の声明を出した日歴協(日本歴史学協会)を代表して副会長林英夫氏の挨拶のあと、社会党猪俣浩三、共産党米原いたる、宗平協中濃教篤、教科書訴訟全国連絡会四位直毅、マスコミ共闘上田哲の諸氏から報告と決意表明があり、主催団体を代表して国民文化会議日高六郎氏が総括を行った。最後に倉石農相罷免要求の決議と集会アピールが採択され、午後四時閉会した。
 散会後、明大および東京教育大の学内集会を成功させ、会場まで行進してきたデモ隊と合流し、十数年来はじめて許可をかちとった日本橋の目抜き通りを東京駅八重洲口まで、力強いデモ行進が行われた。
   決議文
 アメリカのベトナム侵略戦争が、ますます狂暴化するなかで、これに対する佐藤政府の加担は、昨年十一月の「日米共同声明」いらい、内外の多くの人々の反対にもかかわらず急速に深まってきています。すなわち、佐藤政府はアメリカの原子力空母エンタープライズの日本寄港をゆるし、沖縄復帰の国民の念顧をうらぎり 沖縄の「核つき返還」を促進し、日本全土の核基地化を公然とすすめようとしています。
 また外国人学校制度法案の国会上提をもくろみ、東京都私学審議会における朝鮮大学校の認可問題に不当な圧力をかけるなど在日朝鮮公民の諸権利の抑圧をおしすすめ、北朝鮮帰国を一方的に打切り、さらに、日本を基地として出発したプエブロ号の朝鮮民主主義人民共和国に対する挑発行動をゆるしています。それは政治的・軍事的な面ばかりではなく教育・文化・思想の領域においてもはげしくおしすすめられております。「自分の力で自国を守らなければならない」という佐藤首相の発言、「小学校から防衛意識を植えつけなければならぬ」という灘尾文相の談話、「憲法は他力本願で……こんなばかばかしい憲法をもっている日本はメカケのようなもの……日本にも原爆と三十万の軍隊がなければだめだ」という倉石農相の発言などに、端的に示されています。
 政府・自民党は、さらに、「建国記念の日」の制定つまり旧紀元節の復活、社会科教育への神話のもちこみや公民教育の復活などにくわえて、国会に靖国神社の国営化法案の提出の準備を急いでいます。これらは、ベトナム侵略戦争に積極的に加担している政府が、軍国主義をもりあげ、「国家愛」の美名のもとに国民を戦争にかりたてようとするものです。そのため、政府は、教科書の事実上の検閲をさらにつよめ、放送法の改悪をたくらむなど、さまざまな形で思想統制を強化してきています。
 今年は、これらにつづいて「明治百年祭」の一大カンパニアを展開しています。明治いらい「大日本帝国」政府は、国民の平和と民主主義を求める希望を裏切り、そのための努力をねじまげ、朝鮮、中国をはじめアジア諸国に対する残虐な侵略をおこない、国民にもはかりしれない犠牲をおわせました。政府は、そのようなような事実をおおいかくし、過去の軍国主義の道を栄光化する歴史解釈を、「明治百年祭」のお祭りさわぎのなかで国民におしつけてきています。
 これはまさに、日本国憲法の平和と民主主義の原則を真向から否定しようとするものであり、憲法改悪への道にそのまま通ずるものであります。心から祖国を愛し、真の独立と平和と民主主義とをもとめてやまないわたしたちは、このようなたくらみをだんじてゆるすことはできません。
 旧「紀元節」が復活されて、二度目の二月十一日をむかえ、ひろく各界から「紀元節」復活・靖国神社国営化・「明治百年祭」に反対する中央集会に結集した私たちは、全国いたるところでまきおこっている反対運動と呼応しながら、これら一連の戦争準備の反動思想攻勢を断固として告発し、力をあわせて、あくまでもそれに反対してたたかいぬくことを誓います。
   1968年2月11日
            「紀元節」問題連絡会議
大塚史学会 大塚史学会学生部委員会 映像芸術の会 「紀元節」問題懇話会 「紀元節」に反対する考古学者の会 教科書検定訴訟を支援する会 憲法改悪阻止各界連絡会議 憲法擁護国民連合 国民文化会議 駒場わだつみ会 社会主義青年同盟 新日本婦人の会 東京都教職員組合連合会 日本科学者会議 日本キリスト教団 日本教職員組合 日本高等学校教職員組合 日本子どもを守る会 日本児童文学者協会 日本宗教者平和協議会 日本戦没学生記念会 東京地区大学教職員組合連合会 日本婦人会議 日本民主青年同盟 日本労働組合総評議会 婦人民主クラブ マスコミ産業労働組合共闘会議 歴史科学協議会 歴史学研究会 歴史教育者協議会
(『歴史評論』212号p62〜63)

このことから、次のようなことがわかるといえる。まず、総評(日本労働組合総評議会)や日教組、都教組などの労働組合が大きな比重をもつ形で「紀元節問題連絡会議」が結成されたということができる。その上で、構成団体として、社会党系団体(憲法擁護国民連合、社会主義青年同盟、日本婦人会議など)と共産党系団体(新日本婦人の会、憲法改悪阻止各界連絡会議、日本民主青年同盟など)が共存しているのである。そして、集会自体でも社会党員と共産党員がともにあいさつをしている。総評は、全体的には社会党系といえるが、反主流派として共産党系の人々もいた。その意味で、内部抗争がたえなかったといいうるが、逆に、労働組合の組織力を基盤とし、さらに社会党系の人々と共産党系の人々を結びつけて大きな運動を展開しうる可能性を有していた。その可能性が発揮されたのが、この「紀元節問題連絡会議」だったといえる。1967年2月11日の「歴史家の集会」では200名しか参加していなかったが、1968年2月11日の集会では1300名が参加し、1000名のデモ行進まで行われたのである。ある意味で、1960年の安保闘争にも類似しているといえる。総評や日教組もいろいろ問題を抱えていたといえるが、社会運動において、生活の場に拠点を有する労働組合の存在は大きいといえる。現在の2・11集会においても、労働組合である都教組の存在は大きい。このように、現在においても社会運動における労働組合は重要な存在なのである。

他方で、この場が、当時の歴史家たちの「社会参加」の「場」にもなったといえる。1968年の集会では、「建国記念の日」反対だけでなく、当時の佐藤政権のさまざまな問題に言及しながら、それらを「戦争準備」の動きとし、建国記念の日設定、靖国神社国営化、明治百年祭実施などを「戦争準備の思想攻勢」として総体として批判するというスタンスをとった。ある意味で、狭義の「歴史問題」だけではなく、そのような「歴史問題」を、労働組合も参加した集会において社会全体の動向をふまえて把握し、訴えていくことになったといえる。そのような意味で、当時の歴史家たちの「社会参加」の場でもあったといえよう。

わたしのあいさつでも話したが、今や、佐藤栄作の時代よりもはるかに強い形で、「思想攻勢」は進められている。そして、抵抗の拠点となった総評はもはや存在しない。それでも、いまだに1960年代の社会運動の伝統は、「2・11集会」という形で生き続けている。そして、創立された1960年代の時よりも、今のほうが、大きな意義をもつようになっているのである。

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