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Posts Tagged ‘武谷三男’

さて、前回は1975年に原子力情報資料室が創設されたことを述べた。創設時の原子力情報資料室は、「専門家各人が資料をもちより、共通に閲覧し、必要に応じて意見交換する、一種のサロン的場」(高木『市民科学者として生きる』、岩波新書、1999年)をめざすものであったと高木は回想している。

しかし、創設まもない頃、高木は、代表であった武谷三男らと、原子力情報資料室の運営方針をめぐって論争した。やや長文になるが、ここでその経緯を紹介したい。

 

ところが、それに(原子力情報資料室…引用者注)自分の一生を賭けるつもりでいた私は、明らかに「サロン」には不満で、「全国の住民は日々にさまざまな情報を求めているのであり、また政府・電力会社の計画や原発の安全性を独立の立場から日々解析・批判していくことが社会的に求められているのではないか。これに対応するには、きちんとした専従スタッフの体制を敷くと共に、われわれ研究者自身がいわば自分たちの運動として資料室にかかわるべきではないか」と主張した。
 これに対して武谷先生は、次のように言われた。
 「科学者には科学者の役割があり、(住民)運動には運動の果すべき役割がある。君、時計をかな鎚代りにしたら壊れるだけで、時計にもかな鎚にもなりはしないよ」
 もちろん、ここでは、科学者・専門家が精密機械としての時計に、大衆的な行動の力である住民運動がかな鎚にたとえられていた。かなり強い調子で言われたので一瞬皆が固唾を呑んだ。私も少したじろいだが、恐いもの知らずの”遅れて来た人間”だった私は、
 「資料室はともかく、私個人はそういう役割人間であることを拒否したいと思います。少なくともかな鎚の心をも併せもった時計を目指したいのです。時計は駄目でもせめて、釘の役割でもよいです」。
 正確にこの通りではないが、そんな風に言った。なんとも生意気な発言だった。その場はまわりの人がとりなして終ったが、後から水戸巌さんに、「武谷先生に対しては、誰もあんな風には反論しないものだよ。ま、君は古いことを知らないから、はっきりものを言って、それはそれでよかったと思うけど」と言われた。水戸さんは武谷先生の一番若い弟子とも言える立場で、その世代以前の人にとっては、学問的にも思想的にも輝かしい業績があり指導的な地位にあった武谷先生は、深い尊敬の対象であり、軽々に反論などできない存在だった。
 武谷先生の名誉のためにも、誤解を招かないためにも付け加えて置きたいのだが、先生が私に言ったことの中には、「運動をやっているという自己満足で、専門性を鈍らせたり精進を怠ったりするなよ」という、貴重な忠言が含まれていた。その時の私にはそのように受けとめるだけのゆとりがなく、世代間の思想的違いとのみとらえて、がんばったのである。
 しかし、その後、私は常にこの時のことを頭に入れ、大見得を切った手前、ぜったいに「壊れた時計」にはなるまいと、常に心に誓って来た。その意味で、武谷先生の言葉は現実によい忠言になったと思う。
 なお、武谷先生はこのやりとりからしばらくあって後、資料室の代表を辞任したが、私との間に対立関係が生じたわけではなかった。先生は、現在に至る私の活動を評価してくれ、頻繁な行き来はないが、よい関係が続いていると私は思っている。(同書p164〜166)

武谷三男と高木仁三郎では、知識人・専門家のあり方について、大きく見解が異なっていたといえる。武谷は、自身も高木も「専門家集団」であり、彼らは直接に運動を行う存在ではなく、運動側を知識によってサポートしていくという形で意識していた。その意味で、専門家が情報を提供し、利用し、意見交換するためのものとして原子力情報資料室を武谷はとらえていた。武谷にとっては、専門家・知識人と、運動は、別々の役割を担うべきものであった。このような考えは、戦前来の知識人の自己認識といえよう。武谷の発言は、それを体現したものであった。

他方で、高木は、運動側に資料を提供することにとどめるのではなく、専門家もまた自身ものとして運動を担っていくべきであるというように考えていた。高木にとって、知識人・専門家と運動は別々の存在であってはならなかったのである。これは、まさしく、1970年代以降に生まれた、知識人のあり方についての新しい考え方であった。高木仁三郎は、単に、今日の脱原発・反原発運動の源流というだけでなく、知識人のあり方ーひいては科学・学術のあり方について、新しい考え方を提示した先覚者としても評価しなくてはならない。ここまで、高木について、延々述べてきたのは、このことを言いたいがためである。

しかし、このことは、簡単にできることではない。先ほど引用したところで高木が武谷の言葉について反省して述べているように、運動にたずさわることと、研究を深めていくということを両立することは、並大抵なことではないのだ。高木は、結局、専門家と市民という「二足のワラジ」の両立に悩んでいたことを本書で書き留めている。さまざまな活動を通じて「反原発のリーダー」として目されていく反面、身体的にも精神的にも高木は疲弊していった。一時期はうつ病になったこともあると、高木は告白している。そして、そのことを、高木は次のように述べている。

 

精神医学的なことは私には分からないが、個人的に考えると、私が鬱になった原因は、先述の「二足のワラジ」の両側に私が引き裂かれてしまって、時計としてもかな鎚としても自分が機能していないことに、ほとんど絶望的に悩まされたことにあった。そのうえに、私のこの問題意識は、まわりの誰にもうまく共有してもらえなかった。
 むしろ、原子力資料情報室の運営委員会内にも、資料室が運動側に傾斜しすぎていることに関係して、私への至極当然の批判も生まれ、それに端を発して、スタッフの役割、専門家の位置づけなど、蓄積していた意見の相違なども顕在化し、議論が錯綜した。私はついに行き詰まり、医師の助言もあって、三ヵ月近くの休暇をとった。1990年の夏頃のことであった。(同書p172〜173)

 そして、休暇中に、高木は、次のように考えるにいたったのである。

 

プルトニウムという原点に戻ろうと思った。それまでの反省として、自分の専門の間口をひろげ過ぎ、「時計」の精度が悪くなって来たことが、自分自身でよく分って自分を悩ませていたということがひとつにあった。もうひとつの反省としては、柄にもない「運動のリーダー」役を担いすぎ、しかもそれを内発的な動機というよりは、押しつけられた責任として実行しようとしすぎた。それはもう断ちきらねばならない。
 といって、もちろん、「専門家」に徹し切るつもりはなかった。一人の人間として、一市民活動家の立場は、すでに自分から取り除くことのできない身体の一部のようなものになっていた。それなら、専門家と市民、時計とかな鎚という二足のわらじをはくのではなく、やることの範囲を絞ったうえで科学者=活動家といった地平で仕事をすることも可能ではないか。いや、そこにしか自分が今後生きていく道はないのではないか。それまでは、ディレンマとしかとらえられなかった問題も、妙な肩の力みを除いてみると、案外止揚できるかもしれない。それだけの失敗の経験と苦しみは味わってきたのではないか。
 そう思うと、妙に気が楽になって、立ち直れるのではないかと思えて来た。
 そして、自分の営みが、基本的には市民の目の高さからの科学、すなわち「市民の科学」を目指すことであり、資料室は、市民の科学の機関であると位置づけることが、ごく自然のように思えて来た。(同書p174〜175)

まさに、「市民の科学」をめざすこと、これが、科学者と市民という「二足のワラジ」の矛盾に苦闘した高木の回答であったといえよう。ある意味では、先行する武谷三男から投げかけられた問いを、高木は、このように解こうとしたのであったのである。

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さて、前回のブログで、1969年に東京都立大学助教授に赴任した高木仁三郎が、「われわれはどんな方法でわれわれに必要な科学をわれわれのものにできるか」(宮沢賢治)をめざして、大学をやめようと考えるにいたったことを述べた。高木は、西ドイツのマックス・プランク核物理学研究所に留学し、東大原子核研究所時代以来抱いていた研究テーマをまとめた。そして、1973年に、慰留をうけながらも東京都立大学をやめた。高木は、その時の思いを、『市民科学者として生きる』(岩波新書、1999年)で、次のように回想している。

大学や企業のシステムのひきずる利害性を離れ、市民の中に入りこんで、エスタブリッシュメントから独立した一市民として「自前(市民)の科学」をする、というのが私の意向だった(同書134頁)

もちろん、生活を維持することには苦労していたと高木は回想している。雑誌『科学』(岩波書店)の科学時事欄執筆を匿名で担当する、他の雑誌に原稿を書く、翻訳に従事するなどで、ようやく生計を立てていた。ただ、『科学』については、後に「市民の科学」のための基礎知識を得たり、世界全体の科学技術を鳥瞰することに役立ったと高木は述べている。

しかし、アウトサイダーになった高木は、次のような苦労もしたのである。

 

今のようにインターネットなどなかった時代のことで、文献資料を得るのには苦労した。都立大学の図書館を利用させてもらおうと思い、知り合いの教授を紹介者として立て、図書館利用を正式に申しこんだが、「部外者には認めていない」とあっさり断られた。今だったら大学も市民に対してこんなに閉鎖的ではやっていけないと思うが、いったんアウトサイダーの刻印を押された人間には、大学・諸研究機関は、なべてこんな調子で、歯ぎしりさせられることが多かった。それにしても、私の心の中には、未だにこの都立大学の態度には一種の屈辱感が残っていて、その後、自分のことを「元都立大学助教授」と書かれる度に恥しい思いがした。(同書p138)

ただ、高木は「しかし、一方的に孤独感に悩まされる、という感じではなかった。そこには、内側にいたのでは見えなかった世界のひろがりがあった」(同書p138)と書き留めている。三里塚通いも続き、平和や環境問題に関する市民運動との交流も広がった。三里塚では、有機農法によって1反あまりの田づくりを行った。このことは、放射能の実験ではなく米づくりをしながら考えるという意味で新鮮な経験になり、後年エコロジストに傾斜する原点にもなったと高木は述べている。

そんな中、当時大阪大学に勤務しており、四国電力伊方原発差し止め行政訴訟の住民側特別補佐人になっていた久米三四郎より、1974年、高木仁三郎に、プルトニウム問題に取り組んでくれないかという要請がなされた。高木は、プルトニウム問題については前から思い入れをもっていたが、久米は、そのことは知らなかっただろうと、高木は推察している。久米の意図については、1970年代前半、原発建設がさかんになり、そのことで原発反対運動もさかんになっていたとして、次のように述べている。

人々は、電力会社や政府の宣伝とは別の、独立した情報を求めていたが、その助けになるような研究者・専門家が決定的に不足していた。そういう状況下で、一人でも仲間を増やしたい。そういう気持ちで久米さんは私の所にやって来たのだと思う。(同書p141)

この時の高木の対応は、複雑なものであった。次のように回想されている。

 

その場では、私は返事を留保した。私はそれまでの間、専門性と市民性という問題に悩んでいた。先述のように、連れ合いのハリ(中田久仁子、後、高木久仁子…引用者注)とも常に議論があり、市民側・住民側の立場から運動に参加するにしても、できたら原子力分野の専門家として再登場するという形でなく、一市民として参加できたらよいなと思っていた。いずれ原子力問題は避けて通れない思っていたが、その参加の仕方、私の志向する”市民の科学”へのアプローチが見えて来なかったためだ。
 だが、結局、私は久米さんの要請にある程度応える形で、限定的ながら、プルトニウム問題に取り組むことにした。なんといってもプルトニウムは、私のスタートとなった特別な物質であったし、シーボーグ(プルトニウムの発見者…引用者注)に魅せられたとともに、一抹の違和感を彼の本に抱いたことは、第3章で触れた。その違和感を、もっと踏みこんで解明してみようと思った。(同書p142)

高木自身は、この時点で、専門家というよりも、一市民として、運動に参加したいと考えており、それが上記のような複雑な対応をとらせたといえよう。科学者ー専門家としてふるまうこと、一市民運動家としてふるまうこと、この二つの志向は、高木の後半生を支配したモティーフだったといえる。

そして、高木は、プルトニウムの毒性(発がん性)の研究をはじめ、すでにプルトニウムの毒性の大きさを指摘していたタンプリンとコクランの説を高木なりに評価した「プルトニウム毒性の考察」を『科学』1975年5月号に掲載した。高木はプルトニウム論争に巻き込まれ、テレビの論争にも”批判派”として登場するようになった。

さらに、高木は、プルトニウムに関する多面的な問題(安全面、社会面、経済性、高速増殖炉計画など)を議論する「プルトニウム研究会」を組織した。この時の検討をもとにして、原子力に関する初めての本である『プルートーンの火』(現代教養文庫、1976年)を書いた。

すでに、1974年末には、高木は反原発の東京の市民運動の集まりにも顔を出すようになったと回想している。高木によると、当時の日本の反原発運動は原発立地予定地の住民運動を中心としていたが、「ようやくにして東京のような都会でも、原発問題を自分たちの問題としてとらえようとする市民運動がスタートしつつあった時で、運よくほとんどその初期から参加することができた」(同書p147)と述べている。

この当時、原発立地予定地の住民運動に協力して活発に活動していた専門家として、久米の他、武谷三男、小野周、水戸巌、市川定夫や、藤本陽一などの原子力安全問題研究会、全国原子力科学技術問題研究会を高木はあげている。高木は「それらの人々に比べたら、私はずい分、”遅れてやって来た反原発派”だった。」(同書p147)と述べている。

1975年8月24〜26日には、京都で日本初めての反原発全国集会が開かれた。この集会は、女川、柏崎、熊野、浜坂、伊方、川内など、原発計画に反対する住民運動団体が中心的に準備していたと高木は述べている。この全国集会に呼応して、前記の専門家の間にも、共通の資料室的な場をもとうという動きが起こってきた。この動きを強く押し進めたのは、反原発運動に取り組んでいた原水禁国民会議であり、その事務局の一部を提供してくれることになった。ここで、原子力情報資料室が誕生したのである。このことについて、高木は、次のように述べている。

…1975年の夏までに何回か話し合いがあり、結局武谷三男氏を代表とし、浪人的存在であった私が専従(ただし無給!)的役割(一応世話人という名称で)を担うことを了承して、その司町のビル(原水禁国民会議事務局が所在した神田司町のビル…引用者注)の五階で、原子力資料情報室は9月にスタートすることになった。…とりあえずの合意としては、「全国センター」的なものとして気張るのではなく、文字通りの資料室=資料の置き場とそこに集まってくる研究者たちの討論や交流の場(ある種サロン的なもの)とするということでスタートした。(同書p148〜149)

この原子力情報資料室創設時、基本的には高木が一人で運営していた。高木は、無給で電話の応対、資料の収集・整理、自身の学習に従事していた。当時の資料室は財政困難であり、彼自身の生活のためだけでなく、資料室のためにも稼がなくてはならなかったと語っている。高木は、創設時の原子力情報資料室は会費(会員40人程度)と原水禁からの若干の支援によって財政的に支えられていたが、原水禁から一定の独立性を保ちたいという会員の意向もあって原水禁からの支援は限定的なものであったと述べている。

しかし、高木は、この原子力情報資料室に「全人生」をかけていた。

 

ところが、私はなにしろ、資料室にかかわることを決めた時点で、そこに全精力、おおげさでなく全人生をかけ、そこをわが「羅須地人協会」にするという気持になっていたから、設立の趣旨を越えて走り出し、それがフライング気味だったことは、否定すべくもないだろう。(同書p150)

高木にとって、原子力情報資料室は、いうなれば宮沢賢治の「羅須地人協会」を継承するものーいや「羅須地人協会」そのものであったのである。そのような高木の思いと行動が、原子力情報資料室自体のあり方を決定づけていくことになったのである。

 

 

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以前、本ブログで、1956年に衆議院で表明された物理学者武谷三男の放射線許容量についての議論を紹介した。翌1957年、武谷は京大・阪大などが推進していた関西研究用原子炉を大阪府高槻市阿武山に設置する計画に反対する運動を支援した。その一環で、9月11日に開催された吹田市で開催された説明会に参加し、京大・阪大側の研究者と討論を展開した。この討論の速記録は『武谷三男現代論集』1に収録されている。

この中で、より明瞭に、武谷は放射線の許容量について論じている。ここで紹介しておこう。

武谷は、自身が戦後において原子力の平和利用を提唱したことを述べながら、最近は少し薬がききすぎて、今度は、原子力なら何でもいいんだという風潮が生まれたことを嘆き、文明の利器、とりわけ原子力は非常な危険を有しているから、非常に慎重に扱わなくてはならないと主張した。その上で、武谷は、戦前は放射線・放射能はそれほど危ないものと思っていなかったが、「戦後になりまして、人体に及ぼす影響が非常な微量なものまで危険がある。もちろんすぐ死んでしまうというようなそういう危険ではない。そういう危険でないからこそ大変心配なのであります」と述べた。

その上で、まず、軍事利用というものには許容量というものは許されないとした。例えば、水爆実験の死の灰などでは、どんな微量の放射性物質でも許されず、「警告単位」という考えでなければならないとしている。平和利用に限定して、許容量という考えが許されるとした。

許容量を原子力の平和利用に限定しつつ、武谷は次のように述べている。

 

ところがしかし、この平和利用といえども何の意味もなくこの放射線や放射能を受けるということは許してはならないということなんです。それに相当の掛替えがあるときに、許容量という概念が成立つのであります。

具体的に、武谷は、以上のような議論を展開している。放射線・放射能は量に比例して有害であり、毒物のような致死量が存在しない。「白血病やガンというものの発生も非常に微量に至るまで受けた線量と比例して現れるという問題がはっきりだんだんして参りました」と、ごく微量でも、白血病の発生率を増加させてしまうとしている。

そして、天然にも放射能があって、原水爆のそれよりも低いと主張されていることについては、このように批判した。

…白血病だっていろいろ発生するのは、天然の放射線や放射能でかなり沢山の人が死ぬわけです。
 ところが、これがもし相当乱暴な立場で原子炉などが運転されるということになりますと、たとえこれが天然の水準より少ないにしても、ある種の白血病を出すか遺伝障害を生むわけであります。
 したがってそういう点からいって、これは天然より少ないからといって許されるかというと、そうは参らない。

つまり、天然の放射線・放射能で白血病など発症して死亡することが多いとしても、どれほど少ないとはいえ、それに追加して死亡者を出すべきではないとしているのである。

そして、許容量については、このように説明している。例えば、レントゲン検査でも白血病を生むことには変わりない。

しかしながらその場合には白血病で死ぬ人に比べて、このレントゲン検査をやらなかったとすれば、それは100人の人が結核で死ぬとか、1000人の人が結核で死ぬとかということになるわけです。したがってどっちを選ぶかというと、この1人の白血病患者を選ぶということで許容量というものが成立つわけです。

放射線・放射能許容量とは、いわば、それをあびるリスクと、それを利用して得られるリターンとの差し引きで成立っているといえるのだ。つまり、許容量以下であっても、ガン・白血病などにかかるリスクは少ないまでも存在する。それでも許容されるのは、利用して得られるリターンのためであるといえる。

ゆえに、許容量といえども、放射線をむやみにあびていいわけではない。武谷は、このように指摘した。

 

したがって、だからといって何をやってもいいということにはならない。できるだけ慎重に、なるべく防備を完全にして無駄な放射線を照てないということが必要になるわけです。

そして、武谷は、このように憂いた。

 

それで、私は大変今後の原子力で心配することは、こうやれば大丈夫、ああやれば大丈夫というふうに言っておいて、それはなるほどそういう設備を整えるかも知れません。また、整えないかも知れません。それは分からない。設備は整えたとしても、結局のところそういうものを流す方が簡単な場合が多いのです。そういたしますとそれが結局文句を誰かが言うと、「こういう乱暴なやり方はいかんじゃないか」ーそう言うと、「これは厚生省の許容量以下である。だからそんなことに文句を言うのはいけない」または「遺伝学的許容量以下である。遺伝学的許容量みたいな厳密な許容量以下なんだから文句を言う方がおかしいではないか」というようなことに決まっているのです。
 こういうことは、今後日本が原子力をどんどんやっていくときに私が最も心配していることであります。

つまり、リスクとリターンとの関係で設定された「許容量」が一人歩きし、本来は許容量以下でも無駄な放射線をあびることはさけなくてはならないのに、許容量までならばなんでもいいということになってしまうことを武谷は懸念していたのである。

そして、現在、武谷の懸念はある意味で的中したといえる。許容量が設定されると、それまではよいとされてしまうことは、福島第一原発事故以後、往々みられることである。それは、空間放射線率、除染基準、食品などの規制でみられる。結局、許容量以下でも無駄な放射線をあびる努力が必要なのだが、許容量ならば安全であり、それは無駄なこととする議論がしばしばみられるのである。

このようなことが一般的なことなのだろうか。前回みた、国際放射線防護委員会( ICRP)は、結果的に平常の20倍の年間20mSvを汚染地帯の基準としてしまっており、そのことは評価できない。しかし、ガン・白血病・遺伝障害をひきおこす細胞レベルでの損傷については、サイト「原子力百科事典」(高度情報科学技術研究機構運営、略称ATOMICA)によると、このように説明している。

細胞レベルの損傷は、極低線量(あるいは低線量率)の被ばくによって引き起こされるため、障害が発生する確率は、被ばく線量(あるいは線量率)に比例して増加することになる。実質的にほとんど障害が発生しない線量は存在するが、障害発生の確立がゼロとなるしきい線量は存在しないと考えられる。したがって確率的影響は、被ばく線量を合理的に達成できる限り低く制限することによって、その発生確率を容認できるレベルまで制限することになる。
http://www.rist.or.jp/atomica/data/dat_detail.php?Title_No=09-04-01-08

基本的には、細胞レベルの損傷は低線量でも生じうるのであり、しきい線量は存在せず、被ばく線量を合理的に達成できる限り低く制限せよとしているのである。その点は、日本政府などの考え方よりも、武谷の考え方に近いということができる。

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福島第一原発事故以後、よくいわれることは、日本は広島・長崎に原爆投下されて、原子力の危険性はよくわかっているにもかかわらず、なぜ、原発開発を全面的に押し進めたということである。

このことについては、さまざまな要因が考えられるであろう。日本人といっても、一概には概括できない。原子力予算を1954年にはじめて提起した中曽根康弘らは、保守党の中でも本格的な再軍備を指向したグループ(改進党)だった。一方で、1955年の原子力基本法の制定については、彼らだけでなく、この時点での本格的再軍備を望まなかったといわれている吉田茂に近いグループ(自由党)や、再軍備に反対していた日本社会党の人びとも参画していた。このことについては、また、詳論しなくてはならない。

ただ、総じていえば、これらの人びとに共通して、「原子力の平和利用」へのあこがれがあったといえるだろう。それは、例えば、1954年に成立した原水爆禁止運動においても通底していた。このブログでも前に紹介したが、1954年5月28日に中野区議会において「原子兵器放棄並びに実験禁止その他要請の決議」が提案され、これも全会一致で可決した。提案者近藤正二は、決議の趣旨について、次のように語っている。

(前略)
 今般のビキニにおきますところの伝えまするところの実況と申しますものは、そのビキニ環礁におきますところの爆発点におきましては、地下百七十五フィート半径一マイルの大きな穴を起しまして、そこの噴火口から爆発いたしました所の珊瑚礁の飛沫というものが富士山の三倍の高さまで到達し、それが今日見ますような空から灰が降る、あるいはもらい水であるところの雨水にまでもその放射能によるところの被害というものが感ぜられるわけでございます。
 翻って考えまするに、原子力の破壊力というものは、七年前に比べますると、その力は一千倍の惨害を呈するところにまで至っておりまして、今日の日進月歩の科学の力をもっていたしまするならば今後その猛烈な破壊力の到達するところは、これを戦争目的あるいは破壊的な形において実験するならば、人類は真に破滅に瀕するということは、もはや明瞭な事実でございます。しかるに人類は現在この原子力を持ちましたことによりまして、かつて人類の歴史に見なかったところの光栄ある未来を築き、精神的にもまた物質的にも偉大な繁栄が、この原子力の平和的な利用ということにかかって存在し得るのでありまして、逆な形で今申したごとく、これを破壊目的に使用するならば、人類は破滅に瀕するという、まことに人類の歴史にとって、かつてない重大な危機に立っておると言っていいのであります。
(後略 『中野区史』昭和資料編二 1973年)

核戦争には恐怖を示す一方で、「原子力の平和利用」には多大な期待をもっていたのである。

このような意識は、戦前核兵器を開発していた科学者にもみられた。このブログでもとりあげた武谷三男は、京都帝国大学を卒業し、湯川秀樹、朝永振一郎などと素粒子論を研究していた。戦時期においては、反ファシズムを主張した雑誌『世界文化』『土曜日』などに関係して検挙される一方で、原爆開発研究にも関与していた。そして、戦後においては、民主的科学者として数々の発言を行った。

その武谷は、「原子力を平和につかえば」という文章を『婦人画報』1952年8月号に寄稿している。この文章は、武谷の『戦争と科学』(1958年1月刊)に収録されている(なお、引用は『武谷三男著作集』3、1968年より行った)。

この文章が掲載されたのは、サンフランシスコ講和条約が1952年4月に発効した直後のことであった。GHQは日本における原子力研究を禁止していたが、講和条約においては原子力研究を禁止しておらず、講和条約発効後は、原子力研究・開発は可能になった。その時点で、武谷は、「原子力の平和利用」を主張したのである。中曽根らの原子力予算提起よりも2年近く前のことである。

武谷は、まず、核戦争の脅威と悲惨を、このように述べている。

 

原子力という名が、われわれ日本人にあたえる感じは、決してよいものではない。広島、長崎の無残な記憶がますます心のいたみを強くしているのに、ふたたび日本をもっとすさまじい原子攻撃の標的にしようという計画がおしすすめられている。そのような計画は権力と正義の宣伝によって行われるので、国民の多数がこれはいけないと気がついたときには、手おくれになるかも知れない。
 キュリー夫人、ジュリオ=キュリー夫人、マイトナー女史、このような平和主義的母性の名をもって象徴される原子力が、このような、人類の破滅をも考えさせるものにどうしてなったのだろうか。原子力は悲惨を生むためにしか役立たないのだろうか。
 初期の原子爆弾の1発だけで高性能火薬2万トンのエネルギーをもっている。今日研究が進められている水素爆弾1発で関東地方全域に被害をおよぼすことができる。(『戦争と科学』p129)

この武谷の考えを図像化したものが、次の図の左側部分である。キュリー夫人らの原子物理学の発展が原子工場をへて、原水爆投下につながっていくことがここで描かれている。図の中には「水素爆弾一発で関東地方全滅」というキャプションも挿入されている。

武谷三男『戦争と化学』p,p130-131

武谷三男『戦争と化学』p,p130-131

しかし、ここで、武谷は、次のように主張する。

 

このような大きなエネルギーを、人類の破滅のためにではなく、人類の幸福のために使えないのだろうか。そうだ! 原子力はほんとは人類の幸福のために追求され、また人類の将来の幸福を約束している それを現実化するためには、戦争をほっする人々に権力を与えないだけで十分なのだ。(『戦争と科学』p129)

武谷は、原子力は本来人類の幸福のために使うものであると、ここで提起したのである。武谷は、地上の自然力、水力も風力も、石炭も石油もすべてみなもとは太陽の光であり、その根源が原子力であることを研究者は解き明かしたとした。「そして、間もなく、地球上で原子の奥ふかくひそむ巨大なエネルギーを解放することに成功したのであった」(『戦争と科学』p134)と述べている。このことを示しているのが、先の図の右側部分である。たぶん、上の方に描かれているのが太陽である。それは、石油、水力、石炭などのエネルギーの源泉なのだ。さらに、もう一度左側部分にもどれば、この太陽の光は、原水爆とも通底していることになろう。

その上で、武谷は、原爆製造をしているアメリカの原子炉では、100万キロワットの電力に相当する熱を冷却水を通じて捨てている、このような原子炉を使った発電所が10基あれば、当時の日本の発電総量(700万キロワット)は凌駕することになる、ウラニウム40トンで日本の1年間の電力をまかなうことができる、飛行機で運べる程度の燃料しか要しないので、全世界どこでも発電所が建設可能になると述べている。

その上で、下図に示すような、「原子力の平和利用」がもたらす、「明るい未来」を提示した。

武谷三男『戦争と化学』p.p132-133

武谷三男『戦争と化学』p.p132-133

武谷は、次のように述べている。

 

だから原子力が利用されるようになると北極や南極のような寒い地方、絶海の孤島、砂漠などが開発され、そういう地方にも大規模な産業が行なわれ、大都市を作ることができるようになる。また、ロケットで地球外にとび出すこともできるようになろう。全く太陽に相当したものを人間が手に入れたのだから当然だろう。(『戦争と科学』p.p134-135)

今や、なにかめまいのしそうなほど、楽天的な未来予想図である。これらについては、先の図の中に、ロケットや原子力による砂漠開発として描かれている。

そして、日本についても、武谷は、このように主張している。

 

日本なども電力危機は完全に解消されるだろう。そして電力をもっと自由に家庭に使用することができる。今日の日本の一般家庭では電灯とラジオ位にしか使われていないが、台所の電化はもちろん、煖房、冷房、洗濯、掃除もすべて電力で行われることになるだろう(『戦争と科学』p135)

このような家庭電化は、原発だけのことではないが、実現している。さらに、次のような電力の農業利用を主張している。これも戦後日本で実現したことであった。これは、先の図の中にも出ている。

 

農業にも電力がふんだんに使われると、これまでできにくかったことができる。大規模な温室、太陽灯を使って、いつでも新鮮な野菜や果物ができるだろう。また、砂漠や水のない地方にも、地下水を深い所からどんどん汲みだして、農業を行なうことができるだろう(『戦争と科学』p135)

武谷にとっては、放射性廃棄物も有効利用されるべきものなのである。次のようにいっている。

 

原子力の副産物として、大量にそしていろいろな種類の放射性元素が得られる。これも軍事的には恐るべき放射線戦争に使おうと考えられている。しかし、平和的に使うならばいろいろな化学変化の研究や医学に使われる。例えば、植物が行なっている同化作用もこれを使って大分明らかになった。しまいに澱粉の人工合成ができるようになるかも知れない。
 また人体の新陳代謝の機構も放射性元素で明らかにされつつある。きっと近い中に肥った人がやせたり、やせる人が肥ることも自由になるだろう。また皮膚が美しくするような化粧法も実現するだろう。(『戦争と科学』p.p135-136)

もちろん、その後の放射線医療などには放射線元素などが使われているのだが…。先の図の「アトミック整形医院」などはそれにあたるだろう。

基本的に、原子力のリスクは軍事利用のものとし、「平和利用」については、放射性廃棄物までプラスのものとしてみているのである。その上で、将来の近代化の願望を実現するものとして、「原子力の平和利用」をとらえているのである。

武谷は、このような近代化を実現する「原子力の平和利用」は、被爆国日本の権利であると、『改造』1952年11月号に掲載した「日本の原子力研究の方向」(『武谷三男著作集』2、1968年、p471より引用)で提言している。

 

日本人は、原子爆弾を自らの身にうけた世界が唯一の被害者であるから、少くとも原子力に関する限り、最も強力な発言の資格がある。原爆で殺された人びとの霊のためにも、日本人の手で原子力の研究を進め、しかも、人を殺す原子力研究は一切日本人の手で絶対に行なわない。そして平和的な原子力の研究は日本人は最もこれを行う権利をもっており、そのためには諸外国はあらゆる援助をなすべき義務がある。
 ウランについても、諸外国は、日本の平和的研究のために必要な量を無条件に入手の便宜を計る義務がある。
 日本で行う原子力研究の一切は公表すべきである。また日本で行う原子力研究には、外国の秘密の知識は一切教わらない。また外国と秘密な関係は一切結ばない。日本の原子力研究所(なお、この時点では日本原子力研究所は設置されていない)のいかなる場所にも、如何なる人の出入も拒否しない。また研究のためいかなる人がそこで研究することを申込んでも拒否しない。

武谷は、被爆国日本であるからこそ、原子力の平和利用をすすめる権利があるとしている。そして、それは、軍事目的で行うアメリカなどの研究から秘密情報を得ることなく自主的に進めるべきであり、研究自体公表すべきものとした。さらに、どのような人が日本の研究所に立ち入っても拒否しないとしている。これらの原則は、軍事利用に転用せず平和利用に日本の原子力開発は限定しなくてはならないというところからたてられているといえよう。この提言は、最終的に、「公開」「民主」「自主」からなる原子力三原則という形でまとめられた、1954年の日本学術会議声明の源流となった。そして、この原子力三原則は、1955年に策定された原子力基本法にも取り入れられたのである。

さて、もう一度、武谷の議論に立ち返ってみよう。一方で「原子力の平和利用」への大きな願望があり、他方で被爆国としての核兵器・核戦争への忌避観が、この武谷の議論の二つの柱であったといえる。そして、この段階での武谷の議論は、原子力のリスクをもっぱら軍事利用に即してとらえ、平和利用においてはリスクをほぼ無視しているといえるのである。

武谷自身は、このブログでも多少ふれたように、1950年代後半には原子力のリスクを認識し、原子力開発のあり方を強く批判していくようになる。その意味で、武谷について、ここで批判するつもりはない。ただ、一つ、言いたいことは、この時点での武谷の議論は、武谷個人のものというよりも、この当時の日本社会の原子力に関する意識構造をある意味ではクリアにみせているのではないかということである。被爆国であるがゆえに、核兵器としての軍事利用には強く反対しつつ、その反対物として平和利用を称揚し、被爆国の権利としてしまう。そして、「原子力の平和利用」においてもさけることができないリスクを無視する。これは、武谷に限定できることではなかった。そして、このような意識が、日本の原子力開発・利用の根底に流れているのではなかろうか。そのような思いにかられるのである。

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2011年3月11日以後、食品にせよがれきにせよ、また環境放射線量にせよ、放射性物質の「許容量」以下ならば安全であると、政府や自治体の側から強固に主張されている。

この問題について、本ブログでは、ウルリヒ・ベックの所説を紹介したことがある。日本においても、原子力開発の開始された当初から、すでに問題になっていた。ここでは、著名な物理学者である武谷三男が、1956年5月22日の衆議院社会労働委員会で、放射性物質に対する許容度の問題について参考人として呼ばれた際の発言を紹介しておきたい。

この発言において、武谷は、まず、このように指摘している。

これは大体五十四年のリコメンデーションという今まで普通に放射線に対する許容量とかいろいろ言われておるのは、すべて放射線を扱うそういう仕事に携わっている人たちに対するものである。ですからたとえば物理学者とか放射線を扱っていらっしやるお医者さん、それから原爆工場で働いている人、アイソトープを扱っている人、そういった働いている人に対するものが許容量というものであります。それからまたお医者さんが患者をお扱いになる場合の患者に照射する場合に、許容量というようなことが考えられるのであります。つまりその許容量というものに対する概念として一生の間に感知されるような障害をからだに起さないであろうというような程度のことを言うわけであります。ところがその程度の放射線を受けていても、一生その人はお医者さんにその放射線ということでかかることはあるまいというような、大体そういう考えがもとになっている。われわれの知っていることはそういうことなんであります。ただこういう許容量におきましても、たとえばアメリカのいろいろな原子力の本をごらんになりましても、たとえばステフェンソンのものでも何でもごらんになりますと、放射線を扱うときの根本的なフィロソフィーはできるだけ放射線に当らないということである。もし当ってもその一生を通じてそういう障害はないであろうというけれども、しかしそれがはっきりはしないのだ。つまりそういう障害があってもしようがないかもしれないというようなことが書かれてあります。ただわれわれ物理学者にしても、お医者さんにしても、それから患者にしても、放射線に当るということは多かれ少なかれ有害なことなのですけれども、それと引きかえに得をしている。得をしているというと悪いですけれども、何か得るところがある。得るところがあるのと引きかえに失うという場合には、これは許容量ということがある程度意味がある。ところが何の関係もない人に、そういう放射線をこの程度なら当ててもよろしいという理由はどこにもないのであります。
http://kokkai.ndl.go.jp/cgi-bin/KENSAKU/swk_dispdoc.cgi?SESSION=7825&SAVED_RID=3&SRV_ID=2&PAGE=0&TOTAL=0&DPAGE=1&DTOTAL=5&DPOS=3&SORT_DIR=1&SORT_TYPE=0&FRAME=2&MODE=1&DMY=28582/

つまり、武谷は、放射線に当たるということは多かれ少なかれ有害なのであって、それによって得ることのない人は当たるべきではないとし、得ることがある人ー物理学者・医者・患者などーにのみ許容量は意味があるとしたのである。武谷は、そのことを「ですから根本的な考え方は、放射線を何の理由もなしに受けるということはよくない。それから広い大衆が受けるという場合には、遺伝的な問題まで当然考慮しなければならない。」と概括している。

その上で、武谷は、このように警告している。

それからもう一つ、こういうふうな最大の許容量とかいうものが出ますと、今度はそれまでなら幾ら受けてもいいというふうに、どうも日本では考え方が変ってくる。その点私は大へん心配しております。むしろ逆に、許容量というよりは危険量という名前でもおつけになった方がいいんじゃないか。そうするとだいぶん考え方が違ってくるんだろうと思います。で、この許容量の考え方にしても何でもそうでもございますが、一般に日本人が衛生問題に対して考えておりますのは、これは戦時中のわれわれの痛切な印象でございますが、どこまで粗食しても人間は死なないか、どこまで栄養不良やっても死なないか、そういうふうな考え方が、栄養学とかなんとかの根本的な精神にどこか無意識のうちに残っているのじゃないか。栄養学とか衛生学とかいうようなものは、人間をより健康にするための学問であるはずですが、これは社会のいろいろの問題で、やむを得ず学者がそうさせられてしまう面もありますが、どこまで粗食しても死なないとか、どこまで不衛生なものを食べても死なないとかいうふうに考えが働かざるを得ないように、社会の方が学者をしてしむけてしまうのではないかというふうに私は考えます。ですから、同じことでございますが、先ほど申しましたように、一般大衆の場合と専門家の場合とをできるだけ区別されるようにしていただきたいと思います。

武谷は、許容量という概念が認められると、その範囲内ならばどれだけ受けてもかまわないということになってしまうということになってしまうであろうと主張しているのである。

彼にとって、許容量とは、放射線を浴びて何らかの利益を得る人びとのためのものなのであった。一般大衆は、とにかく受けるべきではないというのである。

翻って、現在の「許容量」をみてみれば、武谷の警告通りの形で使われているといえる。結局、利益もなしに、ある程度の放射線をあびることを正当化するために使われているということが、現状なのだということができよう。

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2011年12月10日、専修大学で開催された「同時代史学会」2011年度大会において行われた、政治学者加藤哲郎氏の報告「日本マルクス主義はなぜ『原子力』にあこがれたのか」を聞いた。ここで、その内容を簡単に紹介しておこう。なお、報告の論点は、日本政府の原子力開発政策の特質や、受け入れた日本民衆のあり方など多岐にわたっており、すべてを提示することはできない。ここでは、主要な内容と思われるものを、自分の能力の限りでアレンジしていることをことわっておかねばならない。

加藤哲郎氏は、なぜ、日本のマルクス主義者から高木仁三郎・小出裕章のような脱原発論者が生まれてこなかったと問いかけた。加藤氏は、とりあえず日本マルクス主義について、もっとも狭義に日本共産党に限定しつつ、日本共産党が社会主義における核開発を肯定していたと述べた。特に、日本共産党が社会主義における核開発を肯定する上でキーマンー「伝道師」とすら表現されているーとなったのが武谷三男であると加藤氏は主張した。終戦直後の武谷は、例えば「原子爆弾は、原子力を利用したものであるが、それが平和のきっかけをつくってくれた」と、反ファッショ技術として原爆開発を肯定するとともに、「原子力を利用すれば、シベリアのひろい野原や砂漠のまんなか、大洋のなかの島々のように、動力源がふべんなためにいままでひらけなかった地方もひらいてゆける」(武谷「原子力のはなし」 『子供の広場』1948.11)と原子力の平和利用を鼓吹していたと加藤氏は指摘した。そして、1950年代の日本共産党の原子力政策に、武谷の考え方が生かされていったと、加藤氏はいった。いろいろ例が出されているが、ここでは、次の資料をあげておこう。

ソ同盟における原子力の確保は、社会主義経済の偉大な発展をしめすとともに、人民勢力に大きな確信をあたえ、独占資本のどうかつ政策を封殺したこと。原子力を動力源として適用する範囲を拡大し、一般的につかえるような、発電源とすることができるにいたったので、もはやおかすことのできない革命の要さいであり、物質的基礎となった(「日本共産党第18回拡大中央委員会報告」 1950.1.18)。

そして、このような方針は、1954年の第五福竜丸事件を契機に展開した初期の原水爆禁止運動において、アメリカの原水爆実験に反対しつつ、原子力の平和利用を肯定していたことにも影響を及ぼしたとされている。

ただ、1950年代中葉以後、武谷と日本共産党本体は分岐していくと加藤氏は述べた。武谷は、次第に原子力開発の将来性に疑問をいだくようになり、さらには1956年のスターリン批判以降はソ連の核実験を批判するようになり、反原発住民運動に傾斜していくと加藤氏は指摘した。他方、日本共産党は、硬直的に、社会主義における原子力開発の可能性を主張した。その例として、例えば次の資料をあげている。

原子力についての敵の宣伝は、原子力がもつ人類の福祉のための無限の可能性が、帝国主義と独占体の支配する資本主義社会においてそのまま実現できるかのように主張している。しかし、帝国主義と独占体の支配のもとでは、軍事的利用が中心におかれ、それへの努力が陰に陽に追求され、平和的利用は大きく制限される。したがって軍事的利用を阻止し、平和利用、安全性をかちとる道は、帝国主義と独占体の支配の政策に反対する統一戦線の発展と勝利に結びついている。原子力のもつ人類のあらゆる技術的可能性を十分に福祉に奉仕させることは、人民が主権をもつ新しい民主主義の社会、さらには社会主義、共産主義の社会においてのみ可能である。ソ連における原子力の平和利用はこのことを示している(「原子力問題にかんする決議」 1961.7)

このような、社会主義における原子力開発の可能性を維持してきたことが、日本共産党系の人びとによる、「反原発」を指向するようになった社会党系の原水禁との対抗や、広瀬隆への批判活動の前提にあったと加藤氏は指摘している。このような方針は、チェルノブイリ事故やソ連邦解体などで現実には維持できなくなってきたが、今でも、例えば共産党委員長志位和男が「2,3世紀先の平和的利用可能性」に言及している(2011年8月の、志位・福島「老舗」対談)ように、原理的には放棄されていないと加藤氏は主張した。

質問に答えた形であると記憶しているが、加藤氏は、このような日本共産党が原子力開発の可能性に固執したことの要因について、彼らは社会主義政権になった場合、原子力の力を保持したかったのではないかと述べた。そして、1960年代末から1970年代にかけて、全世界的に環境問題がクローズアップされ、マルクス主義にかわって大きな影響力をもつようになり、西ドイツなどでは緑の党などの新しい政治勢力が出現したが、その可能性は日本ではなかったと述べた。

コメンテーターは思想史研究者の安田常雄氏であったが、戦後マルクス主義においてその思想様式を問題にしなくてはならないとし、理論信仰、エリート主義、人びとのくらしとの接点、どこでマルクス主義とふれあったのなどの論点をあげた。なお、加藤氏の報告は「マルクス主義と戦後日本の知的状況」という全体テーマの中で行われ、本来崎山政毅氏も報告するはずであったが、病気で欠席されたことをここで付記しておく。

加藤氏の報告は、日本共産党の人びとが、核兵器・原発にどのような姿勢をもっていたか、そして今どのような姿勢を有しているのかということを、豊富な資料をつかって示してくれた点で大きな意義をもつ。このことは、今まで部分的には知られていた。私なりに多少知っていたこともある。しかし、日本共産党に即して、これほど詳細に検討したことはないと思われる。そして、戦後日本社会における日本共産党の知的影響力の大きさからみて、このことを検討することは緊要な課題であった。そして、それは、なぜ日本で「脱原発」の運動が相対的に弱かったことを解明することにつながっていこう。

加藤氏に対する質問において、日本共産党だけで日本のマルクス主義総体を代表できるのか、日本社会党や社青同などはどのように対応していたのか、民衆全体の動向はどうかなどの疑問が出された。私自身もそう思う。福島県の原発誘致過程について、日本共産党自体がどれほど影響力があったといえば、かなり疑問だ。また、1960年代末から1970年代初めにかけて、福島県議会において社会党の県議たちが一斉に原発建設を批判するようになるが、その過程もまた分析していく必要があろう。ただ、これは、加藤氏にのみ答えを求める課題ではないだろう。私の、ひいては私たちの課題なのだと思う。

付記:報告者の氏名を渡辺治氏と勘違いしていた。皆様にお詫びしたい。削除も考えたが、とりあえず、自戒のために前の版は削除し、報告者氏名を訂正した上で、再度掲載しておく。内容については修正していない。

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