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『現代思想』2011年6月号

『現代思想』2011年6月号

本ブログで福島原発問題をとりあげたことを期に、『現代思想』2011年6月号に寄稿することになった。

表題は「福島県に原発が到来した日ー福島第一原子力発電所立地過程と地域社会」である。

本ブログの福島第一原発関係の記事をもとにしながら、大幅に加筆・修正した。ご関心がある方は、お読みいただきたい。

本ブログをみなさんが読んでくれたことが、このような形でまとめることにつながったと思う。感謝したい。

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さて、原子力開発のもう一人の立役者であった、正力松太郎についてみておこう。このことについては、知人から教えられた、次の「原発導入のシナリオ ~冷戦下の対日原子力戦略~」(NHK現代史スクープドキュメント 1994年放送)をみるのが、一番わかりやすいだろう。下記のサイトより検索してほしい。

http://scrapjapan.wordpress.com/

このドキュメントを要約しておこう。アメリカは、対ソ競争を前提にして、西側諸国に平和目的での原子力開発を促し、そのことによって、今まで以上にこれら諸国をアメリカの核戦略にとりこむことを政策課題としていたが、日本においては1954年3月の第五福竜丸事件を契機に、それまで以上に核兵器への反対運動が高揚し、アメリカへの反発が強まっていた。この状況下で、アメリカ政府の代理人D・ワトソンは、日本テレビの重役であった柴田秀利に接触し、核兵器開発への対日心理戦略への協力をもちかけた。柴田は、読売新聞・日本テレビという二大マスコミを傘下にもつ読売グループの総帥である正力松太郎に説き、両マスコミを通じて平和目的の原子力開発のキャンペーンを大々的に展開させた。一方、正力松太郎は、1955年2月の総選挙に、保守合同と原子力開発を公約に掲げて立候補して当選し、保守合同後の11月の鳩山内閣の内閣改造で原子力担当大臣として入閣し、初代原子力委員長に就任するなど、原子力開発を強力に推し進めていった。このような形で、日本において、平和目的の原子力開発を促進され、アメリカの核戦略により深くとりこまれていった。

このプロットは、佐野真一氏の『巨怪伝―正力松太郎と影武者たちの一世紀』(文芸春秋 1994年)とほぼ一致している。ただ佐野氏が、典拠をあげずに論を進めていることと対照的に、このドキュメントは、アメリカの公文書、柴田秀利の資料、ワトソン自身のインタビュー、当時の新聞など、基本的には典拠をあげて映像化しており、より信頼がおけるといえる。ただ、佐野氏もとりあげている中曽根康弘の原子力開発への関与には言及されていない。

この当時の戦略は、柴田の手記による本人のこの発言に概括されるであろう。

日本には昔から“毒は毒をもって制する”という諺がある。原子力は諸刃の剣だ。原爆反対を潰すには、原子力の平和利用を大々的に謳いあげ、それによって、偉大なる産業革命の明日に希望を与える他はない。(同様の趣旨はドキュメントでも発言しているが、ここでは佐野前掲書より引用)

反米の意味を有する原爆反対運動を潰す、そのために、原子力の平和利用を謳いあげ、産業革命を希望させるということ、そのために、読売新聞と日本テレビは、社をあげて世論操作を実施し、総帥の正力松太郎自身が原子力を行政的に推進していったといえる。

このドキュメントの中では、日本学術会議のメンバーを柴田が警察庁などを使って調査させ、反対派には印をつけていたことなどが紹介されている。現在、原発反対派の研究者に尾行がつけられていたことが議論されているが、実は、原子力開発の最初からそのようなことはあったといえるのだ。

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そろそろ、大震災の他の局面にテーマを移そうと考えていたが、最近は連日200ビューをこえる閲覧で、原発の歴史的背景を知りたいという需要の大きさを実感した。知人らのすすめやご教示もあるので、より深く原発の歴史をみておこう。なお、私は、近代都市史が専門であり、科学史や現代史は、本来の専門ではない。典拠はあげておくので、より深く知りたい方は、それらをみてほしい。

これまで、東電と東電が福島に建設した二つの原発についてみてきた。より広く、日本全体の原子力開発の歴史をみてみよう。日本における原子力開発の歴史にいては、二人の政治家の存在が起爆剤となっている。その二人とはだれか。中曽根康弘と正力松太郎である。ここでは、中曽根を中心に考えておこう。

まず、戦後の原子力開発をめぐる状況についてみておこう。戦中、日本は原子力開発を行っていたが、占領軍は日本の原子力開発を禁止し、1947年に国産のサイクロトンが廃棄された。

しかし、1951年のサンフランシスコ講和条約には、日本の原子力開発を禁ずる項目はなかった。ここで、原子力開発は「解禁」されたのである。戦中に原子力研究に携わってきた伏見康治大阪大学教授(余談だが、SF仕立てで相対性理論を説明したガモフの『不思議の国のトムキンス』の訳者)や、日本学術会議会長の茅誠司東京大学教授(後の東大総長)は、原子力の研究を行う「原子力委員会」の設置を1952年に提案した。しかし、日本学術会議内部での批判論・尚早論があり、「原子力問題委員会」なるものを設置したのみで、原子力研究自体に踏み切ることはできなかった。

一方、世界情勢も動いていた。1950年代初めは、米ソの間で水爆開発競争が行われてきたが、1953年、ソ連が水爆実験に成功するとアメリカは、競争の対象を転じた。日本原子力文化振興財団編『二五年の歩み 原子力文化をめざして』(1994年)で「原子力時代の幕開け」を執筆した元日本経済新聞編集委員佐々木孝二は、

ソ連が水爆実験をした年の一二月八日、第八回国連総会でアメリカのアイゼンハワー大統領は「アトムズ・フォア・ピース」の声明をおこない、原子力の平和利用の道へハンドルを切った。アメリカの方向転換の背景には、アメリカの原水爆の独占体制が崩れたことがあったといわれている。こんどは、平和利用の面で世界の主導権を握ることをねらっての画期的な提案だった。

と述べている。なお、日本原子力文化振興財団は、推進側がつくった組織であり、これが一般的な評価であろう。具体的には、今の国際原子力機関(IAEA)の源流にあたる機関にウランなどを主要国が供出し、それを平和目的に役立てるように各国にわりあてるというものであった。その後、アメリカでは原子力産業会議などが経済界を中心に結成され、さかんに活動していた。

このように、アメリカを中心に平和目的の原子力開発が提唱される一方、国内では、開発の中心たるべき日本学術会議の科学者が原子力研究に踏み切れない状況であった。

そこを打破したのが、1954年の中曽根康夫の行動であったと、本人が述べている。本人の回顧録(中曽根康夫『政治と人生―中曽根康弘回想録』1992年)を少しみてみよう。

このとき私は、原子力の平和利用については、国家的事業として政治家が決断しなければならないという意を強くした。左翼系の学者に牛耳られた学術会議(なお、念のためにいっておくと、これは中曽根自体の表現)に任せていたのでは、小田原評定を繰り返すだけで、二、三年の空費は必至である。予算と法律をもって、政治の責任で打開すべき時が来ていると確信した。
しかし、当時、私の属していた改進党は少数野党で、予算や法律を単独で通す力がなかった。じりじりしていたところ、いわゆる“バカヤロー解散”(吉田茂首相在任時)によって、自由党の過半数が崩れ、予算も法律も改進党の協力がなければ成立しないはめになった。私は天の与えた機会とばかりに、予算修正で原子力平和利用研究への突破口を開こうと考え、同志に相談した。みな、賛成してくれたが、このことが事前に漏れれば、学界やジャーナリズムの反対で、こっぱみじんに吹き飛んでしまう。したがってことは秘密裡に進められ、突如、予算修正案の形で飛び出した。

予算や法律を通す力のない少数与党と取引して、中曽根は自分の政策を実行できる予算修正をのませたのである(今のことではない)。具体的には、1954年3月3日の衆議院予算委員会で、自由党・改進党・日本自由党の予算共同修正案が提案され、原子力平和利用研究費補助金二億三千五百万円とウラニウム資源調査費一千五百万円、合計二億五千万円の“原子力予算”が盛り込まれたのである。

この背後には、保守合同への動きがあった。1954年11月には、改進党・日本自由党・自由党の一部分派により日本民主党が成立し、総裁に鳩山一郎がなる。12月には吉田茂が退陣し、鳩山一郎が首相となった。そして、翌年11月には自由党と民主党が合同し(保守合同)となる。この保守合同により、正力松太郎が入閣し、「原子力担当大臣」として、原子力行政を強力に推し進めていくが、それは、後述していく予定である。ただ、保守合同とは、原子力開発を推進する体制でもあったともいえるのではないか。

他方、この予算は、1954年3月4日の『朝日新聞』の社説「原子炉予算を削減せよ」で酷評しているように、はなはだ奇妙な予算であった。同社説では「原子炉製造補助費というが、いったい、どこの、だれが、日本で原子炉製造計画を、具体的に持っているか」というように、具体的な計画も事業主体も想定していないものであった。前述したように日本学術会議は原子力開発計画をもっていなかった。また、修正した自由党・改進党・日本自由党の間で、本予算の使途について統一見解をもっていなかった。中曽根は「なぜ補助金が二億三千五百万と細かいのかという質問に、『濃縮ウランはウラン235ですよ』と答えて爆笑を誘ったりもしながら」と述べている。

ただ、中曽根とその同志たちの意志は堅かった。中曽根は、次のように回想している。

われわれは確信犯であったから、いかなる攻撃にも屈しなかった。特に稲葉氏(稲葉修。ロッキード事件時の法相)は信念居士であり、法学博士でかつ中央大学の憲法教授であったから、学術会議に対抗するには打ってつけであった。当時、反対の申し入れに来た学者に、「学者が居眠りをして怠けているから、札束でほっぺたを打って目を覚まさせるのだ」と私(中曽根)が言ったと伝えられたが、これも実は稲葉氏の発言であった。

「学者が居眠りをして怠けているから、札束でほっぺたを打って目を覚まさせるのだ」とは至言である。とにかく金を出すから、原子力開発せよ。それが、中曽根たちの戦略であった。

この原子力予算は、衆議院を通過してしまった。参議院では、社会党・共産党から質問を受けたが、1954年4月3日に自然成立した。ちなみに、これが初めてのの自然成立であった。

この後も、日本学術会議などを相手とした中曽根の苦闘は続き、さらに正力松太郎が参入してくる。他方、1954年3月、アメリカのビキニ環礁における水爆実験により、第五福竜丸事件が起き、船員が被曝して1名死亡し、さらに放射能汚染されたマグロ(原爆マグロ)が多数日本に水揚げされて、今日の風評被害の原型ともいうべきパニックがおき、日本国民における放射能への恐怖が強まった時期でもあった。これらのことを、今後記述しておこう。

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