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2012年10月24日、原子力規制委員会は、現状で防災の目安とした原発から半径30kmより広い地域でも避難の基準となる積算被爆量を越える地域が出る可能性があることを公表した。そのことを伝えた朝日新聞の2012年10月25日付ネット記事を下記に示しておきたい。

4原発、30キロ圏外も避難線量 全原発の拡散予測公表

 原子力規制委員会は24日、全国16カ所の原発で東京電力福島第一原発事故のような深刻な事故が起きた場合の放射性物質の拡散予測を公表した。関西電力大飯原発(福井県)など4原発が、規制委が新たに防災の重点区域の目安とした原発から半径30キロより広い地域で、避難の基準となる積算被曝(ひばく)線量に達した。原発によっては従来の想定を超えた広い範囲を重点区域にした防災計画づくりが迫られる。

 国が全国の原発で大事故を想定した被害を予測し、公表したのは初めて。目安の範囲を超えたのは、大飯原発のほか、東電柏崎刈羽原発(新潟県)、福島第二原発(福島県)、中部電力浜岡原発(静岡県)。重点区域の対象市町村が増えることで、計画づくりが困難になることなどから、原発を再稼働させるのは一層難しくなる。

 規制委はこれまで重点区域としていた原発から半径8~10キロを、福島の事故を受けて国際原子力機関(IAEA)の基準に合わせて30キロに拡大。これを受け、自治体は来年3月までに防災計画を見直す。

 さらに、重点区域を指定するには、外部被曝と内部被曝を合わせて人が1週間に浴びる放射線被曝量が100ミリシーベルトを超える場合には避難を検討するというIAEAの基準も参考にする。今回の予測は道府県が重点区域の範囲を具体的に決めるための参考として示された。

 今回、福島の事故と同規模の事故が全国の原発で起きたと仮定し、各地の原発の基数や出力に応じて放射性物質の拡散を予測。その結果、大飯原発など4原発で、30キロを超える地点が積算被曝線量100ミリに達した。

 全国で唯一稼働中の大飯原発は、南南西から南東方向に放射性物質が広がりやすく、県境を越えて南に32.2キロ離れた京都市内でも積算被曝線量が100ミリに達した。隣接する関電高浜原発の予測では、大飯原発が避難基準値に達する地域に入る。高浜原発で事故が起きれば大飯原発も影響を受ける結果となった。

 全国で最も広範囲に放射性物質が広がると予測されたのは柏崎刈羽原発で、東南東方向に40.2キロ離れた新潟県魚沼市内でも避難基準値に達した。全国最多の7基が集中立地し、合計出力も最大。このため、予測上の放出量が最大になった。

 規制委が示した原子力災害対策指針案の重点区域で対象となる自治体数は、これまでの15道府県45市町村から30キロ圏内に拡大するのに伴い21道府県135市町村に増える。対象人口はのべ約480万人におよぶ。今回の予測で30キロ超の地域でも避難基準値に達したことを受け、原発によっては対象市町村がさらに増えることもある。http://www.asahi.com/national/update/1024/TKY201210240130.html

実際、この公表により、原発事故の際の避難区域が拡大され、より広範囲を対象にした防災計画が必要になったことは確かであるといえる。

しかし、この公表について、原子力情報資料室では、次のように批判している。

注意点1)このシミュレーションは福島原発事故で放出された放射能(1~3号炉の合計)が一度に放出されたと仮定しているが、事故想定でこれが最大とは言えない。
福島原発事故は水素爆発だった。最悪の事故を想定するのなら、水蒸気爆発による放射能の拡散を想定するべきではないか。

注意点2)シミュレーションの被ばく線量は7日間で100ミリシーベルトを想定しているが、これは規制緩和である。
原子力規制委員会はIAEA基準に合わせようとしているので、素案では、防災対策の範囲として半径30kmが導入される。正確には「緊急時防護措置を準備する区域(UPZ: Urgent Protective action Zone)のことで、避難および屋内退避を必要とする範囲である。これまで半径10kmだったので、規制強化には違いないが、単純に強化と言えないからくりがありそうだ。
 素案では避難の際の基準は「検討し、本指針に記載する」として、示していないが、シミュレーションでは7日間で100ミリシーベルトを想定している。これがこのまま基準になってしまう恐れが高い。また、これはIAEAの推奨する避難基準である(素案では、避難の際の基準について「運用介入レベル(OIL: Operation Intervention Level)」という用語を使っている)。
 現行の防災指針では、全身50ミリシーベルトなので、この点では規制緩和となる。さらに言えば、100ミリシーベルトを基準にするのはとうてい容認できない高い線量基準だ。これでは健康への悪影響は必至となってしまう。また、素案に従えば、例えば、飯舘村の村民のような高い線量の被爆後の避難が繰り返されることになる。
(後略)
http://www.cnic.jp/4757

この試算でも事故の規模を過小に見積り、避難基準を緩和しているというのである。

さて、ここで、原発創設期の問題に立ち帰って考えてみよう。前回のブログで、1959年、イギリスのコールダー・ホール型原子力発電所の導入による東海第一原発(電気出力約16万kw)建設が決められたが、その安全審査の際、事故の際の公衆被曝線許容量が約20Svから250mSvに引き上げられたことにあわせるため、事故の際放出される放射性ヨウ素の量を、1万キュリー(約370兆ベクレル)もしくは60万キュリー(約2京2200兆ベクレル)から、まず、250キュリー(約9兆2500億ベクレル)、最終的には、25キュリー(約9250億ベクレル)にまで引き下げたことを指摘した。つまり、想定される事故の規模を小さく見積もることによって、避難すべき区域を小さくし、原発事故の影響を小さくしたのである。

しかし、このような原子炉の安全性審査の背後で、実際の原子炉過酷事故についての試算が行われていた。

すでに、アメリカの原子力委員会は、1957年の「公衆災害を伴う原子力発電所事故の研究」( WASH-740)において、「最悪の原発事故の場合には、急性死者3400人、急性障害者4万3000人、要観察者380万人、永久立退き面積2000平方㎞、農業制限等面積39万平方㎞」(今中哲二「原発事故による放射能災害—40年前の被害試算」 『軍縮問題資料』223号、1999年5月所収。http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/genpatu/gunshuku9905.htmlに転載)と試算している。この試算結果により、アメリカでは、原発事故の賠償責任を一定額で打ち切るプライス・アンダーソン法が制定された。

他方、本格的な原発建設が開始されようとされた1950年末、日本においても、同様の法律を制定することが検討されていた。そのため、科学技術庁は、日本の原子力企業の業界団体である日本原子力産業会議(現日本原子力産業協会)に、WASH-740を手本にして原発事故の際の被害状況を試算する研究を行うことを委託した。日本原子力産業会議は1960年に「大型原子炉の事故の理論的可能性及び公衆損害額に関する試算」という報告書をまとめた。

この試算結果を、今中前掲書や武谷三男編『原子力発電』(岩波新書 1976年)に依拠しながらみておこう。この試算のモデルとしては、熱出力50万kw(電力約16万kw)の原子炉が海岸に所在し、原子炉から敷地境界まで800m、そして炉から20kmのところに10万人、120kmのところに600万人の都市が存在しており、これらの都市のほうに風が吹いていたと想定している。今中によると、東海第一原発の現実の立地条件(電力16万kw、20km地点に10万人の水戸市、120km地点に人口600万人の首都圏)にあわせていたとしている。その想定モデルは、次のようなものであった。

武谷三男編『原子力発電』107頁

武谷三男編『原子力発電』107頁

炉内には5億キュリー(約185京ベクレル)の放射性物質がたまっており、それが、2%(1000万キュリー、3京7000兆ベクレル)と0.02%(10万キュリー、3700兆ベクレル)放出されるという二つの場合を想定して試算された。たとえ、前述した東海第一原発の安全審査では、最終的に放出される放射性物質を25キュリー(9250億ベクレル)としていたが、それとは全くかけ離れた規模で原子炉事故が想定されていたのであった。

ここでは、1000万キュリー放出された場合の試算結果をみておきたい。下記の表によると、最も人的被害の大きいのは、気温逆転層がある状態でほぼ原子炉内の放射性物質と同じ構成のもの(全放出、なお揮発性放出とは揮発性成分のみ放出のこと)が粒度小(1μm)で放出された場合で、死亡540人、障害2900人、要観察400万人に達するとしている。なお、この死亡・障害は急性障害のみで遺伝や晩発性障害はカウントしていない。『原子力発電』では「要観察者」は25〜100レム(250〜1000mSv)の照射をあびており、この人びとのガン発生率は大人では2倍に、胎児・小児では約10倍になるだろうと指摘している。いずれにせよ、原発事故の場合、首都圏も含んだ多くの人びとに影響が及ぶであろうことが試算されていたのである。

武谷三男編『原子力発電』109頁

武谷三男編『原子力発電』109頁

一方、物的損害が大きいのは、雨天で全放出・粒度小で放射性物質が放出された場合とされていた。まず、物的損害の基準となる立退基準は、 A、12時間以内に全員立退き、B、1ヵ月以内で全員立退き、C、都市では半年退避、農村では立退き、D、一ヵ年農業制限となっていた。その表は下記に示す。なお、単位は1Sv=100レム(1レム=10mSv)、1キュリー=370億bqとして換算されたい。

武谷三男編『原子力発電』110頁

武谷三男編『原子力発電』110頁

そして、避難人数9万9000人(A+B)、耕作禁止(農村)・半年退避(都市)対象者が1760万人(C)、農業制限面積が15万㎢(D)、全損害金額が3兆7300億円となっている。1960年当時の国家予算が1兆7000億円であり、その2倍をこえている。その試算結果は下記の表に示しておきたい。

武谷三男編『原子力発電』108〜109頁

武谷三男編『原子力発電』108〜109頁

今中は、この試算による物的損害について、「10万人の早期立退き、1760万人の退避・移住、15万平方㎞に及ぶ農業制限といった数字に匹敵するようなことは、戦争にともなう壊滅的被害しか思い浮かばない。」と指摘している。つまり、東海村第一原発の認可で安全が強調される一方で、原発の推進者側は、原発事故の過酷さをそれなりに認識していたといえるだろう。このような原発の危険性についての認識は、1964年の原子炉立地審査指針の策定の前提になったと思われる。

しかし、このことは、ながらく隠蔽されてきた。「大型原子炉の事故の理論的可能性及び公衆損害額に関する試算」は、その試算結果については表で示すのみで、試算結果の意味については全く語っていない。この報告書は、1961年の「原子力損害の賠償に関する法律」の国会審議において概要のみが示されただけで、全体はマル秘とされた。1973年前後にはコピーで出回っていたようだが、科学技術庁は1989年の国会答弁で存在すら否定し、ようやく1999年になって国会に提出されたのであった。

この試算結果自体、電気出力16万kwという今からいえば小規模な原発を想定したものであり、ガンや白血病などの発生を想定していないものである。武谷三男編『原子力発電』では、電気出力100万kwの発電所を想定した1974年のラスムッセン報告を使ってさらに詳しく述べている。

ただ、、ここで確認しておきたいのは、日本で初めての商用原発(東海第一原発)の1959年の安全審査においては、非常に過小な原発事故規模の見積りをしておきながら、ほぼ同時期の1960年には、より大規模で広範囲な原発事故被害の試算を政府・原子力委員会・日本原子力産業会議は把握していたということである。このような原発被害の試算が、低人口地帯に原発立地を限定することになる1964年の原子炉立地審査指針の成立の前提にあったといえる。しかし、この試算結果は隠蔽され、原発立地において「安全」であることが強調されたのである。

すでに1960年という段階で、原発事故の広範囲で深刻な被害は想定されていたといえる。つまり、現在の福島第一原発事故とは、この段階から想定可能だった。そして、この想定結果が隠蔽されて、福島をはじめとする各地の原発立地はすすめられたのである。

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さて、このブログで述べてきたように、関西圏では、1957〜1960年にかけて関西研究用原子炉設置反対運動が惹起され、原子炉の立地問題が浮上していた。並行して、関東においては、商用原子力発電所第一号として建設されることになった東海発電所設置につれ、その安全性が問われる事態となっていた。政府・産業界が進めようとした原子力発電所建設計画は、湯川秀樹などの反対を押し切った形で1957年に承認され、その受け皿としての日本原子力発電株式会社(日本原電)が同年11月に発足した。そして、イギリス型のコールダー・ホール型発電所(電気出力約16万kw)が導入されることとなり、1958年6月にイギリス側と調印した。なお、イギリスのコールダー・ホール型発電所が導入される大きな要因として、この発電所に使われる原子炉が、元来天然ウランを燃焼してプルトニウムを生産する軍用プルトニウム生産炉であり、この発電所によって、電力だけではなくプルトニウムを得ようとした原子力担当大臣兼原子力委員長である正力松太郎らの意向が働いていたことが、有馬哲夫「日本最初の原子力発電所の導入過程」(歴史学研究会編『震災・核災害の時代と歴史学』、青木書店、2012年)で紹介されている。この東海発電所が、日本最初の商用原発である東海第一発電所(東海第一原発と略称。現在は廃炉作業中)となっていく。
 
この東海第一原発の設置については、1959年3月より設置許可申請が出され、安全審査が開始された。しかし、それ以前からさまざまなかたちで安全性がとわれた。その背景になったことは、コールダー・ホール型原子力発電所原子炉の原型となった軍用プルトニウム生産炉であったウィンズケール原子炉が1957年10月10日に火災によりメルトダウン事故を引き起こしたということであった。このメルトダウン事故は、原子炉構内だけでなく、周辺にも放射能汚染を引きおこした。周囲の500㎢内で生産された牛乳は約1ヵ月間廃棄された。その意味で、原子炉—原発事故が、周辺にも放射能汚染を惹起することを明瞭に示した事例となった。

このコールダー・ホール型原子力発電所の安全性については、すでに1958年2月に、日本学術会議・日本原子力研究所・原子力燃料公社ほか主催で開かれた第二回日本原子力シンポジウムで議題となった。このシンポジウムの最終日2月9日に行われた「原子力施設の安全性をめぐる討論」において、電源開発株式会社の大塚益比古は、次のような指摘を行っている。

むすびに東海村のある茨城県の地図に、アメリカ・アイダホ州にある国立原子炉試験場の広大な敷地を重ねた図と、先日事故を起したウィンズケール周辺の地図をならべて示し、発展途上の原子力の現在の段階では、敷地の広さも一つの安全装置であり、一旦事故が起れば、公衆への災害を皆無にすることは不可能であることを考えれば、そのように広い面積を得ることは不可能なわが国では、たとえ原型にコンテーナーのないイギリス型の炉にも必ずコンテーナーを設けるなど、可能な限りの努力を安全性にそそがない限り、従来の技術では可能だった試行錯誤のできない原子力では、その発展を逆に大きくひき戻す結果にさえなりかねないことを強調した。(椎名素夫「原子力施設の安全性をめぐる討論」 『科学朝日』1958年4月号 36頁)

この図を、下記にかかげておく。アメリカの国立原子炉試験場にせよ、ウィンズケール原発による牛乳使用禁止区域にせよ、かなり広大であり、東海村にあてはめれば、人口密集地域である水戸市や日立市も含まれてしまうことに注目しておきたい。

『科学朝日』1958年4月号

『科学朝日』1958年4月号

特に、東海第一原発の安全性については、コールダー・ホール型原子力発電所の原子炉が黒鉛炉であって黒鉛ブロックを積み上げただけで、格納容器(コンテナー)をもたない構造であり、日本において耐震性は十分であるのかなどが中心的に問われた。この安全性問題の総体については、中島篤之助・服部学の「コールダー・ホール型原子力発電所建設の歴史的教訓Ⅰ・Ⅱ」(『科学』44巻6〜7号、1974年)を参照されたい。ここでは、この研究を中心に、立地問題に限定して議論していきたい。

日本第一号の商用原発の立地について、当時審査基準がなかったため、敷地選択で紛議になることをおそれ、安全性を新たに検討することなく、すでに既成事実となっていた日本原子力研究所構内に建設することになっていた。そして、原発事故の際、最大規模で放射性ヨウ素が1万キュリー(約370兆ベクレル)もしくは60万キュリー(約2京2200兆ベクレル)流出すると想定し、アメリカ原子力委員会が公衆に対する許容線量としていた2000ラド(2000レム、シーベルトに換算すると約20シーベルト)を採用し、最大規模の事故の際でも立退きする必要がないとした。

しかし、ウィンズケール原子炉事故以後、イギリスの原子力公社原子炉安全課長ファーマーは、1959年6月にイギリスの新しい立地基準についての論文を発表した。中島・服部は、その骨子を次のようにまとめている。

同論文は立退きを要する放射線被曝量として25レムをとり、また敷地基準として次のようにのべていた。
(イ) 原子炉から450m(500ヤード)以内にほとんど居住者がないこと。
(ロ) 角度10°、長さ2.4km(1.5マイル)の扇型地域をどの方向にとっても、その中に500人以上の人が住んでいないこと。同じく子どもの大きな集団がいないこと。
(ハ) 8km(5マイル)以内に人口1万以上の都市がないこと。(同上Ⅰ、377頁)

このファーマー論文によって示された立退基準25レム(シーベルトに換算すると約250ミリシーベルト)は、設置者側にとっては大きな問題となった。もし原電のいう事故時の放射性ヨウ素の放出量1万キュリーを前提として、立退基準を8レム(約80ミリシーベルト)と規定した場合、風向きによっては100kmの範囲まで事故の際に立ち退く必要が出てくると、1959年7月31日に開催された原子力委員会主催の公聴会で藤本陽一が指摘した。他方、同じ公聴会で、設置に賛成する公述をした西脇安大阪大学助教授(関西研究用原子炉建設を推進した一人)は、立退基準25レムを認めた上で、放射性ヨウ素放出量についてはファーマー論文にしたがって250キュリー(約9兆2500億ベクレル)に引き下げて安全性を主張した(『科学朝日』1959年10月号参照)。

さらに、8月22日に学術会議の要請で開かれた討論会において、原電の豊田正敏技術課長(東京電力からの出向者であり、後に東電にもどって福島第一・第二原発の建設を推進、東電副社長となる)は、「申請書の内容あるいはそれまでの原電の言明を全く無視して、想定放射能量を25キュリー(約9250億ベクレル)とし、地震その他のどんな想定事故でもこれ以上の放射能がでることはありえない」(中島・服部前掲論文378頁)と述べた。いわば、安全基準は25レムとして、想定された事故時の放射能汚染を最終的には大幅に引き下げて帳尻をあわせたのである。

一方、ファーマー論文の基準によれば、東海第一原発は敷地基準の(ロ)と(ハ)を満足させていなかった。原子炉から1.3kmの所に小学校(子どもの集団)があり、さらに角度の取り方によれば、当時人口389人であった東海村居住区の大部分が入るが、その中に急増しつつあった原研職員は含まれていなかった。また、北方3.7kmの地点には人口11000人の日立市久慈町が所在していた。

まず、設置側の日本原電は、小学校は移転予定であると述べた。また、ファーマーは扇型は角度30°、長さ1.6kmとしてもよい、8km以内に1万人以上の都市がないということは直接危険を意味するものではなく、必ずしも守らなくてよいと述べ、自説を崩した。結局、この場合は、基準のほうを緩和したのである。

加えて、黒鉛炉のため格納容器がないので格納容器をつけるべきである、隣接して米軍の爆撃演習場があるなど、さまざまな安全上の問題が提起されていた。しかし、東海第一原発の安全審査にあたった原子力委員会の原子炉安全審査専門部会は、11月9日に安全と認める旨の答申を出した。そして、12月14日、内閣は正式に東海第一原発の設置を許可したのである。1960年に東海第一原発は着工し、1965年に臨界に達し、1966年より営業運転を開始した。しかし、この東海第一原発の建設はトラブル続出で、予定よりかなり遅延したのである。

このように、日本最初の商用原発である東海第一原発の安全審査については、原発事故時における放射線量の許容量が厳格になるにしたがって、原発周辺の居住を制限するなどとという当たり前の形ではなく、原発事故の規模を小さく見積もることによって、原発事故時の放射線量を許容量以下に抑えたのである。つまり、この原発の「安全性」とは、原発事故のリスクを小さく仮想することによって保たれていた。まさしく、仮想の上の「安全性」であったのである。

そして、この時期、通産省は、より実情に即した原発事故の想定を秘密裏に行っていた。それによると、東海村近傍の水戸市などはおろか、場合によっては東京にすら被害が及ぶ試算結果となったのである。このことについては、次回以降、みてみたい。

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