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Posts Tagged ‘東海村’

さて、1960年末に関西研究用原子炉が大阪府熊取町に建設されることが決まり、福井県の誘致活動は挫折したのだが、その1年以上後の1962年2月27日、福井県知事北栄造は福井県の2月議会(当初予算案が審議される)の所信表明演説のなかで、次のように述べた。

(前略)現況を見ますと、まず各位並びに県内外有識者の御協力のもとに策定されました県総合開発計画もいよいよ第二年度目を迎え、活気と躍動に満ちた県政諸般の総合施策も逐次軌道にのり、着々その成果を収めつつあります。
 たとえば置県以来の大事業たる奥越電源開発は、電発、北電の共同開発計画も決定し、着々その緒につきつつあるのでありますが、さらに本県の大動脈たる北陸線の複線電化、国道八号線を初め主要道路、港湾の整備充実、観光事業の一大躍進、大小工場特に呉羽紡績工場の誘致、さらには将来の県勢のきめ手となる原子力第二発電所誘致にも明るい見通しにある等、本県勢一大躍進の態勢は飛躍的に整備されつつあるのであります(後略)。
(『第百四回定例福井県議会会議録』p12)

つまり、ここで、北栄造は「原子力第二発電所誘致にも明るい見通しにある」ともらしたのである。

この「明るい見通し」について、具体的な内容が明らかになったのは、3月2日であった。この日、西山光治県議は自由民主党を代表して質問し、最後に次のように問いかけた。

(前略)最後に原子力発電所誘致についてでありますが、知事は予算案の説明にあたり、原子力第二発電所誘致にも明るい見通しがあると述べておられますが、単なる希望的観測であるか、具体的な見通しのもとに立って説明されたのか存じませんが、原子力発電所が実現いたしますとすれば、本県政躍進の一大拠点となると申しても、あえて過言ではないと信ずる次第でありますが、これに対し現在いかなる段階にあるか、将来の見通し等についても、あわせて具体的にお伺いいたします。
(『第百四回定例福井県議会会議録』p38)

西山の質問に対して、北は次のように答弁し、その段階における原発誘致の状況を説明した。

 

最後に原子力の問題でございますが、実は本日午前十一時半に新聞記者に発表いたしたのでございますが、それの要旨は、地元の御熱意、川西町の御熱意に応えまして、県といたしましては予算の関係、その他がございまして急速に行きませんので、これまた開発公社において五十万坪の土地を確保して、そしてボーリングを始める。これは三日か四日に向こうから人が来ていただきまして、どの土地を五十万坪ほしいか簡単に申しますと、そこをボーリングを五、六ヵ所いたす手はずになっておるということを実は発表いたしたのでございます。私の率直な考えを申しますと、それほどにまず有望ではあるまいか、それは地元なり県なりが、それだけの熱意を示して資料を持っていきますならば、会社が動いてくれまいか、政府が動いてくれまいかということでございます。三木長官にも、この前議長さんと、電発の委員長さんと三人で参りまして、いろいろと懇請を申し上げました。福井を最も有望な候補地にしょうという言明もいただいておるのでございます。現在がそういうことで、これは一ヵ月か一ヵ月半ぐらいボーリングにかかると思いますが、単なる誘致運動だけでは、これはできませんので、気象の条件、地質の条件、これらも会社ですでに調査済みであるように考えられます。そのボーリングをいたしまして、中の地盤がどうであるかということがわかりますれば、私おのずから、全国の一番かどうか知りませんが、一、二、三番目ぐらいの中には入る、そうして皆さんの御協力なり国会議員の御協力をいただいて、そして政治的にも動いていきますならば、ここにきまること、まあ困難のうちにも非常に明るい見通しも持っております。これは最初二十五万キロか三十万キロの発電をいたすようでございますが、五十万坪と申しますと、またまたこれを三つか四つやるぐらいの余裕が残っておるはずでございます。もしもきまりますれば、東海村の二倍の計画を第一次に行なうらしいのでございますが、何といたしましても地盤がわかりませんし、私も自信をもって交渉ができないのでございますので、自信を持ってできますように、早急に、よその県でまだ手の打たない先にさようにいたしたいのでございます。こうしたことは、原子力会社にも意思は伝えておるのでございまして、確かきょう午後二時に会社の方面におきましても、私が申し上げた程度の発表を中央で行なっておるように打ち合わせ済みでございます。そうした私は明るい見通しにあると思うのでございまして、議会の特別の御協力を賜わりたいことをお願い申し上げる次第でございます。
(『第百四回定例福井県議会会議録』pp51−52)

要するに、福井県の嶺北地方にある坂井郡川西町(現福井市)において、福井県開発公社が50万坪(約165万㎡)の予定地を確保し、日本原子力発電株式会社が東海村の次に建設する原発の候補地としてボーリング調査を開始することになり、当日記者発表したというのである。この北の発言で「地元の御熱意」「川西町の御熱意」を強調していることに注目しておきたい。そもそも原発敷地の適不適は原発事業者しかわからないものである。このブログでも述べているように、1960年、すでに北知事は北陸電力が坂井郡における原発建設を打診していることをもらしている。また、この地は同年の関西研究用原子炉建設の候補地であった。たぶんに、北電や日本原電などの原発事業者にとって、坂井郡川西町は原発候補地としてすでにリストアップされていたことであろう。川西町などが原電などと無関係に自主的な形で原発候補地として名乗りをあげることなどできようはずもない。

それなのに、なぜ、北知事は「地元の熱意」を強調するのだろうか。北は「地元なり県なりが、それだけの熱意を示して資料を持っていきますならば、会社が動いてくれまいか、政府が動いてくれまいか」と語り、自身と県議会議長さらに電源開発特別委員長の3人で所轄の三木武夫科学技術庁長官に陳情して「福井を最も有望な候補地」とする言質をとったことを紹介している。中央の会社や国を動かすには「地元の熱意」が必要という論理がそこにはある。この後、福井県議会をはじめ誘致自治体の議会では「原発誘致決議」がなされるが、それは「地元の熱意」を示すものなのである。すでに、関西各地で行なわれた関西研究用原子炉反対運動をみるように、「原子力」は一方において「忌避」されるものでもあったのだが、関西各地で忌避されていた「原発」を「地元の熱意」ーつまり主体性をもって迎えなくてはならないとされたのである。

そして、裏面においては、他県との競争意識が存在している。北は「早急に、よその県でまだ手の打たない先にさようにいたしたいのでございます」と語り、他県より先んじることを重要視しているのである。

このように、「政治的」な駆け引きがみられた反面、原発自体については、その危険性も含めて十分理解しているとはいえない。北は「これは最初二十五万キロか三十万キロの発電をいたすようでございますが、五十万坪と申しますと、またまたこれを三つか四つやるぐらいの余裕が残っておるはずでございます」と言っている。そもそも、原子炉の場合、爆発その他を予想して立ち入り制限区域を原子炉の出力に応じて広くとる必要があり、それが原発の敷地面積なのである。50万坪というのは出力1万キロワットという研究用原子炉が建設されることになっていた東海村の日本原子力研究所の予定敷地面積と同じである。この50万坪という敷地面積自体、アメリカの基準の約20%という過小なものであった。1万キロワットの原子炉でも過小な50万坪という面積しかない敷地に、その20〜30倍の出力の原子炉を建設し、さらに同じ敷地に複数の原子炉を建て増しするということを北栄造は希望しているのである。政治的な「駆け引き」ではそれなりに知恵を働かしているといえるのだが、原子力それ自体が何であるか、そこには知恵を働かせようとはしていないのである。

このように、1962年2月の福井県議会で、原発誘致方針が公表された。しかし、福井県の場合、福島県と比較すると、第一候補地にさしたる反対もなくすんなりと原発が建設されたわけではない。今後、その過程をみていこう。

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本ブログでは、前回、1957年の福井県原子力懇談会の発足についてふれた。その2年後の1959年の統一地方選で、羽根盛一にかわって北栄造が福井県知事に就任した。さらにその1年後の1960年3月9日の福井県議会で、自由民主党所属福井県議会議員松田守一は、福井県原子力懇談会について、次のように発言した。

次は第二点として原子核エネルギーの問題でございます。原子力は平和産業にのみ利用されるべきは世界的世論であり、また当然落ち着くべき姿であらねばならんと考えるものであります。(「その通り」と呼ぶ者あり)。コバルト60は臨床医学にまた繊維産業工業にと利用され、アイソトープはまた農業において非常に幅広く利用されまして、その効用は増大し、範囲は研究とともに拡大して産業に一大変革をもたらさんとしつつあり、原子力研究の立ちおくれは産業界における敗北を暗示するものであるといってもあえて言い過ぎではないと思うのでございます。わが国におきましても各府県は競ってアイソトープ実験室の設置に着手しているそうでございまして、わずかに静岡県と本県のみが未着手でございますが、静岡県ではすでにその動きがあり、ひとり本県のみが取り残されておるというように思うものでございます。本県におきましては御承知のように昭和三十二年四月に原子力懇談会なるものが羽根知事を会長として発足したのでございますが、その規約において、目的及び事業として「本会は福井県下における原子核エネルギーの利用に関する県民の知識を向上せしめ、かつその利用の促進をはかることを目的とする」とうたい、事業として六項目を掲げておりますが、その構成会員は主として民間会社であり、あるいは民間人であり、その予算たるや三十数万に過ぎないのでございまして、県費は内わずかに年頭五万円を支出しているありさまで、発足以来すでに三カ年を経過しているにもかかわらず、わずかな専門書を抱えておるのみで、いまだ見るべき何らの具体策もなく、年々いたずらに貴重なる歳費を空費している現状ではなかろうかと思われるのでございます。富山県では二千万円の予算をもって農業試験場長を管理人として昭和三十三年八月にアイソトープ照射室と実験室が完成しているのでございます。本県においてはこれが取り扱いの国家試験の資格者が一人もおらず、また一人の原子核に対する専門学者もおらないという哀れな現状でございます。知事は原子力懇談会なるものが羽根知事の遺産として気が進まなかったのか、あるいは御就任以来寧日なく、そのいとまなくして今日に至ったかはあえて問わんとするところではございませんが、原子力研究に対する世界的趨勢にいつまでも目を覆っておるということを許されない現状であるということはすでに今日御認識のことと思うのでございます。知事は本県における原子力研究の展開をどう計画しておられるかお聞かせ願いたいのでございます。
 次にこれは私の一私見でございますが、窮迫せる県財政の現状において知事がもし大がかりな計画は困難であるとお考えになりますならば、京都大学の原子核研究所を福井県に誘致されるのも適切な方法の一つではなかろうかと思うのでございます。御承知のように京都大学は最初四条畷に研究所の建設を計画したようでございますが、人家の密集地帯でもあり、反対されて宙に迷っておるようでございます。本県において調査すれば適地があるのではなかろうかと思われるのでございます。福井大学に今年度より応用物理学科が新設されるそうでまことに御同慶にたえないところでございますが、科学万能の時代に即応すべく福井大学を総合大学たらせるべく強力に働きかける必要があろうかと思うのでございます。この運動と京都大学の研究室とを抱き合わせて、もし実現をみますならば国費でもって研究所が本県にでき上がり、福井大学生も研究に参加することができまして、将来福井県下に多数の専門技術者の確保が約束され、原子力事業の成果は期して待つべきものがあろうかと考えられるのでございます。御参考までに愚見を申し上げたわけでございますが、これに対する知事の率直なる御批判を承りたいのでございます。(『第93回福井県議会会議録』p218−220)

松田はまず原子力は「平和産業」のみにに利用されるべきことは世界的世論であるとした上で、コバルト60などの放射性アイソトープの臨床医学、繊維産業工学、農業への利用についてふれ、「産業に一大変革をもたらさんとしつつあり、原子力研究の立ちおくれは産業界における敗北を暗示する」と述べている。そして、富山県などの他県ではアイソトープ実験室が建設されているが、福井県では福井県原子力懇談会が設置されているものの、具体的な事業は始まっていないとしている。羽根知事の遺産として忌避しているのではないかと懸念を示しつつ、松田は「原子力研究に対する世界的趨勢にいつまでも目を覆っておるということを許されない現状であるということはすでに今日御認識のことと思うのでございます。知事は本県における原子力研究の展開をどう計画しておられるかお聞かせ願いたいのでございます」と北栄造知事に問いかけた。

さらに松田は、より具体的に京都大学の「原子核研究所」を福井県に誘致することを提案した。この京都大学の「原子核研究所」とは、より一般的には「関西研究用原子炉」として知られているもので、東海村の日本原子力研究所に次いで1956年に原子力委員会が設置を決めたものである。ただ、この関西研究用原子炉については、京都府宇治市・大阪府高槻市・大阪府交野町・大阪府四條畷町と候補地があがるたびに反対運動にさらされ、誘致が頓挫していた。松田は、それを福井県にもってこようとしているのである。彼によれば、京都大学の「原子核研究所」を福井県に誘致できれば、福井大学の応用物理学科も共同利用でき、福井大学の総合大学としての発展もみこめるとしているのである。

このような松田の質問に対して、北栄造知事は次のように答弁している。

原子核、いわゆる新エネルギーの問題でございます。原子力懇談会は私来まして二回ほど開催いたしたのでございますが、仰せのように中央より学者等も来ていただいておりませんし、ここにそういう権威者もおられませんので、暗中模索の状態でございますので、これにつきまして、私見として京大の原子核研究所を持ってきたらどうか、また原子力関係をもう少し他県のように何か考えておるかというようなことをいろいろお話がございましたが、北電が坂井郡地方、それから関西配電が今のところ若狭でございますが、まだこれはいろいろ話を聞いとる程度でございます。十分な折衝はいたしておりませんけれども、原子力発電所というような構想を考え調査中でございまして、これはまあ私もこの発電所がどういうことになるかわかりませんけれども、これら関西なりと連絡いたしまして、こうした進んだエネルギーのいわゆる調査と申しますか、一つの土台になりまするような施設を持って参りたい。今申し上げますように、これに対する地元がどういう要望、反対がありますかどうかわかりません。もう少し検討いたしまして今仰せられるようにもう少し勉強いたさなきゃならんと考えておる次第でございますが、いろいろこういう点につきまして御指導をいただきたい、かように考えておる次第でございます。
 福井大学を総合大学にする、応用物理学科ができますので、これは非常に現在の学長も相当な権威者でございます。いろいろ総合大学にするための、農業科でございますか、こういうこともいろいろ議題にはのぼっておったのでございますが、将来国の財源もこの大学に来ることになりますれば、県といたしましても大学を一層総合的規模にしなければならんあ、かように思っておる次第でございます。(『第93回福井県議会会議録』p225)

この答弁は興味深い。北栄造は、原子力発電所の建設計画の打診があったことをもらしている。具体的には、北陸電力の坂井地方への原発建設計画と、関西電力の若狭地方への原発建設計画があるとしているのである。しかしながら、北知事は、この段階では慎重で「これに対する地元がどういう要望、反対がありますかどうかわかりません」としており、もう少し検討しなくてはならないとしているのである。そして、関西研究用原子炉誘致については、松田の意見としてうかがっておくという姿勢をこの答弁ではとっている。

この議論が示すように、1960年3月9日の時点で、福井県においては、一方でアイソトープ実験室の設置など自前で原子力研究開発を行おうという意欲もありながらも、外部の原子力施設を誘致しようという気運が高まっていたのである。その場合、この時点では、二つの対象があった。その一つは、松田守一が提起した、関西研究用原子炉であった。しかし、すでに、北知事のところには、電力会社側から原発建設計画が打診されていたのである。

1960年3月の時点で、まず行われたのは、関西研究用原子炉の誘致活動であった。このブログで以前論じたが、福井県原子力懇談会は3月15日に関西研究用原子炉誘致に乗り出すことを決定した。そして、その候補となったのが、若狭地方の上中町と坂井地方の川西町であった。たぶん、すでに、北栄造知事のもとで検討されていた原発建設計画の候補地が、関西研究用原子炉建設の候補地となったのであろう。その意味で、1960年の原子力施設誘致運動の開始は、その後の原発誘致に直結していたといえよう。

*なお、その後の関西研究用原子炉の誘致活動自体は、本ブログの下記の記事を参考にしてほしい。

https://tokyopastpresent.wordpress.com/2012/10/21/%E7%A6%8F%E4%BA%95%E7%9C%8C%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E9%96%A2%E8%A5%BF%E7%A0%94%E7%A9%B6%E7%94%A8%E5%8E%9F%E5%AD%90%E7%82%89%E8%AA%98%E8%87%B4%E6%B4%BB%E5%8B%95%E3%83%BC%E9%96%A2%E8%A5%BF%E9%9B%BB/

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さて、福井県の原発立地地域の現状は随時ふれていくとして、本ブログでは、福井県の原子力開発のはじまりから検討していくことにしたい。

周知のように、戦後日本における原子力開発開始の契機となったのは、1954年3月に中曽根康弘らの改進党所属の代議士たちが提起した、原子力研究開発費を修正予算案に盛り込んだことであった。翌1955年には原子力基本法や濃縮ウラン提供などを定めた日米原子力協定が定められ、さらに1956年には茨城県東海村に日本原子力研究所が設置され、日本初の研究用原子炉が建設されることが決まった。

福井県で、原子力開発の端緒となったのは、1957年4月17日の福井県原子力懇談会の発足であった。福井新聞朝刊1957年4月18日付の下記の記事をみてほしい。

県原子力懇談会発足 全国では五番目 会長羽根氏 副会長酒井、重松氏

本年一月から設立準備を進めていた原子力懇話会は十七日午後一時半から福井市農業会館で創立総会を開き発足した。同懇談会は全国五番目に発足したもので、しかも一府県が単独で原子力懇談会を結成したのは本県がはじめて。

同創立総会には羽根(盛一)知事をはじめ、今沢(東)県会議長、滝波(清)福染興業社長、前田(栄雄)福井経済同友会代表幹事、藤井(善男)県経済調査協会理事長ら発起人および奥村(伊三郎)酒伊繊維原子力研究会事務局長ら懇談会設立準備委員、県内主要会社や病院、各試験場、県会議員ら約五十名が出席。藤田県経済部長を仮議長に選んで大瀬県衛生研究所長が経過報告を行い規約審議を行ったあと、会長に羽根知事、副会長に酒井正二(酒伊繊維社長)重松倉彦(福井大学長)両氏を満場一致で選任。このあと事業計画と予算案(総額五〇万円)審議し原案通り可決し、羽根会長から幹事、顧問、参与など四十四名を委嘱して午後二時半閉会した。

閉会後本邦初公開のイギリス原子力映画「コールダーホールの原子炉」と「原子力の業績」およびU・S・I提供の映画「原子力の恵み」を観賞して散会した。

会長に就任した羽根知事は「原子力の平和利用問題は今後の産業発展のため大いに研究しなくてはならない。とくに本県にあっては繊維産業、農業、土木、水産、医学などを発展させるため懇談会を通じ県民の知識向上に努力し受入態勢を確立したい」と語った。

なお事業計画の内容は①原子力平和利用に関する県民の啓発指導=講演会、映写会、座談会などを開催する、②原子力平和利用に関する情報集めとその通知=中央における原子力関係会議などには代表を派遣して利用の現状と将来に関する情報を常につかみ、また会員には情報その他の資料を配付する、③原子力ライブラリーの設置=県立図書館に原子力関係図書、資料のライブラリーを設置し、これの集中管理と県民の利用をはかる、④原子力平和利用に関する研究会の開催=県下各業種別にグループを作り研究を活発するとともに連絡情報の機関とする。

以上のようになっている。
(後略)
(福井新聞朝刊1957年4月18日、なお一部の人名を補った)

福井新聞の報道によると、一府県で原子力懇談会を結成したのは初めてということである。前述したように、ようやく前年の1956年に日本原子力研究所の建設がはじまったくらいであり、福井県としてはかなり早期から原子力研究開発に期待をもっていたことがわかる。そして、肩書きからみる限り、当時の福井県の政・官・財・学界の人びとが多数参加しているのである。

ただ、この記事を読んでいても、「繊維産業、農業、土木、水産、医学などを発展させる」とはされているが、原子力発電などエネルギー源としての原子力には言及されていないことに注意されたい。はっきりとはわからないがアイソトープが出す放射線の利用などを想定していたように思われるのである。特に、当時の福井県の基幹産業であった繊維業への利用が第一にあげられている。たぶん、原子力利用としては、原発のような外在的なものではなく、自らが担ってきている繊維業・農業などの地域産業の内在的発展に寄与するものとしてイメージされているといえよう。

そしてまた、この原子力懇談会の活動が、原子力利用の啓蒙・宣伝、原子力関係情報・資料の収集・管理、原子力利用研究会の開催などに限られていたことも注目しなくてはならない。この記事を読んでいても、コールダー・ホール原子炉などを扱った原子力の宣伝映画をみているのである。いまだ、原子力施設の誘致などの政治的な活動は想定されていなかったといえよう。

この福井県原子力懇話会は、1959年に県知事が羽根盛一から北栄造に交代して、一時活動が衰退したといわれている。だが、1960年に、北栄造知事のもとで関西研究用原子炉誘致活動に乗り出していくことになる。

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前回、拙著『戦後史のなかの福島原発 ー開発政策と地域社会』(大月書店、2500円+税)が近日中に出版されることをこのブログに投稿した。自己宣伝かたがた、本書の全体のコンセプトについて紹介しておこう。

本書のテーマは、なぜ、福島に原発が立地がなされ、その後も10基も集中する事態となったのかということである。そのことを、本書では、実際に原発建設を受容したり拒否したりする地域住民に焦点をあてつつ、「リスクとリターンのバーター」として説明している。原発事故などのリスクがある原発建設を引き受けることで、福島などの立地社会は開発・雇用・補助金・固定資産税などのリターンの獲得を期待し、それが原発建設を促進していったと私は考えている。

まず、リスクから考えてみよう。原子力についてのリスク認識は、1945年の広島・長崎への原爆投下と1954年のビキニ環礁における第五福竜丸の被曝を経験した日本社会について一般化されていた。1954-1955年における原子力開発体制の形成においては平和利用が強調され安全は問題視されなかったが、1955年における日本原子力研究所の東海村立地においては、放射能汚染のリスクはそれなりに考慮され、大都市から離れた沿海部に原研の研究用原子炉が建設されることになった。その後も、国は、公では原子炉ー原発を「安全」と宣言しつつ、原発事故の際に甚大な被害が出ることを予測し、1964年の原子炉立地審査指針では、原子炉の周囲に「非居住区域」「低人口地帯」を設け、人口密集地域から離すことにされていたのである。

他方で、1957-1961年の関西研究用原子炉建設問題において、関西の大都市周辺地域住民は、自らの地域に研究用原子炉が建設されることをリスクと認識し、激しい反対運動を展開した。しかし、「原子力の平和利用は必要である」という国家や社会党なども含めた「政治」からの要請を否定しきることはなかった。結局、「代替地」に建設せよということになったのである。そして、関西研究原子炉は、原子炉建設というリスクを甘受することで地域開発というリターンを獲得を希求することになった大阪府熊取町に建設されることになった。このように、国家も大都市周辺地域住民も、原発のリスクをそれなりに認識して、巨大原子炉(小規模の研究用原子炉は大都市周辺に建設される場合もあった)ー原発を影響が甚大な大都市周辺に建設せず、人口が少なく、影響が小さいと想定された「過疎地域」に押し出そうとしたのである。

他方で、実際に原発が建設された福島ではどうだっただろうか。福島県議会では、1958年に自民党県議が最初に原発誘致を提起するが、その際、放射能汚染のリスクはすでに語られていた。むしろ、海側に汚染物を流せる沿海部は原発の適地であるとされていた。その上で、常磐地域などの地域工業化に資するというリターンが獲得できるとしていたのである。福島県は、単に過疎地域というだけでなく、戦前以来の水力発電所集中立地地帯でもあったが、それらの電力は、結局、首都圏もしくは仙台で多くが使われていた。原発誘致に際しては、より立地地域の開発に資することが要請されていた。その上で、福島第一原発が建設されていくのである。しかし、福島第一原発の立地地域の人びとは、組織だって反対運動は起こしていなかったが、やはり内心では、原発についてのリスクは感じていた。それをおさえるのが「原発と原爆は違う」などの東電側が流す安全神話であったのである。

さて、現実に福島第一原発が稼働してみると、トラブル続きで「安全」どころのものではなかった。また、1960-1970年代には、反公害運動が展開し、原発もその一連のものとして認識された。さらに、原発について地域社会側が期待していたリターンは、現実にはさほど大きなものではなかった。すでに述べて来たように、原発の立地は、事故や汚染のリスクを配慮して人口密集地域をさけるべきとしており、大規模開発などが行われるべき地域ではなかった。このような要因が重なり、福島第二原発、浪江・小高原発(東北電力、現在にいたるまで未着工)の建設計画発表(1968年)を契機に反対運動が起きた。これらの運動は、敷地予定地の地権者(農民)や漁業権をもっている漁民たちによる、共同体的慣行に依拠した運動と、労働者・教員・一般市民を中心とした、住民運動・社会運動の側面が強い運動に大別できる。この運動は、決して一枚岩のものではなく、内部分裂も抱えていたが、少なくとも、福島第一原発建設時よりははっきりとした異議申し立てを行った。そして、それまで、社会党系も含めて原発誘致論しか議論されてこなかった福島県議会でも、社会党・共産党の議員を中心に、原発批判が提起されるようになった。この状況を代表する人物が、地域で原発建設反対運動を担いつつ、社会党所属の福島県議として、議会で原発反対を主張した岩本忠夫であった。そして、福島第二原発は建設されるが、浪江・小高原発の建設は阻止されてきたのである。

この状況への対策として、電源三法が1974年に制定されたのである。この電源三法によって、工業集積度が高い地域や大都市部には施行されないとしつつ、税金によって発電所立地地域において道路・施設整備などの事業を行う仕組みがつくられた。同時に立地地帯における固定資産税も立地地域に有利な形に変更された。大規模開発によって原発立地地域が過疎地帯から脱却することは避けられながらも、地域における反対運動を抑制する体制が形成された。その後、電源三法事業・固定資産税・原発雇用など、原発モノカルチャー的な構造が立地地域社会で形成された。このことを体現している人物が、さきほどの岩本忠夫であった。彼は、双葉町長に転身して、原発推進を地域で強力に押し進めた。例えば、2002年に福島第一・第二原発の検査記録改ざんが発覚するが、岩本は、そのこと自体は批判しつつも、原発と地域社会は共存共栄なのだと主張し、さらに、国と東電は最終的に安全は確保するだろうとしながら、「避難」名目で周辺道路の整備を要求した。「リスク」をより引き受けることで「リターン」の拡大をはかっていたといえよう。岩本忠夫は議会に福島第一原発増設誘致決議をあげさせ、後任の井戸川克隆もその路線を受け継ぐことになった。

3.11は、原発のリスクを顕然化した。立地地域の多くの住民が生活の場である「地域」自体を奪われた。他方で、原発のリスクは、過疎地にリスクを押しつけたはずの大都市にも影響を及ぼすようになった。この3.11の状況の中で、岩本忠夫は避難先で「東電、何やってんだ」「町民のみんなに『ご苦労さん』と声をかけてやりたい」と言いつつ、認知症となって死んでいった。そして、後任の井戸川克隆は、電源三法などで原発からリターンを得てきたことは認めつつ、そのリターンはすべて置いてこざるをえず、借金ばかりが残っているとし、さらに「それ以外に失ったのはって、膨大ですね。先祖伝来のあの地域、土地を失って、すべてを失って」と述べた。

原発からのリターンは、原発というリスクがあってはじめて獲得できたものである。しかし、原発のリスクが顕然化してしまうと、それは全く引き合わないものになってしまう。そのことを糊塗していたのが「安全神話」ということになるが、3.11は「安全神話」が文字通りの「神話」でしかなかったことを露呈させたのである。

この原発をめぐるリスクとリターンの関係において、福島の多くの人びとは、主体性を発揮しつつも、翻弄された。そして、このことは、福島外の私たちの問題でもある。

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さて、このブログで述べてきたように、関西圏では、1957〜1960年にかけて関西研究用原子炉設置反対運動が惹起され、原子炉の立地問題が浮上していた。並行して、関東においては、商用原子力発電所第一号として建設されることになった東海発電所設置につれ、その安全性が問われる事態となっていた。政府・産業界が進めようとした原子力発電所建設計画は、湯川秀樹などの反対を押し切った形で1957年に承認され、その受け皿としての日本原子力発電株式会社(日本原電)が同年11月に発足した。そして、イギリス型のコールダー・ホール型発電所(電気出力約16万kw)が導入されることとなり、1958年6月にイギリス側と調印した。なお、イギリスのコールダー・ホール型発電所が導入される大きな要因として、この発電所に使われる原子炉が、元来天然ウランを燃焼してプルトニウムを生産する軍用プルトニウム生産炉であり、この発電所によって、電力だけではなくプルトニウムを得ようとした原子力担当大臣兼原子力委員長である正力松太郎らの意向が働いていたことが、有馬哲夫「日本最初の原子力発電所の導入過程」(歴史学研究会編『震災・核災害の時代と歴史学』、青木書店、2012年)で紹介されている。この東海発電所が、日本最初の商用原発である東海第一発電所(東海第一原発と略称。現在は廃炉作業中)となっていく。
 
この東海第一原発の設置については、1959年3月より設置許可申請が出され、安全審査が開始された。しかし、それ以前からさまざまなかたちで安全性がとわれた。その背景になったことは、コールダー・ホール型原子力発電所原子炉の原型となった軍用プルトニウム生産炉であったウィンズケール原子炉が1957年10月10日に火災によりメルトダウン事故を引き起こしたということであった。このメルトダウン事故は、原子炉構内だけでなく、周辺にも放射能汚染を引きおこした。周囲の500㎢内で生産された牛乳は約1ヵ月間廃棄された。その意味で、原子炉—原発事故が、周辺にも放射能汚染を惹起することを明瞭に示した事例となった。

このコールダー・ホール型原子力発電所の安全性については、すでに1958年2月に、日本学術会議・日本原子力研究所・原子力燃料公社ほか主催で開かれた第二回日本原子力シンポジウムで議題となった。このシンポジウムの最終日2月9日に行われた「原子力施設の安全性をめぐる討論」において、電源開発株式会社の大塚益比古は、次のような指摘を行っている。

むすびに東海村のある茨城県の地図に、アメリカ・アイダホ州にある国立原子炉試験場の広大な敷地を重ねた図と、先日事故を起したウィンズケール周辺の地図をならべて示し、発展途上の原子力の現在の段階では、敷地の広さも一つの安全装置であり、一旦事故が起れば、公衆への災害を皆無にすることは不可能であることを考えれば、そのように広い面積を得ることは不可能なわが国では、たとえ原型にコンテーナーのないイギリス型の炉にも必ずコンテーナーを設けるなど、可能な限りの努力を安全性にそそがない限り、従来の技術では可能だった試行錯誤のできない原子力では、その発展を逆に大きくひき戻す結果にさえなりかねないことを強調した。(椎名素夫「原子力施設の安全性をめぐる討論」 『科学朝日』1958年4月号 36頁)

この図を、下記にかかげておく。アメリカの国立原子炉試験場にせよ、ウィンズケール原発による牛乳使用禁止区域にせよ、かなり広大であり、東海村にあてはめれば、人口密集地域である水戸市や日立市も含まれてしまうことに注目しておきたい。

『科学朝日』1958年4月号

『科学朝日』1958年4月号

特に、東海第一原発の安全性については、コールダー・ホール型原子力発電所の原子炉が黒鉛炉であって黒鉛ブロックを積み上げただけで、格納容器(コンテナー)をもたない構造であり、日本において耐震性は十分であるのかなどが中心的に問われた。この安全性問題の総体については、中島篤之助・服部学の「コールダー・ホール型原子力発電所建設の歴史的教訓Ⅰ・Ⅱ」(『科学』44巻6〜7号、1974年)を参照されたい。ここでは、この研究を中心に、立地問題に限定して議論していきたい。

日本第一号の商用原発の立地について、当時審査基準がなかったため、敷地選択で紛議になることをおそれ、安全性を新たに検討することなく、すでに既成事実となっていた日本原子力研究所構内に建設することになっていた。そして、原発事故の際、最大規模で放射性ヨウ素が1万キュリー(約370兆ベクレル)もしくは60万キュリー(約2京2200兆ベクレル)流出すると想定し、アメリカ原子力委員会が公衆に対する許容線量としていた2000ラド(2000レム、シーベルトに換算すると約20シーベルト)を採用し、最大規模の事故の際でも立退きする必要がないとした。

しかし、ウィンズケール原子炉事故以後、イギリスの原子力公社原子炉安全課長ファーマーは、1959年6月にイギリスの新しい立地基準についての論文を発表した。中島・服部は、その骨子を次のようにまとめている。

同論文は立退きを要する放射線被曝量として25レムをとり、また敷地基準として次のようにのべていた。
(イ) 原子炉から450m(500ヤード)以内にほとんど居住者がないこと。
(ロ) 角度10°、長さ2.4km(1.5マイル)の扇型地域をどの方向にとっても、その中に500人以上の人が住んでいないこと。同じく子どもの大きな集団がいないこと。
(ハ) 8km(5マイル)以内に人口1万以上の都市がないこと。(同上Ⅰ、377頁)

このファーマー論文によって示された立退基準25レム(シーベルトに換算すると約250ミリシーベルト)は、設置者側にとっては大きな問題となった。もし原電のいう事故時の放射性ヨウ素の放出量1万キュリーを前提として、立退基準を8レム(約80ミリシーベルト)と規定した場合、風向きによっては100kmの範囲まで事故の際に立ち退く必要が出てくると、1959年7月31日に開催された原子力委員会主催の公聴会で藤本陽一が指摘した。他方、同じ公聴会で、設置に賛成する公述をした西脇安大阪大学助教授(関西研究用原子炉建設を推進した一人)は、立退基準25レムを認めた上で、放射性ヨウ素放出量についてはファーマー論文にしたがって250キュリー(約9兆2500億ベクレル)に引き下げて安全性を主張した(『科学朝日』1959年10月号参照)。

さらに、8月22日に学術会議の要請で開かれた討論会において、原電の豊田正敏技術課長(東京電力からの出向者であり、後に東電にもどって福島第一・第二原発の建設を推進、東電副社長となる)は、「申請書の内容あるいはそれまでの原電の言明を全く無視して、想定放射能量を25キュリー(約9250億ベクレル)とし、地震その他のどんな想定事故でもこれ以上の放射能がでることはありえない」(中島・服部前掲論文378頁)と述べた。いわば、安全基準は25レムとして、想定された事故時の放射能汚染を最終的には大幅に引き下げて帳尻をあわせたのである。

一方、ファーマー論文の基準によれば、東海第一原発は敷地基準の(ロ)と(ハ)を満足させていなかった。原子炉から1.3kmの所に小学校(子どもの集団)があり、さらに角度の取り方によれば、当時人口389人であった東海村居住区の大部分が入るが、その中に急増しつつあった原研職員は含まれていなかった。また、北方3.7kmの地点には人口11000人の日立市久慈町が所在していた。

まず、設置側の日本原電は、小学校は移転予定であると述べた。また、ファーマーは扇型は角度30°、長さ1.6kmとしてもよい、8km以内に1万人以上の都市がないということは直接危険を意味するものではなく、必ずしも守らなくてよいと述べ、自説を崩した。結局、この場合は、基準のほうを緩和したのである。

加えて、黒鉛炉のため格納容器がないので格納容器をつけるべきである、隣接して米軍の爆撃演習場があるなど、さまざまな安全上の問題が提起されていた。しかし、東海第一原発の安全審査にあたった原子力委員会の原子炉安全審査専門部会は、11月9日に安全と認める旨の答申を出した。そして、12月14日、内閣は正式に東海第一原発の設置を許可したのである。1960年に東海第一原発は着工し、1965年に臨界に達し、1966年より営業運転を開始した。しかし、この東海第一原発の建設はトラブル続出で、予定よりかなり遅延したのである。

このように、日本最初の商用原発である東海第一原発の安全審査については、原発事故時における放射線量の許容量が厳格になるにしたがって、原発周辺の居住を制限するなどとという当たり前の形ではなく、原発事故の規模を小さく見積もることによって、原発事故時の放射線量を許容量以下に抑えたのである。つまり、この原発の「安全性」とは、原発事故のリスクを小さく仮想することによって保たれていた。まさしく、仮想の上の「安全性」であったのである。

そして、この時期、通産省は、より実情に即した原発事故の想定を秘密裏に行っていた。それによると、東海村近傍の水戸市などはおろか、場合によっては東京にすら被害が及ぶ試算結果となったのである。このことについては、次回以降、みてみたい。

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大飯原発再稼働の一つの理由が「夏場の電力不足」とされていたことー今や、それも根拠薄弱なのだがーは、周知のことといえる。

しかし、原子力利用が開始された草創期である1956年にも、電力会社の連合体である電気事業連合会は、将来の電力不足を名目とした原発建設を、原子力委員会に陳情した。『科学朝日』1956年7月号には次のような記事が掲載されている。

   

電気事業連合会のお願い
 4月12日電気事業連合会の松根理事と関西電力の一本松常務とは原子力委員会を訪れて、正力、石川、藤岡の3委員に「原子力発電計画に関するお願い」をした。
 それにはまず昭和40年度に数十万kw(後に再び資料が出されて45万kwと発表された)の原子力発電を必要と予想されることをのべ、「われわれは以上を考慮して、これに対処すべき万全の態勢をととのえ、営業用原子力発電の開発と運営に当る所存でありますが、貴委員会において原子力開発利用基本計画の策定ならびにその実施計画の策定に当っては左記の事項を考慮されることを切望致します」として、次のような要望事項をあげている。
A 原子力発電の年次計画として、昭和32年10月までに動力用試験炉を発注。昭和35年10月までに動力用試験炉を完成。昭和36年までに営業用動力炉を発注。昭和38年から40年末までに順次営業用動力炉を完成するものとし、この仕事は電気事業者が行う。
B 動力用試験炉は2台以上。炉の型は適当な型を2種以上、場所は東京、大阪など。容量は電力10000kw以上とする。これらの原子炉は「早期実現のため」輸入すべきである。
C 営業用動力炉は電力10万kw級とし、これは電気事業者が直接やる。初期は輸入する。国産化は原子力委員会で考える。
D 以上の対策の確立を助けるため先進国から適当な技術顧問団を招いてもらいたい。

1965年(昭和40)には電力が不足するので、原発建設を急いでほしいということなのである。

このことをテーマとして推進派の物理学者である伏見康治らによって「座談会 日本の原子力コース」が行われ、その記事が『科学朝日』に掲載されている。伏見は「お伺いしたいのは足りなくなるという推定が妥当なものか相当狂う可能性のあるものなのか…。」と問いかけた。この問いに答えたのが、科学技術庁科学審議官・東京大学教授であり、河川学・土木学を専攻していた安芸皎一である。安芸は、電気需要が年に7〜4%づつ伸びるなどと述べながらも「実をいうとわからない」とした。安芸は「いままではいかにたくさんのエネルギーを早く供給しうるかだったが、いまは安いエネルギーがほしいということなんです」と主張している。具体的には、当時の電力の源の一つであった石炭火力発電所において、今後石炭価格の高騰が見込まれるということが指摘されている。結局は、安価な電力を得たいということだったのである。

電気事業連合会による発電設備予測(1956年)

電気事業連合会による発電設備予測(1956年)

後に、中島篤之助と服部学が「コールダー・ホール型原子力発電所建設の歴史的教訓Ⅱ」(『科学』44巻7号、1974年)で上記のように実績と比較している。1965年の電力は、電事連の予測では水力1435万kw、火力776万8千kw、原子力45万4千kw、総計で2257万2千kwであったが、実績は水力1527万kw、火力2116万2千kw、原子力0kw、総計で3643万2千kwであった。結局、火力発電が予想以上に伸び、原子力発電に依存する必要は、まだなかったのである。

この座談会に出席していた科学者たちは、早期の原発建設には否定的であった。北大教授で物理学者の宮原将平が「俗論」といい、東大教授で化学者であった矢木栄は「原子力がなかったらどうするつもりか」とこの座談会で述べている。伏見は「研究者を無視した恐ろしい高い目標がかかげられて、正直な研究者がその階段を上ろうとして落っこちてしまうという結果になるんです」と懸念していているのである。この座談会に出席していないが、原子力委員であった湯川秀樹も早期の原発建設には否定的であった。この時期は、世界でもソ連のオブニンスク発電所(1954年)くらいしか原子力発電所はなかった(なお、1954年よりアメリカは原子炉を電源とした原子力潜水艦を使用していた)。また、ようやく原子力委員会や日本原子力研究所が創設されたが、まだ、ようやく日本原子力研究所の敷地が決まったばかりで、日本では全く原子炉などはなかったのである。

しかし、原子力委員長であった正力松太郎は、早期の原発建設に積極的であった。そして、コールダーホール型原発を開発していたイギリス側の売り込みを受けた。結局、1965年までに原発を建設することを1956年12月に原子力委員会は決定してしまう。1957年には湯川秀樹が原子力委員を辞任し、1958年にはコールダーホール型原発の導入が決定されたのである。このように、科学者たちの懸念をよそに、電事連の「電力不足」を理由とした原発建設が結果的に実現していくのであった。これが、日本で初めての原発である、東海発電所になっていくのである。

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さて、これまで、1956年以降、最初の原発が放射性物質による被ばくリスクを考慮して「低人口地帯」である東海村に立地したことをみてきた。また、1957年のウィンズケール原発メルトダウン事故を前提として、1964年に原子炉立地審査指針が定められ、隣接地区は非居住区域であること、その外側は低人口地帯とすること、原子炉敷地は人口密集地帯から離れていることが条件とされた。同時期に原子力委員会が東海村周辺を対象とした原子力施設地帯整備の方針案においては、

(1) 施設地帯の住民の安全の確保と福祉の増進を前提として、人口や各種施設の配置とその規模の適正化を期しつつ、この地帯の健全な発展を図ることを目標とする。
(2) 具体的には、施設地帯を3段階に分け、原子力施設隣接地区(施設からおおむね2km未満)にはつとめて人口の増加を生じないよう、原子力施設近傍地区(おおむね2km以上6km未満)には、規模の大きい人口集中地区が存在しないようにし、また、その他の周辺地区(おおむね6km以上)には、人口の増加が正常に行われるよう留意する。
(3) したがって、原子力施設地帯の理想像は、白亜の施設を、公園、緑地などのグリーンベルト地帯がとりまき、その周囲には工場その他居住用以外の諸施設は配置され、さらに、その外側には住宅が整備され、また、これらを結ぶ道路、衛生施設などが整備されている。(後略)
(『原子力開発十年史』p.p333-334)

と、されていることをみてきた。原発周辺2km未満の範囲は居住制限を行うグリーンベルト地帯に、その外側の6kmまでの範囲は人口の集中を抑制する地帯とすることが構想されていたのである。

このような原発立地の方針は、原発事故を前提に、放射性物質の被ばくが多くの人びとにふりかかるリスクをさけるために、低人口地帯に立地させようということに基づいている。もちろん、福島第一原発事故の経験は、周辺6kmの人口増を抑制するという措置では、緩衝地帯を設けるという目的を十分はたせないことを示した。福島第一原発事故の警戒区域は原発周辺20km以内の区域であり、その外側にも飯館村のように計画的避難区域が存在している。より外側にも、放射線管理区域以上の汚染を示す地域が広がっている。

しかし、問題なのは、原発事故によって被ばくがあると想定されている地域においても、「低人口地帯」であるが人びとが住み続けているということなのだ。例えば、東海村の場合をみておこう。下図のグーグルマップにおいて、県道284号と県道62号線の交差点付近までが2km圏内であるが、その内部にも人びとが住み続けている。そこには、豊受大神宮という神社もある。

原発周辺6km圏内ではどうか。より大きな航空写真でみていこう。「運動公園陸上競技場」というあたりが原発より6kmの距離にあるようだが、その範囲であると、東海村役場、常磐線東海駅、常磐道、日立港、常陸那珂湊港などが入ってしまう。もちろん、ここには、人びとが住んでいるのである。1957年のウィンズケール原発事故によって作られた、今日からみれば不十分である1964年の基準からみても、被ばくのリスクをおう人びとが住み、生産活動に従事しているのである。

さて、もし、「福島第一原発事故の知見」をいかして、原発より20kmの範囲を被ばくのリスクがあるとしてみたらどうか。グーグルマップでみると、東海村はもちろん、近隣の日立市・常陸太田市・那珂市・水戸市・ひたちなか市が入ってしまうのである。

現在、再稼働が問題となっている福井県の大飯原発ではどうか。確かに大飯原発は、若狭湾に突き出した大島半島の突端にある。しかし、そこに人が住んでいないわけではない。一番近くの人家は、「宮川興業」とあるあたりのようだが、そこまでの距離は1km程度である。被ばくのおそれがあると原子力委員会が認定している範囲でも、少数ながら人たちは住んでいるのだ。

事故によるリスクを考えるならば、原発の近くに人は住むべきではないと原子力委員会すら認めている。しかし、そこに居住し、さらなる地域開発を求める地域住民は、そのようなことは受け入れないであろう。言葉だけの「安全」を叫びつつ、人口増加ーある意味では地域開発ーを抑制する。そして原発が立地する「低人口地帯」を「低人口」として維持しつつ、そこに住む人たちの「安全」は事実上切り捨てられ、多くの人びとが住む東京などの大都市の「安全」をはかる。これが、原子炉立地審査指針などに示される原発立地方針の論理なのだ。

ここで、広瀬隆の『東京に原発を!』の中の一節を思い出した。

いかなる人間も、他人の生活を侵害することは許されない。これが人間の生存原理である。現在、わが国で原子力発電所が運転されている土地では、ほとんどの住民が不安を抱き、しばしば恐怖心に襲われながら、それを口にすることによって地場産業が殺されることを怖れ、自分ひとりの胸に包んでおくという、という日々が続いている。
建設されるまでは激しい反対運動がありながら、一度建設されてしまうと死んだように黙りこくるのは、そのためである。だが、これら現地の人が知っておかなければならないことがある。東京の人間は次のように語っているのだ。
「五十人殺すより、一人殺したほうがいいではないか」(日本テレビ・ドキュメント’81”東京に原発がやってくる”、1981年10月25日放映)
おそろしい言葉である。現地の人びとが殺されることを前提に、いまの原子力発電所が運転されている。これは原発問題に源があるのではない。わが国のジャーナリズムの大きな流れが、すべて東京を中心に発想し、行動し、それぞれの町や村の人びとを一顧だにしない狂気のうねりとなって、静寂の生活を許さない空気をつくり出してしまった結末である。東京に住む者だけが、人間として認められるのだ。(広瀬隆『東京に原発を!』 集英社 1986年。なお、広瀬隆は1981年に同書をJICC出版局から出版しているが、チェルノブイリ事故直後に改版して出版した。本引用は集英社版からである)

放射性物質による汚染、被ばくのリスクがあるから「低人口地帯」に原発を立地するということは、「五十人殺すより、一人殺したほうがいいではないか」という論理を内在させているということなのである。原発労働者の問題とともに、このことを忘れてはならないだろう。

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