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Posts Tagged ‘東日本大震災’

2016年4月18日現在、九州の熊本地方に地震が襲っている。4月14日夜、マグニチュード6.5、最大震度7の地震が起こり、16日未明にはマグニチュード7.3、最大震度6強の地震が発生した。16日以後、震源域は東側の阿蘇地方・大分地方にも拡大しつつ、最大震度6・5クラスの地震が相続いている。最大震度5以上の地震は4月14日に3回、15日に2回、16日に9回発生した。17日に大きな地震はなかったが、4月18日の夜、本記事を書こうとした際、最大震度5強の地震が発生したという報道に接した。

この地震については、地震の専門家である気象庁が「観測上例がない」と困惑を見せている。次の毎日新聞のネット配信記事を見てほしい。

<熊本地震>気象庁課長 観測史上、例がない事象を示唆
毎日新聞 4月16日(土)11時21分配信

<熊本地震>気象庁課長 観測史上、例がない事象を示唆

 ◇熊本、阿蘇、大分へと北東方面に拡大していく地震現象に

 気象庁の青木元(げん)地震津波監視課長は16日午前の記者会見で、熊本、阿蘇、大分へと北東方面に拡大していく地震現象について「広域的に続けて起きるようなことは思い浮かばない」と述べ、観測史上、例がない事象である可能性を示唆。「今後の(地震)活動の推移は、少し分からないことがある」と戸惑いを見せた。

 また、14日の最大震度7の地震を「前震」と捉えられなかったことについて、「ある地震が発生した時に、さらに大きな地震が発生するかどうかを予測するのは、一般的に困難だ」と述べた。

 熊本地方などを含む九州北部一帯は低気圧や前線の影響で、早い所で16日夕方ごろから雨が降り始め、16日夜から17日明け方にかけては広い範囲で大雨が予想されている。青木課長は「揺れが強かった地域は土砂災害の危険が高い。さらに雨で(地盤が)弱くなっている可能性があるので注意をしてほしい」と呼びかけた。【円谷美晶】
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160416-00000052-mai-soci

気象庁に言わせれば「観測史上例がないこと」なのだろう。しかし、本当に未曾有のことなのだろうか。熊本地震の報道に接しながら、地震学者石橋克彦著の『大地動乱の時代』(岩波新書、2014年)を想起した。本書の冒頭部分は「幕末ー二つの動乱」と題されている。嘉永6年(1853)にペリーの黒船艦隊が来航し、それ以来、日本は幕末の動乱を迎えていくことになる。石橋によると、この時期は日本列島で地震活動が盛んになった時期でもあった。ペリー来航より少し前の嘉永6年2月2日(1853)、マグニチュード7の「嘉永小田原地震」が発生した。
 
翌嘉永7年(1854)にペリーは再来航し、日米和親条約が締結される。この年の6月15日に、伊賀上野・四日市・笠置山地でマグニチュード7.2、6.7、6.8の地震が相次いで発生し、桑名から京都・大阪までの広い範囲で震度5以上の揺れとなり、1000人以上が死亡したという。11月4日には、駿河ー南海トラフを震源としたマグニチュード8.4の「安政東海地震」が発生した。東海地方の多くの地域が震度6以上の揺れとなり、さらに伊豆半島から熊野灘まで海岸に津波が襲来した。場所によっては津波は10m以上に達したという。
 
 そして、「安政東海地震」発生の約30時間後の11月5日、紀伊半島・四国沖の南海トラフを震源とするマグニチュード8.4の「安政南海地震」が発生した。紀伊半島南部と四国南部は震度6以上の揺れに見舞われ、伊豆半島から九州までの沿岸には津波が襲来した。大阪にも津波は及んだのである。そして、黒船来航、御所焼失とこれらの一連の地震を考慮して、11月27日に年号は「安政」に改元されたのである。

しかし、改元されても、地震は止まなかった。安政2年10月2日(1855)、安政江戸地震が発生した。マグニチュードは6.9であったが、都市直下型地震であったため、江戸市中を中心に震度6以上の揺れになった。火事も発生し、1万人以上が死んだとされている。そして、これらの地震活動は、石橋によると1923年の関東大震災にまで継続していったとされている。

このように、3年あまりの間で、日本列島は5回もの大地震に遭遇したのである。石橋は次のようにいっている。

江戸時代末の嘉永6年(1853)、日本列島の地上と地下で二つの激しい動乱が口火を切った。二つの激動は時間スケールこそ多少ちがっていたが、ともに、そのご十数年から数十年のあいだに日本の歴史を左右することになる。(石橋前掲書p4)

確かに、このような短い時期に大地震が集中したのは希有のことだっただろう。しかし、日本列島で、大地震が連続して発生することは未曾有のことではないと歴史的に言える。

石橋は次のように指摘している。

黒船に開国を迫られた幕末の動乱期、関東・東海地方の大地の底では、もう一つの「動乱の時代」が始まっていた。嘉永小田原地震を皮切りに、東海・南海巨大地震がつづき、安政大地震が江戸を直撃する。そして、明治・大正の地震活動期をへて、ついに大正12年の関東巨大地震にいたる。
 それから71年。東京は戦災の焦土の中から不死鳥のごとくに蘇り、日本の高度経済成長と人類史上まれにみる急速な技術革新の波に乗って、超過密の世界都市に変貌した。しかし、この時期は、幸か不幸か、大正関東地震によって必然的にもたらされた首都圏の「大地の平和の時代」(地震活動静穏期)にピタリと一致していた。敗戦による「第二の開国」のあと日本は繁栄を謳歌しているが、首都圏は大地震の洗礼を受けることなく、震災にたいする脆弱性を極限近くまで高めてしまったのである(石橋前掲書p1)

日本の戦後復興・高度経済成長・技術革新の時代は、石橋によれば首都圏の「大地の平和の時代」(地震活動静穏期)でもあった。「技術革新」の中には、地震科学の発展も含まれるであろう。気象庁などによる精緻化された「地震科学」は、「大地の平和の時代」における経験の産物なのであり、幕末のような「大地動乱の時代」にはそのままの形では対応しきれないのではなかろうか。

『大地動乱の時代』出版の翌年である1995年に阪神淡路大震災が発生した。2011年には東日本大震災が起きた。これ以外にも様々な地震が起きている。そして、今回の熊本地震の発生である。「大地動乱の時代」の再来を意識せざるをえない。そして、とにかく確認しなくてはならないことは、日本列島に住むということは、現状の科学で把握できるか否かは別として、このような地震の発生を覚悟しておかねばならないということである。

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現在、朝日新聞夕刊では、写真家・作家の藤原新也へのインタビュー記事「人生の贈りものー私の半生」を連載している。本日(2015年8月13日)はその9回目で、「3.11後遺症が日本を覆っている」というテーマで、藤原の東日本大震災認識が語られている。

まず、藤原はこのように言う。

 震災災害にしろ原発災害にしろ、人が故郷を失うということの意味を日本人のどれだけの人が実感として持てたかは疑問ですね。自分は高校生のとき家が破産し郷里を捨てたが、故郷そのものが無くなったわけではない。だが東日本では故郷そのものが完全に消失したわけだ。それは自分の血肉を失うことに等しい。

藤原は、1995年の阪神大震災でも景観全体が失われたわけではないとしつつ「東日本では風景そのものが流されてしまった」と指摘する。その風景の「残骸」は「瓦礫」と呼ばれることになったが、藤原は「震災地以外の人が瓦礫と呼んだものは当地の人にとっては最後の記憶のよりどころだったわけだ」と述べている。

さらに、藤原は、東日本大震災における津波災害被災者と原発災害被災者との違いをこのように表現している。

 

津波災害と原発災害が同時にやって来たわけだが、被災者の心情はまったく異なる。かたや天災、かたや人災。天災は諦めざるをえない気持ちに至れるが、人災は諦めきれないばかりかそこに深い怨念が生じる。取材時でも津波被災者は心情を吐露してくれたが、原発被災者は強いストレスを溜め、取材で入ってきた私にさえ敵視した眼を向け、とりつく島がなかった。

そして、藤原は次のように述べている。

…おしなべてストレス耐性の弱い老人で多くの老人が死期を早めた。原発の最初の犠牲は老人なんだ。原発再稼働にあたって経済効率の話ばかりが優先されるが経済とは人間生活のためにあるわけで、その人間生活の根本が失われる可能性を秘めた科学技術は真の科学ではないという理念を持った、本当の意味で”美しい日本”を標榜する政治家が今後出てきてほしいと願う。

しかし、現状の日本社会は、藤原の願いとはまるで逆方向にいっているようにみえる。「震災以降、日本人はどのように変りましたか」(聞き手・川本裕司)の質問に、藤原は次のように答え、この記事を締めくくっている。

 

3.11後遺症が日本を覆っているように感じる。日本列島が人の体とすると、日本人は左足か右足を失ったくらいのトラウマを背負ったわけだ。ヘイトスピーチや放射能問題に触れると傷口に塩を塗られたかのように興奮する人々の出現、キレる老人など日本人がいま攻撃的になっている理由の一つは、後遺症による被害妄想が無意識の中にあるように思う。それとは逆にテレビなどで外国人によるニッポン賛美番組がむやみに多いのは、3.11による自信喪失の裏返しの自己賛美現象であり、自己賛美型の右傾化傾向ひいては戦争法案への邁進とも底流でつながっている。

3.11以降の日本社会の意識状況について「3.11後遺症が日本を覆っている」と藤原は指摘している。私も2011年以降の日本社会の意識状況について同じように感じていた。ただ、「3.11後遺症」で中心をなす「故郷そのものが完全に消失する」ことへの恐怖は、単に東日本大震災からのみ出現しているわけではないだろう。すでに、兆候としては、バブル崩壊後の「失われた20年」における長期経済不況、リーマンショック時の雇用不安、さらに地方都市のシャッター街化という形で現われてきていた。そして、2011年はGDP世界第二位の地位が日本から中国に移った年でもある。よくも悪くも高度経済成長以降の「経済大国」化のなかで成立してきたこれまでの「故郷」=日本社会のあり方の根底が崩れる可能性が出現してきたといえる。

とはいえ、それらはまだ「可能性」ということはできる。東日本大震災は「故郷そのものが完全に消失する」光景を目の当たりにさせた。今までは「可能性」であった「故郷そのものが完全に消失する」ということを東日本大震災は可視化したのである。その意味で、東日本大震災は、それ自体が巨大な出来事なのだが、そればかりではなく、日本社会全体のあり方の象徴にもなっていると私は考える。

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さて、また、大雪の話を続けよう。2月14〜15日の「記録的な大雪」により、東日本の広い範囲で東名高速道路他大動脈である各地の道路において多くの車両が立ち往生した。これらの車両のドライバーに対して、沿線住民が支援したことが伝えられている。まず、長野県軽井沢町の国道18号の状況を伝えている毎日新聞のネット配信記事をみてみよう。

<大雪>安否確認なく不安 陸自作業開始 軽井沢・立ち往生
毎日新聞 2月16日(日)11時28分配信

 立ち往生した車の中に多くのドライバーが閉じ込められた長野県軽井沢町の国道18号とその周辺道路では、県の災害派遣要請に基づき陸上自衛隊が出動し、復旧・救出作業にあたった。

【山梨では道路が寸断】

 国道18号を群馬県に向け大型トラックを運転していた茨城県古河市の運転手、落合哲也さん(26)は15日午前3時ごろ、軽井沢町追分の県道・浅間サンラインとの合流付近から渋滞に巻き込まれ、立ち往生。16日朝も動けない状況が続いている。周囲には少なくとも50台程度のトラックや乗用車が止まっているのが確認できたという。「雪が積もりすぎて、トラックが移動できない状況」と話す。

 軽井沢町は16日の最低気温が氷点下3・6度と冷え込んでいるが、ガソリンが残り少なくなっている車も多く、「エンジンを切って車内でしのいでいる人もいる」という。同日午前には体調を崩した人が出て、救急車も到着した。落合さんは「親子で乗用車に乗っている人もいる。このままの状況が続くのは相当厳しいのではないか」と話す。

 近隣住民からカレーなどの食料やカイロが配られたが、町など行政機関が安否確認などには来ていないという。落合さんは「住民の温かさを感じた」とする一方「警察なども一度も安否確認に来ない。情報もないし不安が広がっている」と訴えた。

 一方、陸上自衛隊第13普通科連隊(駐屯地・松本市高宮西)は16日、県知事からの災害派遣要請を受け、軽井沢町で発生した立ち往生車両の救出作業を始めた。

 同連隊によると、車両20両に隊員120人が分乗し、同日午前1時過ぎに先遣隊が駐屯地を出発。午前5時過ぎ、国道18号に接続する浅間サンラインの現場に到着した。

 現場は、大型車両2台が雪により動けなくなり道路をふさいだことから、大型トラックや乗用車など約50台が動けなくなっている。県の除雪車両を中心に出口をふさいでいる大型車両の撤去作業や、立ち往生している車両への飲料水や乾パンなどの配給などを行っている。【小田中大、高橋龍介】
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140216-00000016-mai-soci

このように、まず、近隣住民が、自主的に食料などを配ったという。そして、その後、大型車両の撤去作業や、食料・水などの配給が行われるようになったといえるのである。

そして、軽井沢町の住民は公民館を避難場所に開放し、そこに避難するドライバーたちもいた。軽井沢町の住民たちは、彼らに炊き出しをし、さらに、車に残っている住民たちに非常食を届けた。地域自体も雪のため孤立した住民がいたにもかかわらずである。他方、ドライバーたちは、単に避難のためだけではなく、ガソリンを確保するためにも一時車を離れることもあった。スポニチが18日に配信した記事は、その状況を描き出している。

立ち往生ドライバーらに炊き出し 軽井沢町公民館に60人避難
 
長野・群馬県境の国道18号が通行止めとなっている影響で、長野県軽井沢町の追分公民館には17日午前も、立ち往生した車の運転者やバスの乗客ら約60人が避難。公民館は15日から開放され、地区の住民が備蓄用の米で炊き出しをしたり、止まった車まで歩いて非常食を届けたりして、支援に当たった。

 荻原里一区長(69)は「一度にこんなに雪が降ったのは初めて。孤立している住民もおり、物凄い状況になっている」と話した。

 国道18号沿いのガソリンスタンドには立ち往生したトラックの運転手らが、ポリタンクを持って歩いて燃料を買い求めた。男性従業員(21)によると、1時間以上歩いて来た人も。立ち往生した車の運転手からの燃料配達依頼も多いが、雪で出勤できない従業員がいて手が足りず、依頼は全て断っているという。
[ 2014年2月18日 05:30 ]
http://www.sponichi.co.jp/society/news/2014/02/18/kiji/K20140218007612320.html

この避難所設置については、軽井沢町役場の関与があったようである。産經新聞が2月17日にネット配信した記事で、次のように語られている。

軽井沢町役場では15日に近くの公民館など計6カ所に避難所を開設。地元住民の協力を得て、おにぎりや豚汁などを提供した。町職員は「ここまでの大雪は初めてで、これほど大規模な避難所運営も初めて」。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/140217/dst14021720470027-n2.htm

冒頭の毎日新聞の記事では、町など行政機関は関与していないように語られている。これらの避難所は、町が運営したというよりも、地域住民が主体となって運営したのであろう。軽井沢町のサイトでは、2月20日付で「軽井沢バイパスで立ち往生している方々に対応するための避難所開設にご協力をいただきました区・日赤奉仕団等多くの皆様に、心より感謝申し上げます」と謝意が述べられている。日赤奉仕団も、たぶん、ここの地域組織なのであろう。もちろん、他の地域ではどうかはわからない。自治体が避難所運営の中心だったところもあろう。

なお、群馬県側の安中市では、安中市役所が避難所を中心的に運営していたようである。NHKが2月17日に配信した次の記事をみてほしい。

国道18号線車立往生で避難所
2月17日 20時27分

群馬県安中市の国道18号線では記録的な積雪の影響で多くの車が立ち往生し、地元の安中市は避難所を開設し、対応に当たっています。

国土交通省などによりますと、安中市と長野県軽井沢町を結ぶ国道18号線の碓氷バイパスでは、記録的な積雪の影響で、今月14日の深夜から最大でおよそ270台が車が立ち往生しました。
このため、ドライバーなどは車内で過ごすことを余儀なくされ、安中市では閉校になった中学校や公民館など市内の公共施設6か所を避難所として開設し、食料や水を提供して対応に当たっています。
このうち「旧松井田西中学校」では、16日夜から32人が避難し、市の職員などがおにぎりや卵焼きなどの食料を提供していますが、ドライバーたちは疲れた表情を浮かべて校舎で休息をとっていました。
長野県に向かっていたトラックの運転手の男性は「14日から雪で立往生しているので、商品として積んでいる野沢菜が心配です」と話していました。
現場付近は群馬県方面に向かう上り車線は正午には通行できるようになりましたが、長野県方面の下り車線は除雪が終わらず、国土交通省によりますと、17日午後5時現在で30台余りの車が残っているということです。
国土交通省では、引き続き、除雪を急ぐことにしています。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140217/k10015312071000.html

このように、大雪で通行できなくなった道路は、関東・甲信に限られるわけではない。東北地方でも、通常あまり雪が降らない地域でも大雪となり、立ち往生した車両が続出した。次の河北新報が2月20日にネット配信した記事をみてほしい。

大雪で車立ち往生 避難の飯舘村民、仮設から命のおにぎり

ドライバーたちにおにぎりの炊き出しをした福島県飯舘村の仮設住民ら=19日午後、福島市
 大雪で多くの車が立ち往生した福島市の国道4号で16日、沿道の仮設住宅に暮らす福島県飯舘村民がおにぎりを炊き出し、飲まず食わずのドライバーたちに次々と差し入れた。持病のため運転席で意識を失いかけていた男性は19日、取材に「命を救われた思いだった」と証言。東京電力福島第1原発事故に伴う避難が続く村の人たちは「国内外から支援を受けた恩返しです」と振り返った。

 福島県三春町のトラック運転手増子徳隆さん(51)は15日、配送を終え、郡山市の会社に戻る途中だった。激しい雪で国道は渋滞。福島市松川町で全く動かなくなった。
 16日昼ごろ、糖尿病の影響で頭がぼーっとしていた。窓をノックする音で気が付くと「おにぎり食べて」と差し出された。
 国道を見下ろす高台にある飯舘村の仮設住宅の人たちだった。前日から同じ車がずらりと止まり続けているのに女性たちが気付き、炊き出しを提案。富山県高岡市の寺から仮設に届いていたコシヒカリを集会所で炊き、のりと梅干しを持ち寄って20人ほどで約300個握った。
 炊きたてが冷めないようにと発泡スチロールの箱に入れ、1メートル近い積雪の中、1人1個ずつ渡して回った。
 増子さんは「温かくて、おいしくて、一生忘れない。仮設で厳しい暮らしだろうに、こうして人助けをしてくれて頭が下がる」と感謝した。
 増子さんの話を伝え聞いた仮設住宅の婦人会長佐藤美喜子さん(62)は「震災からこれまで、数え切れないほど多くの人に助けられてきた。またあしたから頑張ろうと、私たちも励みになりました」と話している。
 飯舘村は福島第1原発から北西に約40キロ。放射線量が高い地域が多く、村民約6600人のほとんどが村の外で避難生活を続けている。

2014年02月20日木曜日
http://www.kahoku.co.jp/news/2014/02/20140220t63014.htm

この場合は、福島市の国道4号であるが、立ち往生を余儀なくされた車両のドライバーに対して、飯館村からその地に避難している人びとが支援したのである。

レベッカ・ソルニットの『災害ユートピア』では、大災害に遭遇した場合、通常は個々の生存を最優先して我勝ちのパニックになると想定されているが、そうではなく、むしろ、災害に直面した人たちが、それまでの社会関係の有無に関わりなく、お互いの生存を保障するため連帯していったことを描き出している。マスコミで報道されたことは上っ面にすぎず、実際にはさまざまな苦難や葛藤があったのだろと思うが、自治体を含めた近隣住民において、立ち往生した車両のドライバーたちを助けようとする「共同性」が立ち上がったということができる。

こういうことは、もちろん、東日本大震災を含めた過去の大災害において無数にあったに違いない。もちろん、このような共同性において、葛藤や矛盾が全くなかったとは思えない。しかし、平時の、国家や資本の管理が災害において断ち切られた時、そこにまず生じてくるのは、それまでの社会関係の有無とは関係ない人びとの共同性であり、それが彼ら自身の生存を保障していたのである。

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  • なぜ、下北沢で福島県の高校演劇が上演されたのか
  • 2013年8月15日、東京・下北沢の小劇場・楽園で、原発・震災被災者と日常的な高校生活との葛藤を扱った高校生の演劇「シュレディンガーの猫」(福島県立大沼高校演劇部)と「彼女の旋律」(会津若松ザベリオ学園高等学校演劇部)の演劇公演が行われ、見に行った。

    まず、なぜ、下北沢で福島県の高校生たちの演劇が上演されたかを紹介しておかなくてはならない。この演劇公演をプロデュースしたNPO法人大震災義援ウシトラ旅団は、「大震災義援ウシトラ旅団は東日本大震災を機に結成されたボランティア団体です。ウシトラ旅団とは、本営のある東京から、東北(艮の方角)に向かって支援の旅に出るの意味を込めた団体名です。任意のボランティア団体として2011年4月に誕生し、地震・津波と福島第一原発事故による被災者、避難者を支援する活動を行って来ました」(ウシトラ旅団サイト)という避難者支援のボランティア団体である。そのボランティア事業の一環として、下北沢における高校演劇公演を行ったのである。

    ウシトラ旅団のサイトには、次のように、この演劇公演について語られている。

    福島県立大沼高等学校演劇部 東京公演を成功させよう

    ★福島の高校生たちの演劇成功に力をかしてください 
     あの忌まわしい地震、津波、原発事故とそれによって故郷を追われた人々。彼らにも私たちと何ひとつ違わない生活がある。食う寝る働く、学校へ通う。新しい命が生まれるし、永久の別れもやってくる。そうした当たり前の日常を彼らはどうやっておくっているのか。
     狭く不便な仮設住宅で、家族バラバラの借上げ住宅で、故郷から遠く離れた見知らぬ土地で……、 一方彼らの今の「日常」は避難先の人々の「日常」と重なりあって、ひと言では言い表せないマダラ模様になっている。
     ここに福島の高校生たちが感じたこと、言いたいこと、彼らのマダラな日常―「シュレーディンガーの猫」があります。その真直ぐな問いかけを大人たちは正面から受け止めなくてはいけない!そう思い東京公演を開催することになりました。
    8月15日~18日の公演期間の内、8月15・16日の二日間は、大沼高校のライバル校である会津若松市のザベリオ学園による松本有子作・演出『彼女の旋律』(福島県高校演劇コンクール第1席 東北地区高校演劇発表会優良賞)との二本立てで上演いたします。こちらも、高校生が被災者の避難所を訪れて起こる出来事を演劇にしたものです。
    高校生の芝居を通して、福島の想いを「演劇の聖地」下北沢で大きく叫んでもらいます。福島からの声をより多くの人々、とりわけ首都圏に住む人々に届けたいと思います。

    ★高校生の体験から誕生した『シュレーディンガーの猫』
     この作品は、震災・津波の被害、そしてそれに続いた福島第一原子力発電所の事故による放射能汚染から逃れるために、会津美里町の県立大沼高校に転校してきた女生徒たちが演劇部に入部したことをきっかけにして生まれました。
     原発事故による避難者である彼女たちの気持ちと、受け入れた学校の生徒の気持ちは、すんなりと一致するようなものではありませんでした。体験をもとに演劇にすることの是非も含めて、多くの葛藤を抱え込みながら、被災者生徒と顧問の先生との共同作業で脚本が書き上げられました。

     二年間、自分の体験について口を閉ざしてきたというSさんは稽古に入って「そんなんじゃ、被災者の気持ちは伝わらない」と、ようやく自らの経験と心の傷を涙ながらに語ったといいます。それを聞いた部員の生徒たちもまた、涙を流しながら彼女(被災者)の心を受け止め、「そこから劇はガラリと変わった」(大沼高校演劇部顧問・佐藤雅通先生)という、本音のぶつかり合いによって成立した演劇です。
     これらの過程が作品の中では見事に表現されています。劇中の「私、生き残ったんじゃない。死ななかっただけ」、「悲しいんじゃない、悔しいんだ」、「箱の中で放射能物質に運命を握られている猫。私達(生きているのか死んでいるのか)どっちなんだろう・・」という独白は、被災者の心のうちの止むことのない動揺、答えの出ない問いかけです。

    ★共に生きていく勇気を呼び起こすために
     クライマックスで畳み掛けられていく、「同情はいらない」。「どんなことがあっても負けない」。「それでも、他人にはやさしくしたい」。「絶対に忘れない」といった台詞は、苦悩を乗り越えようとする被災者と、それに寄り添おうとする生徒たちが共に生きていこうとする勇気の表明です。自然な感情の高揚によって、被災者と本当に手を結んで生きていこうとすることを観客に訴える芝居なのです。
     地元の応急仮設住宅で行われた公演では、涙をにじませた避難者に「私たちの心の中をよく言ってくれた」「生徒たちが避難者の気持ちをここまで感じてくれていた。励まされる思いがした」と感想をもらい、生徒たちもまた「これまででいちばんの拍手をいただいた。(演技者の)みんなも泣いていた。(被災者のS)先輩の気持ちを伝えたかった。(東京公演でも)震災を忘れない、いつまでも心に残る劇にしたい」と語っています(朝日新聞福島版・5月9日付)

     福島のことが忘れ去られようとしている。そんな危惧の声を聞きます。
     私たちはそのような嘆きより、この高校生たちの演劇を通して、被災者とのしっかりとした関係を創っていこう、一緒に生きていくあり方を創っていこう、と呼びかけることを目指します。
     どうか意をお汲み取りのうえ、ご支援・ご協力をお願い申し上げます。
    http://www.ushitora-ryodan.org/311/modules/housing/

    この「シュレディンガーの猫」は、福島県の高校演劇コンクールでは最優秀賞をとった作品だった。しかし、東北大会での評価は低く、全国大会で上演される機会を逸した作品であった。それでも、いわき市で行われた演劇大会に地元枠として推薦され、上演された。それを見たウシトラ旅団のメンバーが感動して、下北沢公演をはかってくれたのであった。この経過を伝える、河北新報の記事を紹介しておこう。

    演じる/同情ではなく伝える「忘れない」/大沼高演劇部3年・増井結菜さん=福島県会津美里町

     「同情は、いらない」
     「どんなことがあっても、負けない」
     「それでも、他人には、優しくしたい」
     福島第1原発事故で避難区域から福島県会津地方に避難した高校生、絵里を演じる。
     劇「シュレーディンガーの猫」は絵里ら2人の転校生、2人を迎えた同級生6人の心の葛藤と友情を描く。15日から4日間、演劇の本場、東京の下北沢で公演する。
     「絵里は悲しみを胸に閉じ込め、努めて明るく生きようとする。言い回しの裏にある感情を表現しなければならない」
     これまでの役で最も難しいと思った。同県富岡町から避難した1年先輩の女子生徒から体験談を聞き、気持ちをつくった。
     同県会津美里町に生まれた。原発から西に約100キロ離れ、被災者ではない。地元の大沼高の演劇部に所属する。
     昨年11月、県高校演劇コンクールで最優秀賞を射止め、12月の東北大会に駒を進めた。上位に入ったら全国大会への道が開ける。
     「重すぎる」
     「見ていてつらい」
     東北大会での評価は厳しかった。入賞を逃し、全国行きの切符は手に入らなかった。
     ことし3月、全国規模の別の高校演劇大会がいわき市で開かれ、地元枠で出た。
     東北大会で受けた評価を教訓に脚本と演出を練り直した。転校生同士で言い争う場面など深刻なシーンを減らす。
     本番では好評を博した。公演を見た東京の被災者支援団体「ウシトラ旅団」のメンバーが気に入り、東京公演の道筋をつけてくれた。
     5月、会津美里町の仮設住宅で演じた。同県楢葉町の住民が暮らす。
     拍手が鳴りやまなかった。観客の一人が避難者の気持ちを代弁してくれたと握手を求めてきた。
     「役が自分のものになったと感じた」
     シュレーディンガーの猫は物理学の思考実験の呼称だ。箱に入れられた猫が放射性物質に生殺与奪権を握られ、外からは生きているのか死んでいるのか分からない状態を指す。
     劇では「生きている状態と死んでいる状態が50%ずつの確率で同時に存在している猫」と説明する。家を追われる実害を受けた避難者、風評被害の憂き目に遭う県民。原発事故が直接的、間接的に影を落とす福島県の現状を表す。
     裏方を含めて19人の部員で取り組む。稽古では劇中と同様に本音をぶつけ合い、駄目出しを繰り返した。
     「みんなで作り上げた舞台。避難者の思い、福島県の思いを伝えたい」
     絵里は同情から特別扱いされ、同級生の反発を買う。触れ合いを深めて次第に分かり合い、最後はお互いに力強く生きようと誓う。
     絵里が言う。
     「(原発事故を)絶対に忘れない」
     同級生が手を挙げて賛意を示し、幕は下りる。
    (阿部信男)

    2013年08月14日水曜日
    http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1109/20130814_01.htm

    ウシトラ旅団のサイトでは、より詳細に、背景事情を語っている。

    ★『フェスティバル2013 全国高校演劇研究大会』(いわき市)
    3月23日・24日に高校生たちの演劇を見に行って来ました。 いくつかの作品を見させてもらったのですが、お目当ては開催県の枠で、最後に上演された福島県立大沼高等学校の『シュレーディンガーの猫~Our Last Question~』でした。

    実はこのフェスティバルは地方ブロックの予選で最優秀を取れずに、夏の全国大会へ行けなかった作品の内から推薦されて、上演が行われるものなのだそうです。
    会津美里町の大沼高校演劇部がいわば全国大会への道を絶たれた時の「講評や批評」について、「東北でも震災被害が風化しつつある」と報じた新聞記事に、ウシトラ旅団の数人が怒りまくったのでした。 むろん、その怒りは、この作品が一等賞を取れなかったという結果についてではなく、生徒たちが福島の問題に正面から立ち向かった演劇に対して、評価する側が「正面から」向きあおうとしなかったらしいことについてでありました。

    事の結果を報じた福島民報はこう書いていました。 『震災と原発事故を題材にした大沼高(会津美里町)の演劇に対し、他校から「重いテーマを重くやられた感じ、疲れる」「(震災を)見せ物にしている」などの講評が寄せられた。審査員の一人も「疲れた」と感想を漏らしたという。結果は本紙既報の通り最優秀でも優秀でもなく、優良賞だった。  審査がある以上、優劣がつくのは当然で、結果についてとやかく言うつもりはない。残念なのは、被災地の視点で問題に真正面から取り組んだ姿勢に対し、冷ややかな見方があった点だ。講評者名は伏せられているが、関係者は「被災しなかった地域の生徒の意見ではないか」と推測している。思いを共有してくれていると信じていた東北での否定的な反応に、部員は落胆している。心を占めているのは悔しさより悲しみだろう』

    旅団長は、怒っておりませんでした。 嫉妬で目が濁る、んな連中はいるだろうし、風化なんていえば「絆」やらのごたくで塗りたくった支援や心持ちは、すぐに風化するに決まっている。
    そんなことより「共感の回路をどう作るか」を考えねばなりませぬ。 というわけで、例のごとく喚いてしまうもんね。 「この演劇、東京でやっちまおうぜ! 評価はそこで見てくれる人にやってもらえばいいじゃん」(後略)
    http://www.ushitora-ryodan.org/311/modules/housing/index.php?page=article&storyid=1

    なんというか、後述するように「シュレディンガーの猫」(『彼女の旋律』もだが)は、被災者と会津地方の一般高校生との「ディスコミュニケーション」を扱っている作品である。しかし、「シュレディンガーの猫」それ自体も、「重いテーマを重くやられた感じ、疲れる」「(震災を)見せ物にしている」「疲れた」などと言われ、「被災地を真っ正面に扱うこと」に対する「ディスコミュニケーション」のはざまで排除されたといえるだろう。

    それに対して、「共感の回路をどう作るか」ことを目的として、東京で(もちろん、東京は「全国」ではないが)上演させたのが、プロデュースした「ウシトラ」旅団だったといえよう。その意味で、今回の公演それ自体が、被災者との間に生じている「ディスコミュニケーション」をどのように対応するのかということに対する一つの取り組みであったのだ。今回の公演自体が、大きな「出来事」であったといえるだろう。
    (続く)

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    2013年4月28日、1952年のサンフランシスコ平和条約発効を記念して、政府主催で「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」が開催され、天皇・皇后も出席した。このサンフランシスコ平和条約は、そもそも前年に開かれたサンフランシスコ講和会議が、中華人民共和国・中華民国・大韓民国・朝鮮人民共和国という日本のアジア侵略の矢面にたった諸国が出席しておらず、ソ連などの社会主義陣営を無視して、アメリカなどの西側諸国のみと講和するというものであり、当時「単独講和」とよばれた。結局、この平和条約は、竹島/独島、尖閣諸島/釣魚島などの中国・韓国などとの領土紛争の発火点となり、さらに、在日朝鮮人などを切り捨てるものでもあった。また、サンフランシスコ平和条約は、沖縄・奄美・小笠原を日本から切り離し、米軍の施政権下に置くものであり、特に沖縄には、多くの米軍基地が設置されており、現在にいたるまで大きな基地負担に沖縄住民は苦しむことになった。また、平和条約と同時に調印された日米安全保障条約によって、日本のアメリカへの従属が決定的なものになった。

    このような意味をもつ「平和条約」による「主権回復」を政府が記念することに対して、沖縄他さまざまなところで抗議活動が行われている。しかし、ここでは、「主権回復の日」記念式典における安倍晋三首相の式辞「日本を良い美しい国にする責任」を読むことによって、安倍晋三らが「主権回復の日」式典にこめた意義や背景となる世界観をみていきたい。

    まず、簡単に、この式典自体を説明しておこう。この式典は、非常に空疎なものである。国会議事堂のそばにある憲政記念館に、国会議員・閣僚・知事ら約390人が集められ、天皇・皇后臨席のもとに、安倍晋三が式辞を読み上げ、衆参両院議長と最高裁長官があいさつし、児童合唱団が「手のひらに太陽を」「翼をください」「believe」「明日という日」を歌っただけというものであり、1時間にみたない。天皇・皇后が退席するとき万歳三唱がなされたが、これは、主催者の意図とは違ったものとされている。結局、安倍晋三の「式辞」を、天皇・皇后臨席のもと、国会議員・閣僚・知事らが聞くというだけのものである。

    この式辞については、産經新聞が28日付で全文をネット配信している。産経新聞の記事をもとに、この式辞をみていこう。

    まず、この式辞は、次のような形で始まっている。

    首相式辞全文「日本を良い美しい国にする責任」
    2013.4.28 22:11

     本日、天皇、皇后両陛下のご臨席を仰ぎ、各界多数の方々のご参列を得て、主権回復・国際社会復帰を記念する式典が挙行されるにあたり、政府を代表して式辞を申し述べます。

     

    61年前の本日は、日本が自分たちの力によって再び歩みを始めた日であります。サンフランシスコ講和条約の発効によって主権を取り戻し、日本を日本人自身のものとした日でありました。その日から61年。本日を一つの大切な節目とし、これまで私たちがたどった足跡に思いを致しながら、未来へ向かって希望と決意を新たにする日にしたいと思います。

    まず、サンフランシスコ平和条約が発効した1952年4月28日を「主権を取り戻し、日本を日本人自身のものとした日」ととらえている。これが、この式典のテーマといってよいだろう。その上で、次のように、昭和天皇の歌をもとに、占領期を回想している。

     

    国敗れ、まさしく山河だけが残ったのが昭和20年夏、わが国の姿でありました。食うや食わずの暮らしに始まる7年の歳月は、わが国の長い歴史に訪れた初めての、そして最も深い断絶であり、試練でありました。

     そのころのことを亡き昭和天皇はこのように歌にしておられます。

     「ふりつもるみ雪にたへていろかへぬ松ぞををしき人もかくあれ」

     雪は静謐(せいひつ)の中、ただしんしんと降り積もる。松の枝は雪の重みに今しもたわまんばかりになりながら、じっと我慢をしている。我慢をしながら、しかしそこだけ目にも鮮やかに緑の色を留めている。私たちもまたそのようでありたいものだという御製(ぎょせい)です。

     昭和21年の正月、日本国民の多くが飢餓線上にあえぎつつ、最も厳しい冬を、ひたすらしのごうとしていたときに詠まれたものでした。多くの国民において心は同じだったでしょう。

     やがて迎えた昭和27年、主権が戻ってきたとき、私たちの祖父、祖母、父や母たちは何を思ったでしょうか。今日はそのことを国民一人一人深く考えてみる日なのだと思います。

    ここでは、まず、昭和天皇に仮託した視点で、占領期が回想されている。「ふりつもるみ雪」として表現される連合国による占領を我慢し、「いろかえぬ松」と表現されているように耐え忍ばなくてはならないとされているのである。あるいは昭和天皇自身はそうなのかもしれない。しかし、占領期の多くの国民が天皇と同じ意識であったわけではない。もちろん、占領による苦しみはあった。しかし、また、戦争責任をとらない昭和天皇も批判されていたのである。

    そして、この7年の中で、現行の日本国憲法は制定され、教育基本法などの現行の法制度の多くはつくられた。しかし、この式辞では、そのような憲法なども、主権喪失の産物であり、日本人自体がつくったものではないということを暗示しているのである。

    そして、この式辞では、国際社会復帰について言及している。この式典の正式名称は、「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」であり、安倍晋三としては、国際社会に参加する契機となったことも、この式典で記念していくべきことなのである。

    61年前の本日、国会は衆参両院のそれぞれ本会議で主権回復に臨み4項目の決議を可決しております。

     一、日本は一貫して世界平和の維持と人類の福祉増進に貢献せんことを期し、国連加入の一日も速やかならんことを願う。

     二、日本はアジアの諸国と善隣友好の関係を樹立し、もって世界平和の達成に貢献せんことを期す。

     三、日本は領土の公正なる解決を促進し、機会均等、平等互恵の国際経済関係の確立を図り、もって経済の自立を期す。

     四、日本国民はあくまで民主主義を守り、国民道義を昂揚(こうよう)し、自主、自衛の気風の振興を図り、名実ともに国際社会の有為にして責任ある一員たらんことを期す。

     以上、このときの決議とは、しっかりと自立した国をつくり、国際社会から敬意を集める国にしたいと、そういう決意を述べたものだといってよいでしょう。

     自分自身の力で立ち上がり、国際社会に再び参入しようとする日に、私たちの先人が自らに言い聞かせた誓いの精神が、そこにはくみ取れます。

     主権回復の翌年、わが国の賠償の一環として当時のビルマに建てた発電所は、今もミャンマーで立派に電力を賄っています。主権回復から6年後の昭和33年には、インドに対し戦後の日本にとって第1号となる対外円借款を供与しています。

    私の目からみれば、主権回復に際して出されたこの国会決議を安倍晋三が述べることは皮肉に思える。しかし、安倍は大真面目でこのことを主張している。つまりは、「日本国民はあくまで民主主義を守り、国民道義を昂揚(こうよう)し、自主、自衛の気風の振興を図り、名実ともに国際社会の有為にして責任ある一員たらんことを期す」ということが主権回復にはこめられていたし、今後の日本も重視していかねばならないというのである。つまり、安倍は自覚としては「民主主義者」であり「国際協調」を旨とする人なのである。他方で、安倍晋三には、「しっかりと自立した国をつくり、国際社会から敬意を集める国にしたい」という意識もある。これは、たぶん「大国主義」ということになろう。

    ただ、では、アジア諸国についてはどうか。安倍が引用した国会決議では「日本はアジアの諸国と善隣友好の関係を樹立し、もって世界平和の達成に貢献せんことを期す。」とある。しかし、安倍が出してきた事例は、経済援助ばかりである。この式辞において、アジア諸国については「恩恵」の対象であり、対等な立場ではみていないのである。日本の「大国」化の反面にはアジア蔑視があるといえよう。

    次に語られるのは、日本の伝統なるものを持ち出して語られる戦後日本の「成功神話」である。しかし、戦後日本において幾許か成功なるものがあったとしても、その成果が否定される時期に語られるというのは皮肉なことである。

    主権回復以来、わが国が東京でオリンピックを開催するまで費やした時間はわずかに12年です。自由世界第2の経済規模へ到達するまで20年を要しませんでした。

    これら全ての達成とは、私どもの祖父、祖母、父や母たちの孜々(しし)たる努力の結晶にほかなりません。古来、私たち日本人には、田畑をともに耕し、水を分かち合い、乏しきは補いあって、五穀豊穣(ごこくほうじょう)を祈ってきた豊かな伝統があります。その麗しい発露があったからこそ、わが国は灰燼(かいじん)の中から立ち上がり、わずかな期間に長足の前進を遂げたのであります。

    そして、次に、サンフランシスコ平和条約のもつ不十分さが語られることになる。

     

    しかしながら、国会決議が述べていたように、わが国は主権こそ取り戻したものの、しばらく国連に入れませんでした。国連加盟まで、すなわち一人前の外交力を回復するまで、なお4年と8カ月近くを待たねばなりませんでした。

     また、日本に主権が戻ってきたその日に奄美、小笠原、沖縄の施政権は日本から切り離されてしまいました。とりわけ銘記すべきは、残酷な地上戦を経験し、おびただしい犠牲を出した沖縄の施政権が最も長く日本から離れたままだった事実であります。

     「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国の戦後は終わらない」。佐藤栄作首相の言葉です。沖縄の本土復帰は昭和47年5月15日です。日本全体の戦後が初めて本当に終わるまで、主権回復からなお20年という長い月日を要したのでありました。沖縄の人々が耐え、忍ばざるを得なかった戦中、戦後のご苦労に対し、通り一遍の言葉は意味をなしません。私は若い世代の人々に特に呼び掛けつつ、沖縄が経てきた辛苦に、ただ深く思いを寄せる努力をなすべきだということを訴えようと思います。

    日本の国連参加が遅れたのはソ連の拒否権発動であったためであり、その意味で、おぼろげに「単独講和」であった平和条約の問題性がふれられている。より鮮明にあらわれているのは、沖縄・奄美・小笠原が日本から切り離されたということである。ただ、この式辞では、結局のところ、これらの諸地域が日本から切り離されたことだけが問題にされている。独立論すらあった沖縄において、日本から切り離されたことだけが、苦難だったわけではない。多くの米軍基地が設置され、アメリカに統治されたことのほうが、戦後の苦難としては大きいのである。この式辞では、米軍の「加害」にはふれず、日本の施政権下にあったかなかったかといういわばナショナリスティックなことだけが「苦労」とされているのである。

    そして、ここで、かなり唐突に、東日本大震災に対する国際的支援についてふれている。

     

    わが国は再び今、東日本大震災からの復興という重い課題を抱えました。しかし同時に、日本を襲った悲劇に心を痛め、世界中からたくさんの人が救いの手を差し伸べてくれたことも私たちは知っています。戦後、日本人が世界の人たちとともに歩んだ営みは、暖かい、善意の泉を育んでいたのです。私たちはそのことに深く気付かされたのではなかったでしょうか。

    中でも米軍は、そのトモダチ作戦によって、被災地の人々を助け、汗と、時として涙を共に流してくれました。かつて熾烈(しれつ)に戦った者同士が心の通い合う、こうした関係になった例は、古来まれであります。

    こういうことに東日本大震災をひきあいにだすのなら、より被災者によりそった形で復旧をはかってほしいと思う。ただ、それはともかく、ここで式辞が主張していることは、国際社会、とりわけ米軍が、日本に対して救いの手をだしてくれたということである。まず、国際社会=米軍という意識がそこにあるといえよう。安倍晋三らにとって、国際社会とはつまり米軍のことなのである。そして、さらに、ここで米軍の「救いの手」を強調することで、沖縄が実際に味わってきた米軍による加害が無効化されるのである。

    そして、ある意味では危機感をあおりつつ、次の三点にわたって、安倍は日本の将来的課題を述べて、この式辞を終えている。

     

    私たちには世界の行く末に対し、善をなし、徳を積む責務があります。なぜなら、61年前、先人たちは日本をまさしくそのような国にしたいと思い、心深く誓いを立てたに違いないからです。ならばこそ、私たちには日本を強く、たくましくし、世界の人々に頼ってもらえる国にしなくてはならない義務があるのだと思います。

     戦後の日本がそうであったように、わが国の行く手にも容易な課題などどこにもないかもしれません。しかし、今61年を振り返り、くむべきは、焼け野が原から立ち上がり、普遍的自由と民主主義と人権を重んじる国柄を育て、貧しい中で次の世代の教育に意を注ぐことを忘れなかった先人たちの決意であります。勇気であります。その粘り強い営みであろうと思います。

     私たちの世代は今、どれほど難題が待ち構えていようとも、そこから目を背けることなく、あのみ雪に耐えて色を変えない松のように、日本を、私たちの大切な国を、もっと良い美しい国にしていく責任を負っています。より良い世界をつくるため進んで貢献する、誇りある国にしていく責任が私たちにはあるのだと思います。

     本日の式典にご協力をいただいた関係者の皆さま、ご参加をくださいました皆さまに衷心より御礼を申し上げ、私からの式辞とさせていただきます。

    まず、第一点は、「大国化」である。安倍は「私たちには日本を強く、たくましくし、世界の人々に頼ってもらえる国にしなくてはならない義務がある」としている。

    第二点は、「民主主義」の堅持ということになろう。一応、自由民主党は党名に「自由」と「民主」をいれている。彼らは「普遍的自由と民主主義と人権を重んじる国柄を育て」ていくというのである。皮肉にしか思えないが、結局、国際社会ーアメリカー米軍の前提のもとでしか主権維持はありえないのであり、アメリカの価値観からおおいにはずれるような政体は許されないということになろう。いうなれば、「主権回復」=「国際社会復帰」というこの式典のネーミングは、意外に深い問題を指し示しているといえる。もちろん、安倍にとって、国際社会なるものは第一義的にはアメリカである。「主権回復」=「対米従属」と考えれば、より状況を明確にとらえられるといえよう。

    第三点は、再び昭和天皇の「松」を出し、日本を「もっと良い美しい国にしていく」ということを課題としている。「もっと良い美しい国」というのはまったく抽象的でとらえどころがないのだが、ここで昭和天皇の「松」が出されていることによって、意味内容が暗示されている。つまり、雪にたとえられる占領期の圧力からの「解放」がここでは意味されているといえよう。そこには、戦後憲法も含まれるのである。

    安倍晋三の式辞を見る限り、このような意義が「主権回復の日」式典がこめられているといえよう。しかし、ここには矛盾も内包している。主権回復と国際社会復帰が重ね合わされており、それは究極的には、主権維持=対米従属ということに結びついているといえる。もちろん、このこと自体が矛盾の塊だが、とりあえず、さしあたっては、日本国家は、アメリカの価値観から大きく外れるわけにはいかないということになるだろう。安倍も「民主主義者」を自称し、自由民主党も「自由」と「民主」を党名にするという皮肉な事態がそこには発生する。

    他方で、昭和天皇の「松」と「雪」に暗示させているように、彼らのいう占領期の憲法などの「押し付け」を打破して「主権回復」にふさわしい「もっと良い美しい国」をつくるという欲望がここには表出されている。しかし、そもそも、彼らのいう憲法などを「押し付けた」のもアメリカであり、もし彼らがいうように「もっと良い美しい国」などというものを確立したとして、アメリカが認めない可能性が生じるのである。結局、この主権回復の日記念式典の安倍晋三の式辞は、安倍などの日本の歴代政権がかかえている矛盾を、ここでもまた表出させているといえよう。

    典拠:http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130428/plc13042822120012-n1.htm

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