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Posts Tagged ‘東北電力’

さて、猪瀬都知事の辞任を受けて、2月9日に都知事選が行われることになった。脱原発などを公約に掲げた前日弁連会長の宇都宮徳児がいち早く立候補を表明、共産党・社民党が推薦した。また、石原慎太郎個人の応援を受けた形で元空幕長の田母神俊雄も立候補の記者会見を行い、元首相の細川護煕も脱原発を旗印に掲げて立候補を検討していると伝えられている。他方で、元厚相・元参議院議員舛添要一も無所属で立候補し、自民党などの推薦を受けることになると報道されている。

今回の都知事選の一つのテーマは、原発問題である。宇都宮・細川は「脱原発」を標榜している。そして、田母神は、自身のブログで、2013年3月20日に、低線量放射線は有害ではなく、むしろ有益だなどとしながら、次のように指摘している(田母神の原発論については、機会をみて紹介したいと考えている)。

我が国では長い間歴史認識の問題が、我が国弱体化のために利用されてきた。しかし近年では多くの日本国民が真実の歴史に目覚め始めた。そこに起きたのが福島原発の事故である。左向きの人たちは、これは使えるとほくそ笑んだ。そして今ありもしない放射能の恐怖がマスコミ等を通じて煽られている。原発なしでは電力供給が十分に出来ない。電力が不足してはデフレ脱却も出来ない。不景気が今のまま続き学校を卒業してもまともな就職も出来ない。放射能認識は第二の歴史認識として我が国弱体化のために徹底的に利用されようとしている。
http://ameblo.jp/toshio-tamogami/entry-11494727117.html

他方、自民党の推薦を受けるとされる舛添はどうなのだろうか。彼が当時代表を勤めていた新党改革の公約集「新党改革約束2012」(2012年11月27日発表)では、次のように宣言している。

改革その3 原発に依存しない社会の構築

福島の原発事故をしっかりと反省し、原発に依存しない社会を構築します。近い将来には、原発をなくすためエネルギー政策の大転換を図ります。そのために、地域が主体となる再生可能エネルギーの開発を進め、個々人の意識改革と社会全体や生活の仕方の構造改革等を行い、実現します(後略)。
http://issuu.com/shintokaikaku/docs/manifest/14?e=1872444/2703599

漸進的な「脱原発」とでもいえるであろう。しかし、舛添は、3.11以前から、このように主張していたわけではない。舛添要一は、1996年に『諸君』1996年10月号に寄稿した「巻原発『住民投票』は駄々っ子の甘えである」という文章を発表している。。この当時、東北電力は、新潟県巻町(現新潟市)において原発建設計画を進め、町当局に工作していた。しかし、反対運動は、推進派町長のリコール運動や住民投票実施を求める運動などを展開して対抗した。その結果、1996年8月4日に原発建設の是非を問う住民投票が実施され、原発反対派が約60%の得票を得た。2003年12月に東北電力は巻原発建設撤回を正式に表明するが、その一つの契機となっている。

この、巻町の住民投票について、舛添は、表題において「巻原発『住民投票』は駄々っ子の甘えである」としている。そして、リード文では「住民投票を礼賛する世論が衆愚政治を生み、大衆民主主義をおぞましい独裁に変えるのだ」と主張している。

舛添は、そもそも「住民投票」について、不満をあらわにしている。次の文章をみてほしい。

 

町民によって正当に選挙された町議会が、そして町民が直接選挙によって選んだ町長が決定したことには、たとえそれに反対であっても従うのが民主主義のルールというものである。その手続きが住民投票によって無視されるとすれば、それこそ巻町の民主主義は危機に瀕していると言ってよい。町民の直接選挙によって選ばれた町長の正統性はいわずもがな、町議会が多数決原理にもとづいて決めたことが軽んじられ、住民投票のほうが正統性に上であるのような錯覚を持つとしたら、代議制民主主義は成り立たない。

そして、住民投票の制度化を真剣に検討すべきとした朝日新聞朝刊1996年8月5日号の社説「巻町の住民投票が示した重み」を批判しながら、こう指摘する。

…そのような考え方こそが、衆愚政治を生むのであり、大衆民主主義をおぞましい独裁に変えるのである。
 20世紀のドイツにおいて、「選挙では味わえない充実感」(前述の朝日新聞社説中の表現…引用者注)を求めて、大衆がたどり着いた先は、天才的デマゴーグ、ヒトラーである。ニュルンベルクのナチ党大会において、「ハイル、ヒトラー!」と叫ぶ何十万という大衆は、確かに「選挙では味わえない充実感を感じとった」であろう。しかし、この現代の独裁の帰結は、ユダヤ人の大量虐殺であり、戦争であった。直接民主主義は独裁に正統性を与える危険性がある。そのリスクを回避する知恵のひとつが、間接民主主義、代議制民主主義なのである。

さらに、舛添は、フランスのルイ・ナポレオンが1851年のクーデター後、翌年の人民投票によって憲法を改正して帝政を復活し、ナポレポン三世になっていったことをあげ、「人民投票が第二帝政を誕生させたことを忘れてはなるまい。ナポレオン三世を生んだフランスの大衆もまた、人民投票に参加することによって、「選挙では味わえない充実感」に浸ったに違いないのである」と述べている。

ただ、舛添は、住民投票による世論の表明の力を軽視していたわけではない。投票結果について法的拘束力はないとしながらも「しかしながら、これはあくまで形式論であり、住民が投票によって決めたことを、首長や議員が覆すことは不可能と考えてよい。実質的には、住民投票は拘束力を持たざるをえないのである」と指摘している。

このように論じた上で、舛添が住民投票による世論の表明の力を無化するために持ち出しているのが「国のエネルギー政策の一環としての原発」である。舛添は、次のように主張する。

 

原発建設は国のエネルギー政策の一環であり、ある特定の地域の意向に左右されるべきでものではない。基地問題についても同様で、国の防衛政策に関わる問題なのである。一地域の住民が、住民投票という手を使って国の政策の根幹を覆すことができるとすれば、そのような国はおよそ国家とは言いがたいのである…人口三万人の町が住民投票によって国の政策を拒否することができるとすれば、残り1億2500万人の日本国民はどこでどのように自らの意思を表明すればよいのだろうか。国会や国会議員は何のために存在しているのであろうか…ある地域が国の政策に対して反乱を起こすときは、最終的にはその国から独立する覚悟がなくてはならない。国からの補助金は懐に入れる、しかし国の政策には反対するというのでは筋が通らないし、それは駄々っ子の甘え以外のなにものでもない。

そして、住民投票賛成派が持ち出してくると舛添が想定する「人権・自然権」について、「人権や自然権は自分以外の他の日本国民にもあることを忘れている。電気のある快適な文明生活を送ることも、外敵の侵略から生命や財産を守ることも、人権であり、自然権である。これら相対立する人権や自然権を調整することこそ政治の仕事なのである」と反論している。ここでは明示的に書いていないが、そのような「調整としての政治」が「間接民主主義」の課題なのであろう。

舛添は、原発建設の是非を問う巻町の住民投票について、巻町だけでなく、国のエネルギー政策の根幹に関連する問題なのだという。ウラン・化石燃料などの天然のエネルギー資源には限りがある中で、舛添は、再生可能エネルギーにもました日本で生み出すことができるプルトニウムに期待をかける。そして、すでに、日本の電力の34%が原子力により生産されているとした上で、このように述べている。

 

このような日本のエネルギーをめぐる状況を考えると、あえて議論を単純化して言えば、電力の約三分の一を供給している原子力発電所を、(1)拒否するならば、省エネに心がけて電力消費量を三分の一減らす、(2)今のような多電力消費型生活を続けるために受け入れる、という選択肢しかないはずである。

最後に、舛添は、原発反対派の人びとにこのように呼びかける。

 

もし巻町の原発反対派の人たちが、住民投票に向けての運動の中で、同時に省エネ運動を実行していたら、はるかにその主張は説得力を増したであろうし、また地域エゴという非難にさらされることもなかったであろう。エネルギー問題は国民全体の関心事でなければならない。
(中略)
 「地方の反乱」が地域エゴと非難されないためには、少なくとも反乱のリーダーが、自分たちの主張を国の政策とどう調整させていくのかという視点を欠いてはなるまい。そして、そのようなリーダーシップは、マスコミ向けのパフォーマンスからは生まれないのである。

1996年の舛添は、まず第一に、住民投票のような人びとが直接に民意を表明することについて、ナチズムやポナパルティズムのような「独裁」につながっていくと述べている。このような考え方は、舛添だけではない。東京大学法学部教授長谷部恭男も『憲法とは何か』(岩波新書、2006年)の中で同様の意見を述べている。彼らにすれば、選挙代表によってなされる間接民主主義だけが民主主義なのである。

第二に、舛添は、国策全体にかかわることは、自治体だけで決めるべきではないとする。ここで行われた住民投票は、巻町に原発を設置するかどうかということであり、日本全国において原発を建設するかどうかを問うたものではないのであるが。ここでは引用しなかったが、随所で舛添は1995年の沖縄米兵少女暴行事件後に激しく展開された沖縄の反基地運動についても同様の論理で批判している。その上で、国策に反するような運動は、補助金の停止など、相応の覚悟が必要であるとしている。彼によれば、そのような覚悟のない運動は「駄々っ子の甘え」なのである。

第三に、舛添は、資源の乏しい日本において、プルトニウムは貴重なエネルギー源であるとしつつ、最早電力の三割以上にもなった原子力発電については、徹底的な節電をするかしないか二者択一だとしているのである。

1996年の舛添要一はこのように考えていた。舛添は、考え方を変えたのであろうか。舛添が推薦を取り付けようとしている自民党の安倍政権は、原発再稼働を進めようとしている。例え、現時点で舛添が「脱原発」を掲げたとしても、エネルギー源確保としての原発が国策として維持されるならば、自治体レベルで異論をさしはさむことはできないことになるだろう。そして、そのような原発政策に対する反対運動は、彼にとっては、公選首長や議会の正統性を脅かし、間接民主主義を破壊し、ナチズムやボナパルティズムのような独裁へ導いていくものとして認識されることになるだろう。脱原発は、ただ、それを政策として掲げればよいというものではない。民意を少しでも反映し、それぞれの地域の自立性を尊重して政治を進めていくという、民主主義と地方自治の課題が横たわっていることを、1996年の舛添の議論は逆説的に示しているといえる。

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ここで、福島県浪江町・小高町(現南相馬市)に建設される予定であった東北電力浪江・小高原発建設反対運動についてみておこう。このことについては、反対運動の指導者舛倉隆への取材に基づいたルポルタージュである恩田勝亘『原発に子孫の命は売れないー舛倉隆と棚塩原発反対同盟23年の闘い』(七つ森書館 1991年)が克明に記載している。同書に依拠しながら、成立期の反対運動の論理をみていこう。

東京電力の福島第一原発が立地するにあたり、浪江町も候補地の一つとなり調査された。そして、東北電力労組出身で民社党所属の福島県議浜島隆の示唆により1967年5月26日に浪江町議会が原発誘致促進の決議をあげ、福島県や東北電力に陳情するにいたった。そして、1968年1月4日、木村守江福島県知事により、東京電力の福島第二原発建設計画とともに浪江町棚塩地区・小高町浦尻地区にまたがって東北電力によって原発を建設することが発表された。

しかし、浪江・小高原発建設計画は、浪江町議会で誘致決議があげられているにもかかわらず、建設される地点付近の住民にも、一般町民にも、1968年1月4日の知事発表までふせられていた。そのため、建設される地点付近(浪江町棚塩地区、小高町浦尻地区)の住民は強く反発し、反対運動が結成されるようになった。すでに、1968年1月21日には、「浪江原子力発電所建設誘致反対決議」が出されている。ここで、まず、紹介しておきたい。

浪江原子力発電所建設誘致反対決議
 東北電力株式会社は、昭和四十三年一月五日早々に、相馬郡小高町浦尻地区の一部を含む双葉郡浪江町棚塩地区一円を原子力発電所建設予定地として内定した旨の正式発表をし、去る一月十三日、浪江町長を通じ、用地の確保について関係地域民に対する協力方の説明がなされたが、関係地域農民としては事前に何らの話し合いも説明会もないままに建設予定地として内定されたことは、まさに、農民の権利と利益を無視し、工業優先、地域開発の美名のもとに、我々農民の多年に渉る努力によって培われてきた土地を収奪し、生活権を侵害する以外のなにものでもない。
 我々は、あらゆる圧迫に屈することなく、いたずらな言動に迷わされることなく、農民自身の利益を守るため、あらゆる力を結集して断固反対するものである。
 おもえば当該地域には水田、畑、採草地、放牧地、山林、入植増反地及び墓所など様々の形態を示し、そのほとんどが約五百戸に及ぶ地域農民の所有地である。特に、戦後に於ける農地改革によって山林の三分の二はすでに入植地や代替地として解放され、一戸当りの山林所有面積が平均化し、所有地の減少をみるに至っている。加えて、その後農業基本法の立法化に伴い農業の選択的拡大を図り水田酪農による経営の安定を目指して、解放後の限られた山林を改良しつつ、家畜の粗飼料を確保、これを活用して畜産振興への途を拓いたのである。とりわけ、水田単作地帯である当地区は、必然的に畑地が少なく、個々の所有地は零細化され、僅かに自給野菜を生産するに止まる状態である。
 また、農業近代化を推進する農林省並に県の強力な指導助言により四十年度には、第二次開拓営農振興法に基づく入植地の耕土改善事業に着手、水田酪農を基本とする飯米自給農家の育成に力を注ぎ過去三年間の努力によって開田作業が急ピッチで進められ、漸次経営安定に向いつつある農家も少なくない現状である。
 しかも、全戸が農家であり、水田単作地帯であるために、これら地勢的条件を生かして農業の近代化を図り、格差のない豊かな生活を保証していくためには、海岸線一帯に展開されている山林の開発により、開田、開畑、及び牧野改良による自給飼料の確保がどうしても必要であることはいうまでもない、これらの豊かな自然条件を電源基地として失うことは、農民としてまことに忍び難いものがある。
 例えこれらの見返りとしての補償金を得たとしても、いったん手放した農地は再びわれわれの手には還らない。農民にとって土地は生きるすべてであり、農民のいのち、こころのふるさとである。いわんや、祖先以来営々として、生きかわり死にかわりしつつ、絶ゆることなく耕してきた貴重な遺産である。
 今後、営農の規模拡充のため、益々山林はその必要性を増し、且つ高度利用化に専心すべき時期に来ている。養蚕経営と併せて昭和四十二年一月より逐次開田または開畑による耕地の増反が年次計画として第一歩をふみ出している矢先でもあり、金ヶ森の堤の改修ならびに掛け入れ耕土の構造改善を計画し、基盤整備をすすめようとしている現状にある。一方すでに開発された農免道路の新規開通によって果樹園形成の第一候補地として、若い農業後継者たちの期待もきわめて大きいものがある。特に波浪による山林の浸蝕を防ぐため護岸推進もそのためである。
 以上のような土地利用上の特殊事情にある当地域としては仮りに東北電力のいうような広大な土地を必要とする原子力発電の用地として転用された場合は、今まであらゆる努力を傾注して築き、且つ夢みてきた繁栄する地域農村のビジョンは一場の夢と消えさるのみか、土地を提供することによって徒らに耕地が細分化され生産意欲は減退し、農林省のいう生産基盤の拡大はおろか、益々小規模農家が増えることは必至である。なかんずく開拓農家に至っては完全な失業者に転落することは明白な事実であると言わねばなるまい。
 我々は、このような自滅への道を辿る愚さをお互に戒しめ相共に固い団結の力によって財産権の不可侵を主張し、働らく農民の利益を守るため、あらゆる障害を排除して、この土地を守り抜くことを誓うものである。従って、我々の土地を東北電力の原子力発電基地にすること及びこれを誘致しようとする町当局のあらゆる措置に対し、慎重で且つ良識ある反省を促しながら断固反対するものである。
右、決議する。
 昭和四十三年一月二十一日
            浪江原発建設絶対反対棚塩・浦尻地域住民
            小高・浪江一般町民反対者決起期成同盟町民大会
(恩地『原発に子孫の命は売れないー舛倉隆と棚塩原発反対同盟23年の闘い』)29頁

この決議文は、いくつかの特徴を有している。まず、この決議文は、農地解放後の農政の展開を前提として、山林も漸次開拓したり畜産飼料の採取地とするなど将来的に利用することによって、それぞれの農家が経営を安定させ、その上で、「地勢的条件を生かして農業の近代化を図り、格差のない豊かな生活を保証」することをめざしてきたとしている。そして、原発建設による大規模な用地買収は「今まであらゆる努力を傾注して築き、且つ夢みてきた繁栄する地域農村のビジョン」を消し去るものとしているのである。このような反対運動の論理は、原発建設が工業化推進を前提とすることと大きく違っているのである。

このような論理は、同時期の福島第二原発建設に対する富岡町毛萱地区の反対運動にもみてとれるが、この決議文では、より鮮明にあらわれているといえよう。浪江町・小高町の周辺住民にとって、原発建設とは「農民の権利と利益を無視し、工業優先、地域開発の美名のもとに、我々農民の多年に渉る努力によって培われてきた土地を収奪し、生活権を侵害する」ものなのであった。

さらに、「農民にとって土地は生きるすべてであり、農民のいのち、こころのふるさとである。いわんや、祖先以来営々として、生きかわり死にかわりしつつ、絶ゆることなく耕してきた貴重な遺産である。」とまで指摘している。まずは、祖先以来の土地を守っていくこと、それが彼らの心情の基礎にあったといえる。

これは、ある意味で、この棚塩地区のあり方にねざしたものであった。棚塩地区は、浜通りでは数少ない水田耕作が盛んな地域であった。農業だけでも経営が安定できる条件を有していたのである。原発敷地予定地の大半は山林・桑畑であったが、この時期は、そのような土地に対しても、開田・開畑や家畜飼料採取地として利用することによって、農業経営を安定化させようとしていたのであった。そのようなことが、この決議文の背景にあるといえるのである。

他方、この決議文では、かなり長文でありながら、原発固有の、放射能問題が全くふれられていないことにも注目しておかねばならない。恩地前掲書では、広島の原爆体験を有する住民もいて、放射能の問題について発言していたようであるが、この決議文には反映していないのである。ただ、恩地前掲書によると、しだいに反対運動側も放射能問題について学習していったのである。

この運動の後の経過については、別の機会にまわしたい。しかし、この浪江・小高原発建設反対運動の端緒となったこの決議文を読んでいると、複雑な感慨にとらわれる。この浪江・小高原発建設反対運動は、原発建設反対運動の中では成功した部類であるといえる。運動の指導者舛倉隆の死後も、東北電力は浪江・小高原発建設着工はできず、3.11を迎えた。しかし、3.11以後、この地域も含めて、浪江町一帯は福島第一原発事故のために、居住が困難な地域になってしまった。そして、結局、「農民にとって生きるすべてであり、農民のいのち、こころのふるさと」であった「土地」は、この地域の反対運動の帰趨とは無関係に失われてしまったのである。そこには「歴史」の「残酷さ」が表出されているといえよう。

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福島第一原発事故を契機に、再び、電力の自由化が議論されている。北海道、東北、東京、中部、北陸、関西、中国、四国、九州の九つの電力会社がそれぞれの地域電力供給を独占している状態を打破し、電力を自由化しようというのである。

電力供給が独占されていることは、かなり前から始まっている。1938年の電力国家管理法に基づいて、1939年に日本発送電株式会社が成立し、1941年の配電統制令によって国内すべての電気事業者を傘下に統合した。戦時国家統制によって電力の独占が開始されたとみてよいだろう。

戦後、GHQの発したボツダム政令によって、1951年5月、日本発送電株式会社は解体され、九つの民間電力会社が成立した。これが今の電力会社体制である。しかし、この時も、特定の会社が電力供給を地域独占することは変わらなかった。

このように、電力が自由化されていた時代はかなり前である。その時の状況は、どのようなものであっただろうか。福島県総合産業審議会が1950年4月に発表した福島県産業綜合振興計画は、国家統制以前において電力が豊富に得られたことが福島県の工業化の一因であったと、次にように指摘している。

第一に本県が水力電気の生産県であること。
これは他の如何なる条件にも増して本県の非常な強味であり、特に電気料金に国家統制がなく、原価によって地域差があり、就中余剰電力を生じる場合には極めて有力な工場誘致条件をなすものである。本県の発電所は関東への送電のため開発されたと云われるけれども、大正末期以来、磐梯山麓、郡山付近、浜にかけて電力利用の工場が幾つか建設され、それが本県の化学工業及電気炉利用工業の主力をなしている。これらの工場の多くは、その電力料金が東京の二分の一又はそれ以下で、余剰電力の利用については地元としての利点を充分に発揮出来るか、又は自家発電を持ち得た時代に設けられたものである。若しこの電力利用上の強味がなかったならば、他県から原料を持込み、または製品は他県に持ち出しているような電気炉精錬工場及び電解法工場は本県に設置されなかったであろう。(『福島県史』第14巻、1969年、p78)

もちろん、過当競争など、自由化による弊害もあったと思う。しかし、ここでは、戦前の福島県では、地域における水力発電を生かして、低コストで安定的に電力が得られたことを、電力多消費型の工業を誘致し得た要因としているのである。

これは、現代の自由化においても、参考になることだと思う。地域独占している電力会社の域内の電力料金は、基本的に同じである。発電所が多数設置されていても、その地域の電力料金が安くなることはない。特に、福島県内では、東京電力に電力を供給する多くの発電所があるにもかかわらず、割高な東北電力から電力が供給されるため、東京電力管内よりも電力料金が高い場合さえある。しかし、戦前においては、水力発電など多くの発電所を擁していた福島県では、その電力を利用して、工業化が行われた。このようなことは、現代の電力自由化でもありえることである。現代において、必要以上に電力を消費することは問題であろうが、低コストの電力供給によって、地域開発をささえることは、現代の電力自由化でも考えられるであろう。

しかし、戦時国家統制により電力事業が独占されると、このメリットはなくなった。そのため、この計画では、「電力の地元使用」を主張している。

 

電力の利用については、原価主義により電力料金に地域差を設け、極力近距離の送電範囲内にて使用することが、国家資源としての電力活用上最も合理的であり、殊に本県の産業振興上極めて重要であるので、この方針の徹底を期成する。
 元来本県は有力な水力発電県でありながら、発生電力の大部分を関東方面に供給し、地元の利用は比較的僅かであった。…併し電力はこれを遠距離に送電すればロスもあり、亦巨額の送電設備費を必要とするので、電力を多量に消費する工業はこれを発電地帯付近に設けるのが電力経済上最も合理的である。況んや本県下の電力利用工業の現状を見るに、電力地元県であり乍ら電力不足のため、折角の工場設備を充分稼働し得ない状況にある。従って、少なくとも今後開発される電力については極力地元消費の充足を第一義的に実現するよう促進すべきである。(『福島県史』第14巻、1969年、p.p70-71)

いわば電力の「地産地消」を求めたといえる。この計画では、水力発電を中心とする奥只見電源開発についても言及されているが、その電力はまず地元消費に向けられるべきものとしている。

そして、福島県議会も当時の福島県知事大竹作摩も、地元に優先して配電することを主張した。九電力会社が成立した後であるが、大竹は1951年6月の福島県議会定例会で、このように発言している。

只見川流域で発生した電力のすべては小名浜、塩釜など東北工業化のために使わねばならない。(『福島県史』第15巻、1968年、p1357)

福島県は、奥只見電源開発に積極的であったが、その背景には、電源開発により、その電力を使っての地域開発を望む意識があったといえるのである。それは、ある意味では、電力の地域独占により阻害された地域開発を継続していこうということであった。そして、このような意味で電源開発を望む意識は、後の原発誘致の底流にも流れていたと思われる。

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さて、再び、1960年代の福島県をみてみよう。福島県で正式に原発受け入れ方針を表明したのは、1960年である。もう一度、『東京電力三十年史』(1983年)をみてみよう。

 福島県の双葉郡は六町二か村からなり、南の小名浜地区は良港や工業地帯をもち、また北の相馬地区は観光資源のほか、小規模ながら工場もあるのに対し、双葉郡町村は特段の産業もなく、農業主導型で人口減少の続く過疎化地区であった。したがって、県、町当局者は、地域振興の見地から工業立地の構想を熱心に模索し、大熊町では三十二年には大学に依頼して地域開発に関する総合調査を実施していた。 
 こうした地域事情を勘案しつつ、当時の佐藤善一郎福島県知事は、原子力の平和利用に熱意を示し、三十三年には、商工労働部開発課に命じて原子力発電の可能性に関する調査研究を開始するとともに、三十五年には日本原子力産業会議に入会、企画開発担当部門のスタッフにより、県独自の立場から双葉郡内数か所の適地について原子力発電所の誘致を検討していた。そのうち大熊町と双葉町の境にあり、太平洋に面する海岸段丘上の旧陸軍航空隊基地で、戦後は一時製塩事業が行われていた平坦地約一九〇万平方メートルの地域を最有力地点として誘致する案を立て、当社に対し意向を打診してきた。
 当社は、前述の検討経緯もあり、三十五年八月、大熊町と双葉町にまたがる広範な区域を確保する方針を固め、県知事に対し斡旋方を申し入れた。知事は、この申入れをきわめて積極的に受け止め、同年十一月には原子力発電所誘致計画を発表した。
 このように、当社が原子力発電所の立地に着眼する以前から、福島県浜通りの未開発地域を工業立地地域として開発しようとの県、町当局の青写真ができており、この先見性こそ、その後の福島原子力にかかわる立地問題を円滑に進めることができた大きな理由といえよう。

このように、東京電力は、自身でも候補地選定を行いつつも、いわば工業立地による双葉郡の開発をめざした、福島県側の積極的な働きによって、福島第一原発建設を決めたとしている。

福島県企画開発部開発課長であった横須賀正雄も「東電・福島原子力発電所の用地交渉報告」(『用地補償実務例』(Ⅰ) 1968年)でこのように語っている。

 

さきに水力、火力発電に努力してきた本県では、さらに原子力利用による発電事業が、本県内で実施できるかどうかを調査することとし、昭和35年にこれを実施した。
 福島県の海岸線は、南部の小名浜地区、北部の相馬地区を除くとほとんど単調な海岸が南北に連なり、漁業の発展も比較的少ない。この海岸線に着目し、特に中央の双葉郡の海岸線を利用した発電所の建設が可能かどうかを調査した。県内でも双葉郡は別表のとおり産業活動がおくれ、人口も少なく、しかも海岸線は大体海面から30m程度の断崖になっている所が多く、適地がいくつかあることがわかったのでその調査書を作成した。
 調査を行った地点は、双葉郡の大熊町と双葉町にまたがる地点、双葉町、浪江町、この3地点を選び、その地点についての気象条件、気象状況、人口の分布状況、あるいは土地の形態、地目等を調査し、1冊の調査書を作成し、東京電力、東北電力、あるいは電子力産業会議(原子力産業会議の間違いであろう)等に話を持ち込み、検討を願ったのである。
 この結果、東京電力としては内々に原子力発電所建設を意図していたらしく、私どもが提出した資料では、まだ不十分な点があるということから、さらに幾つかの調査を東電から依頼された。当時、福島県では財団法人福島県開発公社を設置してあったために、以後の調査等については、この開発公社に依頼し、調査が進められた。その結果、原子力発電所建設地としては十分耐えられるという評価が出されたので、東京電力では、この場所(大熊町)に原子力発電所を建設しようとする意向がほぼ内定したわけである。

横須賀も、福島県側の積極的な働きかけによって福島第一原発の立地が決められたとしている。重要なことは、現在福島第一原発のある大熊町・双葉町だけではなく、より北方の双葉町、浪江町も候補地とされていたことである。さらに働きかけは、東京電力だけではなく、東北電力や日本原子力産業会議にもされていたことである。福島第一原発誘致と同時に他の原発も誘致されていたのである。そして、東北電力による福島県浜通りの原発建設計画は、1968年に浪江・小高原発建設計画として具体化されるが、すでにこの時期から、このことは進行していたのだ。

そして、福島県知事は1960年11月29日に、原発建設を受け入れ方針を正式に表明した。1960年11月30日付読売新聞朝刊は、次のように伝えている。

福島に原子力センター計画 東電が発電所建設へ

【福島発】東京電力はこのほど福島県夫沢地内旧陸軍飛行場と隣接海岸の旧塩田跡に営業用原子力発電所を建設するため地下水ゆう水量を測定するボーリング調査を行いたいと申し入れていたが、二十九日開かれた福島県開発公社第二回理事会(理事長、佐藤善一郎福島県知事)でこの調査を同公社が引き受けることを決めた。調査は来年五月までに終わるが、有望な水脈が確認されれば九電力会社による日本で初めての営業用原子力発電所が福島県に建設される公算が大きい。

 佐藤知事の話では旧飛行場跡と旧塩田を合わせて約三百三十万平方メートルもあり、海岸沿いであることから立地条件は茨城県東海村をしのぐほどで、東京電力は遅くとも十年後に百万キロワットの出力を持つ原子力発電所を設置する意向だという。

一方東北電力も東京電力の建設地の北隣に三十万キロワットの出力を持つ原子力建設計画を進め両社の話し合いは同知事のあっせんでついているので、これが実現すれば茨城県東海村の東海原子力センターにつづいて新しい東北原子力センターが生まれる見込みである。

この記事では、東電の建設計画を福島県が受け入れた形になっている。しかし、東電、福島県双方の記述とも、原発誘致における福島県側の積極的な働きかけを伝えている。その意味で、正式な発表では、福島県側の働きかけは隠蔽されたといえる。

他方、重要なことは、この記事でも福島第一原子力発電所の北側に東北電力が原発を建設する計画があることを伝えている。そして、二つの原発を建設することで、この地域を東海村に比肩する「原子力センター」とすることがうたわれている。後述するが、福島県としては、東電だけではなく、福島県内に電力を供給できる東北電力もこの地域で原発建設を行い、この地域を「原子力センター」とすることを要望したのである。

そして、この方針発表の場が「福島県開発公社」で行われたことにも注目したい。この公社は、調査だけでなく土地買収なども担当していくのである。

この福島県の対応につき、県議会はどのように反応したのか。次回以降みていきたい。

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