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2013年12月19日、猪瀬直樹東京都知事が知事選前に徳洲会から5000万円を受け取った問題で辞任した。

辞任の直接の引き金となったのは、一つには、17日に都議会が偽証の際には罰則がある百条委設置を検討したことがあったといえる。そして、もう一つには、朝日新聞(18日付朝刊)の次の報道である。一部引用しておこう。

 

東京都の猪瀬直樹知事(67)が医療法人「徳洲会」グループから5千万円を受けとっていた問題で、猪瀬氏が昨年11月に徳田虎雄前理事長(75)に面会した際、売却が決まっていた東京電力病院(新宿区)の取得を目指す考えを伝えられていたことが、関係者の話でわかった。今月6日の都議会一般質問で「東電病院の売却は話題になっていない」とした猪瀬氏の答弁は、虚偽だった疑いがある。

 徳田前理事長の意思表示に対し、猪瀬氏も、自らが東電に売却を迫ったことを話したとされ、5千万円はこの面会の2週間後に提供された。猪瀬氏は10日の都議会総務委員会で「徳洲会が東電病院に興味を持っていたことは全く知らない」とも説明していたが、これも虚偽答弁の可能性が出てきた。病院の開設や増床には都知事の権限が及ぶこともあり、辞任を求める声はさらに強まりそうだ。

 猪瀬氏は昨年11月6日、神奈川県鎌倉市の病院に入院中の徳田前理事長と約1時間、面会した。仲介役で新右翼団体「一水会」の木村三浩代表や前理事長の妻・秀子容疑者(75)=東京地検が公職選挙法違反(買収資金交付など)の疑いで逮捕=のほか、複数の徳洲会職員が立ち会った。関係者によると徳田前理事長はこの場で、約1カ月前に決まった東電病院売却に触れ、徳洲会として取得に関心があることを話題にした。

結局、徳田前理事長から、売却予定の東電病院取得に関心が示され、その後で5000万円が無利子・無担保の借出金(猪瀬本人の説明によると)という形で、当時副知事であった猪瀬に提供されたということになる。この記事では、都議会における答弁と食い違いということが指摘されているが、実は、もっと大きな問題がある。徳洲会から東電病院取得の意向が示され、その後5000万円が供与されたということは、贈収賄にあたる可能性があるのだ。

例えば、12月18日、自由民主党の高村正彦副総裁は、次のように語っている。18日に配信された朝日新聞のネット記事をみてみよう。

 

自民党の高村正彦副総裁は18日、医療法人「徳洲会」グループから5千万円を受け取っていた東京都の猪瀬直樹知事について、「都知事としての職務権限と関係する仕事をする人から5千万円の大金を受け取った。この外形的事実だけで、出処進退を決断するのに十分だ」と記者団に語り、辞任を促した。自民党幹部で猪瀬氏の辞任論を公言したのは初めて。

 高村氏は「職務権限と関係なく5千万円受け取っても不思議ではない特別な関係を説明できれば別だが、今までの説明からすれば、そうではないとはっきりしている」と述べ、猪瀬氏の説明は理解を得られないと指摘。「辞任の決断が遅れると、東京オリンピックの準備にも支障が出るし、都知事として招致に成功した大きな功績を台無しにすることになる」と強調した。http://www.asahi.com/articles/ASF0TKY201312180090.html

さて、この東電病院売却問題とはどういう問題なのだろう。朝日新聞(18日付朝刊)は、次のように説明している。

 

猪瀬氏は副知事だった昨年6月、東電の株主総会に自ら出席し、一般患者が利用できない点などから東電病院の売却を強く要求。東電は同年10月1日、経営合理化の一環として、競争入札での売却を発表した。
 徳洲会は今年8月に東電病院の入札に参加したが、9月に東京地検特捜部の強制捜査を受け、辞退。

つまり、昨年6月の東電の株主総会で、副知事であった猪瀬が経営合理化の観点で東電病院の売却を求め、それが実現されて、徳洲会がその入札に応じたということになろう。

ここで、時計を巻き戻して、昨年6月27日の東電株主総会をみてみよう。この株主総会は、東電が政府の原子力損害賠償機構から1兆円の出資を受けることで、実質的に国有化されることが決定させたものであった。現在、東電は、賠償にせよ、除染にせよ、福島第一原発の廃炉処理にせよ、さまざまな点で機能不全に陥っているが、そのような枠組みが確定した総会であったといえる。

そして、この総会で、猪瀬はさまざまな提案をしている。まず、それを当時の朝日新聞に依拠してみておこう。

 

また総会には、筆頭株主の東京都が、顧客サービスの向上や電気料金の透明性を高めることなどを定款に書き込む提案を提出した。猪瀬直樹副知事が出席し、同意を求めた。
(中略)
 東京電力の株主総会では、東京都の猪瀬副知事が約15分間にわたり、株主提案の趣旨説明をした。「東京電力に対する信頼は大きく揺らいでいる。構造改革を後押しする提案を行った」と訴えた。
 猪瀬氏は「新生東電が信頼を取り戻すには、経営の透明性や説明責任を果たすことがかぎとなる」と声を張り上げて主張。「ゼロから再出発をするのに必要なのは社員の意識改革だ」とも述べた。会場からは拍手ややじが飛んだ。
 東電は株主総会前の通知で、都の提案に反対する意向を表明。 都は大株主約400法人に賛同を呼びかける文書を送り、個人株主にもホームページで賛同を訴えた。猪瀬氏は「電気料金値上げに対し、ユーザーを代表して発言した」と語った。
朝日新聞夕刊(2012年6月27日付)

 

東電病院の売却要求 株主総会で猪瀬副知事

 猪瀬副知事は27日の東京電力の株主総会で、東電が所有する「東京電力病院」(新宿区)の売却を求めた。一般利用できない東電の福利厚生施設にもかかわらず、東電の資産売却リストに入っていなかったためだ。
(中略)
 猪瀬副知事は質疑で「資産価値は122億円に上る」と主張。都が今月行った定期調査では、119のベッド数のうち、稼働しているのは20程度だったという。東電の勝俣恒久会長は「どう整理するか早急に検討したい」と述べるにとどまった。
 猪瀬副知事は質疑後、記者団に「1兆円の公的資金が投入されるのだから、当然売却すべきだ」と協調した。
朝日新聞朝刊東京版(2012年6月28日付)

結局、定款変更他の株主総会への提案はことごとく否決されたが、提案事項ではない東電病院の売却は「検討事項」とされて、結果的に実現したということになる。猪瀬の副知事時代の業績の一つであるといえよう。

この東電の株主総会は、大飯原発再稼働を直前に控えた時期で、脱原発の提案が多く出させれてもいた。そんな中、猪瀬は、脱原発にせよ、東電の存続にせよ、いわば「大きな問題」には関心を示さず、「東電」の経営合理化と、「経営の透明性や説明責任」を、筆頭株主である東京都を後ろ盾にして主張したのである。後者の問題は、結局、本人に降り掛かることになるのだが。実際、猪瀬のブログに、東電株主総会での本人分の発言が出ているが、福島のことはほとんど出てこないのである。東電の経営破たんは、福島第一原発事故のためであり、さらにそれは、重い道義的責任もあるのだが、そのようなことは考慮されない。結局、彼にとっては「電気料金値上げに対し、ユーザーを代表して発言した」ということでしかないのである。

そして、最終的に実現したのは東電病院売却であった。そして、この東電病院売却を主張する猪瀬の「言葉」が、徳洲会からの5000万円の供与につながったのである。

この経過を見ると、憤慨にたえないのである。猪瀬は、東電解体や脱原発などの根本的問題には手を付けないまま、経営合理化や説明責任などで東電を「言葉」でのみ追及して、ポピュリズム的人気を得た。それは、たぶんに、この年末に行われた都知事選における猪瀬の圧勝の一つの要因でもあっただろう。他方で、東電病院売却という、猪瀬の「言葉」による業績が、5000万円供与の要因となっている。根本的なところでは、3.11は東京都政の深部を規定しているのだが、そのことをまともに向き合わず、むしろ、いろいろな意味で「言葉」によって弄び、自身の利益につなげようとしたのが猪瀬であったといえるのではなかろうか。そして、このような存在は、猪瀬だけではないのである。

*東電株主総会における猪瀬の発言は、次のブログで読むことができる。

http://www.inose.gr.jp/news/politics/post312/

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前回は、2013年9月9日付朝日新聞夕刊から、その紙面中において、2020年東京オリンピック開催決定を心から喜んでいる人は誰なのかをみてみた。基本的には、経済効果を期待する経済界、自分たちの活動の場が広がるアスリート、五輪関連施設が所在もしくは建設予定の地域の人びとなど、何らかの関係者が多く、加えて、1964年東京オリンピックを経験した年代の人びとが紙面で喜びを表明していたといえる。いわば、何らかの意味で(幻想的なものも含めて)利益を感じる人びとと、1964年東京オリンピックへの回顧趣味を感じている人びとによって「喜び」の声が表明され、それらが新聞紙面を埋め尽くすことによって、「祝祭」感が醸成されているのである。

そういう状況は、9月10日付朝日新聞朝刊東京版にもみることができる。ここでは、28〜29面にわたって「五輪へ夢の始まり 7年後待ってるよ」という見出しのもとで巨大な記事が掲載されている。この記事は、基本的には三つに大別できる。

第一に、アスリートや東京都庁など招致委員会側の動向や発言を伝えている。その部分では、招致アンバサダーを勤めたパラリンピック代表(女子陸上車いす)土田和歌子が喜びの声を発言しており、最終プレゼンを勤めた猪瀬都知事や太田・佐藤選手などによる報告会が都庁都民広場で開かれる予定であることが伝えられている。さらに、板橋区役所で、聖火ランナー写真などの展示が行われること、招致ポスターの撤去や手直しが始まったことが報道されている。

第二に、IOC総会のパブリックビューイングや五輪開催決定祝勝会に参加した人びとの喜びの声が多数収録されている。ここでは、一部紹介しておこう。

 「TOKYO」と読み上げられた瞬間、かたずをのんで見守っていた人たちから歓喜があふれた。8日の五輪開催都市決定は、早朝にもかかわらず、多くの人たちが「その時」を共にした。

 ●選手村予定地・晴海
 「やったー」「すげえ」8日午前5時19分。中央区晴海にあるホテルの宴会場では、この瞬間を待ちわびた子どもたち約20人の歓声が飛び交った。
 44ヘクタールの都所有地がある晴海地区では、選手村の建設が決まっている。「地域の子どもも参加できるイベントを」とパブリックビューイングを企画した新井正勝さん(52)は、地元小学校のPTA会長を4年間務めた。「7年後、選手村や街をつくっているのは子どもたち。『晴海っ子』たちには、どうしたら素晴らしい街にできるか考えてもらいたい」と新井さん。
 晴海にある小学校に通っていた古旗笑佳さん(13)は、「7年後はきっと大学生。今からたくさんの国の言葉を勉強して、通訳ボランティアに携わりたい」と希望に胸をふくらませた。
(後略)

その後、墨田(墨田区立総合体育館)、競技会場予定地・江東(豊洲)、品川、都庁前での景況とそこに集まった参加者の声が報じられている。今回のオリンピックは臨海部を中心とすることが報じられているが、この記事でとりあげている多くの場所がそのエリアであることに注目してほしい。品川も羽田空港に近く、町おこしが期待されている。引用部分にあるように、大人たちが町おこしへの期待を語り、子どもたちはより純粋に何らかの意味での参加を表明するという形で記事は書かれている。つまり、まず、東京オリンピックで町おこしが期待できる地域が「心から」喜びを表明し、パブリックビューイング開催などの形でそれを形に示したといえよう。

さて、この東京地方版では、招致委員会側でもなく、開催により直接の受益もない一般の人びとの意見も収録している。まず、「2020年、東京でオリンピックとパラリンピックの開催が決まった。7年後の夏、世界最大のスポーツの祭典を迎える東京はどうなっているだろう。半世紀前の記憶に重ねる人、冷静に見つめる若者…。9日、都内各地で聞いた。」と述べている。その上で、浅草・巣鴨で老人に、秋葉原で若者にインタビューした記事を載せている。

浅草・巣鴨における老人の意見を一部紹介しておこう。

 

浅草・巣鴨のお年寄りは

 世界各地の観光客を相手にする浅草の仲見世通り。世代交代が進み、1964年の東京五輪の記憶が残る人は多くない。
 カメラ店を営む青木じゅんこさん(65)は当時高校1年生。「バレー部に入っていた頃、テレビにかじりついて、『東洋の魔女』のプレーを必死に追ったわ」と笑う。秋田県から上京し、夫の恒久さん(66)と店に立って約40年。「建物も食べ物も町並みもがらっと変わった。次はどんな五輪になるんだろう。今から楽しみです」
(後略)

この後、浅草の1名、巣鴨の2名のインタビューが掲載されているが、基本的には同じである。高度経済成長期の自らの生きざまに重ね合わせて1964年東京五輪を懐古し、2020年東京五輪への期待を語るということになっている。ここまでは、前日の夕刊の状況とそれほどかわらない。招致関係者、五輪開催の受益者たち、過去を懐古する老人たちによって、新聞の多くの部分が埋め尽くされ、「祝勝ムード」が醸成されているのである。やはり、新聞というものは、結局、一部の人びとのイントレストを、「国民」多数のものに転化させる装置であるといえる。

しかし、朝日新聞の紙面でも、秋葉原の若者たちは全く違った反応を示している。その部分を次に掲載する。

 

アキバの若者たちは

 「クールジャパン」と呼ばれる日本のアニメ文化の発信地・秋葉原。アキバの人たちにとって、同人誌即売会「コミックマーケット(コミケ)」の開催地として定着している「東京ビックサイト」(江東区有明)がレスリングなどの会場になるため、「五輪開催時はコミケがビックサイトでできない」とネットで話題になっていた。
 これまで3度コミケに行ったという、さいたま市の男子大学生は「別の場所、できれば関東でやってくれればいいと思う。スポーツ観戦も好きなので東京五輪は楽しみ」と話す。一方、埼玉県八潮市の女子高校生(17)は「五輪はいいけど、コミケはビックサイト、とインプットされてるので残念」と話す。「7年後はいい年だし、想像つかないけど、景気が良くなっていればいいな」
 中には、五輪の開催自体に疑問の声も。「都合のいいときだけ東北を使うなーと」。ピンク色のメード服で着飾ったフリーターのれいさん(21)。「距離が離れているから(東京の放射能レベルは)大丈夫と言いつつ、『東北のため』というのは矛盾しているんじゃないかな」と話す。「お金を使うなら直接、被災地に使って欲しい。東京五輪が決まったと聞いても、うれしい気持ちはない」と冷めていた。

まず、全体的に、秋葉原の若者は、五輪開催自体ではなく、そのためにコミケが開催できなくなるかどうかに一番の関心をもっている。前二者は、たぶん世論調査では「五輪開催支持」に分類されるのだと思うが、関心の中心はコミケ開催にある。現在の自分の関心事が最優先しており、五輪開催自体は副次的問題になっているといえよう。その点、浅草・巣鴨の老人たちの感想と対照をなしている。

そのような心情の中から、ようやく、明示的な五輪開催への批判がうまれてくるのである。最後の一人は、東北から距離が離れているから東京開催は大丈夫だというにもかかわらず「東北のため」を標榜するのは矛盾だとし、お金を使うなら直接被災地に使ってほしいと述べ、東京五輪が決まってもうれしい気持ちはないとしている。このような批判的意見が、秋葉原の若者の多数意見かどうかはわからない。しかし、自分自身の一番望むものがあるからこそ、五輪開催を相対的にみる雰囲気があり、それが、批判的意見が表明される下地になっていたと考えられるのである。

全体でいえば、9月10日付朝日新聞朝刊東京地方版で報道されている2020年東京オリンピック開催決定に対する東京の人びとの反応は、おおむね三つに大別される。

第一は、五輪関連施設建設予定地の地域住民である。彼らは、街おこしへの期待から、五輪開催決定を喜んでおり、地域でパブリックビューイング開催するなど、期待を積極的に形として示したといえる。

第二は、1964年東京オリンピック開催を経験した老人たちである。彼らは、高度経済成長期を生きた自身の生きざまから先のオリンピックを懐古し、その点から、オリンピック開催を期待している。

第三は秋葉原の若者たちである。彼らにとっては、五輪開催自体よりもそれによりコミケ開催がどうなるかということが第一の関心事であり、五輪開催に賛成しているとしても、それは副次的な問題にすぎない。このような、五輪開催に対する相対的な見方を下地にして、五輪開催についての批判的意見が述べられているといえよう。

もちろん、これは朝日新聞の取材であり、世論調査でもないので、この報道が統計的に有意なものとはいえない。取材にしても、サラリーマンが多く通る新橋とか、消費者を主な取材対象とする銀座での街頭取材については報道していない。それでも、なんとなく、この三つの対応は、東京オリンピック開催についての東京の人びとの反応の類型を示しているように思われる。

もともと、私の疑問は、誰が心から東京オリンピック開催決定を喜んでいるのかということであった。前のブログをあわせて考えると、まずは、経済界、アスリート、五輪関連施設所在地・予定地の地域住民など、東京オリンピックによる受益を期待(幻想的であっても)できる人びとであった。さらに、直接的受益は期待できなくても、1964年東京オリンピックを経験した老人たちは、高度経済成長期を生き抜いた自分たちの生きざまを懐古しながら、東京オリンピック開催に期待をよせている。この人びとが、五輪に「夢」を投影し、その開催決定を喜ぶのは当然だ。しかし、私個人は、こういう人びとを直接知らないし、そういう「夢」自体が理解できないのである。

他方、秋葉原の若者たちは、「コミケ」開催に自分の「夢」を感じている。コミケ開催が五輪開催によって支障をうけるかもしれないこと、それが一番問題なのである。例え、五輪開催に賛意を示していたとしても、それは副次的な問題なのである。その中で、やっと批判的意見が出されるようになる。五輪開催自体に批判的かどうかはおくことにしよう。五輪開催という上から与えられた「夢」に共感するよりも、自分たち自身がなしたいことがあるというのが、彼らの考えといえる。もちろん、私は彼らにあったことはない。秋葉原もコミケも日常的には縁がない。といっても、彼らのメンタリティのほうが理解できる。そして、このようなメンテリティは、秋葉原だけでなく、より一般的に広まっているのではなかろうか。ほとんどの人は、「五輪」のみで生きているわけではない。「五輪」以外にも多くの「夢」があるのである。

こうやってみると、新聞をよく読んでみると、それでも、「国民多数」の中に走っているいくつかのひびをみつけることもできるのではなかろうか。それは、今回はとりあげないが、東京五輪開催決定に対する被災地での対応にも現れているのではないかと思う。

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さて、本日は、2003年に東京都教育委員会が、「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱に関する実施指針」を定め、都立学校の現場で国旗掲揚・国歌斉唱を強力に指導するようになった経緯をみていくことにする。

2003年10月23日の東京都教育委員会にて、「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱の実施について」という通達案議が出された。その別紙として「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱に関する実施指針」が規定されている。まず、この通達案全文をみておこう。

入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱の実施について

東京都教育委員会は、児童・生徒に国旗及び国歌に対して一層正しい認識をもたせ、それらを尊重する度を育てるために、学習指導要領に基づき入学式及び卒業式を適正に実施するよう各学校を指導してきた。
これにより、平成12年度卒業式から、すべての都立高等学校及び都立盲・ろう・養護学校で国旗掲揚及国歌斉唱が実施されているが、その実施態様には様々な課題がある。このため、各学校は、国旗掲揚及び国歌斉唱の実施について、より一層の改善・充実を図る必要がある。
ついては、下記により、各学校が入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱を適正に実施するよう通達する。
なお、「入学式及び卒業式における国旗掲揚及び国歌斉唱の指導について」(平成11年10月19日付11教指高第203号、平成11年10月19日付11教指心第63号)並びに「入学式及び卒業式などにおける国旗掲揚及び国歌斉唱の指導の徹底について」(平成10年11月20日付10教指高第161号)は、平成15年10月22日限り廃止する。

1 学習指導要領に基づき、入学式、卒業式等を適正に実施すること。
2 入学式、卒業式等の実施に当たっては、別紙「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱に関する実施指針」のとおり行うものとすること。
3 国旗掲揚及び国歌斉唱の実施に当たり、教職員が本通達に基づく校長の職務命令に従わない場合は、服務上の責任を問われることを、教職員に周知すること。

別紙
入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱に関する実施指針
1 国旗の掲揚について
入学式、卒業式等における国旗の取扱いは、次のとおりとする。
(1) 国旗は、式典会場の舞台壇上正面に掲揚する。
(2) 国旗とともに都旗を併せて掲揚する。この場合、国旗にあっては舞台壇上正面に向かって左、都旗にあっては右に掲揚する。
(3) 屋外における国旗の掲揚については、掲揚塔、校門、玄関等、国旗の掲揚状況が児童・生徒、保護者その他来校者が十分認知できる場所に掲揚する。
(4) 国旗を掲揚する時間は、式典当日の児童・生徒の始業時刻から終業時刻とする。
2 国歌の斉唱について
入学式、卒業式等における国歌の取扱いは、次のとおりとする。
(1) 式次第には、「国歌斉唱」と記載する。
(2) 国歌斉唱に当たっては、式典の司会者が、「国歌斉唱」と発声し、起立を促す。
(3) 式典会場において、教職員は、会場の指定された席で国旗に向かって起立し、国歌を斉唱する。
(4) 国歌斉唱は、ピアノ伴奏等により行う。
3 会場設営等について
入学式、卒業式等における会場設営等は、次のとおりとする。
(1) 卒業式を体育館で実施する場合には、舞台壇上に演台を置き、卒業証書を授与する。
(2) 卒業式をその他の会場で行う場合には、会場の正面に演台を置き、卒業証書を授与する。
(3) 入学式、卒業式等における式典会場は、児童・生徒が正面を向いて着席するように設営する。
(4) 入学式、卒業式等における教職員の服装は、厳粛かつ清新な雰囲気の中で行われる式典にふさわしいものとする。
http://www.kyoiku.metro.tokyo.jp/kohyojoho/reiki_int/reiki_honbun/g1013587001.html

この議案をみると、国旗国歌法制定(1999年8月)に先立つ1998年にはすでに入学式・卒業式で日の丸・君が代を扱う通達が出されていたことがわかる。1999年に選出された石原慎太郎都知事の前任者青島都知事の時代である。そして、1999年にも通達が出されている。残念ながら、これらの内容については不明である。それに、これら以前から何らかの通達が出されていたかもしれない。

特徴としては、まず、学習指導要領に基づき、入学式・卒業式で国旗掲揚・国歌斉唱を行うものとしているということである。ただ、学習指導要領よりもはるかに細かく入学式・卒業式の形式まで規定している。その上で、「国旗掲揚及び国歌斉唱の実施に当たり、教職員が本通達に基づく校長の職務命令に従わない場合は、服務上の責任を問われることを、教職員に周知すること」と、この入学式・卒業式の国旗掲揚・国歌斉唱は校長の職務命令によって教職員に実施させるものであり、従わない場合は処分することを明示している。このブログで以前とりあげたように、国旗国歌法制定時の国会審議において、有馬朗人文相は、学習指導要領によって学校の入学式・卒業式で国旗掲揚・国歌斉唱を行わせるが、職務命令による実施やそれにそむいた場合の処分は最後の手段にしたいとしていた。

この通達案を教育委員会に提起する際、指導部長(近藤精一)から説明があった。その説明によると、すでに入学式・卒業式の実施指針は存在していたが、それをさらに細かく規定したということである。説明をみていると、現場では「フロア形式」にするとか、教職員がTシャツを着用するとか、いろいろと抵抗していたらしい。そのため、細かく入学式・卒業式の儀式内容を規定することになったとしているのである。

【指導部長】 それでは、入学式及び卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱の実施につきましてご報告いたします。
この間、東京都教育委員会では、児童・生徒に国旗及び国歌に対して、一層正しい認識を持たせまして、それらを尊重する態度を育てるために、学習指導要領に基づいて入学式及び卒業式を適正に実施するよう各学校を指導してきたところでございます。特に、平成11年10月には、入学式、卒業式における国旗、国歌の指導についての通達を出すなどいたしまして、各学校に対し、指導の徹底を図ってきたところでござ
います。
こうしたことによりまして、平成12年度の卒業式から、校長先生方のご努力によりまして、すべての都立学校におきまして、国旗掲揚及び国歌の斉唱が実施されたわけでございます。
しかしながら、その実施形態につきましては、様々な課題があることを、この教育委員会や、また議会、都民の方々から指摘されているところでございます。
そこで、この国旗の掲揚及び国歌の斉唱の実施につきまして、より一層改善、充実を図る必要があるため、本年7月9日に、教育庁内に都立学校等卒業式・入学式対策本部を設置いたしまして、この間、鋭意検討を進めてまいりました。
このたび、この対策本部における国旗掲揚及び国歌斉唱の適正実施についての方針を通達としてまとめましたので、ご報告をさせていただきます。
それでは、通達についてご説明いたしますが、お配りいたしております資料の枠囲いの部分をご覧いただけるでしょうか。
通達は、大きく三つに分けて示してございます。この部分については読ませていただきます。
1、学習指導要領に基づき、入学式、卒業式等を適正に実施すること。
2、入学式、卒業式等の実施に当たっては、別紙「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱に関する実施指針」のとおり行うものとすること。
3、国旗掲揚及び国歌斉唱の実施に当たり、教職員が本通達に基づく校長の職務命令に従わない場合は、服務上の責任を問われることを、教職員に周知すること。
以上が通達の本文でございますが、別紙といたしまして、実施指針を示してございます。
その下に書いてございますが、指針は、やはり大きくは3点示しているわけでございます。
一つは、国旗の掲揚について、一つは、国歌の斉唱について、一つは、会場設営等についてでございます。
それぞれにつきまして、これまでの実施指針を大きく変更した部分等を中心にご説明させていただきます。
まず 1の国旗の掲揚についてでございますが これにつきましては 1 に 「舞台壇上」とございますが、この部分を新たに挿入してございます。これは、正面という概念を明確にするためでございます。
(2)では、都旗について示してあるわけでございますが、これまでは都旗については触れてございませんでしたので、新たに加えたものでございます。
そして2番目の国歌の斉唱についてでございますが、これは(3)の式典において教職員は、会場の指定された席で国旗に向かって起立し、国歌を斉唱することと、(4)の国歌斉唱は、ピアノ伴奏等により行うことを新たに加えてございます。
3番目の会場設営についてでございますが これにつきましては (1 )から( 4 )まですべて新たに加えたものでございます。
( 1 )から( 3 )までは会場の設営について示してこれまでもご指摘されてきているところでございますが、儀式的行事としてふさわしくないフロア形式等の卒業式が見られたということから、この3点を挙げているわけでございます。
そして(4)には、服装について新たに示してございます。これは、昨年のこの委員会でもご報告させていただきましたが、卒業式にTシャツを着て参加するという教員がいたということからも、こうしたことを加えているわけでございます。
恐れ入りますが、2枚目をご覧いただけるでしょうか。
ただいまご説明いたしました通達実施につきましては、本日付でお示した公文書をもって各都立学校長に通達をいたします。
なお、あわせて区市町村教育委員会に対しては、写しを添えて通知いたす予定でございます。
http://www.kyoiku.metro.tokyo.jp/gaiyo/gijiroku/1517teirei.pdf

一方、この通達案について、教育委員の一人から賛成演説があった。次に紹介しておきたい。

【委員長】 かつて11年に一度通達をしたわけですけれども、形態としていろいろあるということなので、そのことについて改めて通達をしたいということです。
何かご質問ございますか。
【委員】 本当に手取り足取り一々こういう通達を出さなければいかんということは本当に情けない話です。企業もそうですが、当たり前のことが、あるいは決まりがきっちりと行われなかったときに、必ず企業はつぶれるようなことがあるのです。学校もそうだと思います。学校も同様に崩壊していくと思います。こういう当たり前のことが当たり前に行われないということが一番大きな問題なのです。
この間もあるアメリカの友人と話したのですが、松井選手は何であんなにアメリカの人たちに尊敬されているかということなんです。アメリカの国旗・国歌のときに、彼が本当に真摯なまなざしで、形でもって相手方の、アメリカの国旗・国歌に対して敬意を表しているんです。その後にホームランを打ったので、みんなスタンディングオベーションになったのです。もし、あのときに松井選手が何もしないで、あるいは芝生に座ったままでいて、それでホームランを打っても、彼の名前というのは上がらなかっただろうということをその友人は言っています。本当にアメリカ人はそういうような姿勢で見ている。要するに、日本の自分の国の国歌とか国旗に関して敬意を表さない者は、このグローバル化した社会の中で尊敬されるはずがないのです。たまたまそういうような話がアメリカの友人からありましたので、紹介しました。
本当に情けない話だけれども、地域の人たち、市民の人たちにも、学校はこういう実態なんだということで協力を求めるという姿勢も大切です。私の感想として申します。
【委員長】 残念ですけれども、またこういう通達を出さなければならないということになりましたが、ひとつ市民の皆さん方にも協力していただくようにお願いする以外にはない。十分PRをお願いいたします。
【委員】 それから市区町村の教育委員会に対しても、きちっと徹底したことをやっていただきたい。そういうところをあいまいにすると、やはりそれが当たり前と思ってしまうのです。ぜひ、お願いしたいと思います。
【委員長】 今のお話のようなことを十分やっていただきたいと思います。よろしくどうぞお願いいたします。ありがとうございました。http://www.kyoiku.metro.tokyo.jp/gaiyo/gijiroku/1517teirei.pdf

教育委員長が早稲田大学総長だった清水司だったことはわかるが、委員の氏名はわからない。もしかすると、国旗国歌に熱心だった米長邦雄かもしれない。この「演説」の内容は三点からなっている。第一点は、とりあえず「決まり」を守らないと学校は崩壊していくということである。第二は、アメリカ大リーグで活躍した松井秀喜を例にして、グローバリズムの中でアメリカで日本人が活躍していくためには、国旗・国歌に敬意を示すことが必要であるいうことである。第三点は、学校をただしていくためには、地域の市民にも協力をよびかけなくてはならないということである。

そして、この通達案は東京都教育委員会によって了承され、即日、都立高等学校長、都立盲・ろう・養護学校長に通達された。この通達が、現在の東京都教育委員会の国旗国歌対策の源流となっているのである。

ここまで、2003年に東京都教育委員会が「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱に関する実施指針」を出す経過についてみてきた。この経過の中で印象深いのは、やはり、教育委員某の「賛成演説」であろう。

日の丸・君が代は、よくも悪くも、近代日本国家によって歴史的につくられてきた国家のシンボルである。日の丸・君が代に反対するということは、国旗・国歌一般について反対することと同義ではない。天皇主権のもとに思想の自由もなく侵略に民衆が駆り出されていった日本の近代国家の記憶のゆえに、その象徴としての日の丸・君が代は反対されてきたのである。逆にいえば、日本の近代国家のあり方をトータルに肯定しようとする人びとにおいては、日の丸・君が代は当然のごとく護持されてきたといえる。

この教育委員某の賛成演説は、日の丸・君が代が歴史的にさまざまな評価を加えられてきたことを無視している。日本の近代国家をトータルに肯定するという論理すら一顧だにされない。ここでは、歴史的な経過とは無関係に、グローバリズムの下でアメリカで成功するためには、アメリカにおいて国旗・国歌に敬意が表されていることを理解しなくてはならず、そのために日本でも国旗・国歌に敬意を表することを教えなくてはならないとしているのである。言い換えれば、アメリカの国旗・国歌に敬意を表するために、日本の国旗・国歌にも敬意を払わなければならないということになる。これ自身、まるで倒錯しているといえよう。

そして、現在、日の丸や君が代の扱いをみると、伝統的な形で扱われているとはいえない。少し前は、官庁でも学校でも個人でも、祝日に日の丸は掲揚された。ゆえに祝日は「旗日」とよばれていた。現在、官庁や議会は、ほとんど常に日の丸を掲揚している。ああいう扱いは、むしろ、アメリカにおける国旗の扱いに淵源するだろう。そういった意味で、現状の国旗・国歌の扱いは「アメリカ」化なのではなかろうか。

そう考えてくると、この教育委員某の発言は、非常に意味深長である。「アメリカ」化(もちろん、ここでいう「アメリカ」とは、「大国」の典型でしかなく、民主主義国と理解されているわけではないが)するために、日の丸や君が代などの歴史的に形成された国家のシンボルを歴史的文脈とは無関係に援用しようとしていることになろう。そして、いわば、「アメリカ」化を志向すればするほど、日の丸・君が代などの過去の歴史的な国家のシンボルはより強制されるのである。

白井聡氏は『永続敗戦論』(太田出版 2013年)の中で、「敗戦を否認しているがゆえに、際限のない対米従属を続けなければならず、深い対米従属を続けている限り、敗戦を否認し続けることができる。かかる状況を私は『永続敗戦』と呼ぶ」と指摘している。この教育委員某によって表出されている論理は、この「永続敗戦」の別ヴァージョンの論理といえる。日本社会の対米従属は、日本社会の「アメリカ」化志向を生むにまでいたった。その中で、「アメリカ」化するために、日の丸・君が代を護持しなくてはならないという倒錯的な論理をうむことになった。むろん、この「アメリカ」化とは、日本側が自己の願望を映し出した鏡像にすぎない。自己がめざすべき「大国」としてのアメリカしかみていないのである。この大国化の論理こそ、戦前の日本近代国家に淵源するものなのである。

日の丸・君が代の強制は、単に戦前への復古とみるべきではない。もちろん、戦前の大国化の論理を前提としつつ、現在の大国としてのアメリカへのミメーシスという倒錯的な論理もそこには存在している。このようなことが、『NOと言える日本』(盛田昭夫と共著、1989年)を書いた石原慎太郎都知事のもとでおきていたのである。

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さて、東京都知事選で、副知事であった猪瀬直樹が約433万票獲得し、当選した。

この猪瀬直樹が、3.11直後の2011年5月7日に、猪瀬直樹・村上隆・東浩紀「断ち切られた時間の先へー『家長』として考える」(『思想地図β』第2号)という鼎談を行った。村上隆はアーティストであり、東は現代思想を専攻していて、『思想地図β』の編集長である。この鼎談は、石原都政の中心部にいた猪瀬が、3.11をどのように捉え、どのようなことを主張しようとしていたかということを如実に示しているといえる。

まず、鼎談の組織者である東浩紀は、東日本大震災や原発事故でかなり壊れてしまった「日本や東京のブランドをこれからどう再構築していくか」と、この鼎談のテーマを提示した。そして、東自身は、日本を離れるということを真剣に考えつつ、「日本の伝統や文化的連続性についても考えるようになりました…日本という国は、そもそもが定期的に巨大な災害が来てすべてを流し去ってしまう国でもある、そういう条件をどう捉えていくか」と自分の体験を離した。

そして、猪瀬は、東の浪江町への踏査記事(朝日新聞2011年4月26日付朝刊)を枕としながら、日本文化についての蘊蓄を披露していく。例えば、猪瀬は、このように主張する。

今回の問題は、日本列島という島の記憶や、この島にいる宿命みたいなものをどう受け止めていくかを考え直さないと、解決できないだろうと思っています…日本の文化の根底には、災害の巣のような島から出られないという自覚がある。その意識は、潜在的には連続しているように感じます。(p77)

そして、このように述べる。

この国のはじまりの物語とはいったいなにかと考えたときに、たとえば『古事記』や『日本書紀』といったものがありますが、戦前まではそれが生きていました(…本居宣長の「敷島の大和心を人問わば 朝日に匂ふ山桜花」を引用しつつ)重要なのは、戦前までの日本には、この島から出られないという認識を前提にした歴史観が残っていたということです。しかし戦後はディズニーランド化がはじまり、島の記憶はすべて消えていった。日米安保で米兵に”門番”の役割を担ってもらうようになると、門の外側や歴史のリアルに対する想像力を失ってしまった。僕はこれをディズニーランド化と呼んでいるのです。(p78)

このような発言に対し、東は「震災後政治家に求められるのは、実務だけでなく、こういう能力、『想定外』の危機を扱うため日常よりも長いスケールで文学や思想の古典を呼び出す能力なのではないかと感じたのです。つまり先人の知恵を借りる能力です。」(p78)と賛意を示し、当時の民主党政権を批判しつつ、「自戒を込めていいますが、言論も若い世代は本当に駄目です」と述べている。

そして、猪瀬は、このように発言している。

三島由紀夫は、「戦後の日常は虚偽の日常だ」といいました。つまり、アメリカの存在を隠蔽し、防衛や命に関わることをすべて他者に委ねることによって成立したつくりものだったということです。これが戦後の日常性で、だからこそ、ディズニーランドができあがった。しかし今回は日常が断絶したので、いままで使えなかった「正義」や「国家」という言葉が使えるようになったはずです。我々は、国家の歴史が昭和20年8月15日以降しかないように錯覚してしまっていますが、本当は『古事記』や『日本書紀』から繋がる、はじまりの物語があります。元号があって、万世一系と擬制された一貫した時間軸を持っている。だから、一貫した時間軸を取り戻して、2000年くらい続いてきた島国の文化にアイデンティティがあるんだということにもう一回立ち帰る必要がある。それは、別に天皇神話を信じろということではない。(p79〜80)

猪瀬は、ここで、「島国」としての日本文化の連続性を強調し、それを断ち切ったものとして、アメリカに防衛をまかした形で成立した戦後の「日常性」を批判しているといえる。そして、猪瀬は、3.11を「国難」と表現しているが、この「国難」は、「戦後の日常性」を終わらし、「国家」「正義」という言葉が再び使えるようになった契機としてとらえているのである。この猪瀬に対し、東は、自戒を込めつつ、「賛意」を呈しているといえよう。

さらに、話題は原発問題に移っていく。東は、直接の影響はないかもしれないが、空間放射線量を常に意識せざるを得ない東京の現状についての不安を指摘する。しかし、猪瀬は、「もちろん、そうだけれど、データを受け止めて東京の10倍20倍の放射線量のなかで生活せざるをえない福島の人たちのリアルへの想像力が求められてもいるのです。この島国から逃れられないという断念を共有することが『国難』という言葉の意味ですね」(p82)と反論し、むしろ「なぜ東京電力の福島第一原発はあれほど単純な事故に弱かったのか」という問題を提起し、新しい技術がフィードバックされていれば、原発事故は起きなかったのではないかと主張する。

しかし、東は「おっしゃるとおりです。しかし、だからこそ僕は今回、日本はそういう点をおざなりにする国なのだから、もう原発を管理しようなどと考えないほうがいいのではないかと思うようになりました…要は、放射能が云々以前に、日本政府が危険というのが僕の考えです。この状況では脱原発しかないと思います」(p82〜83)といい、反原発運動に従事していたとされる村上は「少なくとも、海外からの客人には、資料を送って『来ないほうがいいよ』といってますし、知人も数名、国外に住みはじめてます」(p83)と述べている。

しかし、その点が、猪瀬には気に入らない。猪瀬は、このようにいうのである。

しかし原発を管理できない日本人のままでいいのか。大きな流れでいえば「脱原発」に違いない。しかし、原発分の電力量すべてをいきなり再生可能エネルギーで代替できるかというと、やはり10年はかかる。もうひとつは国家の信認の問題として、「管理できない」が結論では駄目でしょう。(p83)

そして、とうとうと「東京湾に原発を置いたらどうか」と猪瀬は語るのである。

…フランスで管理できて日本でできない。しかしその管理ができない人間が世界で通用するでしょうか。僕はいま問題になっている福島の第一原発について、あれが東京にあったらどうだろうという仮説を考えています。我々は電気がどういうリスクを抱えた原発によってつくられているのかを知りませんでした。いってみれば、東京の人間は福島の人民を切り捨ててきた…「東京湾に原発を置いたらどうか」、むろん思考実験ですが、そうすれば都民も、原発の安全や管理体制について、日々関心をはらうでしょう。つまり、危険なものを管理できる人間になることで克服しない限りは駄目で、東京は東京湾に原発を置いて100パーセント完全にやったぜ、と、そういう管理をできるということが、東京ブランドの再興に繋がるのではないか。ただ、これは仮説で、ものの考え方です。実際にやるかどうかはともかく、そういうことをもし真剣に考えたならば、この国が国難から再興することもありえるのではないか。東京の住民が自分の電気を自分で抱え込んで危機管理できないのならば、東京の人間を含めて日本人はやはり駄目なのだということになる。それを引き受ける、引き受けないということを一人ひとり考えて、結果的に無理だったらやめましょう、というところまで持ち込む必要がある。浜岡原発を止めて、ああ助かった、というのでは無責任です。自分で引き受けなければいけない。そこまで考えないと、今回の震災は本当の意味で自分のものにはならない。原発を東京に置いて管理できないようでは駄目なはずです。それを自分で引き受けて克服したら、東京ブランドは再興できるのではないか。(p83〜84)

この問題は、猪瀬にとって「国防」の問題であり、「責任ある主体」としての「家長」の問題であった。

これは国防の問題とも繋がっています。東京に原発を置くという提案は、日米安保ではなく自衛隊で国を守るリスクを抱え込もう、という提案と同じものです。戦後のディズニーランド化した日本は、どちらのリスクも避けてきた。本当に東京の人間が原発を抱えたら、日本人が国防において自衛隊を軍隊としてきちんと統御できるか問われると同じように、危険物を制御できるどうかということが問われます。それを抱え込まない限り、前回の鼎談でもいったように「家長」ではない。責任ある主体になれない。(p84)

さすがに、この猪瀬の提起には、村上隆も東浩紀も肯定的には受け取っていない。村上は「国防の意味でも、詭弁と欺瞞がとぐろを巻いて面白い。実際やれればやってみるのもいいと思います。でも、僕はその瞬間に関東圏を離脱しますがね」(p84)と揶揄的に発言し、この鼎談で猪瀬に賛意を示すことが多い東も「僕はそもそも日本政府には原発が管理できないという立場なので、設置に賛成はできないでしょう」(p84)と述べている。

この鼎談の末尾は、猪瀬が文学論を展開しているが、ここでも猪瀬は「原発問題」に言及している。猪瀬は、夏目漱石ー太宰治ー村上春樹を「放蕩息子」の系譜としてとらえ、それに対抗する存在として、元号の候補を検討した森鴎外を「家長」として認識するとした。暗に、自らを「家長」の系譜を継ぐものとしている。そして、夏目漱石の『三四郎』のせりふを引用しながら、このように猪瀬は述べている。

そうなんだよ。滅びるねって、それをいってはおしまい。漱石は滅びるねといったけれど、そこから先がない。さきほどの原発の話と被るけどね。(p92)

そして、文学や政治を包括して、このように猪瀬は指摘した。

 

でも実際には鴎外の系統は途絶えちゃって、漱石の系統が太宰治へ続いていく。家長と放蕩息子で、結局放蕩息子の血統が残る。文学は放蕩息子の側にしかいかなくて、家長の側には行かなかった。昭和16年を迎えたときに、文学の家長はいなかった。国家のシステムに関わるやつがいなくなった。だから、国家は思想としてのリアリズムを欠いて制御不能になり、戦争に突入してしまった。そいうことなんですよ。…だから震災後のいまこそもう一度家長の思想が必要なんです。それは家父長制の話とはまったく別物です。この60年間、文学も政治も責任ある主体から逃げてきたんですよ。(p92)

猪瀬の主張を、原発問題に即していえば、次のようになるだろう。猪瀬は、まず、島国の日本でともに生きているということを前提として、より高い放射線量にさらされている福島県の人びとを考えるならば、東京の人びとは現状の放射線量を受忍すべきとする。そして、単に急には再生可能エネルギーで代替できないという理由だけでなく、自らのリスクを抱え込んで管理する力を日本は持っているのだということを認識させるためにも、東京に「完全な原発」を設置すべきとしている。このことは、日米安保によって米軍によって主に保障されている国防の問題を見直すことにもつながり、さらには、日本人が「責任主体」としての「家長」の思想を確立することにも結びついていくということになるのである。

このように検討してみると、猪瀬にとって、3.11とは、彼が副知事として責任を負うべき東京都民の安全をはかるという問題に直面したものではなく、猪瀬が評価するようなナショナリスティックな方向で日本人の思想を改造していく契機と認識されていたといえよう。そして、「東京湾に原発を置いたらどうか」という提案も、「自らのリスクを管理する」責任主体としての「家長」の確立につながっていくものであった。さらに、このことは「東京ブランドの再興」「国家の信認」をめざしたものであった。いわば、3.11という惨事に便乗して、社会を改造しようとすることを猪瀬はめざしていたといえるのであり、いわゆる「ショック・ドクトリン」が志向されたといえよう。

これは、もちろん、猪瀬だけではない。石原慎太郎も橋下徹なども、その方向をめざしたといえる。そして、彼らのめざす方向は、ある程度、成功したとみなくてはならない。猪瀬は、東京湾に新鋭火力発電所を建設するということを政策としてかかげながらー原子力を火力に置き換えたのだがー、433万票という歴代最多の得票を得て、都知事選に勝利した。石原や橋下も、国政進出をはたしつつある。そして、自民党においても、復古ナショナリズムの権化であるような安倍晋三が復権し、首相となった。脱原発運動が広範囲に展開しつつも、政治状況では確実にナショナリズムが強化されている。そして、このようなことの背景に、3.11があるのである。

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2012年11月17日、来る総選挙をにらんで、太陽の党の石原慎太郎と日本維新の会の橋下徹が合併で合意し、次のような合意文書を発表した。

維新・太陽、TPP・原発・尖閣など8項目で合意文書

 石原慎太郎、橋下徹両氏が17日署名した合意文書の内容は次の通り。
     ◇
 「強くてしたたかな日本をつくる」

 【1】 中央集権体制の打破

 地方交付税廃止=地財制度廃止、地方共有税制度(新たな財政調整制度)の創設、消費税の地方税化、消費税11%を目安(5%固定財源、6%地方共有税《財政調整分》)

 【2】 道州制実現に向けて協議を始める

 【3】 中小・零細企業対策を中心に経済を活性化する

 【4】 社会保障財源は、地方交付税の廃止分+保険料の適正化と給付水準の見直し+所得税捕捉+資産課税で立て直し

 【5】 自由貿易圏に賛同しTPP交渉に参加するが、協議の結果国益に沿わなければ反対。なお農業の競争力強化策を実行する

 【6】 新しいエネルギー需給体制の構築

 原発(1)ルールの構築(ア)安全基準(イ)安全確認体制(規制委員・規制庁、事業主)(ウ)使用済み核燃料(エ)責任の所在(2)電力市場の自由化

 【7】 外交 尖閣は、中国に国際司法裁判所への提訴を促す。提訴されれば応訴する

 【8】 政党も議員も企業・団体献金の禁止

 個人献金制度を拡充

 企業・団体献金の経過措置として党として上限を設ける
http://www.asahi.com/politics/update/1117/OSK201211170054.html

両党の合併について、新聞などのマスコミや民主党・自民党などは、実質的な政策合意の野合と批判している。全体ではそういう印象がある。 TPPについて、原発について、石原・橋下の隔たりは大きい。

しかし、それほど、単純に「野合」のみと決めつけてよいのだろうか。その点で、もう少し、この「合意文書」を内在的に検討してみたい。

この「合意文書」の第一項は「中央集権体制の打破」とされている。しかしながら、中央の官僚機構の改革ではなく、実際にあげていることは「地方交付税廃止=地財制度廃止、地方共有税制度(新たな財政調整制度)の創設、消費税の地方税化、消費税11%を目安(5%固定財源、6%地方共有税《財政調整分》)」である。つまり、地方自治体の財政基盤の一つである地方交付税制度を廃止し、その代わりに消費税を11%として、消費税全体を地方税とし、5%を「固有財源」(消費税課税地の自治体の財源になるということだと思われる)とし、6%を「地方共有税」分として、自治体間の財政調整に使うということである。

そして、このような地方財政制度の「改革」を前提にして第二項の「道州制」を展望しているのである。

他方で、廃止された地方交付税分の収入は、社会保障支出にあてるとされている。もちろん、「保険料の適正化と給付水準の見直し」「所得税捕捉」「資産課税」という、給付水準の減額と負担増も伴うこととされている。

そのことを、現在の国家財政からみておこう。

平成23年度一般会計予算(2次補正後)の概要

平成23年度一般会計予算(2次補正後)の概要


http://www.zaisei.mof.go.jp/num/detail/cd/2/

現状の財政からいえば、地方交付税は一般会計歳出の約18.4%(17兆4300億円)を占めている。この地方交付税を社会保障費(27.9%)にまわす。そして、消費税を11%にあげ、それで得られた税収(現状が10兆1000億円なので、約20~22兆円程度になるだろう)を「地方税」とする。一見帳尻はあうだろう。

しかし、問題は、この合意のように消費税11%を、固有財源5%、調整財源6%とすると、大都市圏と地方の間で、大きな格差が生じてしまうということである。

まず、現状の地方交付税の状況をみてみよう。地方交付税は、全国どこの自治体に居住していても国民として同一の行政サービスを受けることができることを目的として創設された制度であり、その行政サービス総体を税収などの固有財源で賄えない場合、その不足分を財政調整するということになっている。もちろん、財政状態が豊かな自治体の場合は、地方交付税が不交付になることがあるが、そのような自治体の数は少なく、都道府県では東京都だけであり、市町村では、原発立地自治体などや東京・神奈川・愛知などの大都市圏の自治体が中心となっている。

都道府県別地方交付税交付額(平成21年度)

都道府県別地方交付税交付額(平成21年度)


http://www.stat.go.jp/data/nihon/zuhyou/n0502000.xlsより作図

小さくて読みにくく、恐縮だが、2009年度(平成21年)の都道府県別地方交付税交付額をあげておいた。この年度の地方交付税交付総額は15兆8200億円だが、もっとも多く交付されているのは北海道であり、道・市町村あわせて1兆5000億円と、交付総額の一割近くを交付されている。過疎などにより税収が少ないところが多くの交付金を得るということは、地方交付税のあり方に適合しているといえよう。このように税収が少なく、独自財源で一般的な行政サービスをまかないえないがゆえに、地方交付税が必要とされたのである。

一方で、東京都は360億円、神奈川県は790億円、愛知県は1004億円と、大都市圏では地方交付税交付額は非常に少ない。ただ、大都市圏といっても、大阪府(5100億円)、兵庫県(6170億円)、福岡県(6250億円)にはかなり多額な地方交付税が交付されている。行政サービスの需要総額算定には人口数ももちろん換算されるが、これらの大都市圏は、人口の割には税収が少ないということになるわけで、相対的に衰退しているといえよう。

もし、地方交付税を廃止し、11%の消費税を地方税として、5%を固有財源、6%を地方共有税としたらどうなるのだろうか。つぎに、しんぶん赤旗が2012年2月15日にネット配信した消費税10%にした場合の都道府県別の消費税負担額の推計をみてみよう。しんぶん赤旗では、次のように説明している。

政府・民主党が狙う「社会保障・税一体改革」で消費税が10%まで引き上げられた場合の47都道府県の負担増額を本紙が試算し、地方ごとの影響が明らかになりました。試算によると、最も負担増となるのは東京で1兆6050億円、2番目となる大阪では8720億円です。

 現行消費税率5%のうち1%は地方消費税として各地方自治体に納められます。試算は、各都道府県に納められた地方消費税額を5倍にして増税額を算出しました。地方消費税は、事業者や本社所在地の都道府県に払い込まれます。実際に消費が行われた都道府県の納税となるように、各都道府県の「消費相当の占有率」に応じて計算します。この占有率は、「小売年間販売(商業統計)」「サービス業対個人事業収入額(サービス業基本統計)」「人口(国勢調査)」「従業員数(事業所・企業統計)」の4統計から算出します。

 ただ、全消費税収を各都道府県に割り振った金額なので、当該地域に在住する個人が負担した額に限りません。観光客や地方自治体が負担した消費税額も含まれることになります。

 日本経済に深刻な影響を与える消費税増税は、人々の暮らしを支える地方経済の疲弊を加速させます。

消費税率を10%に引き上げた際の都道府県別の消費税負担額の推計

消費税率を10%に引き上げた際の都道府県別の消費税負担額の推計


http://www.jcp.or.jp/akahata/aik11/2012-02-15/2012021501_02_1.html

これは消費税を10%にした場合の負担増額(5%増額分)であり、11%とするとやや多くなることになるが、大体の傾向は理解できるだろう。日本維新の会のいう消費税5%分の「固有財源」は、おおまかにいえばこの消費税負担増額分と考えればよいのである。

そうすると、まず、固有財源となるのは全体12兆円程度ということになる。現在最も多く地方交付税を得ている北海道は、5400億円程度しか消費税を固有財源にできないことになり、地方交付税の約三分の一しか得られないことになる。そのほか、多くの府県が現状の地方交付税よりも少ない「固有財源」しか得られないということになるのである。

それにかわって、東京都が約1兆6000億円、神奈川県が約7500億円、愛知県が約7400億円と、もともと富裕で地方交付税交付金が少なかったところが、消費税の地方税化の恩恵を受けることになるのである。

日本維新の会の基盤である大阪府は、消費税の地方税化によって東京府についで二番目に多額の8720億円を得ることになる。地方交付税交付金が5100億円なので、その恩恵を得るということになる。しかし、それは大阪府だけである。兵庫県は6170億円が4820億円に、京都府は3140億円が2640億円に、奈良県は2470億円が1070億円になってしまうのである。その他、福岡県が6250億円が4800億円に、広島県が3840億円が2710億円になってしまうのである。もちろん、北海道などとくらべれば減額は小さいのであるが、これらの都市圏も地方交付税から地方消費税への転換の中で財政に打撃を蒙るのである。今まで多くの地方交付税を得られてこなかった東京都・神奈川県・愛知県がかなり多額の消費税を税収に加えることをかんがみると、大阪維新の会を源流とした日本維新の会は、東京などの大阪のライバル都市に塩を送っていることになる。

これは、基本的に消費税の税収は経済活動の活発さに比例するものであり、それをそのままの形で配分すれば、現在「勝ち組」の地域がより有利になるだけということなのである。この「勝ち組」の代表が東京であり、いわば、地方交付税を廃止し消費税を地方税化する日本維新の会の政策は、「地方」の犠牲によって東京などの大都市への集中を促進したものと評価できるだろう。そして、この「勝ち組」の中に大阪をいれようとしているのである。

もちろん、これではすまないので、地方共有税という形で自治体間の財政調整がはかられることになっている。しかし、11%に増税した消費税の半額程度というと、消費税総額が20〜22兆円程度と考えられるので、10〜14兆円程度であろうと思われる。現在の地方交付税交付金が約17兆円なので、それより多いとは考えられない。どのような形で分配されるのか不明だが、やはり官僚的な統制が行われるであろう。そもそも原資が少なくなるので、各自治体への交付額もより少なくなるだろう。それに、もし、「調整」というのであれば、今まで多額の地方交付税が入ってこなかった東京などの大都市圏も多くの財政資金を得ることになり、それらと競争するということになろう。「地方分権」といっても、消費税の税収が多い東京などの大都市圏だけが財政上のフリーハンドを得るだけで、それ以外の多くの自治体ー都市を含むーでは、「地方共有税」というかたちで官僚統制を受けることになる。そして「地方」の自治体は財源不足にこれまで以上に直面する。しだいに、より広域の自治体ー道州制の方向に導かれて行くことになる。しかし、すでの東日本大震災で白日のもとにさらされたが、広域自治体化は、基本的な行政サービスを低下させるものなのである。

ある意味では、資本蓄積が集中的に行われている大都市圏であるがゆえの政策であるといえる。橋下のスタンスは大都市における巨額な税収を背景に大都市の「納税者」たちが自らのために租税を使うことを主張し、それを「代表」しているとして、それまでの都市ー地方間の財政調整を否定するものであるといえる。このスタンスは、いわゆる「生活保護者」攻撃とそれほど変わらないといえよう。しかも、納税者は、とりあえず富裕者だけには限らない。生活保護ギリギリでも、ある程度の納税は行い、それを負担に思う人びとはいるのである。

しかし、これで、地方において日本維新の会は支持基盤を作れるのかとも思ってしまう。もちろん、地方においても、資本蓄積の増大をめざした新自由主義的地方行政が展開されているが、これほど露骨に地方を犠牲にして大都市圏への集中をはかる政策を支持する人びとが多いとは思えない。特に、保守系とはいえども、地方交付税制度のもとで行財政を展開していた首長や地方議員たちはどれほど支持基盤になるのだろうか。

他方、この政策でもっとも利益を得るのは東京都であるということに注目したい。よく、日本維新の会の橋下徹が太陽の党の石原慎太郎を政策面で屈服させたように報道されているが、今、みてみると逆である。結局、橋下徹は、地方を犠牲にしつつ、資本蓄積の観点から東京などの大都市への集中を促進させ、大阪もその一環にいれようとすることで自らの正当性を獲得しようとしているのである。その意味で、橋下は石原を必要としているのであるといえよう。

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