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10月12日、ニューヨークタイムズは、安倍政権の教育政策を批判する記事を掲載した。その一部を下記に紹介しておこう。

日本の教育現場では国際感覚に優れた人材の育成が求められる一方で、同時に国家主義的教育の実施も要求され、教育政策の立案現場には困惑が生じています。
日本では『愛国的教育』の実践への圧力が強まる中、教科書の内容を書き換える作業が進められ、近隣諸国の不興を買っています。
しかし日本では同時に、大学の国際競争力を高めるためその国際化と広く門戸を開く取り組みが行われています(後略)
(マイケル・フィッツパトリック「安倍政権の教育現場への介入が生む混乱と困惑」 / ニューヨークタイムズ 2014年10月12日、日本語訳はhttp://kobajun.chips.jp/?p=20395より)。

この記事の主眼は、安倍政権においては、いわゆる教育の「国際化」をしているにもかかわらず、それとは矛盾した形で、教科書の書き換えなどの教育の愛国化が進められているということにある。本記事では、「アジアの近隣諸国は、新たな『愛国主義的教育』が日本を平和主義から国家主義体制へと変貌させ、戦争時の残虐行為については曖昧にしてしまう事を恐れています。そして戦後の日本で長く否定されてきた軍国主義について、その価値感を復活させたとして安倍首相を批難しています」とし、さらに「日本の新しい教科書検定基準と記述内容は、アメリカ合衆国を始めとする同盟国においてさえ、幻滅を呼んでいます」と指摘した。

このニューヨークタイムズの記事に対し、10月31日、下村博文文科相は文科省のサイトで反論した。下村は、反論の冒頭で、次のように述べた。

平成26年(2014年)10月12日のインターナショナル・ニューヨークタイムズ紙において、日本の教育戦略が分裂しているとの批判記事が掲載されました。記事では、「日本はナショナリズムとコスモポリタニズムを同時に信奉しており、教育政策立案者たちの不明瞭な姿勢を助長している。彼らは、彼ら自身が『愛国的』と呼ぶ主義にのっとって教科書を改訂し、その過程でアジアの近隣諸国を遠ざけている」としていますが、それは全く事実と異なっています。

我が国は、ナショナリズムを助長するのではなく、グローバル社会に適応するための人材の教育に大きく舵(かじ)を切って取り組んでいます。その改革のポイントは次の3つです。すなわち、英語教育、大学の国際化、そして日本人としてのアイデンティティの確立のための伝統、文化及び歴史の教育です。(下村博文文科相「平成26年(2014年)10月12日付 インターナショナル・ニューヨークタイムズ紙の記事について」、2014年10月31日)(http://www.mext.go.jp/b_menu/daijin/detail/1353247.htm)

これに続いて、いかに日本の教育が国際化に努力しているかを縷々述べている。このことについては省略する。

そして、「日本人としてのアイデンティティの確立のための伝統、文化及び歴史の教育」についてこのように述べている。

その際に、日本の学生は海外で日本のことを語れないとの経験者の声が沢山出ていますが、真のグローバル人材として活躍するためには、日本人としてのアイデンティティである日本の伝統、文化、歴史を学ばなければ、世界の中で議論もできませんし、日本人としてのアイデンディディも確立できません。残念ながら、日本の若者はこのような状況に遭遇することが多くなっています。

これは、日本の個々の学生の問題ではなく、日本の教育において、日本の伝統、文化、歴史をしっかりと教えてこなかった日本の学校教育の問題であるととらえています。各国・各民族には、当然相違があります。しかし、多様な価値観を持つ国際社会の中で、それらを認めながら生きていくためには、日本の価値観をしっかりと教えることで、他国の価値観を尊重する姿勢を持たせなければなりません。そうでなければ、伝統、歴史、文化の違いを語れません。

インターナショナル・ニューヨークタイムズ紙では、「ナショナリズム」との言葉を使って批判していますが、日本の伝統、文化、歴史を教えることは、「ナショナリズム」との言葉に当てはまらないと考えます。なぜなら、日本のアイデンティティを教えることは他国、特に近隣諸国を侮蔑、蔑視する教育ではないからです。日本古来の価値観としては、世界に先駆けて7世紀に聖徳太子が17条憲法を制定していましたが、その根本は「和の精神」です。

2011年の東日本大震災の被災者のその後の行動が象徴するように、日本人の精神の根底には、「絆(きずな)」、「思いやり」、「和の精神」があることは世界の人達にも認識していただいていると考えています。

つまり、日本の伝統、文化、歴史を学校教育で教えることは、「ナショナリズム」との表現に当てはまらないものです。我が国が古来の伝統、文化、歴史を大切にすることと、国際社会で共生することは、相矛盾せず、逆に、日本への理解を深める教育をすることがグローバル化した世界で日本人が活躍するために重要であると認識しています。

21世紀の国際社会において日本及び日本人が果たすべき役割は、日本古来から培ってきた「和の精神」、「おもてなしの精神」です。2020年の東京オリンピック・パラリンピックでは、是非、それを世界の人達に見てもらう、そのような教育をすることによって、より広く、日本の教育の方向性が世界の人達に共有性をもってもらえる改革を進めていきたいと考えています。

この文章では、日本人が国際化するために日本の価値観を学ばせており、他国ー近隣諸国を蔑視するものではないから「ナショナリズム」教育ではないとしている。「『愛国的教育』の実践への圧力が強まる中、教科書の内容を書き換える作業が進められ」ているというニューヨークタイムズの批判には全く答えていない。偏狭であるかどうかは別として、「日本の伝統、文化、歴史を教える」こと自体、ナショナリズムではないということはいえないと思う。

といっても、私が最も驚いたのは「日本古来の価値観としては、世界に先駆けて7世紀に聖徳太子が17条憲法を制定していましたが、その根本は『和の精神』です」というところであった。確かに「十七条憲法」の冒頭に、「一曰、以和爲貴、無忤爲宗(一に曰く、和(やわらぎ)を以て貴しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ)」(Wikipediaより)とかかげられている。「十七条憲法」については、聖徳太子が604年に作ったと720年に成立した国史である『日本書紀』に記述されているが、記述自体にさまざまな疑問が投げかけられている。ただ、聖徳太子が作ったどうかは別として、この時代の朝廷において、統治の重要な原則として「和を以て貴しと為す」が意識されていたとはいえよう。

しかし、これは、「日本古来の価値観」のものなのだろうか。儒家の祖である孔子(紀元前552-479年)とその門弟たちの言行を記録した「論語」には「有子曰。禮之用。和爲貴(有子曰く、礼の用は和を貴しと為す)」(http://kanbun.info/keibu/rongo0112.htmlより)とある。ここで、「和為貴」といっているのは、孔子の門弟である有子(有若)である。つまり、7-8世紀に「十七条憲法」が作られるはるか昔から、中国の儒家たちはいうなれば「和の精神」を主張していたのであった。それを取り入れて「十七条憲法」が作られたということになる。たぶん、全く意識していなかったであろうが、下村は「十七条憲法」を引き合いに出して「和の精神」を「日本古来の価値観」とすることによって、日本古来の価値観の淵源は「論語」にあると主張したことになるのだ。

これは、直接には下村もしくは文科省の「無知」に起因するといえる。しかし、そればかりではない。儒教的な倫理を日本古来のものと誤認している人々は日本社会に多く存在している。圧倒的な中華文明の影響のもとに成立してきた日本社会において、その文化的アイデンティティなるものを追求していくと、実際には中国起源のものになってしまうという逆説がそこにはある。そして、もし「和の精神」なるものが「世界の人達に共有性」をもってもらえるものならば、それは、日本古来の価値観であるからなどではない。中国においても日本においても通用していたという「普遍性」を有していたからといえよう。

付記:Wikipediaの「十七条憲法」の記述でも、その第一条で「論語」を引用していると指摘されている。

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さて、2014年2月10日、安倍晋三首相が翌11日の建国記念の日を迎えるにあたってメッセージを発表した。朝日新聞が2月10日にネット配信した記事によると、「建国記念の日に合わせて現職の首相がメッセージを出すのは初めてのこと」とされている。

まず、ここで「建国記念の日」は何なのかを確認しておこう。報道の多くもあまりふれていないのであるが、この「建国記念の日」は、本来、九州から大和に「東征」し、第一代の天皇となったとされる神武天皇が即位したことを記念する「紀元節」がもとになっている。元々、神武天皇についての記述は古事記・日本書紀の中の神話とされており、実在した人物とみなすことはできない。しかし、古代国家においては「天皇制」の起源として認識されていた。さらに、幕府を倒した明治維新は「王政復古」をスローガンとしており、「神武天皇」にかえることを国家の正当性としており、ゆえに1872年11月に神武天皇即位を記念した祭典を行うことを決めた。当初は1月29日であったが、翌年3月には「紀元節」と命名され、同年10月に「2月11日」に変更されたのである。そして、紀元節は、天皇制国家による統治の正当性の源泉として重視された。他方、このような神話に国家の正当性の源泉を置いたため、歴史教育はいわゆる「皇国史観」によって行われ、いわゆる実証的な歴史学による記述は排除されていたのである。

この紀元節は、戦後の連合国による占領の下、GHQの指令によって1948年に祝日としては廃止された。その後、幾度も「建国記念日」として復活をはかられたが、社会党などが反対して実現できなかった。1966年、安倍晋三の大叔父である佐藤榮作を首相とした佐藤内閣は、「建国記念の日 政令で定める日 建国をしのび、国を愛する心を養う。」として、建国の事象そのものを記念するように受け取られる形で祝日法の改正案を出し、国会で成立させた。しかし、佐藤内閣ですらも、自身で「2月11日」を「建国記念の日」と明言することはできず、附則で「内閣総理大臣は、改正後の第二条に規定する建国記念の日となる日を定める政令の制定の立案をしようとするときは、建国記念日審議会に諮問し、その答申を尊重してしなければならない。」とし、建国記念日審議会に諮問し、その答申で『建国記念の日」を決定することになっていた。そして、建国記念日審議会は「2月11日」にする答申を出し、1966年12月9日に佐藤内閣はその日を「建国記念の日」とする政令を出した。ここに「建国記念の日」が成立したのである。

明治政府が、自らの正当性の根拠として、第一代天皇の神武天皇の即位にあたるとされた日を祝うことは、よくも悪くも理解できることである。しかし、国民主権の戦後においては、第一代天皇の即位日を「建国」として記念することは適当とはいえないだろう。そもそも、この日にすべき学術的根拠がない。それに、国民主権を前提とすれば、より適当な日があるだろう。例えば、戦後の古代・中世史家であった石母田正は、次のようにいっている。

もしアメリカ流、ソ連流、中国流にやるとすれば、私の個人の見解では、人民に主権があるということを明確に規定した新憲法制定の日を私は、国民の、国家の誕生にするくらいの気概があってこそ、われわれは古い一ー三世紀の古代史を学ぶ勇気も出てくるのでありまして、もう一ぺん紀元節を、旗日と日曜が続いたらもう一日休ませてやるというくらいのアメを作られたからといって、もう一ぺん、雲にそびゆるなんとか、という歌をうたう根拠は、われわれ日本人にはなかろうというふうに私は考えています。(「日本国家の成立」 岩波市民講座1964年12月17日 『石母田著作集』第四巻所収)

安倍晋三の大叔父である佐藤榮作首相は、結局のところ、みずからは「2月11日」と明示せず、建国記念日審議会にまかせるやりかたで、「2月11日」を「建国記念の日」としたのである。佐藤以来の歴代首相は、保守的な者も含めて、「建国記念の日」にメッセージを出したりはしなかったが、たぶん、そのような経過もあってのことだと思われる。今回、安倍首相が「建国記念の日」についてのメッセージを出したのは、それ自体、彼の掲げる「戦後レジームからの脱却」の一環ということができる。

続いて、安倍首相のメッセージをみておこう。とりあえず、その全文をここであげておこう。

平成26年2月10日
「建国記念の日」を迎えるに当たっての安倍内閣総理大臣メッセージ

 「建国記念の日」は、「建国をしのび、国を愛する心を養う」という趣旨により、法律によって設けられた国民の祝日です。
 この祝日は、国民一人一人が、我が国の今日の繁栄の礎を営々と築き上げた古からの先人の努力に思いをはせ、さらなる国の発展を誓う、誠に意義深い日であると考え、私から国民の皆様に向けてメッセージをお届けすることといたしました。

 古来、「瑞穂の国」と呼ばれてきたように、私達日本人には、田畑をともに耕し、水を分かち合い、乏しきは補いあって、五穀豊穣を祈り、美しい田園と麗しい社会を築いてきた豊かな伝統があります。
 また、我が国は四季のある美しい自然に恵まれ、それらを生かした諸外国に誇れる素晴らしい文化を育ててきました。
 長い歴史の中で、幾たびか災害や戦争などの試練も経験しましたが、国民一人一人のたゆまぬ努力により今日の平和で豊かな国を築き上げ、普遍的自由と、民主主義と、人権を重んじる国柄を育ててきました。

 このような先人の努力に深く敬意を表すとともに、この平和と繁栄を更に発展させ、次の世代も安心して暮らせるよう引き継いでいくことは我々に課せられた責務であります。
 十年先、百年先の未来を拓く改革と、未来を担う人材の育成を進め、同時に、国際的な諸課題に対して積極的な役割を果たし、世界の平和と安定を実現していく「誇りある日本」としていくことが、先人から我々に託された使命であろうと考えます。

  「建国記念の日」を迎えるに当たり、私は、改めて、私達の愛する国、日本を、より美しい、誇りある国にしていく責任を痛感し、決意を新たにしています。
 国民の皆様におかれても、「建国記念の日」が、我が国のこれまでの歩みを振り返りつつ先人の努力に感謝し、自信と誇りを持てる未来に向けて日本の繁栄を希求する機会となることを切に希望いたします。

平成26年2月11日
内閣総理大臣 安倍 晋三
http://www.kantei.go.jp/jp/96_abe/discource/20140211message.html

今まで、神武天皇即位ー紀元節ー建国記念の日という歴史的系譜を追ってきたが、それが全く無視されていることに一驚する。ここでは、「天皇」のことは全く出ていない。ここで回顧されているのは「我が国の今日の繁栄の礎を営々と築き上げた古からの先人」であり、語感からするならば、過去の「日本人」であって、天皇を意味する(日本人の中にも「天皇」は含まれるのかもしれないが)とは思えない。

その上で、歴史としては、まず「古来、『瑞穂の国』と呼ばれてきたように、私達日本人には、田畑をともに耕し、水を分かち合い、乏しきは補いあって、五穀豊穣を祈り、美しい田園と麗しい社会を築いてきた豊かな伝統があります。また、我が国は四季のある美しい自然に恵まれ、それらを生かした諸外国に誇れる素晴らしい文化を育ててきました」と指摘している。これは、歴史というよりも「ポエム」であろう。どこの国でも、「共同性」のもとに、自然を生かしながら、社会や文化を築いてきたのであって、このことは日本の専売特許ではない。他方、これも日本だけではないが、歴史においては、内戦や階級対立・民族対立が存在しているのである。

さらに「長い歴史の中で、幾たびか災害や戦争などの試練も経験しましたが、国民一人一人のたゆまぬ努力により今日の平和で豊かな国を築き上げ、普遍的自由と、民主主義と、人権を重んじる国柄を育ててきました」という。一体全体、古代から近代までの日本の歴史の中で「普遍的自由と、民主主義と、人権」が重んじられてきたといえるのであろうか。たかだか「戦後日本」のことでしかないのである。そして、戦後以前の「戦争」は、みずからおこしたものではなく「試練」の一つでしかないのである。

最後の部分で、彼自身としては、「『建国記念の日』を迎えるに当たり、私は、改めて、私達の愛する国、日本を、より美しい、誇りある国にしていく責任を痛感し、決意を新たにしています」と述べている。その上で「国民の皆様におかれても、『建国記念の日』が、我が国のこれまでの歩みを振り返りつつ先人の努力に感謝し、自信と誇りを持てる未来に向けて日本の繁栄を希求する機会となることを切に希望いたします」と主張している。「先人の努力への感謝」と「未来の日本の繁栄への希求」という論理は、この短い文章の中で何度も表出されている。

本ブログで、以前、フランスの歴史家ピエール・ノラが、フランスの国民国家統合を強めていた「国民史」について、「過去の遺産としての国民と未来の企図としての国民であり、言い換えれば、『ともに偉大なことを成した』という意識と『これからも偉大なことを成そう』とする意識」(ノラ「コメモラシオンの時代」 『記憶の場』Ⅲ、2003年、原著1992年)が結び付けられていたと指摘していることを紹介した。この安倍首相の「建国記念の日」メッセージの意図は、まさにそうであり、彼自身は、19〜20世紀の帝国主義的戦争につながっていった国民国家の復活をめざしていると考えられる。しかし、このメッセージは、「建国記念の日」のルーツすら無視した、ほとんど「現在」の延長線上でしか把握されない「歴史」認識に基づいているのである。

*なお、Wikipediaの「建国記念の日」と「紀元節」の項目を参照した。

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橋下徹・松井一郎が、現在、大阪市と大阪府の統治者となり、大阪維新の会を結成して、「大阪都構想」などを押し進めようとしている。9月16日には台風18号が日本列島に襲来し、大阪でも一時期大和川の水位が上昇し避難勧告が出たが、橋下徹大阪市長は、洪水対策は「組織」で対応するとして、「自宅待機」のまま大阪都構想実現のために必須とされる堺市長選について延々とツイッターでつぶやき、対立候補である竹山修身現堺市長が選挙活動を中断して大和川視察に赴いたことを嘲笑していた。

さて、大阪の統治者は、いつも、このような振る舞いをしていたのだろうか。古事記や日本書紀などによると、大阪の地に宮殿を置いたとされるのは5世紀の仁徳天皇=大鷦鷯尊(日本書紀)であった。万葉集では「難波天皇」ともよばれている。仁徳天皇個人が実在したか、また実在したとしても古事記や日本書紀が描くような人間像であったかは不明としかいいようがない。大阪周辺の百舌鳥古墳群(伝仁徳天皇陵所在)や古市古墳群には5世紀の巨大古墳がいくつもあり、確かにこの時期は大阪は日本列島における王権の所在地であったとはいえるのだが、今伝えられているのは、古事記や日本書紀が成立した8世紀の統治者たちが認識していた「仁徳天皇像」でしかない。しかし、それでも、古代の統治者たちが、何を模範としていたかをみることができよう。

このことを前提にして、古事記や日本書紀の記述を読むと、興味深いところが見受けられる。まず、古事記の現代語訳をみてほしい。

さて、天皇は、高い山に登って、四方の国を見渡して、「国の中に、炊煙がたたず、国中が貧窮している。そこで、今から三年の間、人民の租税と夫役をすべて免除せよ」とおっしゃった。こうして、宮殿は破損して、いたるところで雨漏りがしても、全く修理することはなかった。木の箱で、その漏る雨を受けて、漏らないところに移って雨を避けた。
 後に、国の中を見ると、国中に炊煙が満ちていた。そこで天皇は、人民が豊かになったと思って、今は租税と夫役とをお命じになった。こうして、人民は繁栄して、夫役に苦しむことはなかった。それで、その御代をほめたたえて、聖帝の世というのである。(『新編日本古典文学全集1・古事記』、小学館、1997年)

この説話のような出来事が本当にあったかどうかはわからない。しかし、このような出来事は8世紀の古代の統治者たちにとって「模範」とされ、「聖帝の世」と認識されていたことは確かなことである。仁徳天皇は、少なくとも自分の目でみて人民の貧富を判断し、その上で、租税・夫役を期間をくぎって免除する措置をとったのである。

さて、古事記は簡略な記述であるが、日本書紀はかなり細かくこの出来事を記述している。描写が細かいからといって、それがより真実を伝えているとは限らない。日本書紀編纂者によって文飾されたところもかなり多いだろう。しかし、それでも、8世紀の統治者たちは何を統治の正当性としていたかを知ることかできるだろう。日本書紀において、仁徳天皇は、次のように、語っている(正確にいえば、日本書紀編纂者が仁徳天皇に語らせているのだが)。

天皇の曰はく、「其れ、天の君を立つるは、是百姓の為めなり、然れば君は百姓を以ちて本と為す。是を以ちて、古の聖王は、一人だにも飢ゑ寒ゆるときには、顧みて身を責む。今し百姓貧しきは、朕が貧しきなり。百姓富めるは、朕が富めるなり。未だ百姓富みて君貧しといふこと有らず」とのたまふ。

天皇は「そもそも、天が君(君主)を立てるのは、人民のためである。従って、君は人民を一番大切に考えるものだ。そこで古の聖王(中国古代の神話的君主たち)は、人民が一人でも飢え凍えるような時は、顧みて自分の身を責める。もし人民が貧しければ、私が貧しいのである。人民が豊かなら、私が豊かなのである。人民が豊かで君が貧しいということは、いまだかつてないのだ」と仰せられた。
(『新編日本古典文学全集3・日本書紀②』、小学館、1996年)

つまり、天皇も含めた君主一般は、百姓ー人民のために存在しているとしている。百姓ー人民が本なのである。そして、百姓ー人民の貧富は君主の貧富に関連するとしたのである。それゆえに、仁徳天皇は、税金・夫役を免除して、百姓ー人民の生活再興を優先したとされているのである。

このような考えは「儒教的民本主義」といえる。中国古代の儒家の一人である荀子は、「天の民を生ずるは君の為に非ざる也。天の君を立つるは民の為を以て也」(「荀子」大略篇、『新編日本古典文学全集3・日本書紀②』、小学館、1996年より)といっている。8世紀の日本書記の編纂者たちは、仁徳天皇に仮託して、自分たちの統治の正当性概念を宣言しているのだ。

古事記・日本書紀によると、仁徳天皇には治水関係の事績が多い。仁徳天皇は、茨田堤(うまらたのつつみ 寝屋川付近の淀川の堤)、丸爾池(わにのいけ 奈良県天理市和爾町付近とされている)、依網池(よさみのいけ 大阪市住吉区庭井あたりとされている)、難波の堀江(淀川・大和川の水を海に通すための運河)、小椅江(をばしのえ 大阪市天王寺区小橋町付近 大和川の氾濫を防ぐための運河)、墨江の津(大阪市住吉区住吉神社付近の港)をつくったとされている。このような営為は、もちろん、仁徳天皇以後も続けられ(なお、統治者の営為だけではないだろうが)、現在の大阪が作られていったのである。このような治水事業の実施も「民の為」といえるであろう。万葉集では仁徳天皇を「難波天皇」とよんでいるが、その名称はふさわしいといえる。大阪のような低地においては、まず治水なのである。仁徳天皇の時代は、巨大古墳が数多く作られ、そのためにも多くの税金や夫役が投じられたはずであるが、そのことに古事記や日本書紀はふれていない。古事記や日本書紀を編纂した8世紀の統治者たちにとって、仁徳天皇の事績として記憶されるべきことは、税金を免除して人民ー百姓の苦難を救ったことと、このような治水事業を実施したことなのである。

このような民本主義は、8世紀の統治者だけがもっていたわけではない。日本の古代においては、仏教や律令や文物とならんで、儒教もまた中国から取り入れられた。特に、日本書紀の記述は、中国からの儒教的影響にもとづくものといえる。中世においては儒教の影響は弱まったが、近世に入ると再び幕藩制権力によって「仁政」として意識されるようになった。そして、逆に人民ー百姓のほうも「仁政」を要求して一揆や訴訟を起こすようになった。その意味で、このような儒教的民本主義は、日本社会の「伝統」の一つになったといえる。例えば、現代日本社会では、統治者/被統治者の区別を前提にして、被統治者側から減税を要求したりする。それは、一方では民主主義的政治システムを前提にした新自由主義的な意識に基づくものであるが、他方で、統治者は、被統治者のために犠牲をはらうべきとする伝統的な儒教的民本主義に下支えされているのかもしれない。そして、このような儒教的民本主義の伝統は、国家の側が人民を重税などで過度に搾取したり、戦争や独裁などで人民に苦痛を与えたりすることへの抵抗の原理にもなりうるといえる。

しかし、儒教的民本主義の限界もまたあるだろう。まずいえることは、儒教的民本主義は、統治者/
被統治者の峻厳な区別に基づいているということである。被統治者の意志に基づいて統治されることはありえない。儒教的民本主義では、仁徳天皇のような場合でも、統治者の一方的な恩恵にすぎず、統治者/被統治者の秩序は崩れないのである。

また、橋下徹や松井一郎、さらには安倍晋三首相のような現代の統治者たちも、よく「民間」という言葉をよく口にする。国家の規制・税金から「民間」を解放せよという論理を彼らは有している。儒教的民本主義における国家/「民」という対立図式は、彼らの中にもある。しかし、その場合の「民」とは「民間企業」なのである。「民間企業」とは、資本による労働者への支配から成り立っている。「民間企業」の活動が活発になるということは、資本による労働者への支配が拡大するということになるだろう。

そして「民間企業」=資本を、「民」一般にすりかえて、「民間企業」に有利な規制緩和や税制改正、公共事業の進展を訴え、それにより選挙で多数を獲得し、「民」一般の多くを加害するような政策を推進することもなされている。これは、前近代の社会で成立した儒教的民本主義の中では理解できない状況といえる。儒教的民本主義において形成されてきた「民」の伝統的概念とは何かということ、これは歴史学をこえて問い直さなくてはならない課題である。

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