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福島第一原発事故以後、よくいわれることは、日本は広島・長崎に原爆投下されて、原子力の危険性はよくわかっているにもかかわらず、なぜ、原発開発を全面的に押し進めたということである。

このことについては、さまざまな要因が考えられるであろう。日本人といっても、一概には概括できない。原子力予算を1954年にはじめて提起した中曽根康弘らは、保守党の中でも本格的な再軍備を指向したグループ(改進党)だった。一方で、1955年の原子力基本法の制定については、彼らだけでなく、この時点での本格的再軍備を望まなかったといわれている吉田茂に近いグループ(自由党)や、再軍備に反対していた日本社会党の人びとも参画していた。このことについては、また、詳論しなくてはならない。

ただ、総じていえば、これらの人びとに共通して、「原子力の平和利用」へのあこがれがあったといえるだろう。それは、例えば、1954年に成立した原水爆禁止運動においても通底していた。このブログでも前に紹介したが、1954年5月28日に中野区議会において「原子兵器放棄並びに実験禁止その他要請の決議」が提案され、これも全会一致で可決した。提案者近藤正二は、決議の趣旨について、次のように語っている。

(前略)
 今般のビキニにおきますところの伝えまするところの実況と申しますものは、そのビキニ環礁におきますところの爆発点におきましては、地下百七十五フィート半径一マイルの大きな穴を起しまして、そこの噴火口から爆発いたしました所の珊瑚礁の飛沫というものが富士山の三倍の高さまで到達し、それが今日見ますような空から灰が降る、あるいはもらい水であるところの雨水にまでもその放射能によるところの被害というものが感ぜられるわけでございます。
 翻って考えまするに、原子力の破壊力というものは、七年前に比べますると、その力は一千倍の惨害を呈するところにまで至っておりまして、今日の日進月歩の科学の力をもっていたしまするならば今後その猛烈な破壊力の到達するところは、これを戦争目的あるいは破壊的な形において実験するならば、人類は真に破滅に瀕するということは、もはや明瞭な事実でございます。しかるに人類は現在この原子力を持ちましたことによりまして、かつて人類の歴史に見なかったところの光栄ある未来を築き、精神的にもまた物質的にも偉大な繁栄が、この原子力の平和的な利用ということにかかって存在し得るのでありまして、逆な形で今申したごとく、これを破壊目的に使用するならば、人類は破滅に瀕するという、まことに人類の歴史にとって、かつてない重大な危機に立っておると言っていいのであります。
(後略 『中野区史』昭和資料編二 1973年)

核戦争には恐怖を示す一方で、「原子力の平和利用」には多大な期待をもっていたのである。

このような意識は、戦前核兵器を開発していた科学者にもみられた。このブログでもとりあげた武谷三男は、京都帝国大学を卒業し、湯川秀樹、朝永振一郎などと素粒子論を研究していた。戦時期においては、反ファシズムを主張した雑誌『世界文化』『土曜日』などに関係して検挙される一方で、原爆開発研究にも関与していた。そして、戦後においては、民主的科学者として数々の発言を行った。

その武谷は、「原子力を平和につかえば」という文章を『婦人画報』1952年8月号に寄稿している。この文章は、武谷の『戦争と科学』(1958年1月刊)に収録されている(なお、引用は『武谷三男著作集』3、1968年より行った)。

この文章が掲載されたのは、サンフランシスコ講和条約が1952年4月に発効した直後のことであった。GHQは日本における原子力研究を禁止していたが、講和条約においては原子力研究を禁止しておらず、講和条約発効後は、原子力研究・開発は可能になった。その時点で、武谷は、「原子力の平和利用」を主張したのである。中曽根らの原子力予算提起よりも2年近く前のことである。

武谷は、まず、核戦争の脅威と悲惨を、このように述べている。

 

原子力という名が、われわれ日本人にあたえる感じは、決してよいものではない。広島、長崎の無残な記憶がますます心のいたみを強くしているのに、ふたたび日本をもっとすさまじい原子攻撃の標的にしようという計画がおしすすめられている。そのような計画は権力と正義の宣伝によって行われるので、国民の多数がこれはいけないと気がついたときには、手おくれになるかも知れない。
 キュリー夫人、ジュリオ=キュリー夫人、マイトナー女史、このような平和主義的母性の名をもって象徴される原子力が、このような、人類の破滅をも考えさせるものにどうしてなったのだろうか。原子力は悲惨を生むためにしか役立たないのだろうか。
 初期の原子爆弾の1発だけで高性能火薬2万トンのエネルギーをもっている。今日研究が進められている水素爆弾1発で関東地方全域に被害をおよぼすことができる。(『戦争と科学』p129)

この武谷の考えを図像化したものが、次の図の左側部分である。キュリー夫人らの原子物理学の発展が原子工場をへて、原水爆投下につながっていくことがここで描かれている。図の中には「水素爆弾一発で関東地方全滅」というキャプションも挿入されている。

武谷三男『戦争と化学』p,p130-131

武谷三男『戦争と化学』p,p130-131

しかし、ここで、武谷は、次のように主張する。

 

このような大きなエネルギーを、人類の破滅のためにではなく、人類の幸福のために使えないのだろうか。そうだ! 原子力はほんとは人類の幸福のために追求され、また人類の将来の幸福を約束している それを現実化するためには、戦争をほっする人々に権力を与えないだけで十分なのだ。(『戦争と科学』p129)

武谷は、原子力は本来人類の幸福のために使うものであると、ここで提起したのである。武谷は、地上の自然力、水力も風力も、石炭も石油もすべてみなもとは太陽の光であり、その根源が原子力であることを研究者は解き明かしたとした。「そして、間もなく、地球上で原子の奥ふかくひそむ巨大なエネルギーを解放することに成功したのであった」(『戦争と科学』p134)と述べている。このことを示しているのが、先の図の右側部分である。たぶん、上の方に描かれているのが太陽である。それは、石油、水力、石炭などのエネルギーの源泉なのだ。さらに、もう一度左側部分にもどれば、この太陽の光は、原水爆とも通底していることになろう。

その上で、武谷は、原爆製造をしているアメリカの原子炉では、100万キロワットの電力に相当する熱を冷却水を通じて捨てている、このような原子炉を使った発電所が10基あれば、当時の日本の発電総量(700万キロワット)は凌駕することになる、ウラニウム40トンで日本の1年間の電力をまかなうことができる、飛行機で運べる程度の燃料しか要しないので、全世界どこでも発電所が建設可能になると述べている。

その上で、下図に示すような、「原子力の平和利用」がもたらす、「明るい未来」を提示した。

武谷三男『戦争と化学』p.p132-133

武谷三男『戦争と化学』p.p132-133

武谷は、次のように述べている。

 

だから原子力が利用されるようになると北極や南極のような寒い地方、絶海の孤島、砂漠などが開発され、そういう地方にも大規模な産業が行なわれ、大都市を作ることができるようになる。また、ロケットで地球外にとび出すこともできるようになろう。全く太陽に相当したものを人間が手に入れたのだから当然だろう。(『戦争と科学』p.p134-135)

今や、なにかめまいのしそうなほど、楽天的な未来予想図である。これらについては、先の図の中に、ロケットや原子力による砂漠開発として描かれている。

そして、日本についても、武谷は、このように主張している。

 

日本なども電力危機は完全に解消されるだろう。そして電力をもっと自由に家庭に使用することができる。今日の日本の一般家庭では電灯とラジオ位にしか使われていないが、台所の電化はもちろん、煖房、冷房、洗濯、掃除もすべて電力で行われることになるだろう(『戦争と科学』p135)

このような家庭電化は、原発だけのことではないが、実現している。さらに、次のような電力の農業利用を主張している。これも戦後日本で実現したことであった。これは、先の図の中にも出ている。

 

農業にも電力がふんだんに使われると、これまでできにくかったことができる。大規模な温室、太陽灯を使って、いつでも新鮮な野菜や果物ができるだろう。また、砂漠や水のない地方にも、地下水を深い所からどんどん汲みだして、農業を行なうことができるだろう(『戦争と科学』p135)

武谷にとっては、放射性廃棄物も有効利用されるべきものなのである。次のようにいっている。

 

原子力の副産物として、大量にそしていろいろな種類の放射性元素が得られる。これも軍事的には恐るべき放射線戦争に使おうと考えられている。しかし、平和的に使うならばいろいろな化学変化の研究や医学に使われる。例えば、植物が行なっている同化作用もこれを使って大分明らかになった。しまいに澱粉の人工合成ができるようになるかも知れない。
 また人体の新陳代謝の機構も放射性元素で明らかにされつつある。きっと近い中に肥った人がやせたり、やせる人が肥ることも自由になるだろう。また皮膚が美しくするような化粧法も実現するだろう。(『戦争と科学』p.p135-136)

もちろん、その後の放射線医療などには放射線元素などが使われているのだが…。先の図の「アトミック整形医院」などはそれにあたるだろう。

基本的に、原子力のリスクは軍事利用のものとし、「平和利用」については、放射性廃棄物までプラスのものとしてみているのである。その上で、将来の近代化の願望を実現するものとして、「原子力の平和利用」をとらえているのである。

武谷は、このような近代化を実現する「原子力の平和利用」は、被爆国日本の権利であると、『改造』1952年11月号に掲載した「日本の原子力研究の方向」(『武谷三男著作集』2、1968年、p471より引用)で提言している。

 

日本人は、原子爆弾を自らの身にうけた世界が唯一の被害者であるから、少くとも原子力に関する限り、最も強力な発言の資格がある。原爆で殺された人びとの霊のためにも、日本人の手で原子力の研究を進め、しかも、人を殺す原子力研究は一切日本人の手で絶対に行なわない。そして平和的な原子力の研究は日本人は最もこれを行う権利をもっており、そのためには諸外国はあらゆる援助をなすべき義務がある。
 ウランについても、諸外国は、日本の平和的研究のために必要な量を無条件に入手の便宜を計る義務がある。
 日本で行う原子力研究の一切は公表すべきである。また日本で行う原子力研究には、外国の秘密の知識は一切教わらない。また外国と秘密な関係は一切結ばない。日本の原子力研究所(なお、この時点では日本原子力研究所は設置されていない)のいかなる場所にも、如何なる人の出入も拒否しない。また研究のためいかなる人がそこで研究することを申込んでも拒否しない。

武谷は、被爆国日本であるからこそ、原子力の平和利用をすすめる権利があるとしている。そして、それは、軍事目的で行うアメリカなどの研究から秘密情報を得ることなく自主的に進めるべきであり、研究自体公表すべきものとした。さらに、どのような人が日本の研究所に立ち入っても拒否しないとしている。これらの原則は、軍事利用に転用せず平和利用に日本の原子力開発は限定しなくてはならないというところからたてられているといえよう。この提言は、最終的に、「公開」「民主」「自主」からなる原子力三原則という形でまとめられた、1954年の日本学術会議声明の源流となった。そして、この原子力三原則は、1955年に策定された原子力基本法にも取り入れられたのである。

さて、もう一度、武谷の議論に立ち返ってみよう。一方で「原子力の平和利用」への大きな願望があり、他方で被爆国としての核兵器・核戦争への忌避観が、この武谷の議論の二つの柱であったといえる。そして、この段階での武谷の議論は、原子力のリスクをもっぱら軍事利用に即してとらえ、平和利用においてはリスクをほぼ無視しているといえるのである。

武谷自身は、このブログでも多少ふれたように、1950年代後半には原子力のリスクを認識し、原子力開発のあり方を強く批判していくようになる。その意味で、武谷について、ここで批判するつもりはない。ただ、一つ、言いたいことは、この時点での武谷の議論は、武谷個人のものというよりも、この当時の日本社会の原子力に関する意識構造をある意味ではクリアにみせているのではないかということである。被爆国であるがゆえに、核兵器としての軍事利用には強く反対しつつ、その反対物として平和利用を称揚し、被爆国の権利としてしまう。そして、「原子力の平和利用」においてもさけることができないリスクを無視する。これは、武谷に限定できることではなかった。そして、このような意識が、日本の原子力開発・利用の根底に流れているのではなかろうか。そのような思いにかられるのである。

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そろそろ、大震災の他の局面にテーマを移そうと考えていたが、最近は連日200ビューをこえる閲覧で、原発の歴史的背景を知りたいという需要の大きさを実感した。知人らのすすめやご教示もあるので、より深く原発の歴史をみておこう。なお、私は、近代都市史が専門であり、科学史や現代史は、本来の専門ではない。典拠はあげておくので、より深く知りたい方は、それらをみてほしい。

これまで、東電と東電が福島に建設した二つの原発についてみてきた。より広く、日本全体の原子力開発の歴史をみてみよう。日本における原子力開発の歴史にいては、二人の政治家の存在が起爆剤となっている。その二人とはだれか。中曽根康弘と正力松太郎である。ここでは、中曽根を中心に考えておこう。

まず、戦後の原子力開発をめぐる状況についてみておこう。戦中、日本は原子力開発を行っていたが、占領軍は日本の原子力開発を禁止し、1947年に国産のサイクロトンが廃棄された。

しかし、1951年のサンフランシスコ講和条約には、日本の原子力開発を禁ずる項目はなかった。ここで、原子力開発は「解禁」されたのである。戦中に原子力研究に携わってきた伏見康治大阪大学教授(余談だが、SF仕立てで相対性理論を説明したガモフの『不思議の国のトムキンス』の訳者)や、日本学術会議会長の茅誠司東京大学教授(後の東大総長)は、原子力の研究を行う「原子力委員会」の設置を1952年に提案した。しかし、日本学術会議内部での批判論・尚早論があり、「原子力問題委員会」なるものを設置したのみで、原子力研究自体に踏み切ることはできなかった。

一方、世界情勢も動いていた。1950年代初めは、米ソの間で水爆開発競争が行われてきたが、1953年、ソ連が水爆実験に成功するとアメリカは、競争の対象を転じた。日本原子力文化振興財団編『二五年の歩み 原子力文化をめざして』(1994年)で「原子力時代の幕開け」を執筆した元日本経済新聞編集委員佐々木孝二は、

ソ連が水爆実験をした年の一二月八日、第八回国連総会でアメリカのアイゼンハワー大統領は「アトムズ・フォア・ピース」の声明をおこない、原子力の平和利用の道へハンドルを切った。アメリカの方向転換の背景には、アメリカの原水爆の独占体制が崩れたことがあったといわれている。こんどは、平和利用の面で世界の主導権を握ることをねらっての画期的な提案だった。

と述べている。なお、日本原子力文化振興財団は、推進側がつくった組織であり、これが一般的な評価であろう。具体的には、今の国際原子力機関(IAEA)の源流にあたる機関にウランなどを主要国が供出し、それを平和目的に役立てるように各国にわりあてるというものであった。その後、アメリカでは原子力産業会議などが経済界を中心に結成され、さかんに活動していた。

このように、アメリカを中心に平和目的の原子力開発が提唱される一方、国内では、開発の中心たるべき日本学術会議の科学者が原子力研究に踏み切れない状況であった。

そこを打破したのが、1954年の中曽根康夫の行動であったと、本人が述べている。本人の回顧録(中曽根康夫『政治と人生―中曽根康弘回想録』1992年)を少しみてみよう。

このとき私は、原子力の平和利用については、国家的事業として政治家が決断しなければならないという意を強くした。左翼系の学者に牛耳られた学術会議(なお、念のためにいっておくと、これは中曽根自体の表現)に任せていたのでは、小田原評定を繰り返すだけで、二、三年の空費は必至である。予算と法律をもって、政治の責任で打開すべき時が来ていると確信した。
しかし、当時、私の属していた改進党は少数野党で、予算や法律を単独で通す力がなかった。じりじりしていたところ、いわゆる“バカヤロー解散”(吉田茂首相在任時)によって、自由党の過半数が崩れ、予算も法律も改進党の協力がなければ成立しないはめになった。私は天の与えた機会とばかりに、予算修正で原子力平和利用研究への突破口を開こうと考え、同志に相談した。みな、賛成してくれたが、このことが事前に漏れれば、学界やジャーナリズムの反対で、こっぱみじんに吹き飛んでしまう。したがってことは秘密裡に進められ、突如、予算修正案の形で飛び出した。

予算や法律を通す力のない少数与党と取引して、中曽根は自分の政策を実行できる予算修正をのませたのである(今のことではない)。具体的には、1954年3月3日の衆議院予算委員会で、自由党・改進党・日本自由党の予算共同修正案が提案され、原子力平和利用研究費補助金二億三千五百万円とウラニウム資源調査費一千五百万円、合計二億五千万円の“原子力予算”が盛り込まれたのである。

この背後には、保守合同への動きがあった。1954年11月には、改進党・日本自由党・自由党の一部分派により日本民主党が成立し、総裁に鳩山一郎がなる。12月には吉田茂が退陣し、鳩山一郎が首相となった。そして、翌年11月には自由党と民主党が合同し(保守合同)となる。この保守合同により、正力松太郎が入閣し、「原子力担当大臣」として、原子力行政を強力に推し進めていくが、それは、後述していく予定である。ただ、保守合同とは、原子力開発を推進する体制でもあったともいえるのではないか。

他方、この予算は、1954年3月4日の『朝日新聞』の社説「原子炉予算を削減せよ」で酷評しているように、はなはだ奇妙な予算であった。同社説では「原子炉製造補助費というが、いったい、どこの、だれが、日本で原子炉製造計画を、具体的に持っているか」というように、具体的な計画も事業主体も想定していないものであった。前述したように日本学術会議は原子力開発計画をもっていなかった。また、修正した自由党・改進党・日本自由党の間で、本予算の使途について統一見解をもっていなかった。中曽根は「なぜ補助金が二億三千五百万と細かいのかという質問に、『濃縮ウランはウラン235ですよ』と答えて爆笑を誘ったりもしながら」と述べている。

ただ、中曽根とその同志たちの意志は堅かった。中曽根は、次のように回想している。

われわれは確信犯であったから、いかなる攻撃にも屈しなかった。特に稲葉氏(稲葉修。ロッキード事件時の法相)は信念居士であり、法学博士でかつ中央大学の憲法教授であったから、学術会議に対抗するには打ってつけであった。当時、反対の申し入れに来た学者に、「学者が居眠りをして怠けているから、札束でほっぺたを打って目を覚まさせるのだ」と私(中曽根)が言ったと伝えられたが、これも実は稲葉氏の発言であった。

「学者が居眠りをして怠けているから、札束でほっぺたを打って目を覚まさせるのだ」とは至言である。とにかく金を出すから、原子力開発せよ。それが、中曽根たちの戦略であった。

この原子力予算は、衆議院を通過してしまった。参議院では、社会党・共産党から質問を受けたが、1954年4月3日に自然成立した。ちなみに、これが初めてのの自然成立であった。

この後も、日本学術会議などを相手とした中曽根の苦闘は続き、さらに正力松太郎が参入してくる。他方、1954年3月、アメリカのビキニ環礁における水爆実験により、第五福竜丸事件が起き、船員が被曝して1名死亡し、さらに放射能汚染されたマグロ(原爆マグロ)が多数日本に水揚げされて、今日の風評被害の原型ともいうべきパニックがおき、日本国民における放射能への恐怖が強まった時期でもあった。これらのことを、今後記述しておこう。

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