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さて、東海村に研究炉(日本原子力研究所)・商用炉(東海発電所)が設置されたが、それは被ばくのリスクを少しでも回避するために過疎地の沿海部に立地するためであった。しかし、逆に、茨城県や東海村は、この立地により、人口増を含む地域開発を望んでいた。

このことは、日本初の原発である東海発電所が営業運転を始める1966年開始)1960年代においても問題になっていた。そのことが、財界中心に結成された原子力開発・利用推進団体である日本原子力産業会議(現在日本原子力産業協会)が発行した『原子力開発十年史』(1965年)に記述されている。『原子力開発十年史』に依拠しながら、みておこう。

原発が立地している地域の整備については、1959年頃からすでに原子力施設地帯整備法案の策定という形で議論されていた。しかし、周辺地帯の緑地化、建築制限などの規制面と、工場地帯・産業関連施設整備などの促進面が並立し、関係各省の調整が行き詰まってしまったという。つまり、原発立地にもともと内在している二面性が露呈していたのである。

そこで、原子力産業会議は、1961年9月に原子力施設地帯整備特別委員会を設置し、1962年2月に検討した結論を国会などに提出した。原発周辺は土地の買収をすすめて、道路拡張、公園・レクリエーション施設の整備を進め、空地地区指定を含めた土地利用計画を策定、さらに主要道路の整備や市街地開発にともなった新規道路の設置、上下水道や工業用水の整備、放射能安全対策の実施などを求めていた。開発促進するよりも、空地地区指定のように規制面が強いものといえる。

そして、原子力委員会は、1962年9月、原子力施設地帯整備専門部会を設置し、東海村周辺を対象として、原子力施設地帯整備の方針を検討することにした。

その場合、まず想定されたのは、原発事故の際、どれだけの地域が被ばくにさらされるかといことであった。その場合、1957年にメルトダウンを起こして周囲に放射能をまき散らした、イギリスのウィンズケール原発事故の規模を参考にすることになった。その規模の事故で被ばくを受ける範囲を風下側約8km以内、気象条件の良い場合では約2.4km以内とし、安全性を見込んで原発から10km以内を対象とすることになった。

そして、1963年7月に、同専門部会は中間報告を行った。『原子力開発十年史』はその内容を次のようにまとめている。

 

この結果、大部分の市町村については、それぞれの都市計画に従って、人口増加が行われてさしつかえないが、一部地域については、特別の考慮を必要とすることが明らかとなった。すなわち、日立市の南東部については、そこが東海発電所の比較的近傍であること、すでにかなりの人口集中が行われているので、現在でもなんらかの施策が必要である。東海村については将来東海駅付近に人口が増加する見込みなので、それに見合う施策が必要である。勝田市(現在はひたちなか市)についても、将来の人口増加をおさえるともに、なんらかの方策を必要とする。以上のほか原子炉施設から約2km以内の人口増加は望ましくなく、また、2〜3kmの地域の人口が増加する場合には、それに見合う施策が必要であるという結論を出した。(『原子力開発十年史』p333)

具体的には、次の地図をみてほしい。Aが東海発電所である。日立市は東海村の北側、勝田市(現ひたちなか市)は東海村の南側に接している。東海駅などの東海村の主要部は、東海発電所や日本原子力研究所のある沿海部の西側である。つまり、原子力関連施設の周辺での人口増加は「対策」が必要であり、できれば人口増加を抑制すべきであるとしたのである。特に2km以内の人口増加は望ましくないとしているのである。

そして、専門部会では、1963年7月に都市計画小委員会を設置して、東海村周辺の具体的な都市計画のプランを検討することになった。1964年6月に中間報告が行われ、その内容をもとに専門部会は原子力委員会に答申した。『原子力開発十年史』では、その内容を次のように紹介している。

(1) 施設地帯の住民の安全の確保と福祉の増進を前提として、人口や各種施設の配置とその規模の適正化を期しつつ、この地帯の健全な発展を図ることを目標とする。
(2) 具体的には、施設地帯を3段階に分け、原子力施設隣接地区(施設からおおむね2km未満)にはつとめて人口の増加を生じないよう、原子力施設近傍地区(おおむね2km以上6km未満)には、規模の大きい人口集中地区が存在しないようにし、また、その他の周辺地区(おおむね6km以上)には、人口の増加が正常に行われるよう留意する。
(3) したがって、原子力施設地帯の理想像は、白亜の施設を、公園、緑地などのグリーンベルト地帯がとりまき、その周囲には工場その他居住用以外の諸施設は配置され、さらに、その外側には住宅が整備され、また、これらを結ぶ道路、衛生施設などが整備されている。(後略)
(『原子力開発十年史』p.p333-334)

これが、原子力委員会などが描く、原発周辺地域の理想像なのである。事故による被ばくリスクを考慮して、隣接地区には住宅・工場をなるべく置かず、グリーンベルト地帯とする。その外側の近傍地区においても、工場などは設置しても、人口集中地区が存在しないようにする。原発周辺では、人口増加をなるべく抑制することが求められているのである。これは、たぶんに、立地地域の人びとの思いに反していたであろう。

そして、この中間報告では、原発隣接地区では、国や公共団体が、土地の買収などを行い、緑地化・公園化や農業地区化を進展させるべきとした。近傍地区においても、人口集中を抑制するため、都市計画法などで調整するとともに、この地区でも緑地・公園の拡大をはかるべきとしたのである。

結局、この「理想像」がどれだけ現実の原発周辺地域の整備の中で生かされたのか、これは、今後検討していく課題の一つである。ただ、一つ言えることは、1964年5月というほぼ同時期に出された原子炉立地審査指針とほぼ同一の構造をもっていることである。原発に隣接する地域は低人口地帯であり、さらに人口密集地帯から離して原発は設置されなくてはならないという審査指針を、より具体化したものといえよう。

原子力関連施設の周りに緩衝地帯を設けるということは、安全対策としては適切なことである。1999年の東海村JCO臨界事故においても、2011年の福島第一原発事故においても、その必要性は実感されたといえる。その意味で、例えば、漁村の真ん前にある美浜原発などは、危なっかしくみえるのである。

福井県美浜原発(2011年5月25日撮影)

福井県美浜原発(2011年5月25日撮影)

しかし、このように開発が規制されるということを、原発立地自治体の人びとは望んでいたとはいえないだろう。結局、被ばくのリスクを恐れて低人口地帯に設置し、人口増加を抑制するという原発を設置する側の考えと、地域開発を望む原発立地自治体側の考えは相矛盾しているのである。ある意味で、「低開発の開発」とでもいえようか。原発による開発のこのような性格が1974年に創出される電源交付金制度の前提になっているとみることができる。

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