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Posts Tagged ‘日本原子力研究所’

さて、1960年末に関西研究用原子炉が大阪府熊取町に建設されることが決まり、福井県の誘致活動は挫折したのだが、その1年以上後の1962年2月27日、福井県知事北栄造は福井県の2月議会(当初予算案が審議される)の所信表明演説のなかで、次のように述べた。

(前略)現況を見ますと、まず各位並びに県内外有識者の御協力のもとに策定されました県総合開発計画もいよいよ第二年度目を迎え、活気と躍動に満ちた県政諸般の総合施策も逐次軌道にのり、着々その成果を収めつつあります。
 たとえば置県以来の大事業たる奥越電源開発は、電発、北電の共同開発計画も決定し、着々その緒につきつつあるのでありますが、さらに本県の大動脈たる北陸線の複線電化、国道八号線を初め主要道路、港湾の整備充実、観光事業の一大躍進、大小工場特に呉羽紡績工場の誘致、さらには将来の県勢のきめ手となる原子力第二発電所誘致にも明るい見通しにある等、本県勢一大躍進の態勢は飛躍的に整備されつつあるのであります(後略)。
(『第百四回定例福井県議会会議録』p12)

つまり、ここで、北栄造は「原子力第二発電所誘致にも明るい見通しにある」ともらしたのである。

この「明るい見通し」について、具体的な内容が明らかになったのは、3月2日であった。この日、西山光治県議は自由民主党を代表して質問し、最後に次のように問いかけた。

(前略)最後に原子力発電所誘致についてでありますが、知事は予算案の説明にあたり、原子力第二発電所誘致にも明るい見通しがあると述べておられますが、単なる希望的観測であるか、具体的な見通しのもとに立って説明されたのか存じませんが、原子力発電所が実現いたしますとすれば、本県政躍進の一大拠点となると申しても、あえて過言ではないと信ずる次第でありますが、これに対し現在いかなる段階にあるか、将来の見通し等についても、あわせて具体的にお伺いいたします。
(『第百四回定例福井県議会会議録』p38)

西山の質問に対して、北は次のように答弁し、その段階における原発誘致の状況を説明した。

 

最後に原子力の問題でございますが、実は本日午前十一時半に新聞記者に発表いたしたのでございますが、それの要旨は、地元の御熱意、川西町の御熱意に応えまして、県といたしましては予算の関係、その他がございまして急速に行きませんので、これまた開発公社において五十万坪の土地を確保して、そしてボーリングを始める。これは三日か四日に向こうから人が来ていただきまして、どの土地を五十万坪ほしいか簡単に申しますと、そこをボーリングを五、六ヵ所いたす手はずになっておるということを実は発表いたしたのでございます。私の率直な考えを申しますと、それほどにまず有望ではあるまいか、それは地元なり県なりが、それだけの熱意を示して資料を持っていきますならば、会社が動いてくれまいか、政府が動いてくれまいかということでございます。三木長官にも、この前議長さんと、電発の委員長さんと三人で参りまして、いろいろと懇請を申し上げました。福井を最も有望な候補地にしょうという言明もいただいておるのでございます。現在がそういうことで、これは一ヵ月か一ヵ月半ぐらいボーリングにかかると思いますが、単なる誘致運動だけでは、これはできませんので、気象の条件、地質の条件、これらも会社ですでに調査済みであるように考えられます。そのボーリングをいたしまして、中の地盤がどうであるかということがわかりますれば、私おのずから、全国の一番かどうか知りませんが、一、二、三番目ぐらいの中には入る、そうして皆さんの御協力なり国会議員の御協力をいただいて、そして政治的にも動いていきますならば、ここにきまること、まあ困難のうちにも非常に明るい見通しも持っております。これは最初二十五万キロか三十万キロの発電をいたすようでございますが、五十万坪と申しますと、またまたこれを三つか四つやるぐらいの余裕が残っておるはずでございます。もしもきまりますれば、東海村の二倍の計画を第一次に行なうらしいのでございますが、何といたしましても地盤がわかりませんし、私も自信をもって交渉ができないのでございますので、自信を持ってできますように、早急に、よその県でまだ手の打たない先にさようにいたしたいのでございます。こうしたことは、原子力会社にも意思は伝えておるのでございまして、確かきょう午後二時に会社の方面におきましても、私が申し上げた程度の発表を中央で行なっておるように打ち合わせ済みでございます。そうした私は明るい見通しにあると思うのでございまして、議会の特別の御協力を賜わりたいことをお願い申し上げる次第でございます。
(『第百四回定例福井県議会会議録』pp51−52)

要するに、福井県の嶺北地方にある坂井郡川西町(現福井市)において、福井県開発公社が50万坪(約165万㎡)の予定地を確保し、日本原子力発電株式会社が東海村の次に建設する原発の候補地としてボーリング調査を開始することになり、当日記者発表したというのである。この北の発言で「地元の御熱意」「川西町の御熱意」を強調していることに注目しておきたい。そもそも原発敷地の適不適は原発事業者しかわからないものである。このブログでも述べているように、1960年、すでに北知事は北陸電力が坂井郡における原発建設を打診していることをもらしている。また、この地は同年の関西研究用原子炉建設の候補地であった。たぶんに、北電や日本原電などの原発事業者にとって、坂井郡川西町は原発候補地としてすでにリストアップされていたことであろう。川西町などが原電などと無関係に自主的な形で原発候補地として名乗りをあげることなどできようはずもない。

それなのに、なぜ、北知事は「地元の熱意」を強調するのだろうか。北は「地元なり県なりが、それだけの熱意を示して資料を持っていきますならば、会社が動いてくれまいか、政府が動いてくれまいか」と語り、自身と県議会議長さらに電源開発特別委員長の3人で所轄の三木武夫科学技術庁長官に陳情して「福井を最も有望な候補地」とする言質をとったことを紹介している。中央の会社や国を動かすには「地元の熱意」が必要という論理がそこにはある。この後、福井県議会をはじめ誘致自治体の議会では「原発誘致決議」がなされるが、それは「地元の熱意」を示すものなのである。すでに、関西各地で行なわれた関西研究用原子炉反対運動をみるように、「原子力」は一方において「忌避」されるものでもあったのだが、関西各地で忌避されていた「原発」を「地元の熱意」ーつまり主体性をもって迎えなくてはならないとされたのである。

そして、裏面においては、他県との競争意識が存在している。北は「早急に、よその県でまだ手の打たない先にさようにいたしたいのでございます」と語り、他県より先んじることを重要視しているのである。

このように、「政治的」な駆け引きがみられた反面、原発自体については、その危険性も含めて十分理解しているとはいえない。北は「これは最初二十五万キロか三十万キロの発電をいたすようでございますが、五十万坪と申しますと、またまたこれを三つか四つやるぐらいの余裕が残っておるはずでございます」と言っている。そもそも、原子炉の場合、爆発その他を予想して立ち入り制限区域を原子炉の出力に応じて広くとる必要があり、それが原発の敷地面積なのである。50万坪というのは出力1万キロワットという研究用原子炉が建設されることになっていた東海村の日本原子力研究所の予定敷地面積と同じである。この50万坪という敷地面積自体、アメリカの基準の約20%という過小なものであった。1万キロワットの原子炉でも過小な50万坪という面積しかない敷地に、その20〜30倍の出力の原子炉を建設し、さらに同じ敷地に複数の原子炉を建て増しするということを北栄造は希望しているのである。政治的な「駆け引き」ではそれなりに知恵を働かしているといえるのだが、原子力それ自体が何であるか、そこには知恵を働かせようとはしていないのである。

このように、1962年2月の福井県議会で、原発誘致方針が公表された。しかし、福井県の場合、福島県と比較すると、第一候補地にさしたる反対もなくすんなりと原発が建設されたわけではない。今後、その過程をみていこう。

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前回、拙著『戦後史のなかの福島原発 ー開発政策と地域社会』(大月書店、2500円+税)が近日中に出版されることをこのブログに投稿した。自己宣伝かたがた、本書の全体のコンセプトについて紹介しておこう。

本書のテーマは、なぜ、福島に原発が立地がなされ、その後も10基も集中する事態となったのかということである。そのことを、本書では、実際に原発建設を受容したり拒否したりする地域住民に焦点をあてつつ、「リスクとリターンのバーター」として説明している。原発事故などのリスクがある原発建設を引き受けることで、福島などの立地社会は開発・雇用・補助金・固定資産税などのリターンの獲得を期待し、それが原発建設を促進していったと私は考えている。

まず、リスクから考えてみよう。原子力についてのリスク認識は、1945年の広島・長崎への原爆投下と1954年のビキニ環礁における第五福竜丸の被曝を経験した日本社会について一般化されていた。1954-1955年における原子力開発体制の形成においては平和利用が強調され安全は問題視されなかったが、1955年における日本原子力研究所の東海村立地においては、放射能汚染のリスクはそれなりに考慮され、大都市から離れた沿海部に原研の研究用原子炉が建設されることになった。その後も、国は、公では原子炉ー原発を「安全」と宣言しつつ、原発事故の際に甚大な被害が出ることを予測し、1964年の原子炉立地審査指針では、原子炉の周囲に「非居住区域」「低人口地帯」を設け、人口密集地域から離すことにされていたのである。

他方で、1957-1961年の関西研究用原子炉建設問題において、関西の大都市周辺地域住民は、自らの地域に研究用原子炉が建設されることをリスクと認識し、激しい反対運動を展開した。しかし、「原子力の平和利用は必要である」という国家や社会党なども含めた「政治」からの要請を否定しきることはなかった。結局、「代替地」に建設せよということになったのである。そして、関西研究原子炉は、原子炉建設というリスクを甘受することで地域開発というリターンを獲得を希求することになった大阪府熊取町に建設されることになった。このように、国家も大都市周辺地域住民も、原発のリスクをそれなりに認識して、巨大原子炉(小規模の研究用原子炉は大都市周辺に建設される場合もあった)ー原発を影響が甚大な大都市周辺に建設せず、人口が少なく、影響が小さいと想定された「過疎地域」に押し出そうとしたのである。

他方で、実際に原発が建設された福島ではどうだっただろうか。福島県議会では、1958年に自民党県議が最初に原発誘致を提起するが、その際、放射能汚染のリスクはすでに語られていた。むしろ、海側に汚染物を流せる沿海部は原発の適地であるとされていた。その上で、常磐地域などの地域工業化に資するというリターンが獲得できるとしていたのである。福島県は、単に過疎地域というだけでなく、戦前以来の水力発電所集中立地地帯でもあったが、それらの電力は、結局、首都圏もしくは仙台で多くが使われていた。原発誘致に際しては、より立地地域の開発に資することが要請されていた。その上で、福島第一原発が建設されていくのである。しかし、福島第一原発の立地地域の人びとは、組織だって反対運動は起こしていなかったが、やはり内心では、原発についてのリスクは感じていた。それをおさえるのが「原発と原爆は違う」などの東電側が流す安全神話であったのである。

さて、現実に福島第一原発が稼働してみると、トラブル続きで「安全」どころのものではなかった。また、1960-1970年代には、反公害運動が展開し、原発もその一連のものとして認識された。さらに、原発について地域社会側が期待していたリターンは、現実にはさほど大きなものではなかった。すでに述べて来たように、原発の立地は、事故や汚染のリスクを配慮して人口密集地域をさけるべきとしており、大規模開発などが行われるべき地域ではなかった。このような要因が重なり、福島第二原発、浪江・小高原発(東北電力、現在にいたるまで未着工)の建設計画発表(1968年)を契機に反対運動が起きた。これらの運動は、敷地予定地の地権者(農民)や漁業権をもっている漁民たちによる、共同体的慣行に依拠した運動と、労働者・教員・一般市民を中心とした、住民運動・社会運動の側面が強い運動に大別できる。この運動は、決して一枚岩のものではなく、内部分裂も抱えていたが、少なくとも、福島第一原発建設時よりははっきりとした異議申し立てを行った。そして、それまで、社会党系も含めて原発誘致論しか議論されてこなかった福島県議会でも、社会党・共産党の議員を中心に、原発批判が提起されるようになった。この状況を代表する人物が、地域で原発建設反対運動を担いつつ、社会党所属の福島県議として、議会で原発反対を主張した岩本忠夫であった。そして、福島第二原発は建設されるが、浪江・小高原発の建設は阻止されてきたのである。

この状況への対策として、電源三法が1974年に制定されたのである。この電源三法によって、工業集積度が高い地域や大都市部には施行されないとしつつ、税金によって発電所立地地域において道路・施設整備などの事業を行う仕組みがつくられた。同時に立地地帯における固定資産税も立地地域に有利な形に変更された。大規模開発によって原発立地地域が過疎地帯から脱却することは避けられながらも、地域における反対運動を抑制する体制が形成された。その後、電源三法事業・固定資産税・原発雇用など、原発モノカルチャー的な構造が立地地域社会で形成された。このことを体現している人物が、さきほどの岩本忠夫であった。彼は、双葉町長に転身して、原発推進を地域で強力に押し進めた。例えば、2002年に福島第一・第二原発の検査記録改ざんが発覚するが、岩本は、そのこと自体は批判しつつも、原発と地域社会は共存共栄なのだと主張し、さらに、国と東電は最終的に安全は確保するだろうとしながら、「避難」名目で周辺道路の整備を要求した。「リスク」をより引き受けることで「リターン」の拡大をはかっていたといえよう。岩本忠夫は議会に福島第一原発増設誘致決議をあげさせ、後任の井戸川克隆もその路線を受け継ぐことになった。

3.11は、原発のリスクを顕然化した。立地地域の多くの住民が生活の場である「地域」自体を奪われた。他方で、原発のリスクは、過疎地にリスクを押しつけたはずの大都市にも影響を及ぼすようになった。この3.11の状況の中で、岩本忠夫は避難先で「東電、何やってんだ」「町民のみんなに『ご苦労さん』と声をかけてやりたい」と言いつつ、認知症となって死んでいった。そして、後任の井戸川克隆は、電源三法などで原発からリターンを得てきたことは認めつつ、そのリターンはすべて置いてこざるをえず、借金ばかりが残っているとし、さらに「それ以外に失ったのはって、膨大ですね。先祖伝来のあの地域、土地を失って、すべてを失って」と述べた。

原発からのリターンは、原発というリスクがあってはじめて獲得できたものである。しかし、原発のリスクが顕然化してしまうと、それは全く引き合わないものになってしまう。そのことを糊塗していたのが「安全神話」ということになるが、3.11は「安全神話」が文字通りの「神話」でしかなかったことを露呈させたのである。

この原発をめぐるリスクとリターンの関係において、福島の多くの人びとは、主体性を発揮しつつも、翻弄された。そして、このことは、福島外の私たちの問題でもある。

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大飯原発再稼働の一つの理由が「夏場の電力不足」とされていたことー今や、それも根拠薄弱なのだがーは、周知のことといえる。

しかし、原子力利用が開始された草創期である1956年にも、電力会社の連合体である電気事業連合会は、将来の電力不足を名目とした原発建設を、原子力委員会に陳情した。『科学朝日』1956年7月号には次のような記事が掲載されている。

   

電気事業連合会のお願い
 4月12日電気事業連合会の松根理事と関西電力の一本松常務とは原子力委員会を訪れて、正力、石川、藤岡の3委員に「原子力発電計画に関するお願い」をした。
 それにはまず昭和40年度に数十万kw(後に再び資料が出されて45万kwと発表された)の原子力発電を必要と予想されることをのべ、「われわれは以上を考慮して、これに対処すべき万全の態勢をととのえ、営業用原子力発電の開発と運営に当る所存でありますが、貴委員会において原子力開発利用基本計画の策定ならびにその実施計画の策定に当っては左記の事項を考慮されることを切望致します」として、次のような要望事項をあげている。
A 原子力発電の年次計画として、昭和32年10月までに動力用試験炉を発注。昭和35年10月までに動力用試験炉を完成。昭和36年までに営業用動力炉を発注。昭和38年から40年末までに順次営業用動力炉を完成するものとし、この仕事は電気事業者が行う。
B 動力用試験炉は2台以上。炉の型は適当な型を2種以上、場所は東京、大阪など。容量は電力10000kw以上とする。これらの原子炉は「早期実現のため」輸入すべきである。
C 営業用動力炉は電力10万kw級とし、これは電気事業者が直接やる。初期は輸入する。国産化は原子力委員会で考える。
D 以上の対策の確立を助けるため先進国から適当な技術顧問団を招いてもらいたい。

1965年(昭和40)には電力が不足するので、原発建設を急いでほしいということなのである。

このことをテーマとして推進派の物理学者である伏見康治らによって「座談会 日本の原子力コース」が行われ、その記事が『科学朝日』に掲載されている。伏見は「お伺いしたいのは足りなくなるという推定が妥当なものか相当狂う可能性のあるものなのか…。」と問いかけた。この問いに答えたのが、科学技術庁科学審議官・東京大学教授であり、河川学・土木学を専攻していた安芸皎一である。安芸は、電気需要が年に7〜4%づつ伸びるなどと述べながらも「実をいうとわからない」とした。安芸は「いままではいかにたくさんのエネルギーを早く供給しうるかだったが、いまは安いエネルギーがほしいということなんです」と主張している。具体的には、当時の電力の源の一つであった石炭火力発電所において、今後石炭価格の高騰が見込まれるということが指摘されている。結局は、安価な電力を得たいということだったのである。

電気事業連合会による発電設備予測(1956年)

電気事業連合会による発電設備予測(1956年)

後に、中島篤之助と服部学が「コールダー・ホール型原子力発電所建設の歴史的教訓Ⅱ」(『科学』44巻7号、1974年)で上記のように実績と比較している。1965年の電力は、電事連の予測では水力1435万kw、火力776万8千kw、原子力45万4千kw、総計で2257万2千kwであったが、実績は水力1527万kw、火力2116万2千kw、原子力0kw、総計で3643万2千kwであった。結局、火力発電が予想以上に伸び、原子力発電に依存する必要は、まだなかったのである。

この座談会に出席していた科学者たちは、早期の原発建設には否定的であった。北大教授で物理学者の宮原将平が「俗論」といい、東大教授で化学者であった矢木栄は「原子力がなかったらどうするつもりか」とこの座談会で述べている。伏見は「研究者を無視した恐ろしい高い目標がかかげられて、正直な研究者がその階段を上ろうとして落っこちてしまうという結果になるんです」と懸念していているのである。この座談会に出席していないが、原子力委員であった湯川秀樹も早期の原発建設には否定的であった。この時期は、世界でもソ連のオブニンスク発電所(1954年)くらいしか原子力発電所はなかった(なお、1954年よりアメリカは原子炉を電源とした原子力潜水艦を使用していた)。また、ようやく原子力委員会や日本原子力研究所が創設されたが、まだ、ようやく日本原子力研究所の敷地が決まったばかりで、日本では全く原子炉などはなかったのである。

しかし、原子力委員長であった正力松太郎は、早期の原発建設に積極的であった。そして、コールダーホール型原発を開発していたイギリス側の売り込みを受けた。結局、1965年までに原発を建設することを1956年12月に原子力委員会は決定してしまう。1957年には湯川秀樹が原子力委員を辞任し、1958年にはコールダーホール型原発の導入が決定されたのである。このように、科学者たちの懸念をよそに、電事連の「電力不足」を理由とした原発建設が結果的に実現していくのであった。これが、日本で初めての原発である、東海発電所になっていくのである。

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前回のブログで、現在の大飯原発再稼働問題において、客観的な意味における「安全」と、「信頼」という問題に変換される言葉だけの「安全」との間にギャップが生じていることを述べた。このことは、日本において最初に原発が立地された東海村において、すでに生じていたのである。

1956年、東海村に日本原子力研究所が設置され、さらに日本最初の商用炉が立地され、東海発電所として建設されていくが、その際、放射能汚染のリスクが重要であったことは、すでにこのブログで述べた。原子炉ー原発は、住宅・工場・農耕地・森林などの相関関係で立地が計画されていた。そして、放射能汚染水は、化学処理し希釈された後に、海に放流されることになっていた。それゆえに、東京から比較的遠い東海村が候補地の一つとして浮上してきたのである。

このことは、すでに報道されてもいた。1956年1月20日の『いはらき』新聞(現在の茨城新聞)は、動力用実験炉の建設候補地として、茨城県水戸市郊外の米空軍爆撃演習場(なお、実際に建設されたのはその北側に隣接した地域)と神奈川県武山旧海兵団跡の二つが浮上したことを報道した。その際、「また動力試験炉を置く研究所としては将来各電力会社や電源開発公社との協力による原子力発電の試験を行うことになり、また放射能による汚染の問題ともからんで水を豊富に使える海岸地帯が有利とされるところから、水戸市郊外と武山が選ばれたものとみられる」(なお、『いはらき』新聞の引用は『東海村史』通史編から行う)と、放射能汚染問題が候補地選定の要因であったことも伝えている。その意味で、原発について必ずしも「安全」というイメージはなかったと思われる。

2月1日には、日本原子力研究所の土地選定委員会が東海村の視察を行い、翌2日の『いはらき』新聞にその景況が報道されていた。そして、あわせて、地元自治体の首長たちの発言も伝えられた。その部分をここで紹介しておきたい。

 

《友末知事談》 三十日に川崎東海村長、宮原那珂湊市長、大和田勝田市助役のみなさんに集まってもらい、調査団の来県について打合せを行った。地元としては基本的態度としては誘致に賛成の意向のようである。県としても原子力の平和利用の一助としてまた商工業発展のために県下に原子力研究所の建つことは大いに結構なことだと思う。県会の方へはまだ正式に計ってはいない。
 《宮原那珂湊市長談》 正式に話合ったことはないが、地元としては賛成の意向が強いようだ。ただ考えられる放射能の汚染などの点に対して漁民がどの程度難色を示すかが問題だが、漁民たちの表面的な意思表示はまだあらわれていない。
 《大和田勝田市助役談》 この話が新聞紙上に報道されたので二十五日の市議会が済んだあと、全員に非公式に図ってみたところ大部分が研究させてくれということなのでまだ市としての態度は決定していない。とにかくここに研究所が建設されるかどうかは疑問なので、それが正式に決まってから、誘致策なり何なりを積極的に進めて行きたいと思っている。
 《川崎東海村長談》 私個人としては村の発展のためにたいへん結構なことと思い、三十日に友末知事と今度の視察について打合せた時もその旨話合った。村議会が改選したばかりなのでまだ正式には図っていない。

県知事は「商工業の発展」をうたい、東海村長も「村の発展」を旗印にして、原研誘致ーつまりは原発誘致に積極的であったことがうかがえる。他方、隣接する那珂湊市、勝田市はトーンダウンした対応をとっていたといえる。特に那珂湊市には那珂湊漁港があり、漁民たちが放射能汚染を懸念するのではないかという観測が述べられていた。誰からみても「原発は安全」とは言いがたかったのである。

2月6日には、県が地元関係市町村長や県下各界の代表を集めて原子力研究施設誘致懇談会を開催し、その席上で原子力研究施設誘致期成同盟会が結成された。しかし、「出席者の殆どが原子力施設についての知識がないため、つっこんだ発言もなく、久保三郎氏から『研究所の排水によって沿岸漁業に悪影響はないか』との質問が出た程度で了り」(『いばらき』新聞1956年2月7日号)と、ここでも放射能汚染による沿岸漁業への影響が懸念されているのである。

翌2月7日、東海村議会代表が原子力研究所を訪問した。そこで説明を受け、村をあげて誘致することになった。『いはらき』新聞1956年2月9日号において、次のように報道されている。

 

《川崎東海村長談》七日議会代表が原子力研究所を訪問、村上次官から今回設置を予定される原子力研究所の内容、被害の有無その他詳細な説明を聴取した結果、被害の心配は全然なく、しかも原子力の研究は既に世界の大勢で日本としては国を挙げてこれが研究を推進しなければ世界の原子力界から取り残されるということを聞いて大いに力を得、八日直ちに村議会を召集して以上のことがらを報告、なお県の高橋商工部長さんも議会に臨まれ説明されたので議員一同も了解し、満場一致、誘致の態度を決定したわけです。この結果議員、部落長、農委、教委、関係部落愛林組合長、農協組合長、青年会、婦人会各会長、木村晴嵐荘長、加納医務課長等約百名を以て原子力研究所誘致対策委員会を設置、引続き各住民にも内容を説明、協力を得て、全村一丸となって、誘致運動と今後の対策を推進することになりました。

直接説明を受けることで、議員らは「被害の心配は全然なく」ということを納得してしまうのである。そして、全村一丸となった誘致体制が東海村の中で形成されるのである。

原子力研究所関係者がどのような説明をしていたかはわからない。同日付の『いはらき』新聞では、研究炉を扱う原研関係だけで2000人の人が必要となり、動力炉を設置するならばもっと人手が必要になってくる、「東洋の原子力センターとして日本の名物になることも夢ではない」などと報道しているので、これに類したことを説明されたのではないかと思う。

他方で、放射能の汚染については、どうであっただろうか。このブログで、以前、原子力担当大臣であった正力松太郎が、1956年4月24日の参議院商工委員会において、次のように述べたことを紹介した。ここでも再掲しておく。

これは私しろうとの説明であるけれども、実は武山につきましてもずいぶん反対論があったのです。それはどういう点かというと、あそこで廃棄物を出す、あの出した廃棄物が逗子方面に流れて、鎌倉沿岸に流れて行きはせぬかと杞憂した人があったのであります。ところが東海村に至っては海岸の汚物が全部沖へ行ってしまうんです。全然その心配がない。そういう非常な有利な点がこれは東海村にあるのであります。

結局、原発の廃棄物を海に流すことは、大臣自体が認めているのである。今からみれば「安全」とはいえないだろう。ここまで、あけすけに東海村関係者に説明したとは思えず、包括的に安全であると説明したと考えられる。そして、このことも含めて、東海村では「了承」し、村全体で誘致活動を行うことになった。

結局、4月6日の閣議で、日本原子力研究所は、研究炉・動力試験炉ともどもすべて東海村に立地することになった。そのことは『いはらき』新聞4月9日号で報道されている。その紙面で、東海村議長の談話が紹介されている。東海村が原発立地に望むことを素朴に表現しているといえよう。

 

《東海村塙議長談》 幸いに地元には反対がなく挙村一致で事業を進められるので、この点大いに意を強くしている。愈本村に研究所が設置と決まり、人口も倍増することであろうし、地元としても受入れ体制に万全を期さなければならない。そんな関係で今まで役場職員の人員縮小も考えていたのであるが、今度は逆に増員して専任の係員を配置し、受入れ、建設事務に支障なきを期すことになろう。

東海村のような電力大消費地である大都市から離れたところに原発が立地したのは、汚染水などの放射性物質によるリスクが多くの住民にふりかかることを想定したからにほかならない。そのことは、汚染水を外海に流すという形で、新聞報道においても大臣答弁においても触れられていて隠すことはできなかったし、地元側でも懸念する声があった。そのような客観的にみた意味での「安全」への懸念を払拭し、「信頼」という形で「言葉だけの安全」を得るためには、説明会という形をとらざるを得なかったといえよう。

しかし、このことには、もう一枚の裏があるだろう。人口倍増、村の発展、県下商工業の振興などの「リターン」がなければ、よりリスクへの不安が強まったのではないかと考えれる。例えば、宇治の研究炉建設計画においては、設置する側の大学がいくら安全対策を説明しても、不信感は払拭できなかった。大都市近郊の宇治においては、新たな「リターン」を切実に欲しておらず、むしろ、原子炉は既存の生活を脅かすものとして認識されていたと考えられる。「リターン」を得るためには、政府などの「リスク」対策を「信仰」しなくてならなかたのである。

もちろん、公選の首長や議員たちにとって、住民の「安全」をあからさまに無視した形で「リターン」を得るわけにはいかない。自分たちもまた、この地に住んでいるのだ。「安全」を政府から「担保」してもらうことは、最低限必要なことであった。それは、東海村の時もそうであったし、大飯原発についてもそうなのである。

しかし、多くの住民に放射能のリスクを与えるわけにはいかないがために過疎地に建設された原発が、真に、立地自治体が求める「リターン」をあたい得るのだろうか。このことはまた、別にみていかなくてはならない。

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昨年、4月、福島第一原発事故で、放射能汚染水を海に流すということが行われた。例えば、韓国の中央日報日本語版は次のように伝えている。

福島第一原発、放射能汚染水1万トンを海に放流
2011年04月05日09時56分
[ⓒ 中央日報/中央日報日本語版] comment0mixihatena0
東京電力が放射性物質の濃度が法定許容値の100倍に達する汚染水1万1500トンを海に放流することにした。これは放流汚染水より高濃度の汚染水を保存する場所を確保するための措置だ。

東京電力は4日、「福島第一原子力発電所の集中廃棄物処理施設にたまっている汚染水1万トンと5・6号機の地下水保管施設にある1500トンを早ければ5日から放流する計画だ」と明らかにした。同社は「汚染水を放流しても人体には特に問題はない。原発周辺の魚類と海草などを毎日食べても年間放射線量許容値の1ミリシーベルトを下回る0.6ミリシーベルトにしかならない」と説明した。

東京電力はまた、2号機から放出される汚染水を防ぐために水中フェンスを設置することも検討している。2号機取水口付近の電力ケーブル保管施設にたまった汚染水が海に流れ急速に広がることを防ぐためだ。

東京電力は3日、汚染水流出を防ぐためにセメントコンクリートを投じ、吸水性樹脂と新聞紙・おがくずまで動員したが特別な成果を得ることができなかった。これに汚染水が海に流れ込む所周辺の水深5~6メートルの海底にカーテン式のフェンスを設置する場合、ひとまず汚染水の拡散を阻止する効果があると期待している。

東京電力はまず汚染水が流出する通路を確認するために白い粉末を汚染水がたまっている施設に投じた。

一方、文部科学省はこの日、福島第一原発から北西に30キロメートル離れた浪江村でこの11日間に年間許容値の10倍を超える10.34ミリシーベルトが検出されたと発表した。
http://japanese.joins.com/article/830/138830.html

この放流は、韓国その他の周辺諸国に無断で行われ、これら諸国から批判されている。

しかし、このような放射能汚染水の放流は、そもそも沿岸部に原発が立地している日本においては想定されていたことであった。1956年、日本初の研究炉・動力試験炉が設置されることが予定されていた日本原子力研究所の立地について、『原子力委員会月報』第1巻第1号(1956年5月発刊)によると、次のように協議されていた。

原子力研究所の敷地選定について

 昨年11月に発足した財団法人原子力研究所では、原子力研究所の建設をする敷地即ち原子炉の設置場所について土地の選定をするために、土地選定委員会を設けて昨年暮から6回に亘って会合を重ねて本年2月8日に結論を得た。この土地選定委員会の委員は次の諸氏であった。
 委員長 駒形 作次(原子力研究所副理事長)
 委 員 久布白兼致(原子力研究所常任理事)
     内田 俊一(原子力研究所理事、東京工大学長)
     岡野保次郎(原子力研究所理事、三菱重工業代表清算人)
     茅  誠司(原子力研究所理事、東京大学教授)
     木村健二郎(原子力研究所理事、東京大学教授)
     菅 礼之助(原子力研究所理事、電気事業連合会会長)
     田代 茂樹(原子力研究所理事、東洋レーヨン会長)
     中泉 正徳(原子力研究所理事、東京大学教授)
     堀田 正三(原子力研究所理事、住友銀行頭取)
 理 事 和達 清夫(中央気象台長)
     兼子  勝(地質調査所長)
     那須 信治(地震研究所長)
     広瀬孝六郎(東京大学教授)
     竹山謙三郎(建築研究所長)
     松村 孫冶(土木試験所長)
 会合を行った日時は、第1回は昭和30年12月27日、第2回は31年1月6日、第3回は1月13日、第4回は1月21日、第5回は2月4日、第6回は2月8日であった。候補地としては22地区があったが、これらについて土地選定のための要件として次の事項を考慮して選定を行った。すなわち
1.なるべく東京に近いこと。
 研究者が喜んで研究に入り得るということと、研究センターとして東京及びその附近の大学、各研究所との施設の共同使用という点から、東京より2時間以内で到達できるという点を重視する。
2.広さの充分なこと。
 動力試験炉まで含め一応50万坪ていどを目安にする。アメリカなどと異なり、人口稠密な日本ではいわゆるexclusion areaの公式では考えず、狭くとも施設を強化して、これを補備すべきであると考える。
3.国有地、国有林、公有地などが望ましい。
4.用水の十分なること。
 水量、水質が問題となるが、水質の点は技術的に克服できるので、水量の点を重視する。すなわち1万kWていどの炉の冷却水は温度によって多少の相違はあるが、夏期最悪の場合0.3トン/秒を必要とする。ただし、循環使用するので、冷却池を設けれぼ取水量は更に減少することができる。なを化学処理する場合も同ていどの用水が必要である。
5.風向及び風速(地表及び上空)
6.空気中の塵埃
7.雨 量
8.地質及び地勢
 地盤、地質並びに地震の経歴及び土工の難易等が考慮の対象となる。地震の被害は構造物の研究によりこれを防護することが可能である。従って整地の難易及び新しく整地した箇所に重量構造物を建設する場合の沈下等の問題を重視する。
9.断層、地震、洪水の経歴
10.地下水の状況
11.受電の容易、安定な電源が得られること。
12.排水の支障のすくないこと。
13.道路、整地等の附帯工事のすくないこと。
14.周囲の民家、工場等との相関位置
15.農地、森林等との相関位置
 これらのうち、5,6,12,14及び15は汚染に対する考慮であって、最も重視すべき事項であり、化学処理をしたあとこれ監稀釈放流するには大量の水を要し、関東地区ではそうした水量の河川は数えるほどしかなく、その点では外海に面した処が好ましい。たとえば1万kWの原子炉について燃料を100日間使用し、100日間冷却し、これを100日で処理するとし、汚染除去度を105ていどに仮定し、河川の汚染度を10-7μc/ccにするには5トン/秒の河川流量を要するのである。
 その結果、書類上、実地調査上候補地としてあげられたのは神奈川県横須賀の武山地区、茨城県那珂郡東海村の水戸地区、群馬県群馬居郡岩鼻村の岩鼻地区及び群馬県高崎市の高崎地区の4地区に絞られ次のような結論をだした。

 イ案 武山に動力試験用炉までを集中的に設置
 ロ案 水戸に動力試験用炉までを集中的に設置
 ハ案 武山の一部に国産炉までを設置し、水戸に動力試験用炉を分離して設置
 ニ案 岩鼻に国産炉までを設置し、水戸に動力試験用炉を分離して設置
 ホ案 高崎に国産炉まで設置し、水戸に動力試験用炉を分離して設置
 ただし、武山については米軍が使用中でこれが返還の見込みのない場合は不可であり、一部分使用可能の場合でも少なくとも半分ていど使用可能な事が必要である。
 岩鼻については、火薬工場が隣接していることが問題であるから将来この火薬工場の大きな発展は中止せしむることを条件とする。
 高崎については旧射撃場に建物の中心をおくことを想定しているので、その地帯(民有地)の入手が可能であることを要し、かつ附近の民家約20戸及び亜炭鉱山の立退きが必要である。
 水戸は東京からの距離がやや遠いが、大規模の動力炉及び化学処理工場としては好適であるので、今日より確保しておくことが望ましい。
 原子力研究所は以上の緒論を原子力委員会に報告したので、原子力委員会は2月15日臨時委員会を開催して原子炉敷地につき討議した結果、土地選定委員会の意見を尊重して、武山を実験用原子炉敷地の第1候補地と決定し、動力試験用炉は水戸に置くことも同時に決定した。しかし、武山地区は米軍が接収中であるので、その解除が行われなければ実際には敷地にはできないので、調達庁を通じて米軍の意向を打診した。3月5日には米極東軍司令部から「米軍としても極めて重要な基地であるが日本政府から強い要求があるならば2分の1までの返還を考慮することが可能である。ただし、そのかわりとして代替施設を提供することが必要である。」との非公式の口頭による回答があった。代替施設が土地を含むものか建物その他の施設だけであるかを確めるために9日に調速庁と原子力局からハーバート少将を訪問して質問したところ、
1.日本側から正式な具体的要請を正規の手続で行わなければ代替施設の詳細は判明しない。
2.もしも正式に要請を提出すればアメリカ軍は好意的に考慮する。
3.代替地は1エーカー対1エーカーの意味ではない。
という回答に接した。この回答は9日午後の原子力委員会に報告され、討議の結果、ただちに正式の要請をなすべきであり、そのために総理大臣に、「武山を原子炉敷地として原子力委員会で決定した。」旨報告することとなった。この報告を受けた政府は13日の閣議にこの件を諮ったが、船田防衛庁長官から武山は海上自衛隊の要地として3年前から米軍に折衝しており、現在も強い希望がある旨の異議があったので改めてはかることとなり、30日の閣議にはかったが決定せず、4月3日の閣議でも決定されず、4月6日の閣議で、「原子力委員会に再考を求める」との態度を決めた。原子力要員会は同日午後2時から定例委員会を開き、武山を断念して、これに代る候補地として水戸地区を選ぶことを決定したのである。この際の原子力委員会の発表は次のとおりである。
 日本原子力研究所の敷地については、かねて横須賀市武山を候補地として選んできた。しかるに政府としては種々の事情により、候補地選定について本委員会の再考を促された。原子力研究の開始は至急を要し、したがって敷地の決定は遷延を許さないので本委員会は慎重に審議して改めて、茨城県東海村を候補地として選ぶことにした。
 元来原子力研究所は1ヵ所にまとめて設置するのが理想的である。2ヵ所以上に分かれることは研究者の分散、施設の重復、総合研究の困難等の種々の不便がある。しかしながら-方において研究者の便宜ということも忘れてはならない点である。研究開始の初期の段階では、日本原子力研究所員以外の学者の協力を要することも多いので、この点は特に注意を要する。この研究者の便宜の点や、また既存施設の利用可能等の事情に重きをおき、まず実験炉の段階は武山で行うことが適当であると決定したわけである。
 きよう(6日)改めて東海村を選んだが、ここは地域が広く、実験炉から動力試験炉の段階までを1ヵ所で研究し得る利点がある。半面この地は交通が不便で、研究者の立場からは多少の欠点が認められ、また施設の完備にやや日時を要するであろう。これらの欠点を克服するために、できるだけの設備を至急施して研究の促進をはかるよう努力したいと考える。

 なおこのたびの件については、政府が原子力委員会の決定を十分換討の上、改めて本委員会の再考を促されたので、本委員会もこれを了とした次第である。政府は今後も委員会の決定を尊重されることを希望する。
http://www.aec.go.jp/jicst/NC/about/ugoki/geppou/V01/N01/19560518V01N01.HTML

要するに、このような経過をへて、日本原子力研究所は現在所在している茨城県東海村に設置が決まり、そして、研究炉第一号と動力試験炉第一号も東海村に設置されることになった。1957年には原子力研究所によって作られた研究炉第一号が臨界に達した。動力試験炉は1963年に臨界に達した。なお、その後、同地で建設された商用炉第一号は、官民合同の日本原子力発電株式会社によって東海発電所として建設され、1966年に営業運転が開始された。商用炉第一号が東海発電所である。

この立地をめぐる協議について、重要な論点となったのは、「汚染に対する考慮」であった。「5.風向及び風速(地表及び上空)」、「6.空気中の塵埃」、「12.排水の支障のすくないこと」、「14.周囲の民家、工場等との相関位置」、「15.農地、森林等との相関位置」の項目がそれにあたる。つまり、まずは、民家・工場・農地・森林など相関関係が重要であった。つまり、周りに住民が居住し生産活動が行われていることが少ないことーつまりは過疎地域であることが条件とされたといえるのだ。しかも、このようにいわれているのである。

これらのうち、5,6,12,14及び15は汚染に対する考慮であって、最も重視すべき事項であり、処理をしたあとこれ監稀釈放流するには大量の水を要し、関東地区ではそうした水量の河川は数えるほどしかなく、その点では外海に面した処が好ましい。たとえば1万kWの原子炉について燃料を100日間使用し、100日間冷却し、これを100日で処理するとし、汚染除去度を105ていどに仮定し、河川の汚染度を10-7μc/ccにするには5トン/秒の河川流量を要するのである。

つまりは、放射能汚染水は、河川水で希釈して、外海に放流されることが想定されていたのである。日本の商用原子炉ー原子力発電所は沿海部に建設されているが、その要因として、このことがあるといえる。

このことは、原子力担当大臣であった正力松太郎も認めていた。正力は、1956年4月24日の参議院商工委員会において、なぜ、武山ではなく東海村に設置されたのかという参議院議員白川一雄の質問に答えて、このように答弁している。

○国務大臣(正力松太郎君) 武山問題についてだいぶん世上を騒がせましてはなはだ相済みませんが、武山についても私ども一番遺憾に思いましたのは、あそこでは実験炉と動力炉とやれないのであります。ですから、従ってあそこでは実験炉だけでやらなくちゃならない。そのあとで動力炉を作るという悪条件があるのでありますが、そういうことでありますからして、最初研究所を作るには政府におきましては専門家の選定を見まして、そうして実験炉と動力炉の両方を置くことをやらしたのであります。ところがなかなか両方置くところは見当らなかった。そのうちに、いやそれよりも一つ動力炉はあとにしてまず研究炉だけを作ろう、それについてはなるたけ学者の研究の便利なところ、そうしますると、立地条件について便利という点は武山にありますけれども、他の点においては水戸の方が、つまり東海がまさっておるのでありますが、ただ学者の便利という点もあったから、それではこれを分離して、そしてこれを武山に持っていこうということになったので、決して初めから武山を最適地としたのじゃありません。最適地というのは学者の交通上便利という点だけであります。これを設けるについてはあそこではどうしても動力炉を設けられないのであります。従って動力炉をあとで設けるとしたら二重の設備が要る。要るけれども学者の人も皆希望するし、それからまたすぐ既存設備でも使えるところがあるからまあまあということになったのであります。ところがそのうちに政府としては閣議に諮りましたところ、武山については防衛上の計画も考えておるがまだ立っていないのだ、一つ委員会の方でもう一ぺん考慮をしてくれぬかということでありました。そこで委員会の方で考慮した結果、もともと武山が最適地ということじゃなかったのです。先ほど申し上げた通り動力炉を別にしなければならぬ、動力炉を別にすれば非常に費用がかかるのです。けれども一時的便利を考えたことですから、そういう事情も参照して、もともと二つの研究炉と動力炉を置くのがほんとうであるからして、それじゃ一つ水戸にしようじゃないかということにしたのであります。もっともこの水戸にする声のおくれた理由は、初めに水戸に指定した場所は進駐軍にとられておったところであります。ところが最近になって、二月ごろになって大蔵省の所有地にいいところがあるということになって、水戸の東海村の声が上ったのはずっとあとなんであります。あとだが、そのときに武山の問題も進んでおるし、距離的に近いことは事実であるから一時的に武山ということにしたのでありますが、幸い政府の方の注意もありまして、原子力委員会全会一致をもって東海村にきめたようなわけでありますので、ところが私どももきまってから現地へ行きまして、私は専門家じゃありませんけれども、われわれども説明を聞いてしろうとながらもなるほどという感じを得たのでありまして、これは私しろうとの説明であるけれども、実は武山につきましてもずいぶん反対論があったのです。それはどういう点かというと、あそこで廃棄物を出す、あの出した廃棄物が逗子方面に流れて、鎌倉沿岸に流れて行きはせぬかと杞憂した人があったのであります。ところが東海村に至っては海岸の汚物が全部沖へ行ってしまうんです。全然その心配がない。そういう非常な有利な点がこれは東海村にあるのであります。それからなおまた御承知の通り、原子力には水が非常に要るのです。そうしますと、武山であると水道よりほかに、それに海水を使うとしても、水道をおもに使わなければならぬ。東海村は幸いにして今敷地のすぐわきに阿漕浦という大きな湖水があります。直径一町、長さが四、五町あります。これが非常に天然のわき水だそうです。これが使っていない。魔の池といってだれも泳ぎもしない。そういうのが近くにあるのです。さらに一面久慈川という川があります。さらに少し離れたところに那珂川という川がありまして、水利の便にあれほどいいところはなかったのでありまして、われわれどもも初めから、初めからというか、中途からしてこれは水戸の方がいいなという議論が起ったのです。そういうような事情であるから、先ほど申し上げました通り、政府の注意と同時に委員会全会一致をもって東海村と決定したのでありまして、世上いろいろな揣摩憶測、流言流説が広がっておりますが、真相はこうでありますから、どうぞ御了承を願います。
http://kokkai.ndl.go.jp/cgi-bin/KENSAKU/swk_dispdoc.cgi?SESSION=21222&SAVED_RID=1&PAGE=0&POS=0&TOTAL=0&SRV_ID=2&DOC_ID=22057&DPAGE=1&DTOTAL=3&DPOS=3&SORT_DIR=1&SORT_TYPE=0&MODE=1&DMY=21571

正力は「これは私しろうとの説明であるけれども、実は武山につきましてもずいぶん反対論があったのです。それはどういう点かというと、あそこで廃棄物を出す、あの出した廃棄物が逗子方面に流れて、鎌倉沿岸に流れて行きはせぬかと杞憂した人があったのであります。ところが東海村に至っては海岸の汚物が全部沖へ行ってしまうんです。全然その心配がない。そういう非常な有利な点がこれは東海村にあるのであります。」といっている。廃棄物は海に流すこと。それは、原子力担当大臣である正力松太郎も認めていたことであった。

高度経済成長期、水俣病などでわかるように、有害な産業廃棄物はほとんど規制されず、海中・大気中に放出されていた。それは、当然のことであり、原発も例外ではなかった。原発が過疎地域の沿海部に立地されていくということについては、そのような含意があったのである。

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