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昨日(2014年4月3日)、たまたま読売新聞朝刊を見ていると、次の記事が目に飛び込んできた。

次世代原子炉の開発推進…エネ基本計画明記へ
2014年04月03日 04時12分

 政府が中長期的なエネルギー政策の指針となる新たな「エネルギー基本計画」に、次世代型原子炉の有力候補の一つである高温ガス炉の研究開発推進を明記することがわかった。

 高温ガス炉は燃料を耐熱性に優れたセラミックスで覆っているため、炉心溶融を起こしにくいのが特徴だ。国内での原発新増設の見通しは立っていないが、東京電力福島第一原発事故の教訓を踏まえ、安全性の高い技術開発に取り組む姿勢を示す。

 2月に公表した計画案では、原子炉の安全性強化について、「過酷事故対策を含めた軽水炉の安全性向上に資する技術」の開発を進めると明記した。政府・与党内の調整を踏まえ、「固有の安全性を有する高温ガス炉など、安全性の高度化に貢献する原子力技術の研究開発を国際協力の下で推進」との文言を追加することが固まった。国内で主流の軽水炉より安全度の高い原子炉の技術の発展を目指す考えを示したものだ。
http://www.yomiuri.co.jp/science/20140403-OYT1T50005.html

この「エネルギー基本計画」は、原子力発電を「重要なベースロード電源」として位置付け、原発再稼働を押し進めるとともに、核燃料サイクルも維持し、欠陥続きのもんじゅも研究炉として残すというもので、この日の自民・公明の作業チームで基本合意され、両党の党内手続きをへて、近く閣議決定されるとされている。このエネルギー基本計画自体、過半数が原発再稼働に反対している世論動向に反したものである。

この報道によると、エネルギー基本計画に、わざわざ、「次世代型原子炉」としての「高温ガス炉」の技術開発を盛り込むというのである。

まあ、反省がないこととあきれてしまう。琉球新報が4月4日に配信した記事によると、このエネルギー基本計画の案文の「はじめに」書かれていた「「政府および原子力事業者は、いわゆる『安全神話』に陥り」や、過酷事故に対する「深い反省を一時たりとも放念してはならない」」という文言を削除し、自公の作業チームでも一部議員が問題にしたという。反省すら「反省」されて、なくなってしまっているのだ。

一方、「新たな科学技術」の導入を提唱するということは、いかにも安倍政権らしいことだと思っている。福島原発事故をみる通り、現状の原子炉ー軽水炉技術は大きな危険をはらんでおり、そのことが人びとの不安の原因になっている。この不安は、原発の再稼働や新増設ができない理由になっている。この不安に対し、安倍政権は、「未来志向」で「新たな科学技術」への夢を煽ることによって、解消しようとしているのである。

さて、安倍政権は現状の体制の維持を主旨とする保守党の自由民主党を基盤とした政権である。しかし、原発政策については、現状の国土や住民に対するリスクを回避することを第一にしてはいないのだ。むしろ、危険性の有無もはっきりしない新たな科学技術に期待し、それを「未来志向」というのである。保守主義者たちが強調する「未来」とは、こういうものなのであろう。「未来への夢」にはコストがかからない。まるでSFのような非現実的とも思われる「未来への夢」を引き換えに、現状のリスクを承服すべきとしているのである。ここには、たぶんに、石油ショック以前の高度経済成長期への懐古意識があるのだろう。新しい科学技術による産業開発を無条件に崇拝し、公害や環境破壊を考慮することなく、資源やエネルギーを浪費することによって、「鉄腕アトム」の世界のような時代を築きあげることを夢見た時代に回帰したいという志向がそこにはあるといえる。そのような「懐古意識」が、彼らにとっての「未来志向」なのである。

このようなことは、現状の体制自体をかえるべきだとしている日本共産党や社会民主党などが、かえって、現状の国土や住民を保全することを第一義として、反原発を主張していることと大きな対照をなしている。歴史的前提としては、高度経済成長期において、日本共産党や日本社会党など「革新政党」が、公害や環境破壊をまねいた当時の開発政策を批判し、革新自治体を誕生させて、公害対策や環境保護を当時の政府よりも先行して実施したということがある。前回のブログで紹介した、東京都練馬区のカタクリ群生地の環境保護も、革新都政の産物なのだ。ここには、「革新」側が、むしろ、現状を保全する側に立つという逆説が現出しているといえよう。

そして、高温ガス炉などの新世代の原子炉が、現状の日本の科学技術で作ることができるか、ということにも大きな疑問符がつく。アメリカからの技術移転を契機に作られた軽水炉は、とにもかくにも、商業ベースになる程度には日本の科学技術でも運転できてきた。他方、日本が独自に技術開発した核技術は、高速増殖炉もんじゅにせよ、核燃料再処理工場にせよ、ALPS(多核種除去設備)にせよ、どれもが安定的に運転されているとはいいがたい。これは、軍事技術として成立してきた核技術の本来のあり方が反映していると思われる。アメリカにせよ、イギリスにせよ、ロシアにせよ、フランスにせよ、核技術は、核兵器その他の軍事技術であった。その際、資金・物資・人員などのコストについては、商業上では考えられないほどかけられたと思われる。軽水炉(元々は原子力潜水艦の動力源だった)などは、軍事技術を転用して作られたものである。その技術をコピーして商業ベースにのせて運用することは、日本の科学技術でもできた。しかし、独自の技術開発については、他国の軍事技術ほどのコストはかけられない。それゆえ、日本独自の核技術開発は質的に劣っているのではないかと考えられる。

さらに、理化学研究所のSTAP細胞問題が象徴的に示しているように、政府・企業の考える「成果」をあげることを求めて過度に競争を強いている日本の科学技術政策によって、日本全体の科学技術のレベル自体が後退しているように思われる。この中で、どうして、新たな科学技術開発が可能なのだろうか。

このように、日本で次世代原子炉の開発をするということは、なんというか、すべてが「非現実的」に思えるのである。現実的とされる保守主義者たちが、現実を見ないでSF的な未来への夢を語り、現状を変えると主張する(保守主義者たちからいえば「空想的」な)共産党や社会民主党などが、「現実」のリスクを前提に反原発を提唱するという、一種のジレンマが、ここに現れているように思われる。

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3.11以前、仕事などで福島第一・第二原発を間近に見ながらも、私は原発に対する危機意識を十分もつことはなかった。このことは、私にとって重い問題である。しかし、たぶん、一般的にもそうだったであろう。

3.11以前、「反核」といえば、「反核兵器」のことを意識するほうが多かったのではないかと思う。チェルノブイリ事故(1986年)後の1987年、広瀬隆はチェルノブイリ事故の危険性を警告した『危険な話』(八月書院)の中で、次のように指摘している。

多くの人が反核運動に情熱を燃やし、しかもこの人たちは大部分が原子力発電を放任している。奇妙ですね。核兵器のボタンを押すか押さないか、これについては今後、人類に選択の希望が残されている。ところが原子炉のなかでは、すでに数十年前にボタンを押していたことに、私たちは気づかなかったわけです。原子炉のなかで静かに核戦争が行われてきた。いまやその容れ物が地球の全土でこわれはじめ、爆発の時代に突入しました。爆発して出てくるものが深刻です。(p54~55)

そして、広瀬隆自身が「核兵器廃絶闘争の重大性から目をそむけさせる」として批判されてもいた。共産党系の雑誌『文化評論』1988年7月号(新日本出版社)に掲載された「座談会・自民党政府の原発政策批判」において、「赤旗」科学部長であった松橋隆司は、チェルノブイリ事故後に原発を含めた「核絶対反対」という方針を打ち出した総評ー原水禁を批判しつつ、明示的ではないが広瀬隆の言説について次のように指摘した。

また「原発の危険性」という重大な問題を取り上げながら、原子力の平和利用をいっさい否定する立場から、「核兵器より原発が危険」とか、「すでに原発のなかで核戦争が始まっている」といった誇張した議論で、核兵器廃絶闘争の重大性から目をそむけさせる傾向もみられます。(p80)

直接的には私個人は関係してはいなかったが、このような志向が私においても無意識の中で存在していたと考えられる。1980年代の「反核運動」については参加した記憶はあるが、「反原発運動」については、存在は知りながらも、参加した記憶がない。このことについては、社会党ー原水禁が原発反対、共産党ー原水協が原発容認(既存の原発の危険性は認めているが)という路線対立があったことなど、さまざまな要因が作用している。しかし、翻って考えてみると、「将来の危機」としての戦争/ 平和などの対抗基軸で世界を認識していた戦後の認識枠組みにそった形で原子力開発一般が把握されていたと考えられる。もちろん、これは当時の文脈が何であったを指摘するもので、現在の立場から一面的に批判するという意図を持っていないことを付記しておく。

さて、3.11は、このような原子力開発への認識を大きく変えた。核戦争という「将来の危機」ではなく、原発事故と放射性物質による汚染という「いまここにある危機」が意識されるようになった。「反核」とは、まずは「反原発」を意味するようになったのである。

このことは反原発運動におけるシュプレヒコールにおいても表現されている。下記は、小田原淋によって書き留められた2013年3月15日の金曜官邸前抗議におけるシュプレヒコールの一部である。

原発いらない 原発やめろ 
大飯を止めろ 伊方はやめろ 
再稼働反対 大間はやめろ 
上関やめろ 再処理やめろ 
子どもを守れ 
大飯を止めろ さっさと止めろ 
原発反対 命を守れ 
原発やめろ 今すぐやめろ 
伊方はやめろ 刈羽もやめろ 
大飯原発今すぐ止めろ 
ふるさと守れ 海を汚すな 
すべてを廃炉 
もんじゅもいらない 大間建てるな 
原発いらない 日本にいらない 
世界にいらない どこにもいらない 
今すぐ廃炉 命を守れ 農業守れ 
漁業も守れ だから原発いらない
(小田原琳「闘うことの豊穣」、『歴史評論』2013年7月号、p66)

小田原は、この中に大飯原発再稼働や建設中もしくは再稼働間近と予想される原発への抗議、原発を止めない理由の一つとされた再処理政策への批判、放射性物質による環境汚染や健康被害への不安、原発輸出に対する異議申し立てがあると要約し、「きわめて短いフレーズのなかにひとびとが原発事故後に学んだ知識が凝縮されている」(同上)と評価している。このようなシュプレヒコールは、金曜官邸前抗議に足を運んだ人にとっては目新しいものではない。しかし、もう一度テクストの形で読んでみると、このシュプレヒコールの主題は、「反核兵器」ではなく、「反原発」であることがわかる。つまり「反核」の中心は、平和時に存在している原発への反対になったのである。

ただ、それは、それまでの「反核兵器」という意識が薄れたということを意味してはいない。金曜官邸前抗議においては、もちろん、広島・長崎への原爆投下については議論されており、使用済み核燃料再処理問題についても原爆の材料となるプルトニウム生産能力を確保しようとする意向があることもスピーチにおいて指摘されている。「反原発」という課題の中に「反核兵器」という課題が包含されたといえるだろう。

いずれにせよ、このような反核意識における「反核兵器」から「反原発」への重点の移動は、あまりにも日常的でふだん意識しないものではあるが、3.11によって引き起こされた大きな変化の一つであったといえる。それまでの「反核」は、戦争/平和という認識枠組みの中で把握されていた。すでに、原発立地地域における反原発運動において、「原子力の平和利用」の名目で行われてきた原発建設のはらむ問題性は指摘されていたが、反核全体においては「従」の立場に置かれていたといえる。結局、自らの日常が存在していた「平和」の中に存在していた諸問題は「反核」の中ではあまり意識されてこなかったのである。

しかし、「原子力の平和利用」とされてきた原発が反核意識の中心におかれるということは、反核意識が「平和」「日常」そのものを問い直さなくてはならないものとなったということを意味しているといえる。翻って考えてみれば、福島第一原発事故とそれによる放射性物質の汚染という問題が、今まで「平和な日常」とみなしてきた自分自身の眼前に及んできたということを意味してもいるだろう。そして、そのような「日常的」な次元での意識変化が、反核意識の中での「反核兵器」から「反原発」への重点の変化につながっていったと考えられるのである。

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昨日である2013年2月11日、「歴史の逆流を許さず憲法を力に未来をひらこう」ということをテーマにして、「建国記念の日反対2・11集会が日本橋公会堂ホールで開催された。講演は渡辺治氏(一橋大学名誉教授)の「新段階の日本政治と憲法・アジア」であり、その他、反原発の運動、東京の教科書問題、沖縄と基地・安保についての現場からの発言があった。参加者は約450名であり、NHKテレビのニュースにも報道された。なお、2・11集会は、東京だけでなく、全国各地の都市でも開催されている。ここでは、NHKがネット配信した記事をあげておく。

建国記念の日 各地で式典や集会
2月11日 18時6分

建国記念の日の11日、これを祝う式典や、反対する集会が、各地で開かれました。

このうち東京・渋谷区では、神社本庁などで作る「日本の建国を祝う会」が式典を開き、主催者の発表でおよそ1500人が参加しました。
主催者を代表して、國學院大学教授の大原康男さんが、「建国記念の日を日本再生に向けた確実な一歩とすべく、改めて決意したい」とあいさつしました。
そして、「新政権は、憲法改正など国家の根本に関わる問題に着手しつつある。誇りある国造りへ向けて、尽力することを誓う」などとする決議を採択しました。
参加した40代の女性は、「領土問題をきっかけに、若い世代を中心に国の在り方を議論すべきだと感じるようになりました。憲法を改正し、子どもたちが安心して暮らせる世の中にすべきだ」と話していました。
一方、東京・中央区では、歴史研究者や教職員など主催者の発表でおよそ450人が参加して、建国記念の日に反対する集会が開かれました。
この中で、一橋大学名誉教授の渡辺治さんが、「総選挙で、改憲を志向する政党が勢力を大きく伸ばすなか、平和憲法を守ることの意味を改めて考えるべきだ」と述べました。
そして、「国防軍設置が主張されるなど憲法は戦後最大の危機にある。歴史の逆流を許さず、憲法を力として、平和なアジアと日本社会の未来を開こう」などとする宣言を採択しました。
参加した高校3年生の女子生徒は、「平和を守るうえで、憲法の存在は非常に大きいと考えています。私はまだ有権者ではありませんが、もし憲法改正が問われれば、きちんと考えて判断したいと思います」と話していました。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130211/k10015437921000.html

現在、私は東京歴史科学研究会という団体の代表をつとめており、この団体は「建国記念の日に反対し思想・信教の自由を守る連絡会」(2・11連絡会)という本集会の主催団体の事務局団体の一つであったため、この集会の開会あいさつをすることになった。2・11集会の開会あいさつを行うにあたって、ある程度、この集会が開始された際の状況を調べた。もちろん、あいさつには一部しか利用できなかった。そこで、このブログで、もう少し、東京の2・11集会が開始された状況についてみておこう。

「建国記念の日」の源流は、1872年に明治政府が定めた「紀元節」である。この「紀元節」の日取りは、初代神武天皇が即位した日を2月11日と比定して定められた。戦前においては、四方節(元日)、明治節(明治天皇誕生日)、天長節(当代の天皇誕生日)とならんで、学校の場で、教育勅語がよみあげられ、御真影(天皇の画像)への遥拝が行われており、天皇制教育の一つの柱であった。しかし、戦後、GHQの指令により「紀元節」は廃止された。

この紀元節が「建国記念の日」として復活したのが、高度経済成長期の1967年である。前年の1966年、佐藤栄作政権によって祝日法が改正されて「建国記念の日」が設けられることになった。そして、学識経験者からなる建国記念日審議会に諮問するという形をとって、「建国記念の日」が2月11日に定められ、1967年から設けられることになった。

この建国記念の日については、当時の歴史学界ではおおむね反対していた。そして、実際に1967年2月11日の第一回建国記念の日において、全国各地で抗議行動が行われた。東京では、有力な歴史学会の一つである歴史学研究会が「『建国記念の日』に反対する歴史家集会」を開催した。歴史学研究会の機関誌である『歴史学研究』324号(1967年5月)には「『建国記念の日』に反対する歴史家集会」記事(松尾章一文責)が掲載されている。まず、その状況をみてみよう。

 

 当日の東京の朝は、前夜からふりつづいた何年ぶりかの大雪のために、白一色にうずまっていた。いぜんとしてはげしくふりしきるふぶきにもかかわらず、集会のはじまった午前10時半には、200名をこえる参集者で会場となった全逓会館の9階ホールはほとんど満員となった。
 集会は歴研委員会の会務幹事である江村栄一氏の開会の挨拶ではじめられた。まず議長団に土井正興、松尾章一の両名が選出されたあと、石母田正氏の講演が行われた。(『歴史学研究』324号p71)

なお、石母田正の講演のあと、太田秀通歴研委員長が集会の世話役として運動の経過と今後の決意を述べた。さらに歴史教育者協議会の佐藤伸雄が、

紀元節復活反対運動は、歴史家がもっとも早くからとりくんできた。しかしながら、マスコミなどによってこの問題は、歴史家や宗教家の問題であるかのようにいわれる傾向がつよかったために、反対運動をすすめてゆく革新陣営の側にも弱さがあった。このことが運動の発展にとって大きな障害となった。これは歴史家が反省するより以上に、歴史学界以外の各界の人々の側にも責任がある。今後はさまざまな分野の人々との連けいによる反対運動を組織する必要がある。
(『歴史学研究』324号p72)

と指摘した。

その後、各地での集会の状況などが報告され、活発なーというかかなり激しい討論が行われた。その上で、建国記念の日に反対する声明が提案され、採択された。

なお、重要なことは、この集会は「歴史家の集会」であって、一般の人びととは分離された形で行われたことである。記事では、次のように説明されている。

 

この集合の最初の予定は午前10時から12時までで、その後、同じ会場でおこなわれる国民文化会議主催の「『建国記念の日』ー私たちはどう考えるか」というシンポジュームがおこなわれることになっており、この集会にわれわれ歴史研究者、歴史教育者を中心とするこの集会に参加した全員が、軍国主義、帝国主義、天皇制の復活に反対し、これと対決してたたかう日本人民の1人として午後からの集会に合流することになっていた。そのために、国民文化会議のお骨折りで、われわれの集会を同じ会場で午前中におこなうことができるようにご援助をいただき、そのうえ、午後の集会の時間をずらして、われわれの集会を1時間ほど延長させていただいたご好意に厚く感謝したい。
 最後に、第1回の「建国記念の日」反対集会(今後、廃止される日まで毎年続けていくべきである)は、成功裡に終り、かつ今後のわれわれのたたかいにとってきわめて有意義なものであったことを記して、この簡略にして不十分な報告を終わらせていただくことにする。
(『歴史学研究』324号p72〜73)

このように、歴史学研究会主催の「歴史家の集会」と、労働組合のナショナルセンターであった総評などが結成した国民文化会議主催のシンポジウムは、会場こそ同一だが、時間をわけて実施されたのである。この状況は、それこそ、佐藤が指摘しているような、歴史家と「革新陣営」全体が十分連携していないことの象徴にもみえるといえよう。

しかし、1967年中にも、この状況はかえられていくことになった。これもまた有力な歴史学会の一つである歴史科学協議会が発行している『歴史評論』210号(1968年2月)には、次のような記事が載せられている。

 「

明治百年祭」「靖国神社法案」反対の集会開かれる!
 「建国記念の日」反対のたたかいをおしすすめてきた紀元節問題連絡会議(総評、日教組、憲法会議、日本宗平協、歴教協など広汎な団体が参加)は、昨年十一月九日、東京銀座の教文館で、「明治百年祭」と「靖国神社法案」反対の研究集会をもちました。
 集会は、松尾章一氏から「明治百年祭をめぐる問題」、芳賀登氏から「靖国神社創設の問題」の二つの報告をうけたあと、強まる反動攻勢にたいしどう対処していくべきかという問題を中心に熱心な討議がおこなわれました。たとえば、不服従の姿勢のよりどころをどこにおくか、民主的な憲法や強固な労働組合組織をもっているとはいえ、具体的にみれば、悲観的な材料がけっしてすくなくないこと、伊勢神宮に海上自衛隊が集団参拝した事例などが提起・報告されました。
 なお、同会議がよびかけ人となり、実行委を結成、来る二月十一日全電通会館(東京お茶の水)において、「紀元節復活・靖国神社国営化・明治百年祭に反対する中央集会」が開かれることになりました。(平田)
(『歴史評論』210号p69)

この「紀元節問題連絡会議」こそ、現在の2・11集会の主催団体である「『建国記念の日』に反対し思想・信教の自由を守る連絡会」の源流である。現在の集会でも都教組が参加しているが、この時は、総評・日教組・憲法会議(憲法改悪阻止各界連絡会議)・日本宗平協(日本宗教者平和協議会)・歴教協が参加しており、労働組合の比重が大きいといえる。議論の中でも「強固な労働組合組織」があることが前提となっている。単に「紀元節復活」反対だけでなく、靖国神社国家護持問題や、1968年に予定されていた「明治百年祭」など、より広汎な歴史的な問題に対する国家の「攻勢」に対処していくことがめざされていた。そして、ここから、一般の人々と歴史家がともに集まる、「2・11集会」のスタイルが作り出されたといえるのである。

1968年2月11日に開催された、東京の「2・11集会」について、『歴史評論』212号(1968年4月)において、次のように叙述されている。

戦争準備の思想攻勢を告発するー「紀元節」復活、靖国神社国営化、「明治百年祭」に反対する中央集会ー
 二月十一日、第二回「建国記念日」を迎え、「『紀元節』復活・靖国神社国営化・『明治百年祭』に反対する中央集会が東京全電通ホールで開催された。主催は「紀元節」問題連絡会議で、総評・日教組・国民文化会議ほか三十団体がこれに結集した。歴科協は歴研・歴教協とともに新たに加盟し、集会の成功のため積極的に働いた。
 集会は、権力側が急ピッチに進めている戦争準備の思想攻勢に加えて、エンタープライズ「寄港」、プエブロ事件、南ベトナム諸都市における解放軍民の決起、倉石農相憲法否定発言など緊迫した内外情勢を反映し、定員四百四十名の会場に千三百名が溢れ、届出六百名のデモに千名が参加するという盛りあがりを見せた。
 十二時半、京都府作製の護憲スライド「この樹枯らさず」上映で幕をあけ、家永三郎、高橋磌一両氏の講演が行われた。家永氏は「教科書問題と明治百年」と題し、教科書問題に露呈されたところの、政府の意図する歴史の軍国主義的偽造を告発し、高橋氏は「明治百年と国防意識」と題して、「紀元節」も「明治百年」も、教育・思想・文化の軍国主義化、さらには七〇年安保改定に向けての権力側の布石であると強調した。ついで別に女子学院で千六百名の大集会を成功させたキリスト者の集会を代表して日本キリスト教団総会議長鈴木正久氏のメッセージ、「紀元節」復活反対の声明を出した日歴協(日本歴史学協会)を代表して副会長林英夫氏の挨拶のあと、社会党猪俣浩三、共産党米原いたる、宗平協中濃教篤、教科書訴訟全国連絡会四位直毅、マスコミ共闘上田哲の諸氏から報告と決意表明があり、主催団体を代表して国民文化会議日高六郎氏が総括を行った。最後に倉石農相罷免要求の決議と集会アピールが採択され、午後四時閉会した。
 散会後、明大および東京教育大の学内集会を成功させ、会場まで行進してきたデモ隊と合流し、十数年来はじめて許可をかちとった日本橋の目抜き通りを東京駅八重洲口まで、力強いデモ行進が行われた。
   決議文
 アメリカのベトナム侵略戦争が、ますます狂暴化するなかで、これに対する佐藤政府の加担は、昨年十一月の「日米共同声明」いらい、内外の多くの人々の反対にもかかわらず急速に深まってきています。すなわち、佐藤政府はアメリカの原子力空母エンタープライズの日本寄港をゆるし、沖縄復帰の国民の念顧をうらぎり 沖縄の「核つき返還」を促進し、日本全土の核基地化を公然とすすめようとしています。
 また外国人学校制度法案の国会上提をもくろみ、東京都私学審議会における朝鮮大学校の認可問題に不当な圧力をかけるなど在日朝鮮公民の諸権利の抑圧をおしすすめ、北朝鮮帰国を一方的に打切り、さらに、日本を基地として出発したプエブロ号の朝鮮民主主義人民共和国に対する挑発行動をゆるしています。それは政治的・軍事的な面ばかりではなく教育・文化・思想の領域においてもはげしくおしすすめられております。「自分の力で自国を守らなければならない」という佐藤首相の発言、「小学校から防衛意識を植えつけなければならぬ」という灘尾文相の談話、「憲法は他力本願で……こんなばかばかしい憲法をもっている日本はメカケのようなもの……日本にも原爆と三十万の軍隊がなければだめだ」という倉石農相の発言などに、端的に示されています。
 政府・自民党は、さらに、「建国記念の日」の制定つまり旧紀元節の復活、社会科教育への神話のもちこみや公民教育の復活などにくわえて、国会に靖国神社の国営化法案の提出の準備を急いでいます。これらは、ベトナム侵略戦争に積極的に加担している政府が、軍国主義をもりあげ、「国家愛」の美名のもとに国民を戦争にかりたてようとするものです。そのため、政府は、教科書の事実上の検閲をさらにつよめ、放送法の改悪をたくらむなど、さまざまな形で思想統制を強化してきています。
 今年は、これらにつづいて「明治百年祭」の一大カンパニアを展開しています。明治いらい「大日本帝国」政府は、国民の平和と民主主義を求める希望を裏切り、そのための努力をねじまげ、朝鮮、中国をはじめアジア諸国に対する残虐な侵略をおこない、国民にもはかりしれない犠牲をおわせました。政府は、そのようなような事実をおおいかくし、過去の軍国主義の道を栄光化する歴史解釈を、「明治百年祭」のお祭りさわぎのなかで国民におしつけてきています。
 これはまさに、日本国憲法の平和と民主主義の原則を真向から否定しようとするものであり、憲法改悪への道にそのまま通ずるものであります。心から祖国を愛し、真の独立と平和と民主主義とをもとめてやまないわたしたちは、このようなたくらみをだんじてゆるすことはできません。
 旧「紀元節」が復活されて、二度目の二月十一日をむかえ、ひろく各界から「紀元節」復活・靖国神社国営化・「明治百年祭」に反対する中央集会に結集した私たちは、全国いたるところでまきおこっている反対運動と呼応しながら、これら一連の戦争準備の反動思想攻勢を断固として告発し、力をあわせて、あくまでもそれに反対してたたかいぬくことを誓います。
   1968年2月11日
            「紀元節」問題連絡会議
大塚史学会 大塚史学会学生部委員会 映像芸術の会 「紀元節」問題懇話会 「紀元節」に反対する考古学者の会 教科書検定訴訟を支援する会 憲法改悪阻止各界連絡会議 憲法擁護国民連合 国民文化会議 駒場わだつみ会 社会主義青年同盟 新日本婦人の会 東京都教職員組合連合会 日本科学者会議 日本キリスト教団 日本教職員組合 日本高等学校教職員組合 日本子どもを守る会 日本児童文学者協会 日本宗教者平和協議会 日本戦没学生記念会 東京地区大学教職員組合連合会 日本婦人会議 日本民主青年同盟 日本労働組合総評議会 婦人民主クラブ マスコミ産業労働組合共闘会議 歴史科学協議会 歴史学研究会 歴史教育者協議会
(『歴史評論』212号p62〜63)

このことから、次のようなことがわかるといえる。まず、総評(日本労働組合総評議会)や日教組、都教組などの労働組合が大きな比重をもつ形で「紀元節問題連絡会議」が結成されたということができる。その上で、構成団体として、社会党系団体(憲法擁護国民連合、社会主義青年同盟、日本婦人会議など)と共産党系団体(新日本婦人の会、憲法改悪阻止各界連絡会議、日本民主青年同盟など)が共存しているのである。そして、集会自体でも社会党員と共産党員がともにあいさつをしている。総評は、全体的には社会党系といえるが、反主流派として共産党系の人々もいた。その意味で、内部抗争がたえなかったといいうるが、逆に、労働組合の組織力を基盤とし、さらに社会党系の人々と共産党系の人々を結びつけて大きな運動を展開しうる可能性を有していた。その可能性が発揮されたのが、この「紀元節問題連絡会議」だったといえる。1967年2月11日の「歴史家の集会」では200名しか参加していなかったが、1968年2月11日の集会では1300名が参加し、1000名のデモ行進まで行われたのである。ある意味で、1960年の安保闘争にも類似しているといえる。総評や日教組もいろいろ問題を抱えていたといえるが、社会運動において、生活の場に拠点を有する労働組合の存在は大きいといえる。現在の2・11集会においても、労働組合である都教組の存在は大きい。このように、現在においても社会運動における労働組合は重要な存在なのである。

他方で、この場が、当時の歴史家たちの「社会参加」の「場」にもなったといえる。1968年の集会では、「建国記念の日」反対だけでなく、当時の佐藤政権のさまざまな問題に言及しながら、それらを「戦争準備」の動きとし、建国記念の日設定、靖国神社国営化、明治百年祭実施などを「戦争準備の思想攻勢」として総体として批判するというスタンスをとった。ある意味で、狭義の「歴史問題」だけではなく、そのような「歴史問題」を、労働組合も参加した集会において社会全体の動向をふまえて把握し、訴えていくことになったといえる。そのような意味で、当時の歴史家たちの「社会参加」の場でもあったといえよう。

わたしのあいさつでも話したが、今や、佐藤栄作の時代よりもはるかに強い形で、「思想攻勢」は進められている。そして、抵抗の拠点となった総評はもはや存在しない。それでも、いまだに1960年代の社会運動の伝統は、「2・11集会」という形で生き続けている。そして、創立された1960年代の時よりも、今のほうが、大きな意義をもつようになっているのである。

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以前、本ブログで、チェルノブイリ事故(1986年)に直面した共産党の人びとが、政府の進める原発建設政策に個別の問題では反対しつつ、原発自体は認める姿勢をもっていたこと、そして、反原発の立場をとっていた日本社会党系の原水禁の人びとの対抗から、原発批判を強めていた広瀬隆に批判的になっていったことを述べた。

日本共産党の影響力の強かった科学者の団体である日本科学者会議も、共産党同様微妙な位置にあった。日本科学者会議の会員たちの一部は、日本各地の反原発運動を担っており、その機関誌である『日本の科学者』には、反原発運動への参加が語られている。他方で、日本科学者会議もまた、広瀬隆批判を行うようになった。

1988年5月22日、日本科学者会議は、東京の学士会分館で、「原子力をめぐる最近の諸問題」というシンポジウムを開催した。このシンポジウムでは、①広瀬隆『危険な話』は危険な本、②「非核」と「反原発」の違いは……、③新日米原子力協定をめぐる諸問題という三つがテーマとなった。①については、原沢進(立教大学)と野口邦和(日本大学)が報告した。このシンポジウムで、原沢は、広瀬隆の『東京に原発を』『ジョン・ウェインはなぜ死んだか』などを分析し、「きわめて恣意的な引用などに基づく推定や結論でちりばめられており、科学的な検討に値するものは一つもない」(「科学者つうしん」、『日本の科学者』第23号第8号、1988年8月、p57)と結論づけた。また、野口は、「原発推進者を事実上免罪する『危険な話』の危険な結論、自然科学的な間違い、広瀬隆氏の用いている手法の矛盾点などを詳細に分析し、きわめてデタラメかつ危険な書物であると指摘」(同上)した。

このシンポジウムの野口報告は、『文化評論』1988年7月号(新日本出版社)に「広瀬隆『危険な話』の危険なウソ」と題されて掲載された。『文化評論』の本号には、本ブログで前述した、共産党の人びとによる「座談会・自民党政府の原発政策批判」もまた掲載されている。この座談会とあいまって、野口のこの報告は、共産党系の人びとによる広瀬隆への批判的な姿勢を強く印象づけるものとなったといえよう。

他方、野口の報告は、反共産党系な論調をもつ『文藝春秋』1988年8月号にも「デタラメだらけの広瀬隆『危険な話』」と題して掲載されている。『文化評論』掲載ヴァージョンと『文藝春秋』ヴァージョンは全く同じものではない。多くの文章が使い回されているが、構成は異なる。『文藝春秋』ヴァージョンのほうは、省略された部分が多い。そして、どの部分が省略されたのかということが問題なのだが、それは後述しよう。

ここでは『文化評論』ヴァージョン(文化評論版と略述する)をまずみていこう。ここで、野口邦和が日本大学の助手であったこと、専門が放射化学であったことがわかる。つまりは、専門家なのである。野口は、広瀬隆の「真の問題は、愚かな原子力関係者にあるのではなく、その先兵をつとめるジャーナリズムと知識人にあるのです」(広瀬隆『危険な話』p284)と述べているところをひいて、「つまり、ここには無謀な原発の大規模開発計画を推進する原発推進者を事実上免罪し、国民の批判の目をジャーナリズムと知識人に集中させることに躍起になっている広瀬隆氏の姿が見えるのではないか。これを危険と呼ばないで何と呼ぼうか」(文化評論版p115)と批判している。たぶん、広瀬の真意とかみ合っていないのであるが、それはそれとしておくとして、野口の広瀬に対する批判の眼目は、たぶんに「ジャーナリズムと知識人」を広瀬が攻撃していることにあるといえる。

ある意味で、野口が、共産党の人びとと同じ立場にたっていたといえる。野口は、自分自身の原発に対する姿勢について、原子力の平和利用に反対しないが、現状の原発の安全性には問題があるので、原発増設はやめるべきであり、既存の原発の運転も最低限にすべきと思っていると述べている。大きくいえば、「座談会・自民党政府の原発政策批判」で表明された、共産党の原発政策の枠内にあるといえる。そして、また、「多くの人が反核運動に情熱を燃やし、しかもこの人たちは大部分が原子力発電を放任している」(『危険な話』p137)という部分を引用して、「私の周囲にいる決して多くはないが、『反核運動に情熱を燃やし』ている人々は、『大部分が原子力発電を放任してい』ない。核兵器の廃絶と原発反対の課題とを対立させることはなく、非常に熱心に活動している」(文化評論版p138)と述べ、広瀬の先の主張は全然間違っていると断言した。この論理も、先の「座談会・自民党政府の原発政策批判」に出てきたものである。

しかし、野口の批判は、共産党の人びとの「座談会・自民党政府の原発政策批判」における批判よりも過激なものになっている。座談会では、広瀬への名指しの批判はさけている。また「座談会」での広瀬らへの批判の中心は、核兵器廃絶よりも原発撤廃を優先させているようにみえることにあり、広瀬の主張の妥当性については、端々で批判的な言辞がちらつくものの、正面から批判していたわけではない。野口の批判は、広瀬隆の主張を「ウソ」と判定することが中心であり、ある意味では政策的な違いに還元できる共産党の人びとの批判より辛辣なものであるといえる。

『文化評論』に掲載された野口の論考は、最初から最後まで、広瀬隆の『危険な話』の各部分を「ウソ」と断じることから成り立っている。正直いって、よくあきもせず批判できるものだなと思う。その中で、特に、重要なことは、チェルノブイリ事故後に出されたソ連の事故報告書を信頼して、チェルノブイリ事故を語ることができるかどうかということである。広瀬は、徹頭徹尾、ソ連の報告書は全世界的に原発を推進しているIAEAによって書かされたものであり、それに依拠して事故を論じることこそIAEAの思うつぼであるとして、断片的に伝えられた新聞報道から、事故の実態を推測するという手法をとっている。しかし、野口は、その問いには答えようとせず、「私が『ソ連の報告書』によって基づいてお教えしよう」(文化評論版p121)と、ソ連の報告書に全面的に依拠して広瀬に反駁している。あまつさえ、「もう少し『ソ連の報告書』をちゃんと読みなさい、広瀬さん」(同上p122)と説教までするのだ。

本ブログで、広瀬隆について述べたが、その際「科学史家の吉岡斉は『新版 原子力の社会史』(2011年)の中で、広瀬の指摘を先見の明のあふれるものとし、現在まで基本的に反証されていないものとしている。」と指摘した。吉岡は、さらに、野口邦和の批判について、次のように述べている。

そこには広瀬の文章のなかに少なからず含まれる単純化のための不正確な記述に対する執拗な攻撃がくり返されている。しかし野口の最も基本的な主張は、ソ連報告書をフィクションと断定する広瀬の主張は、広瀬自身がソ連報告書を反証するだけの解析結果を示さない限り、説得力がないという主張であった。つまり野口は事実上、ソ連報告書の内容の全面的な擁護をおこなったのである。ソ連政府による事故情報独占体制のもとで、広瀬がソ連政府の公式見解を反証する解析結果を示すことが不可能であることを承知のうえで、野口はソ連政府を全面的に擁護したのである。(『新版 原子力の社会史』p227〜228)

吉岡の主張は、野口への批判として、極めて要を得たものといえる。今の時点で付け加えさせてもらえば、今回の福島第一原発事故に関して、いかに政府の「公式見解」は、事態の隠蔽に奔走するものであることが了解できた。その意味で、吉岡の発言はより重く感じさせられたのである。

野口の批判は多岐にわたるが、ここでは、放射性ヨウ素と甲状腺障害との因果関係についての広瀬の文章を、野口が批判している部分をここではみておこう。野口は「 」において広瀬の文章を引用した上で、その何倍にもわたる量の批判を書いている。

③「㋐南太平洋のビキニ海域で核実験がおこなわれ、その一帯に住んでいた人のほとんどが甲状腺に障害を持っている。㋑この住民を追跡してきた写真家の豊崎博光さんと先日会って話を聞いたのですが、この人たちがヨード剤を飲んでいたというのです。㋒危険な(放射性)ヨウ素を体内に取りこむ前に、ヨード剤を飲んで体のなかをヨウ素で一杯にしておけば、危険なものは入りこみにくい、という原理ですね。㋓ところが、それが効かなかった。㋔つまりチェルノブイリやヨーロッパの子どもたちには、間違いなく甲状腺のガンがすさまじい勢いで発生す(ママ)。㋕もうすでに、兆候は出はじめているでしょう」(六〇~六一頁、㋐~㋕に記号と括弧内の挿入は私)
先ず、㋐の文章であるが、ウソである。甲状腺被曝により発生し得る疾病は甲状腺ガンおよび甲状腺結節である。一九七七年国連科学委員会報告書『放射線の線源と影響』(アイ・エス・ユー社)によると、被曝したマーシャル諸島の住民(ビキニ海域一帯の島の住民のこと)二百四十三人のうち七人から甲状腺ガンが発生している。甲状腺結節のデータはここには掲載されていないが、この数倍はあると思う。つまり大雑把に見積って、合計すると二百四十三人中三十~四十人から甲状腺ガンまたは甲状腺結節が発生していることになる。被曝したマーシャル諸島の住民の何と八分の一~六分の一が甲状腺ガンまたは甲状腺結節を患っているのである。これだけでも実は大変な状況なのである。しかし、一九七七年以降の甲状腺ガンまたは甲状腺結節の発生数について私は知らないが、それらを加えても「住んでいた人のほとんどが甲状腺に障害を持っている」と言えないことは確かである。広瀬隆さん、それなのになぜあなたは「住んでいた人のほとんどが甲状腺に障害を持っている」などと、すぐに分かるウソをつくのか。あなたのようなウソなど全然つかなくとも、被曝したマーシャル諸島の住民が大変深刻な状況にあることは容易に想像できることなのである。すぐに分かるウソではなく、被曝したマーシャル諸島の住民の状況をあるがままに伝えることのほうがずっとずっと大切なことであると思う。
(中略)
 ㋔の文章、「つまりチェルノブイリやヨーロッパの子どもたちには、間違いなく甲状腺のガンがすさまじい勢いで発生する」中の「甲状腺ガンがすさまじい勢いで発生する」は、文学的表現であろうか。文学的表現であるならば、私としてはノーコメントである。何も言うことはない。しかし「稀にみる真実」であると主張するのであれば、このように情緒的な表現だけを用いるのは間違いの元で、避けるべきであると思う。チェルノブイリやヨーロッパの子どもたちの甲状腺の推定被曝線量はどのくらいか、将来発生し得る甲状腺ガン患者数(または死亡者数)はどの程度かを明記すべきである。さらに、自然発生甲状腺ガンの発生者数(または死亡者数)が分かるのであれば、それも付け加えるとなお一層よい。その上で、「甲状腺ガンがすさまじい勢いで発生する」と言いたければ、そう言えばよいと思う。私は常にそうするようにしている。
 ㋕の「もうすでに、兆候が出はじめているでしょう」も間違いである。ロザリー・バーテル女史の「放射能毒性事典」(技術と人間社)によると、甲状腺ガンおよび甲状腺結節の潜伏期はともに十年である。ただしバーテル女史によると、良性の腫瘍の場合には十年の潜伏期を経ずに発生することもあり得るという。いずれにしても、『危険な話』の第一刷が発行されたのはチェルノブイリ原発事故から一年しか経過していない一九八七年四月のことであり、それ以前から広瀬さんは「(甲状腺ガン)の兆候は出はじめている」(括弧内の挿入は私)とあっちこっちで講演して回っているわけだから、完全なウソ、作り話である。なお、先程の㋐のところに触れたことに関係するが、甲状腺結節は甲状腺ガンより三倍発生率が高いとバーテル女史は評価していることを、参考までに指摘しておく(文化評論』版、p142~144)

最初のほうは、大気中核実験が行われたマーシャル諸島の住民における甲状腺障害の問題である。広瀬はビキニ海域の住民に限定して「住民のほとんどが甲状腺障害をもっている」と語り、野口はより広範囲のマーシャル諸島全体を対象にした報告書から引用している。まずは、たぶん両者は同一のデータからみていないのではないかと推測される。その上、野口も、マーシャル諸島全体の統計でも甲状腺障害が平常よりかなり多いことは認めている。確かに、広瀬が「住民のほとんどに甲状腺障害がある」と主張しているのは誇張といえるかもしれない。ただ、広瀬としては、たぶんに核実験の死の灰による影響をアピールするためのレトリックだったとも思える。核実験の死の灰に起因する甲状腺障害の深刻さは決して「ウソ」とはいえないのだ。野口の批判では、広瀬の主張全体が「ウソ」となる。そして、それは、核実験の死の灰におけるマーシャル諸島の住民の苦しみを見過ごしていくことにつながってしまいかねないのだ。

後段のほうは、チェルノブイリ事故後、ヨーロッパやソ連で甲状腺ガンが子どもたちの間で多く発生するだろうと広瀬が予測している部分についてである。野口は、そのような推定データを広瀬はつけていないし、甲状腺ガンが発生するのは時間がかかるから、広瀬がそのように主張していることは「ウソ」であると断じている。

確かに、広瀬の主張に根拠があるのかといえば、形式的には野口のいう通りともいえる。しかし、現在、私たちは、チェルノブイリ事故後、実際にチェルノブイリ周辺の子どもたちに甲状腺ガンが発生したことを知っている。その意味では、専門家である野口よりも、野口によれば科学的とはいえない広瀬のほうが現実の事態を予見していたともいえる。いずれにしても「ウソ」とはいえないであろう。そして、このことを主張する広瀬を「ウソツキ」と断ずる以前に、とりあえず広瀬の主張を「仮説」としてとらえ、その真偽を自ら実証してみるべきではなかったかと思えるのである。

野口の批判は、これ以外も枚挙の暇がないほど続くのであるが、このあたりでやめておく。野口の広瀬隆批判は、確かに共産党の人びとの広瀬批判に触発されたものであろうと思えるのだが、実は、それとは別個の問題が提起されていると思う。野口の批判は、広瀬隆のジャーナリズムと知識人批判に対して、広瀬の主張総体を「ウソ」と断ずることによってなされる、「学知」の側からの反撃ともいえるのである。『文藝春秋』に掲載された版では、共産党や原水協などの原発政策に関わる部分は削除されているのだが、全体の印象は文化評論版とそれほど変わらない。そのことは、この野口の広瀬批判の眼目が「学知」の側からの反撃というところにあったからだと思われる。

この野口の広瀬批判をどうとらえるか。重要な問題なので、項をあらためて検討することにしたい。

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以前、本ブログにおいて『加藤哲郎氏の報告「日本マルクス主義はなぜ『原子力』にあこがれたのか」を聞いてー東日本大震災の歴史的位置』(2011年12月10日)と題して、同日に加藤氏が行った講演につき、戦後の日本共産党が綱領などの政策文書の上では原発を容認していたとするという内容の紹介を行った。

ただ、綱領などの政策文書だけで、日本共産党の総体の原子力政策を論じることは、たぶんに一面的であるとも思う。実際に原発事故に直面した際の状況によって、日本共産党の人びとの行動もまた変わっていったと思われる。その揺れも含めて考えなくてはならないのではないか。

そして、このような共産党の対応は、私自身の意識の問題とも結びついていると思う。私自身は共産党員ではなかったが、ある意味で、私が育ってきた空間は、共産党の人たちと無縁なものではなかった。もしかすると、共産党の人たちを傷つける記述になっているかもしれない。その場合はお詫びしなくてはならない。ただ、私は、こういいたいのだ。私もまた、こういう問題を一部共有していると。私は、なぜ、自分が原発問題を意識しなかったのか、そのことを強く意識している。そのために、ここで、共産党の人たちのことをみてみるのは、その一環である。早い話、3.11以前ならば、このようなことを考えもしなかったのだ。

今回は、1986年のチェルノブイリ事故をうけて『文化評論』1988年7月号(新日本出版社)に掲載された「座談会・自民党政府の原発政策批判」をみておこう。この座談会には、中島篤之助(中央大学教授)、矢島恒夫(日本共産党衆議院議員)、柳町秀一(日本共産党科学技術局)、松橋隆司(「赤旗」科学部長)が参加した。中島は、原子力などを専攻しており、日本原子力研究所に勤務した経験をもち、共産党系の科学者が結成した日本科学者会議で原子力問題研究委員会委員長を当時勤めていた。座談会に出席したのはそのためであるといえる。もとより、この座談会はなんらの強制力もなく、共産党が正式に表明した方針ではない。しかし、逆に、共産党の人びとが、チェルノブイリ事故をめぐって、具体的にどのように認識し、行動しようとしていたのかを考える一つの材料となるだろう。

まず、中島篤之助は、「われわれがかねて言ってきたことですが、原子力発電の技術が決して成熟した技術ではないということを印象づけました」(p59)と指摘した。そして、日本の原子力安全委員会のチェルノブイリ事故調査特別委員会の最終報告書を批判して、次のように述べた。

 

要するに日本ではこういう事故が起きないということを強調することに終始していて、しかもその根拠が、たとえば、炉形が違いますから起きませんとか、あるいは検討はしました、しかしだいじょうぶです、というような調子で一貫している。繰り返し安全性を強調しているのですが、それをまた国民が全然うけつけていないという現実がある、両者の間のギャップが非常に大きい。(p59)

そして、衆議院議員の矢島恒夫も、チェルノブイリ事故については、国会でも取り上げられているが、政府側は「非常に非科学的な答弁しか行っていない」と述べ、「日本政府は、原子力発電を基軸エネルギーとしてやっていくという方針に固執しています」(p60)と指摘した。その他、チェルノブイリ事故における食品汚染問題、国内外での原発事故の続出、莫大な広告料を使っての原発安全PR、苛酷な炉心損傷事故を想定しないがための防災対策の遅れなどが、当時の原発をめぐる問題としてとりあげられた。基本的に、現在の原発においても、同様なことが指摘されているといえよう。

中島篤之助は、原子力発電は未成熟な技術ということについて、軽水炉は炉心溶融事故が起こりやすい不安定な原子炉であり、より安全な「固有安全炉」というものが必要であると指摘している。そして、中島は、「これ以上は軽水炉を増やしていくことはやっぱりよくない。それから既存の原発の古くなっているものは危ない。」(p73)と主張した。

また、原発は、産油国の資源主権論に対抗する先進工業国による「一種の新植民地主義的十字軍」であり、「日本の場合には、アメリカのビッグビジネスの商売の道具になって原発をつくったわけです」(p74)と中島篤之助は発言した。

このように、実際に建設された原発について、日本共産党の人びとは賛成していたわけではなく、むしろ問題点を指摘していたのである。そして、赤旗記者の松橋隆司は、このように指摘している。

日本共産党の不破(哲三…後に議長となる)副議長が、十数年前から、国会で原子力問題について先見的な警告を発しつづけてきたことは、振り返ってみると、いま問題になっているほとんどのことの根本を追及しており、非常に重要な意味をもっていることがわかります。」(p71)

つまりは、すでに共産党は、原発の個々の問題点を国会で追及していたというのである。現実の原発に直面した際、共産党においても、原発批判を行うようになったということができる。

しかしながら、この座談会では、反原発を反核運動の中心とすることに対する警戒感も強く表出されている。日本社会党系の人びとが組織していた原水爆禁止運動の機関である原水禁(原水爆禁止日本国民会議)は、1969年頃より反原発を運動の中にとりいれてきた。そして、共産党と共産党系の人びとが原水爆禁止運動の機関として結成していた原水協(原水爆禁止日本協議会)は、社会党ー原水禁と対抗関係にあった。

この対抗関係を前提にして、この座談会における発言をみていこう。共産党科学技術局の柳町秀一は「いま核兵器廃絶に「原発廃絶」を意識的に対置しようというグループは、その歴史的経過を無視して原発だけを大きく出そうとしているわけですね」(p75)と批判した。その上で、共産党の立場をこのように説明した。

さっきの「核絶対否定」の問題ですが、私たちのところに寄せられる意見や質問にもこの立場からのものが少なくない。共産党も見切りが悪すぎやしないか、いいかげんあきらめたらどうだ、廃棄物を考えたら研究だってだめじゃないかという言い方です。確かに、軍事の落とし子ということでの経済性の無視・安全性の無視を背負った原発が未成熟なまま実用化されている。これへの批判は当然ですが、だからといって、原子力のいっさいの平和利用を否定する見地はとらない。現在の原子力の平和利用の研究開発は、国際的には、核兵器開発にほとんど動員されていて、平和利用の道は、まだ端緒を開いたにすぎない。核兵器を廃絶して国際的英知を集めるのはこれからです。共産党の政策では「構造的に安全な原子炉」の開発をすすめることを強調しています(p76~77)

ある意味では、加藤氏の指摘したように、共産党の全体の政策文書によっていると思われるが、核兵器を廃絶することが原子力の平和利用につながるというロジックなのである。

他方、「反原発運動」は「ラッダイト運動」と同一視されていく。中島篤之助は、IMF条約(中距離核戦力全廃条約、1987年)で廃棄される核兵器からでるプルトニウムは、平和利用・原子力発電で使わないと、他の核兵器に転用される可能性があると指摘した。その上で、中島はこのように主張した。

だから日本の反核運動のなかには、実はプルトニウムをなくすことが核兵器をなくすことだみたいな誤解があるわけですね。プルトニウムがこわい、原発がこわい。だからいわば現代の「反原発運動」は、一種のラッダイト運動みたいなものです。機械ぶちこわしでは何事も変わらない。(p78)

その上で、中島は「ほんとの原子力の平和利用の展望は、核兵器がなくならなければ出てこない」(p78)と宣言したのである。

そして、松橋隆司は、チェルノブイリ事故後の総評・「原水禁」の「被爆四十一周年大会基調」について、このように言及した。

この「基調」には、その具体的な活動のなかには、どこにも核兵器廃絶を正面から要求するものがはいっていないかわりに、冒頭からソ連のチェルノブイリ原発事故を取り上げ、「核戦争の被害に匹敵する」などとのべ、核兵器も原子力発電も「核」ということでひとくくりにし、「核絶対否定」の立場を強く押し出しているのが特徴でした。
 「核絶対否定」論にもとづいた「原発反対」などを原水禁運動の目標に潜り込ませるなら、「原発反対」の立場以外の人は運動から離れざるをえず、運動は著しく切りちぢめたものにならざるをえないのは明らかです。結局、「核絶対否定」論は、核兵器固執勢力を助ける結果になり、客観的には反動的な役割を果たすことになりますね。(p80~81)

そして、その関連で、『東京に原発!』(1981年)、『ジョン・ウェインはなぜ死んだか』(1982年)、『危険な話』(1987年)で、原発や放射性物質の危険性を強く主張していた広瀬隆もまた批判された。松橋隆司は、このように述べた。

また「原発の危険性」という重大な問題を取り上げながら、原子力の平和利用をいっさい否定する立場から、「核兵器より原発が危険」とか、「すでに原発のなかで核戦争が始まっている」といった誇張した議論で、核兵器廃絶闘争の重大性から目をそむけさせる傾向もみられます。(p80)

これは、言及はされていないが、広瀬隆の『危険な話』の一節を批判したものである。その部分をあげておこう。

多くの人が反核運動に情熱を燃やし、しかもこの人たちは大部分が原子力発電を放任している。奇妙ですね。核兵器のボタンを押すか押さないか、これについては今後、人類に選択の希望が残されている。ところが原子炉のなかでは、すでに数十年前にボタンを押していたことに、私たちは気づかなかったわけです。原子炉のなかで静かに核戦争が行われてきた。いまやその容れ物が地球の全土でこわれはじめ、爆発の時代に突入しました。爆発して出てくるものが深刻です。(広瀬『危険な話』p54~55)

広瀬も『ジョン・ウェインはなぜ死んだか』は、核実験の話を中心としており、広い意味で核兵器廃絶を主張していたといえる。しかしながら、松橋は、広瀬の議論を核兵器廃絶よりも原発廃絶を優先したものとして把握し、その観点から批判したのである。

このように、この当時の共産党は、原発問題について微妙なスタンスをとっていた。共産党は、既存の原発の問題点について確かに厳しく追及していたといえる。実際、日本科学者会議の機関誌である『日本の科学者』には、各地の反原発運動がかなり紹介されている。他方で、「反原発」を反核運動の中心におくということについては、社会党ー原水禁との対抗関係から強く警戒し、まさしく、原子力の平和利用が可能であるという共産党の立場を堅持した。そして、その意味で、原発廃絶を強く訴えていた広瀬隆などの論調を批判するようになったといえる。

そして、『文化評論』の同号には、野口邦和「広瀬隆『危険な話』の危険なウソ」が掲載された。これは、まさしく、「反原発」を反核運動の中心に置くことに対する共産党の人びとの警戒感に端を発しつつ、「学知」の立場で広瀬隆ーひいては「反原発運動」の真偽を「判定」するというものである。このことについては、次回以降検討していきたい。

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2011年12月10日、専修大学で開催された「同時代史学会」2011年度大会において行われた、政治学者加藤哲郎氏の報告「日本マルクス主義はなぜ『原子力』にあこがれたのか」を聞いた。ここで、その内容を簡単に紹介しておこう。なお、報告の論点は、日本政府の原子力開発政策の特質や、受け入れた日本民衆のあり方など多岐にわたっており、すべてを提示することはできない。ここでは、主要な内容と思われるものを、自分の能力の限りでアレンジしていることをことわっておかねばならない。

加藤哲郎氏は、なぜ、日本のマルクス主義者から高木仁三郎・小出裕章のような脱原発論者が生まれてこなかったと問いかけた。加藤氏は、とりあえず日本マルクス主義について、もっとも狭義に日本共産党に限定しつつ、日本共産党が社会主義における核開発を肯定していたと述べた。特に、日本共産党が社会主義における核開発を肯定する上でキーマンー「伝道師」とすら表現されているーとなったのが武谷三男であると加藤氏は主張した。終戦直後の武谷は、例えば「原子爆弾は、原子力を利用したものであるが、それが平和のきっかけをつくってくれた」と、反ファッショ技術として原爆開発を肯定するとともに、「原子力を利用すれば、シベリアのひろい野原や砂漠のまんなか、大洋のなかの島々のように、動力源がふべんなためにいままでひらけなかった地方もひらいてゆける」(武谷「原子力のはなし」 『子供の広場』1948.11)と原子力の平和利用を鼓吹していたと加藤氏は指摘した。そして、1950年代の日本共産党の原子力政策に、武谷の考え方が生かされていったと、加藤氏はいった。いろいろ例が出されているが、ここでは、次の資料をあげておこう。

ソ同盟における原子力の確保は、社会主義経済の偉大な発展をしめすとともに、人民勢力に大きな確信をあたえ、独占資本のどうかつ政策を封殺したこと。原子力を動力源として適用する範囲を拡大し、一般的につかえるような、発電源とすることができるにいたったので、もはやおかすことのできない革命の要さいであり、物質的基礎となった(「日本共産党第18回拡大中央委員会報告」 1950.1.18)。

そして、このような方針は、1954年の第五福竜丸事件を契機に展開した初期の原水爆禁止運動において、アメリカの原水爆実験に反対しつつ、原子力の平和利用を肯定していたことにも影響を及ぼしたとされている。

ただ、1950年代中葉以後、武谷と日本共産党本体は分岐していくと加藤氏は述べた。武谷は、次第に原子力開発の将来性に疑問をいだくようになり、さらには1956年のスターリン批判以降はソ連の核実験を批判するようになり、反原発住民運動に傾斜していくと加藤氏は指摘した。他方、日本共産党は、硬直的に、社会主義における原子力開発の可能性を主張した。その例として、例えば次の資料をあげている。

原子力についての敵の宣伝は、原子力がもつ人類の福祉のための無限の可能性が、帝国主義と独占体の支配する資本主義社会においてそのまま実現できるかのように主張している。しかし、帝国主義と独占体の支配のもとでは、軍事的利用が中心におかれ、それへの努力が陰に陽に追求され、平和的利用は大きく制限される。したがって軍事的利用を阻止し、平和利用、安全性をかちとる道は、帝国主義と独占体の支配の政策に反対する統一戦線の発展と勝利に結びついている。原子力のもつ人類のあらゆる技術的可能性を十分に福祉に奉仕させることは、人民が主権をもつ新しい民主主義の社会、さらには社会主義、共産主義の社会においてのみ可能である。ソ連における原子力の平和利用はこのことを示している(「原子力問題にかんする決議」 1961.7)

このような、社会主義における原子力開発の可能性を維持してきたことが、日本共産党系の人びとによる、「反原発」を指向するようになった社会党系の原水禁との対抗や、広瀬隆への批判活動の前提にあったと加藤氏は指摘している。このような方針は、チェルノブイリ事故やソ連邦解体などで現実には維持できなくなってきたが、今でも、例えば共産党委員長志位和男が「2,3世紀先の平和的利用可能性」に言及している(2011年8月の、志位・福島「老舗」対談)ように、原理的には放棄されていないと加藤氏は主張した。

質問に答えた形であると記憶しているが、加藤氏は、このような日本共産党が原子力開発の可能性に固執したことの要因について、彼らは社会主義政権になった場合、原子力の力を保持したかったのではないかと述べた。そして、1960年代末から1970年代にかけて、全世界的に環境問題がクローズアップされ、マルクス主義にかわって大きな影響力をもつようになり、西ドイツなどでは緑の党などの新しい政治勢力が出現したが、その可能性は日本ではなかったと述べた。

コメンテーターは思想史研究者の安田常雄氏であったが、戦後マルクス主義においてその思想様式を問題にしなくてはならないとし、理論信仰、エリート主義、人びとのくらしとの接点、どこでマルクス主義とふれあったのなどの論点をあげた。なお、加藤氏の報告は「マルクス主義と戦後日本の知的状況」という全体テーマの中で行われ、本来崎山政毅氏も報告するはずであったが、病気で欠席されたことをここで付記しておく。

加藤氏の報告は、日本共産党の人びとが、核兵器・原発にどのような姿勢をもっていたか、そして今どのような姿勢を有しているのかということを、豊富な資料をつかって示してくれた点で大きな意義をもつ。このことは、今まで部分的には知られていた。私なりに多少知っていたこともある。しかし、日本共産党に即して、これほど詳細に検討したことはないと思われる。そして、戦後日本社会における日本共産党の知的影響力の大きさからみて、このことを検討することは緊要な課題であった。そして、それは、なぜ日本で「脱原発」の運動が相対的に弱かったことを解明することにつながっていこう。

加藤氏に対する質問において、日本共産党だけで日本のマルクス主義総体を代表できるのか、日本社会党や社青同などはどのように対応していたのか、民衆全体の動向はどうかなどの疑問が出された。私自身もそう思う。福島県の原発誘致過程について、日本共産党自体がどれほど影響力があったといえば、かなり疑問だ。また、1960年代末から1970年代初めにかけて、福島県議会において社会党の県議たちが一斉に原発建設を批判するようになるが、その過程もまた分析していく必要があろう。ただ、これは、加藤氏にのみ答えを求める課題ではないだろう。私の、ひいては私たちの課題なのだと思う。

付記:報告者の氏名を渡辺治氏と勘違いしていた。皆様にお詫びしたい。削除も考えたが、とりあえず、自戒のために前の版は削除し、報告者氏名を訂正した上で、再度掲載しておく。内容については修正していない。

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