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Posts Tagged ‘日本三代実録’

さて、ここでもまた、2012年3月24日の歴史科学協議会主催のシンポジウム「原発震災・地震・津波ー歴史学の課題ー」で、石橋克彦氏の報告「史料地震学と原発震災」を聞いて考えたことを書いていくことにする。

石橋氏の主要な業績の一つに「歴史地震学」がある。歴史地震学とは、過去の歴史史料から、地震関連の記事(地震史料)を収集し、その記事内容から、過去の地震活動を復元することを第一の目的としている。近代においては、地震計により地震震度を計測することは可能となった。しかし、前近代においては地震計による観測データはない。そのため、地震史料から過去の地震活動による各地の震度を算定し、さらに震源域と規模を復元することが必要になっている。そして、過去の地震活動を認識することが、未来における地震活動を予測することにつながるのである。

石橋氏によると、すでに明治期より現代にかけてr、『大日本地震史料』『増訂大日本地震史料』『日本地震史料』『新収日本地震史料』『「日本の歴史地震史料」』などという形で地震史料集が編纂されているとのことである。石橋氏は「世界にも類を見ない歴史地震研究の「データ集」と表現している。

その上で、石橋氏は、彼自身の取り組みとして、「[古代・中世]地震・噴火史料データベース(β版)」(を共同研究によって実現したことをあげている。その目的として、今までの地震史料集ではキーワード検索ができないこと、編纂過程で史料の吟味や校訂が不十分であったことをあげている。特に、校訂の過程で実在しない地震が記録されていたことを、ニセ地震(fake earthquake)と呼んでいることは興味深い。

実際「[古代・中世]地震・噴火史料データベース(β版)」をつかってみた。基本的に年代順に地震や噴火がならんでいて、キーワードや年代検索が可能となっている。そして、その地震の項目をクリックすると、その地震史料の本文が出てくることになっている。ちなみに、869年(貞観11)に、東北地方を襲った貞観地震をみてみよう。

事象番号:08690713  種別:地震
貞観11年5月26日/869年7月9日(J)/869年7月13日(G)
(A)〔日本三代実録〕○新訂増補国史大系
《廿六日癸未》{(貞観十一年五月)}、陸奥國地大震動、流光如晝隠映、頃之、人民叫呼、伏不能起、或屋仆壓死、或地裂埋殪、馬牛駭奔、或相昇踏、城〓倉庫、門櫓墻壁、頽落顛覆、不知其數、海口哮吼、聲似雷霆、驚濤涌潮、泝〓漲長、忽至城下、去海數十百里、浩々不弁其涯〓、原野道路、惣為滄溟、乘船不遑、登山難及、溺死者千許、資産苗稼、殆無孑遺焉、
《七日辛酉》{(九月)}、(中略)以從五位上行左衛門權佐兼因幡權介紀朝臣春枝為檢陸奥國地震使、判官一人、主曲一人、
《十三日丁酉》{(十月)}、 詔曰、義農異代、未隔於憂勞、堯舜殊時、猶均於愛育、豈唯地震周日、姫文於是責躬、旱流殷年、湯帝以之罪己、朕以寡昧、欽若鴻圖、脩徳以奉靈心、莅政而從民望、思使率土之内、同保福於遂生、編戸之間、共銷〓於非命、而惠化罔孚、至誠不感、上玄隆譴、厚載虧方、如聞陸奥國境、地震尤甚、或海水暴溢而為患、或城宇頽壓而至殃、百姓何辜、罹斯禍毒、憮然《〓》{(愧イ)}懼、責深在予、今遣使者、就布恩煦、使與國司、不論民夷、勤自臨撫、既死者盡加收殯、其存者詳崇賑恤、其被害太甚者、勿輸租調、鰥寡孤、窮不能自立者、在所斟量、厚宜支濟務盡矜恤之旨、俾若朕親覿焉、
http://sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/erice/db/

これだけでは、よくわからないと思うので、中世史研究者保立道久氏による前半部の釈文をのせておこう。

陸奥国の地、大いに震動す。流光、昼の如く隠映す。このころ、人民叫呼して、伏して起きることあたわず。あるいは屋たおれて、圧死し、あるいは地裂けて埋死す。馬牛は駭奔(驚き走る)し、あるいは互いに昇踏す。城郭・倉庫、門櫓・墻壁など頽落して顛覆すること、その数を知らず、海口は哮吼し、その聲、雷霆に似る。驚濤は涌潮し、泝洄(さかのぼる)し、漲長す。たちまちに城下にいたり、海を去ること数十百里、浩々としてその涯を弁ぜす。原野道路、すべて滄溟となり、船に乗るいとまあらず、山に登るも及びがたし、溺死するもの千ばかり、資産苗稼、ほとんどひとつとして遺ることなし。
http://hotatelog.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/post-1e1c.html

なお、「城下」というのは、陸奥国府のあった多賀城のことである。現在、多賀城市にある。そして、東日本大震災でも、高台にある多賀城址は被災しなかったが、「城下」の多賀城市域は津波に被災した。

このように、石橋氏の主要業績の一部は、このような史料から過去の地震の震度・震源・規模を推定することであるといえる。

さて、ここからは、私の感想を記すことにしたい。人間の活動領域が存在することによって、地震・噴火・暴風雨などの自然現象が「災害」として認識されることになったことを前のブログで述べた。これは、地震史料にもいえる。人間がその災害を認識し、会話や史料などによって、他者に伝えようとすることによって、はじめて地震は「記録」されるのである。

といっても、地震史料が残されるということは、そこに人間が活動していたというだけにとどまらない。何らかの形で、情報を保存する手段をもっている人びとがそこにいるがゆえに、史料が作成されるのである。具体的には識字者がいるということである。そして、その史料が現代にまで残されるということも、簡単なことではない。

例えば、貞観地震の記録は、律令制国家によって編纂された正史である「六国史」の一つである「日本三代実録」に残されている。この「日本三代実録」は六国史の最後のもので、901年に完成した。編者は藤原時平・菅原道真・大蔵善行らであった。

この記録が残されるにあたっては、次の二つが必要である。まず、いまだ、この時期は、律令制国家による中央集権的地方行政は維持されており、多賀城にあった陸奥国府から京都の朝廷にあてて、何らかの形で報告があげられていたと考えられる。そして、律令制国家の正史編纂事業は続いていて、この年の特記事項である貞観地震を記録することができたのである。

この後、律令制国家による中央集権的地方行政は衰退していくと考えられる。そして、正史編纂事業も中止され、史料は、個人の日記や文書に限定されていくのである。それゆえ、京都から離れた陸奥の地震・津波はあまり記録されなくなる。近代になっても、4回は大津波に襲われた東北地方沿岸(陸奥)においては、中世でもかなり津波・地震に襲われたと思うが、データベースには次の地震しか貞観地震以後のものでは記録されていない。しかも、これも、鎌倉幕府の歴史書である『吾妻鏡』に収録されていることに注意されたい。なんらかの歴史編纂と関係しないと、この地域の地震史料は残すことが困難であった。

事象番号:12301129a  種別:地震
寛喜2年10月16日/1230年11月22日(J)/1230年11月29日(G)
(A)〔吾妻鏡〕○新訂増補国史大系
《八日》{(寛喜二年十一月)}乙未、晴、大進僧都観基参御所、申云、去月十六日夜半、陸奥国芝田郡、石如雨下云々、件石一進将軍家、大如柚、細長也、有廉、石下事廿余里云々、

そして、1611年(慶長16)の慶長三陸地震がこの地域の地震として記録されている。

石橋氏は、古代・中世よりも、近世のほうが地震が多く記録されているのはなぜかという質問に答えて、地震自体が多くなったというよりも、地震史料が多く残されるようになったためであろうと述べている。近世の幕藩制において、日本全国各地に大名が置かれ、さらに城下町を築くにつれ、地震史料も多く作成されたのであろうとしているのである。

このことは、重要である。近世の幕藩制においても、律令制国家とは違った形だが、村請制を基盤とする文書行政が行われた。そして、他方で、村落レベルでも、中世とは違って、識字者が増え、地方文芸が展開している。このような中で、地震が記録されていくことも増えていくのである。

そして、近代の地震史料の収集も、実は国家レベルでの修史事業と連動したものであった。近代において史料編纂所が設置され、『大日本史料』などが編纂されていくが、初期の地震史料集は、このような史料編纂所の修史事業と連動したもので、記事の形態すらも『大日本史料』などに依拠したものであったことを石橋氏は報告の中で述べている。

このように、「科学的データ」として利用されていく過去の地震史料は、実は、それ自身が「歴史」の産物であることがわかるであろう。このような地震史料は、当時の歴史的背景に左右されて作成された。そして、それが残され、利用可能のものになるためには、何らかの歴史編纂事業の中で取り上げられなければならなかったのである。そのことを、石橋氏の報告により再確認させてもらったといえる。

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