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前回のブログでは、ディズニーが原子力プロパガンダ番組「わが友原子力」を制作したこと、そして、そのことが、アナハイムのディズニーランド遊園地にも影響を及ぼしたことを、主に有馬哲夫『原発・正力・CIA』(新潮新書 2008年)に依拠して述べてきた。

ここでは、同じく有馬前掲書によりながら、この「わが友原子力」が、日本でどのように受容されたか、そして、その結果としてどのようなことがおきたのかをみていこう。

このブログでは、読売新聞・日本テレビを傘下にもっていた正力松太郎が、CIAの慫慂により、1955年初めにアメリカの原子力平和利用使節団を招くなど、原子力推進キャンペーンに乗り出したことを述べた。このキャンペーンは、1955年に「保守合同」と「原子力推進」を二大公約として衆議院選挙に出馬した正力の選挙運動でもあった。

正力は、1955年11月より、CIAなどの援助により「原子力平和利用博覧会」を全国にわたって開催するなど、原子力の平和利用推進のキャンペーンに従事した。他方、正力自身は、1955年11月に国務大臣として入閣し、彼自身としては原子力担当大臣(1956年1月1日に原子力委員長に就任)として活躍した。その後も、正力は入閣するたびに科学技術庁長官など原子力を担当する部署を担った。総理大臣の地位をねらう正力にとって、原子力推進で実績をあげることは、その夢を実現する手段であった。そして、それは、正力の傘下にある読売新聞や日本テレビにとっても同じであった。

そんな中、ウオルト・ディズニーの実兄であるロイが日本テレビを訪問し、「わが友原子力」を「ぜひNTVで放送し、日本の人々にも原子力の実態を理解して欲しい」(有馬前掲書p206)と申し入れた。このことがいつか、有馬は明言していないが、1957年1月23日にアメリカで「わが友原子力」は放映され、1958年1月1日には日本テレビでも放映されているところから、1957年のことだったと思われる。有馬は、ロイ・ディズニーの申し入れについて、合衆国情報局、合衆国大使館、ゼネラル・ダイナミックス社(原潜ノーチラス号の製造会社)の支援を受けたものと推測している。

そして、1957年12月3日、日本テレビ本社で日本テレビとディズニーの間で「わが友原子力」の放映契約が締結された。12月31日には高松宮を招いて試写会を開いた。この試写会の様子を読売新聞が伝えており、翌1958年1月1日の放送と予告した。いわば、メディア・ミックスの企画だったのである。

有馬は、このように伝えている。

皇族も利用したこの宣伝の効果が大きかったためか、元旦という一年で最高の時間枠だったためか、『わが友原子力』の放映は大成功を収めた。…原子力委員長としての正力もこの成功を利用した。一九五八年に発行された科学技術庁原子力局の『原子力委員会月報』には原子力教育に役立った映画として『わが友原子力』が挙げられている。(有馬前掲書p218)

このように、日本テレビも正力松太郎もディズニー制作の「わが友原子力」の放映により利益を得たのである。

ただ、私としては、後日談のほうが興味深い。有馬は、次のように伝えている。

この大成功は連鎖反応を起こした。『わが友原子力』の放映契約は『ディズニーランド』の放映契約につながっていった。同年八月二九日、日本テレビは、金曜日の三菱アワーで、ディズニー・プロダクションズ製作(ABC放送)の『ディズニーランド』の放送を開始した。といっても隔週放送でプロレス中継と交互に放送された。これは戦後テレビの一時代を作り、長く記憶される番組枠になっていった。(有馬前掲書p218〜219)

「わが友原子力」が番組「ディズニーランド」の一コンテンツであったことは前述した。日本では、「わが友原子力」の放映が、番組「ディズニーランド」の放映につながったのである。

といっても、そのすべてが原子力推進プロパガンダ番組というわけではない。ウィキペディアの「ディズニーランド(テレビ番組)」の項から、日本テレビで放映された1958〜1959年の分をみておこう。アニメと啓蒙的ドキュメンタリーが多いと思われる。むしろ、遊園地なども含めてディズニーのコンテンツを紹介する番組であったといえよう。

1958年 [編集]
1. 8月29日:未来の国 「宇宙への挑戦」
2. 9月12日:おとぎの国 「グーフィーの万能選手」
3. 9月26日:冒険の国 「大自然に生きる」
4. 10月10日:おとぎの国 「ミッキーマウスの冒険」
5. 10月24日:冒険の国 「第一部 カメラの探検旅行 / 第二部 深山のおじか」
6. 11月7日:おとぎの国 「ただいま休憩中」
7. 11月14日:冒険の国 「南極の過去と現在」
8. 12月5日:おとぎの国 「プルートの一日」
9. 12月12日:冒険の国 「大自然に生きる」(第3回の再放送)
10. 12月19日:冒険の国 「大自然のファンタジー」
1959年 [編集]
11. 1月2日:未来の国 「大空への夢」
12. 1月16日:おとぎの国 「グーフィーの冒険物語」
13. 1月30日:冒険の国 「南極便り」
14. 2月13日:おとぎの国 「動画の歴史」
15. 2月27日:おとぎの国 「シリー・シンフォニー・アルバム」
16. 3月13日:冒険の国 「素晴らしい犬達」
17. 3月27日:冒険の国 「カメラのアフリカ探検とビーバーの谷」
18. 4月24日:冒険の国 「おっとせいの島」
19. 5月8日:おとぎの国 「ドナルド・ダックの一日」
20. 5月22日:未来の国 「宇宙への挑戦」(第1回の再放送)
21. 6月5日:おとぎの国 「グーフィーの出世物語」
22. 6月19日:未来の国 「大空への夢」(第11回の再放送)
23. 7月3日:おとぎの国 「魔法のすべて」
24. 7月17日:冒険の国 「カメラのアフリカ探検とビーバーの谷」
25. 7月31日:冒険の国 「ラプランドの旅とアラスカのエスキモー」
26. 8月14日:おとぎの国 「グーフィーの万能選手」(第2回の再放送)
27. 8月28日:未来の国 「月世界探検」
28. 9月11日:冒険の国 「カメラの探検旅行と深山のおじか」(第5回の再放送)
29. 9月25日:おとぎの国 「ドナルドのディズニーランド」
30. 10月9日:冒険の国 「大自然の神秘を訪ねて」
31. 10月23日:おとぎの国 「物語の誕生」
32. 11月6日:冒険の国 「南極便り(冷凍作戦)」
33. 11月20日:冒険の国 「サラブレッドあらし号(あるサラブレッドの生涯)」
34. 12月4日:おとぎの国 「ミッキーマウスの冒険」(第4回の再放送)
35. 12月18日:冒険の国 「冒険の国一周と水鳥の生活」

そして、正力は、東京ディズニーランドの創設にもかかわった。有馬はこのように指摘している。

 

ディズニーと読売グループとの関係はこの後も続く。一九六一年、京成電鉄の川崎千春は浦安沖の埋立地にディズニーランドを建設する構想を抱き、ディズニー・プロダクションズと交渉するためアメリカに渡った。『「夢の王国」の光と影ー東京ディズニーランドを創った男たち』によれば、このとき彼とディズニーの間の仲介の労をとったのは正力だったという。(p219)

ディズニー制作のアニメや映画をみたり、東京ディズニーランドで遊んでいたりした際、原子力のことなど普通考えない。しかし、起源まで遡及すると、原子力推進プロパガンダ番組「わが友原子力」の存在が大きいといえるのである。「原子力ムラ」「原子力文化」という際、信じられない範囲まで及んでいるのだ。

2011年12月31日、NHKは紅白歌合戦で、ディズニーの「星に願いを」を歌わせていた。そして、この曲は、前述したように、「わが友原子力」のオープニングでも使われていた。「わが友原子力」で「星に願いを」を聞き、もう一度紅白歌合戦を想起した際に感じた違和感、これをどう考えるべきなのだろうか。

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さて、原子力開発のもう一人の立役者であった、正力松太郎についてみておこう。このことについては、知人から教えられた、次の「原発導入のシナリオ ~冷戦下の対日原子力戦略~」(NHK現代史スクープドキュメント 1994年放送)をみるのが、一番わかりやすいだろう。下記のサイトより検索してほしい。

http://scrapjapan.wordpress.com/

このドキュメントを要約しておこう。アメリカは、対ソ競争を前提にして、西側諸国に平和目的での原子力開発を促し、そのことによって、今まで以上にこれら諸国をアメリカの核戦略にとりこむことを政策課題としていたが、日本においては1954年3月の第五福竜丸事件を契機に、それまで以上に核兵器への反対運動が高揚し、アメリカへの反発が強まっていた。この状況下で、アメリカ政府の代理人D・ワトソンは、日本テレビの重役であった柴田秀利に接触し、核兵器開発への対日心理戦略への協力をもちかけた。柴田は、読売新聞・日本テレビという二大マスコミを傘下にもつ読売グループの総帥である正力松太郎に説き、両マスコミを通じて平和目的の原子力開発のキャンペーンを大々的に展開させた。一方、正力松太郎は、1955年2月の総選挙に、保守合同と原子力開発を公約に掲げて立候補して当選し、保守合同後の11月の鳩山内閣の内閣改造で原子力担当大臣として入閣し、初代原子力委員長に就任するなど、原子力開発を強力に推し進めていった。このような形で、日本において、平和目的の原子力開発を促進され、アメリカの核戦略により深くとりこまれていった。

このプロットは、佐野真一氏の『巨怪伝―正力松太郎と影武者たちの一世紀』(文芸春秋 1994年)とほぼ一致している。ただ佐野氏が、典拠をあげずに論を進めていることと対照的に、このドキュメントは、アメリカの公文書、柴田秀利の資料、ワトソン自身のインタビュー、当時の新聞など、基本的には典拠をあげて映像化しており、より信頼がおけるといえる。ただ、佐野氏もとりあげている中曽根康弘の原子力開発への関与には言及されていない。

この当時の戦略は、柴田の手記による本人のこの発言に概括されるであろう。

日本には昔から“毒は毒をもって制する”という諺がある。原子力は諸刃の剣だ。原爆反対を潰すには、原子力の平和利用を大々的に謳いあげ、それによって、偉大なる産業革命の明日に希望を与える他はない。(同様の趣旨はドキュメントでも発言しているが、ここでは佐野前掲書より引用)

反米の意味を有する原爆反対運動を潰す、そのために、原子力の平和利用を謳いあげ、産業革命を希望させるということ、そのために、読売新聞と日本テレビは、社をあげて世論操作を実施し、総帥の正力松太郎自身が原子力を行政的に推進していったといえる。

このドキュメントの中では、日本学術会議のメンバーを柴田が警察庁などを使って調査させ、反対派には印をつけていたことなどが紹介されている。現在、原発反対派の研究者に尾行がつけられていたことが議論されているが、実は、原子力開発の最初からそのようなことはあったといえるのだ。

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