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2014年4月16日、仁川発済州島行きの清海鎮海運所属「セウォル号」が全羅南道珍島付近で転覆し沈没、そのために乗客・乗員476名のうち295名が死亡し、9名が行方不明となった。この「セウォル号」の転覆・沈没について、韓国では、予想外に発生した不幸な出来事という意味での「事故」ではなく、「事件」もしくは「惨事」にあたるのではないかといわれている。かなり以前から進められた船舶業の規制緩和・アウトソーシング化は、船舶改造や積載量や避難訓練などすべての面での安全管理を無視させ、「セウォル号」の転覆・沈没につながった。また、「セウォル号」の転覆・沈没の際に朴大統領自身が犯した初期対応の遅れとその後の救出作業における混乱は、助けられる人を助けられないという状況に陥ることになった。この状況を増幅させたのは、マスコミ各社の報道であり、政府発表をうのみにしつつ、重大な誤報をしたり、生存者や遺族の心を逆なでするような報道を行なった。本来、「交通事故」であったものが、「事件」もしくは「惨事」にかえられてしまったのだとされている。そして、「韓国人は生放送でセウォル号の沈没を目の当たりにし、国家の無能さと個人の無力さを同時に感じることになった」(歴史問題研究所・アジア民衆史研究会編『国際学術会議 新しい民衆史研究の方向を模索するために』、2015年2月、非売品)という感慨をうむことになった。

私の所属しているアジア民衆史研究会のメンバーは、国際学術会議の一環として、韓国の歴史問題研究所のメンバーとともに、2015年2月9日、「セウォル号」惨事において多数の高校生の犠牲者が出た京畿道安山市を訪問した。セウォル号の乗客・乗員総数は476名だが、そのうち済州島への修学旅行に向かっていた安山市の壇園高校(二年生)の生徒が325名、引率教師が14名をしめていた。この惨事において、高校生246名、引率教師9名が死亡し、その他高校生4名、引率教師2名が行方不明となっている。生存者は、高校生75名、引率教師3名にすぎない。四分の三が犠牲になったのである。なお、一般乗客は104名中71名、船員では23名中18名が生存している。生存者のほうが多いのだ。このことについては、「救助された学生たちによると、船が傾いていた状況でも、『その場にじっとしていなさい』という船内放送が流れていたという。間違った案内放送に、学生たちは素直に従い、結果、多くの学生が犠牲になった」(歴史問題研究所・アジア民衆史研究会前掲書)と指摘されている。

安山市において、セウォル号関係では、「セウォル号を記録する市民ネットワーク」が運営している「416記憶貯蔵所」、壇園高校、「セウォル号犠牲者合同焼香場」を訪れた。まず、気が付いたことは、これらの場所が近接しているということである。特に、「416記憶貯蔵所」と壇園高校は同じ「コジャン洞」に所在しており、歩いてすぐのところにあった。この周辺には同じようなデザインの集合住宅が多数建設されていた。安山市の都市化は1970年代以降の中小企業中心の産業団地形成を契機としており、この集合住宅もその一環ではないかと考えられる。話を聞いてみると、壇園高校の生徒は、この周辺に多く居住しているということだった。壇園高校の生徒は、地域の若者でもあったのである。そして、彼らを失ったことについて、単に彼らの家族やクラスメートだけではなく、地域の人びともまた悲しんだのである。

壇園高校周辺の集合住宅

壇園高校周辺の集合住宅

まず、「416記憶貯蔵所」にいった。この「416記憶貯蔵所」は、商店などが入居している2階建ての建物の中にある、さほど大きくはない事務所であった。なお、今後、倉庫などを確保するとのことであった。壁の一面には、遺品などが展示されているスペースがあり、もう一方には段ボールの箱が積み上げられていた。展示スペース側の写真をここに掲載する。この展示スペースに飾られている絵も、犠牲者の一人で、画家を目指していた高校生が描いていたものである。

「416貯蔵所」

「416貯蔵所」

この「416記憶貯蔵所」は「セウォル号」に関連する民間の記録センターであり、セウォル号遺族のための共同体運動を目指して」おり、「政府主導の公共記録とは区別され、市民中心の記録収集、管理、展示する役割を担っている」(歴史問題研究所・アジア民衆史研究会前掲書)とされている。「セウォル号を記録する市民ネットワーク」関係者の話によると、彼らが集めようとしている記録は三種類あるという。第一には、「セウォル号」惨事の真相究明に関連する記録である。遺族たちは政府に真相究明を求めており、その要望に一部そった形で、昨年11月7日、「4・16 セウォル号惨事真相究明及び安全社会建設等のための特別法」が制定された。しかし、特別法が制定されても、セウォル号を引き揚げる姿勢を見せないなど、現政権は真相究明を進めようとはしていない。そのため、遺族たちは、デモンストレーションのため光化門でのハンスト、安山から惨事現場の珍島まで徒歩行進、真相究明を求める署名集めなどを行なっている。第二には、遺族や市民がこの「惨事」にどう対応したかという記録である。その例として、「惨事」の際に、家族待機所が設けられ、そこで家族たちが寝泊まりしている際に使っていた布団をあげている。第三が、犠牲者たちの遺品である。

段ボールの箱をいくつかあけて、遺品類をみせてくれた。犠牲者である高校生自身が写った写真・プリクラなどもあったが、あまりにも生々しいので、衣服中心の遺品の写真をここで掲載しておく。なお、後ろに写っている段ボール箱の一つ一つに高校生一人一人の遺品が入っているという。遺品収集は、個々の家族にあって、話を聞きながらの作業であり、大変なものであるとのことだった。

「セウォル号」惨事によって犠牲者となった高校生の遺品

「セウォル号」惨事によって犠牲者となった高校生の遺品

食事をしてから、壇園高校に歩いて向かった。

壇園高校

壇園高校

前述したが、済州島への修学旅行に向かっていた壇園高校二年生が「セウォル号」惨事の犠牲になった。この二年生たちは10クラスに編成されていた。生き残った高校生たちは、とても今までの教室では授業が受けられないということで別の教室に移され、現在、事件当時の二年生の10教室が「惨事」当時のままに残されていた。この学年が卒業するまでは、そのままにするという。つまり、犠牲となった生徒・教師の机がそのまま残されているのである。そして、この10教室は、犠牲となった生徒・教師の追悼の場となった。次の写真をみてほしい。

壇園高校二年生の教室

壇園高校二年生の教室

この写真では1教室だけだが、10教室すべてがこのような情景なのである。1クラス10人も生き残ればいいほうで、1〜2人しか生き残ることができなかったクラスもあるという。犠牲となった生徒・教師の机には、花、お菓子、写真、メッセージなどがおびただしく供えられていた。よく、日本でも、交通事故や殺人事件などで犠牲となった子どもの死亡現場に花やお菓子などが供えられているのを目にするが、教室全体がそういう状況になっているのである。さらに、そういう教室が10もあるのだ。

それぞれの机を見ると、供物が画一的でないことに気付く。花もそれぞれ違っていたりする。あるところでは写真が供えられ、あるところではメッセージがあり、さらにはイラストが供えられ、本やノートが積み上っていたところもあった。これは、犠牲者となった高校生一人一人の関係性が反映しているのだと思う。犠牲になった高校生たちには、それぞれ、もちろん、親もいたし、部活や委員会などで、先輩・後輩もいただろう。それぞれ個性をもった高校生が200名以上犠牲となったのだ。

私は、全くハングルが読めないのであるが、ハングルを読める人にメッセージの内容を聞くと、多くが、親や友だちが「助けられなくてごめんなさい」と書いてあったとのことだった。

机の上だけでなく、黒板その他にも、追悼とおぼしいメッセージが書き込まれていた。黒板の上には、大韓民国の国旗が掲揚されている。しかし、大韓民国は彼らを救えなかったのだ。たぶん、これほどまでに「セウォル号」惨事の悲劇性を伝えるところはないだろう。「追悼」の場と表現したが、犠牲になった高校生たちと、生き残った高校生・家族たち双方の「鎮魂」の場とするのがふさわしい。

壇園高校を出て、私たちはセウォル号犠牲者合同焼香場に向かった。ここに向かう途中、「セウォル号を記憶する市民ネットワーク」関係者の方が、ある集合住宅を見ながら、こんな話をしてくれた。

ここにも生徒の一人(セウォル号惨事犠牲者)が住んでいた。

以前、彼の父親が私にこういった。
「この町を出たい。ここには、息子の思い出でいっぱいだ。どこへ行っても、息子のことを思い出してしまう。どうしてこの町にいられようか」。

私は怒った。
「あんたがこの町を出たら、だれが彼のことをおぼえているんだ」。

私たちは、親たち、彼の友だちたち30人で、泣きながら、笑いながら、彼の誕生会を行なった。

彼の両親は、この町から出ていかないと語った。

この方は、「ここで(安山市)、遺族の人たちが住み続けること、これも『セウォル号を記憶する市民ネットワーク』の目的の一つである」と強調していた。

そうした後、大きな公園のなかにある、セウォル号犠牲者合同焼香場に到着した。ここは、政府の「公式」な追悼所である。2014年4月29日、朴大統領がこの場を訪問した際、慰問の言葉をかけた女性が遺族でなかったことが発覚し、物議を醸すことになった場所でもある。この焼香場は、仮設ではあるが、体育館ほどもある空間である。内部撮影は許されなかったが、行方不明者も含めて約300名の犠牲者の写真が掲げられ、真ん中に「焼香場」があった。「416記憶貯蔵所」の遺品や壇園高校の生徒・教師それぞれの机は、犠牲者たち一人一人が個性をもった存在として確実に生きていたことをうかがい知ることができた。しかし、セウォル号犠牲者合同焼香場では、この惨事の規模がいかに大きかったことを知ることはできるのだが、犠牲者それぞれの個性は「マス」の中に埋没してしまっているような印象を受けた。合同焼香場の係員の儀礼的な対応もあいまって、私的な「記憶」と公的な「追悼」の違いに気付かされたのである。

セウォル号犠牲者合同焼香場

セウォル号犠牲者合同焼香場

しかし、いわば政府の「セウォル号犠牲者合同焼香場」の中でも、「セウォル号を記録する市民ネットワーク」関係者は独自の活動を続けていた。全国規模で4.16セウォル号惨事の真相追求を求める署名が集められているが、「セウォル号犠牲者合同焼香場」内部でも、同署名を集めることを認めさせていたのだ。また、この合同焼香場のテリトリーの中にいくつかプレハブの事務所があり、そこでも「セウォル号を記録する市民ネットワーク」関係者は、政府側と対峙しながら、活動していた。前述の特別法制定を求める署名をこのプレハブの中に収蔵してもいた。この事務所の中で、「セウォル号を記録する市民ネットワーク」の運動がいまどのような状態であるかを話してもらった。いわば「公的な慰霊空間」を占拠して自主的な活動の場を形成しようとしているという印象を受けたのである。

合同焼香場内の「セウォル号を記録する市民ネットワーク」側の活動拠点

合同焼香場内の「セウォル号を記録する市民ネットワーク」側の活動拠点

さらに、「セウォル号を記録する市民ネットワーク」側は、この場所に、犠牲になった高校生たちの母親が縫物などをしてセラピーする場を設けていた。犠牲になった高校生の母親が手作りしたバッチをいただいたので、ここで紹介しておこう。「416」という数字と「花」が刺繍されている。このバッチも「鎮魂」の意味をもっているのである。

犠牲者の母親が手作りしたバッチ

犠牲者の母親が手作りしたバッチ

最後に「セウォル号を記録する市民ネットワーク」の関係者の方がこういった。「記録の勝利者こそ、最後の勝利者である」と。

安山市を訪問し、単に一市民というだけでなく、歴史を研究してきた者として、さまざまな感慨をもった。セウォル号惨事がなぜ起きたのか、その際、国家やマスコミがどのように対応したのか、この事実過程を実証的に追求し、責任の所在をあきらかにしながら、その後の社会運営につなげていくということは、実証主義的歴史研究の課題である。しかし、一方で、政治の課題でもある。政権やマスコミ側の隠蔽工作などを排除しながら、可能な限り記録に基づいて、実証的に、合理的に、客観的に、セウォル号惨事の事実過程を分析するということは、実証主義的な科学ー学術の問題でもあるが、政治ー社会運動の問題でもあるのだ。前述した、「記録の勝利者こそ、最後の勝利者である」という言葉は、そういう意味で使われているのだと思う。

しかし、この実証的、客観的に、事実過程を分析するという、実証主義的歴史研究ー政治の課題は、他方で、犠牲になった高校生たちと、彼らを失ってしまった、生き残った高校生たち、家族たち、地域の人びとを「鎮魂」するという課題と結びついていることを忘れてはならない。「セウォル号を記録する市民ネットワーク」関係者たちの人びとは、真相追求を求める運動について述べながら、はしばしで「犠牲になったこの子たちを忘れないでください」と語りかけていた。犠牲者を追悼し、記憶するということ、そして、そのことに歴史的な意味を付与していくということは、犠牲者たちを「鎮魂」するとともに、生き残った人びとの心を癒していくということでもある。他方で、犠牲者たちのかけがえのない生に思いをいたすということは、そのような犠牲を強いた者たちの所業を実証的に追及するモチベーションを高めていくことになるのだ。

セウォル号惨事に限らず、大きな歴史的出来事ー8.15でも、3.11でもよいがーには、犠牲者ではないとしてもその出来事で人生を変えられてしまった多くの直接的な当事者たちが存在していた。彼らそれぞれの個性は、本来「マス」に回収できないものなのだ。そして、彼らの人生だけではなく、家族・友人・地域など、彼らをとりまく人びとの人生もまた存在している。大きな歴史的出来事を事後的に叙述する際に無視される、これらの人びと、これらの民衆たちの思いを含めて、広義の意味での「歴史」は存在している。そして、それは、事実過程を実証的に追及する営為の原動力にもなっていくといえよう。たぶん、これが、歴史的出来事をめぐる「歴史意識」形成の初発にあることなのだと考える。

翻って、現代の日本社会はどうだろう。もちろん、こういう意識は存在しているだろう。しかし、こういう意識をかき消すように、出来事を忘れさせ、なかったことのようにすべきだという主張が声高になされている。産経新聞は2月2日に配信したネット記事『【西論】「“中韓に期待”外交」の愚…日本の「行くべき道」は神話に学ぼう』で、次のように主張している。

 「水に流す」という日本人の知恵もここ(黄泉から帰還したイザナギの禊ー引用者注)から生まれた。災いや恨みごとに区切りをつけ、生まれ変わったような清新な心と体で、新たな月日を迎える。

 再生の知恵は、日本人の潔さを生んだ。好例は昨年、御嶽山の行方不明者捜索を秋の深まりとともに打ち切った際の家族の対応だろう。慰霊の花束をささげ、春に迎えに来ると誓い、警察や消防、自衛隊などの捜索隊に深い謝意を示して下山した。寝泊まりしていた公共施設にこれ以上迷惑をかけたくなかった、と言う家族もいた。

 これがお隣の国、韓国ならどうだろうかと考える。旅客船セウォル号の沈没事故で、行方不明者の捜索中止が決まったのが約7カ月後の昨年11月。行方不明者9人の家族は抗議し、待機場所の体育館で寝泊まりを続けた。地元から明け渡しを求める声が出ているにもかかわらず、である。「怨」のお国柄そのものの反応だった。
http://www.sankei.com/west/news/150129/wst1501290008-n1.html

そもそも、天災と人災を比べることがどうかとも思うが…。ここでの問題は、悲しみ、追悼、真相追及、責任の所在、今後への課題など、「歴史」意識の源流になりえるだろうことを、すべて「水に流し」、なかったことにすべきだという産経の主張である。そして、そのような主張を、記紀という「神話的歴史」によって正当化している。ここでは「公共施設にこれ以上迷惑をかけたくなかった」という同調意識が称揚されている。そして、多くの責任問題ー植民地、戦争、福島第一原発事故、「イスラム国」人質殺害などーがないがしろのままにされているのだ。

*ほとんど知らないことばかりで、メモをとらずに記憶のみで書いているので、事実誤認などもあるかもしれない。もしあれば、折々に訂正していきたい。
*犠牲者などのプライバシーを考慮し、遺影やメッセージを直接写した写真の掲載は遠慮した。ただ、その上で、「鎮魂」の雰囲気を伝えるために、必要最低限度と思われる写真を掲載させていただいた。

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さて、東京都知事選で、副知事であった猪瀬直樹が約433万票獲得し、当選した。

この猪瀬直樹が、3.11直後の2011年5月7日に、猪瀬直樹・村上隆・東浩紀「断ち切られた時間の先へー『家長』として考える」(『思想地図β』第2号)という鼎談を行った。村上隆はアーティストであり、東は現代思想を専攻していて、『思想地図β』の編集長である。この鼎談は、石原都政の中心部にいた猪瀬が、3.11をどのように捉え、どのようなことを主張しようとしていたかということを如実に示しているといえる。

まず、鼎談の組織者である東浩紀は、東日本大震災や原発事故でかなり壊れてしまった「日本や東京のブランドをこれからどう再構築していくか」と、この鼎談のテーマを提示した。そして、東自身は、日本を離れるということを真剣に考えつつ、「日本の伝統や文化的連続性についても考えるようになりました…日本という国は、そもそもが定期的に巨大な災害が来てすべてを流し去ってしまう国でもある、そういう条件をどう捉えていくか」と自分の体験を離した。

そして、猪瀬は、東の浪江町への踏査記事(朝日新聞2011年4月26日付朝刊)を枕としながら、日本文化についての蘊蓄を披露していく。例えば、猪瀬は、このように主張する。

今回の問題は、日本列島という島の記憶や、この島にいる宿命みたいなものをどう受け止めていくかを考え直さないと、解決できないだろうと思っています…日本の文化の根底には、災害の巣のような島から出られないという自覚がある。その意識は、潜在的には連続しているように感じます。(p77)

そして、このように述べる。

この国のはじまりの物語とはいったいなにかと考えたときに、たとえば『古事記』や『日本書紀』といったものがありますが、戦前まではそれが生きていました(…本居宣長の「敷島の大和心を人問わば 朝日に匂ふ山桜花」を引用しつつ)重要なのは、戦前までの日本には、この島から出られないという認識を前提にした歴史観が残っていたということです。しかし戦後はディズニーランド化がはじまり、島の記憶はすべて消えていった。日米安保で米兵に”門番”の役割を担ってもらうようになると、門の外側や歴史のリアルに対する想像力を失ってしまった。僕はこれをディズニーランド化と呼んでいるのです。(p78)

このような発言に対し、東は「震災後政治家に求められるのは、実務だけでなく、こういう能力、『想定外』の危機を扱うため日常よりも長いスケールで文学や思想の古典を呼び出す能力なのではないかと感じたのです。つまり先人の知恵を借りる能力です。」(p78)と賛意を示し、当時の民主党政権を批判しつつ、「自戒を込めていいますが、言論も若い世代は本当に駄目です」と述べている。

そして、猪瀬は、このように発言している。

三島由紀夫は、「戦後の日常は虚偽の日常だ」といいました。つまり、アメリカの存在を隠蔽し、防衛や命に関わることをすべて他者に委ねることによって成立したつくりものだったということです。これが戦後の日常性で、だからこそ、ディズニーランドができあがった。しかし今回は日常が断絶したので、いままで使えなかった「正義」や「国家」という言葉が使えるようになったはずです。我々は、国家の歴史が昭和20年8月15日以降しかないように錯覚してしまっていますが、本当は『古事記』や『日本書紀』から繋がる、はじまりの物語があります。元号があって、万世一系と擬制された一貫した時間軸を持っている。だから、一貫した時間軸を取り戻して、2000年くらい続いてきた島国の文化にアイデンティティがあるんだということにもう一回立ち帰る必要がある。それは、別に天皇神話を信じろということではない。(p79〜80)

猪瀬は、ここで、「島国」としての日本文化の連続性を強調し、それを断ち切ったものとして、アメリカに防衛をまかした形で成立した戦後の「日常性」を批判しているといえる。そして、猪瀬は、3.11を「国難」と表現しているが、この「国難」は、「戦後の日常性」を終わらし、「国家」「正義」という言葉が再び使えるようになった契機としてとらえているのである。この猪瀬に対し、東は、自戒を込めつつ、「賛意」を呈しているといえよう。

さらに、話題は原発問題に移っていく。東は、直接の影響はないかもしれないが、空間放射線量を常に意識せざるを得ない東京の現状についての不安を指摘する。しかし、猪瀬は、「もちろん、そうだけれど、データを受け止めて東京の10倍20倍の放射線量のなかで生活せざるをえない福島の人たちのリアルへの想像力が求められてもいるのです。この島国から逃れられないという断念を共有することが『国難』という言葉の意味ですね」(p82)と反論し、むしろ「なぜ東京電力の福島第一原発はあれほど単純な事故に弱かったのか」という問題を提起し、新しい技術がフィードバックされていれば、原発事故は起きなかったのではないかと主張する。

しかし、東は「おっしゃるとおりです。しかし、だからこそ僕は今回、日本はそういう点をおざなりにする国なのだから、もう原発を管理しようなどと考えないほうがいいのではないかと思うようになりました…要は、放射能が云々以前に、日本政府が危険というのが僕の考えです。この状況では脱原発しかないと思います」(p82〜83)といい、反原発運動に従事していたとされる村上は「少なくとも、海外からの客人には、資料を送って『来ないほうがいいよ』といってますし、知人も数名、国外に住みはじめてます」(p83)と述べている。

しかし、その点が、猪瀬には気に入らない。猪瀬は、このようにいうのである。

しかし原発を管理できない日本人のままでいいのか。大きな流れでいえば「脱原発」に違いない。しかし、原発分の電力量すべてをいきなり再生可能エネルギーで代替できるかというと、やはり10年はかかる。もうひとつは国家の信認の問題として、「管理できない」が結論では駄目でしょう。(p83)

そして、とうとうと「東京湾に原発を置いたらどうか」と猪瀬は語るのである。

…フランスで管理できて日本でできない。しかしその管理ができない人間が世界で通用するでしょうか。僕はいま問題になっている福島の第一原発について、あれが東京にあったらどうだろうという仮説を考えています。我々は電気がどういうリスクを抱えた原発によってつくられているのかを知りませんでした。いってみれば、東京の人間は福島の人民を切り捨ててきた…「東京湾に原発を置いたらどうか」、むろん思考実験ですが、そうすれば都民も、原発の安全や管理体制について、日々関心をはらうでしょう。つまり、危険なものを管理できる人間になることで克服しない限りは駄目で、東京は東京湾に原発を置いて100パーセント完全にやったぜ、と、そういう管理をできるということが、東京ブランドの再興に繋がるのではないか。ただ、これは仮説で、ものの考え方です。実際にやるかどうかはともかく、そういうことをもし真剣に考えたならば、この国が国難から再興することもありえるのではないか。東京の住民が自分の電気を自分で抱え込んで危機管理できないのならば、東京の人間を含めて日本人はやはり駄目なのだということになる。それを引き受ける、引き受けないということを一人ひとり考えて、結果的に無理だったらやめましょう、というところまで持ち込む必要がある。浜岡原発を止めて、ああ助かった、というのでは無責任です。自分で引き受けなければいけない。そこまで考えないと、今回の震災は本当の意味で自分のものにはならない。原発を東京に置いて管理できないようでは駄目なはずです。それを自分で引き受けて克服したら、東京ブランドは再興できるのではないか。(p83〜84)

この問題は、猪瀬にとって「国防」の問題であり、「責任ある主体」としての「家長」の問題であった。

これは国防の問題とも繋がっています。東京に原発を置くという提案は、日米安保ではなく自衛隊で国を守るリスクを抱え込もう、という提案と同じものです。戦後のディズニーランド化した日本は、どちらのリスクも避けてきた。本当に東京の人間が原発を抱えたら、日本人が国防において自衛隊を軍隊としてきちんと統御できるか問われると同じように、危険物を制御できるどうかということが問われます。それを抱え込まない限り、前回の鼎談でもいったように「家長」ではない。責任ある主体になれない。(p84)

さすがに、この猪瀬の提起には、村上隆も東浩紀も肯定的には受け取っていない。村上は「国防の意味でも、詭弁と欺瞞がとぐろを巻いて面白い。実際やれればやってみるのもいいと思います。でも、僕はその瞬間に関東圏を離脱しますがね」(p84)と揶揄的に発言し、この鼎談で猪瀬に賛意を示すことが多い東も「僕はそもそも日本政府には原発が管理できないという立場なので、設置に賛成はできないでしょう」(p84)と述べている。

この鼎談の末尾は、猪瀬が文学論を展開しているが、ここでも猪瀬は「原発問題」に言及している。猪瀬は、夏目漱石ー太宰治ー村上春樹を「放蕩息子」の系譜としてとらえ、それに対抗する存在として、元号の候補を検討した森鴎外を「家長」として認識するとした。暗に、自らを「家長」の系譜を継ぐものとしている。そして、夏目漱石の『三四郎』のせりふを引用しながら、このように猪瀬は述べている。

そうなんだよ。滅びるねって、それをいってはおしまい。漱石は滅びるねといったけれど、そこから先がない。さきほどの原発の話と被るけどね。(p92)

そして、文学や政治を包括して、このように猪瀬は指摘した。

 

でも実際には鴎外の系統は途絶えちゃって、漱石の系統が太宰治へ続いていく。家長と放蕩息子で、結局放蕩息子の血統が残る。文学は放蕩息子の側にしかいかなくて、家長の側には行かなかった。昭和16年を迎えたときに、文学の家長はいなかった。国家のシステムに関わるやつがいなくなった。だから、国家は思想としてのリアリズムを欠いて制御不能になり、戦争に突入してしまった。そいうことなんですよ。…だから震災後のいまこそもう一度家長の思想が必要なんです。それは家父長制の話とはまったく別物です。この60年間、文学も政治も責任ある主体から逃げてきたんですよ。(p92)

猪瀬の主張を、原発問題に即していえば、次のようになるだろう。猪瀬は、まず、島国の日本でともに生きているということを前提として、より高い放射線量にさらされている福島県の人びとを考えるならば、東京の人びとは現状の放射線量を受忍すべきとする。そして、単に急には再生可能エネルギーで代替できないという理由だけでなく、自らのリスクを抱え込んで管理する力を日本は持っているのだということを認識させるためにも、東京に「完全な原発」を設置すべきとしている。このことは、日米安保によって米軍によって主に保障されている国防の問題を見直すことにもつながり、さらには、日本人が「責任主体」としての「家長」の思想を確立することにも結びついていくということになるのである。

このように検討してみると、猪瀬にとって、3.11とは、彼が副知事として責任を負うべき東京都民の安全をはかるという問題に直面したものではなく、猪瀬が評価するようなナショナリスティックな方向で日本人の思想を改造していく契機と認識されていたといえよう。そして、「東京湾に原発を置いたらどうか」という提案も、「自らのリスクを管理する」責任主体としての「家長」の確立につながっていくものであった。さらに、このことは「東京ブランドの再興」「国家の信認」をめざしたものであった。いわば、3.11という惨事に便乗して、社会を改造しようとすることを猪瀬はめざしていたといえるのであり、いわゆる「ショック・ドクトリン」が志向されたといえよう。

これは、もちろん、猪瀬だけではない。石原慎太郎も橋下徹なども、その方向をめざしたといえる。そして、彼らのめざす方向は、ある程度、成功したとみなくてはならない。猪瀬は、東京湾に新鋭火力発電所を建設するということを政策としてかかげながらー原子力を火力に置き換えたのだがー、433万票という歴代最多の得票を得て、都知事選に勝利した。石原や橋下も、国政進出をはたしつつある。そして、自民党においても、復古ナショナリズムの権化であるような安倍晋三が復権し、首相となった。脱原発運動が広範囲に展開しつつも、政治状況では確実にナショナリズムが強化されている。そして、このようなことの背景に、3.11があるのである。

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さて、本日9月21日は、民主党の代表選が投開票される日である。報道によれば、現職の野田首相の再選が確実と聞く。

同時並行的に行われている自民党総裁選は、テレビなどの露出も多く、街頭演説なども多いらしい。しかし、民主党の代表選は、テレビへの露出も少なく、街頭演説もほとんどない。

しかし、一度は行わなくてならないと考えたらしく、9月19日午後4時半より、野田佳彦、鹿野道彦、赤松広隆の三候補は、新宿駅西口にて街頭演説会を実施した。なお、原口一博は、沖縄にいっており、この演説会には出ていない。

野田首相の演説分をとった映像が youtubeに投稿されている。ここで紹介したい。

10分はある映像だが、最初のところだけみれば、大体理解できる。野田は、群衆に「帰れ」「帰れ」や「人殺し」などと野次られながら、演説を行っていたのである。

この状況をもっともよく伝えているのが、日刊ゲンダイの次のネット記事である。

野田首相初の街頭演説「人殺し」「辞めろ」コールに思わず涙目
【政治・経済】

2012年9月20日 掲載

 野田首相は、自分がどれだけ国民から嫌われているか、身に染みて分かったのではないか。
 19日、民主党代表選の街頭演説が東京・新宿で行われた。詰めかけた聴衆の手には「辞めろ」「ウソつき」などと書かれたプラカード。野田が登場すると、「帰れ!」「人殺し!」とヤジや罵声が飛び、最後は「辞めろ」コールの大合唱で演説がまったく聞こえないほどだった。
「反原発の官邸デモの件もあって、総理は街頭演説を嫌がっていた。今回は反原発の左翼だけじゃなく、尖閣問題で右翼も警戒しなければならない。それで、大阪と福岡で行われた演説会も屋内開催になったのです。しかし、自民党総裁選が各地で街頭をやっているのに、民主党が1回もやらないのでは批判されると中央選管から泣きつかれ、急きょ投票2日前の街頭演説会となった。新宿駅は聴衆と選挙カーの間に大きな道があって安全ということで、総理も納得してくれました。警視庁とも相談し、警備しやすい安全な場所を選んだのですが……」(官邸関係者)
“演説力”が自慢の野田にしては意外な気もするが、街頭演説は首相就任後これが初めて。昨年12月に新橋駅前で予定されていた街頭は、直前に北朝鮮の金正日総書記死去の一報が入って取りやめになった。
 今回は万全の警備態勢を取り、民主党関係者も動員したのだが、野田が演説を終えても拍手は皆無。怒号とヤジがやむことはなく、さすがに野田も涙目になっていた。これがトラウマになり、二度と人前に出てこられないんじゃないか。最初で最後の街頭演説かもしれない。
「右からも左からも、これだけ攻撃される首相は珍しい。最近は、千葉県の野田首相の事務所や自宅でも『落選デモ』が数回にわたって繰り広げられています。首相の自宅前をデモ隊が通るなんて、自民党政権では考えられなかったこと。かつて渋谷区松濤にそびえる麻生元首相の豪邸を見にいこうとした市民団体は、渋谷駅前のハチ公広場からスクランブル交差点を渡ったところで止められ、3人が逮捕された。警察も、野田政権は長く続かないと考えているのでしょうか。もはや政権の体をなしていません」(ジャーナリストの田中龍作氏)
 こんなに嫌われている男が再選確実なんて、悪い冗談としか思えない。民主党が国民から見放されるのも当然だ。
http://gendai.net/articles/view/syakai/138764

つまり、右からも左からも攻撃されているのが、現在の野田首相なのである。そのことは、野田自身も予期していたと思われる。本来、代表選であっても、ライバル自民党との対抗のため、街頭演説をなるべく実施しようとするのが当然のことであろう。しかし、こうなることを予期して、街頭演説を最小限にとどめたと考えられる。それであっても、このような状態なのだ。

野田の演説をところどころ聞くと、自民党の批判を中心にしているように思われる。朝日新聞は、次の記事を9月20日ネット配信している。

ヤジで声がかき消されそうになる中、首相の語り口も次第にヒートアップ。「財政がひどい状態になったのは誰の政権下だったでしょうか」「原子力行政を推進した政権は誰だったんですか」「領土、領海をいい加減にしてきた政権は一体誰だったんですか」

 消費増税をめぐって自民党との合意を優先してきた首相とは思えないほど、自民党を厳しく批判。聴衆に笑顔を振りまくこともなく会場を後にした。
http://www.asahi.com/special/minshu/TKY201209190746.html?ref=chiezou

しかし、野田を野次っている人びとは、彼の自民党批判を聞きにきたわけではない。野田政権が進めている原子力政策や尖閣諸島国有化による日中摩擦を批判しているのだ。そして、可能ならば、それに対する野田の弁明を聞いてみたいのだ。だが、野田は、群衆が批判する声にこたえようとせず自民党批判を続けている。野田だって人間なので、まったく感じないわけではないようで、「涙目」「ヒートアップ」になったといわれている。しかし、その演説内容は、少なくとも、その批判に答えようとしたものではない。いわゆる抽象的な「有権者」しか眼中にないのだ。野田にとって、いちおう野次と怒号は肉体的に反応を余儀なくされた「大きな音」ではあったが、理性的に対応する必要がある「大きな声」ではなかったのだ。

昔、ソ連解体過程で、リトアニアの独立派のデモの前で、ゴルバチョフがその説得を試みようとしたことがある。そういった意志は全くない。批判している人びとを説得するのではなく、それを無視して、自説を続けるということーこれが、民主党政権のあり方を象徴的に示しているといってよいだろう。

この街頭演説について、多くのマスコミはあまり伝えようとはしていなかった。今挙げたもの以外では、TBSがニュース23の中で、群衆の野次・怒号と各候補の演説内容を要領よくまとめているくらいである。

その中で、特筆すべきは、フジテレビである。9月19日に、このように報道した。

この映像では、全く、野田首相を野次っている群衆の姿は写っていない。そればかりか、野田首相を野次る群衆の声すら聞こえない。野田首相が自民党批判している声が非常にクリーンに聞こえてくる。まるで、批判する群衆などは不在の映像なのだ。

知人によると「ライン録り」ーアンプから直接録音機材に連結するーでとっているのではないかと話していた。いずれにせよ、これは、まさに、野田を批判する群衆などはいないがごとき映像なのである。たぶんに、フジテレビは、マスコミとしての特権から、ライン録りを許可されたのだと思う。それがゆえの映像なのだ。確かに、野田らの演説は、よく聞こえる。そして、このような映像がマスコミを通じて配信されることを、民主党側は期待していたといえるのだ。群衆を無視した野田は、テレビを通じて抽象的な「有権者」に自民党批判を語りかけたかったのであろう。

しかし、逆にいえば、フジテレビは、全くあの街頭演説会の状況を伝えなかったともいえるのだ。そして、それは、この街頭演説会自体を報道しなかった他の各メディアもいえることである。その意味で、マスコミ報道自体のあり方も問われるべきことであるといえる。

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