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Posts Tagged ‘岩本忠夫’

本ブログで岩本忠夫について紹介したところ、かなり多くの人が閲覧してくれたようだ。そこで、もう少し岩本について、みておこう。

岩本は、1971年の福島県議会に、双葉郡選出の日本社会党所属県議として原発建設を批判した。そして、双葉町長としては、原発建設を推進した。3.11以後は、避難を余儀なくされながら、「東電は何をやっているんだ」と怒りつつ、認知症となり、死を迎えた。彼自身はどう思っているかわからない。しかし、外から見ていると、彼の人生は悲劇であり、ある種の挫折とみることができよう。

1968年以後、岩本だけではなく、社会党の多くの県議は原発批判を行うようになった。これは、単に、地元での反対運動の展開を受けてということではないだろう。開発中心であった1950~1960年代のあり方について見直そうとする動きの一つのあらわれではなかったかと思う。この当時の福島県議会では、公害問題がさかんに議論され、革新自治体が主張したシビル・ミニマム論が提唱され、福島大学などでの学園紛争が問題とされていた。1960年代末から1970年代初頭は、戦後社会を見直し変えていこうとすることが強く意識された時代だったと思う。反原発運動もその一翼ではなかったのではなかろうか。しかし、これらの動きの多くは挫折していった。現在、究極の公害ともいえる原発事故がおきた。革新自治体は新自由主義的自治体経営にとってかえられてきた。学生運動は挫折し、大学の管理社会化は推進され、さらには原子力「御用学者」をうんだ。

新左翼運動も挫折したものの一つといえよう。特に、テロや集団リンチで有名になってしまった赤軍派の運動は、当人たちの意図は別にして、新左翼運動の挫折の象徴となっているといえる。ウィクペディアによると、赤軍派の指導者の一人であり、現在獄中にある重信房子は、

2009年6月に、初めて産経新聞のインタビューに応じ、過去の活動について「世界を変えるといい気になっていた」と語った。一方で「運動が行き詰まったとき、武装闘争に走った。世界で学生運動が盛り上がっていたが、故郷に戻り、運動を続けたところもあった。私たちも故郷に戻って運動を続けていれば、変わった結果になったかもしれない」と自責の念にも駆られていたとも述べた。

と語っているという。なお、重信房子は主に国外で活動しており、集団リンチ殺人事件など国内での事件に関与していない。

この重信房子は、1967年に、選挙アルバイトとして岩本忠夫の県議選に関わった。この経験を、重信房子は、重信房子を支援する雑誌である『オリーブの樹』104号に掲載された獄中手記で回想している。これについては、「野次馬雑記」というブログから引用してみた。

3月16日 「東日本大震災」は今日も被害が拡大しつづけ、福島第一原発は制御不能で、4号機でも爆発との記事。岩本さんはどうしてるかな……と思わざるをえません。岩本忠夫さんは双葉町にこの原発を推進誘致した町長です。
 67年の梅の咲く頃、私は社会党県会議員に立候補した彼の「応援弁士」で走り回っていました。21歳です。少し前にあった町田の選挙で弁士をやっていたのを聴いた父の知人の岩本さんの弟が、福島での選挙を泊まり込みで手伝ってほしいと頼んできました。当時「雄弁」をやる学生にとって、選挙はとても高給アルバイトでした。
「双葉の町にも浪江の町にも春がやってまいりました。しかし父の居ない、兄の居ない、これが本当の春と言えるのでしょうか⁉」などと、出稼ぎ問題を問い、地域で住民が働ける街づくりを私も訴えました。彼は出稼ぎ問題解消や葉たばこ共闘会議議長で、30代後半か。はつらつと反自民で闘っていました。
 当時私が驚いたのは、山間で切々と演説していると、わざわざ50メートルくらいの道まで家から出てきて、「すまないけど、もう自民党から○円もらったから。票は入れられないから」と、わざわざ断りにくるのです。票読みはまったく外れないし、「政治」より「選挙」の保守王国ぶりにびっくり。東京人は「選挙」に無関心だったので。こうした中、「地元の青年が地元で暮らして豊かになる道」を訴え、落選しつつ考えていた岩本さん。
 ある日、アラブで、日本の雑誌を読んでいて、あの岩本さんが双葉町長になり、原発町長になっている記事を見てびっくり。街と暮らし住んでいる人々の幸せと豊かさを求めたのでしょう。原発に絶対大丈夫は歴史上にもない。「想定」は企業の都合で、「想定」を越えた時を想定することができず、被害者は住民。岩本さん生きていたら、何を考えているだろう。まず根源的に生活、暮らしの豊かさが問い返されています。原発を必要とする世界はいらない!(中略)
http://geocities.yahoo.co.jp/gl/meidai1970/comment/20110422/1303477268より

一応ことわっていかねばならないが、赤軍派の結成は1969年である。1967年の重信房子は、明治大学生の一介のアルバイターとしていったのである。

この回想で、重信房子は、1967年の県議候補だった岩本忠夫をいきいきと描いている。「『双葉の町にも浪江の町にも春がやってまいりました。しかし父の居ない、兄の居ない、これが本当の春と言えるのでしょうか⁉』などと、出稼ぎ問題を問い、地域で住民が働ける街づくりを私も訴えました。彼は出稼ぎ問題解消や葉たばこ共闘会議議長で、30代後半か。はつらつと反自民で闘っていました」というくだりは特にそうである。もちろん、当時の重信はアルバイターでしかないのだが、彼女自身が当時の岩本に共感していたことがわかる。もちろん、現在の彼女は反原発を指向しており、原発推進の双葉町長となった岩本にはびっくりしているのだが、それでも「街と暮らし住んでいる人々の幸せと豊かさを求めたのでしょう。」と彼の意向を忖度している。そして、「岩本さんはどうしてるかな……と思わざるをえません。」と、3.11の際に岩本の消息を気遣っている。

そう、岩本に対してではないが、私も3,11には、この地域の知人たちの消息を気遣ったものである。そして、何も現実的にはできない。そのもどかしさが、このブログを書き連ねる原動力の一つとなっている。

重信房子と岩本忠夫、現在、一人は獄中にある。もう一人は原発推進の双葉町長として生き、そして死んだ。彼ら二人の現在の立場は全く違う。しかし、彼らは、1960年代末には接点があった。そして、両者の営為について、現在では評価することは難しいだろう。たぶん、どちらも、1960年代末から1970年代に抱いた思いを実現できないでいるといえる。その意味で、この二人の生を重ね合わせることはできるだろう。そして、私たちは問わなくてはならないのだ。1960年代末から1970年代初頭に抱いた戦後社会への懐疑、そして、日本社会を変えていこうという思いを封印して、私たちは今何を得たのかと。これは、原発問題だけには限らないのである。

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2011年7月17日付朝日新聞朝刊に、次のような小さな記事が掲載された。

元福島県双葉町長の岩本忠夫さん死去
2011年7月16日20時40分
 
岩本 忠夫さん(いわもと・ただお=元福島県双葉町長)が15日、慢性腎不全で死去、82歳。葬儀は17日午前11時から福島市宮町5の19の福島斎場で。喪主は長男久人さん。

 1985年から町長を5期務めた。社会党の県議時代は原発に反対したが、84年に離党後、推進に転じた。全国原子力発電所所在市町村協議会副会長などを歴任。東日本大震災後は福島市内に避難していた。
(典拠はhttp://www.asahi.com/obituaries/update/0716/TKY201107160529.htmlより)

この岩本忠夫という人物は、この記事にあるように、1970年代は日本社会党所属の県議として原発建設に反対したが、1985年以降は、双葉町長として原発建設を推進していた。最近、福島県議会における原発問題の議論を調査していて、岩本忠夫に注目するようになったのだが、3.11時点まで存命していたことを、つい最近知った。

岩本忠夫は、福島第一原発事故について、どのように思ったのであろうか。その疑問に答えた記事が2011年8月25日付の毎日新聞朝刊に掲載されている。なお、この記事は「この国と原発⑥ 第一部 翻弄される自治体」の一部である。なお、引用は、http://petapeta.tumblr.com/post/9369888334/7-15-5より行った。

7月15日午前5時。岩本忠夫・前福島県双葉町長は福島市の病院で、付き添っていた長男の双葉町議、久人さん(54)に見守られ、静かに息を引き取った。82歳。原発事故の避難生活で急速に衰え、入院後の40日間は会話もできなかった。
 「本当は何か言いたかったんじゃないかな。話してほしかった」と久人さんは言う。
 岩本氏は85年12月に町長に初当選し、05年まで5期20年務めた。町内には東京電力福島第1原発5、6号機があるが、財政難を背景に7、8号機の増設を求める原発推進派の筆頭格だった。
 一方、町長になる前は社会党(当時)県議や「双葉地方原発反対同盟」委員長として、反原発の先頭に立った。県議時代の74年、電源3法の国会審議に参考人招致され「危険な原発を金で押しつける法案と解せざるを得ない」と述べた。
 原発と戦い、信じ、最後に裏切られた岩本氏。人生の軌跡を追うと、原発に翻弄(ほんろう)され続けてきた自治体の姿が浮かび上がる。
 ◇作業員被ばくを追及
 双葉町に生まれ、青年団活動を経て社会党員となった。71年4月、県議に初当選。原発作業員の被ばくや放射性廃液漏れなどを厳しく追及し、質問に立つ時は「東電幹部社員が傍聴席を埋めた」(本人の手記)という。
  反対運動の組織化にも熱心だった。原発建設に携わった建設会社幹部の男性(69)は活動ぶりを覚えている。「第1原発の正門前に10人ほどで集まり、旗を 振って原発反対を訴えていた」。作業員に労働組合を結成させようと、仲間と現場に乗り込んできたこともある。「俺の弟が猟銃の空砲を撃って追い返した よ」。だが、男性は後の町長選で岩本氏を支援することになる。
 県議になった時、既に第1原発1号機が運転を始めていた。地元は潤い、反対運動は広がりを欠いた。その後3回県議選に出たが当選できず、スタンスは変わっていく。
  当時、社会党の地元支部書記長だった古市三久県議(62)=民主=によると、岩本氏は82年に反対同盟を辞め、最後となった83年の県議選では原発反対を 言わなかった。「原発に反対し続けても票は増えなかった。東電がそれだけ根を張ってきたということ」と古市氏は言う。「根」は岩本家にも及んだ。長女と次 女が東電社員と結婚している。
 岩本氏は家業の酒販業に専念することを決意、84年には社会党も離党した。「俺はいろいろ卒業したんだ」。 そう言っていたのを元町職員は覚えている。ところが85年、下水道工事を巡る不正支出問題で町長が辞任し、政治の舞台に引き戻される。区長としての人望 や、社会党出身のクリーンな印象から町長選に担ぎ出された。保守系の票も集めて大差で当選。57歳だった。
 社会党時代からの盟友、丸添富二・元双葉町議会議長(76)は「原発は『町民が望むならば推進する』くらいにした方がいいと助言した」と話す。当選後の地元紙の取材に岩本氏は「もし町民が望むなら、増設運動を繰り広げていきたい」と語っている。
  当選直後の議会では「転向」を問う質問が相次いだ。元町職員によると、岩本氏は「反原発運動の経験を生かし、安全な原子力行政に取り組む」と答えたとい う。町長室を1階に移してガラス張りにしたり、町民と直接対話する会合を開くなど、市民運動的な理想を実現しようともした。職員にも気さくに声をかけ、慕 われた。
 だが、電源3法交付金や東電の寄付を財源に、町総合運動公園(40億円)や保健福祉施設「ヘルスケアーふたば」(16億円)など 公共事業に多額の予算を投じた。その結果、財政は急速に悪化。09年には財政破綻一歩手前の「早期健全化団体」に転落することになる。1~4号機のある隣 の大熊町への対抗意識や町民からの要望が背景にあったと、多くの町関係者は指摘する。
 91年9月には町議会が7、8号機の増設を求めて決議。当時の毎日新聞の取材に岩本氏は「企業誘致などでは追いつかない財源が得られる」と語った。
 05年町長選に岩本氏の後継者として出馬して敗れた元町議、大塚憲さん(61)は言う。「今思えば、まんまと国策にはまったんだと分かる。正常な判断ができなくなってしまうほど、カネの力、原子力政策の力は強かった」
 ◇「東電、何やってんだ」
 岩本氏は「反原発のたたかいを省みて」という手記を残した。元社会党支部書記長の古市氏によれば、79年ごろに書かれたという。
  「東電には文句をつけられない雰囲気が地域を支配しているなかでの原発反対運動はけっして安易なものではなく、原発が止まったら生活ができなくなる、こん な話が反対同盟に寄せられ、このような人達(たち)を相手に反対運動の重要なことを理解さすことはむずかしいことであった」
 24年後の03年。超党派の国会議員らによるプルトニウム平和利用推進団体「原子燃料政策研究会」の機関誌の取材にはこう答えた。
 「原子力には期待もし、そこに『大きな賭け』をしている。『間違ってはならない賭け』をこれからも続けていきたい。(中略)原子力にかける想(おも)い、それが私の70才半ばになった人生の全てみたいな感じをしているものですから」
  岩本氏は人工透析を週2回受けていたが、長男の久人さん一家と避難を強いられた。当初、南相馬市の避難所にいた頃は、ニュースを見ながら「東電、何やって んだ」と怒り、「町民のみんなに『ご苦労さん』と声をかけてやりたい」と話していたという。だが、次第に認知症の症状が表れる。3月末に福島市のアパート に移ってからは「ここはどこだ」「家に帰っぺ」と繰り返すようになっていった。
 なぜ原発推進という「賭け」に出たのか。古市氏は言う。
 「ある時は住民のために原発に反対し、ある時は町民の生活を守るために原発と共存しながら一生懸命やっていた。最後に事故になり、自ら放射能を浴び、いろんな批判をかぶって死んでいった。ただ、本心は分からない。誰にも言わず、棺おけの中に持っていってしまった」

岩本忠夫が福島県議会議員に当選した直後の1971年7月8日ー福島第一原発が営業運転を開始した直後でもあるー、県議会で初めて行った岩本の質問が『福島県議会会議録』に残されている。原発建設についてふれた部分の冒頭で、彼は、このように言っている。

 

次に地域開発について質問いたします。
 山と水と森、それは、すべての生物を生存させる自然の条件であります。地域開発は、まさにこの偉大な自然の中で、これを活用し人間の生命と生活が保護されるという状態で進められてことが大切であります。いままで現実に進められてきた開発行政は、一般住民の生活基盤の整備が放置されたままに大企業の立地条件をすべてバラ色に装飾された図式のもとで、至るところ企業の誘致合戦が展開されてきたのであります。人間が生きていくことに望ましい環境をつくり、それを保持することが今日最大の必須条件でありますが、現実にこれが尊重されず、企業本位の開発進行がなされてきたところに、人間の命が軽視される公害発生となったのであります。このことを確認する上に立って、特に後進地帯といわれる双葉方部にスポットをあてながら、さまざまな分野でお尋ねをするわけであります。

「山と水と森、それは、すべての生物を生存させる自然の条件であります。地域開発は、まさにこの偉大な自然の中で、これを活用し人間の生命と生活が保護されるという状態で進められてことが大切であります。」という冒頭の一句は、まるで『もののけ姫」を思わせる。そして、この後、岩本は、固定資産税と雇用の増加はみられるとしつつも原発を中心とした発展はどう考えるのか、欠陥農政、常磐線の複線化の遅れ、漁港未整備の中で後進地域とされた双葉地域の現状、建設予定の広野発電所の公害問題を論じていく。そして、アメリカや敦賀、東海などでの原子炉で発見された欠陥を指摘しつつ、安全確保の方策や安全対策のための特別交付税が必要でないのかと問いかけた。最後に岩本は、このように言った。

住民の負託にこたえる政治の責任を明らかにしなければなりません。火力と原発にからむ公害は絶対に起きないのか。安全性は確かであるのかどうか。双葉全住民にこたえる責任ある答弁をこの職場に求めて、私の質問を終わります。

この当時、岩本に限らないのだが、社会党議員は原発建設に反対するようになっていた。自民党の議員ですら、懸念を表明するようになっていた。ただ、岩本は、まさに地元選出の県議会議員であり、一際熱心に原発建設反対を叫んでいたのである。

その彼が、先ほどの記事の中にあるように、双葉町長時代は原発建設を推進し、「原子力には期待もし、そこに『大きな賭け』をしている。『間違ってはならない賭け』をこれからも続けていきたい。(中略)原子力にかける想(おも)い、それが私の70才半ばになった人生の全てみたいな感じをしているものですから」と語っているのである。

そして、福島第一原発事故が起きた。社会党所属の県議の時代は原発建設反対を叫び、双葉町長としては原発建設を促進した岩本忠夫は、自らも避難を余儀なくされつつ、「東電、何やってんだ」だと怒り、「町民のみんなに『ご苦労さん』と声をかけてやりたい」と話しながら、しだいに認知症となり、死を迎えたのである。

岩本の人生については、言葉もない。人は誰でも長寿を願っている。しかし、彼が長く生きて、3.11を迎えたことは、あまりにも残酷なことではなかったのだろうか。周りの人びとは、原発建設反対も推進も、住民のためにやったことと語っている。しかし、双葉町の住民は、今、どこにいるのか。岩本自身も双葉町には住めなくなった。それを了解し続けることは、彼にとってはできないことだったのだろう。そして、彼は避難先で死を迎えていく。

どうして、こうなったのだろうか。東京で入手できる『福島県議会会議録』などに依拠しながら、福島県の政治と原発について、これからみていくことにしたい。

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