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Posts Tagged ‘岩本忠夫’

前回、拙著『戦後史のなかの福島原発 ー開発政策と地域社会』(大月書店、2500円+税)が近日中に出版されることをこのブログに投稿した。自己宣伝かたがた、本書の全体のコンセプトについて紹介しておこう。

本書のテーマは、なぜ、福島に原発が立地がなされ、その後も10基も集中する事態となったのかということである。そのことを、本書では、実際に原発建設を受容したり拒否したりする地域住民に焦点をあてつつ、「リスクとリターンのバーター」として説明している。原発事故などのリスクがある原発建設を引き受けることで、福島などの立地社会は開発・雇用・補助金・固定資産税などのリターンの獲得を期待し、それが原発建設を促進していったと私は考えている。

まず、リスクから考えてみよう。原子力についてのリスク認識は、1945年の広島・長崎への原爆投下と1954年のビキニ環礁における第五福竜丸の被曝を経験した日本社会について一般化されていた。1954-1955年における原子力開発体制の形成においては平和利用が強調され安全は問題視されなかったが、1955年における日本原子力研究所の東海村立地においては、放射能汚染のリスクはそれなりに考慮され、大都市から離れた沿海部に原研の研究用原子炉が建設されることになった。その後も、国は、公では原子炉ー原発を「安全」と宣言しつつ、原発事故の際に甚大な被害が出ることを予測し、1964年の原子炉立地審査指針では、原子炉の周囲に「非居住区域」「低人口地帯」を設け、人口密集地域から離すことにされていたのである。

他方で、1957-1961年の関西研究用原子炉建設問題において、関西の大都市周辺地域住民は、自らの地域に研究用原子炉が建設されることをリスクと認識し、激しい反対運動を展開した。しかし、「原子力の平和利用は必要である」という国家や社会党なども含めた「政治」からの要請を否定しきることはなかった。結局、「代替地」に建設せよということになったのである。そして、関西研究原子炉は、原子炉建設というリスクを甘受することで地域開発というリターンを獲得を希求することになった大阪府熊取町に建設されることになった。このように、国家も大都市周辺地域住民も、原発のリスクをそれなりに認識して、巨大原子炉(小規模の研究用原子炉は大都市周辺に建設される場合もあった)ー原発を影響が甚大な大都市周辺に建設せず、人口が少なく、影響が小さいと想定された「過疎地域」に押し出そうとしたのである。

他方で、実際に原発が建設された福島ではどうだっただろうか。福島県議会では、1958年に自民党県議が最初に原発誘致を提起するが、その際、放射能汚染のリスクはすでに語られていた。むしろ、海側に汚染物を流せる沿海部は原発の適地であるとされていた。その上で、常磐地域などの地域工業化に資するというリターンが獲得できるとしていたのである。福島県は、単に過疎地域というだけでなく、戦前以来の水力発電所集中立地地帯でもあったが、それらの電力は、結局、首都圏もしくは仙台で多くが使われていた。原発誘致に際しては、より立地地域の開発に資することが要請されていた。その上で、福島第一原発が建設されていくのである。しかし、福島第一原発の立地地域の人びとは、組織だって反対運動は起こしていなかったが、やはり内心では、原発についてのリスクは感じていた。それをおさえるのが「原発と原爆は違う」などの東電側が流す安全神話であったのである。

さて、現実に福島第一原発が稼働してみると、トラブル続きで「安全」どころのものではなかった。また、1960-1970年代には、反公害運動が展開し、原発もその一連のものとして認識された。さらに、原発について地域社会側が期待していたリターンは、現実にはさほど大きなものではなかった。すでに述べて来たように、原発の立地は、事故や汚染のリスクを配慮して人口密集地域をさけるべきとしており、大規模開発などが行われるべき地域ではなかった。このような要因が重なり、福島第二原発、浪江・小高原発(東北電力、現在にいたるまで未着工)の建設計画発表(1968年)を契機に反対運動が起きた。これらの運動は、敷地予定地の地権者(農民)や漁業権をもっている漁民たちによる、共同体的慣行に依拠した運動と、労働者・教員・一般市民を中心とした、住民運動・社会運動の側面が強い運動に大別できる。この運動は、決して一枚岩のものではなく、内部分裂も抱えていたが、少なくとも、福島第一原発建設時よりははっきりとした異議申し立てを行った。そして、それまで、社会党系も含めて原発誘致論しか議論されてこなかった福島県議会でも、社会党・共産党の議員を中心に、原発批判が提起されるようになった。この状況を代表する人物が、地域で原発建設反対運動を担いつつ、社会党所属の福島県議として、議会で原発反対を主張した岩本忠夫であった。そして、福島第二原発は建設されるが、浪江・小高原発の建設は阻止されてきたのである。

この状況への対策として、電源三法が1974年に制定されたのである。この電源三法によって、工業集積度が高い地域や大都市部には施行されないとしつつ、税金によって発電所立地地域において道路・施設整備などの事業を行う仕組みがつくられた。同時に立地地帯における固定資産税も立地地域に有利な形に変更された。大規模開発によって原発立地地域が過疎地帯から脱却することは避けられながらも、地域における反対運動を抑制する体制が形成された。その後、電源三法事業・固定資産税・原発雇用など、原発モノカルチャー的な構造が立地地域社会で形成された。このことを体現している人物が、さきほどの岩本忠夫であった。彼は、双葉町長に転身して、原発推進を地域で強力に押し進めた。例えば、2002年に福島第一・第二原発の検査記録改ざんが発覚するが、岩本は、そのこと自体は批判しつつも、原発と地域社会は共存共栄なのだと主張し、さらに、国と東電は最終的に安全は確保するだろうとしながら、「避難」名目で周辺道路の整備を要求した。「リスク」をより引き受けることで「リターン」の拡大をはかっていたといえよう。岩本忠夫は議会に福島第一原発増設誘致決議をあげさせ、後任の井戸川克隆もその路線を受け継ぐことになった。

3.11は、原発のリスクを顕然化した。立地地域の多くの住民が生活の場である「地域」自体を奪われた。他方で、原発のリスクは、過疎地にリスクを押しつけたはずの大都市にも影響を及ぼすようになった。この3.11の状況の中で、岩本忠夫は避難先で「東電、何やってんだ」「町民のみんなに『ご苦労さん』と声をかけてやりたい」と言いつつ、認知症となって死んでいった。そして、後任の井戸川克隆は、電源三法などで原発からリターンを得てきたことは認めつつ、そのリターンはすべて置いてこざるをえず、借金ばかりが残っているとし、さらに「それ以外に失ったのはって、膨大ですね。先祖伝来のあの地域、土地を失って、すべてを失って」と述べた。

原発からのリターンは、原発というリスクがあってはじめて獲得できたものである。しかし、原発のリスクが顕然化してしまうと、それは全く引き合わないものになってしまう。そのことを糊塗していたのが「安全神話」ということになるが、3.11は「安全神話」が文字通りの「神話」でしかなかったことを露呈させたのである。

この原発をめぐるリスクとリターンの関係において、福島の多くの人びとは、主体性を発揮しつつも、翻弄された。そして、このことは、福島外の私たちの問題でもある。

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以前、原発反対派の福島県議であったが1985年に双葉町長となり原発推進を主張した岩本忠夫については、何度か紹介した。岩本は町長時代の2002年11月20日の衆議院経済産業委員会に参考人として出席し、この場で、「原子力と共生しながら生きていく」と宣言していたのである。次の部分に主要個所をかかげておく。

○岩本参考人 おはようございます。福島県双葉町長の岩本忠夫であります。
 福島県の双葉地方は、現在、第一原子力発電所が六基、さらに第二原子力発電所が四基、計十基ございます。三十数年間になりますけれども、多少のトラブルはございましたが、比較的順調に、安心、安全な運転を今日まで続けてきたわけでありますけれども、八月二十九日、突然、今平山知事の方からもお話がございましたように、東京電力の一連の不正事件が発生をし、そしてそれを聞きつけることができました。
 これまで地域の住民は、東京電力が、国がやることだから大丈夫だろう、こういう安心感を持ってやってきたわけでありますけれども、今回の一連の不正の問題は、安全と安心というふうに分けてみますと、安全の面では、当初から国やまた東京電力は、二十九カ所の不正の問題はありましても、安全性に影響はないということを言われてまいりました。したがって、安心の面で、多年にわたって東京電力、原子力との信頼関係を結んできました地域の者にとっては、まさに裏切られた、信頼が失墜してしまった、こういう思いを実は強くしたわけでありまして、この面が、何ともやりきれない、そういう思いをし続けているのが今日であります。
 ただ、住民は比較的冷静であります。それはなぜかといったら、現在、第一、第二、十基あるうちの六基が停止中であります。そして、その停止されている原子力発電所の現況からすれば、何とはなしに地域の経済がより下降ぎみになりまして深刻な状態にあります。雇用の不安もございます。
 何となく沈滞した経済状況に拍車をかけるような、そういう重い雰囲気が一方ではあるわけでありまして、原子力と共存共栄、つまり原子力と共生をしながら生きていく、これは、原子力立地でないとこの思いはちょっと理解できない面があるのではないかなというふうに思いますが、原子力立地地域として、原子力にどのようなことがあっても、そこから逃げ出したり離れたり、それを回避したりすることは全くできません。何としてもそこで生き抜いていくしかないわけであります。
 そういう面から、国も東京電力もいずれはちゃんとした立ち上がりをしてくれるもの、安全性はいずれは確保してくれるもの、こういうふうに期待をしているからこそ、今そう大きな騒ぎには実はなっておりません。表面は極めて冷静な姿に実はなっているわけであります。

この発言の背景には、1999年のプルサーマル計画におけるMOX燃料のデータ改ざん発覚、2002年の福島第一・第二原発における検査記録改ざん発覚があった。特に、後者は当時の東電首脳部の総退陣に結果したのである。引用した部分の前半の部分では、岩本忠夫は東電に対する不信感をあらわにしている。

しかし、岩本は、原発の停止は地域経済の停滞、雇用不安を招くとしている。結局、原発に依存しなくてはならなくなった地域社会では、原発の興廃はその地域社会の経済的問題に直結することになるだろう。その上で、岩本は、「原子力と共存共栄、つまり原子力と共生しながら生きていく」と主張した。その理由として、「原子力立地地域として、原子力にどのようなことがあっても、そこから逃げ出したり離れたり、それを回避したりすることは全くできません。何としてもそこで生き抜いていくしかないわけであります。」とここでは主張したのである。

3.11という結果を知っている今日からみれば、この宣言は悲劇的なものに思える。3.11は、原発に依存していた地域社会の人びとに対し、推進派も反対派も区別せず、「逃げ出したり離れたり」することを強制した。「何としてもそこで生き抜いていく」といった場合の「そこで」という条件が喪失したのである。原発周辺で地域社会が存立すること自体ができなくなってしまったのである。

3.11以前でも、原発の安全性については原発の立地する地域社会でも危惧されていた。もちろん、元反対派の岩本にとって、原発の危険性は自明のことであっただろう。この文章の中でも、東電への不信感が表明されている。しかし、岩本にとって、原発が自らの地域生活を直接侵害するものとして措定されてはいなかったのである。

3.11は、原発事故は「そこで生き抜くいていく」ことすら許さない過酷なものであったことを示したといえる。「原発と共生しながら生きていく」ことはできないのだ。結局、岩本忠夫も、避難先で死んだ。以前のブログで紹介した2011年8月25日付の毎日新聞朝刊から、その最後の姿を再度みておこう。

7月15日午前5時。岩本忠夫・前福島県双葉町長は福島市の病院で、付き添っていた長男の双葉町議、久人さん(54)に見守られ、静かに息を引き取った。82歳。原発事故の避難生活で急速に衰え、入院後の40日間は会話もできなかった。
 「本当は何か言いたかったんじゃないかな。話してほしかった」と久人さんは言う。
(中略)
 岩本氏は人工透析を週2回受けていたが、長男の久人さん一家と避難を強いられた。当初、南相馬市の避難所にいた頃は、ニュースを見ながら「東電、何やってんだ」と怒り、「町民のみんなに『ご苦労さん』と声をかけてやりたい」と話していたという。だが、次第に認知症の症状が表れる。3月末に福島市のアパート に移ってからは「ここはどこだ」「家に帰っぺ」と繰り返すようになっていった。
 なぜ原発推進という「賭け」に出たのか。古市氏(社会党の地元支部書記長だった古市三久県議…引用者注)は言う。
 「ある時は住民のために原発に反対し、ある時は町民の生活を守るために原発と共存しながら一生懸命やっていた。最後に事故になり、自ら放射能を浴び、いろんな批判をかぶって死んでいった。ただ、本心は分からない。誰にも言わず、棺おけの中に持っていってしまった」

岩本忠夫も、「そこで生き抜いていく」ことはおろか、「そこで死んでいく」ことすら許されなかった。そして、東電に怒り、避難した町民をねぎらいつつ、「家に帰っぺ」といいながら、死を迎えたのである。

 

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このブログで、以前、元社会党県議で原発反対運動に携わりながら、双葉町長に転身して原発誘致を強力に推進した岩本忠夫について何回か紹介した。この岩本が中心となり、社会党や労組、社青同などにより1972年に双葉地方原発反対同盟が結成された。この反対同盟は、岩本が運動から脱落した後も存続し、3.11を迎えた。

この反対同盟の代表である石丸小四郎へのインタビューである「福島原発震災と反原発運動の46年ー石丸小四郎さん(双葉地方原発反対同盟代表)に聞く」(2011年7月18日記録)が、『労働法律旬報』1754号(2011年)に掲載されている。石丸は、福島第二原発が立地する富岡町在住の元郵政労働者であり、全逓信労働組合の活動家であるとともに、岩本に誘われて原発反対運動にも従事し、以来福島県浜通り地域で反原発の声をあげてきた。

なお、このインタビューの全体については、次のところで読むことができる。

http://www.fair-labor.soc.hit-u.ac.jp/rh-junpo/111025.pdf

このインタビューは、原発震災による避難の状況を語ることがはじまり、さらに石丸が携わってきた反原発運動について詳細に語っている。それぞれ、別の機会で論じてみたいと思う。ここでは、原発が福島にきた時の状況と、彼のになってきた運動との関係を包括的に述べているところをみてみよう。

まず、石丸は、福島に原発が来ることによってもたらされた状況について、次のように語っている。
 
 

原発10基と火力5基、トータル3兆円ものプラント建設です。私の試算では、電源三法交付金が40年間で4000億円です。これらの原発マネーが7万6000人の地域に流れ込みます。街は急激に変貌を遂げる訳です。今まで貧しかった地域に飲み屋さんがばんばんできる。ガソリンスタンドの社長は原発長者のトップですね。旅館業、運送業、弁当屋さん。原発長者を輩出し、誰もが現金収入を得られるようになって、町全体が活況を呈します。飲み屋の旦那に一番景気が良かったのはいつ頃かと聞くと、富岡は80年頃だったと言っていました。こんなに儲けて良いのかと怖くなったと言います。後もどりはできない。麻薬で地域全体が気持ち良い状態でいました。

つまり、原発・火発のプラント建設と電源交付金によって、多くの資金が流れ込み、誰もが現金収入を得られる状況になったとしているのである。そして、地域の雰囲気としては「後もどりはできない。麻薬で地域全体が気持ち良い状態でいました」となったとしている。

その中での、反原発運動を行う苦労を、石丸は、このように表現している。

 

それに対して、原発反対のデモをやっても、勉強会を開催してもなかなか人が集まらなくなる。原発反対運動は荷物を積んで、坂道をブレーキのきいた自転車で漕いで上がっていく感じでした。重かった。この40年間ずっとそうだった。

それでも、原発が安全と地域の人びとも思っていたわけではない。しかし、危険な原発も「日常の風景」になってしまうのであった。

 

原発集中地帯で原発が安全だと思っている人はきわめて少ないです。ほとんどの人は、原発は危険だと思っている。ただそれが日常だと、毎日排気塔を見ていると当たり前の風景になります。勉強していないと、原子炉の中に1年間で広島型原発1000発分の放射能を内包しているのだ、ということはわからない。原発の恩恵だけは前面に出てくる。

この指摘は、極めて重要だと思う。「危険な原発」すら「日常の風景」になってしまうのだ。その一つの要因として、原発の危険性は勉強しないとわからないが、「原発の恩恵」だけは前面に出てくることをあげている。これは、たぶん、原発集中地帯だけの問題ではないだろう。

3.11以後、原発の危険性について、多くの人びとはやっと自分の問題として理解できたといえる。しかし、それは、それぞれの人びとが、原発事故の不安の中で、政府発表や推進派学者の意見を疑い、その内実について、それぞれが「勉強」を重ねた結果、理解したといえるのだ。結局、この「勉強」がなければ、経済的な利益があると喧伝される「原発」は、また日常の風景になってしまうだろう。

その上で、石丸は、反対運動と地域社会の微妙な関係について、次のように述べている。

 

私は少人数でも運動ができるように街宣車を買って、「これ以上原発はいらない」と10年前から宣伝して回っていますが、石をぶつけられたとか、やめろこのバカとか言われたことは一度もないです。住民のなかに、石丸のような人間もいなければいけないという考え方や、俺にはできないけれどお前はがんばってくれという声もあります。
 他方、地域の推進派にとって、原発に反対する人たちもいないと困る、原発反対派がいないと東京電力や国は出すものも出さなくなるので、反対派が力をつければ、自分たちに良いところがあると分析する人もいる。だからしたたかですよ。

石丸らの反対運動は、地域社会の隠れた声でもあったといえるのだ。そして、この地域の推進派にとって、原発反対派の存在は、国や東京電力から利益ーリターンを引き出す材料の一つにもなっていたといえるのである。

そして、「地域の推進派」の一人が、石丸が反原発運動を行う際の指導者であった、元双葉町長岩本忠夫であったのである。

このインタビューは、この後、岩本忠夫の評価について述べている。次回以降、紹介しておきたい。

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さて、大飯原発再稼働が、2011.3.11以後の原発問題の現今の焦点となっている。とりあえず、形式的な形で政府はストレステストなどの結果を判定し、「安全」と認定した上で、大飯原発が立地している福井県とおおい町に対して再稼働の合意を求めた。それに対し、世論は脱原発デモなどで反発し、特に、滋賀県・京都府など、原発再稼働につき制度的な発言を有さず、雇用や電源交付金などで多大なリターンが得られないにもかかわらず、福島第一原発と同程度の原発災害があれば、関西圏の水源となっている琵琶湖の汚染など、多大なリスクを蒙らざるをえない自治体から異議が申し立てられているという状態になっている。

その中で、原発立地自治体である福井県とおおい町がどのような対応を示すのであろうか。関心を集めているところである。

そんな中で、おおい町の町議会の動向として、次のような報道がなされている。

原発再稼働 国への8項目を検討 おおい町議会が作業部会 福井

産経新聞 5月9日(水)7時55分配信
 関西電力大飯原子力発電所3、4号機(おおい町)の再稼働について、おおい町議会は8日、作業部会の会合を開いた。

 作業部会は、小川宗一副議長や松井栄治原子力発電対策特別委員長ら7人と、オブザーバーとして新谷欣也議長で構成。今月1日に発足、複数回の会合で、今後の審議内容や日程を詰めてきた。会合は「非公式の会合であり、本音で話し合うため」(議員の1人)、すべて非公開となっている。

 この日の会合では、7日の全員協議会で中間報告として提出された、国への8項目の課題について審議。この中で議員が「避難道路も建設計画が始まり、安全担保はできているのでは」と指摘。別の議員が「安全を守るという議会のスタンスを表現するべきだ」などと、8項目の文言を検討していった。

 このほか、議員から「大飯原発が先頭を走っていることで、ほかの原発がなし崩しで再稼働するような誤解がある。国は一つ一つ検証していることをアピールすべきだ」と不満が出た。

 町議会は9日以降も、作業部会の会合や全員協議会を開き、最終的な再稼働の可否判断を行う。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120509-00000037-san-l18&1336521728

この中で、気になったのは、「避難道路も建設計画が始まり、安全担保はできているのでは」と述べた議員の発言である。この発言の背景として、大飯原発が半島の突端に建設され、その近くの大島集落から原発事故の際避難するためには、海岸沿いを進む道が一本しかないことがあげられる。以下の googleマップで確認できよう。

おおい町議会は、3月以来、他の安全対策の実施にならんで、「原発災害制圧道路及び避難道路の多重化 、アクセス道路の複線化と上位道路構造令の適用などによる自然災害やあらゆる気象状況に耐えうる道路の早期着工。」(3月6日の「原発問題に関する統一見解」)「を求めていた。この要求に対し、4月26日におおい町を訪問した経済産業省の柳沢副大臣は、本年度予算で14億円計上したと回答している。

しかし、背景説明を承知しても、この発言は第三者からみれば、異様なものに響く。第一に、まず避難道路の確保が、なぜ現段階においても課題になるのか。第二に、まだ予算計上されたばかりで、建設すら始まっていない避難道路が、なぜ「安全担保」になるのだろうか。

まず、第一の問題から考えてみよう。東電の相次ぐ事故かくしをうけて、元々は反対派の福島県議であったが、この時は双葉町長として原発建設を推進した岩本忠夫が衆議院経済産業委員会によばれ、2002年11月20日に参考人として陳述した。岩本は次のように述べている。

岩本忠夫双葉村長の衆議院経済産業委員会における発言(2002年11月20日)
○岩本参考人 おはようございます。福島県双葉町長の岩本忠夫であります。
 福島県の双葉地方は、現在、第一原子力発電所が六基、さらに第二原子力発電所が四基、計十基ございます。三十数年間になりますけれども、多少のトラブルはございましたが、比較的順調に、安心、安全な運転を今日まで続けてきたわけでありますけれども、八月二十九日、突然、今平山知事の方からもお話がございましたように、東京電力の一連の不正事件が発生をし、そしてそれを聞きつけることができました。
 これまで地域の住民は、東京電力が、国がやることだから大丈夫だろう、こういう安心感を持ってやってきたわけでありますけれども、今回の一連の不正の問題は、安全と安心というふうに分けてみますと、安全の面では、当初から国やまた東京電力は、二十九カ所の不正の問題はありましても、安全性に影響はないということを言われてまいりました。したがって、安心の面で、多年にわたって東京電力、原子力との信頼関係を結んできました地域の者にとっては、まさに裏切られた、信頼が失墜してしまった、こういう思いを実は強くしたわけでありまして、この面が、何ともやりきれない、そういう思いをし続けているのが今日であります。
 ただ、住民は比較的冷静であります。それはなぜかといったら、現在、第一、第二、十基あるうちの六基が停止中であります。そして、その停止されている原子力発電所の現況からすれば、何とはなしに地域の経済がより下降ぎみになりまして深刻な状態にあります。雇用の不安もございます。
 何となく沈滞した経済状況に拍車をかけるような、そういう重い雰囲気が一方ではあるわけでありまして、原子力と共存共栄、つまり原子力と共生をしながら生きていく、これは、原子力立地でないとこの思いはちょっと理解できない面があるのではないかなというふうに思いますが、原子力立地地域として、原子力にどのようなことがあっても、そこから逃げ出したり離れたり、それを回避したりすることは全くできません。何としてもそこで生き抜いていくしかないわけであります。
 そういう面から、国も東京電力もいずれはちゃんとした立ち上がりをしてくれるもの、安全性はいずれは確保してくれるもの、こういうふうに期待をしているからこそ、今そう大きな騒ぎには実はなっておりません。表面は極めて冷静な姿に実はなっているわけであります。
 (中略)
 また一方では、今回の一連の不正の問題等について、国のエネルギー政策やまた原子力政策がこれでもって崩壊したとか、これでもって大きくつまずいたとかということを言われる方もいらっしゃいますけれども、私は、これは政策とは基本的に違う、こういうふうに実は考えておりまして、いたずらに今回の不正の問題を政策の問題にすりかえてしまうというのはやはりおかしいんじゃないかな、こういうふうに自分なりに実は感じているところであります。
 ともあれ、原子力はあくまでも安全でなければなりませんし、地域の方々が安心して過ごしていけるような、そういう地域、環境をつくるということが大きな使命であるというふうに実は考えております。
 もう一つ、この際お願いをしておきたいことは、地域環境の整備であります。かつては、避難道路などという、避難ということをいいながら道路の整備をお願いしたいということは、余り口には出しませんでした。しかし、近年は、どうしても万々が一に備えてそのような道路、周辺の道路の整備や何かをぜひともお願いしたい、こういうことを申し上げてまいりました。常磐自動車道の問題も一つであります。さらにまた浜街道、広野小高線という道路がありますが、これらの道路の整備についても同様であります。
 さらにもう一つ、横軸としまして、福島県の二本松から双葉地域にかける阿武隈山系横断道路という、これはまだ印も何もついておりませんけれども、私たちは、これは避難道路、つまり横軸の骨格の道路としてどうしても必要だ、こういうことでお願いをしているところでありまして、どうぞ御理解をいただきたいというふうに考えております。
 今回の事故を振り返ってみますと、かつて茨城県東海村のジェー・シー・オーの事故、この教訓が果たして生かされているのかどうかということを痛切に感じております。その際に深谷通産大臣が私の方に参りまして、ジェー・シー・オーの施設と原子力発電所の施設は違う、原子力の施設は多重防護策をとっていて、万々が一の事故があっても完全に放射能物質を封じ込めることができる、だから安全である、こういうことを明言されていたようでありますけれども、私も、これには決して逆らうつもりはありませんし、そういう原子炉の体制にはできている、こういうふうに考えておりますけれども、かつての事柄について、十二分それを教訓としてこれから原子力行政に生かしていただきたいとお願いを申し上げまして、私の意見陳述にかえさせていただきます。
 ありがとうございました。(拍手)(国会会議録検索システム)

この全体をより詳細に検討すべきなのだが、ここでは、この部分に注目したい。岩本は「もう一つ、この際お願いをしておきたいことは、地域環境の整備であります。かつては、避難道路などという、避難ということをいいながら道路の整備をお願いしたいということは、余り口には出しませんでした。しかし、近年は、どうしても万々が一に備えてそのような道路、周辺の道路の整備や何かをぜひともお願いしたい、こういうことを申し上げてまいりました。」と述べている。つまり、避難道路建設ということは国への補助申請においては避けるべきことだったと岩本は意識しているのである。

福島原発立地自治体において、電源交付金のかなりの使途は、周辺道路の整備である。しかし、避難を名目にした道路整備は、平時には請求できず、東電の事故隠しなど、安全性への不安が露呈した時しか要求できなかったと考えられる。もちろん、それは、原発は安全であるという安全神話を守るためであったと考えられる。これは、他の安全対策でも考えられる。単にコストがかかるからというのではなく、安全神話を守るためにも、大掛かりな安全対策はされなかったといえないだろうか。そのため、現時点で避難道路を建設するという遅ればせな要求が出てくると考えられるのである。

他方、予算計上しただけの「避難道路」が、なぜ、「安全担保」になるのだろうか。原発事故はいつどのような形で起こるかわからず、そのために「避難道路」を複数確保するということは、根本的な解決ではないが、合理的である。しかし、現在できてもいない「避難道路」は、現在の「安全担保」にならないのは当然である。

ある意味では、安全対策としては「非合理」なのだが、これを、立地自治体へのリターンの一種として考えるならば、意味をなしてくると思う。安全対策は、国なり電力会社が、立地自治体住民に対して無条件に保障すべきものであり、それは、単に予算措置ではなく、実際に建設して、はじめて「安全」といえる。しかし、ここで問題としている安全対策としての「避難道路」は、現実には14億円の道路費予算投入でもあることを忘れてはならないであろう。その場合、最終的に「安全」が確保されるかどうかは問題ではなく、14億円の予算投入によって、公共事業がうまれ、さらに、道路修築によってインフラが整備されるという点が注目されているのではなかろうか。そうなると、「安全対策」も「リターン」の見地から評価されていくことになるのではなかろうか。

そうなってくると、大飯原発再稼働において、国が、福島第一原発事故で効力を発揮した免震重要棟の建設について、「将来の計画」でかまわないとした意味が理解できるのではなかろうか。安全対策も、所詮、立地自治体への「リターン」でしかなく、それが実際に機能することは二の次なのであるといえよう。

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今や、佐藤栄佐久前福島県知事が福島県知事に就任していた時期(1988〜2006年)において、政府の押し進める原子力推進政策に対抗的な姿勢をとったこと、そしてその後疑獄事件で失脚させられたことは、かなりの人びとが知っていることと思う。

佐藤栄佐久の回想録である『知事抹殺ーつくられた福島県汚職事件』(平凡社、2009年)、『福島原発の真実』(平凡社、2011年)によると、福島県知事時代の佐藤は、原発稼働自体に反対していたわけではなかった。政府の中央集権的な地方自治体への統制への反発を前提にとしつつ、事故を隠蔽してまで原発の安全性を主張する政府・東京電力への対処と、高速増殖炉もんじゅやプルサーマル計画に代表されるプルトニウム中心の核燃料サイクル計画の将来性への不信が、政府の押し進める原子力推進政策への対抗的な姿勢につながっていったということができる。

しかし、佐藤自身も、原発立地自治体における原発に依拠した地方振興のあり方には疑問をもっていた。『知事抹殺』の中で、佐藤は次のように語っている。

 

部品脱落事故を起こした福島第二原発3号機が、ようやく運転再開にこぎつけて一年も経たない一九九一(平成三)年九月二五日、福島第一原発の地元である双葉町議会が、原発増設要望を議決した。
 かりに原発を一基作って、一兆円ほどの規模になったとする。国や電力会社は、一%程度の地元への見返りを考えるという。それが二基ある双葉町は財政的に恵まれているはずで、なぜ、というのが率直な感想だった。
 「原発が本当に地域振興の役に立っているのだろうか」という問題意識から、原発に代わる浜通り地方の新たな地域振興策を考えていた矢先だった私は、ショックを受けた。
 「原発の後の地域振興は原発で」という要望が地元から出てきたということは、運転を始めて約二〇年、原発が根本的な地域振興のためになっていなかったことの証明だった。
 地元にとって、原子炉が増えるメリットは、建設中の経済効果と雇用が増えること、自由には使えないが、国から予算が下りてくることだ。しかし、三〇〜四〇年単位で考えると、また新しく原発を作らないとやっていけなくなるということなのか。これでは、麻薬中毒者が「もっとクスリをくれ」と言っているのと同じではないか。自治体の「自立」にはほど遠い。
(『知事抹殺』p53〜54)

佐藤は、自治体の自立という観点から、原発に半永久的に依存しつづけなくてはならないような状況は、「原発が根本的な地域振興のためになっていなかったことの証明だった」というのである。

なお、1991年の双葉町議会において原発増設要請決議がなされた時の双葉町長は、このブログで何回もとりあげた、岩本忠夫である。県議であった時の岩本は、原発反対派として、原発建設を推進した木村守江と対峙した。皮肉なことに、ここでは、原発推進政策見直し(必ずしも反原発ではないが)を指向することになる福島県知事佐藤栄佐久に、岩本は原発推進の立場で対峙することになる。

佐藤は、結局、双葉町は財政危機から逃げ出せず、2008年には福島県内一財政状況の悪い自治体となり、町長は税金分以外無報酬になるしかないところまで追い込まれたとのべている。この無報酬で勤め得ざるをえなかった町長が、現町長の井戸川克隆である。

そして、佐藤は、このように指摘している

福島県でも、只見川流域の水力発電地帯が、発電の中心が火力、原子力と変化していく中で時代に取り残された過疎地域になり、医師がひとりもいなくなってしまった。その窮状を、全国知事会でときの小泉首相に訴えたこともあった。「ポスト原発は原発」しかないのか。二〇年後の双葉町は、浜通りは、どうなってしまうのだろうか。
(『知事抹殺』p55)

この言葉は、2009年の時点で書かれたものだ。もちろん、知事は退任し、疑獄事件の法廷闘争を行っている時期なのだが…。過去から見ても、2012年という2009年時点からすると未来からみても、意味深長なものに思える。

福島では、佐藤のいうように、奥只見電源開発が行われた。地域振興が目的であったが、結局、地域振興にはならなかった。1950〜1960年代の福島県議会会議録には、知事や議員たちの、ある意味では無念の思いが多く記されている。

原発についてはどうか。佐藤栄佐久知事に対峙することになる双葉町長岩本忠夫は、1971年7月8日、福島県議会で、議員として次のような発言をしている。

次に地域開発について質問いたします。
 山と水と森、それは、すべての生物を生存させる自然の条件であります。地域開発は、まさにこの偉大な自然の中で、これを活用し人間の生命と生活が保護されるという状態で進められてことが大切であります。いままで現実に進められてきた開発行政は、一般住民の生活基盤の整備が放置されたままに大企業の立地条件をすべてバラ色に装飾された図式のもとで、至るところ企業の誘致合戦が展開されてきたのであります。人間が生きていくことに望ましい環境をつくり、それを保持することが今日最大の必須条件でありますが、現実にこれが尊重されず、企業本位の開発進行がなされてきたところに、人間の命が軽視される公害発生となったのであります。このことを確認する上に立って、特に後進地帯といわれる双葉方部にスポットをあてながら、さまざまな分野でお尋ねをするわけであります。
(『福島県議会会議録』)

佐藤栄佐久は、ここで、彼個人の見地をこえた福島の「過去」からの声に依拠して発話しているといえよう。

他方、「『ポスト原発は原発』しかないのか。二〇年後の双葉町は、浜通りは、どうなってしまうのだろうか。」という言葉は、まるで、予言のように聞こえる。いや、事態はもっとひどい。「ポスト原発は原発」ですらない。20年もたたない約2年後、双葉町は、少なくとも中期的には人の住めない地になってしまった。

『知事抹殺』『福島原発の真実』には、佐藤栄佐久の政治家としての営為が詳しく叙述されている。それから学ばなくてはならないものもたくさんある。ただ、その前に、「過去」と「未来」の間にある佐藤栄佐久自身のありようをまずみてみなくてはならないと思う。それは、私たちのありようを考えることでもある。

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さて、1960年代において、福島県知事や双葉郡選出の山村基県議らの原発誘致に対する積極的な発言をみてきた。福島県議会において、多数をしめていた自民党の県議たちは、どうであったのであろうか。すでに、このブログで述べたが、1958年3月14日の福島県議会で自民党所属県議である大井川正巳は、常磐地方への原発誘致を提起した。たぶんに、当時の佐藤善一郎知事が原発誘致方針を確立することに、この提起がなにがしかの影響を与えたと思われる。しかし、その後、しばらく、自民党県議たちは、原発問題について目立った発言はしていない。

しかし、1963年4月の県議選で、双葉郡選出議員として山村基にかわって笠原太吉が選出されてから状況が異なってきた。笠原は双葉町出身の自民党県議であった。前のブログでふれた同じく双葉町出身である岩本忠夫の競争相手であった。いや、岩本は1971~1975年の間しか県議をしておらず、岩本が県議だった時期を除いて、笠原は1963~1987年の間県議をつとめているのであり、むしろ、岩本にとって「大きな壁」であったといえる。とりあえずは、「政敵」といってよいだろう。

笠原太吉は、積極的に原発問題をとりあげた。1964年3月17日の福島県議会で、笠原太吉は、原発について、「次に、十五日ですか、新聞紙上に突如として双葉郡下に原子力発電所が設置されたやの用地取得に関する県開発公社の計画が発表になっております」と述べ、この際、原発誘致についての東電との従来の交渉経過や、今後の方針について発表すべきだと主張した。さらに、笠原は、このようにいうのである。

なおあわせて、電源開発そのものより、先ほど申し上げました只見川の電源開発は、いわゆる電気水利使用料だとか資産税というだけにその恩典がある。ここに原子力発電所ができれば、その経済効果、これに関連する産業の誘致が問題でございます。そのためには、どうしても水資源の開発をはからなければならない。百万キロの発電所をただ一ヵ所につくるということになりますと、いま常磐線の電化あるいは国道六号線の完全舗装といった中に、残された双葉の開発は、おそらくこれが中心として展開するものと私は考えます。したがって、この関連産業誘致に対する水資源の確保の構想並びに今後、双葉、大熊を中心とした、少なくとも富岡町、大熊町、双葉町。浪江というものを包含した、いわゆる産業構造というものを描いた都市計画の調査に入るべきだと思うが、県にその用意があるかどうかをお尋ねをいたしておくわけでございます。

笠原は、この発言の前に、奥只見の電源開発は産業誘致を目的としたものであったけれど、結局は使用料・固定資産税が入ってくるにすぎない、このために移転を余儀なくされている人びとの現在の生活状況はどうなっているのかと疑問をなげかけている。笠原は、原発はその轍を踏んではならないとし、産業誘致、水資源開発、鉄道・道路などの交通インフラの整備、都市計画などの計画策定が必要であるとしているのである。笠原にとっても、原発は、ただ電力供給の見返りに金銭が入ってくるものではなく、それを起爆剤とした双葉郡地域の総合開発につながっていくべきものなのであった。

笠原の登場以降、自民党県議たちも、原発誘致に積極的に発言することが増えてくるようになった。例えば、1964年12月12日の福島県議会において、一般質問のトップバッターとして、須賀川市選出の平栗欣一が「自由民主党を代表いたしまして」質問しているが、その中で、短いながらも福島第一原発建設についてふれている。平栗は、原発建設を「本県の開発の上に一大福音がもたらされる」と表現している。その上で、受け入れ態勢は万全を期さなくてならないとし、県もあたう限りの協力をすべきであるのだが、実際の建設計画はどうなっているのかと質問した。この後、1960年代半ばの福島県議会では、定例会の冒頭の自民党議員(双葉郡選出とは限らない)の質問で、県知事に原発建設計画の進捗状況を質問し、知事が答えることで進捗状況を公表するというようなやり取りがかなり続くことになる。

笠原太吉は、原発建設を契機とする双葉郡開発構想を、さらに福島県議会でよく述べている。1965年7月14日の福島県議会において、笠原は、原発問題について、かなり長い間、論じている。笠原によれば、原子力発電所の発生電力は、福島県内の火力・水力発電所を合算したそれに匹敵するものであり、「世紀の大事業」であるとした。また、県開発公社が、町当局・町議会の協力を得て一人の反対者もなく短い期間で用地買収を完了してことにつき、「双葉郡民が県を信頼し、知事の手腕に全幅の信頼をおき、土地買収に協力したたまもの」と評価した。そして、彼は、短期間で土地買収が達成されたことについて、このように言っている。

その根本的理由は、双葉郡民がこの原子力発電所の将来に期待をして、すみやかに双葉郡の後進性を脱却せんとする悲願達成の熱望がこの結果をもたらしたものと私は信じておるわけでございます。したがって、この発電所の完成の暁には、本県の発展はもちろん、わが国経済の発展に偉大なる貢献をするものと信じて疑わないのでございます。したがって、東京電力におきましても、県におきましても、当地方の地域住民の福祉向上のために、最大の努力をいたすべきものと考えておるのでございます。

そして、双葉郡の発展のため、町村合併を促進させ、双葉地方の地域開発計画構想を樹立し、水資源確保ー端的にいえばダム建設ーをはかるべきと主張したのである。自治体統合も含んだ、総合的な双葉郡の開発を原発建設を契機に行うべきというのが笠原の考えであったといえる。これは、同時期に県議会で表明していた、佐藤善一郎、木村守江の原発誘致に向けた見解と相通ずるところがあったいいえよう。笠原の考えは、全体として双葉郡地域総体の開発を期待しており、原発マネーのみをあてにしていなかったことについて、ここでも指摘しておくことにする。

このような笠原の質問に対し、当時の知事であった木村守江は、1959年頃から佐藤前知事をはじめとして熱心に誘致運動をしてきた成果として原発が建設されるのであると評価し、原発建設計画が遅れたのは原発から発生する電力が採算がとれるかいなかの問題があったためだが、明年(1966年)から建設に着手するのは喜びにたえないと述べた。その上で、笠原の提起した町村合併や水資源確保に賛意を示したのであった。

その後の県議会でも、笠原は熱心に原発建設問題をとりあげていく。ある意味では、知事の原発誘致運動を県議会内部で下支えしたものということができるのである。

原発反対派の県議岩本忠夫が県議会に登場するためには、同じ双葉町出身で熱心に原発誘致を求めていた笠原太吉に打ち克っていかねばならなかったのである。

さて、同時期の社会党県議たちは、どのように行動していたのであろうか。それについては、今後みていきたい。

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現在、福島県議会会議録を分析している途中であり、追々他の議員の原発関連の発言とともに岩本忠夫の原発立地反対意見については紹介したいと考えている。ここでは、やや先走って、原発を推進した双葉町長としての岩本忠夫の発言を瞥見したい。とりあげるのは、社団法人原子力燃料政策研究会が発行している機関誌『プルトニウム』2003年夏号(42号、2003年8月8日)に掲載されたに岩本忠夫へのインタビュー「発電所は運命共同体」(インタビュー6月20日)である。

まず、このインタビューが行われた時点の状況を確認しておこう。開沼博『「フクシマ」論ー原子力ムラはなぜ生まれたのか』によると、2001年頃より、当時の佐藤栄佐久福島県知事は原発推進政策の見直しを打ち出していた。そして、2002年8月には、東京電力のデータ改ざんが発覚した。このデータ改ざんについては、国も原子力安全保安庁も内部告発を受けながら、2年間も放置してきた。2003年4月には、東京電力の原発がすべて停止し、電力不足で首都圏が大停電することがさかんに新聞などで議論されていた。

そのような状況におけるインタビューである。元原発反対の急先鋒であった岩本忠夫は、やはり、

故障とかトラブルは、あれだけの施設ですから何かにつけて全くないということは有り得ないということです。いろいろな故障があっても、特に気をつけなければならないのは、ある箇所の些細な故障が思わぬ事故につながる場合で、ですからそのような肝心な箇所だけは常にきちんと押さえてもらわないといけません。
http://www.cnfc.or.jp/pdf/Plutonium42J.pdfより

と懸念を表明した。そして、過去の重大事故などの問題点を具体的にあげている。

その上で、岩本は、このようにいう。

 

今回の不祥事の中でも、格納容器の気密性の検査データ不正問題、この問題が一番劣悪ではないでしょうか。しかし、この問題もどうやら克服できそうと思っているのですけれども…繰り返すようですが、一連の不正の問題はありましたが、安全の面ではまあ何とか確保されています。しかし長い間培ってきた信頼関係、それは正に安心につながる問題なのですけれども、それが大きく損なわれたと思うのです。私は長い間、東京電力との関係において、発電所での「多少のトラブルはありましても、極度に安全性に影響するものはなかった」と実は思っています。今回の問題で、一時は確かに一部からはいろいろな感情も出てきましたが、10年とか20年とかのスパンで考えれば、お互いに信頼関係で結ばれてきたものは、そう簡単に無くなるはずはないのです。

この発言は、よく読んでみると、かなり奇妙である。東電などへの不信感が表明されているが、他方で東電に対する長い間の信頼関係が強調されている。ある意味では対立した二つの主題が交互に表明されているのである。まさに「揺れる想い」なのである。

しかし、岩本は、その後で、このようにいうのである。

ですから私は前向きにとらえているつもりなのです。いつまでもダラダラと問題点を突いていたのでは、自分自身が後ろ向きになってしまうものですから、極力前向きに考えているのです。それはそれとして、私は、原子力についてもっと正常な姿を構築するために、どのような面で協力が出来るかを、むしろ本気になって考えていく必要があると実は思っているのです。
 現在の原子炉の構造の中で、最悪の事故が放射能漏れの事故ですが、わが国の原子力発電所はそれを完全に封じ込める機能を十分持っていると私は思っています。アメリカのスリーマイル島の原子力発電所の事故とか、ソ連のチェルノブイリ発電所の事故とか、あのような事故につながっていくことは日本の原発ではまず無いと思っているのです。今は声高らかにそのようなことを言う時期ではないでしょうが、そのように信じて対応していかないと、これからの原子力行政に自ら携わっていくことができ難くなります。常に疑心暗鬼で原子力とお付き合いしていくような想いは、私としてはしたくないという感じがするものですから、これまでのことはそれはそれとして、国も東京電力もいたく反省をして、力一杯頑張っているわけだし、とにかく前向きに取り組んでいることを評価しているのです。

日本では、スリーマイル島やチェルノブイリのような事故は起きない、「そのように信じて対応していかないと、これからの原子力行政に自ら携わっていくことができ難くなります」と主張するのである。原発を推進するためには、東電・政府を信頼するしかない。ある意味で、強弁といえるようなものである。安全性が保証されているから、原発建設を推進するのではない。原発建設を推進するためには、安全性を信用しなくてはならない。これは、原子力を推進する立場からみた安全性とは何かを端的に語っているものといえる。双葉町長時代の岩本とて、原発への不安感、東電などへの不信感はあった。しかし、原発を推進していくためには、それらを押し隠して、「信頼関係」を強調していくしかなかったのである。

その上で、岩本は、町の財政問題をこえて、日本全体の核燃料サイクルの確立を提唱する。

つまり町の財政をどうするかは大事なことではありますが、同時にそれ以上に大事なのは、現在の日本の核燃料サイクル、核燃料政策、原子力政策を本当に実行させていくためにはどういうことが必要か、とりわけ再処理、高レベル放射性廃棄物の最終処分も思うようにいかなくなると、つまるところ、いずれは原発も止まってしまうということにつながっていくわけです。ここのところを私たちは国に対してもきちっと注文しなければなりませんし、かなり厳しく対応していく必要があるのではないかと、その役員会(全国原子力発電所所在市町村協議会)の場で話をしたのです…日本の原発ではそういう核燃料サイクルの体制の準備が出来ていないのに、前々から判っているのに、東海村のちっぽけな再処理施設一つで間に合うはずもないのに進めてきたわけです。結局は海外の処理に頼ってきました。今になって六ヶ所村で集中的に、精力的に進めていますが、本来の準備不足で見切り発車的なものでした。そういうツケが今、回ってきているのでしょう。例えば、当地の原発増設の問題なども、佐藤知事は、最終処分とか再処理問題の遅れなどから、「だから駄目だ」と原子力政策の見直しを理由づけられているわけです。そこはやはり払拭しなければならないと私は思うのです。

この発言は、もちろん、佐藤栄佐久知事の打ち出した原発推進体制の見直しにどのように対処するかということを念頭においたものである。さすがに、元原発建設反対派であった岩本は、日本の核燃料サイクルの危うさをよく気づいていた。しかし、彼は、福島原発の立地地域をこえて、日本全国の問題として原発推進を主張したといえる。つまり、原発は、単に立地地域だけの問題ではない。そのようにしないと、原発自身がとまってしまうのである。

そして、原発停止により、首都圏で大停電が予想された事態について、岩本はこのように述べた。

私はもっと積極的にその首都圏の電力不足・エネルギー不足について、素直に見てとる必要があると思います。例えば、東京の30階建てのビルが電力不足で15階建てしか灯りが点らない、残り15階は全部真っ暗だというようなことを私たちはじっとして見ておれる心境ではありません。自分たちの兄弟や親戚や知り合いが双葉町や福島県からも大分、東京に働きに行っているわけですから、そういう人たちだって「何とかしてくれないのか」という思いは多分にあるはずです。そういう期待に応える必要があります。
これまで私たちは電力の供給基地として、原発の所在町として、首都圏に原子力エネルギー、電力を送ることを、むしろ誇りにしてきたのです。この誇りは変わることが無いわけです。これからも電力供給を今までと同様に、何ら不自由させること無く送り続け、首都圏、ひいてはわが国のお役に立ちたいという気持ちを持っているわけです。その点からも今回は非常に残念なわけです。

これも、考えてみれば、奇妙な発言である。1960年代中葉までの福島県議会における原発立地推進の論理として、原発によって供給される豊富な電力をもとに、地域社会において工業化をはかろうということが知事や議員は主張していた。しかし、現実の原発は、首都圏に電力を供給するだけの存在である。岩本は、そのことをふまえて、福島県から首都圏に働きに出ている人びとのためにも原発を再開すべきと主張したといえる。そして、そのことが、首都圏・国のお役にたつといっているのである。翻っていえば、福島原発の電力は、そんなことしか立地地域に役立っていないともいえるのである。地域住民のためにならなくてはならないという意識は多少なりとも残してはいるが、立地地域の誇りとは、他者である首都圏に電力を送り続け、そのことで首都圏ひいては国の「お役に立つ」ことが中心となるのである。

さらに、岩本は、このように述べている。

―当地の町民の皆さんも、東京電力とは長い付き合いですから、原子力発電についてはかなり理解があると思いますが、今まで、東海村のJOC事故などいろいろな事故があり、また今回の東京電力の不祥事もあり、町民の皆さん自身は原子力発電について考えが変わるようなことはあったのでしょうか。
【岩本町長】具体的には表面に出てきていません。なかには一、二、そのようなことを言われる方もおられるようです。でも、私のところには電話一本も入りません。町民の方々に直接的にお会いしても、そういう話にはなりません。町民の方々の理解の深さが出ていると思います。

これは、当たり前のことだ。元原発反対派の岩本が今や双葉町長に選挙されて推進の立場にいるのだから、少々の不満があっても、彼の前で表明する人はおるまい。それは、岩本という人物のステータスなのであって、「町民方々の理解の深さ」とは全く別個の問題であろう。その意味で、選挙によって特定の人物を代表として選出することが「民意の表明」であるという、代表制民主主義のはらんでいる問題がそこにあるといえる。

そして、最後に、岩本は「原発は運命共同体」と主張した。

―東京電力とは長い間のつき合いで、普段からいろいろなことがあっても、培われた信頼関係があるので、と町長も前述されましたが…
【岩本町長】それが基礎になっています。少し口幅ったい言い方をしますと、やはりそういう長い付き合いをしてきたということで、原子力発電所それ自体についても、その中で自分も生きてきたと思っているのです。ですから単に原子力発電所との共生をしてきた、共生をしていくということだけではなくて、運命共同体という姿になっていると実は思っています。ですから、いかなる時にも原子力には期待もし、そこには「大きな賭け」をしている、「間違ってはならない賭け」をこれからも続けていきたいと思っております…私はどのようなことがあっても原子力発電の推進だけは信じていきたい。それだけは崩してはいけないと思っています。それを私自身の誇りにしています。そこは東京電力も国も分かってくれよと申し上げているのです。決して私どもの泣き言ではなく、原子力にかける想い、それが私の70才半ばになった人生の全てみたいな感じをしているものですから。

岩本は、原子力発電所とは、信頼関係の上にたった「共生」であり、「運命共同体」なのだというのである。しかし、岩本は、原発との「共生」を「大きな賭け」とも表現している。元反対派の岩本は、原発の問題性を知っていたに違いない。しかし、それでも、原発を推進するためには、そのことを押し隠して、原発の安全性を信用するしかなかったのである。

賭けには、いつも危険性がともなっており、「間違ってはならない賭け」なぞ存在しない。それにも関わらず、岩本は「間違ってはならない賭け」を信じた。、原子力発電所の推進を信じた。それを「70才半ばになった人生の全て」としてしまった。3.11後、東電に怒り、町民を気遣って死を迎えた彼の悲劇の核心はここにあると思う。

私だって、自分の人生に悔みもある。たぶん、「間違ってはならない賭け」を信じたこともあろう。しかし、今のところ、岩本ほどひどいしっぺ返しを受けてはいない。岩本の「間違ってはならない賭け」は、彼個人だけではなく、近隣に住む人びとすべてを巻き込んだ。これは、岩本を批判するのではない。「ただ悲しい」のだ。そして、いまだ、原発を推進する首長たちは、同様の「間違ってはならない賭け」を信じているように、私にはみえるのだ。

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