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沖縄近現代史研究者新崎盛暉氏が2012年10月16日に「2012年アジア思想上海論壇」にて講演を行い、「沖縄は、東アジアにおける平和の『触媒』となりうるか」と題されて『現代思想』2012年12月号に掲載された。尖閣諸島が所在する沖縄側の意見を伝えるものとして、この論考を紹介しておきたい。

まず、新崎氏は、「『万国の労働者よ、団結せよ』というスローガンが、ある種の理想を描いていた時代がはるか過去のものとなり、国家主義、愛国主義がせめぎ合う中で、『国家より先に人間が存在するのではないか』という問題提起」(本書p148)を行うとした。その上で、この論考では、オスプレイ普天間基地配備をめぐって沖縄の民衆が日中両政府と激しく対立していること、米中日韓の力関係の変化を背景として東アジアに領土紛争という新たな危機が生み出されたことを前提として、「『反戦平和』を求めて闘い続けてきた沖縄は、今こそ、自らの闘いの教訓を踏まえつつ、この新たな危機に対して、国家の立場を超えた独自の視点を提起する努力をなすべき」(本書p148)と主張した。この論考全体では、沖縄の近現代史を展望しつつ、「やがて、沖縄の民衆闘争は、南ベトナム内戦へのアメリカの全面介入とその政策的破綻の中から登場した日米軍事同盟の再編強化策としての72年沖縄返還政策と対峙しつつ、『反戦復帰』を掲げる新たな沖縄闘争へ、ナショナリズムから脱皮した反戦闘争へと変質していきます」(本書p154)と述べた。

その上で、「東アジアの平和の試金石ともいうべき尖閣(釣魚島・釣魚台列島)問題」(本書p154)にふれている。新崎氏は、沖縄では「イーグンクパジマ」と呼ばれたことや、日中両国が尖閣諸島の帰属とする根拠について述べた後、このように主張する。

 

沖縄では、ほぼ100%の人たちが、この島々は、沖縄と一体のものであると考えています。ただそれは、日中両国家がいうような「固有の領土」というよりは、ー既成概念に寄りかかって安易に『固有の領土』といった言葉を使っている場合でもー、むしろ自分たちの生き死にに直接かかわる「生活圏」だ思っています。生活圏という言葉には、単に経済的意味だけでなく、歴史的文化的意味も含まれています。(本書p156)

「生活圏」として位置づける根拠として、沖縄の海人(ウミンチュ)=漁民によって漁場が開発されたことや、鰹節工場が設置されたこと、日本の敗戦間際に疎開船が逃げ込んだことを新崎氏はあげた。その上で、新崎氏は、次のように述べている。

 

沖縄の生活圏であるこれらの島々は、現在、沖縄が日本という国家に所属しているので、日本の領土の一部になっていますが、もともと、国家「固有の領土」などというものが存在するのでしょうか。「領土」とか、「国境」といった概念は、近代国家形成過程において登場してきたものにすぎません。それは琉球処分前後の琉球・沖縄の歴史を振り返っただけで明らかです。私たちは、そろそろ欧米近代が東アジアに持ち込んだ閉鎖的排他的国境・領土概念から抜け出してもいいのではないでしょうか。
 強調しておかなければならないのは、「国家固有の領土」と違って、「地域住民の生活圏」は、必ずしも排他性を持つものではない、ということです。たとえば、沖縄漁民の生活圏は、台湾漁民の生活圏と重なり合うことを排除するものではありません。(本書p156)

そして、新崎氏は、過去においては沖縄と台湾の間に生活圏が形成されており、現在でも国境をこえた生活圏形成の可能性があることを指摘し、台湾の馬英九総裁が、尖閣諸島を台湾帰属としつつも、東シナ海をめぐる争議は多国間メカニズムを通して平和的に解決すべきとした「東シナ海平和イニシャチブ」を8月に提言したことに言及する。

しかし、新崎氏は、ある程度、台湾の「東シナ海平和イニシャチブ」を評価するものの、その限界性をも指摘し、次のように提言する。

 

平和的解決に力点を置いた提言は、注目すべきですが、あくまで中華民国という国家の立場からの提言です。21世紀に入った現在から将来を展望しようとする場合、欧米近代が持ち込んだ領土概念を抜け出し、地域住民の生活圏に視点を移して、紛争を平和的に解決する方途を模索することはできないでしょうか。とりあえず現状を変えることなく、抽象的観念的「固有の領土論」を棚上げし、これら地域を歴史的文化的経済的生活圏としてきた人々の話し合いの場を通して、問題の歴史的背景や将来の在り方を検討し、共存圏の構築に努力することはできないでしょうか。たとえば尖閣諸島については、日中両国と共に、地域としての沖縄と台湾の歴史家や漁業関係者の参加が不可欠だと思います。(本書p157)

さらに、新崎氏は、竹島(独島)や歯舞、色丹、国後、択捉についても同様なことが必要であるとし、最後に、このように主張している。

国家間関係の中に国境地域住民の視点をも取り入れることによって初めて、一貫した歴史認識と将来的共生の展望が獲得できるのではないでしょうか。それこそが沖縄の「反戦平和」を求める闘いが目指してきたものである、と私は考えています。(本書p157)

この新崎氏の提起に、私は共感した。現時点では、日中(+台湾・アメリカ)という国民国家同士で尖閣諸島の将来を議論していることになるが、国民国家という枠組みにとらわれれ、ナショナリスティックな主張のもとで無用の緊張を招くか、もしくは、それよりはましではあるが「棚上げ」という形で、実際に利用する可能性のある地域住民が十分利用ことが継続されてしまうことを懸念せざるをえない。国民国家を超えて、生活圏を共有する地域の人びとが話し合って、尖閣諸島の将来を決めていくことが、真に、尖閣諸島問題を解決させていくことになろう。そして、それは、尖閣諸島問題を根拠に暗躍してきたナショナリストたちと対峙するということであり、国民国家の「近代」を真に超えて行くということにつながっていくと、私も考えるのである。

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さて、このブログにおいて、1970年に中華民国(台湾)側が尖閣諸島の領有を主張した際、日本政府は、尖閣諸島はアメリカの施政権下にあり、当時行っていた沖縄返還交渉で日本に復帰する予定であったことを尖閣諸島領有の根拠としていたことを述べた。しかし、アメリカは尖閣諸島は沖縄とともに日本に返還されるとしながらも、その帰属については当事者間で解決されるべき問題であると主張した。

他方で、琉球政府は、1895年に尖閣諸島の沖縄県帰属が内閣で閣議決定されたことなど、現在の日本政府があげている領有の根拠の源流といえる論理を1970年の声明で主張した。このことも、本ブログで述べた。

しかし、その後も、愛知揆一外務大臣は、サンフランシスコ講和条約で沖縄全体とともに尖閣諸島もアメリカの施政権下に置かれることになり、沖縄返還で復帰する予定であることを、尖閣諸島領有の主な根拠として、基本的に国会答弁で主張し続けた。

この姿勢に変化が現れたのは、1971年6月17日、アメリカとの間で沖縄返還協定が調印され(1972年5月15日発効)、その直後の7月5日の内閣改造によって外務大臣が愛知から福田赳夫に交代した以降のことであった。就任当初の福田も、前任者の愛知と同様、沖縄返還において尖閣諸島も返されることを尖閣諸島領有の根拠として国会で答弁していた。

しかし、1971年12月1日の参議院本会議における国会答弁から、福田の姿勢は変化していく。この日、日本社会党所属の参議院議員森元治郎は、尖閣諸島について、このように質問した。

尖閣列島について伺います。アメリカ上院の審議の過程において、この尖閣列島だけが特に問題として取り上げられたのを見て奇異の感じを免れません。アメリカの言い分によれば、尖閣列島の施政権は日本に返すことになるが、その領土主権の帰属については関与しない、もし領有権を主張する国がありとすれば、関係国の話し合いによってきめたらよかろうというもののようであります。一体、アメリカは、どこの国のものかわからないこれらの島々の施政権を押えていたというのでしょうか。そのくせ、返還後も演習場として使用するということになっております。キツネにつままれたようでさっぱりわかりません。何とも不愉快な話であります。その間の事情を外務大臣からお伺いいたしたいと思います。(国会会議録検索システム)

つまり、アメリカは、尖閣列島を返還するといいつつ、領土主権の帰属には関与せず、そのことについては関係国の協議にまかすという態度をとっているのではないかと質問したのである。なお、この質問の中で尖閣諸島の中にアメリカ軍の演習場があると述べられているが、この演習場は、他の沖縄基地と同様、今も返還されていない。

この質問に対し、福田は次のように答弁した。

次に、尖閣列島の問題でありますが、御指摘のように、確かにアメリカ上院の外交委員会はその報告書におきまして、この協定は、尖閣列島を含む沖繩を移転するものであり、その次が問題なんですが、尖閣列島に対する主権に関するいかなる国の主張にも影響を及ぼすものでない。こういうふうに言っておるわけであります。これは米上院の外交委員会の報告書の中にそう言っているわけでありますが、このことをとらえての森さんのお話だと思います。私は、このことをとらえてのお話、御心情はよくわかります。私といえども不愉快なような感じもいたすわけでございます。おそらくこれは他の国からアメリカに対していろいろと話があった、それを反映しているんじゃないかというふうな私は受け取り方もいたしておるのでありますが、この問題は御指摘を受けるまでもなく、すでに平和条約第三条において、これは他の沖繩諸島同様にアメリカの信託統治地域、またそれまでの間の施政権領域というふうにきめられておりますので、それから見ましてもわが国の領土である。つまり、台湾や澎湖島と一線を画しておるそういう地域であるということはきわめて明瞭であり、一点の疑いがない、こういうふうに考えております。(国会会議録検索システム)

この答弁は微妙である。この時点でも福田は尖閣諸島領有の根拠としてサンフランシスコ講和条約によってアメリカが施政権をもつことになり、沖縄返還でともにかえってくることをあげている。しかしながら、アメリカ側が尖閣諸島帰属について曖昧な態度を示していることに不快感を示しているのである。

そして、12月16日の参議院沖縄返還協定特別委員会において、森と福田は次のような議論をしたのである。

○森元治郎君 これは本論じゃないから簡単にしますが、私は、きょう現在は尖閣列島の領有権は問題なく日本だ、大陸だなと尖閣列島の問題は別個の問題である、もう一つは、もし、第三国から話し合いがあった場合には、正当なる申し入れ、相談したいとか――けんかではだめでしょうからね、正当に話したいというんなら話し合おうというだけで必要にしてかつ十分だと思うんです。外務大臣としては。いまり中国に調子づけたようなかっこうなんかする必要はないので、この問題はなかなかこれは深刻複雑ですからね。その点はもっと牛歩的な態度でしっくりいかれたらいいと思う。
 それでもう一点だけ聞くのは、なぜアメリカは領有権の問題について奥歯に物のはさまったようなことを特に言うのか、この真意は。さきに竹島問題という問題がありましたね、あれでも同じであって、何かどこかの国から領有権について問題でもあると自分がすうっと引いて、返還したなら返還しただけで黙っておれば必要にして十分だと思うのに、帰属はわからないと、そういうふうな言い方はどういう意味か、その意味だけを聞きます。
○国務大臣(福田赳夫君) 帰属はわからないとは言ってないんです。沖繩返還協定は、この協定によってこの帰属に影響を及ぼすものではない、こういうことを言っておるわけです。言っておるにしても、私どもとすれば、はっきり日本のものですよ、こううふうに言ってくれればたいへんありがたいわけなんでありますが、これはお察しのとおりのいろんな事情があるんではないか、そのような感じがします。しかし、それはいずれにいたしましても沖繩返還協定以前の問題です。日清戦争のとき、われわれは台湾、澎湖島の割譲を受けた。そのとき尖閣列島は入っておったかというと、入っておりませんでした。それから平和条約第三条でどういうふうになったかといいますれば、これは台湾、澎湖島はわが国は放棄しました。しかし、尖閣列島を含む沖繩列島はこれは信託統治、また暫定的にはアメリカの施政権施行、こういうことになっているんです。一点の疑いもないんです。ないそのものにこの条約が、今度の条約が影響を及ぼすものではないというのはまことに蛇足であります。言わずもがなのことだと思いますが、何らかいきさつがあった。しかし、抗議をするというほどのことでもないのですよ。この返還協定は、これはいままでの尖閣列島の地位に影響を及ぼすものではないと、こういうことなんですから、抗議をする、そういう性格のものでもない、こういうふうに理解しております。
○森元治郎君 私は、アメリカがきれいに返したと言えばいいものをなぜよけいなことを言うのかという、そこを聞いているんです。日清戦争の話はいいです。わかりました。
○国務大臣(福田赳夫君) きれいにお返しいたしましたということは経緯度をもってもうはつきり示してあります。
○森元治郎君 とにかくこれははなはだ不愉快な問題ですね。アメリカがなぜこうだということは、やはり外務大臣として、折りを見てとっくりと確かめておくべきだと思うんです。今後問題になりますから確かめておく。抗議、これもいいでしょうが、どうなんだと、なぜだということをやっぱり聞いておかないと問題が起きたときにあわせてますから、しっかりアメリカがよけいなことを言うんじゃないということを押え込んでおかなければいけないということを忠告して協定に移ります。
(国会会議録検索システム)

このやりとりにおいて、森と福田は、両者ともに、沖縄返還においてアメリカ側が尖閣諸島の日本帰属を明言しないことに不快感を示している。そして、福田は、ここで始めて、「日清戦争のとき、われわれは台湾、澎湖島の割譲を受けた。そのとき尖閣列島は入っておったかというと、入っておりませんでした。」ということにふれたのである。つまり、日清戦争において、台湾・澎湖諸島の割譲を受けたが尖閣はその割譲分には含まれないことを主張し始めたといえよう。

そして、翌1972年3月、沖縄の実際の復帰に直面して、さらに日本政府の姿勢は変わっていく。3月3日、琉球政府立法院は、1970年8月31日の決議と同様に「尖閣列島が日本固有の領土」であることを主張し、中華民国や中華人民共和国の尖閣諸島領有要求をやめさせることをアメリカに求める決議を行った。

他方、3月8日、衆議院の沖縄及び北方問題に関する特別委員会で、沖縄の国政参加選挙で選出されていた自由民主党所属の衆議院議員である国場幸昌は、中華人民共和国が強く尖閣諸島の領有を主張していることなどをあげながら、次のような質問を行った。

○國場委員 外務大臣にお尋ねいたしたいと思うのでありますが、ただいま沖繩の立法院議長のほうからも陳情がありましたとおり、尖閣列島の領有権問題に対しましては、再三にわたる本委員会において、また他の委員会においても、古来の日本の領土であるということに間違いはないんだ、こういうことは承っております。
(中略)
そこで、これは中国毛沢東政権のみならず、台湾においても、台湾の宜蘭県に行政区域を定め、三月にはこの尖閣列島に対するいわゆる事務所を設置する、こういうようなこともまた言われておるわけであります。いまさきの立法院議長のお話にもありましたように、固有の日本領土というようなことでございまして、琉球新報の報ずるまた何から見ますと、明治二十八年一月十四日の閣議決定、沖繩に所属するという閣議決定がされまして、明治二十九年三月五日、勅令十三号、国際法上の無主地占領、歴史的にも一貫して日本の領土だったなどの点をあげている。明治二十七、八年の日清戦争の時期、その後においての講和条約によってこれがなされたものであるか、あるいはまた、その以前においての尖閣列島に対しての歴史がどういうような流れを踏んできておるものであるか。記録によりますと、明治十八年に石垣登野城の古賀商店の主人公がそこへ行って伐採をしたというようなこともあるようでございますが、このたびの第二次大戦において、平和条約によっていわゆる台湾の帰属の権利を日本は放棄したわけでございますが、問題になるのは、台湾と尖閣列島が一つであって、それで明治の日本の侵略戦争によって取られたものが、第二次大戦においてこれが返還されたのであるから、それをひとつ、これは台湾が切り離されたのであれば、やはり尖閣列島もそれについて戻されるという見解があるのではないかということが考えられるわけでございます。それに対しまして、固有の領土であるとか、記録においては明治二十九年、二十八年、そういうような記録以前においての記録、その歴史がどうなっておるかということを研究されたことがあるでありましょうか。外務省の御見解はいかがでございますか、大臣、ひとつそれに対しての御所見を承りたい。
(国会会議録検索システム)

国場は、琉球新報の報道を例に挙げながら、日清戦争によって台湾などともに割譲された土地ではないなど、明治期にさかのぼって尖閣諸島を領有していた根拠をあげるべきだと主張したのである。

この国場の意見に対し、福田は次のように答えた。

○福田国務大臣 尖閣列島問題は、これは非常に当面重大な問題だというふうな認識を持っております。この重大な問題につきまして、ただいま國場委員からるる見解の御開陳がありましたが、私も全く所見を同じくします。
 それで、國場委員の御質問の要点は、日清戦争前に一体どういう状態でいままであったんだろう、こういうところにあるようでありますが、明治十八年にさかのぼりますが、この明治十八年以降、政府は、沖繩県当局を通ずる、あるいはその他の方法等をもちまして、再三にわたって現地調査を行なってきたのであります。その現地調査の結果は、単にこれが無人島であるということばかりじゃなくて、清国の支配が及んでいる、そういう形跡が全くないということを慎重に確認いたしたのでありまして、日清戦争は終局的には明治二十八年五月の下関条約によって終結したわけでありまするが、それに先立ち、二十八年一月十四日に、現地に標識を建設する旨の閣議決定を行なって、正式にわが国の領土であるということの確認が行なわれておる、こういう状態でございます。自来、歴史的に一貫してわが国の領土たる南西諸島の一部を構成しており、それが、繰り返しますが、明治二十八年の五月発効の下関条約第二条に基づき、わが国が清国より割譲を受けた台湾、澎湖諸島には含まれていないということがはっきりいたしておるわけであります。つまり、日清戦争の結果、この下関条約におきましては、わが国が割譲を受けたのは何であるかというと、尖閣列島は除外をしてあります。台湾本島並びに澎湖島である、こういうことであります。
 なお、サンフランシスコ平和条約におきましても、尖閣諸島は、同条約第二条に基づき、わが国が放棄した領土のうちには含まれておりません。第三条に基づき、南西諸島の一部としてアメリカ合衆国の施政権下に置かれた次第でありまして、それが、昨年六月十七日署名の琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定、つまり沖繩返還協定により、わが国に施政権が返還されることになっておる地域の中に含まれておる、こういうことであります。現に、わが国は、アメリカに対しまして基地を提供する、そういう立場にあります。
 沖繩につきましては、今回の返還協定の付属文書におきまして、A表に掲げるものは、これは基地としてこれをアメリカ軍に提供をするということになっておりますが、その中にこの尖閣列島も人っておるのでありまして、現にアメリカの基地がここに存在する、こういうことになっております。そういうことを勘案いたしますと、わが国の領土としての尖閣列島の地位というものは、これは一点疑う余地がない。
 それが最近になりまして、あるいは国民政府からあるいは中華人民共和国からいろいろ文句が出ておる、こういうのが現状であります。
 そもそも中国が尖閣列島を台湾の一部と考えていないことは、サンフランシスコ平和条約第三条に基づき、米国の施政下に置かれた地域に同諸島が含まれている事実に対し、従来何ら異議の申し立てをしなかったのです。中華民国国民政府の場合も同様でありまして、一九七〇年の後半になりまして、東シナ海大陸だなの石油開発の動きが表面化するに及んで、はじめて尖閣列島の領有権を問題にするに至った、こういうことでございます。
 そういうようなことで、われわれはこういう隣の国々の動き、これは非常に不明朗である、非常に心外である、こういうふうに私は考えておるわけでありまして、私どもは、これは一点の疑いもないわが国の領土であるという認識のもとに立って行動、対処していきたい、かように考えております。
(国会会議録検索システム)

この福田の答弁は重要である。この福田の答弁こそ、日清戦争期にまでさかのぼる、尖閣諸島領有の政府見解の原型をなしたものといえるのである。そして、以前、本ブログで紹介したように、同日外務省統一見解が出された。この見解は、福田の答弁と内容的に一致しているのである。この統一見解については、つぎにあげておく。

尖閣諸島の領有権問題について
                   外務省統一見解
                   昭和47年3月8日
 尖閣諸島は、明治18年以降政府が沖縄県当局を通ずる等の方法により再三にわたり現地調査を行ない、単にこれが無人島であるのみならず、清国の支配が及んでいる痕跡がないことを慎重確認の上明治28年1月14日に現地に標杭を建設する旨の閣議決定を行なって正式にわが国の領土に編入することとしたものである。
 同諸島は爾来歴史的に一貫してわが国の領土たる南西諸島の一部を構成しており、明治28年5月発効の下関条約第二条に基づきわが国が清国より割譲を受けた台湾及び澎湖諸島には含まれていない。
 従って、サン・フランシスコ平和条約においても、尖閣諸島は、同条約第二条に基づきわが国が放棄した領土のうちには含まれず、第三条に基づき南西諸島の一部としてアメリカ合衆国の施政下に置かれ、昨年六月十七日署名の琉球諸島及び大東諸国に関する日本国とアメリカとの間の協定(沖縄返還協定)によりわが国に施政権が返還されることとなっている地域に含まれている。以上の事実は、わが国の領土としての尖閣諸島の地位を何よりも明確に示すものである。
 なお、中国が尖閣諸島を台湾の一部と考えていなかったことは、サン・フランシスコ平和条約第三条に基づき米国の施政下に置かれた地域に同諸島が含まれている事実に対し従来何等異議を唱えなかったことからも明らかであり、中華民国政府の場合も中華人民共和国政府の場合も1970年後半東シナ海大陸棚の石油開発の動きが表面化するに及びはじめて尖閣諸島の領有権を問題とするに至ったものである。
 また、従来中華民国政府及び中華人民共和国政府がいわゆる歴史的、地理的ないし地質的根拠等として挙げている諸点はいずれも尖閣諸島に対する中国の領有権の主張を裏付けるに足る国際法上の有効な論拠といえない。
(『季刊・沖縄』第63号、1972年12月、181〜182頁)

なお、このやり取りは自民党衆議院議員の国場幸昌との間で行われたが、革新側も反対していたわけではない。この日の委員会において、沖縄社会大衆党所属の衆議院議員である安里積千代も、尖閣諸島の日本領有を強く主張することを主張し、福田より政府方針を支持することが求められ、疑義はないと述べている。

○安里委員 一昨年、一九七〇年八月に中華民国政府が正式に言った。それから中華人民共和国政府が昨年、七一年の十二月だ。
 これはまあ公式なことをおっしゃったのでありまするけれども、台湾政府は、しばしばこの以前からももちろん口にいたしておりました。中華人民共和国政府が言い出しましたのはそれよりずっとあとです。この時期について、愛知外務大臣の時代においても、この時期に中国が尖閣列島の領有権を主張した政治的な意義というもの、あるいはねらいというものは何があるか、どのように見ておるかということをお問いしたのでありまするけれども、ほかのことで答弁がそらされております。そこへまた、私が私なりに見まする場合に、中国が尖閣列島の領有権を主張いたしてまいりましたのは、台湾政府はもちろん、大陸だなの問題も、あるいはまた石油資源の問題も関連しておったと思いますけれども、中国が領有権の主張をいたしてまいったのは、それよりもあと、日米間におきまする沖繩返還の問題というものが表向きになってまいりまして、アメリカ側におきまして沖繩を返還する範囲内において、あの尖閣列島も包含してくるということが具体的にあらわれてきた、その時代だったと考えております。したがいまして、いまの石油資源の問題、いろいろな問題とは別にいたしまして、私は、尖閣列島のこの領有権の主張に対しましては、沖繩返還という問題は非常に重要なる関係を持つ。そしてまた、中国のアメリカに対するいろいろな考え方、これとも関連があるものだ、こう見ております。
 そこで、単に、これまで政府が、尖閣列島は沖繩の一部であるというようなことにとどまらず、この問題に対処を誤りました場合には、私は、第二の竹島事件というものが起こらないとも限らない、こう思いまするし、この問題に対しまする外交上の自信があるところの処置というものがいまから十分なされておらなければならぬと思っております。
 そこで、これまでの二つの政府からのこういった公式的な主張に対しまして、外務当局としては手を打っておるのであるか、あるいはまた、この問題に対しまして、中国との間に円満にこれを解決するところの方向と申しますか、自信を持って対処しておられるかどうか、最後にその点だけをお聞きいたしまして、質問を終わりたいと思います。
○福田国務大臣 尖閣列島領有権につきましては、政府としては一点の疑問も持ちません。どうか安里さんにおきましても、疑義がないということで政府の主張を支持されたい、かようにお願いをいたしましてお答えといたします。
○安里委員 私は、疑義があるとは申しておりません。疑義がないがゆえに、疑義がありませんでも、それは日本側の立場において疑義はありませんし、われわれもそのとおりであります。けれども、問題の処理というものは、こちらが疑義がないからそのとおりになるのだというような単純なものではないと思うのであります。この点に関しまするところの政府の今後の対処について、誤りのないように万全を期してもらいたいことを要望いたしまして、終わります。
(国会会議録検索システム)

つまり、沖縄側では、いわゆる保守も革新も、尖閣諸島の日本帰属を強く主張するという点では、立場を共有していたといえよう。

この経過は、次のようにみることできよう。日本政府としては、当初、沖縄返還交渉においてアメリカが尖閣諸島の帰属について保証することを期待していたが、アメリカが将来の帰属については当事者の協議にまかせるという態度をとったため、沖縄返還以後をにらみ、日清戦争時に遡った形で、尖閣諸島領有の根拠を再構成したと考えられる。

そして、その前提となったのが、以前紹介した琉球政府の対応であり、今回紹介した国場幸昌、安里積千代などの沖縄選出の国会議員たちの存在であったといえる。彼ら自体は、尖閣諸島の油田開発などに期待をかけていた。そして、ある意味では沖縄の利害を含み込んだ形で、尖閣諸島の「日本」による領有を強く主張し、明治期に遡及して尖閣帰属の根拠を示したといえよう。

その意味で、尖閣諸島問題は、単に、日本と中国のナショナリズムの対抗にとどまらない複雑な様相を示しているといえよう。一方で、アメリカとの関係が、尖閣諸島問題を規定する大きな要因となっている。アメリカとの関係は、サンフランシスコ講和条約、日米安保条約、沖縄返還交渉など、日本の戦後史の一つの通奏低音として流れているのである。そして、それは、原発問題においても同様であるといえる。

他方で、直接の利害関係者である沖縄の人びとの主体性も、尖閣諸島問題を強く規定しているといえる。沖縄の人びとの主体性があってはじめて、この問題は顕在化したとみることできる。そして、このことは、日本政府が沖縄の人びとを代表しえるのかということにもつながろう。なお、この問題は、日本だけでなく、中国もかかえている。そもそも、中華人民共和国の中国共産党政権が、国民党政権のもとにある中華民国ー台湾の人びとを代表しえるのだろうか。そういう問いが、中国の場合も惹起できるのである。

追記:なお、豊下楢彦『「尖閣問題」とは何か』(岩波書店、2012年)は、沖縄の人びとや中国の人びとの対応にあまり言及がなく、主権国家同士の「外交史」に問題を限定しているという意味で不満をもつが、尖閣諸島問題におけるアメリカの存在の大きさを指摘しているという点で参考になった。

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さて、前回は、1970年8〜9月時点でに主に台湾ー中華民国との間で、尖閣油田開発をめぐり、尖閣諸島の領有権が問題とされたことを述べた。その際、日本・琉球政府は、ともに今とは違う根拠をあげていた。日本政府は沖縄を統治しているアメリカ政府の施政権が尖閣に及んでいることを根拠にしており、琉球政府は尖閣諸島が石垣市に所属していること、戦前古賀商店によって開発されていたことをあげた。

しかし、アメリカが施政権を行使している地域であるという日本政府の主張は、アメリカ側より、沖縄返還時返還する対象であるが、主権の帰属については当事者間の協議にまかすという態度が表明された。

そのような中で、包括的に尖閣諸島の日本帰属論を練り上げたのは琉球政府であった。琉球政府は、1970年9月17日、「尖閣列島の領土権について」という声明を発表した。この声明は、すでに紹介した琉球政府立法院の「尖閣列島の領土権防衛に関する決議」(1970年8月31日決議)を前提としつつ、まず、台湾ー中華民国側が尖閣油田の鉱業権をパシフィックガルフ社に与え、尖閣諸島の領有を主張していることを「領土権の侵害」を意図するものとして指摘した。

そして、第一に、アメリカ政府の統治基本法「琉球列島の管理に関する行政命令前文」(米国民政府布告第27号、1953年12月25日号)をあげ、その範囲に尖閣諸島は位置していると主張した。

さらに、尖閣諸島について、中琉の朝貢関係によって生じた船舶往来によりしばしば当時の文献に記載され、「釣魚台」「黄尾嶼」「赤尾嶼」などという中国名がつけられたことを指摘しつつ、次のように述べた。

…同列島は明治28年に至るまで、いずれの国家にも属さない領土としていいかえれば国際法上の無主地であったのであります。
 十四世紀以来尖閣諸島について言及してきた琉球及び中国側の文献のいずれも尖閣列島が自国の領土であることを表明したものはありません。これらの文献はすべて航路上の目標として、たんに航海日誌や航路図においてかあるいは旅情をたたえる漢詩の中に便宜上に尖閣列島の島嶼の名をあげているにすぎません。(『季刊・沖縄』第56号、1971年3月、181頁)

そして、1872年に琉球王国が琉球藩になり、1879年に県政が施行され、1884年頃より古賀辰四郎が尖閣列島の利用を開始していたと述べた(なお、古賀の尖閣列島利用は実際には日清戦後に開始されている)。

このような経過をふまえて、琉球政府は、次のように尖閣諸島の日本帰属の経過を主張した。

…こうした事態の推移に対応するため沖縄県知事は、明治18年9月22日、はじめて内務卿に国標建設を上申するとともに、出雲丸による実地踏査を届け出ています。
 さらに、1893年(明治26年)11月、沖縄県知事よりこれまでと同様の理由をもって同県所轄方と標杭の建設を内務及び外務大臣に上申してきたため、1894年(明治27年)12月27日内務大臣より閣議提出方について外務大臣に協議したところ、外務大臣も異議がなかった。そこで1895年(明治28年)1月14日閣議は正式に、八重山群島の北西にある魚釣島、久場島を同県の所属と認め、沖縄県知事の内申通り同島に所轄標杭を建設せしむることを決定し、その旨を同月21日県知事に指令しておりました。
 さらに、この閣議決定に基づいて、明治29年4月1日、勅令13号を沖縄県に施行されるのを機会に、同列島に対する国内法上の編入措置が行われております。沖縄県知事は、勅令13号の「八重山諸島」に同列島が含まれるものと解釈して、同列島を地方行政区分上、八重山郡に編入させる措置をとったのであります。沖縄県知事によってなされた同列島の八重山郡への編入措置は、たんなる行政区分上の編入にとどまらず、同時にこれによって国内法上の領土編入措置がとられることになったのであります。
(『季刊・沖縄』第56号、181〜182頁)

加えて、琉球政府声明では「そもそも、尖閣列島は八重山石垣市字大川在住の古賀商店が、自己の所有地として戦争直前まで伐木事業と漁業を営み行政区域も石垣市に属していることはいささかの疑問の余地もありません」(『季刊・沖縄』第56号、182頁)と述べている。

その上で、再度、台湾ー中華民国が尖閣領有を主張することについて「沖縄の現在のような地位に乗じて日本の領土権を略取しようとたくらむものであると断ぜざるを得ません」(『季刊・沖縄』第56号、182頁)とし、外交権のない琉球政府にかわって、日本・アメリカ政府双方に中華民国と外交折衝を行うことを要請した。

この見解は、愛知揆一外務大臣が議会で述べていた見解とは部分的に異なっている。例えば、愛知は、1970年12月16日の参議院の沖縄及び北方に関する特別委員会では次のように述べている。

○国務大臣(愛知揆一君) 尖閣列島の問題については、八月のときも申し上げましたように、尖閣列島自身の問題と、それから東シナ海に及ぶ大陸だなの問題と、まあ二つあるわけでございます。
 尖閣列島の帰属といいますか、主権の問題については、いかなる意味から申しましても日本の領土であるということは、もう間違いのないことであって、また、現在におきましては、サンフランシスコ平和条約第三条によってアメリカが施政権を持つ、その施政権の範囲といたしましても、きわめて明確に施政権の対象になっておりますので、今度の復帰に際しましても、当然これが復帰されることはあまりにも一明白な事実でございます。したがいまして、本件については、政府としてはもうあまりにもはっきりしている日本の固有の領土でございますから、これについていかなる国がいかなることを申しましても、これとの間に話し合いを持つとか協議をするという性質の問題ではないと、こういう態度で終始いたしております。
http://kokkai.ndl.go.jp/cgi-bin/KENSAKU/swk_dispdoc.cgi?SESSION=28709&SAVED_RID=1&PAGE=0&POS=0&TOTAL=0&SRV_ID=4&DOC_ID=18507&DPAGE=1&DTOTAL=23&DPOS=2&SORT_DIR=1&SORT_TYPE=0&MODE=1&DMY=28724

つまり、愛知は、尖閣諸島の帰属の根拠としては、アメリカの施政権下にあり沖縄返還時に戻っていることをあげているのである。これは、琉球政府声明以前の愛知の見解とほぼ同じである。その意味で、琉球政府の見解は、日本政府と協議した結果ではないと思われる。たぶん、琉球政府と同様の見方を1970年初頭に提起していた奥原俊雄の「尖閣列島の法的地位」(『季刊・沖縄』第52号)などを参照していたと考えられる。

しかし、結局、琉球政府の見解を中心として現在の日本政府の見解がつくられていくのである。沖縄返還(1972年5月15日)直前の3月8日に出された外務省統一見解「尖閣諸島の領有権問題について」は、琉球政府の見解を引き継いだ形でつくられている。

  

尖閣諸島の領有権問題について
                   外務省統一見解
                   昭和47年3月8日
 尖閣諸島は、明治18年以降政府が沖縄県当局を通ずる等の方法により再三にわたり現地調査を行ない、単にこれが無人島であるのみならず、清国の支配が及んでいる痕跡がないことを慎重確認の上明治28年1月14日に現地に標杭を建設する旨の閣議決定を行なって正式にわが国の領土に編入することとしたものである。
 同諸島は爾来歴史的に一貫してわが国の領土たる南西諸島の一部を構成しており、明治28年5月発効の下関条約第二条に基づきわが国が清国より割譲を受けた台湾及び澎湖諸島には含まれていない。
 従って、サン・フランシスコ平和条約においても、尖閣諸島は、同条約第二条に基づきわが国が放棄した領土のうちには含まれず、第三条に基づき南西諸島の一部としてアメリカ合衆国の施政下に置かれ、昨年六月十七日署名の琉球諸島及び大東諸国に関する日本国とアメリカとの間の協定(沖縄返還協定)によりわが国に施政権が返還されることとなっている地域に含まれている。以上の事実は、わが国の領土としての尖閣諸島の地位を何よりも明確に示すものである。
 なお、中国が尖閣諸島を台湾の一部と考えていなかったことは、サン・フランシスコ平和条約第三条に基づき米国の施政下に置かれた地域に同諸島が含まれている事実に対し従来何等異議を唱えなかったことからも明らかであり、中華民国政府の場合も中華人民共和国政府の場合も1970年後半東シナ海大陸棚の石油開発の動きが表面化するに及びはじめて尖閣諸島の領有権を問題とするに至ったものである。
 また、従来中華民国政府及び中華人民共和国政府がいわゆる歴史的、地理的ないし地質的根拠等として挙げている諸点はいずれも尖閣諸島に対する中国の領有権の主張を裏付けるに足る国際法上の有効な論拠といえない。
(『季刊・沖縄』第63号、1972年12月、181〜182頁)

そして、2012年11月時点に発表した外務省の「尖閣諸島についての基本見解」は次のように述べている。基本的に1972年の見解を受け継いでいることが理解できよう。

尖閣諸島についての基本見解
      平成24年11月

 尖閣諸島が日本固有の領土であることは,歴史的にも国際法上も疑いのないところであり,現にわが国はこれを有効に支配しています。したがって,尖閣諸島をめぐり解決すべき領有権の問題はそもそも存在していません。
 第二次世界大戦後,日本の領土を法的に確定した1952年4月発効のサンフランシスコ平和条約において,尖閣諸島は,同条約第2条に基づきわが国が放棄した領土のうちには含まれず,第3条に基づき南西諸島の一部としてアメリカ合衆国の施政下に置かれ,1972年5月発効の琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定(沖縄返還協定)によりわが国に施政権が返還された地域の中に含まれています。以上の事実は,わが国の領土としての尖閣諸島の地位を何よりも明瞭に示すものです。
 尖閣諸島は,歴史的にも一貫してわが国の領土たる南西諸島の一部を構成しています。元々尖閣諸島は1885年以降政府が沖縄県当局を通ずる等の方法により再三にわたり現地調査を行ない,単にこれが無人島であるのみならず,清国の支配が及んでいる痕跡がないことを慎重に確認の上,1895年1月14日に現地に標杭を建設する旨の閣議決定を行なって正式にわが国の領土に編入することとしたものです。
 また,尖閣諸島は,1895年5月発効の下関条約第2条に基づきわが国が清国より割譲を受けた台湾及び澎湖諸島には含まれていません。中国が尖閣諸島を台湾の一部と考えていなかったことは,サンフランシスコ平和条約第3条に基づき米国の施政下に置かれた地域に同諸島が含まれている事実に対し,従来なんら異議を唱えなかったことからも明らかであり,中華民国(台湾)は1952年8月発効の日華平和条約でサンフランシスコ平和条約を追認しています。
 中国政府及び台湾当局が尖閣諸島に関する独自の主張を始めたのは,1968年秋に行われた国連機関による調査の結果,東シナ海に石油埋蔵の可能性があるとの指摘を受けて尖閣諸島に注目が集まった1970年代以降からです。従来中華人民共和国政府及び台湾当局がいわゆる歴史的,地理的ないし地質的根拠等として挙げている諸点は,いずれも尖閣諸島に対する中国の領有権の主張を裏付けるに足る国際法上有効な論拠とはいえません。http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/senkaku/kenkai.html

このように、いわゆる尖閣諸島の日本帰属の「歴史的な根拠」というものは、1970年代当時に「再発見」されたものなのである。なお、公平のためにいっておくと、現在、中華人民共和国がカイロ・ポツダム両宣言を尖閣諸島領有の根拠の一つとしているが、これはそもそも台湾ー中華民国政府側が言い出した主張ー例えば、1971年6月11日の中華民国外交部声明ーであり、中華人民共和国としては両宣言を根拠にあげてはいなかった。例えば、正式に尖閣諸島帰属を最初に主張した中華人民共和国外交部声明では、尖閣諸島が明代より海上防衛区域に属していること、台湾の漁民が漁業活動を行っていること、日清戦争を通じて台湾などとともに尖閣諸島をかすめとったこと、戦後、日本政府がアメリカに不当に渡したことを論拠にあげているが、カイロ・ポツダム宣言はあげていないのである。カイロ・ポツダム宣言は、中華民国の時点で発せられたものであり、1971年時点では中華人民共和国があげるべき根拠としてみなされていなかったのであろう。現時点における、中華人民共和国と中華民国の関係性を前提として、尖閣諸島が中華人民共和国に帰属する根拠としての「カイロ・ポツダム宣言」も再発見されたといえよう。

このように、「歴史的根拠」それ自体が歴史的に「再発見」され、つくられていったのである。まずは、そのことを、この問題を考える上での前提としていきたい。

主要参考文献:『季刊・沖縄』第56号、1971年3月。『季刊・沖縄』第63号、1972年12月。
 

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前回は、1968年に「尖閣油田」が発見され、尖閣諸島に近接している沖縄と台湾の人びとが、1970年より油田の鉱業権をめぐってイントレストの対抗をはじめたことを紹介した。そして、日本政府・琉球政府側も台湾ー中華民国側の領有権主張に対して、積極的に対応していくことになった。

まず、台湾ー中華民国政府側の尖閣諸島の領有権主張につき、1970年8月10日の参議院沖縄及び北方問題に関する特別委員会で議論になった。川村清一参議院議員(日本社会党所属)と愛知揆一外務大臣は、このような議論をしている。

○川村清一君 最後に、外務大臣に尖閣列島の問題についてお尋ねいたします。総理府をはじめ各種機関の調査によりますと、沖繩の尖閣列島を含む東シナ海の大陸だなには、世界でも有数の石油資源が埋蔵されていると推定され、この開発が実現すれば、復帰後の沖繩経済自立にとってはかり知れない寄与をするであろうといわれております。この尖閣列島は明治時代に現在の石垣市に編入されており、戦前は日本人も住んでいたことは御案内のとおりだと思うわけであります。しかし、油田開発の可能性が強いと見られるだけに、台湾の国民政府は、尖閣列島は日本領土でないとして自国による領有権を主張し、舞台裏で日本と争っていると伝えられております。今後尖閣列島の領有問題をめぐって国民政府との間に紛争が顕在化した場合、わが国としてはどのような根拠に基づいて領有権の主張をし、どのような解決をはかるおつもりであるか、この点についてお尋ねをいたします。
○国務大臣(愛知揆一君) 尖閣列島については、これがわがほうの南西諸島の一部であるというわがほうのかねがねの主張あるいは姿勢というものは、過去の経緯からいいまして、国民政府が承知をしておる。そして、わが国のそうした姿勢、立場に対して国民政府から公式に抗議とか異議とかを申してきた事実はないんであります、これは今日までの経過からいいまして。しかし、ただいま御指摘がございましたように、尖閣列島周辺の海底の油田に対して国民政府側としてこれに関心を持ち、あるいはすでにある種の計画を持ってその実行に移ろうとしているということは、政府としても重大な関心を持っておるわけでございまして、中華民国側に対しまして、この石油開発、尖閣列島周辺の大陸だなに対して先方が一方的にさようなことを言ったり、また地図、海図等の上でこういうことを設定したとしても、国際法上これは全然有効なものとはならないのだということを、こうした風評を耳にいたしましたときに政府として公式に申し込れをいたしております。かような状況でございますので、今後におきましても十分この問題につきましては関心を持って対処してまいりたいと思っています。
http://kokkai.ndl.go.jp/cgi-bin/KENSAKU/swk_dispdoc.cgi?SESSION=18874&SAVED_RID=3&PAGE=0&POS=0&TOTAL=0&SRV_ID=4&DOC_ID=1945&DPAGE=1&DTOTAL=23&DPOS=18&SORT_DIR=1&SORT_TYPE=0&MODE=1&DMY=20750

1970年からの尖閣諸島の領有権問題について、公の場での最初の日本政府の見解は、この時の愛知外相の答弁のようである。この時、愛知は、尖閣諸島の日本への帰属について、台湾の政府は異議申立をしたことがなく、承知しているはずであり、地図上などで中華民国領として設定したとしても、国際法上有効にはならないと述べている。しかし、この時点で、「1895年の尖閣諸島編入」など尖閣諸島の領有権が日本側にあるのかということについての根拠を示していないことに注目しなくてはならない。

そして、9月12日の衆議院外務委員会でも、尖閣の帰属は議論になった。戸叶里子衆議院議員(日本社会党所属)の「あの尖閣列島は日本の領土である。沖繩に付属するものであるということを政府も考えていらっしゃるようでございますが、これに対してどういう態度を持っていられるかを念のためにまず伺いたいと思います。」という質問に対して、愛知外相は、次のように答えている。

○愛知国務大臣 尖閣列島につきましては、この尖閣諸島の領有権問題と東シナ海の大陸だな問題と二つあるわけでございますが、政府といたしましては、これは本来全く異なる性質の問題であると考えております。すなわち尖閣諸島の領有権問題につきましては、いかなる政府とも交渉とか何とかを持つべき筋合いのものではない、領土権としては、これは明確に領土権を日本側が持っている、こういう立場をとっておる次第でございます。これは沖繩問題にも関連いたしますけれども、現在米国政府が沖繩に施政権を持っておりますが、その施政権の根拠となっておりまする布告、布令等におきましても尖閣諸島は明確に施政権の範囲内にある。こういうことから見ましても一点の疑う余地もない。日本国の領有権のあるものである。したがって、この領有権問題についてどこの国とも交渉するというべき筋合いのものではない、こういうように考えております。
 それから東シナ海の大陸だな問題につきましては、七月十八日に国民政府に対しまして公式に、国民政府によるいかなる一方的な権利の主張も国際法上わが国との間の大陸だなの境界を確定するものとして有効なものではないという旨を申し入れております。さらに九月三日、国民政府に対しまして、この大陸だな問題について話し合いが必要ならば話し合いをしてもよいということは申し入れてございます。
http://kokkai.ndl.go.jp/cgi-bin/KENSAKU/swk_dispdoc.cgi?SESSION=9654&SAVED_RID=1&PAGE=0&POS=0&TOTAL=0&SRV_ID=4&DOC_ID=17538&DPAGE=1&DTOTAL=23&DPOS=14&SORT_DIR=1&SORT_TYPE=0&MODE=1&DMY=9862

当時は、アメリカと沖縄返還交渉の最中であった。そのことをふまえつつ、愛知は、基本的にはアメリカの施政権下にあるということを日本側が尖閣諸島の領有権の根拠としているのである。重要なことは、愛知は、「1895年の尖閣諸島編入」やその後の尖閣諸島の開発などを帰属の根拠としていないということなのである。その後、少なくとも1970年中は同様の主張を繰り返した。1970年9月12日の衆議院の沖縄及び北方領土に関する特別委員会で、自由民主党の山田久就衆議院議員の質問に対して、愛知外相はこのように答弁した。

現在アメリカが施政権を行使しております琉球列島あるいは南西諸島の範囲内においてきわめて明白に尖閣諸島が入っておるわけでございますから、これは一九七二年には当然に日本に返還される対象である。こういうわけでございますから、尖閣列島の主権の存在については、政府としては一点の疑いも入れない問題であり、したがって、またいかなる国との間にもこの件について折衝をするとか話し合いをするとかいう筋合いの問題ではない、こういうふうに考えておるわけであります。
http://kokkai.ndl.go.jp/cgi-bin/KENSAKU/swk_dispdoc.cgi?SESSION=9654&SAVED_RID=1&PAGE=0&POS=0&TOTAL=0&SRV_ID=4&DOC_ID=2136&DPAGE=1&DTOTAL=23&DPOS=13&SORT_DIR=1&SORT_TYPE=0&MODE=1&DMY=9862

アメリカの施政権下におかれており、1972年に予定されている沖縄返還において帰ってくるはずの領土であるというのである。つまり、これは、全くアメリカ頼みということになるだろう。

他方で、沖縄側も、独自の対応を行った。琉球政府の議会である琉球政府立法院は、1970年8月31日、「尖閣列島の領土防衛に関する要請決議」を議決した。この決議を次に掲げておく。

決議第十二号
 尖閣列島の領土防衛に関する要請決議
 尖閣列島の石油資源が最近とみに世界の注目をあび、県民がその開発に大きな期待をよせているやさき、中華民国政府がアメリカ合衆国のガルフ社に対し、鉄業権(原文ママ)を与え、さらに、尖閣列島の領有権までも主張しているとの報道に県民はおどろいている。元来、尖閣列島は、八重山石垣市字登野城の行政区域に属しており、戦前、同市在住の古賀商店が伐木事業及び漁業を経営していた島であって、同島の領土権について疑問の余地はない。
 よって、琉球政府立法院は、中華民国の誤った主張を止めさせる措置を早急にとってもらうよう院議をもって要請する。
 右決議する。
  1970年8月31日
                                     琉球政府立法院
(『季刊沖縄』第56号、1971年3月、p178)

愛知外相答弁とはことなり、アメリカの施政権が根拠とされていないのである。アメリカの沖縄支配からの脱却をめざして、沖縄の本土復帰を目標としてかかげていた琉球政府らしい対応といえる。そこであげられているのが、八重山石垣市に所属しているということと、戦前、石垣在住の古賀商店が開拓をすすめていたということである。しかし、ここでも「1895年の尖閣諸島編入」は根拠とされていないのである。

そして、この決議に続いて、琉球政府立法院は決議第13号「尖閣列島の領土防衛に関する決議」を採択した。これは、「本土政府は、右決議(前述の決議)に表明された沖縄県民の要請が実現されるよう、アメリカ合衆国及び中華民国に対し強力に折衝を行なうよう強く要請する」(『季刊沖縄』第56号、1971年3月、p178)ものだった。つまり、日本政府に、「尖閣列島の領土防衛」につき、アメリカおよび中華民国(台湾)と折衝することを求めたのである。これもまた、アメリカ支配からの脱却をめざして本土復帰を志向した琉球政府らしい対応であるといえる(ただ、ひと言いえば、沖縄復帰後、日本政府は、そのような沖縄側の思いにこたえようとはしなかった。大量の米軍基地は沖縄に設置されたまま、2012年時点では、さらに危険なオスプレイの沖縄配備が強行されたのである)。

それでは、アメリカの対応はどのようなものだっただろうか。アメリカ国務省のマクロスキー報道官は、1970年9月10日、尖閣諸島に中華民国の国旗が立てられたことを前提にして、尖閣諸島の将来に関し、アメリカ政府はいかなる立場をとるのかということについて、まず、このように答えた。

対日平和条約第三条によれば、米国は「南西諸島」に対し施政権を有している…当該条約によって、米国政府は琉球列島の一部として尖閣諸島に対し施政権を有しているが、琉球列島に対する潜在主権は日本にあるものとみなしている。1969年11月の佐藤総理大臣とニクソン大統領の間の合意により、琉球列島の施政権は1972年中に日本に返還されることとされている。
(『季刊沖縄』第56号、1971年3月、p157)

このように、一応は、愛知外相答弁のいっているように、サンフランシスコ講和条約によりアメリカが沖縄に施政権を有し、尖閣諸島も含まれているとしている。しかし、尖閣諸島の帰属自体については、このように述べている。

問 もし、尖閣諸島に対する主権の所在をめぐり紛争が生じた場合、米国はいかなる立場をとるのであるか。
答 主張の対立がある場合には、右は関係当事者間で解決さるべき事柄であると考える。
(『季刊沖縄』第56号、1971年3月、p157)

つまり、尖閣諸島の帰属について、アメリカは判断せず、関係当事者間の問題であるとしたのである。この見解は、尖閣諸島は日米安保条約による防衛範囲であるとしつつ、尖閣諸島の帰属については判断しないという、現在、アメリカが尖閣諸島問題に対してとっている対応に酷似しているといえるだろう。

となると、結局、愛知外相のアメリカの施政権が及んでいる地域であるから日本に帰属している根拠は、予定される1972年の沖縄返還までは有効であったとしても、沖縄返還後には効力を有さないことになるといえるのである。

この問題に対処するため、アメリカの施政権以前から尖閣諸島が日本ー沖縄に帰属している根拠として琉球政府によって「再発見」されたのが「1895年の尖閣諸島編入」の閣議決定であったのである。このことは、次回以降みてみたい。

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さて、しばらくぶりに、尖閣諸島について述べてみたい。中華民国政府(台湾)も中華人民共和国政府(大陸)も参加しなかった1951年のサンフランシスコ講和条約によって、沖縄地域はアメリカが施政権をもつこととなり、尖閣諸島もそこに含まれた。

アメリカは尖閣諸島のうち久場島・大正島を爆撃演習場として使っていた。他方、台湾(中華民国)の漁民などが尖閣諸島に上陸し、海鳥などを採取するなどの事件が度々起っていた。しかし、1970年頃まで、中華民国も中華人民共和国も積極的に尖閣諸島の領有権を主張してはいなかった。ただ、沖縄でも、尖閣諸島についての認識はさほどなかった。沖縄タイムズ記者の勝連哲治は「尖閣列島問題と沖縄」(『中国』1971年6月号)の中で「同列島周辺海底に極めて有望なる石油資源の埋蔵の可能性が明らかにされるまでは、同列島の存在さえ知らなかった住民がいたことは確かだ」(勝連前掲書p28)と述べている。

しかし、1960年代末より、状況は変化した。1968年10〜11月、国連のアジア極東経済委員会(エカフェ)が海洋調査し、尖閣諸島周辺に「アラビア油田に匹敵する大油田」(勝連前掲書p28)があると評価した。なお、現在は、これほどの埋蔵量ではないとされているようである。

つまり、ここで、尖閣諸島に対する経済的イントレストがうまれたのである。沖縄では、1969年より、尖閣諸島の鉱業権をめぐって、沖縄住民や本土資本(石油開発事業団ー石油資源開発会社)をまきこんで争いがおきた。その結果、次のような状態が生まれたのである。

沖縄の革新政党、民間団体からなる革新共闘会議は1970年7、8月ごろから、「沖縄の領域内にある資源の一切は県民に帰属する」という基本的な考えを明らかにし、地元ですでに鉱業権の取得申請を行っている人たちを中心に進めることを決め、琉球政府に対し申請書の早期処理を要請した(勝連前掲書p31)。

尖閣諸島の開発について切実な要求をもっていたのは、まずは沖縄の人びとであった。しかも、この人びとは、いわゆる石原慎太郎のような保守的ナショナリストではなく、いわゆる「革新側」の人びとであったのである。このことはおおいに着目しておかねばならない。

そして、台湾の中華民国政府も、この時期、尖閣諸島について、積極的な対応をみせている。1970年7月、中華民国政府はアメリカのガルフ・オイルの日本法人のパシフィック・ガルフ社の尖閣諸島の石油探査権を与えた。さらに、中華民国政府は、海底油田探査の正当性を担保するため、大陸棚条例を8月21日に批准し、8月25日には海域石油資源探採条例を立法院で可決した。そして、9月2日には台湾水産試験場所属の海憲丸が魚釣島に上陸して中華民国の国旗である「青天白日」旗をたて、領有権を主張するという事件も発生したのであった。なお、これも、確認しておくべきことであるが、尖閣諸島の帰属をまず問題にしたのは、中華人民共和国を統治する中国共産党とは対立していた、中華民国ー台湾の国民党政権だったのである。

このように、尖閣諸島問題が1960年代末に浮上してきたのは、まずは尖閣油田開発をめぐる、沖縄の人びとと台湾ー中華民国の人びとのイントレストが対抗しあうことを通じてであったといえよう。つまり、現在、中華人民共和国と、石原慎太郎のような日本の保守的なナショナリストが対抗しあう構図となっているが、それ自体が、当初の対抗関係を「ナショナリズム」の中で換骨奪胎された結果ということができよう。

そして、沖縄ー台湾の対抗の過程において、沖縄及び日本側において尖閣諸島領有の根拠が「再発見」されていくのである。このことについては、次回以降議論していこう。

参考
http://www.shiftm.jp/show_blog_item/51
「尖閣列島年表」(『季刊沖縄』56号、1971年3月)
勝連哲治「尖閣列島問題と沖縄」(『中国』1971年6月号)

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さて、尖閣諸島問題について、9月19日、訪中したアメリカのバネッタ国防長官に対し、中国で次期最高指導者と目される習近平国家副主席が尖閣諸島の領有の正当性を次のように語ったと朝日新聞は9月20日に報道した。

習近平氏「尖閣国有化は茶番」 日本政府を批判

 中国の習近平(シーチンピン)・国家副主席は19日、訪中した米国のパネッタ国防長官と会談し、「日本軍国主義は米国を含むアジア太平洋国家に大きな傷を与えた」としたうえで、日本政府の尖閣諸島国有化について「日本の一部政治勢力は(歴史を)反省せず、茶番を演出した」と批判した。次の最高指導者就任が確実視される習氏の尖閣国有化に対する発言が明らかになるのは初めて。新華社通信が伝えた。「米国が言動を慎み、釣魚島を巡る主権争いに介入しないことを望む」と牽制(けんせい)した。(北京)
http://www.asahi.com/international/update/0920/TKY201209190924.html

ここで、朝日新聞は新華社通信を典拠としている。それでは、新華社はどのように伝えているか。新華社通信のネットである新華網日本語版より、当該記事の部分を引用しておこう。

また、習副主席は釣魚島問題における中国の厳正な立場を次のように述べた。日本国内のある政治勢力は、隣国やアジア太平洋諸国に与えた戦争の苦しみを深く反省するどころか、さらに間違いを重ね、『島購入』という茶番劇をして、『カイロ宣言』と『ポツダム宣言』の国際法としての効力を公然と疑問視し、隣国との領土紛争を激化させた。日本は中国の主権と領土保全を損害するすべての言動をやめるべきだ。米国が、地域の平和と安定の大局に着目し、慎重な言動を取ると共に、釣魚島の主権紛争に関わらず、情勢を複雑化させるようないかなることも介入しないよう希望する。
http://jp.xinhuanet.com/2012-09/20/c_131861842.htm

両者を見比べてみよう。もちろん、表現には違いがある。また、朝日新聞が短縮して伝えている部分もある。ただ、大きな違いとしては、新華社報道において習近平が領有の根拠としたカイロ宣言とポツダム宣言に、朝日新聞はふれていないということである。なお、ここでは朝日新聞をあげているが、読売新聞・毎日新聞・産經新聞など、多くの日本の新聞もカイロ宣言とポツダム宣言にはふれていない。

まず、ここで、カイロ宣言について紹介しておこう。1943年11月22日、日本やナチスドイツなどの枢軸諸国に抗していた米英中三国の首脳であるルーズベルト・チャーチル・蒋介石がカイロにて会談し、これら連合国の対日方針などを決めた宣言を発した。それがカイロ宣言である。公文書は残されていないが、新聞発表などでは、次のようなものであった。

「ローズヴェルト」大統領、蒋介石大元帥及「チャーチル」総理大臣ハ、各自ノ軍事及外交顧問ト共ニ北「アフリカ」ニ於テ会議ヲ終了シ左ノ一般的声明ヲ発セラレタリ

各軍事使節ハ日本国ニ対スル将来ノ軍事行動ヲ協定セリ
三大同盟国ハ海路陸路及空路ニ依リ其ノ野蛮ナル敵国ニ対シ仮借ナキ弾圧ヲ加フルノ決意ヲ表明セリ右弾圧ハ既ニ増大シツツアリ
三大同盟国ハ日本国ノ侵略ヲ制止シ且之ヲ罰スル為今次ノ戦争ヲ為シツツアルモノナリ右同盟国ハ自国ノ為ニ何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ス又領土拡張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ス
右同盟国ノ目的ハ日本国ヨリ千九百十四年ノ第一次世界戦争ノ開始以後ニ於テ日本国カ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト並ニ満洲、台湾及澎湖島ノ如キ日本国カ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ返還スルコトニ在リ
日本国ハ又暴力及貧慾ニ依リ日本国ノ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ駆逐セラルヘシ

前記三大国ハ朝鮮ノ人民ノ奴隷状態ニ留意シ軈テ朝鮮ヲ自由且独立ノモノタラシムルノ決意ヲ有ス
右ノ目的ヲ以テ右三同盟国ハ同盟諸国中日本国ト交戦中ナル諸国ト協調シ日本国ノ無条件降伏ヲ齎スニ必要ナル重大且長期ノ行動ヲ続行スヘシ
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/01/002_46/002_46tx.html

これは、米英中三国が日本の無条件降伏を対日方針として決めたもので、この方針は、1945年のポツダム宣言に継承される。このカイロ宣言において、日本が旧ドイツ領で第一次世界大戦以後統治していた太平洋諸島を放棄させ、日本の植民地であった朝鮮を独立させることとならんで、「満洲、台湾及澎湖島ノ如キ日本国カ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域」を中国に返還させることを定められた。ここで「満州、台湾及澎湖島の如き」といっていることに注目していきたい。以前、本ブログで、下関講和条約で明示的に割譲させられた台湾・澎湖諸島だけでなく、尖閣諸島も日清戦争で日本が獲得した領土として中国がみているということを指摘した。中国としては、このカイロ宣言の規定を、広い意味で日本に割譲させられた領土として位置づけているのだと思われる。

このカイロ宣言は、そもそも合意された文書自体が存在せず、署名もないので、公文書としての効力を疑う意見もある。ただ、前述したように、日本の無条件降伏を定めたポツダム宣言(1945年7月26日)にこの方針は継承された。ポツダム宣言には次の条項がある。

八、「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルヘク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルヘシ
http://www.ndl.go.jp/constitution/etc/j06.html

いうなれば、ポツダム宣言はカイロ宣言を追認したものとみることができる。ここで、習近平が、アメリカのバネッタ国防長官にカイロ宣言・ポツダム宣言を典拠にして尖閣諸島の領有の根拠としているのは、第二次世界大戦における対ファシズム戦線としての連合国の一員としての記憶を呼び起こさせようとしているのだといえる。

ただ、結果的にいえば、1951年のサンフランシスコ講和条約では、次のように決まった。

第二条

 (a) 日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。

 (b) 日本国は、台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。

 (c) 日本国は、千島列島並びに日本国が千九百五年九月五日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。

 (d) 日本国は、国際連盟の委任統治制度に関連するすべての権利、権原及び請求権を放棄し、且つ、以前に日本国の委任統治の下にあつた太平洋の諸島に信託統治制度を及ぼす千九百四十七年四月二日の国際連合安全保障理事会の行動を受諾する。

 (e) 日本国は、日本国民の活動に由来するか又は他に由来するかを問わず、南極地域のいずれの部分に対する権利若しくは権原又はいずれの部分に関する利益についても、すべての請求権を放棄する。

 (f) 日本国は、新南群島及び西沙群島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。

   第三条

 日本国は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/docs/19510908.T1J.html

基本的には、カイロ宣言にそった形で国境線が定められたといえる。ただ、この講和条約において、「台湾及び澎湖諸島」という限定された形で国境線がひかれ、沖縄については、小笠原諸島とともに、アメリカの信託統治のもとにおかれることになったことに注目しておきたい。沖縄には尖閣諸島も含められるとされ、1972年の沖縄復帰とともに日本政府が実効支配するもととなった。

この講和条約を交渉した講和会議には、当時の中華人民共和国も参加していない。また、台湾の中華民国も参加していない。講和条約について、日本国内では、米英などの資本主義諸国中心に講和条約を結ぶという単独講和論と、ソ連や中華人民共和国とも結ぶべきである全面講和論が対立していた。いわば、その当時の単独講和論の問題点が現在に引き継がれたかっこうになっている。当時、中華人民共和国も中華民国もどのような見解をもっていたかということを表明される機会もなく、いわば中国の合意ぬきで講和条約は結ばれ、国境線が確定されていったのである。そして、中華人民共和国によれば、沖縄の日本復帰が日米で合意された1971年に日本に対して尖閣諸島の帰属について異議申し立てをしたということになるといえる。そして、これは、アメリカ中心で再編成された東アジアの政治秩序への異議申し立てにもなっているといえる。

このように、習近平がバネッタ国防長官に「カイロ宣言」と「ポツダム宣言」を出して尖閣諸島の問題を語っていることを説明することができる。ここで表明されていることは、単に尖閣諸島の帰属の問題というだけでなく、日清戦争、アジア侵略、ファシズム陣営への参加、第二次世界大戦、無条件降伏、サンフランシスコ講和条約、沖縄復帰という、日本の近現代史総体を含めた「歴史問題」が、ここで問われているということなのである。

帰属の根拠については、私自身としては中心的に問題にはしないつもりである。中国はさまざまな国境紛争をかかえていることは事実である。日本もまた、竹島/独島や北方領土などの国境紛争を有している。そこには、さまざまな根拠がある。ただ、概していえば、前近代国家の領域概念と近代の国民国家の領域概念の違いがそれらの背景にあるといえる。そして、それらを解決するのはよくも悪くも「政治」ということになるだろう。

ただ、尖閣諸島ー竹島/独島にも共通していえるのだがー問題の背後にある「歴史問題」の深みということを理解しなければならないということである。その意味で、朝日新聞その他の日本の新聞が、習近平が「カイロ宣言」や「ポツダム宣言」を根拠にしていること自体を報道しなかったことは、問題性を少なからずはらんでいると思う。彼らからすれば、「カイロ宣言」や「ポツダム宣言」は、歴史の遠い物語かもしれない。しかし、現在の戦後世界は、多かれ少なかれ、「カイロ宣言」「ポツダム宣言」の枠組みで動いている。最早、そのことへの想像力が働かせることができず、現状の尖閣諸島が日本に領有するという「国益」にそぐわないと判断して報道をさけているといえる。

そのことがどのような結果をもたらすのか。例えば、韓国の朝鮮日報は、9月20日にこのように報道している。ほとんど、新華社通信のままだといえるだろう。

習副主席は「日本のこうした行動は、カイロ宣言やポツダム宣言の国際法的効力に公然と疑問を投げ掛けるもので、第2次世界大戦以降に樹立された戦後秩序に対する挑戦。国際社会は、反ファシズム戦争勝利の成果を否定しようとするこうした日本の企てを決して容認しないだろう」とし、さらに「日本は中国の領土主権を害する時代錯誤的言動を直ちに中断しなければならない」と強調した。
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2012/09/20/2012092000611.html

そして、韓国は「歴史問題」での中国に接近ということになった。このことを産經新聞が9月25日に報道している。

中韓が対日圧力でタッグ 領土に歴史問題絡め協調 外相会談
2012.9.25 11:39 (1/2ページ)[韓国]
 【ニューヨーク=黒沢潤】国連総会に出席するため訪米中の中国の楊潔●(=簾の广を厂に、兼を虎に)外相と、韓国の金星煥外交通商相は24日、ニューヨークで会談した。韓国の聯合ニュースなどによると、金外交通商相は会談後、「国連の場で正しい歴史を広めていく必要性で一致した」と語り、歴史問題とからめて領土問題で日本に共同で圧力をかける意向を示した。

 中国はこれまで、沖縄県・尖閣諸島の領有権について、歴史的な正当性を国際社会に訴えていく姿勢を示していた。楊外相は同日の会談で、「関係国が正しい歴史認識を持っていなければ、北東アジアの秩序は挑戦を受ける」と述べるなど、名指しこそ避けながらも日本を批判したという。

 韓国も、日本と竹島の領有権、慰安婦問題をめぐって対立しており、国連の場で共闘することで、双方の立場を強固にしようという狙いがあるとみられる。

 野田佳彦首相が26日、国連総会の一般討論演説で領土問題に言及するのに続き、楊外相は27日に尖閣諸島問題、金外交通商相も28日に竹島、慰安婦問題に言及する見通しだ。中韓両国とも野田首相の演説次第では強硬な姿勢を打ち出し、日本との対立が一段と悪化する恐れもある。
http://sankei.jp.msn.com/world/news/120925/chn12092511390008-n1.htm

ある意味で、過度に歴史問題を意識しないということも必要ではある。しかし、現在の朝日新聞などの論調は、いわば「歴史問題」を欠落させた報道を行い、それを強く意識している人びとがアジアにはいるということを報じない。そのことは、日本の官民の対応を、よりアジアの人びとの神経を配慮しないものにおいやっているといえるのだと思う。それは、より事態を悪化させていくことになっていくのである。その意味で、今回の朝日新聞などの責任は大きいのである。

ただ、このような、アジア侵略などについての「歴史問題」の欠落は、朝日新聞などのマスコミだけには限られないことも忘れてはならない。

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本日9月18日は、満州事変のきっかけとなった柳条湖事件の記念日である。まるで、この日にあわせたかのように、尖閣諸島の帰属をめぐって、日中両国が対抗しあっているとする報道がなされている。

ここでは、現状ではなく、その前提となる尖閣諸島帰属の経緯を整理して検討しておこう。

その際、「尖閣諸島の領有をめぐる論点ー日中両国の見解を中心に」(国立国会図書館『調査と情報』565号、2007年)を中心にみていくことしたい。なお、本論は、立場上、日本政府側からみたまとめであるといえる。ここでは、まとめとして利便なものであるので活用したが、本論と私の見解は一致するものではない。(http://www.ndl.go.jp/jp/data/publication/issue/0565.pdf参照)

まず、「尖閣諸島の領有をめぐる論点」では、「1968(昭和43)年の、国連アジア極東経済委員会(ECAFE)による学術調査の結果、東シナ海の大陸棚に豊富な石油資源が埋蔵されている可能性が指摘され、にわかに注目を集めるようになった。1970 年代に入ると、中国は同諸島に対する領有権を主張し始めた」としている。ただ、いつから中国が領有権を主張したのかといえば、「中華人民共和国政府外交部声明(1971年12月30日)」からとしている。実は、沖縄返還協定が1971年6月17日に調印され、翌年5月15日に発効した。背景には埋蔵資源問題があるかもしれないが、沖縄返還協定によって沖縄の復帰が確定的になったタイミングで尖閣諸島問題が主張されたともみることができる。

さて、その上で、「尖閣諸島の領有をめぐる論点」では、「日本政府が尖閣諸島に対する領有権の根拠としているのは、先占である。」として、「先占とは、国家が、無主地、すなわちいずれの国家領域にも属していない地域を、領有意思をもって実効的に占有することをいう。」と述べている。尖閣諸島は「無主地」であったという主張なのである。

 そして、中国側が尖閣諸島が明清期から自国に帰属する典拠としてあげている文献については、島名などをあげているだけのものであるとする。なお、興味深いことは、地理的に近接している琉球王国に帰属するものとすらみていないのである。本書は、このようにいっている。

中国は、1879 年の琉球の帰属に関する日清交渉において、琉球国の版図、いわゆる琉球36 島に尖閣諸島が含まれていないことを、日清双方が認めているという。
琉球 36 島は、人居の地であることと、首里王庁への貢納義務を負っていることが条件であり、これらの条件を満たした島嶼のみが王府領と明記された28。確かに、このような条件を満たしていない尖閣諸島は、琉球 36 島に含まれていなかった。しかし、同諸島が、明・清代の福建省、あるいは台湾省の行政範囲にも含まれていなかったのは、先述の通りであって、琉球 36 島に含まれていないことが、直ちに尖閣諸島の中国への帰属を意味するものではない。

考えてみれば、前近代において、「国境線」は存在せず、人々が居住したり利用したりする場所のみが「領有」できたといえるのである。その意味で、これは当たり前のことではある。ただ、一つ考えなければならないのは、それでも、琉球ー沖縄が日本に帰属しなければ、尖閣諸島の領有もなかったとはいえるだろう。そして、この指摘は、ある意味で、前近代の琉球王国の主体性を、明・清とともに否定していると解することができる。

さて、近代に入っての尖閣諸島の帰属問題をみていこう。これは、日本近代史では周知のことであるが、琉球王国は「両属の国」といわれ、明・清の朝貢国として、広い意味で中国帝国に帰属していたが、1609年に薩摩藩により征服され、それ以来、日本の幕藩制秩序にとりこまれた存在であった。しかし、1879年、日本政府は、強制的に琉球王国を廃止して沖縄県を置くという琉球処分を実施し、琉球ー沖縄を日本に編入したのである。

「尖閣諸島をめぐる論点」では、琉球処分後、日本政府公認の地図に琉球諸島に含めた形で尖閣諸島が描かれていることをさして、「領有意思」を持ち始めたとしている。

日本が尖閣諸島に対して領有の意思を持ち始めたのは、1879(明治 12)年の琉球処分の頃と思われる。この年に発行された『大日本全図』、及び同年発行の英文の『大日本全図』で、尖閣諸島は琉球諸島に含められている。これら 2 つの地図は、いずれも私人が作成し、内務省の版権免許を得て刊行された。
内務省地理局によって刊行されたものでは、1879(明治 12)年の『大日本府県管轄図』が、尖閣諸島を琉球諸島の中に含め、1881(明治 14)年の『大日本府県分割図』が、「沖縄県図」の中に、島の名は記さず、その形だけで、尖閣諸島を示している。内務省作成の地図において、尖閣諸島が日本の版図に含まれていることは、同諸島に対する日本の領有意思を示すものと言えよう。

 ただ、この見解は、非常に大きな問題を欠落させている。1879年の琉球処分後、旧琉球士族たちは強制的な日本への編入に反対し、清国も琉球ー沖縄を日本に編入したことに抗議し、その帰属をめぐって外交交渉を開始したのである。具体的な経緯は省略するが、翌1880年、日本は、通商条約である日清修好条規に「最恵国待遇」条項を追加させることとひきかえに、先島(宮古・八重山諸島)を清国に割譲することとした。清国側も一時合意したが、当時の有力者李鴻章の反対で、合意には至らなかったという。合意しなかったということは、琉球ー沖縄全体を帰属させることを清国はあきらめていなかったということになる。そして、その後も旧琉球士族たちの多くは清国帰属を希望していたといわれている。つまり、この段階では、尖閣諸島はおろか、琉球ー沖縄全体の帰属が、日清間の問題であったといえるのである。

そして、「尖閣諸島をめぐる論点」では、先島割譲案にはふれることのないまま、次のように論じている。

1885(明治 18)年、沖縄県令は、尖閣諸島の実地調査にあたり、国標建立について指揮を仰ぎたいとの上申書を山県有朋内務卿に提出した。内務卿は、これらの諸島が清国に属している証拠が見当たらず、沖縄県が所轄する宮古島や八重山島に接近した無人島嶼であるので、国標の建立は差し支えないとして、「無人島久米赤島他外二島ニ国標建立ノ件」を太政官会議に提出するための上申案をまとめた。続いて同年 10 月 9 日には、井上馨外務卿と協議し、その意見を求めた。10 月 21 日の外務卿の回答は次のような内容である。これらの島嶼は、清国国境にも近い小島嶼である。また、清国はその島名もつけていて、清国の新聞に、我が政府が台湾付近の清国領の島嶼を占拠したなどの風説を掲載して、我が政府に猜疑を抱き、しきりに清国政府の注意を促す者もいる。ついては、「公然国標ヲ建設スル等ノ処置有之候テハ、清国ノ疑惑ヲ招キ候間、…(中略)…国標ヲ建テ開拓ニ着手スルハ、他日ノ機会ニ譲リ候方可然存候。」この回答を受けた内務卿は、国標建設の件を太政官会議に上申するのを見送った。上記の井上外務卿の見解は、尖閣諸島が清国に属することを認める趣旨であろうか。これについては、当時小国であった日本の、大国清に対する外交上の配慮であり、朝鮮問題及び琉球処分という重大問題が介在する中、このような小さな問題で、今清国と事を構えるのは得策ではないという、外務省としては当然の発想であると指摘されている。

つまり、沖縄県令と山県有朋内務卿は、尖閣諸島を調査するにあたり、日本帰属を示す「国標」を立てることを望んだが、井上馨外務卿は、清国側は尖閣諸島には島名もつけていて、清国側の疑惑をまねきかねないから、国標を立てて本格的に開拓するのは控えるべきであるとしたのである。すでに述べたように、1879年の琉球処分以来、琉球ー沖縄全体の帰属問題が日清間の懸案事項であった。とりあえず、日本側が実効支配しているといえるのだが、それは、清国側の意向次第であったといえる。「尖閣諸島の領有をめぐる論点」でも、「なお、継続的な「現実の支配」に対する、他国、特に他方の係争国が与える承認や黙認は、その平穏性を示すことから、極めて重要なものと評価される」としている。

その後、尖閣諸島を本格的に開拓したいという希望者が出たが、許されなかったのである。

この状況を打破したのが、1894〜1895年の日清戦争であった。日清戦争の主要目的は、朝鮮に対する支配権を日清のどちらがもつかということであり、主要な戦場は朝鮮から中国北部であった。しかし、副次的には、台湾などの中国南部への進出もはかられ、日本は台湾に属する澎湖諸島を攻撃するとともに、1895年の下関講和条約では、遼東半島とともに台湾を清国から割譲させた。同年の三国干渉によって、遼東半島は返還せざるをえなかったが、台湾は日本の植民地として確定することになった。

そのさなか、尖閣諸島に標杭が立つことになった。「尖閣諸島の領有をめぐる論点」では、次のように述べている。

1894(明治 27)年 8 月 1 日、日清戦争が開戦し、その年末には勝敗がほぼ決定していた。そのような情勢下にあった 12 月 27 日、野村靖内務大臣は、1885(明治 18)年当時とは事情が異なるとして、「久場島及び魚釣島へ所轄標杭建設の件」の閣議提出について、陸奥宗光外務大臣の意見を求めた。翌 1895(明治 28)年 1 月 11 日、外務大臣は、外務省としては別段異議がない旨回答した。かくして本件は、1895(明治 28)年 1 月 14 日の閣議に提出され、沖縄県知事の上申通り、「久場島及び魚釣島」を同県所轄とし、標杭建設を許可する閣議決定がなされた。1 月 21 日には、内務、外務両大臣連名で、沖縄県知事に上申中の標杭建設を聞き届けるとの指令を出した。

これが、尖閣諸島が日本に帰属した経緯である。日清戦争まで、日本は清国との間で、琉球ー沖縄の帰属問題をかかえていた。日清戦争の結果、ある意味では、戦争の脅威によって、清国との合意なしに、琉球ー沖縄の帰属問題は決着した。その後は、台湾の帰属が問題になっていく。尖閣諸島の日本帰属は、その一連の問題として考えなくてはならない。日清戦争以前は、清国の意向により「国標」を立てるという領有意思のあからさまな宣言は差し控えられた。日清戦争によって、尖閣諸島のあからさまな領有宣言は可能となったのである。

しかし、「尖閣諸島の領有をめぐる論点」は、この日清戦争における下関講和条約やその経過で尖閣諸島のことは取り上げられた形跡がないといっている。まず、中国側の主張を「中国は、中日甲午戦争(日清戦争)を通じて、日本が尖閣諸島をかすめとり、さらに清朝政府に圧力をかけて、1895 年 4 月に馬関条約(下関条約)に調印させ、台湾とそのすべての付属島嶼及び澎湖列島を割譲させたと主張している」としている。その上で、

講和条約締結に向けた談判中、清国は、日本からの台湾、澎湖諸島の割譲要求に対しては、強く反対の立場を主張していたが、尖閣諸島の地位については何ら問題にしなかった。
もし、清国が尖閣諸島を自国領と認識していたならば、台湾や澎湖諸島と同様、尖閣諸島の割譲についても異を唱えていたのではないだろうか。この点、中国側の主張を支持する立場には、敗戦国である清国に、けし粒のような小島の領有権を、いちいち日本と交渉して確定するゆとりはなかったのであろう、との見解もある。しかし、これに対しては、国際法的な抗議は、戦争の勝敗とは無関係であり、戦争中でも、日清講和条約の交渉過程においても、また、その後でも、中国が同諸島を自国領土として認識していたならば、当然に抗議その他何らかの措置をとるべきであった、と反論される。(中略)以上のことから、尖閣諸島は、下関条約第 2 条に基づき接受された「台湾及其ノ附属諸島嶼」には、含まれていなかったと考えられる。

このことがなぜ重要になるかといえば、1951年のサンフランシスコ講和条約では、台湾および澎湖諸島を日本は放棄することになっていたからである。確かに、下関講和条約では尖閣諸島について議論されていないとする「尖閣諸島の領有をめぐる論点」の主張は、文面上ではある種の正当性をもつともいえる。しかし、尖閣諸島もふくめた琉球ー沖縄全体の帰属問題自体が日清間の懸案事項であったのであり、それは日清戦争の中で暴力的に解決させられたといえる。その意味で、尖閣諸島は、中国人からみるならば、日清戦争で日本が獲得した領土として意識されることになると思われる。

このように、尖閣諸島の問題は複雑である。たぶんに日本政府側の観点からまとめたものと思われる「尖閣諸島の領有をめぐる論点」を読んでも、さまざま矛盾した論点が見出しうるのである。今言えることは、この問題は、日清戦争を契機とした日本のアジア侵略をどうとらえるかということを背景にしているということである。さらに、ある意味で主体性を否定されてきた、近隣の先島住民や、場合によっては台湾住民の意思はどういうものであるかということも問われなくてはならないと思うのである。

*なお「尖閣諸島の領有をめぐる論点」では、日清戦争後の尖閣諸島の開拓やアメリカ統治下の状況についても簡便にまとめているということをここで付記しておく。

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