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Posts Tagged ‘尖閣油田’

さて、前回は、1970年8〜9月時点でに主に台湾ー中華民国との間で、尖閣油田開発をめぐり、尖閣諸島の領有権が問題とされたことを述べた。その際、日本・琉球政府は、ともに今とは違う根拠をあげていた。日本政府は沖縄を統治しているアメリカ政府の施政権が尖閣に及んでいることを根拠にしており、琉球政府は尖閣諸島が石垣市に所属していること、戦前古賀商店によって開発されていたことをあげた。

しかし、アメリカが施政権を行使している地域であるという日本政府の主張は、アメリカ側より、沖縄返還時返還する対象であるが、主権の帰属については当事者間の協議にまかすという態度が表明された。

そのような中で、包括的に尖閣諸島の日本帰属論を練り上げたのは琉球政府であった。琉球政府は、1970年9月17日、「尖閣列島の領土権について」という声明を発表した。この声明は、すでに紹介した琉球政府立法院の「尖閣列島の領土権防衛に関する決議」(1970年8月31日決議)を前提としつつ、まず、台湾ー中華民国側が尖閣油田の鉱業権をパシフィックガルフ社に与え、尖閣諸島の領有を主張していることを「領土権の侵害」を意図するものとして指摘した。

そして、第一に、アメリカ政府の統治基本法「琉球列島の管理に関する行政命令前文」(米国民政府布告第27号、1953年12月25日号)をあげ、その範囲に尖閣諸島は位置していると主張した。

さらに、尖閣諸島について、中琉の朝貢関係によって生じた船舶往来によりしばしば当時の文献に記載され、「釣魚台」「黄尾嶼」「赤尾嶼」などという中国名がつけられたことを指摘しつつ、次のように述べた。

…同列島は明治28年に至るまで、いずれの国家にも属さない領土としていいかえれば国際法上の無主地であったのであります。
 十四世紀以来尖閣諸島について言及してきた琉球及び中国側の文献のいずれも尖閣列島が自国の領土であることを表明したものはありません。これらの文献はすべて航路上の目標として、たんに航海日誌や航路図においてかあるいは旅情をたたえる漢詩の中に便宜上に尖閣列島の島嶼の名をあげているにすぎません。(『季刊・沖縄』第56号、1971年3月、181頁)

そして、1872年に琉球王国が琉球藩になり、1879年に県政が施行され、1884年頃より古賀辰四郎が尖閣列島の利用を開始していたと述べた(なお、古賀の尖閣列島利用は実際には日清戦後に開始されている)。

このような経過をふまえて、琉球政府は、次のように尖閣諸島の日本帰属の経過を主張した。

…こうした事態の推移に対応するため沖縄県知事は、明治18年9月22日、はじめて内務卿に国標建設を上申するとともに、出雲丸による実地踏査を届け出ています。
 さらに、1893年(明治26年)11月、沖縄県知事よりこれまでと同様の理由をもって同県所轄方と標杭の建設を内務及び外務大臣に上申してきたため、1894年(明治27年)12月27日内務大臣より閣議提出方について外務大臣に協議したところ、外務大臣も異議がなかった。そこで1895年(明治28年)1月14日閣議は正式に、八重山群島の北西にある魚釣島、久場島を同県の所属と認め、沖縄県知事の内申通り同島に所轄標杭を建設せしむることを決定し、その旨を同月21日県知事に指令しておりました。
 さらに、この閣議決定に基づいて、明治29年4月1日、勅令13号を沖縄県に施行されるのを機会に、同列島に対する国内法上の編入措置が行われております。沖縄県知事は、勅令13号の「八重山諸島」に同列島が含まれるものと解釈して、同列島を地方行政区分上、八重山郡に編入させる措置をとったのであります。沖縄県知事によってなされた同列島の八重山郡への編入措置は、たんなる行政区分上の編入にとどまらず、同時にこれによって国内法上の領土編入措置がとられることになったのであります。
(『季刊・沖縄』第56号、181〜182頁)

加えて、琉球政府声明では「そもそも、尖閣列島は八重山石垣市字大川在住の古賀商店が、自己の所有地として戦争直前まで伐木事業と漁業を営み行政区域も石垣市に属していることはいささかの疑問の余地もありません」(『季刊・沖縄』第56号、182頁)と述べている。

その上で、再度、台湾ー中華民国が尖閣領有を主張することについて「沖縄の現在のような地位に乗じて日本の領土権を略取しようとたくらむものであると断ぜざるを得ません」(『季刊・沖縄』第56号、182頁)とし、外交権のない琉球政府にかわって、日本・アメリカ政府双方に中華民国と外交折衝を行うことを要請した。

この見解は、愛知揆一外務大臣が議会で述べていた見解とは部分的に異なっている。例えば、愛知は、1970年12月16日の参議院の沖縄及び北方に関する特別委員会では次のように述べている。

○国務大臣(愛知揆一君) 尖閣列島の問題については、八月のときも申し上げましたように、尖閣列島自身の問題と、それから東シナ海に及ぶ大陸だなの問題と、まあ二つあるわけでございます。
 尖閣列島の帰属といいますか、主権の問題については、いかなる意味から申しましても日本の領土であるということは、もう間違いのないことであって、また、現在におきましては、サンフランシスコ平和条約第三条によってアメリカが施政権を持つ、その施政権の範囲といたしましても、きわめて明確に施政権の対象になっておりますので、今度の復帰に際しましても、当然これが復帰されることはあまりにも一明白な事実でございます。したがいまして、本件については、政府としてはもうあまりにもはっきりしている日本の固有の領土でございますから、これについていかなる国がいかなることを申しましても、これとの間に話し合いを持つとか協議をするという性質の問題ではないと、こういう態度で終始いたしております。
http://kokkai.ndl.go.jp/cgi-bin/KENSAKU/swk_dispdoc.cgi?SESSION=28709&SAVED_RID=1&PAGE=0&POS=0&TOTAL=0&SRV_ID=4&DOC_ID=18507&DPAGE=1&DTOTAL=23&DPOS=2&SORT_DIR=1&SORT_TYPE=0&MODE=1&DMY=28724

つまり、愛知は、尖閣諸島の帰属の根拠としては、アメリカの施政権下にあり沖縄返還時に戻っていることをあげているのである。これは、琉球政府声明以前の愛知の見解とほぼ同じである。その意味で、琉球政府の見解は、日本政府と協議した結果ではないと思われる。たぶん、琉球政府と同様の見方を1970年初頭に提起していた奥原俊雄の「尖閣列島の法的地位」(『季刊・沖縄』第52号)などを参照していたと考えられる。

しかし、結局、琉球政府の見解を中心として現在の日本政府の見解がつくられていくのである。沖縄返還(1972年5月15日)直前の3月8日に出された外務省統一見解「尖閣諸島の領有権問題について」は、琉球政府の見解を引き継いだ形でつくられている。

  

尖閣諸島の領有権問題について
                   外務省統一見解
                   昭和47年3月8日
 尖閣諸島は、明治18年以降政府が沖縄県当局を通ずる等の方法により再三にわたり現地調査を行ない、単にこれが無人島であるのみならず、清国の支配が及んでいる痕跡がないことを慎重確認の上明治28年1月14日に現地に標杭を建設する旨の閣議決定を行なって正式にわが国の領土に編入することとしたものである。
 同諸島は爾来歴史的に一貫してわが国の領土たる南西諸島の一部を構成しており、明治28年5月発効の下関条約第二条に基づきわが国が清国より割譲を受けた台湾及び澎湖諸島には含まれていない。
 従って、サン・フランシスコ平和条約においても、尖閣諸島は、同条約第二条に基づきわが国が放棄した領土のうちには含まれず、第三条に基づき南西諸島の一部としてアメリカ合衆国の施政下に置かれ、昨年六月十七日署名の琉球諸島及び大東諸国に関する日本国とアメリカとの間の協定(沖縄返還協定)によりわが国に施政権が返還されることとなっている地域に含まれている。以上の事実は、わが国の領土としての尖閣諸島の地位を何よりも明確に示すものである。
 なお、中国が尖閣諸島を台湾の一部と考えていなかったことは、サン・フランシスコ平和条約第三条に基づき米国の施政下に置かれた地域に同諸島が含まれている事実に対し従来何等異議を唱えなかったことからも明らかであり、中華民国政府の場合も中華人民共和国政府の場合も1970年後半東シナ海大陸棚の石油開発の動きが表面化するに及びはじめて尖閣諸島の領有権を問題とするに至ったものである。
 また、従来中華民国政府及び中華人民共和国政府がいわゆる歴史的、地理的ないし地質的根拠等として挙げている諸点はいずれも尖閣諸島に対する中国の領有権の主張を裏付けるに足る国際法上の有効な論拠といえない。
(『季刊・沖縄』第63号、1972年12月、181〜182頁)

そして、2012年11月時点に発表した外務省の「尖閣諸島についての基本見解」は次のように述べている。基本的に1972年の見解を受け継いでいることが理解できよう。

尖閣諸島についての基本見解
      平成24年11月

 尖閣諸島が日本固有の領土であることは,歴史的にも国際法上も疑いのないところであり,現にわが国はこれを有効に支配しています。したがって,尖閣諸島をめぐり解決すべき領有権の問題はそもそも存在していません。
 第二次世界大戦後,日本の領土を法的に確定した1952年4月発効のサンフランシスコ平和条約において,尖閣諸島は,同条約第2条に基づきわが国が放棄した領土のうちには含まれず,第3条に基づき南西諸島の一部としてアメリカ合衆国の施政下に置かれ,1972年5月発効の琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定(沖縄返還協定)によりわが国に施政権が返還された地域の中に含まれています。以上の事実は,わが国の領土としての尖閣諸島の地位を何よりも明瞭に示すものです。
 尖閣諸島は,歴史的にも一貫してわが国の領土たる南西諸島の一部を構成しています。元々尖閣諸島は1885年以降政府が沖縄県当局を通ずる等の方法により再三にわたり現地調査を行ない,単にこれが無人島であるのみならず,清国の支配が及んでいる痕跡がないことを慎重に確認の上,1895年1月14日に現地に標杭を建設する旨の閣議決定を行なって正式にわが国の領土に編入することとしたものです。
 また,尖閣諸島は,1895年5月発効の下関条約第2条に基づきわが国が清国より割譲を受けた台湾及び澎湖諸島には含まれていません。中国が尖閣諸島を台湾の一部と考えていなかったことは,サンフランシスコ平和条約第3条に基づき米国の施政下に置かれた地域に同諸島が含まれている事実に対し,従来なんら異議を唱えなかったことからも明らかであり,中華民国(台湾)は1952年8月発効の日華平和条約でサンフランシスコ平和条約を追認しています。
 中国政府及び台湾当局が尖閣諸島に関する独自の主張を始めたのは,1968年秋に行われた国連機関による調査の結果,東シナ海に石油埋蔵の可能性があるとの指摘を受けて尖閣諸島に注目が集まった1970年代以降からです。従来中華人民共和国政府及び台湾当局がいわゆる歴史的,地理的ないし地質的根拠等として挙げている諸点は,いずれも尖閣諸島に対する中国の領有権の主張を裏付けるに足る国際法上有効な論拠とはいえません。http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/senkaku/kenkai.html

このように、いわゆる尖閣諸島の日本帰属の「歴史的な根拠」というものは、1970年代当時に「再発見」されたものなのである。なお、公平のためにいっておくと、現在、中華人民共和国がカイロ・ポツダム両宣言を尖閣諸島領有の根拠の一つとしているが、これはそもそも台湾ー中華民国政府側が言い出した主張ー例えば、1971年6月11日の中華民国外交部声明ーであり、中華人民共和国としては両宣言を根拠にあげてはいなかった。例えば、正式に尖閣諸島帰属を最初に主張した中華人民共和国外交部声明では、尖閣諸島が明代より海上防衛区域に属していること、台湾の漁民が漁業活動を行っていること、日清戦争を通じて台湾などとともに尖閣諸島をかすめとったこと、戦後、日本政府がアメリカに不当に渡したことを論拠にあげているが、カイロ・ポツダム宣言はあげていないのである。カイロ・ポツダム宣言は、中華民国の時点で発せられたものであり、1971年時点では中華人民共和国があげるべき根拠としてみなされていなかったのであろう。現時点における、中華人民共和国と中華民国の関係性を前提として、尖閣諸島が中華人民共和国に帰属する根拠としての「カイロ・ポツダム宣言」も再発見されたといえよう。

このように、「歴史的根拠」それ自体が歴史的に「再発見」され、つくられていったのである。まずは、そのことを、この問題を考える上での前提としていきたい。

主要参考文献:『季刊・沖縄』第56号、1971年3月。『季刊・沖縄』第63号、1972年12月。
 

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さて、しばらくぶりに、尖閣諸島について述べてみたい。中華民国政府(台湾)も中華人民共和国政府(大陸)も参加しなかった1951年のサンフランシスコ講和条約によって、沖縄地域はアメリカが施政権をもつこととなり、尖閣諸島もそこに含まれた。

アメリカは尖閣諸島のうち久場島・大正島を爆撃演習場として使っていた。他方、台湾(中華民国)の漁民などが尖閣諸島に上陸し、海鳥などを採取するなどの事件が度々起っていた。しかし、1970年頃まで、中華民国も中華人民共和国も積極的に尖閣諸島の領有権を主張してはいなかった。ただ、沖縄でも、尖閣諸島についての認識はさほどなかった。沖縄タイムズ記者の勝連哲治は「尖閣列島問題と沖縄」(『中国』1971年6月号)の中で「同列島周辺海底に極めて有望なる石油資源の埋蔵の可能性が明らかにされるまでは、同列島の存在さえ知らなかった住民がいたことは確かだ」(勝連前掲書p28)と述べている。

しかし、1960年代末より、状況は変化した。1968年10〜11月、国連のアジア極東経済委員会(エカフェ)が海洋調査し、尖閣諸島周辺に「アラビア油田に匹敵する大油田」(勝連前掲書p28)があると評価した。なお、現在は、これほどの埋蔵量ではないとされているようである。

つまり、ここで、尖閣諸島に対する経済的イントレストがうまれたのである。沖縄では、1969年より、尖閣諸島の鉱業権をめぐって、沖縄住民や本土資本(石油開発事業団ー石油資源開発会社)をまきこんで争いがおきた。その結果、次のような状態が生まれたのである。

沖縄の革新政党、民間団体からなる革新共闘会議は1970年7、8月ごろから、「沖縄の領域内にある資源の一切は県民に帰属する」という基本的な考えを明らかにし、地元ですでに鉱業権の取得申請を行っている人たちを中心に進めることを決め、琉球政府に対し申請書の早期処理を要請した(勝連前掲書p31)。

尖閣諸島の開発について切実な要求をもっていたのは、まずは沖縄の人びとであった。しかも、この人びとは、いわゆる石原慎太郎のような保守的ナショナリストではなく、いわゆる「革新側」の人びとであったのである。このことはおおいに着目しておかねばならない。

そして、台湾の中華民国政府も、この時期、尖閣諸島について、積極的な対応をみせている。1970年7月、中華民国政府はアメリカのガルフ・オイルの日本法人のパシフィック・ガルフ社の尖閣諸島の石油探査権を与えた。さらに、中華民国政府は、海底油田探査の正当性を担保するため、大陸棚条例を8月21日に批准し、8月25日には海域石油資源探採条例を立法院で可決した。そして、9月2日には台湾水産試験場所属の海憲丸が魚釣島に上陸して中華民国の国旗である「青天白日」旗をたて、領有権を主張するという事件も発生したのであった。なお、これも、確認しておくべきことであるが、尖閣諸島の帰属をまず問題にしたのは、中華人民共和国を統治する中国共産党とは対立していた、中華民国ー台湾の国民党政権だったのである。

このように、尖閣諸島問題が1960年代末に浮上してきたのは、まずは尖閣油田開発をめぐる、沖縄の人びとと台湾ー中華民国の人びとのイントレストが対抗しあうことを通じてであったといえよう。つまり、現在、中華人民共和国と、石原慎太郎のような日本の保守的なナショナリストが対抗しあう構図となっているが、それ自体が、当初の対抗関係を「ナショナリズム」の中で換骨奪胎された結果ということができよう。

そして、沖縄ー台湾の対抗の過程において、沖縄及び日本側において尖閣諸島領有の根拠が「再発見」されていくのである。このことについては、次回以降議論していこう。

参考
http://www.shiftm.jp/show_blog_item/51
「尖閣列島年表」(『季刊沖縄』56号、1971年3月)
勝連哲治「尖閣列島問題と沖縄」(『中国』1971年6月号)

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