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Posts Tagged ‘小泉純一郎’

さて、猪瀬都知事の辞任を受けて、2月9日に都知事選が行われることになった。脱原発などを公約に掲げた前日弁連会長の宇都宮徳児がいち早く立候補を表明、共産党・社民党が推薦した。また、石原慎太郎個人の応援を受けた形で元空幕長の田母神俊雄も立候補の記者会見を行い、元首相の細川護煕も脱原発を旗印に掲げて立候補を検討していると伝えられている。他方で、元厚相・元参議院議員舛添要一も無所属で立候補し、自民党などの推薦を受けることになると報道されている。

今回の都知事選の一つのテーマは、原発問題である。宇都宮・細川は「脱原発」を標榜している。そして、田母神は、自身のブログで、2013年3月20日に、低線量放射線は有害ではなく、むしろ有益だなどとしながら、次のように指摘している(田母神の原発論については、機会をみて紹介したいと考えている)。

我が国では長い間歴史認識の問題が、我が国弱体化のために利用されてきた。しかし近年では多くの日本国民が真実の歴史に目覚め始めた。そこに起きたのが福島原発の事故である。左向きの人たちは、これは使えるとほくそ笑んだ。そして今ありもしない放射能の恐怖がマスコミ等を通じて煽られている。原発なしでは電力供給が十分に出来ない。電力が不足してはデフレ脱却も出来ない。不景気が今のまま続き学校を卒業してもまともな就職も出来ない。放射能認識は第二の歴史認識として我が国弱体化のために徹底的に利用されようとしている。
http://ameblo.jp/toshio-tamogami/entry-11494727117.html

他方、自民党の推薦を受けるとされる舛添はどうなのだろうか。彼が当時代表を勤めていた新党改革の公約集「新党改革約束2012」(2012年11月27日発表)では、次のように宣言している。

改革その3 原発に依存しない社会の構築

福島の原発事故をしっかりと反省し、原発に依存しない社会を構築します。近い将来には、原発をなくすためエネルギー政策の大転換を図ります。そのために、地域が主体となる再生可能エネルギーの開発を進め、個々人の意識改革と社会全体や生活の仕方の構造改革等を行い、実現します(後略)。
http://issuu.com/shintokaikaku/docs/manifest/14?e=1872444/2703599

漸進的な「脱原発」とでもいえるであろう。しかし、舛添は、3.11以前から、このように主張していたわけではない。舛添要一は、1996年に『諸君』1996年10月号に寄稿した「巻原発『住民投票』は駄々っ子の甘えである」という文章を発表している。。この当時、東北電力は、新潟県巻町(現新潟市)において原発建設計画を進め、町当局に工作していた。しかし、反対運動は、推進派町長のリコール運動や住民投票実施を求める運動などを展開して対抗した。その結果、1996年8月4日に原発建設の是非を問う住民投票が実施され、原発反対派が約60%の得票を得た。2003年12月に東北電力は巻原発建設撤回を正式に表明するが、その一つの契機となっている。

この、巻町の住民投票について、舛添は、表題において「巻原発『住民投票』は駄々っ子の甘えである」としている。そして、リード文では「住民投票を礼賛する世論が衆愚政治を生み、大衆民主主義をおぞましい独裁に変えるのだ」と主張している。

舛添は、そもそも「住民投票」について、不満をあらわにしている。次の文章をみてほしい。

 

町民によって正当に選挙された町議会が、そして町民が直接選挙によって選んだ町長が決定したことには、たとえそれに反対であっても従うのが民主主義のルールというものである。その手続きが住民投票によって無視されるとすれば、それこそ巻町の民主主義は危機に瀕していると言ってよい。町民の直接選挙によって選ばれた町長の正統性はいわずもがな、町議会が多数決原理にもとづいて決めたことが軽んじられ、住民投票のほうが正統性に上であるのような錯覚を持つとしたら、代議制民主主義は成り立たない。

そして、住民投票の制度化を真剣に検討すべきとした朝日新聞朝刊1996年8月5日号の社説「巻町の住民投票が示した重み」を批判しながら、こう指摘する。

…そのような考え方こそが、衆愚政治を生むのであり、大衆民主主義をおぞましい独裁に変えるのである。
 20世紀のドイツにおいて、「選挙では味わえない充実感」(前述の朝日新聞社説中の表現…引用者注)を求めて、大衆がたどり着いた先は、天才的デマゴーグ、ヒトラーである。ニュルンベルクのナチ党大会において、「ハイル、ヒトラー!」と叫ぶ何十万という大衆は、確かに「選挙では味わえない充実感を感じとった」であろう。しかし、この現代の独裁の帰結は、ユダヤ人の大量虐殺であり、戦争であった。直接民主主義は独裁に正統性を与える危険性がある。そのリスクを回避する知恵のひとつが、間接民主主義、代議制民主主義なのである。

さらに、舛添は、フランスのルイ・ナポレオンが1851年のクーデター後、翌年の人民投票によって憲法を改正して帝政を復活し、ナポレポン三世になっていったことをあげ、「人民投票が第二帝政を誕生させたことを忘れてはなるまい。ナポレオン三世を生んだフランスの大衆もまた、人民投票に参加することによって、「選挙では味わえない充実感」に浸ったに違いないのである」と述べている。

ただ、舛添は、住民投票による世論の表明の力を軽視していたわけではない。投票結果について法的拘束力はないとしながらも「しかしながら、これはあくまで形式論であり、住民が投票によって決めたことを、首長や議員が覆すことは不可能と考えてよい。実質的には、住民投票は拘束力を持たざるをえないのである」と指摘している。

このように論じた上で、舛添が住民投票による世論の表明の力を無化するために持ち出しているのが「国のエネルギー政策の一環としての原発」である。舛添は、次のように主張する。

 

原発建設は国のエネルギー政策の一環であり、ある特定の地域の意向に左右されるべきでものではない。基地問題についても同様で、国の防衛政策に関わる問題なのである。一地域の住民が、住民投票という手を使って国の政策の根幹を覆すことができるとすれば、そのような国はおよそ国家とは言いがたいのである…人口三万人の町が住民投票によって国の政策を拒否することができるとすれば、残り1億2500万人の日本国民はどこでどのように自らの意思を表明すればよいのだろうか。国会や国会議員は何のために存在しているのであろうか…ある地域が国の政策に対して反乱を起こすときは、最終的にはその国から独立する覚悟がなくてはならない。国からの補助金は懐に入れる、しかし国の政策には反対するというのでは筋が通らないし、それは駄々っ子の甘え以外のなにものでもない。

そして、住民投票賛成派が持ち出してくると舛添が想定する「人権・自然権」について、「人権や自然権は自分以外の他の日本国民にもあることを忘れている。電気のある快適な文明生活を送ることも、外敵の侵略から生命や財産を守ることも、人権であり、自然権である。これら相対立する人権や自然権を調整することこそ政治の仕事なのである」と反論している。ここでは明示的に書いていないが、そのような「調整としての政治」が「間接民主主義」の課題なのであろう。

舛添は、原発建設の是非を問う巻町の住民投票について、巻町だけでなく、国のエネルギー政策の根幹に関連する問題なのだという。ウラン・化石燃料などの天然のエネルギー資源には限りがある中で、舛添は、再生可能エネルギーにもました日本で生み出すことができるプルトニウムに期待をかける。そして、すでに、日本の電力の34%が原子力により生産されているとした上で、このように述べている。

 

このような日本のエネルギーをめぐる状況を考えると、あえて議論を単純化して言えば、電力の約三分の一を供給している原子力発電所を、(1)拒否するならば、省エネに心がけて電力消費量を三分の一減らす、(2)今のような多電力消費型生活を続けるために受け入れる、という選択肢しかないはずである。

最後に、舛添は、原発反対派の人びとにこのように呼びかける。

 

もし巻町の原発反対派の人たちが、住民投票に向けての運動の中で、同時に省エネ運動を実行していたら、はるかにその主張は説得力を増したであろうし、また地域エゴという非難にさらされることもなかったであろう。エネルギー問題は国民全体の関心事でなければならない。
(中略)
 「地方の反乱」が地域エゴと非難されないためには、少なくとも反乱のリーダーが、自分たちの主張を国の政策とどう調整させていくのかという視点を欠いてはなるまい。そして、そのようなリーダーシップは、マスコミ向けのパフォーマンスからは生まれないのである。

1996年の舛添は、まず第一に、住民投票のような人びとが直接に民意を表明することについて、ナチズムやポナパルティズムのような「独裁」につながっていくと述べている。このような考え方は、舛添だけではない。東京大学法学部教授長谷部恭男も『憲法とは何か』(岩波新書、2006年)の中で同様の意見を述べている。彼らにすれば、選挙代表によってなされる間接民主主義だけが民主主義なのである。

第二に、舛添は、国策全体にかかわることは、自治体だけで決めるべきではないとする。ここで行われた住民投票は、巻町に原発を設置するかどうかということであり、日本全国において原発を建設するかどうかを問うたものではないのであるが。ここでは引用しなかったが、随所で舛添は1995年の沖縄米兵少女暴行事件後に激しく展開された沖縄の反基地運動についても同様の論理で批判している。その上で、国策に反するような運動は、補助金の停止など、相応の覚悟が必要であるとしている。彼によれば、そのような覚悟のない運動は「駄々っ子の甘え」なのである。

第三に、舛添は、資源の乏しい日本において、プルトニウムは貴重なエネルギー源であるとしつつ、最早電力の三割以上にもなった原子力発電については、徹底的な節電をするかしないか二者択一だとしているのである。

1996年の舛添要一はこのように考えていた。舛添は、考え方を変えたのであろうか。舛添が推薦を取り付けようとしている自民党の安倍政権は、原発再稼働を進めようとしている。例え、現時点で舛添が「脱原発」を掲げたとしても、エネルギー源確保としての原発が国策として維持されるならば、自治体レベルで異論をさしはさむことはできないことになるだろう。そして、そのような原発政策に対する反対運動は、彼にとっては、公選首長や議会の正統性を脅かし、間接民主主義を破壊し、ナチズムやボナパルティズムのような独裁へ導いていくものとして認識されることになるだろう。脱原発は、ただ、それを政策として掲げればよいというものではない。民意を少しでも反映し、それぞれの地域の自立性を尊重して政治を進めていくという、民主主義と地方自治の課題が横たわっていることを、1996年の舛添の議論は逆説的に示しているといえる。

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最近、小泉純一郎元首相がさかんに原発ゼロを訴えている。11月12日には、日本記者クラブで記者会見を開き、原発廃止を訴えた。次の東京新聞のネット配信記事をみてほしい。

小泉元首相の会見要旨 原発推進の方が無責任

2013年11月13日 朝刊

 小泉純一郎元首相が十二日に行った日本記者クラブでの会見の要旨は次の通り。 
 【政治が原発ゼロ方針を】
 新聞に「小泉原発ゼロ発言を批判する」という社説があった。代案を出さずにゼロ発言をするのは、無責任で楽観的すぎるとの批判だ。
 原発問題は広くて大きくて深い。国会議員だけで答えは出せない。まして私一人で代案を出すのは不可能だ。政治で一番大事なことは方針を示すこと。原発ゼロの方針を出せば、良い案をつくってくれる。
 原発ゼロに賛同する官僚、識者も含めて、何年かけてゼロにするのか、再生可能エネルギーをどう促進するか、原発地域の発展や従事者の雇用問題という広範囲な問題が残る。専門家の知恵を借り、その結論を尊重して進めるべきだ。
 原発をゼロにすれば、火力発電やさまざまな電源、この調節のために電気料金が上がり、二酸化炭素排出量が多くなるという批判がある。しかし、数年以内に燃料電池車は実用化され、設置費が高くても発光ダイオード(LED)を使う家庭も(増えた)。日本の国民と企業は環境に協力的だ。
 【最終処分場問題】
 原発推進論者は「核廃棄物の最終処分法は技術的に決着している。問題は、処分場が見つからないことだ」と言う。そこは私と一緒だ。だが、ここから(先が)違う。
 必要論者(の主張)は「処分場のメドをつけるのが政治の責任ではないか。つけないのがいけない」と言う。私はこれからの日本で、核のごみの最終処分場のメドをつけられると思う方が楽観的だと思う。技術的には決着していても、一つも見つけることができない。東京電力福島第一原発事故の後でも、政治の責任で見つけられるという必要論者の主張の方が無責任だ。
 フィンランドのオンカロ処分場に行った。世界で唯一の最終処分場で、島の地下四百メートルに縦横二キロメートルの広場をつくり、廃棄物を埋め込む。ここも原発二基分しか容量がない。フィンランドは四基の原発があり、二基分は住民の反対で場所が決まっていない。しかも、オンカロの建設は、国会でいかなる国の廃棄物も受け入れないという前提でまとまった。
 日本は四百メートルも掘れば温泉が出てくる。日本は五十四基。四基は廃炉が決まり、福島第一原発5、6号機も廃炉だろうが、最終処分場をどれだけつくらなければいけないのか。
 【首相は決断を】
 首相の権力は強い。使いにくい権力、使っても実現できない権力があるはずだが、決断すればできる権力は原発ゼロだ。
 私の在任中の郵政民営化よりもはるかに環境が良い。国会で法案は否決された。全政党が反対だった。二〇〇五年、参院で民営化法案は否決され、私は衆院を解散した。国民の支持で、郵政民営化は勝利した。自民党の参院の反対派議員はくるっと賛成に回った。
 今は、野党は全部、原発ゼロに賛成で、反対は自民党だけだ。しかし、本音を探れば自民党議員はゼロと原発必要が半々ぐらい。安倍首相が「原発をゼロにする」という方針を決めれば、反対派は反対できない。国家の目標として、ほとんどの国民が協力できる。
 どうしても政治の責任で最終処分場をつくるとして、住民の反対を押し切れるか。(原発ゼロは)壮大な夢のある事業。それに権力を振るえる、こんな運の良い首相はいない。安倍首相には国民が望む方向に権力を使うことを期待する。結局、首相の判断と洞察力の問題だ。その方向にかじを切ってほしい。
 【日中関係】
 日中首脳会談ができないことに、中国も本心では困っていると思う。会談したくても内政の事情で、やりにくい事情があるのだろう。私が靖国神社に参拝するから、首脳会談ができないと批判された。だが私が辞めた後、首相は一人も参拝してないが、日中問題がうまくいき、首脳会談ができているのか。戦没者に対する哀悼の念を首相が表し、靖国を参拝することを批判する首脳は、中国と韓国以外にない。
 中国への対応は、安倍首相の対応でいい。「(首脳会談を)してくれ」と言わなくて良い。首脳会談を行わなかったら両方に良くないと、時間がたてば分かる。中国も「あの時に、日本の首相の靖国参拝を非難したのは大人げなかった」と恥ずかしい思いをするときが、いずれ来る。
 【日米関係】
 日本一国で安全を確保できない。米国の影響力は、かつてよりも落ちたが、政治的にも経済的にも同盟国として代えてもいいような国は見当たらない。日米関係が良いほど、中国、韓国とも良い関係が築ける。米国は日本を守ってくれるのかと言う人がいるが、その前に、同盟国として日本は米国にとって信用できる国なのかを考えた方が良い。
<質疑>
 -安倍首相が原発ゼロに踏み切るには。
 自民党の石破茂幹事長は「小泉さんと方向性は変わらない」と発言した。幹事長が音頭をとって、原発を含むエネルギー政策を党内で議論する。議論すれば賛否両論が出る。両論併記で安倍首相に上げればいい。首相が判断しやすい環境をつくることは難しくない。
 自民党議員の中にも、本心はゼロが望ましいという人がかなりいる。声が上がらないのは、首相が必要と言っているからだ。首相の力は絶大だから、ゼロにしようと言ったら反対は出ない。首相は在任中に、この方向性を出した方がいい。
 -安倍首相が考えを変えることはあるか。
 ありうると期待している。最終的には国民だ。世論は軽視できない。首相の権力も、最終的には国民から与えられている。首相も国民の声を聞かざるを得ない時期が来る。あきらめてはいけない。
 -あなたの役割は。
 いろんな人から、新党を考えたらどうか、他の人と連携したらどうかと言われるが、それぞれの立場でやった方がいい。誰が賛成、反対ではなく、やむにやまれずという気持ちがないと自分の主張を展開できない。一人でもやるという気持ちでやらないとだめだ。
 -原発をゼロにするまでの期間は。
 即ゼロがいい。その方が企業も国民も専門家も準備できる。再稼働すれば、核のごみは増えていく。今、(稼働原発は)ゼロだから、すぐゼロにした方がいい。原発の費用を回せば、企業は原発に代わるエネルギーを開発する。(福島県内に)中間貯蔵施設をつくるにも理解を得やすい。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2013111302000119.html

そして、朝日新聞の世論調査によると、小泉元首相の発言について、60%の人が支持すると回答したそうである。安倍政権支持層や自民党支持層でも58%が「支持する」としたそうである。

小泉元首相の原発ゼロ主張「支持」60% 朝日世論調査
2013年11月12日05時04分

 朝日新聞社が実施した全国定例世論調査(電話)では、小泉純一郎元首相が政府や自民党に対し「原発ゼロ」を主張していることについても質問した。この主張を「支持する」は60%にのぼり、「支持しない」の25%を上回った。

 安倍内閣支持層や自民支持層でも、それぞれ58%が小泉氏の主張を「支持する」と答えた。原発を徐々に減らし、将来はなくす「脱原発」に「賛成」の人は72%で、このうち小泉氏の主張を「支持する」は75%、「支持しない」は16%だった。
http://www.asahi.com/articles/TKY201311110473.html?ref=reca

小泉元首相の原発関連の発言について見てみよう。小泉は、核廃棄物の最終処分問題が決着することができず、自民党支持者も含めた世論の多くが原発廃炉を支持しているとして、「原発ゼロ」を主張している。代替案を提示していないから無責任だなどとする自民党や読売新聞などの批判については、福島第一原発事故以後、核廃棄物の最終処分場が確保できるというほうが無責任であると切り返し、「原発ゼロ方針」が定まれば、再生可能エネルギーなどの代替手段の開発は促進されるとしている。今、原発廃炉については野党はみな賛成であり、安倍首相が決断すれば、すぐにも「原発ゼロ」方針が確定するとして、安倍首相に「原発ゼロ」方針の確定を求めている。

これらは、もちろん、おおむね正論である。ただ、小泉の場合、過去の原発推進政策の問題点や、福島第一原発事故による被曝など、過去の責任問題について注意深く言及をさけていることに注目しなくてはならない。彼は、未来ー問題点と可能性ーと、世論について言及し、過去の責任について語らない。その意味で、高度経済成長期の自民党政権と同一のスタンスにたっているといえる。

また、小泉の議論は、自民党政権を長期にわたって継続しようという意図のもとに行っていることにも注目しなくてはならない。この記者会見の中でも、自身が首相時に行った靖国参拝を正当化し、日本が「米国」の「同盟国」を強調している。そして、「原発ゼロ」方針の確定については、自民党と安倍政権が主導することをまず求めている。2012年の衆議院選挙と2013年の参議院選挙において自民党が勝利し、世論調査においても安倍政権の支持率はかなり高いが、反原発も多くの人が支持されていると報道されている。前述した朝日新聞世論調査においても、小泉発言は約60%の人によって支持されている。このような世論とのねじれを解消することが、自民党政権を長く継続するために必要であると考えているということも、これらの発言の背後にあるのだろう。

ということで、小泉の発言の背景は複雑であり、「権力をめぐる政治」の一環をなしているといえる。しかし、それでも「権力をめぐる政治」の中で、「反原発」が浮上してきたということは、3.11以後の重要な変化といえる。「反原発」を求める世論の高まりと、選挙結果や内閣支持率との矛盾。その矛盾の解消が一つの政治課題になっていることが、小泉元首相ー本人の意図はともかくとしてーの発言で露呈されたのである。

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