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Posts Tagged ‘宮城県’

さて、前回は、『現代思想』10月臨時増刊号「総特集 安保法制を問う」に掲載されたSEALDs KANSAIの一員である大澤茉実の「SEALDsの周辺から 保守性のなかの革新性」という文章を引用して、SEALDsのような若い世代の人びとにおいては、一見「保守的」にみえる態度のなかに、現代社会が戦後日本社会と断絶しているという歴史認識があるのではないかと論じた。前回のブログでも述べたが、大澤は「原発事故による価値観の転換(既存の権威の失墜と社会運動の必要性・可能性の再発見)」としており、3.11が一つの分岐点であったと述べている。

この『現代思想』には、東京で活動しているSEALDsのメンバーの一人である芝田万奈が「絶望の国で闘う」という文章をよせている。彼女は冒頭から、3.11について、次のように述べている。

 

 テレビの画面からは伝わってこなかった震災の現実がそこにあった。2011年の夏、当時高校三年生だった私が母親の実家である宮城県の東松島を訪れた際に目の当たりにしたのは、何もかも破壊された人々の生活そのものだった。他人ごとじゃない。親戚の赤ちゃんが亡くなったことを私はフィクションとしか受け入れることができなかった。あまりにも残酷すぎる事実を前に、私は人生を、以前のように何も考えずに送ることができなくなった。生きることの意味を考えるたびに自分を見失い、過ぎ去っていく厖大な時間と情報を私は焦点の合わない目で見つめていた。

彼女は、翌2011年夏、福島県南相馬市小高を訪れた。小高の空気はとても穏やかだったそうだが、そこに所在した中華料理店は内外ともに壊れたまま放置されて「意地悪そうな表情の猫」しかおらず、それでも外の花壇は手入れをされていたそうである。
彼女は、

この断片的な記憶の中では、大通りの情景に色褪せたセピアのフィルターがかかっている。これがゴーストタウンということか、と改めて絶句した。これを期に3・11は人災であったということをようやく理解し、原発の本を読んだり、勉強をするようになった

と記している。

この原発・福島の勉強と平行して国際関係学を彼女は勉強していたが、「世の中に対しての失望が大きくなるばかりであった」。アメリカで教育を受けていたこともあって、アメリカが世界中を「民主化」すべく繰り広げている政策とアメリカ国内に存在する矛盾が「民主主義」という言葉によって美化されていることに大きな違和感を覚えたという。

そして、このように記している。

 

 大学二年になって、原発にともなう社会の矛盾によって生じるしわ寄せが母親や子どもにくると知った。3・11をテーマに福島から避難したお母さんたちの研究を始めた。その過程で、自分にもいつか子どもを産む日が来るのかと思うと何度も恐怖感に襲われた。子どもは大好きなのに、やはり社会を見ると、子どもを安心して育てられるとは思えなかったし、その社会を自分では変えることができないという無力感も自分の中で大きくなった。

  * * *

 この頃には政治家はもちろん、大人も、政府も、「復興」や「民主主義」という言葉に対してでさえ嫌悪感を持つようになった。自分の力ではどうしようもない何か、それが私にとっての「社会」のイメージである。原発の実態で露わになった、無力感と恐怖感と絶望と怒りを生み出してきた「社会」。東北に行けばせっせと防潮堤の工事が進んでいるし、沖縄の辺野古ではオスプレイを仰いで座り込みを続ける人々がいる。

この状況の中で、反原発運動などの社会運動は「希望」であったと彼女は述べている。

 

 金曜官邸前の抗議の存在や震災後原発ゼロが続いてきた事実は、日本社会における私にとっての希望であった。市民が起こした社会運動が本当に変化を呼ぶということが証明されたのは、震災後に起きたポジティブな出来事の一つだと思う。そして2013年の秋、私はSEALDsの前進(ママ)団体であるSASPL(特定秘密保護法に反対する学生有志の会)に出会い、今ではコアメンバーとして活動している。震災後の社会運動の上にあるSEALDsは、私の四年間の怒りと絶望をポジティブに変換する役割を果していると思う。

そして、2015年8月11日に川内原発が再稼働したことについて、「未だにこの事実は受け入れられないし、再び無力感に苛まされ、何もできなかったのだろうかと絶望はする」としながら、「だが、SEALDsの活動を通して気付いたことは、時には現状を嘆きながらも、希望を自ら作り出していくしかないということである」と述べている。

最後に、彼女は次のように語っている。

 

 けれど、この数ヶ月で感じたことは、自らが変える力となることで未来は切り拓かれていくということだ。あの日、震災はこの国から光を奪った。真っ暗なこの国の路上で私は闘うことを選んだ。特別なことじゃない。私はただ、当たり前のことをしているだけ。

3.11ー震災と原発事故の衝撃を契機とした日本社会への怒り、それを変えることのできない自分自身の無力感、その絶望のなかで、社会運動が社会を変えていく可能性に気付いたことが「希望」であり、「震災後に起きたポジティブな出来事」であると彼女は言っている。その上で自らが変える力になることで未来は切り拓かれていくと主張している。

たぶん、3.11直後、彼女らにとどまらず、日本社会の多くの人がそう考えていただろう。とはいえ、「昨日と同じ明日」を取り戻すなどという幻想のなかで、そういう思いはあいまいにされてきた。芝田は、現状に対するより真摯で透徹した「絶望」の中で、社会運動の可能性・必要性を意識しつづけ、「真っ暗なこの国の路上で私は闘うことを選んだ」のである。

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私自身がいま取り組んでいることに必要になり、福島第一原発事故によって避難を余儀なくされた人びとの総数を調べてみた。まず、岩手・宮城・福島三県において東日本大震災・福島第一原発事故のために避難した人びとの数をみていこう。

内閣府・復興庁は「全国の避難者等の数」という発表を2011年6月から行っているが、初期の発表は避難所や旅館などにいる人数を中心としており、仮設住宅などは戸数でしか発表していないので、避難者数を把握するには十分ではない。ようやく、2011年11月17日調査分から、仮設住宅分も人数で発表されるようになった。それから、一月ごと、2013年4月分までの岩手・宮城・福島三県を中心とした避難者数について、下記の表にまとめてみた。なお、「○○県内」というのは、その県内に避難してきている人びとの総数をさしており、県民のみの避難者数をさしているわけではない。例えば、「岩手県内」避難者というのは、青森県や宮城県から避難してきている人びとも想定として含んでいる。ただ、東日本大震災で被災した岩手・宮城・福島県にわざわざ避難している人は少ないと思われる。他方、「○○県外」というのは、その県から県外に避難している人びとをさしている。福島県外であれば、東京都などの県外に避難している人びとをさしている。ある意味では不確定な部分があるが、まずは、近似として、「県内」「県外」をあわせた人数をその県の避難者数としてみていきたい。

岩手・宮城・福島県の避難者数

岩手・宮城・福島県の避難者数


http://www.reconstruction.go.jp/topics/post.html

まず、2011年11月17日のところをみていこう。県別の避難者総数では、岩手県が4万3934人、宮城県が13万0784人、福島県が15万2945人となっている。死者・行方不明者では、宮城県が9537人・1315人、岩手県が4673人・1151人、福島県が1606人・211人(警察庁緊急災害警備本部「平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震の被害状況と警察措置」、2013年4月10日発表)と、この三県の中では福島県が一番人的被害が少ないのであるが、避難者数では逆に福島県が一番多くなっている。また、福島県では、県外避難者が5万8602人と避難者全体の三分の一以上をしめる。これも、宮城県・岩手県にはない特徴である。このような特徴は、その後も同じである。福島県において避難者総数が多いこと、また県外避難者の割合が大きいことは、福島第一原発事故の影響であるといえよう。

なお、全国の避難者総数は32万8903人である。三県の避難者が32万7663人であり、そのほとんどをしめている。東日本大震災は、やはり、岩手・宮城・福島三県を中心に爪痕を残したといえる。そして、福島県の避難者は15万2945人と、避難者総数の半数近くをしめているのである。

次に、時間的推移をみていこう。2011年末から2012年6月まで、避難者総数が増加傾向であることがみてとれる。全国の避難者総数は、2012年6月に34万6987人になった。福島県では、2012年6月に、県内避難者10万1320人、県外避難者6万2804人、避難者総数が16万3404人に達した。たぶんに仮設住宅の建設が進み、そこに居住する人びとが増えたためではないかと想定されるが、詳細は不明である。ようやく、2012年7月頃から、避難者数が減少していく。しかし、2013年4月段階でも、まだ約30万人以上の人びとが仮設住宅などに避難したままなのである。東日本大震災は終わっていないことを、ここでも再認識させられた。

さて、ここから、福島県固有の問題をみていこう。周知のように、この福島第一原発事故により避難区域が指定された。原発から20km圏内の警戒区域では約7万8000人、20km以遠で年間積算線量が20mSvをこえる計画的避難区域で約1万10人、20〜30km圏内の緊急時避難準備区域で約5万8510人が対象となった(『国会事故調報告書』)。そのうち、避難が強制された人びとは警戒区域・計画的避難区域で約8万8000人となる。これらの区域は、大熊町、双葉町、富岡町、浪江町、飯館村、葛尾村、川内村、川俣町、田村市、楢葉町、広野町、南相馬市であり、福島県浜通りから阿武隈山地の地域に該当する。

しかし、警戒区域・計画的避難区域の外側においても放射性物質による汚染は顕著であり、福島第一原発事故の行方も不安であって、かなり多くの人びとは、政府の指示によらず自主的に避難した。一般に「自主避難」とよばれている。

この「自主避難」の状況については、2011年11月10日に開かれた文部科学省原子力損害賠償紛争審査会(第16回)の配付資料「自主的避難関連データ」において、ある程度明らかにされている。その中に「福島県民の自主的避難者数(推計)」がある。2011年9月22日のデータによると、自主的避難者数が5万327人で、そのうち県内が2万3551人、県外が2万6776人となっている。他方、避難等指示区域内からの避難者数は10万510人で、県内が7万817人、県外が2万9693人となっている。このように、自主避難者のほうが、多く県外に避難している。そして、自主的避難者、避難等指示区域内からの避難者をあわせた総計は15万837人で、県内は9万4368人、県外は5万6569人となる。ただ、この数値は、地震・津波の被災者を含んでいることに留意しなくてはならない。

この数値は、さきほどの岩手・宮城・福島県の避難者数で示した2011年11月17日の数値に近いといえる。概していえば、福島県の避難者数は約15〜16万人、政府の避難指示による避難者は約10万人前後、自主避難者は約5万人前後といえる。そして、県内避難者は9〜10万人、県外避難者は5〜6万人ということができる。

2011年3月15日時点の自主避難者を地域別にみると、多いところでは、いわき市が1万5377人、郡山市が5068人、相馬市が4457人、福島市が3224人である。注目すべきことは、これら自主避難者が多いところは、逆に避難受入者数も多いということである。いわき市が1万5692人、郡山市が1956人、相馬市が4241人、福島市が1837人の避難者を受け入れている。このように、住民が自主的に避難しているところに、福島県浜通りなどの住民は避難してきているのである。

自主的避難者数及び受入避難者数

自主的避難者数及び受入避難者数


http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/kaihatu/016/shiryo/__icsFiles/afieldfile/2011/11/11/1313180_2_2.pdf
(なお、この図は見にくいので、上記のサイトでみてほしい)

なお、福島県のサイトで人口統計をみると、2011年3月1日現在で202万4401人であったが、2013年4月1日現在では194万9595人となっている。この短い間に7万4806人という人口減少をみているのである。これは、自治体に住民票を置いている避難とは別のものと考えられる。県外避難をあわせた現住人口でいうなれば、福島県では約15万人前後の人口が減少したということになる。2011年3月時点からいうと、約7.4%の人口減少になるといえよう。さらにいえば、県外・県内問わず、約15〜16万人が避難している。人口減の7万人とあわせると、死亡の場合も含めて、2011年3月1日時点において福島に住んでいた人の10%以上が、その時に住んでいたところから去らざるを得なかったのである。
(http://wwwcms.pref.fukushima.jp/pcp_portal/PortalServlet?DISPLAY_ID=DIRECT&NEXT_DISPLAY_ID=U000004&CONTENTS_ID=15846参照)

前述したように、この避難者数や人口減少は、東日本大震災自体の津波や地震の被災によるものを含んでいる。しかし、避難者の数の多さー東日本大震災全体の避難者の半数近くをしめるー、県外避難の比率の多さ、政府の指示による避難、住民の自主的判断による「自主避難」などは、福島第一原発事故の爪痕とみることができよう。

『国会事故調報告書』によると、チェルノブイリ原発事故により1年以内に避難した人数は、ベラルーシ、ウクライナ、ロシアの三ヶ国合計で11万6000人と推計されている。福島第一原発事故の場合、自主避難を含めれば、避難者だけで15〜16万人となっている。すでに、避難者の人数はチェルノブイリ原発事故をこえているといえよう。

もちろん、この背後には、避難したくてもできなかった人たちがいることを忘れてはならない。また、「自主避難」した人たちは、福島県だけでなく、実際には首都圏にも存在していたのである。

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今回は、宮城県の津波被災地を揺るがしている防潮堤建設問題について、私自身の心覚えのため、みてみることにする。

まず、毎日新聞夕刊2013年2月6日付に掲載された、次の記事をみてほしい。

特集ワイド:東日本大震災 巨大防潮堤、被災地に続々計画 本音は「反対」だが…復興が「人質」に 口閉ざす住民
毎日新聞 2013年02月06日 東京夕刊

 東日本大震災の被災地で、巨大防潮堤建設計画が進んでいる。高いコンクリート壁で海を覆えば、海辺の生態系を壊し、津波からの避難が遅れるとの指摘がある。防潮堤問題に揺れる被災地を歩き、失われゆく潮騒を聞いた。【浦松丈二】

 <計画堤防高さ TP+9・8m 高さはここまで>

 宮城県気仙沼市の大谷海岸に電信柱のような看板があった。荒れ地の中に青い海だけが広がる。TPとは「東京湾平均海面」だ。つまり、東京湾を基準に高さ9・8メートルの防潮堤がここに建つのだ。間近に見ると高さに圧倒される。この高さの壁がどこまでも続く……想像したらその重苦しさにめまいがした。9キロ南の海岸にはなんと14・7メートルの防潮堤が計画されている。
 気仙沼市民有志の「防潮堤を勉強する会」の発起人、酒造会社社長の菅原昭彦さん(50)が説明する。「防潮堤は2011年9月に宮城県の震災復興計画として最初に示されました。震災から半年しかたっておらず、これで確定とは誰も思わなかった。県と市は昨年7月から説明会を始めたが内容は当初のまま。しかも防潮堤の位置や形状は話し合えるけれど、高さは変えられないという。あまりに唐突、強引だった」
 住民は昨年8月から専門家を招いて「勉強する会」を計13回開き、毎回100人以上が参加した。だがあえて賛成反対を言わなかった。「私たち住民は復興の予算とスピードを人質に取られているようなもの。文句を言うことで復興全体が遅れることがあっては困るから」と説明する。
 同じ被災地でも地域によって実情は異なる。「工場や産業エリアなら防潮堤が高くてもいいが、海辺の景観で商売をしている所は問題になる。ワカメや昆布などの資源のある地域では生態系への影響が懸念される。でも、防潮堤計画には背後地の利用計画がセットにされていて、復興を進めようとしたら計画をのまざるをえないのです」
 話の途中、菅原さんの携帯電話に友人からメールが入った。「防潮堤各地でどんどん決まっていきますね。いいんですか。このままで?」とあった。年度末が迫り、県は合意形成を急ぐ。菅原さんは「県の担当者が『隣の人は合意した』と戸別訪問したことがあり、強く抗議しました。そんなやり方では、地域の信頼関係が壊れてしまう」と懸念する。
 多くの地域で防潮堤計画はなし崩し的に進んでいる。石巻市雄勝町立浜の銀ザケ・ホタテ養殖業、末永陽市さん(55)は「管理者の県が示した高さだから」と不本意ながら受け入れる意向だ。防潮堤は高さ6・3メートルと震災前に比べ約3メートル高くなる。
「地震発生後は防潮堤の上で海を見ていた。湾内にじわりじわりと海水が上がってきて、後ずさりしながら見守っていたが、防潮堤を越えたら早かった。やばいと思って、一気に裏山まで走った。海が見えていたから避難できた」。全49戸160人の集落ごと流されたものの、死者は5人にとどまった。これまで津波を経験してきた住民たちは、地震直後に裏山にほぼ全員が避難したからだ。だが、海が見えないまま津波がいきなり防潮堤を越えてきたら……。
 大津波で、末永さんは自宅だけでなく、養殖していた銀ザケ12万匹とホタテ35万個を失った。船に同乗し、再開した銀ザケ養殖のエサやりに同行させてもらった。風がごうごうと音をたて、潮騒を聞くどころか寒さで耳がちぎれそうだ。この海と生きる、という末永さんの強い意志を感じる。しかし、巨大防潮堤はそこにも影を落とす。
 末永さんは、自宅跡地に水産加工工場の建設を計画している。今後はサケの加工もして、ブランド化を目指すしかないと考えるからだ。だが防潮堤が高くなれば、自宅跡地横の小川の土手もかさ上げしなければならない。地続きの自宅跡地のかさ上げも必要になる。「待っていたらいつになるか分からない。さっさと自己資金で工場を建ててしまおうか」と迷う。
 雄勝地区の人口は1565人(昨年12月)と震災前の3分の1だ。末永さんは14世紀から続く24代目網元。「先祖が代々頑張って何とかつないできてくれた。それを考えると……」と意欲的だが、その前に防潮堤が立ちはだかる。
 「巨大防潮堤は被災地だけの問題ではない。国土強靱(きょうじん)化を掲げる政権下では、日本全体がコンクリート壁に囲まれてしまう恐れがある」と警鐘を鳴らすのは、気仙沼市のNPO法人「森は海の恋人」副理事長の畠山信さん(34)だ。
 畠山さんの地元、同市西舞根(にしもうね)地区は住民要望で防潮堤計画を撤回させた。畠山さんらは「堤防ができれば海と山が分断されて取り返しがつかなくなる」と計画が固まる前の段階で、集落に残る全戸(34戸)の意見を取りまとめ、市側を動かした。「人口や組織の多い市街地で合意を形成するのは大変。私の地域は長老がいて、その下に役員がいてという古い集落だから決まりやすかった」と語る。
 同地区では津波で全52戸中44戸が流され、地盤は約80センチ沈んだ。「沈下でできた干潟にアサリが増え、絶滅危惧種のニホンウナギが生息している。野鳥が来て、子どもたちの遊び場になっている。この干潟は地域で守っていくことにしています」。これも合意形成の成果だ。
「環境省や宮城県は『森・里・川・海のつながり』を重視すると言っていたのに、現場は逆行している。災害に備えるために必要なのは、管理費のかかる防潮堤というハードではなくて自然の見方というソフト。津波なら前兆のとらえ方です。これは自然体験からしか学べない。でもそこに予算はついていない」
 自民党は今国会に「国土強靱化基本法案」を議員立法で提出する方針だ。防災の柱として「強靱な社会基盤の整備」を盛り込んでおり、巨大防潮堤の整備を後押ししそうだ。
 畠山さんらを招いて公益財団法人「日本自然保護協会」が3日に東京都内で開いたシンポジウムでは、専門家から「海辺を利用してきた沿岸部住民で本音で賛成している人はいないだろう」「(住民が声を上げられない以上)外から声を上げるしかないのでは」などの意見が出た。同協会は4日、慎重な防潮堤復旧を求める意見書を安倍晋三首相らに提出した。
 海と陸の境目にコンクリートの巨大な壁を打ち立てて、本当にふるさとは再生するのか。何かゆがんだ発想がこの国を覆おうとしていないか。http://mainichi.jp/feature/news/20130206dde012040022000c.html

つまり、宮城県においては、津波被災地にこれまで以上の高さの防潮堤を建設することを強制しており、その計画について、漁業や観光で生きてきた地域住民たちが困惑しているというのである。生業にも差し支え、自然破壊にもなるということである。また、高い防潮堤は、近づいてくる津波がみえなくなる恐れがあり、かえって危険ではないかという声もある。しかし、国土強靭化法案をひっさげた安倍自民党政権の誕生によって、防潮堤拡充の動きが加速しているのではないかとも、この記事では懸念している。

さらに、3月7日付毎日新聞夕刊において、次のような続報が掲載されている。

特集ワイド:巨大防潮堤に海が奪われる 宮城・気仙沼で住民が計画見直し要請
毎日新聞 2013年03月07日 東京夕刊

 ◇セットバック案に制度の壁 東日本大震災級は防げず

 万里の長城のような巨大防潮堤が東日本大震災の被災地に築かれようとしている。本欄(2月6日付)で「巨大防潮堤に、本音は反対」という地元の声を紹介したところ、多くの反響が寄せられた。防潮堤計画の何がそんなに問題なのか? 続報をお届けしたい。【浦松丈二】

 「私たちは豊かな自然を後世まで残すため、防潮堤建設に当たっては住民の意見を反映するよう1324名の署名を添えて要請致します」
 宮城県気仙沼市の菅原茂市長に、巨大防潮堤計画見直しの要請書と署名が提出されたのは昨年11月12日だった。1324人は、同市大谷地区の人口の半数近い。
 宮城県内で防潮堤計画見直しを求める大規模な署名が提出されたのは初めてだ。避難が難しいお年寄りや障害者には高い防潮堤を必要とする人もいる。同じ被災者でも世代や職業、被災体験などによって意見は異なる。何より防潮堤計画が決まらないと復興計画が動かない地域が多く、反対の声を上げにくい−−それでもなお、コンクリートの壁で海を覆う計画に違和感を感じる人は多いのだ。
 問題の計画は、宮城県有数の海水浴場である大谷海水浴場一帯に高さ9・8メートル、全長約1キロのコンクリート製防潮堤を建設するもの。巨大なのは高さだけではない。津波で倒されないために土台の幅は実に45メートルもある。海水浴場の砂浜を覆い尽くして海までせり出す構造だ。
 大谷地区で生まれ育ち、署名集めの中心となったNGO職員、三浦友幸さん(32)は「防潮堤で消える砂浜は大谷地区のアイデンティティーそのもの。ここで生まれた子どもたちは卒業式、成人式などの節目節目に砂浜に集まって記念撮影をしてきた。砂浜がなくなるのは嫌だ。この一点に絞ることで住民の合意が形成できたのです」と説明する。
 要請書を受け取った菅原市長は「現在の計画では砂浜は残らない。署名のような地域住民の意向が分かるものがあると大変ありがたい。強い説得材料になります」と述べ、住民の意見を尊重して県や林野庁などに砂浜を残すよう働きかけると約束した。
 住民が要請し、市側が同意したのは防潮堤の建設予定地を砂浜から陸側に後退させる「セットバック案」だ。防潮堤を海から離せば離すほど砂浜が守られる。津波や高潮の脅威は衰え、海抜も上がるため、構造物を低くして建設・維持費用を安くできる。
 だが、いいことずくめに思えるセットバック案を実行しようとすると、制度の壁が立ちはだかるのだ。
 防潮堤に関するルールは海岸法に定められている。防潮堤を建設できる位置は、原則的に海岸線から陸側50メートルと海側50メートルの間の海岸保全区域だけ。これ以上陸側に移動するには県知事の指定など複雑な手続きが必要になる。防潮堤をセットバックしようとすると国道45号やJR気仙沼線も陸側に移動させないといけなくなる。
 気仙沼市は大谷地区住民の要請を受け、3通りのセットバック案を作成中だ。難しい作業を部下に指示した菅原市長だが「防潮堤の高さは安全度そのもの」と高さの変更は退ける。県も同じ姿勢だ。
 防潮堤は、国が方針を決め、県知事が計画を策定し、県や市町村などの海岸管理者が設計することになっている。今回の防潮堤の高さを決める方法は、2011年7月8日に国土交通省など関連省庁課長名で出された通知で示された。「数十年から百数十年に1度程度」の津波を防ぐ高さにする内容だ。
 不思議なことに通知は、東日本大震災級の津波は「最大クラス」の例外として防潮堤で防げなくてもいいことにしている。同年6月の中央防災会議専門調査会中間報告で示された専門家の見解を踏まえたという。震災で大谷地区の海岸には20メートル級の津波が押し寄せた。あの津波を防げない防潮堤に砂浜を覆われるのは釈然としない。
 県担当者が説明する。「今回計画されている防潮堤は明治三陸地震(1896年)の津波に対応したもの。災害復旧事業として費用の3分の2以上が国庫から出る。前の防潮堤が建設された1960年代は県の財政事情が悪く、チリ地震(1960年)にしか対応していなかったから今回は高くなった」
 国の補助金が出るから無理にでも通知に合わせて防潮堤の高さを決める、と聞こえる。

  ■

 では、巨大防潮堤の建設費用はいくらかかるのか。県河川課によると、県発注分の事業費だけで約3140億円。ほとんどが国からの補助金だ。港湾を管理する国交省や市町村の発注分を加えると、さらに増加する。無論別に維持補修費用もかかる。
 県内最高の14・7メートルの防潮堤が計画されている気仙沼市小泉地区でも不満がくすぶっている。「小泉地域の子どもたちに街づくりに関する絵を描いてもらったら、マリンスポーツ基地など海や砂浜を利用した内容が多かったそうです。防潮堤の絵を描く子はいなかった」(前出・三浦さん)
 すでに県発注の防潮堤275カ所、総延長163キロのうち、岩沼、石巻市など52カ所で着工されている。コンクリートの巨大な塊が姿を現しつつあるのだ。
 海辺の景観街づくりが専門の岡田智秀・日本大学理工学部准教授は「ハワイでは州法で決めたセットバックルールに基づき、防潮堤などの海岸構造物に極力依存しない街づくりを実施しています。目的は防災、景観、観光、環境の全て。全て密接に関連していますから」と語る。
 ハワイのルールとは、砂浜の自然観察を通じて高波などの最高到達ラインを調査し、住宅などの建造物は10〜15メートルの標準距離をセットバック(陸側に後退)させる。さらに砂浜の自然浸食と建物の耐用年数を考慮して、追加的に後退させる。街づくりには海岸線との距離が常に考慮される。
 岡田さんは「日本の防災計画も日常の暮らしの豊かさと非常時の防護の両方を表裏一体にして考えていくべきです。人口減少時代を迎えて、地方都市ではコンパクトシティーと呼ばれる集約型の街づくりが注目されています。セットバックは時代の流れにも合致しているのではないでしょうか」と訴える。
 大震災から2年。津波にえぐられた被災地の海岸に、ようやく砂が戻りつつある。防潮堤の巨額予算の一部でも住民本位の街づくりに回すことはできないのか。
http://mainichi.jp/feature/news/20130307dde012040002000c.html

気仙沼市では、すでに地域住民によって昨年11月に堤防建設の見直しを求める要請書が提出され、気仙沼市長も、防潮堤をより陸側に建設するセットバック案を検討することになった。しかし、このセットバック案については、海岸に建設しなくてはならないとという制度の壁がたちはだかっていると、この記事は伝えている。さらに、防潮堤の高さの変更は、この記事が書かれた時点では気仙沼市も宮城県も認めていないのだ。

しかし、この防潮堤の高さがどのように決められたかをみると、一驚する。ここで、問題になっている気仙沼市大谷の防潮堤は、9.8mにすることが予定されている。しかし、東日本大震災の津波では、20m程度の津波が襲来したとされている。そもそも、この高さでは、東日本大震災クラスの津波は避けられないのだ。

この9.8mという高さは、実は、東日本大震災クラスの津波をさけるものではない。このクラスの津波は1000年に1度のものとして、防潮堤で防御することをあきらめ、総合的に防災するとしている。そして、100年に1度程度はくる津波から守ることを目標にしてそれぞれの地域の防潮堤の高さを決めている。この気仙沼市大谷の場合、1896年の明治三陸津波の高さ8.8mを基準として設定されたのである。

つまり、この程度の防潮堤では、想定されうるすべての津波から、地域を守り切ることはできないのである。にもかかわらず、住民生活の利便とは反し、さらに自然破壊にしかならないような防潮堤建設が、国の補助金をめあてにして、津波被災地で強行されようとされてきたのである。

すでに、気仙沼市西舞根のように、地域住民の要求によって、防潮堤建設計画を撤回させたところもある。また、2013年3月7日付河北新報では、宮城県も防潮堤の高さについて譲歩の姿勢をみせているようである。

防潮堤の高さ変更示唆 宮城・村井知事、方針転換か

 宮城県議会2月定例会は6日、予算特別委員会を開き、総括質疑を行った。東日本大震災で被災した海岸防潮堤の整備をめぐり、村井嘉浩知事は、県が設定した高さで住民合意が得られていない地区のうち、漁港や集落の背後地に高台がある場合は地勢を考慮し、高さの変更もあり得るとの認識を示した。
 気仙沼市の小鯖や鮪立(しびたち)など一部地区が対象になるとみられる。村井知事は「位置をよく考え、合意を得るため最大限に努力する」と述べ、住民との意見調整の中で弾力的な対応を認める方針を示唆した。
 これまで、沿岸部の一部地域から「県が示した計画高は高すぎる」との反発が出ていた。村井知事は「命を守ることが大前提だ」と、変更に応じない姿勢を示していた。
 近く決定する復興交付金の第5次配分額に関して、上仮屋尚総務部長は、約108億円を申請した県事業分に対し、「2倍の200億円程度が配分されるのではないか」との見通しを示した。
 県が導入を決めたドクターヘリについて、県は基地病院の選定や医師の確保など、稼働に向けた課題を検討する委員会を新設する考えを明らかにした。18日の県救急医療協議会に諮り、正式決定する。

2013年03月07日木曜日
http://www.kahoku.co.jp/news/2013/03/20130307t11025.htm

このことは、現在進行中のことで、予断を許さない。少しでも、地域住民の主体性を尊重し、防潮堤などの計画が進められることを私は望む。結局のところ、地域住民自体が、想定される津波被災と、地域における生活の実情を勘案しつつ、自主的に、防災計画をともなった形で地域の復旧計画を決めるべきなのだと思う。そして、このように、地域住民の生活を無視し、その合意をとらない形で、「復興」がすすめられていることが、津波被災地のかかえる問題の一つなのだと考えるのである。

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さて、ここでもまた、2012年3月24日の歴史科学協議会主催のシンポジウム「原発震災・地震・津波ー歴史学の課題ー」で、石橋克彦氏の報告「史料地震学と原発震災」を聞いて考えたことを書いていくことにする。

石橋氏の主要な業績の一つに「歴史地震学」がある。歴史地震学とは、過去の歴史史料から、地震関連の記事(地震史料)を収集し、その記事内容から、過去の地震活動を復元することを第一の目的としている。近代においては、地震計により地震震度を計測することは可能となった。しかし、前近代においては地震計による観測データはない。そのため、地震史料から過去の地震活動による各地の震度を算定し、さらに震源域と規模を復元することが必要になっている。そして、過去の地震活動を認識することが、未来における地震活動を予測することにつながるのである。

石橋氏によると、すでに明治期より現代にかけてr、『大日本地震史料』『増訂大日本地震史料』『日本地震史料』『新収日本地震史料』『「日本の歴史地震史料」』などという形で地震史料集が編纂されているとのことである。石橋氏は「世界にも類を見ない歴史地震研究の「データ集」と表現している。

その上で、石橋氏は、彼自身の取り組みとして、「[古代・中世]地震・噴火史料データベース(β版)」(を共同研究によって実現したことをあげている。その目的として、今までの地震史料集ではキーワード検索ができないこと、編纂過程で史料の吟味や校訂が不十分であったことをあげている。特に、校訂の過程で実在しない地震が記録されていたことを、ニセ地震(fake earthquake)と呼んでいることは興味深い。

実際「[古代・中世]地震・噴火史料データベース(β版)」をつかってみた。基本的に年代順に地震や噴火がならんでいて、キーワードや年代検索が可能となっている。そして、その地震の項目をクリックすると、その地震史料の本文が出てくることになっている。ちなみに、869年(貞観11)に、東北地方を襲った貞観地震をみてみよう。

事象番号:08690713  種別:地震
貞観11年5月26日/869年7月9日(J)/869年7月13日(G)
(A)〔日本三代実録〕○新訂増補国史大系
《廿六日癸未》{(貞観十一年五月)}、陸奥國地大震動、流光如晝隠映、頃之、人民叫呼、伏不能起、或屋仆壓死、或地裂埋殪、馬牛駭奔、或相昇踏、城〓倉庫、門櫓墻壁、頽落顛覆、不知其數、海口哮吼、聲似雷霆、驚濤涌潮、泝〓漲長、忽至城下、去海數十百里、浩々不弁其涯〓、原野道路、惣為滄溟、乘船不遑、登山難及、溺死者千許、資産苗稼、殆無孑遺焉、
《七日辛酉》{(九月)}、(中略)以從五位上行左衛門權佐兼因幡權介紀朝臣春枝為檢陸奥國地震使、判官一人、主曲一人、
《十三日丁酉》{(十月)}、 詔曰、義農異代、未隔於憂勞、堯舜殊時、猶均於愛育、豈唯地震周日、姫文於是責躬、旱流殷年、湯帝以之罪己、朕以寡昧、欽若鴻圖、脩徳以奉靈心、莅政而從民望、思使率土之内、同保福於遂生、編戸之間、共銷〓於非命、而惠化罔孚、至誠不感、上玄隆譴、厚載虧方、如聞陸奥國境、地震尤甚、或海水暴溢而為患、或城宇頽壓而至殃、百姓何辜、罹斯禍毒、憮然《〓》{(愧イ)}懼、責深在予、今遣使者、就布恩煦、使與國司、不論民夷、勤自臨撫、既死者盡加收殯、其存者詳崇賑恤、其被害太甚者、勿輸租調、鰥寡孤、窮不能自立者、在所斟量、厚宜支濟務盡矜恤之旨、俾若朕親覿焉、
http://sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/erice/db/

これだけでは、よくわからないと思うので、中世史研究者保立道久氏による前半部の釈文をのせておこう。

陸奥国の地、大いに震動す。流光、昼の如く隠映す。このころ、人民叫呼して、伏して起きることあたわず。あるいは屋たおれて、圧死し、あるいは地裂けて埋死す。馬牛は駭奔(驚き走る)し、あるいは互いに昇踏す。城郭・倉庫、門櫓・墻壁など頽落して顛覆すること、その数を知らず、海口は哮吼し、その聲、雷霆に似る。驚濤は涌潮し、泝洄(さかのぼる)し、漲長す。たちまちに城下にいたり、海を去ること数十百里、浩々としてその涯を弁ぜす。原野道路、すべて滄溟となり、船に乗るいとまあらず、山に登るも及びがたし、溺死するもの千ばかり、資産苗稼、ほとんどひとつとして遺ることなし。
http://hotatelog.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/post-1e1c.html

なお、「城下」というのは、陸奥国府のあった多賀城のことである。現在、多賀城市にある。そして、東日本大震災でも、高台にある多賀城址は被災しなかったが、「城下」の多賀城市域は津波に被災した。

このように、石橋氏の主要業績の一部は、このような史料から過去の地震の震度・震源・規模を推定することであるといえる。

さて、ここからは、私の感想を記すことにしたい。人間の活動領域が存在することによって、地震・噴火・暴風雨などの自然現象が「災害」として認識されることになったことを前のブログで述べた。これは、地震史料にもいえる。人間がその災害を認識し、会話や史料などによって、他者に伝えようとすることによって、はじめて地震は「記録」されるのである。

といっても、地震史料が残されるということは、そこに人間が活動していたというだけにとどまらない。何らかの形で、情報を保存する手段をもっている人びとがそこにいるがゆえに、史料が作成されるのである。具体的には識字者がいるということである。そして、その史料が現代にまで残されるということも、簡単なことではない。

例えば、貞観地震の記録は、律令制国家によって編纂された正史である「六国史」の一つである「日本三代実録」に残されている。この「日本三代実録」は六国史の最後のもので、901年に完成した。編者は藤原時平・菅原道真・大蔵善行らであった。

この記録が残されるにあたっては、次の二つが必要である。まず、いまだ、この時期は、律令制国家による中央集権的地方行政は維持されており、多賀城にあった陸奥国府から京都の朝廷にあてて、何らかの形で報告があげられていたと考えられる。そして、律令制国家の正史編纂事業は続いていて、この年の特記事項である貞観地震を記録することができたのである。

この後、律令制国家による中央集権的地方行政は衰退していくと考えられる。そして、正史編纂事業も中止され、史料は、個人の日記や文書に限定されていくのである。それゆえ、京都から離れた陸奥の地震・津波はあまり記録されなくなる。近代になっても、4回は大津波に襲われた東北地方沿岸(陸奥)においては、中世でもかなり津波・地震に襲われたと思うが、データベースには次の地震しか貞観地震以後のものでは記録されていない。しかも、これも、鎌倉幕府の歴史書である『吾妻鏡』に収録されていることに注意されたい。なんらかの歴史編纂と関係しないと、この地域の地震史料は残すことが困難であった。

事象番号:12301129a  種別:地震
寛喜2年10月16日/1230年11月22日(J)/1230年11月29日(G)
(A)〔吾妻鏡〕○新訂増補国史大系
《八日》{(寛喜二年十一月)}乙未、晴、大進僧都観基参御所、申云、去月十六日夜半、陸奥国芝田郡、石如雨下云々、件石一進将軍家、大如柚、細長也、有廉、石下事廿余里云々、

そして、1611年(慶長16)の慶長三陸地震がこの地域の地震として記録されている。

石橋氏は、古代・中世よりも、近世のほうが地震が多く記録されているのはなぜかという質問に答えて、地震自体が多くなったというよりも、地震史料が多く残されるようになったためであろうと述べている。近世の幕藩制において、日本全国各地に大名が置かれ、さらに城下町を築くにつれ、地震史料も多く作成されたのであろうとしているのである。

このことは、重要である。近世の幕藩制においても、律令制国家とは違った形だが、村請制を基盤とする文書行政が行われた。そして、他方で、村落レベルでも、中世とは違って、識字者が増え、地方文芸が展開している。このような中で、地震が記録されていくことも増えていくのである。

そして、近代の地震史料の収集も、実は国家レベルでの修史事業と連動したものであった。近代において史料編纂所が設置され、『大日本史料』などが編纂されていくが、初期の地震史料集は、このような史料編纂所の修史事業と連動したもので、記事の形態すらも『大日本史料』などに依拠したものであったことを石橋氏は報告の中で述べている。

このように、「科学的データ」として利用されていく過去の地震史料は、実は、それ自身が「歴史」の産物であることがわかるであろう。このような地震史料は、当時の歴史的背景に左右されて作成された。そして、それが残され、利用可能のものになるためには、何らかの歴史編纂事業の中で取り上げられなければならなかったのである。そのことを、石橋氏の報告により再確認させてもらったといえる。

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前のブログで、私が所属している歴史学研究会発行の雑誌『歴史学研究』10月号の「東日本大震災・原発事故と歴史学」の緊急特集の中から一部紹介した。ここでは、歴史資料保存活動を中心にみてみよう。下記に目次をあげておく。

『歴史学研究』10月号(884号)
緊急特集 東日本大震災・原発事故と歴史学

特集によせて………………………………… 歴史学研究会委員会(1)
[論文]
東日本大震災と歴史の見方 …………………………………平川新(2)
地震・原発と歴史環境学-9世紀史研究の立場から……保立道久(8)
東日本大震災と前近代史研究……………………………矢田俊文(12)
災害にみる救援の歴史-災害社会史の可能性…………北原糸子(16)
東日本大震災と歴史学
 -歴史研究者として何ができるのか-…………………奥村弘(21)
[史資料ネットワークから]
歴史遺産に未来を
 -東日本大震災後の歴史資料レスキュー活動-……佐藤大介(27)
「茨城史料ネット」の資料救出活動
 -3・11から7・2へ-………………………………… 白井哲哉(30)
ふくしま歴史資料保存ネットワークの現況と課題……阿部浩一(32)
[論文]
原発と地域社会-福島第一原発事故の歴史的前提-…中嶋久人(34)
マンハッタン計画の現在…………………………………平田光司(40)
原子力発電と差別の再生産-ミネソタ州プレイリー
 ・アイランド原子力発電所と先住民-………………石山徳子(48)
記録を創り,残すということ……………………………三宅明正(54)
言論の自由がメルトダウンするとき
 -原発事故をめぐる言説の政治経済学-……………安村直己(59)

全体でいうと、一番大きい比重をしめているのが、歴史資料の保存活動ということができる。津波や地震に被災した歴史資料を救出する活動である。一般的には、津波や地震に被災した地域に、歴史研究者たちがボランティアでおもむき、おもに文書を中心とした歴史資料を救出し、破損していた場合は修復するという活動である。本特集では「史資料ネットワークから」というコーナーに、宮城・茨城・福島三県における活動報告がのせられている。また、平川新さんの「東日本大震災と歴史の見方」も、半分くらいは平川さんが中心になって進められている「宮城資料ネット」の活動が紹介されている。さらに、奥村弘さんの「東日本大震災と歴史学ー歴史研究者として何ができるのか」という論文も奥村さんが関わってきた阪神・淡路大震災における被災歴史資料保全活動についての経験を前提としたものである。

東日本大震災の際、私の周囲の歴史研究者でも、歴史資料の保存ボランティア活動に従事した人たちが多かった。行かないまでも、福島第一原発事故の話題の次に歴史研究者たちが話したことは、歴史資料保存活動であった。それこそ、阪神淡路大震災において奥村弘さんなどの被災資料保全活動は、災害において歴史研究者が行うことと、強く印象付けられていたためということができよう。宮城などは、今回の震災前から活動が組織されたときいている。その意味で、阪神・淡路大震災の経験は、歴史研究者の災害における実践活動の型として結実していたといえる。ある意味での、歴史研究者の、職業的関心から行うところの社会参加ということができよう。

そして、それは、単に、歴史資料の物理的な保存活動にとどまるものとしてはいけないだろう。奥村さんは、前述の論文の中で、このようにいっている。

地域の歴史の中で生きてきた被災者にとって、生活再建はその歴史的な現在の上にしかない。にもかかわらず、そのような視点は阪神・淡路大震災時にはほとんど顧みられることがなかった。

このことは、今回の大震災でもとわれていると、奥村さんは述べる。その上で、歴史研究者のなすべき課題として、このような提言を行っている。

歴史の深さにささえられて、豊かなイメージを持って現在を語りうる、そのような市民社会を形成する点において、歴史に関わる専門家は、現代社会に対して大きな役割を担っている。歴史的に考えるということが、被災地での生活再建において焦点となっているということは、具体的イメージをもって日本社会の未来を捉える際、歴史学が重要な位置にあること、社会的に大きく期待されていることを示している。その意味で、震災においてなすべき責務が今、私たちに問われているのではなく、私たち歴史研究者が、歴史的イメージをもって未来を考えていくことを社会通念にまで高めえたかどうかが、大震災の中で厳しく問われているのである。

単に、歴史資料を保存しているだけではないのである。歴史を前提として、未来を考えていくことが歴史研究者の責務であると、奥村さんは主張している。

私自身が、「東日本大震災の歴史的位置」と題して、必ずしも専門ではないことを本ブログで述べていることも、そのような思いからである。そして、このような実践を行うことで、必ずしも社会的分業の中で十分な地歩を占めているとはいえない歴史研究者の存在を少しでも固めていくことになると考えているのである。

一見、現状からみれば迂遠のような歴史的過去、それを前提として未来を考えていくこと、それが歴史研究者の課題なのだと、私もいいたいのである。

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2011年10月16~18日、東京都豊島区雑司ヶ谷(池袋の南側にあたる)において、今年もお会式の万灯行列が行われた。このお会式について、本ブログでは、このように説明している。

単純化すると、地域(豊島区南部)と宗教(日蓮宗)がコラボーレションしたような現代的都市祭典である。鬼子母神は、日蓮宗の法明寺に属している。日蓮宗では10月13日の日蓮の命日を追悼するためにその前後に「お会式」(おえしき)が行われる。最も有名なのは、日蓮がなくなった池上本門寺で行われている。雑司ヶ谷鬼子母神では、10月16-18日の三日間に行われている。基本的には、それぞれの講社が、うちわ太鼓や太鼓などを集団でたたきながら、まといなどをもって踊り、日蓮の事績や題目などが描かれた万燈を持参して、池袋駅東口(西武池袋)からパレードし、雑司ヶ谷鬼子母神・法明寺に参詣するというものである。

雑司ヶ谷鬼子母神お会式の万灯(2011年10月17日撮影)

雑司ヶ谷鬼子母神お会式の万灯(2011年10月17日撮影)

お会式について、よりご興味があれば、このブログで詳述しているので参照されたい。

今年のお会式においては、福島県を支援する試みがみられた。

その一つが、NPO法人「元気になろう福島」による「うつくしま子ども未来塾」基金への協力依頼をよびかけるブースの設置である。募金を集めるとともに、会津の牛のアイテムの販売を行っていた。場所は、鬼子母神堂のすぐ前で、屋台などが多く出されている鬼子母神境内の中では、かなり優遇されているといえる。

NPO法人「元気になろう福島」のブース(2011年10月18日撮影)

NPO法人「元気になろう福島」のブース(2011年10月18日撮影)

もう一つが、JA福島による「特産品販売」のブースである。野菜、漬物などが販売されていた。これも、鬼子母神堂のすぐそばにあり、かなり優遇されているといえる。

福島県JA復興特産品販売のブース(2011年10月18日撮影)

福島県JA復興特産品販売のブース(2011年10月18日撮影)

福島県産物の忌避は各地で起きている。例えば、9月には、福岡市で「ふくしま応援ショップ」を開催する予定が、抗議のメールや電話が殺到しているということでとりやめになったことが報じられた。

東京電力福島第1原発事故後の風評被害に苦しむ福島県の農家を支援しようと、福岡市内で17日に予定されていた「ふくしま応援ショップ」の開店が7日、取りやめになった。企画者側によると、計画発表後に「福島のトラックが来るだけで放射能を運んでくるだろう」といったメールや電話が相次いだことが原因という。新たな出店先を探すが、被災地を応援しようという試みに水を差された。

 「応援ショップ」は福岡市西区の商業施設「マリノアシティ福岡」内の農産物直売所「九州のムラ市場」の一角約20平方メートルに開設する計画だった。ムラ市場関係者によると、メールや電話は約20件で「出店をやめないなら不買運動を起こす」や「危ないものを売るとはどういう了見だ」などの内容も含まれる。ショップの運営主体で生鮮品宅配などを行っている「九州産直クラブ」(福岡市)にも同様のメールが約10件送られているという。

 ムラ市場によると、産直クラブは国の暫定規制値の10分の1まで放射性物質量の基準を厳格化し検査結果は店頭で開示。生鮮品の取り扱いはやめ、震災前の原材料を使った加工品だけを販売する方針だったが、7日に関係者で協議し異論も出たため見送りを決めた。

 産直クラブは「こんな事態になるとは予想していなかった。安全性は検査した上で消費者に判断してもらいたかったが、非常に残念」。ムラ市場側は「メールの内容はいわれのない話で、とんでもないことだが、他のテナントに迷惑を掛けるリスクがあった。違う形で支援したい」と説明した。

 ムラ市場と産直クラブは正式な店舗使用契約は結んでおらず、ムラ市場に出資しているマリノアシティ運営会社の福岡地所は「出店の合意形成ができていたとはとらえておらず、メールなどの苦情は判断材料ではない。被災地支援は企業としてこれまでも行ってきた。収益性の観点からもムラ市場は九州の生産者支援に力を注ぐべきだ」としている。

=2011/09/08付 西日本新聞朝刊=
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/262245

このような「忌避」は、かなり極端な事例として報じられる場合、福島第一原発事故の影響が少ないとみられる西日本のほうが多いように見受けられる。東京の鬼子母神境内では、普通に販売ブースが設置された(ただ、鬼子母神内部で議論があったかもしれない)。そこそこ購入者もいた。全体として、存在自体を忌避しているようには見られなかった。

ただ、価格であるが…写真に写っている小松菜は100円、ブロッコリーは100円、トマトは250円である。今の市価はよくわからないが、最近野菜の値段が上がっているようで、この間購入したブロッコリーが200円を超えていたことは記憶している。トマトは比較的高価な野菜で、一般的に300円は超えているのではないかと思う。

ここでは、ピーマンも販売されていた。写真ではラベルがみえないが…1袋50円である。このピーマンを購入してみた。

鬼子母神境内で売られていた福島県産ピーマン(2011年10月19日撮影)

鬼子母神境内で売られていた福島県産ピーマン(2011年10月19日撮影)

少々小ぶりではあるが、6個入りであった。翌日、前に買い置きしたピーマン(茨城県産である)とあわせてチンジャオロースにしてみたが、もちろん、何も変わらず、普段よりも甘く感じた。

販売担当者が別の客に説明しているのを聞いたのだが…普段だったら、とてもこんな値段では販売しないそうだ。前回紹介した、カタログハウス東京店では、ピーマンは210円で販売されている。カタログハウスで売られている野菜全体が比較的高く、大体200円はこえていたことと著しい対照をなす。

福島県では、放射性セシウムの検査を他県よりきめ細かく行っているが、最近の結果であると、一年草の野菜については、不検出かもしくはごく微量しか検出されていないのである。鬼子母神境内で販売されていた野菜も、基本的には健康に支障がないと考えられる。何も、小出裕章氏のように、悲壮な決意をもつこともなく、福島県産の野菜は食べられるのである。

ある意味では、すごく不条理である。カタログハウスで販売されている野菜は、市価よりもむしろ高めに販売されているのに、鬼子母神境内でJA福島が販売されている野菜は市価を大きく割り込んだ値段で販売されているということになるのである。そして、福島県産であっても市価を大きく割り込んだ価格の野菜をあまり気にせず買うのは、少しでも安い価格の商品を買わなくてはならない低所得者ということになろう。割り切れないが……。

根本的には、消費者が納得できる基準で、より厳格に検査すること。そのことによって、カタログハウスがそうしているように、「ブランド」化すること。福島県産の野菜を売るということについては、それがベターかもしれない。

しかし、それでも、釈然としない思いは残る。結局、生産者の目線ではなく、消費者の視線を考慮した流通側のセンスがそこでは優先されているともいえるのである。宮城県の水産特区でも同じ問題があろう。結局、ある意味では消費者のセンスを熟知した流通側の思惑で、生産者が組織されなくてはならないのであろうか。

20日、たまたま通りかかった、東京都北区滝野川のスーパーの店頭で、ピーマンが売られていた。1袋(たぶん5個入り)で60円。いやに安いと思ってみたら、袋には「JAたむら」と表示されていた。つまり「福島県産」なのである。どうも、福島県産の野菜は、一般的にはこのような価格で売られているようである。

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東日本大震災によって顕著なことの一つとして、さまざまな地域、レベルにおいて、いろいろな形での「棄民」が顕在化してきたことがあげられる。

すでに、21世紀に入る頃から開始された、新自由主義的「改革」は、さまざまなレベルでの「棄民」の出現を促進してきたといえる。農業自由化や財政改革における補助金削減は、地方経済ーすでに大阪などの大都市圏にも及んでいるがーの弱体化を促進させてきた。私が福島県浜通り地域に通っていたのは2000年頃であったが、すでに当時の原町市(現在の南相馬市)では常時シャッターが閉鎖された店舗が目立つ商店街ーいわゆる「シャッター」街を頻繁に目撃するようになった。そして、それは、いわゆる「地方都市」で頻繁にみかけるようになった。

他方、東京などの大都市では、一見大規模な都市再開発やベンチャー企業の叢生によって、経済活動が活性化したようにみえた。しかし、それは、それこそ「1%」の繁栄に過ぎなかった。他方で、同じく新自由主義改革が推し進めた相次ぐ労働者派遣法の改正など、正規雇用から非正規雇用への切り替えが進んだ。非正規雇用といえば、まだ聞こえがよい。そのほとんどが「生活保護」水準ーそれ以下の場合も多いーの賃金しか得られていないのである。そして、それは、正規雇用自体の労働条件悪化にも及んでいる。「非正規雇用」との潜在的な競争により、賃金は引き下げられ、サービス残業や休日出勤が今まで以上に強いられるようになった。

しかし、これらの「棄民」の拡大は、東日本大震災以前においては、「局所化」されていた。まずは、一般的に「自由」「小さな政府」「自己責任」などの新自由主義のイデオロギーが、それぞれの場面における「自由競争」の極大を正当化していたことが大きな要因としてあげられるであろう。特に「自己責任」は、まさしく、近代初頭の小経営者=「個人」の自立志向に起因するもので、日本では「通俗道徳」にあたるといえよう。もはや、経営どころか「家族」ですら、より公共的に支えられないと存立不可能であるのだが、新自由主義は、そのような「公共性拡大の必要性」を逆手にとって、それを恐怖の対象とする。その上で、公共性の介在しない、市場中心で維持する「社会」を夢想する。このような社会は「自己責任」をもつ個人によってささえられるのであり、社会保障の必要な弱者ー今や99%なのだーは事実上排除する。弊害が目に見えているのに労働者派遣法は「改悪」され、生活保護は「窓口規制」され、年金支給年齢は引き上げられた。一方、地方では、自主性尊重の掛け声のもとに、補助金は引き下げられ、能率性重視を目的として、大規模な自治体合併が強制された。

東日本大震災の被害は、まず、地方における「棄民」のあり方を顕在化させたといえるであろう。もちろん、地震による津波被災は「新自由主義」に起因するものではない。しかし、現状においても、本質的には公的な意味では放置されているといえる津波被災地のあり方は「棄民」そのものといえるであろう。都市部を中心として被災した関東大震災や阪神淡路大震災と、東北太平洋側の沿岸部を襲った津波被災が中心とする東日本大震災は、様相をことにしている。地方空洞化のただ中でおきた東日本大震災においては、そもそも、区画整理などを実施することで「再開発」し、その利益によって地域社会を再建するというそれまでの「復興」のパターンを十分機能させることができない。新自由主義のもとに地方の経済活動が弱体されてきたという「棄民」状況が、ここで明るみに出たといえるのである。

そして、このような「棄民」状況にたいして、新自由主義を体現してきた政府は、十分対処する能力をもたない。結局は、財政出動の「圧縮」と財政負担の将来へのつけまわしを議論するしか能がないのである。さらに、村井宮城県知事などは、阪神淡路大震災的な都市再開発をもくろんで市街地建築制限を導入し、被災地の「復旧」のさまたげとなっている。さらに、彼は、沿岸漁業への一般企業の参入を促す水産特区構想を持ち出し、津波被災地に混乱をまきおこした。村井の発想は、まさに新自由主義的復興構想といえるのであるが、逆に、被災地の自主的な復旧を阻害しているのである。

一方、福島の状況であるが……。この状況を「棄民」という範囲すらこえているといえる。そもそも、福島県浜通りという人口の少ない地域に原発が建設されたということ自体、「棄民」状況が潜在していたといえる。そして、福島第一原発事故後、周辺の町村からは、地域社会全体が根扱ぎにされた。民だけではなく、地全体が、現状では「棄てられている」のである。それぞれの町村という、生活の場すべてが奪われた「民」がそこにはいるのだ。

他方で、とりあえず、避難指示はされていないその他の地域でも、「棄民」状況は続いている。比較的高い放射線量ーチェルノブイリ事故では自主避難が認められた線量をこえる地域もあるーにおいても、「日常生活」を続けられている。部分的な除染と、あまりにも高い土壌放射線量での農産物の作付の制限はなされているが、それ以外は十分進んでいるとはいいがたい。そして、自主的に避難する人々がいる一方、避難をしない人々との間の意識の断絶がうまれている。特に、乳幼児をかかえる女性たちの避難が目立っている。これもまた「棄民」なのである。このことは、すでに、福島県だけの問題ではない。福島県なみの汚染状況を示している地域は、北関東の地域さらに、千葉県の柏市地域や東京の奥多摩地域にも及んでいるのだ。

汚染地域などでの「日常生活」の維持のため、そこから産出される「農水産物」も「正常化」されなくてはならない。そして、それは、農地除染や、農水産物の検査体制の強化という形ではなく、放射性物質の許容限界を平常時の5倍に引き上げるという「暫定基準」の設定で行われた。そして、問題を表面化しないように穴だらけの検査体制がそのまま維持される。政府の「直ちに健康に影響がない」というのは、短期的にはその通りかもしれない。しかし、長期間に維持すべきものではなく、その意味で「暫定」なのだ。しかし、その暫定基準は、そのまま「安全」という言説が福島県知事などより言明される。これは、いわゆる、象徴的な意味での「棄民」といえるであろう。そして、そのことの意味をもっとも強く考えるのが、現状では女性たちであるということも指摘しておかねばならない。

そして、他方、都市内外に存在する「非正規雇用」の労働者ー「非正規労働者の予備軍」としての大学生たちも含めてーもまた、「棄民」といえる。すべてを、還元してはいけないと思うが、労働組合などと離れた形で「脱原発」デモが行われてきた背景としては、彼らの存在があるといえる。全体的な「棄民」状況からの「解放」が、そこには希求されているのではなかろうか。このことついては、もっと深めて考えていかなくてはならない。

東日本大震災以前では、「棄民」の存在は「局所化」されていた。東日本大震災により、このような多様な「棄民」が顕在化した。その一方で、「棄民」を作り出し、隠蔽してきた、新自由主義的資本主義システムへの「無意識的な信頼感」は大きく揺らいだのである。

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