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2012年に成立した原子力規制委員会は、2013年に次のような「組織理念」を発表している。

原子力規制委員会の組織理念

平成25年1月9日
原子力規制委員会

原子力規制委員会は、 2011年3月11日に発生した東京電力福島原子力発電所事故の教訓に学び、二度とこのような事故を起こさないために、そして、我が国の原子力規制組織に対する国内外の信頼回復を図り、国民の安全を最優先に、原子力の安全管理を立て直し、真の安全文化を確立すべく、設置された。

原子力にかかわる者はすべからく高い倫理観を持ち、常に世界最高水準の安全を目指さなければならない。

我々は、これを自覚し、たゆまず努力することを誓う。

使命

原子力に対する確かな規制を通じて、人と環境を守ることが原子力規制委員会の使命である。
(後略)
http://www.nsr.go.jp/nra/idea.html

これによると、福島第一原発事故を教訓として、国民の安全を最優先にして、原子力の安全管理を立て直し、真の安全文化を確立することが原子力規制委員会の設置目的であり、常に世界最高水準の安全をめざし、努力しなくてはならないとしている。「原子力に対する確かな規制を通じて、人と環境を守ること」が使命であるとまでされているのである。

この原子力規制委員会が策定し、2013年7月から施行された「実用発電用原子炉に係る新規制基準」(新規制基準と略記)について、同委員会は次のようにサイトで説明している。

新規制基準について
原子力規制委員会は、原子炉等の設計を審査するための新しい基準を作成し、その運用を開始しています。

今回の新規制基準は、東京電力福島第一原子力発電所の事故の反省や国内外からの指摘を踏まえて策定されました。

以前の基準の主な問題点としては、
地震や津波等の大規模な自然災害の対策が不十分であり、また重大事故対策が規制の対象となっていなかったため、十分な対策がなされてこなかったこと
新しく基準を策定しても、既設の原子力施設にさかのぼって適用する法律上の仕組みがなく、最新の基準に適合することが要求されなかったこと
などが挙げられていましたが、今回の新規制基準は、これらの問題点を解消して策定されました。
この新規制基準は原子力施設の設置や運転等の可否を判断するためのものです。しかし、これを満たすことによって絶対的な安全性が確保できるわけではありません。原子力の安全には終わりはなく、常により高いレベルのものを目指し続けていく必要があります。
https://www.nsr.go.jp/activity/regulation/tekigousei/shin_kisei_kijyun.html

新規制基準についての詳細は省略するが、上記の原子力規制委員会の主張によれば、津波・地震の自然対策や重大事故対策がはかられていなかったこと、新しい基準を策定して既設の原発に規制を適用できなかったなどの問題点を解消したものとされている。しかし、これは、「原子力施設の設置や運転等の可否を判断するためのもの」で、「絶対的な安全性」を確保するものではないとしている。いわば、原子力規制委員会が新規制基準が「暫定的」なものでしかないとしているのである。

この「暫定的」な新規制基準で、原発再稼働の審査が現在行なわれている。原子力規制委員会の定義によれば、これは「安全審査」ではなく、「適合性審査」なのである。

この「適合性審査」に川内原発はクリアしたと2014年7月16日に原子力規制委員会は発表した。このことを定例記者会見で発表した原子力規制委員会委員長田中俊一は、記者の質問にこたえて、注目すべき発言をしている。

私は、今はそういう数値だけで議論する、もちろん数値目標は大事ですけれども、そのことで、では国民が納得しているかというと、必ずしもそれはそうではないので、そこのところは、安全目標というのは決して国民と我々が合意して作ってた値ではないということだけは御理解いただかないといけないと思うのです。ただ、我々としては、全ての技術者がそうですけれども、あるレベルの安全性を確保しながらいくという意味で安全目標というのを持ったということで、これは大体、国際的にもそういうふうに思われているところですので、その辺も踏まえて御理解いただければ幸いです。
(中略)
安全審査ではなくて、基準の適合性を審査したということです。ですから、これも再三お答えしていますけれども、基準の適合性は見ていますけれども、安全だということは私は申し上げませんということをいつも、国会でも何でも、何回も答えてきたところです。

http://www.nsr.go.jp/kaiken/data/h26fy/20140716sokkiroku.pdf

田中は、彼らの「安全目標」は国民との合意によって形成されたものではなく、「あるレベルの安全性を確保しながらいく」というものであり、基準の適合性は審査したが、それで安全とは言えないと述べているのである。さらに、別のところでは、次のように話している。

こういったリスクがありますということが分かれば、それに対する対応ができるのですが、一般論として、技術ですから、これで人事で全部尽くしていますと、対策も尽くしていますということは言い切れませんよということです。
ただ、現段階で、いろいろなことを今日も後で私の方からもレクチャーしたように、相当のことを考えてリスクの低減化には努めてきたと、そのつもりではいます。

ゆえに、原子力規制委員会としては、基準の適合性以外は、すべて他者まかせという姿勢をとっている。川内原発の再稼働については、「これも何回も国会でもお答えしているのですけれども、私どもは再稼働をするか、しないかという判断についてはコミットしませんということを申し上げています。稼働を許可するかどうかということについては、もちろん事業者と、それから、地域の住民の方、それから、政府の考えとか、いわゆる関係者の合意で行われるのであって、そのベースとして私どもの審査があるということかと思います」とし、事業者・地域住民・国の合意にすべてまかせている。避難計画についても、「避難計画と再稼働というのは、ある意味では密接に関係はしていますけれども、規制委員会、規制庁がそれの関係をきちっと評価するという立場にはない」と、自身の権限外であることをことさらに強調しているのである。

また、電力会社に安全意識を高めて行くことについては「能力を高めるとか、安全に対する考え方を高めるというのは、事業者は事業者の努力がやはり基本になるのだということだと思います。そういう意味でJANSI(原子力安全推進協会)という組織を作ったので、そういったところを大いに活用して発展してもらって、事業者自身がそういう努力をしていただく必要はあろうかと思います。」と、電力会社側の「自主努力」に委ねるという姿勢をとっているのである。

さらに、防災時に作業員が退避してしまう可能性があることを例にして、事業者=電力会社に規制を守らせる担保はどこにあるのかと記者に質問されて、このように田中は述べている。

○記者 東京新聞のシミズです。これまでも誰が安全の責任をとるのかということは、一義的に事業者だということは再三おっしゃられていて、今回、こういう規制を作って、この規制を事業者が守ればある程度の安全は確保されるだろうということなのですけれども、結局、この規制を最後まで事業者が守るかどうかというのは、どうやって担保されるのでしょうか。要するに、ソフト面で、これは以前も質問があったかも知れないのですけれども、例えば、事故時に最悪の場合、作業をされている方が退避してしまうという可能性がないことはないわけですよね。
○田中委員長 防災のときの事業者の責任については、もう少しこれから確かめていく必要があることは事実です。だけれども、基本的には安全の担保は事業者にあるということも事実です。
○記者 確かめていくというのが、ちょっとよく分からないのですが。
○田中委員長 事故時の被ばく線量とか、そういうことについて、ある程度そういう場合に、事業者に対しては、従業員に対してきちんとそういう約束をしていただくとか、そういうことがいずれ必要になると思っていますけれども、まだそこまで届いていないというところもあります。
○記者 その状態で仮に動かしても、それは今の基準では仕方がないという、そこまで求められないということでしょうか。
○田中委員長 そうですね。そういうふうには私はならないと思いますし、先程も申し上げたような手順を踏んでおいた方が間違いないだろうということはありますけれども、今、そういうことについて、事業者の方から、そういうことがあるとは聞いていませんし、何かそんなことが問題になりそうですか、市村(市村知也 安全規制管理官)さん。ならないよね。

まず、防災の時の安全性確保は事業者側の責任であることを強調し、その際の手順を定めていないことは認めつつも、事業者側からそういうことは聞いていないし、そういうことは問題にならないと言い放っているのである。

そして、政権側が規制委員会が責任をもって安全かいなかをチェックしているのであるから、規制委員会の判断に全てを委ねると発言していると記者から質問されると、田中は次のように答えている。

政治家は政治家の発言がありますので、私から何か申し上げることではないと思っています。私どもは、ゼロリスクということはいつも申し上げられないから、安全というとゼロリスクと誤解されるので、そういうことを申し上げていますけれども、政治的にはわかりやすい意味で安全だということをおっしゃったのかも知れませんし、これは政治家と私の発言とが同じであることは多分ないと思います。

原子力規制委員会の任務は新規制基準の「適合性審査」であって、「安全審査」ではないという田中俊一原子力規制委員長の姿勢は、2014年12月17日に行なわれた高浜原発の「適合性審査」の発表のときにも見られた。この際、次のようなやりとりがなされている。

○記者 ロイターのハマダです。簡潔な質問です。高浜3・4号機の審査書案で両号機は安全と確認されたのでしょうか、そうでないのでしょうか、どちらでしょうか。
○田中委員長 我々の新しい安全要求というか、規制基準に適合しているということを認めたということです。
○記者 それは安全なのでしょうか、安全ではないのでしょうか。
○田中委員長 そういう表現の仕方は私は基本的にとらないと言っています。
○記者 では、安全だということではないということでよろしいですか。
○田中委員長 安全ではないとも言っていません。安全だとも言っていません。
○記者 ○か×かであれば、どちらでしょうか。
○田中委員長 ○か×かという言い方はしません。
http://www.nsr.go.jp/kaiken/data/h26fy/20141217sokkiroku.pdf

そして、再び、このようなことを言っている。

○記者 すみません。朝日新聞のカワダと申します。先程高浜の関係で、安全とも安全ではないとも言わないという話だったのですけれども、先日、安倍首相が会見で、いわゆる規制委が再稼働に求められる安全性を確認した原発については再稼働を進めるという表現をされたのですが、再稼働に求められる安全性というのは確認できたという理解でしょうか。
○田中委員長 言葉遊びになってしまうからね。総理は政治家だから、いろいろなそういう言い方をされますよ。分かりやすくという意味で。でも、私の方は、安全とか安全でないとか、安全が確認されたとか安全でないことが確認されたとかそういう言い方ではなくて、稼働に際して必要な条件を満たしているかどうかということの審査をしたということです。そのことイコール、では事故ゼロかというと、そんなことはないだろうというのは、どんな科学技術でもそういう側面がありますので、そこのところも誤解がないようにということで申し上げているし、逆にそう言ってしまうと、我々自身のワークフィットが典型的ですけれども、そういったことができなくなってしまうということがありますので、そこはやはり少し曖昧かも知れないけれども、そこが非常に大事な考え方だとは思っています。

なんというか…。ここまで田中俊一原子力規制委員会委員長の発言をおってみると、「原子力に対する確かな規制を通じて、人と環境を守ること」を使命とするという組織の長としては、あまりに無責任だと思わざるをえない。田中は、7月16日の会見で新規制基準の安全性は世界において「ほぼ最高レベルに近い」と述べており(ただ、ここでも断言はしていない)、以前よりは基準は厳しく、相対的には安全性は高まったといえる。しかし、田中自身が認めているように、3.11以後、原発への不安が高まった国民との合意によって新規制基準ができたとはいえず、前述したように、これとても絶対的に安全とは田中自身が断言できないものなのである。

もちろん、どんな規制も、現在の知見に依拠した「暫定的」なものでしかないともいえる。その意味で、原子力規制委員会の組織理念のいうように「原子力にかかわる者はすべからく高い倫理観を持ち、常に世界最高水準の安全を目指さなければならない。我々は、これを自覚し、たゆまず努力することを誓う」ことは必要なことだろう。しかし、前述してきたように、その姿勢はみられない。避難計画も電力会社への規制も自身の権限外として放置し、暫定的なものでしかない「新規制基準」がいつのまにか「金科玉条」とされ、その「適合性」のみを審査し、結果としての安全性の確保は等閑視しているのである。

そもそも、「新規制基準」自体が原子力規制委員会が策定したものであり、彼ら自身が見直しできるはずである。しかし、現行の新規制基準を再検討する姿勢はみられない。将来の検討課題にもなっていない。現行の新規制基準以上に安全性を確保することは、事業者=電力会社、自治体、国に丸投げなのである。もちろん、これは、委員長田中俊一の個人だけの問題ではないだろう。新規制基準をより厳しくすれば、田中の立場が危うくなるだろうと考えられる。それでも、田中個人には「辞任」という選択肢はあるだろう。組織理念とは全く違った運営になっているのだから。しかし、田中は、自身の責任は全く等閑視しているのである。

他方で、国は、前述してきたように、安全性の確保は原子力規制委員会の責任としている。安全性確保を組織理念でうたっている原子力規制委員会が絶対的安全は保障できないとし、国は原子力規制委員会が安全性について責任をもつという。両者とも、「権限への逃避」を行なって結果責任を回避しようとしている。それでは、原発の安全性については、どこが責任をもつのだろうか。

まさに、この局面において、丸山真男のいうところの「日本ファシズム支配の厖大なる『無責任の体系』」(『増補版 現代政治の思想と行動』、未来社、1964年)の一端が再現されているといえる。田中俊一の記者会見の速記録を読んでいると、丸山などが記述している東京裁判の被告や証人たちの証言を彷彿させる。ただ、一つ言えるのは、3.11以前には、たぶん、こういう言説を原子力規制当局は発しなかっただろう。彼らは、たぶん、安全性が確保できないと内心思っていても「安全神話」をふりまいていただろう。そういう「安全神話」が消滅した3.11以後、国にしても原子力規制委員会にしても電力会社にしても「危機」に直面しており、その「危機」によって、潜在的には内在していた「無責任の体系」が再び現出しているといえるのではなかろうか。

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さて、先回は、御嶽山噴火によって再びクローズアップされた川内原発の噴火リスクを懸念する声に対し、原子力規制委員長田中俊一が、御嶽山の水蒸気噴火と川内原発で懸念されている周囲の巨大カルデラ火山噴火を同一視するのは「非科学的」であり、そういう場合は「予知」して、原子炉停止や核燃料搬出のような対策がとれるはずとし、さらに、一万年に一回というような巨大カルデラ噴火はここ30-40年間にはこないし、そのような天災を考慮して社会的活動を抑制することはできないと述べたことを紹介した。

より明確に、「安全対策をとっているから大規模噴火でも川内原発は安全である」と国会答弁で主張したのが安倍首相である。まず、次のテレビ朝日のネット配信記事(10月3日配信)をみてほしい。

安倍総理大臣は、鹿児島県の川内原発の再稼働について、桜島などが御嶽山よりはるかに大規模に噴火した場合でも、安全性は確保されていると強調しました。

 民主党・田城郁参院議員:「予知不能であったこの噴火は、自然からの警鐘として受け止めるべき。川内原発の再稼働を強引に推し進める安倍政権の姿勢を認めるわけにはいきません」
 安倍総理大臣:「桜島を含む周辺の火山で今般、御嶽山で発生したよりもはるかに大きい規模の噴火が起こることを前提に、原子炉の安全性が損なわれないことを確認するなど、再稼働に求められる安全性は確保されている」
 安倍総理は、「いかなる事情よりも安全性を最優先させ、世界で最も厳しいレベルの規制基準に適合した」と強調して、川内原発の再稼働に理解を求めました。
http://news.tv-asahi.co.jp/news_politics/articles/000035888.html

確かに、川内原発の安全審査は、従来の桜島噴火以上の規模の噴火を考慮にいれてなされている。しかし、巨大カルデラ火山噴火は、想像を絶する規模のものである。九州電力も、過去の巨大カルデラ噴火で川内原発所在地にまで火砕流が及んだことが三回あった可能性を認めている。この地域における人間社会の存続すら揺るがす規模の巨大カルデラ噴火に対して、原発が安全であるということはできない(もちろん、これは、原発だけの問題ではないが)。田中俊一は、さすがに巨大カルデラ噴火において原発が安全であるとはいっていない。予知できるから対策がとれる、頻度が小さい現象だから、すぐにおきることは想定できないといって言い抜けているのである。

安倍首相の発言は、田中俊一の発言と齟齬している。安倍首相の考える「大規模噴火」は、せいぜいが「桜島噴火」以上の規模のものでしかなく、問題になっている「巨大カルデラ火山噴火」について指していないのである。

これは、どういうことなのであろうか。結論的にいえば、川内原発で対策されている「大規模噴火」と、そもそも運転停止や核燃料搬出などの対策しかとれない「巨大カルデラ噴火」が、意図的にか非意図的にか不明だが、混同されているのである。

一般的には、このような混同は、「無知」であるためと認識され批判される原因となる。統治責任のある首相であればなおのことだ。しかし、レトリックでみると、いろいろ根拠をあげて「合理的」に装おうとしている田中の発話より、根拠をあげずにとにかく「安全」である言い切っている安倍首相の発話のほうが、よりインパクトがあるといえる。昨年のオリンピック誘致時に、あれほど問題が山積していた福島第一原発を、一言で「アンダーコントロール」と述べた時と同様である。安倍首相についていえば「無知は知にまさる」のである。

ただ、これは、安倍政権(安倍首相個人はどうだかわからないが)が何も考えていないということを意味しない。たぶん、宣伝戦略の「知」に基づいているのだろう。ある商品の宣伝にタレントを使う場合、その商品についてタレントが知っている必要はない。むしろ、欠陥も含めた商品の実態に「無知」であるほうが、シナリオに基づいて理想的に語ることができるだろう。そう考えると、いろいろ根拠をあげて「知的」に語ろうとする田中俊一の発話よりも、「安全だから再稼働」ということしかいわない安倍首相が、レトリックの上では「説得的」ともいえる。「無知は知にまさる」としたが、それは、このような宣伝戦略としての「知」に支えられているのである。

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さてはて、福島第二原子力建設準備事務所初代所長に1971年7月に就任した豊田正敏の回想(『原子力発電の歴史と展望』(2008年)をみておこう。豊田は東京大学工学部出身で、工学博士でもあり、後には東電副社長にまでなる。しかし、豊田は「それまで技術中心でやってきたので、立地まで含む地域対応をやらされることになり、いささか面食らった。」と述べている。豊田の回想には、美化されたものが多く、これだけで地域対応が可能であったとも思えないが、豊田の、ある意味では技術者的なありかたがみてとれる。

 用地交渉の大半は終了していたので(それでも苦労したらしいが)、豊田の課題は、原発反対派への対応であった。豊田は次のように回想している。

当時、用地問題はほぼ終わったとは言っても、敷地に隣接する富岡町の毛萱地区では集落をあげて強い反対があり、足を踏みいれることも出来なかった。富岡町の議員の中には原子力発電に強力に反対する社会党及び共産党の議員もおり、楢葉町の議員の中にも共産党の議員もおり、楢葉町の議員の中にも共産党の議員がいた。しかし、こちらの方はしばらくして「俺は楢葉町の共産党員だ。地域の発展を考えてくれるなら反対しない」と言ってくれた。また、両町在住の高校の先生を中心に、「公害から楢葉町を守る会」、「相双地方原発反対同盟」などを結成し反対運動が繰り広げられた。

豊田からすれば、反対派は、富岡町毛萱地区集落、両町の社会党・共産党議員、反対組織の中心であった高校の先生、という三つのグループで構成されていたといえる。このような、明確な反対派の結成は、福島第一原発建設時にはみられなかったものである。

このように反対派が存在する状況に対して、豊田は所員に、東電の供給区域管外に立地させてもらっているという感謝の気持ちで日々地元の人たちに接せよ、ごまかしの説明をして、後から不信感を持たれるなと訓示した。ある意味では、まっとうな訓示である。しかし、豊田自身が、「ごまかしの説明」の後始末をせざるをえなくなった。豊田は、次のように回想している。

着任後暫くして、地元の人に「原子力発電所からは、排気筒から放射能は放出されるが、極めて微量であって人体に害のない程度のものである」と説明したところ、「前からいた立地広報部員は原子力発電所からは、放射能は出しません」と言っていたが、どうかと質問され、「恐らく原子力発電所からは、害のあるような放射能は出さない」というつもりで説明したのではないかと思うと苦しい弁解をした。また、自然放射線は人間が昔からなじんでいるので問題ないが、人工放射線は危険であると思うがどうか」という質問を度々受けた。これに対し、自然放射線も人工放射線も放射線の性質には変わりはなく、人体に対する影響の度合を表す
ミリ・レム(後にミリ・シーベルト)という単位で比べれば影響に変わりはないと説明したが、納得してもらうのに苦労した。

この回想は、福島第一原発事故によって生じた安全性の論議に通じていくものである。地域社会において、原発が受け入れられるには、それほど強固な反対運動が存在していなかった福島第一原発建設においても、完全に「安全」でなくてはならなかった。ゆえに「安全神話」の成立が必要なのであったが、その際、完全に安全とは、いかなる形でも放射能を出さないということが地域社会側の認識であり、立地広報員たちもその線で説明していたといえる。しかし、技術者である豊田は、そのような説明はできなかった。豊田は、放射能は出るが人体に無害な程度であると説明してしまったのである。放射能は出さないから「安全」であると納得していた人々に、新たな不安を与えてしまうことになった。

豊田の回想の後段の質問も、その延長線上にあるだろう。確かに自然放射線も人工放射線も性質は同じだという、豊田の答えは正しい。しかし、原発が出る人工放射線は自然放射線と同程度だとして、両方が加算されれば、自然の放射線の2倍当たることになるが、それでも大丈夫かということが、質問の真意だったらどうであろう。たぶん、そのような質問をされても、豊田は人体に影響がないと答えるであろう。しかし、むしろ、やはり2倍放射線を受けるのかと認識された可能性がある。1+1は2なのである。

いったい、どの程度放射線を受ければ、人体に害を受けるのか。急性症状はわかるが、慢性症状はわからない。放射能を出さないことが不可能ならば、どの程度ならば人体に害がないのか。それは、今この時になっても、合理的基準が見当たらないといえる。豊田は、それがあると思っていたようだが、それは科学的訓練を受けた人物にも理解できないものであった。豊田は、ある反対派の医師と対話した状況を、次のように書き留めている。

また、富岡町の東北大学医学部出身の開業医が、原子力発電所からは放射能が放出され、危険であるから反対であると主張されていた。筆者は、東大、吉沢教授よりも直接教えてもらっていたし、当時、放射線審議会の委員もしていたので、直接説得に当たることにした。原子力発電所から放出される放射能は、この程度のもので人体に対する影響は自然放射線や航空機旅行の際、受ける放射線に比べても小さく問題ないといった趣旨の話を5~6回会って説明し、結局、最後に「まだ十分納得していないが、お前がそれだけ熱心に言うのだから、間違いないだろう。お前を信用して了承する」という返事であった。筆者としては、当方の説明がうまくなかったのか、相手が頑固な上に放射線の医学的知識に乏しかったのかの何れかであると思っているが、十分説得するまでに至らなかったことは、甚だ残念であった。

所長としては、ここまで説得すれば十分だと思うのだが、技術者としての自負が強い豊田は、論理的に説得できなかったことに不満をもらしている。確かに、その医師は、放射線の医学的知識に乏しかったのであろうが、豊田は専門家であり、一応科学的訓練を受けている人物すら納得させることができないという状態であったのである。

それでも、豊田の反対派への説得は多少効果をあげてきたようである(ただ、どうも、彼の説明というより、前述の医師のように、彼の人間性を信用するということらしいのだが)。しかし、それをぶち壊すのが、先行して建設された福島第一原発のトラブルであった。豊田は、このように説明している。

高校教師を中心とした反対運動は引き続き活発に行われていたが、原子力発電に対する一般町民への理解は徐々に深まっていった。毛萱地区でも当方の話を聞いてくれるようになった。ところが、その当時隣の福島第1原子力発電所で度々トラブルが起こっており、町の議会で説明を求められたりしたが、トラブルの起こる度に町民が不安感を持つこととなり、また、最初から理解活動をやり直さなければならなかった。

結局、例え、豊田の説明が理解されたとしても、実際の原発がトラブルを起こしているのでは、「安全」はいかなる意味でも納得されない。豊田の説明を了解するには、先行する福島第一原発を、トラブルなしで運転することが最低限必要であっただろう。それは、全く今と同じである。

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樅の木会・東電原子力会編『福島第一原子力発電所1号機運転開始30周年記念文集』(2002年3月)にある東京電力調査事務所土木課長Sの回想をもう少し紹介しておこう。

前述のように、用地買収も進展したので、東電は原発建設のため、現地に東京電力調査事務所を設置し、Sも土木課長として大熊町に赴任した。しかし、用地買収の大半は容易に終了したのであるが、構外進入道路工事などは残っており、その測量で地権者や地元住民から反対論が噴出した。この件をSは次のように述べている。

早速S(大熊町長。イニシャルのみ記す)町長に連絡して地元の人達に集まってもらうことになった。敷地の入口に近い道路交差点の角地にある雑貨店の丸添商店の2階で対話することになった。
原子力発電は原子爆弾と同じように危険であるというのが町民の声であった。
そこで私は答えた。「皆さんは原爆がどのようなものかご存知か、私は原爆を投下したB29とそのあと空に舞い上がったきのこ雲を見ている。多くの負傷者の看護にも当たった。その上私の兄も原爆で戦死した。皆さん以上にその恐ろしさは身に染みて知っている。従って皆さん以上に真剣に原子力発電について勉強しました。原子力発電は核反応を静かに優しく行うように考えられておりその反応が万一予想以上に進むときは2重3重の防御を行い、これでもかこれでもかと安全対策をしているので私は安全だと信じています。いささかの不安があればいくら会社の方針とはいえ肉親を失った私は会社に従わない。何も東京電力しか勤めるところがない訳ではないから私は東京電力を止めます。皆さん今まで申し上げた通り原子力発電は安全ですからご安心下さい。町長さんからお話があれば私共は従います。」と一生一代の熱弁をふるった。しばらく沈黙が続いた。やがて町長が「土木課長がこうおっしゃるのですから、原子力発電は安全だし、いつでも私共の話を聞いて貰えるのですから私に委して下さい。道路が完成すれば幅も広く、路面も舗装され我々にとって大変便利になります」と云はれ出席者一同から賛同を得た。この日を期して構外進入道路工事は測量、建設と順調に進捗していった。

Sのこの回想は、重要なことをしめしている。住民は、原爆に恐怖し、それと同様なものとして原子力発電をとらえ、ゆえに原子力発電も危険であると認識している。原爆被爆国の日本によくみられる思考回路といえよう。しかし、Sは、自分は原爆をみた、負傷者の看護にもあたった、自分の兄も原爆で戦死した、大熊町民よりも、身に染みて原爆の恐怖は知っているとした。それゆえに、原子力発電について真剣に勉強した、原子力発電は核反応を静かに行い、二重三重に安全対策を行っているから、安全であると力説したのである。

簡単に概括すれば、原爆体験があればこそ、原子力発電の安全対策は万全であるとしたのである。Sの個人史は不明で、原爆体験については、ここにある以上のことはわからない。しかし、「今となっては…」の感はいなめないが、Sのいうことを単なる強弁とはみるべきではなかろう。原爆に被曝した日本であるからこそ、放射能への不安は強い。そして、それは、住民以上に原発に近づく必要のある、現場の東電社員も共有していた。それゆえに、ことさらに「安全」が意識されたのである。まさに、原爆被爆国ゆえに、住民にとっても、現場の東電社員にとっても、より強い「安全神話」が必要なのであった。

この「安全神話」も、単に危険なものを隠蔽するだけのイデオロギーではなかったであろう。「安全」へのこだわりは、より「安全」なものを作り出そうとする原動力になっていたであろうし、そこまで否定する必要はない。Sは、自分の原爆体験があればこそ、会社が安全ではない方針をとるならば、会社をやめるとまでいっている。

とはいっても、やはり「今になっては…」の感はつきまとってしかたないのであるが。

一方、Sは、町長から話があれば従うともいっている。住民の要望は聞き入れるという姿勢をしめしたといえる。町長は、原発は安全だし、住民の要望は聞き入れるといっている、道路が完成すれば便利だといって、その場をおさめた。Sの言動と、町長のとりなしが、住民の反対論を鎮静化していったのである。

総括しよう。原爆に被曝した日本にとって、たぶん放射能への恐怖はどこよりも強いであろう。そして、このような恐怖は、原発を建設し操作する東電社員たちにも共有されていた。そのため、原発を建設するためには、どこよりも強固な「安全神話」が必要であったといえる。

そして、この「安全神話」の崩壊は、原爆体験などを源流とする放射能への強い恐怖を再び呼び起こすことになったといえる。それが、福島だけではない、「われわれ」の現状なのである。

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