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Posts Tagged ‘安倍政権’

もう旧聞になるが、2015年8月11日、九州電力の川内原発が再稼働した。同日、菅義偉官房長官は次のようにコメントしている。

川内原発再稼働、菅官房長官「判断するのは事業者」
 
[東京 11日 ロイター] –
は11日の記者会見で、九州電力(9508.T)の川内原発1号機(鹿児島県薩摩川内市)について「再稼働を判断するのは事業者であり、政府は万が一事故が起きた場合に先頭に立って対応する責任がある」と述べた。川内1号は同日午前10時半に原子炉が再稼働した。

菅長官は、国際原子力機関(IAEA)の基本原則に「安全の一義的責任は許認可取得者にある」と明記されていると指摘。政府は、原子力規制委員会が新規制基準に適合すると認めた場合に、原発の再稼働を進めることを閣議決定していることから、災害の際には国が迅速に対応する責任があると語った。

その上で、「再稼働にあたっては地元の理解が得られるよう丁寧に取り組んでいくことが極めて重要」との見方を示した。http://jp.reuters.com/article/2015/08/11/suga-sendai-nuclear-idJPKCN0QG08U20150811

それ以来、伊方原発他、日本各地の原発再稼働への動きがさかんに報道されている。つい最近は、安倍改造内閣で新規に復興担当大臣となった福井県選出衆議院議員である高木毅が、10月7日の就任記者会見で東北の被災地にある女川原発と福島第二原発を再稼働させることもありうると話している。

「被災地原発 基準適合なら再稼働」 就任会見で高木復興相

2015年10月8日 朝刊(東京新聞)

 高木毅復興相(衆院福井2区)は七日夜の首相官邸での就任記者会見で、東日本大震災で被災した東北三県にある東京電力福島第二原発(福島県楢葉町、富岡町)と東北電力女川原発(宮城県女川町)を再稼働させる可能性について「原子力規制委員会が世界で最も厳しい水準の新規制基準に適合すると認めたもののみ、再稼働を進めるのが政府の一貫した方針で、私もそうした考えだ」と述べた。被災地以外の原発と同様に新規制基準を満たせば、再稼働することもあり得るとの考えを示した。
 安倍政権が進める原発再稼働路線を踏まえた発言。福島第一原発事故で大きな被害を出し、現在も多くの避難者がいる福島などの復興を担う閣僚の発言に対し被災地の住民や野党から批判が出る可能性がある。
 高木氏は原発が数多く立地する福井県選出。自民党では原発の早期再稼働を求める議連の事務局長も務めてきた。
 高木氏は会見で「私の地元は、原発とともに生きてきたといって過言ではない地域。非常に残念な福島の事故が起きてしまったことは、本当に重く受け止めなければならない」とも述べた。
 再稼働の手続きは、女川原発1~3号機のうち2号機のみ規制委の審査中。福島県議会は原発事故後の二〇一一年、福島第二原発の廃炉を求める請願を採択している。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201510/CK2015100802000127.html

これらの報道を見聞きするにつけ、政府側は原子力規制委員会の規制基準に適合するから再稼働を認めるというばかりで、なぜ再稼働が必要なのかということはほとんど言っていないという印象を受ける。菅官房長官にいたっては「再稼働を判断するのは事業者」と言い切っている。しかし、「政府は万が一事故が起きた場合に先頭に立って対応する責任がある」といっている。事故が起きたとき、責任をとるのは、事業者でなくて、政府なのだ。全く割に合わない。

野田政権が2012年に大飯原発の再稼働を決めたときは、電力不足により国民生活・国民経済に支障を来すためと、偽善的ではあったが、とにかく理由を述べて、人々の合意を得ようとしていた。安倍政権における再稼働については、原子力規制委員会により「安全」の保証が得られたというばかりで、人々の合意を得ようとは全くしていないのだ。今でも、半数程度が再稼働に反対という民意が各世論調査で示されているにもかかわらず、だ。

原発再稼働についての問題は重大事故時の安全性の確保だけではない。放射性廃棄物はどう処理するのか、老朽原発はどうするのか、平常の運転時でもまぬがれない労働者の被曝についてどのように対処するのか、いろいろな問題がある。そして、そもそも、汚染水、賠償、除染、避難、廃炉など、福島第一原発事故の処理はどうなっているのだろう。「政府は万が一事故が起きた場合に先頭に立って対応する責任がある」と口ではいうが、実際はこの通りだ。

そういうことすべてに、偽善的な言い訳すらしないのだ。安保法制制定過程でみられた、対話による合意獲得の努力を一切しない安倍政権の姿勢が、再稼働問題でも顕在化しているのである。

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現在、安倍政権によって、集団的自衛権を核とする安全保障法制制定が着々と進められている。それに対し、元自民党の有力者など保守派の人びとも含めて、広い範囲でデモや抗議活動が国会前はじめ、全国津々浦々で行なわれている。8月30日には、国会前で12万人が抗議活動に参加し、全国では30万人が運動に参加したといわれている。

他方、保守派も含めて安保法制反対運動に集め、多数派を形成することへの懸念も表明されている。例えば、優秀な在日朝鮮人史研究者である鄭栄恒は、【朴露子-鄭栄桓 教授対談】「過去に囚われるのをやめようという『韓日和解論』、中国と対立を呼ぶリスク」の中で、このように発言している。

鄭「日本の歴史修正主義を見る時は二つの対象を見なければならない。一つは、韓国でも批判する45年前の歴史修正主義だ。もう一つは、日本の敗戦後の歴史修正主義だ。 (日本の戦後の歴史と関連して)90年代までの日本のリベラルや進歩は、日本の歴代政権が平和憲法を正しく守らないと主張してきた。日本を真の平和国家にするための批判とみることができる。しかし今の進歩勢力は、戦後日本の歴史そのものを美化し、平和国家を安倍政権が破壊しているとのスタイルで批判する。新自由主義の影響のせいか、高度成長期の日本を破壊するなと装飾した批判もする。つまり、80年代以前の自民党政権に対する評価を大きく変えている。これらリベラルの主張に対して保守も同意する。だから安倍政権との対立は激しくなっているように見えるが、日本の進歩と保守がほぼ同じ戦後史の歴史像を持っていることが分かる。もちろん日本の安倍晋三首相の修正主義的な歴史認識や植民地支配を内心では肯定しようとする態度に対する批判も必要だが、日本戦後史の修正が行われているという点についても批判的な介入が必要だ。」
http://east-asian-peace.hatenablog.com/entry/2015/09/03/061508

確かに表面的に見れば、そういう指摘も可能なのかもしれない。安保法制反対運動のスローガンの一つは「安倍晋三から日本を守れ」である。鄭栄恒は「日本の進歩と保守がほぼ同じ戦後史の歴史像を持っていることが分かる」としている。しかし、本当に、鄭栄恒のような見方だけでよいのだろうか。

周知のように、現在の安保法制反対運動を主導しているグループの一つに”Students Emergency Action for Liberal Democracy s”(自由と民主主義のための学生緊急行動 略称SEALDs)がある。このSEALDsの関西での組織であるSEALDs KANSAIの一員である大澤茉実は「SEALDsの周辺から 保守性のなかの革新性」という文章を『現代思想』10月臨時増刊号「総特集 安保法制を問う」によせている。大澤は次のように言っている。

いま、運動に参加する若者たちが共有する内的衝動に、原発事故による価値観の転換(既存の権威の失墜と社会運動の必要性・可能性の再発見)に加え、今日より明日はよくならない停滞の時代を生きるためのサバイバル的人生観があると感じている。だから、若者が運動に参加するとき、基本的な目標は「これ以上状況を悪化させるな」となるし、それは保守性を帯びることになる。私は、その表面的な部分に抵抗感を持っていたわけだが、運動に飛び込んで、その保守性のなかには、同時に私たちの世代が持つ革新性が編み込まれていると感じるようになった。
 経済成長が続き、「パイ」の総体が大きくなっていく時代には、権威主義的な組織のなかでがむしゃらに働くことが個人にとっても社会にとっても豊かさを実現する道であったのかもしれない。しかし、停滞の時代にあっては既存の組織は現状維持を図るために往々にして個人を犠牲にする。若い世代にとって、これからの人生を一つの組織(とりわけ企業)に依存して生きることは現実的でないし、また望ましい選択肢でもなくなっている。そのなかで、私たちは、いまある「パイ」の活用や分配のあり方に敏感になっている。つまり、将来的に「パイ」が大きくなるという希望的観測を理由に、周辺的な立場の者への分配が後回しになることに拒否感を持つのだ。そういった、日常レベルでの知恵や実践が「日常を守りたい」という保守性の内部に脈打っている。具体的には、先述した「個人の集まり」としての組織のあり方である。かつてなら大きな権威によって無下にされたであろう「わたし」たちも、政治的発言権を手に入れはじめた。それが、個人も社会も豊かにするのだと、肌感覚で知っているのである。
 経済の停滞が形成した私たちのサバイバル的な人生観は、なによりもまず日々を生き抜くことを至上命題とする。そのため、表面的には若者は保守的で政治に無関心に映るかもしれないが、現実にはさまざまな試行錯誤を経験しながら激烈な「政治」を生きている。
 そのことが、民主的で柔軟な組織をつくるための創意工夫につながる。そしてそれは、与えられた現実のなかでより賢く生きるために私たちが持ちはじめた強かな革新性なのだ。その実感があるからこそ、私は運動に一片の希望を抱く。

大澤は、まず、権威が失墜し社会運動の必要性・可能性が再発見されていった原発事故による価値観の転換をあげている。そのうえで、経済成長が続き「パイ」の総体が大きくなっていき、権威主義的な組織のなかで自己実現がはかれた時代と、経済が停滞し、権威主義的な組織のなかで依拠して生きることは非現実的かつ無意味で、既存の「パイ」の活用や分配に敏感になった自分たちの時代を画然とわけている。そして、「今日より明日はよくならない停滞の時代を生きるためのサバイバル的人生観があると感じている。だから、若者が運動に参加するとき、基本的な目標は「これ以上状況を悪化させるな」となるし、それは保守性を帯びることになる。」と主張しているのだ。その中で形成された「民主的で柔軟な組織をつくるための創意工夫」を、大澤は「与えられた現実のなかでより賢く生きるために私たちが持ちはじめた強かな革新性なのだ」としているのである。

ここには、むしろ、ある意味で原発事故による価値観の転換を契機にした、戦後日本社会から断絶されてしまったという現代社会に対する歴史意識があるといえる。そして、現在の、「今日より明日はよくならない停滞の時代」への憤懣と、「これ以上状況を悪化させるな」という危機感が表出されているのである。つまりは、「現在」をどう認識し、どのように行動していくかが課題なのである。

そして、最早、高度経済成長の時代ではある意味で生存を保障していた、企業などの権威主義的な組織に依拠して生活するということは意味をなさないものとして認識され、それとは別の、オルタナティブな組織をつくっていくことが目指されている。そういうことを前提に「安倍晋三から日本を守れ」というスローガンを聞いた時、その「日本」が少なくとも戦後「日本」そのままなのだろうかと考えるのである。

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2015年6月13日現在、日本社会の一大関心事(なお、NHKその他のテレビは別だが)となっているのは、安倍政権の安全保障関係法制立法の動きである。しかし、その一方で、それこそ目立たない形で、福島第一原発事故被災者の切り捨てが進行している。

まず、自民党は、5月21日に震災からの復興に向けた第五次提言をとりまとめ、「避難指示解除準備区域」と「居住制限区域」の避難指示を2017年3月までに解除し、両区域住民への慰謝料支払を2018年3月に終了する方針を打ち出した。それを伝える東京新聞のネット配信記事をみてほしい。

自民復興5次提言 原発慰謝料18年3月終了 避難指示は17年に解除

2015年5月22日 朝刊

 自民党の東日本大震災復興加速化本部(額賀福志郎本部長)は二十一日、総会を開き、震災からの復興に向けた第五次提言を取りまとめた。東京電力福島第一原発事故による福島県の「避難指示解除準備区域」と「居住制限区域」の避難指示を二〇一七年三月までに解除するよう正式に明記し、復興の加速化を政府に求めた。 
 賠償では、東電が避難指示解除準備区域と居住制限区域の住民に月十万円支払う精神的損害賠償(慰謝料)を一八年三月に一律終了し、避難指示の解除時期で受取額に差が生じないようにする。既に避難指示が解除された地域にも適用するとした。
 提言は自民党の総務会で正式決定後、今月中に安倍晋三首相に提出する。額賀本部長は「古里に戻りたいと考える住民が一日も早く戻れるよう、生活環境の整備を加速化しなければならない」と述べ、避難指示解除の目標時期を設定した意義を強調した。
 だが、福島県の避難者からは「二年後の避難指示解除は実態にそぐわない」と不安の声も上がっており、実際に帰還が進むかどうかは不透明だ。
 避難指示区域は三区域あり、居住制限区域と避難指示解除準備区域の人口は計約五万四千八百人で、避難指示区域全体の約七割を占める。最も放射線量が高い「帰還困難区域」については避難指示の解除時期を明示せず、復興拠点となる地域の整備に合わせ、区域を見直すなどする。
 集中復興期間終了後の一六~二〇年度の復興事業は原則、国の全額負担としながらも、自治体の財政能力に応じ、例外的に一部負担を求める。
 また一六年度までの二年間、住民の自立支援を集中的に行うとし、商工業の事業再開や農業再生を支援する組織を立ち上げる。その間、営業損害と風評被害の賠償を継続するよう、東電への指導を求めるとした。
 提言には、第一原発の廃炉、汚染水処理をめぐり地元と信頼関係を再構築することや風評被害対策を強化することも盛り込まれた。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2015052202000117.html

そして、6月7日、東京電力は避難指示区域内の商工業者に払っている営業補償を2016年度分までで打ち切る方針を提起した。東京新聞の次のネット配信記事をみてほしい。

福島第一事故 営業賠償 16年度まで 東電方針

2015年6月8日 朝刊

 東京電力は七日、福島第一原発事故の避難指示区域内の商工業者に支払っている営業損害賠償を二〇一六年度分までとし、その後は打ち切る方針を明らかにした。同日、福島市内で開かれた、福島県や県内の商工団体などでつくる県原子力損害対策協議会(会長・内堀雅雄知事)の会合で示した。
 方針は与党の東日本大震災復興加速化プロジェクトチームが五月にまとめた第五次提言を踏まえた措置。事故による移転や転業などで失われる、一六年度までの収益を一括して支払う。事業資産の廃棄に必要な費用なども「必要かつ合理的な範囲」で賠償するとしている。
 東電の広瀬直己社長は「個別の事情を踏まえて丁寧に対応していく」と述べた。
 営業損害の賠償をめぐっては、東電が一時、来年二月で打ち切る案を提示していたが、地元から強い反発を受けて撤回した。一方、与党は第五次提言で、国が東電に対し、一六年度まで適切に対応しその後は個別の事情を踏まえて対応するよう指導することを明記した。
 商工業者の支援に関し、安倍晋三首相は先月三十一日、官民合同チームを立ち上げ県内の八千事業者を個別に訪問し、再建を後押しする方針を示している。
 会合に参加した団体からは、国や東電に「風評被害は依然残っており、賠償は続けるべきだ」「被害者に寄り添った賠償をお願いしたい」など、継続的な賠償を求める意見が相次いだ。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/economics/news/CK2015060802000120.html

他方、福島県は、自主避難者に対して行っている無償での住宅提供を2017年3月までで打ち切ることを5月頃より検討している。これは、たぶん、自民党の第五次提言と連動しているのだろう。そのことを報じる朝日新聞のネット配信記事をみてほしい。

自主避難者への住宅提供、2年後に終了へ 福島県が方針
2015年5月17日13時02分

 東京電力福島第一原発事故後に政府からの避難指示を受けずに避難した「自主避難者」について、福島県は避難先の住宅の無償提供を2016年度で終える方針を固め、関係市町村と調整に入った。反応を見極めた上で、5月末にも表明する。故郷への帰還を促したい考えだ。だが、自主避難者からの反発が予想される。

 原発事故などで県内外に避難している人は現在約11万5千人いる。このうち政府の避難指示の対象外は約3万6千人。津波や地震の被災者を除き、大半は自主避難者とみられる。

 県は災害救助法に基づき、国の避難指示を受けたか否かにかかわらず、避難者に一律でプレハブの仮設住宅や、県内外の民間アパートなどを無償で提供している。期間は原則2年だが、これまで1年ごとの延長を3回し、現在は16年3月までとなっている。

 今回、県はこの期限をさらに1年延ばして17年3月までとし、自主避難者についてはその後は延長しない考え。その際、終了の影響を緩和する支援策も合わせて示したいとしている。国の避難指示を受けて避難した人には引き続き無償提供を検討する。
http://www.asahi.com/articles/ASH5J5H83H5JUTIL00M.html

さらに、6月12日、ほぼ自民党の第五次提言を踏襲して、安倍政権は福島の復興指針を改定し、閣議決定した。「居住制限区域」と「避難指示解除準備区域」の避難指示を2016年度末(2017年3月)までに解除し、慰謝料支払も2017年度までで打ち切るというもので、ほぼ自民党の第五次提言にあったものだ。2016年度までで営業補償を打ち切ることも盛り込まれた。ただ、2016年度までに被災者の「事業再建」を「集中支援」するというのである。東京新聞のネット配信記事をみてほしい。

避難解除 17年春までに 生活・健康…不安消えぬまま

2015年6月12日 夕刊

 政府は十二日、東京電力福島第一原発事故で多大な被害を受けた福島の復興指針を改定し、閣議決定した。「居住制限区域」と「避難指示解除準備区域」の避難指示を、事故から六年後の二〇一六年度末までに解除するほか、事業再建に向けて一六年度までの二年間に集中支援する方針を盛り込み、被災者の自立を強く促す姿勢を打ち出した。 
 避難住民の帰還促進や、賠償から事業再建支援への転換が柱。地元では帰還への環境は整っていないと不満の声もあり、被害の実態に応じた丁寧な対応が求められる。
 安倍晋三首相は官邸で開かれた原子力災害対策本部会議で「避難指示解除が実現できるよう環境整備を加速し、地域の将来像を速やかに具体化する」と述べた。
 居住制限区域など両区域の人口は計約五万四千八百人で避難指示区域全体の約七割を占めるが、生活基盤や放射線による健康被害への不安は根強く、避難指示が解除されても帰還が進むかは不透明。東電による「居住制限区域」と「避難指示解除準備区域」の住民への月十万円の精神的損害賠償(慰謝料)支払いは一七年度末で一律終了する。一六年度末より前に避難指示が解除された場合も一七年度末まで支払い、解除時期で受取額に差が生じないようにする。既に避難指示が解除された地域にも適用する。
 一方、第一原発に近く依然、放射線量が高い「帰還困難区域」の解除時期は明示しなかった。
 被災地域の事業者に対しては事業再建に向けた取り組みを一六年度までの二年間に集中的に実施。商工業者の自立を支援するための官民合同の新組織を立ち上げ、戸別訪問や相談事業を行うほか、営業損害や風評被害の賠償は一六年度分まで継続する。
 東電は既に今月七日、福島県に対し、避難指示区域内の商工業者に支払っている営業損害賠償は一六年度分までとし、その後は打ち切る方針を示している。
◆きめ細かな対応必要
 <解説> 福島復興指針の改定で政府は、福島県の居住制限区域と避難指示解除準備区域の避難指示の解除目標時期と賠償の終了時期を明示し、住民の自立を促す方針を打ち出した。政府はこれまでの「賠償」という形から「生活再建支援」に移行したい考え。しかし住民の置かれた状況はまちまちで、福島では「賠償の打ち切りだ」との反発も多い。
 除染やインフラ整備が完了しても、商圏自体を失った企業の再建や、避難に伴い住民がばらばらになったコミュニティーの再生は容易でない。既に避難指示が解除された地域でも帰還が進んでいないのが実情だ。政府や東電は、無責任な賠償打ち切りにならないよう、分かりやすい説明と、個々の被災者の状況に応じたきめ細かな対応に努める必要がある。
 震災復興、原発事故対応には多額の国費が投入されている。被災地への関心の低下が指摘される中、国民への丁寧な説明も引き続き求められる。 (共同・小野田真実)
■改定指針のポイント■
▼福島県の居住制限区域と避難指示解除準備区域の避難指示を2016年度末までに解除。
▼両区域の住民への精神的損害賠償(慰謝料)の支払いを17年度末で一律終了。早期解除した場合も同等に支払う。
▼16年度までの2年間を集中的に事業者の自立支援を図る期間として取り組みを充実。事業者の自立を支援する官民合同の組織を創設し、戸別訪問や相談事業を実施。
▼原発事故の営業損害と風評被害の賠償は16年度分まで対応。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2015061202000266.html

これらの措置が、福島県の被災者の生活を大きく揺るがすことは間違いない。特に重要なことは、「居住制限区域」も2017年3月までに避難指示を解除するとしたことである。「避難指示解除準備区域」は放射線量年間20mSv以下で、それでも福島県外の基準である1mSvの20倍で、かなり高い。「居住制限区域」は20−50mSvであり、もちろん、より高い。そこも含めて、避難指示を解除しようというのである。いかにも、安倍政権らしい、無茶苦茶で乱暴な措置だ。

ある程度は、除染その他で「居住制限区域」でも線量は下がっているとは思われる。しかし、それならそれで、空間線量を計測して、20mSv以下の線量になったことを確認して、「避難指示解除準備区域」に編入するという手続きが必要だろう。そういうことはまったくお構いなしなのだ。このような状態だと、福島県民の放射線量基準は、福島県外の50倍ということになりかねないのである。

そして、避難指示解除と連動して、慰謝料や営業補償などの支払いを打ち切るという。つまりは、もとの場所に戻って、東電の支払いに頼らず、3.11以前と同じ生活を開始しろということなのである。そのための支援は講じるということなのであろう。しかし、逆にいえば、自主避難者などの支援は打ち切らなくてはならないということなのであろう。避難指示に従った人びとへの慰謝料・営業補償などは打ち切っていくのに、自主避難者への支援を続けていくわけにはいかないというのが、国や福島県などの考えであると思われる。もちろん、放射線量についてはいろんな意識があり、自民党などがいうように、線量にかまわず「古里に戻りたい」という考えている人はいるだろう。とはいえ、福島県外と比べて制限線量が50倍というのは、やはり差別である。法の下の平等に背いている。それゆえに、自主避難している人たちもいるだろう。そういうことは考慮しないというのが「復興新指針」なのである。何も自主避難している人びとだけではなく、線量が下がらないまま、自らの「希望」にしたがった形で、「帰還」を余儀なくされる人びとも「棄民」されることになるだろう。

良くも悪くも、安全保障関係法制立法の問題のほうに、日本社会の目は向けられている。その陰で、このような福島県民の「棄民」が進行しているのである。

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とにかく、あきれて、物がいえなくなるーこれが福島第一原発事故処理をめぐる状況だ。

まずは、2月22日、福島第一原発の港湾に流れ込む排水路で通常時より高い濃度の放射性物質を含んだ汚染水が流出したという報道がなされた。中日新聞が同日付でネット配信した記事をみてほしい。

港湾内に汚染水流出か 福島第1原発

 22日午前10時ごろ、東京電力福島第1原発敷地内の排水路で放射性物質濃度の上昇を示す警報が鳴った。東電や原子力規制庁によると、ストロンチウムなどのベータ線を出す放射性物質が、最高で普段の70倍以上に当たる1リットル当たり7230ベクレル検出された。原発の港湾内にそのまま流れたとみられるが、流出量は不明。

 午前11時35分ごろに排水路のゲートを閉めるなどの対策を取った。東電などによると、普段の検出値は数十ベクレル程度といい、濃度が上昇した原因やタンクからの汚染水漏えいがないかどうか調べている。

(共同)
http://www.chunichi.co.jp/s/article/2015022201001650.html

そして、2月24日には、別の排水路において、高濃度汚染水が、福島第一原発前の港湾ではなく、直接海洋に流出していたことが東電から発表された。この排水路について、昨年4月から、雨のたびに放射性濃度が上昇することが発覚していたが、東電は一年近くもそのことを公表してこなかったのである。そして、ようやく、汚染源が特定できたとして公表した。NHKがネット配信した記事をみてほしい。

福島第一 高い濃度の汚染水を海に流出か
2月24日 21時14分

福島第一 高い濃度の汚染水を海に流出か
東京電力福島第一原子力発電所2号機で、原子炉建屋の屋上に比較的高い濃度の汚染水がたまっているのが見つかり、雨が降るたびに排水路を通じて海に流れ出していたおそれがあることが分かりました。
東京電力はこの排水路の放射性物質の濃度が雨のたびに上がっていることを去年4月から把握していましたが、公表していませんでした。

東京電力によりますと、比較的高い濃度の汚染水がたまっていたのは福島第一原発2号機の原子炉建屋の屋上の一部で、この水には放射性物質のセシウム137が1リットル当たり2万3000ベクレル、セシウム134が6400ベクレル、ベータ線という放射線を出す放射性物質が5万2000ベクレル含まれていました。
2号機の周囲を通る排水路では、東京電力が去年4月に観測を始めて以降、雨のたびにほかの排水路よりも高い濃度の放射性物質が検出されていて、去年8月にはベータ線という放射線を出す放射性物質が1リットル当たり1500ベクレル、セシウム137が760ベクレル、セシウム134が250ベクレル、それぞれ検出されていました。
しかも、この排水路は原発の港湾内ではなく港湾の外の海につながっていて、東京電力は2号機の屋上にたまった汚染水が雨のたびに排水路を通じて海に流れ出していたおそれがあるとしています。
東京電力は、問題の排水路の放射性物質の濃度が雨のたびにほかよりも上がっていることを去年4月から把握していましたが、今回の調査結果がまとまるまで公表していませんでした。
東京電力は、周辺の海水の放射性物質の濃度に大きな変動はみられていないとしていますが、対策として来月末までに汚染水がたまっていた2号機の屋上や排水路の底に放射性物質を吸着する土のうを敷くとしています。
福島第一原発では22日にも、別の排水路で、ベータ線と呼ばれる種類の放射線を出す放射性物質の濃度が一時、簡易測定で1リットル当たり最大で7230ベクレルと通常の10倍以上の値を示していて、東京電力は「続けて放射性物質を含んだ水が排水路に流入したことで、福島県民をはじめ皆様に、重ねてご心配をかけて申し訳ありません。調査結果を踏まえて速やかに対策を取っていきたい」と話しています。

いわき市漁協「ショック受けている」
汚染された水が流出していたことについて、地元のいわき市漁協の矢吹正一組合長は「これまでの説明と異なり、港の外に汚染水が漏れていたという発表にショックを受けている。東京電力への信頼喪失につながると思う。現在、東京電力から受け入れ要請を受けている建屋周辺の井戸からくみ上げた汚染水を浄化して海に放出する計画にも影響が出かねない。原因究明と対策の徹底を求めたい」とコメントしています。

問題の排水路とは
今回、汚染水が流れ出していたおそれがある排水路は「K排水路」と呼ばれ、福島第一原発の1号機から4号機のすぐ山側を通り、4号機の南側で港の外の海につながっています。
22日、放射性物質の濃度が一時、上昇した排水路は山側のタンクエリアから流れる別の排水路で、こちらはタンクからの汚染水漏れが相次いだのをきっかけに、港の外に出ないようルートが変更されていました。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150224/k10015716031000.html

この記事にもあるように、東電は、福島第一原発周辺の汚染地下水をくみあげ、浄化して海に放出する計画をたて、合意をもとめて福島県漁連と交渉を継続していた。このニュースは、交渉中の福島県漁連にもショックを与えた。2月25日にネット配信した東京新聞の次の記事をみてほしい。

福島第一汚染水垂れ流し 漁連「信頼崩れた」

2015年2月25日 夕刊

 福島県漁業協同組合連合会は二十五日、同県いわき市で組合長会議を開き、東京電力福島第一原発2号機の原子炉建屋屋上から汚染雨水が排水路を通じて外洋に流出していた問題について、東電と国から説明を受けた。東電が問題を把握しながら対策を講じなかったことに、出席者からは「信頼関係が崩れた」「漁業者を甘く見ているのか」と怒りの声が相次いだ。
 内堀雅雄県知事はこの日の関係部長会議で「県民に不安を与える問題が起きたこと、情報が速やかに公表されなかったことは遺憾だ」と述べ、県や地元市町村、専門家でつくる廃炉安全監視協議会の立ち入り調査を近く行う考えを示した。
 東電と国は第一原発の汚染水対策として、建屋周辺の井戸「サブドレン」などからくみ上げた地下水を浄化して海に流す方針で漁業者に理解を求めているが、今回の汚染雨水の流出で反発が強まりそうだ。
 会議では、いわき市漁協の矢吹正一組合長が「以前から分かっていたのになぜ黙っていたのか。漁業者は大ショックで、サブドレンどころではない」と批判。相馬双葉漁協の佐藤弘行組合長も「東電と漁業者の信頼関係が崩れた」と述べた。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2015022502000241.html

東電の対応はあきれるしかない。汚染源は福島第一原発2号機原子炉建屋の屋上にたまっていた放射性物質で、それが雨のたびに排水路に流出したとされている。そもそも、この程度のことを調査するのに、1年近くもかかるのだろうか。そして、たとえ、汚染源が特定されなくても、排水路の出口を港湾内につけかえるとか、水門を設けて汚染水をためておくとか(これらのことが現実的に効果があるかどうかは疑問だが)などの改善策をとることができないものであろうか。多少でも現状を改善しようというより、事態を隠蔽し、対応を少しでも先送りし、このような事象を「なかったことにする」ということが、東電の対応の基本姿勢であったと思われる。そして、これは、日本の原発で常に行なわれてきたことだった。

一方で、安倍政権の菅義偉官房長官は25日の記者会見で次のようにこたえている。ロイターの記事をみてほしい。

菅官房長官「影響は完全にブロック」、福島第1原発の汚染水流出
2015年 02月 25日 17:48 JST

[東京 25日 ロイター] – 菅義偉官房長官は25日午後の記者会見で、福島第1原発2号機原子炉建屋の屋上に溜まっていた比較的高い濃度の汚染水が海に流出していた問題で、港湾外の海水濃度は法令告示濃度に比べて十分に低い数値だと言明。

その上で「港湾への汚染水への影響は完全にブロックされている。状況はコントロールされているという認識に変わりない」と述べた。

東京電力(9501.T: 株価, ニュース, レポート)は、この汚染水流出問題を把握していたが、公表していなかった。今回の東電の対応について菅長官は「(問題を)放置していたわけではない。原因を調査して、溜まり水の箇所が判明したのですぐ対応した」と述べた。
http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPKBN0LT0OK20150225

1年近く、汚染源特定もなんらかの対策もなしていないことは、普通は「放置」というだろう。それを「放置していたわけではない」というのである。さらに「港湾への汚染水への影響は完全にブロックされている。状況はコントロールされているという認識に変わりない」としている。問題の排水路は港湾に直結されていないから、そこへの影響は確かにない。しかし、直接に海洋を汚染するという、より深刻な事態を惹起しているのである。この、形式論的には「正しい」言い逃れは、事態のある種の誤認でなければ、意図的な「虚偽」である。そして、菅官房長官は、福島第一原発を「コントロールしている」のではなく、「マスコミ」を「コントロール」しているのである。

東電側の、事故の隠蔽と対応の先送り。安倍政権側の、虚偽的な言い逃れと、マスコミ・コントロール。東電と安倍政権の考える福島第一原発のコントロールは、このようなことから構成されているといえよう。

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1月7日、フランスの週刊誌シャルリー・エブドがイスラム教の預言者ムハンマドを侮辱した漫画を掲載してきたとして、ムスリムのアルジェリア系フランス人の兄弟2人に銃撃され、12人が犠牲となり、逃亡した2人の容疑者も、逃亡してパリ近郊の工場にたてこもったあげく、射殺された。犠牲者の一人である漫画家のジョルジュ・ウォリンスキ氏はチュニジア生れのユダヤ人で1940年に移住してきたという。また、この事件では、アルジェリア系移民の家庭で生まれたイスラム教徒の警官も犠牲になった。関連して、ムスリムのマリ系移民によりフランスの警官が殺害され、ユダヤ人のスーパーに立てこもり、人質4人が犠牲となり、容疑者も射殺された。

この銃撃事件について、アルカイドもしくはイスラム国などのイスラム過激派の関与があったとされている。それは、たぶん、そうだろう。ただ、シャルリー・エブド銃撃事件については、単なるイスラム過激派が起したテロ事件というにとどまらず、前述したように、ムハンマドを侮辱した漫画を掲載したということへの報復という側面も見受けられる。銃撃したのは、アラブ人などではない。フランスの植民地であったアルジェリア系のフランス人なのである。そして、既述のように、被害者には、アルジェリア系や同じくフランスの植民地であったチュニジア系の人びとが含まれている。

では、どんな「漫画」を掲載していたのか。ハフィントンポストが一部紹介している。著作権で保護されていると思うので、下記のサイトで画像をみてほしい。

http://www.huffingtonpost.jp/2015/01/07/4-cartoonists-killed-charlie-hebdo_n_6433584.html

このサイトでは、「シャルリー・エブド」の編集長に就任したとして「笑いすぎて死ななかったら、むち打ち100回の刑だ」とつぶやいている「ムハンマド」(掲載直後に事務所に火炎瓶が投げ込まれた)、同性愛者として描かれている「ムハンマド」(イスラム教では同性愛はタブーとされている)が紹介されている。また、ヌード姿の「ムハンマド」を掲載したこともあった。さらに、ハフィントンポストは次のように伝えている。

シャルリー・エブド紙は2006年、「原理主義者に悩まされて困り果てたムハンマド」という見出し付きで、すすり泣くムハンマドの漫画を掲載し、物議をかもした。同号にはさらに、預言者ムハンマドの風刺画が12枚掲載され、イスラム世界からかつてないほどの批判が寄せられた(これは、もともとはデンマークのユランズ・ポステン紙が2005年に発表して問題になった預言者ムハンマドの風刺漫画を掲載したものだった)。

最終的には、フランス国内に住む500万人のイスラム教徒を代表する組織「フランス・イスラム評議会」が、同週刊紙を訴える事態となった。この号がきっかけとなって、シャルリー・エブド紙はテロリストの攻撃対象としてみなされるようになったと考えられている。

さらに最近の号では、イスラム国が預言者ムハンマドの首を切るマンガを掲載していた。

まず、これは一般的な知識だが、イスラム教では、いかなる意味での偶像崇拝を禁止するという点から、宗教的な場では神やムハンマドだけでなくすべての具象表現が禁止されている。その意味で、単に「ムハンマド」を画像として表現すること自体が、「反イスラム」的とみなされるといえるだろう。

そして、そういうことを度外視してこれらの漫画をみても、なぜ、これほど、ムハンマドに侮蔑的なのかと思う。報道されているイスラム国やタリバーンなどの状況は、もちろん批判されねばならない。このシャルリー・エブド銃撃事件自体も含めて、テロや戦争などの暴力、排他主義は認めてはいけない。しかし、これらことへの責任をムハンマドに直接問うべきものなのだろうか。そして、これらの漫画は、イスラム国やタリバーンなどとは無関係であるイスラム教を信ずる多くの人びとを傷つけることになるだろう。ハフィトンポストでは、暴力的なものも含めて、シャルリー・エブドに対してさまざまな抗議がなされてきたことが報道されている。

そして、シャルリー・エブドの編集長ステファヌ・シャルボニエ(通称シャルブ。本事件で死亡)とジャーナリストのファブリス・ニコリーノ(本事件で負傷)は、フランスの新聞ルモンドに、彼らへの批判に対する反論を2013年11月20日に寄稿している。あるサイトで翻訳されていたので、一部紹介しておこう。

まず、この反論では、自分たちはレイシズムではないと強調している。彼らは反レイシズムと全人類の平等を信奉しているとし、1968年の五月革命の申し子であり、右派のドゴール主義者たちの権力と戦い、批判的な精神を育ててきたという。そして、今でも、右派やレイシズムへの闘士であると自己規定しているのである。

シャルリー・エブドはむかついている。信じがたい中傷がどんどん広まっているという話が毎日のように聞こえてくる。シャルリー・エブドはレイシストの雑誌になったというのだ。
(中略)
改めて云うのも恥ずかしいぐらいだが、反レイシズムと全人類の平等に対する情熱がシャルリー・エブドの土台の約束事であり、これからもそれが変わることはない。
(中略)
それ以外の、基本的な価値観をまだ尊重しているひとのために、シャルリー・エブドの歴史について少しお話しよう。1970年当時のけったいなドゴール主義の権力によって週刊ハラキリが発行禁止になった後に創刊されたシャルリー・エブドは、1968年5月革命の子供である。これは自由と不遜な精神の子供で、カヴァンナ[創設者のひとり、2014年没]、カビュ、ウォランスキー[ふたりともテロで殺害]、レゼール、ジェベ、デルフェイユ・ド・トンといった明確なポジションをもった人々の手によって生まれたものだ。
まさか今からさかのぼって彼らに対する裁判を行おうとするひとはいるまい。1970年代のシャルリー・エブドのおかげで批判的精神を育てることができた世代があった。それはたしかに権威と権力者を馬鹿にしていた。ときには大口を開けて世界の不幸を笑うこともあったが、そのようなときにもいつも必ず人類とその普遍的な価値を弁護していた。
(中略)
右派を擁護しようと考えるものはシャルリー・エブドのなかにはだれもいないし、右派とは徹底的に戦うつもりだ。いろいろな姿をもつが実はひとつでしかないファシズムについては、もちろんこの連中をいちばんの敵であると考えている。それにこういう手合こそシャルリー・エブドに対する裁判を起こしてばかりいるのだ。
(中略)
どこにそのレイシストやらが隠れていると云うのだ。何も恐れることなく、私たちは永遠に反レイシズムの闘士であると云うことができる。党員証をもっているわけではないが、私たちはこの領域を自らの陣営とし、当然決してこれを変えるつもりはない。もしひょっとして(そんなことは起きるはずがないが)シャルリー・エブドにレイシスト的なことばやイラストが掲載されることがあったら、私たちはすぐに大騒ぎをしてここから出て行ってやる。当たり前だよ。
http://fukuinei.tumblr.com/post/107688280067

そして、なぜ、「イスラム教」とターゲットにするのかということについては、このように説明している。

しかしここで、いったいなぜなのか、理由を知らなければならない。なぜこんな馬鹿げた考えが伝染病のように広がっているのか。シャルリー・エブドはイスラモフォビアだと中傷者は云う。彼らのニュースピークでレイシズムという意味だ。ここでいかに知性の退化が広がっているのかがわかる。

もちろんシャルリー・エブドは同じ路線をつづける

40年前には、宗教でさえ罵り、憎悪し、侮辱するのが避けては通れない道だった。世界の動きを批判しようとするものは、必ず主な聖職者の大きな権力を問題にしなければならなかった。しかしある種のひとの云うことを聞くならば(この種のひとがたしかにどんどん増えてきているのだが)、今日ではこの問題については沈黙するべきなのかもしれないという。
シャルリーがローマ教皇の信奉者のイラストをたくさん表紙に使うのはまだいい。でもインドネシアにまで広がる地球上の数えきれない国の旗印であるイスラム教は、使わない方がいいのだそうだ。いったいどうしてだろう。イデオロギーを別とした場合、本質的なものとして、たとえばアラブ人であるという事実とイスラム教に帰属するということにどのような関係があるのだろうか。
もちろんシャルリー・エブドは、見て見ぬふりをすることをせず、同じ路線をつづけていく。たとえ1970年当時よりも今のほうが困難だとしても、シャルリー・エブドは、気に入ろうと気に入るまいと、司祭、ラビ、イマームのことを笑いものにしつづける。今や私たちは少数派なのだろうか。そうかもしれないが、ともかく私たちはこの雑誌の伝統を誇りに思っている。シャルリー・エブドはレイシストだと云う人々は、少なくとも名前を明かして公然と発言する勇気をもってほしい。そうしたらお答えできるでしょう。
http://fukuinei.tumblr.com/post/107688280067

ここに、イスラム教とその象徴であるムハンマドを攻撃する理由が開示されている。彼らのドゴール主義者への戦いは、フランスのカトリック聖職者への戦いでもあった。これは、それこそ40年前どころではなく、フランス革命の時代にまでさかのぼるアンシャンレジームの一角をしめる教権主義への戦いであり、共和国フランスにおける「世俗派」の歴史的伝統である(このような問題については、ピエール・ノラ編、谷川稔監訳の『記憶の場 フランス国民意識の文化=社会史』を参照されたい)。そして、欧米の近代国民国家は、さまざまな違いはあれ、おおむね政教分離を達成してきている。その意味で、教権主義への戦いは「進歩」的なものととシャルリー・エブド関係者は認識している。この反論で「イデオロギーを別とした場合、本質的なものとして、たとえばアラブ人であるという事実とイスラム教に帰属するということにどのような関係があるのだろうか」といっているが、これは、アラブ人をフランス人、イスラム教をカトリックに置き換えれば、意味が理解できよう。現代のフランスにおいて、フランスという政治共同体を組織することは、カトリックを信奉することとは別である。そして、このような政教分離は、アラブ人も達成しなくてはならないということになる。さらに、イスラム教というイデオロギーを批判しているのであり、「アラブ人」という人種を問題にしていないということにもなろう。いわば、「宗教」という「蒙」を「啓発」する「啓蒙」の立場に立っているのであり、「レイシズム」ではないということでもある。彼らは、自身の行なってきたフランスのカトリック聖職者への戦いに重ねあわせながら、イスラム教とその象徴であるムハンマドを攻撃しているといえよう。フランス人のユーモアについてはわからないが、彼らがムハンマドへの攻撃に情熱をそそぐ理由は理解できなくはない。

そして、シャルリー・エブドは、このような攻撃が可能になる根拠として、次のように言っていたとハフィトンポストは伝えている。

シャルボニエ氏はAP通信に、預言者ムハンマドを風刺する漫画の掲載決定について次のように主張した。「ムハンマドは私にとって聖なる存在ではない。イスラム教徒がこの漫画を見て笑わないのは仕方がない。しかし、私はフランスの法の下に生活しているのであって、コーランに従って生きているわけではない」
http://www.huffingtonpost.jp/2015/01/07/4-cartoonists-killed-charlie-hebdo_n_6433584.html

フランスの法の下にいるということが、シャルリー・エブドがムハンマドへの攻撃を可能にしているということになる。それは、究極的には「表現の自由」ということになろう。

さて、このように、「宗教」を攻撃する(イスラム教だけには限られないが)表現の自由は認められている一方、イスラム教を体現する表現の自由はフランスにおいて抑圧されている。フランス社会は旧植民地諸国とりわけ北アフリカや西アフリカから多くの移民を受け入れてきた。移民といってもフランスで生まれたその子どもたちはフランス国民である。しかし、彼ら移民たちは、フランス国籍を取得してもさまざまな差別を受けている。その一例が、学校におけるムスリム女子生徒の宗教的スカーフ(ヒジャブ)着用の禁止である。政治社会学者の鈴木規子は、「SYNODOS」に2014年1月27日付で「フランスの共和主義とイスラームの軋轢から「市民性教育」について考える」という文章を寄稿している。この自体を概括する部分をここで紹介しておこう。

このようにフランスでは、すでに長期間フランスに滞在し、子どもも生まれ、教育を受けて成人し、フランス国籍ももっているのに、「移民」と呼ばれ、外見、名前、住所によって就職差別や人種差別にあっている人々と、フランス社会との間で軋轢が生じている。

そうした中で、移民の社会統合の難しさを表したのが「スカーフ問題」である。1989年にパリ郊外の公立学校に通うムスリムの女子生徒がイスラームのスカーフ(ヒジャブ)を被って授業をうけることが、非宗教性に反するとして問題となった。以来、教育現場で10年以上くすぶり続けてきたのだが、ついに国会で学校における宗教的標章の着用を禁止する法律が2004年に可決され、学校からスカーフが排除されることになった。

これは、学校という公共の場に顕在化したイスラームを、非宗教的な共和国がその理念に反するということで強制的に排除した事件であった。この間いかに市民を育成するかが課題となり、市民性教育もライシテを明言する内容になっていった。
http://synodos.jp/education/6632

鈴木は、EUにおける民主的市民性教育への取り組みや、フランスにおいてライシテとよばれている公の場における世俗性ー脱宗教性の追求などの流れの中で、このスカーフ問題をとりあげている。イスラム教の規範において、女性はスカーフ(ヒジャブ)を被ることになっている。スカーフ着用の強制も、当然ながら「自由」という規範に反するだろう。他方、フランスでは、非宗教的な共和国の理念に反するという理由で、学校という公共の場において、イスラムの価値を体現するスカーフの着用が禁止されたのである。

鈴木は、いわゆるライシテー世俗化・脱宗教化ーをフランス共和国が求めてきたことについて、「宗教的な違いによる社会的分断が露見したときに政教分離法が制定されたように、ライシテは社会的に影響力をもつカトリックを公的権力から切り離すと同時に、国家が宗教的中立性を保ち、マイノリティの社会統合を保障する考え方でもあったのである」と一定の合理性があるとしている。さらに、次のように指摘している。

「共和国の学校」は全面的にカトリックを駆逐したわけではなく、寛容さも残っていた…要するに、共和主義と宗教勢力のせめぎ合いが公立学校を舞台に行われてきたとはいえ、ライシテが適用されたのは「教育内容」、「学校という場」、「教師」に関する3点であり、生徒や家庭に対して非宗教性が強制されることはなく、宗教的実践を保障するような逃げ場も用意していた。

鈴木によれば、スカーフ着用禁止にいたったのは、教育的要請ではなく、政治やメディアの「共和主義」だったとしている。

こうした教師の考えとは別に、政治家やメディアは、イスラーム嫌悪の風潮に乗って、ライシテを共和主義者にとって都合よく解釈していった。それはスカーフ禁止法に至る経緯に見出せる。
(中略)
本来、学校という場所は市民を育成する場所である。法規制派たちの根拠でもあった「(ムスリムの)男性から守るべき対象とされた女性」である少女たちは、より一層守られなければならない立場である。それなのに、市民や「共和国」の政治家らによって、スカーフはライシテに反するイスラームの象徴とされ、学校から追放されてしまった。

そもそも公立学校で非宗教性を保障されたのは「教育内容」「教育の場」、「教師」であって、生徒たちの脱宗教化を求めているわけではない点を考えると、この事態が異常であることがよくわかる。すなわち、少女たちにスカーフを取れと要求することは、本来のライシテの原則には含まれていないのだ。「スカーフを取らない」から「ライシテに反する」という主張は、ライシテの正しい解釈ではなく、スカーフ論争の中で作られていったものと言わざるを得ない。
(中略)
さらに、スカーフ禁止法以後、この傾向はサルコジ大統領の下でエスカレートしていった。2010年にはイスラーム女性の全身を覆う「ブルカ」や「ニカブ」の着用についても公共の場で禁止する法が可決され、翌年4月にヨーロッパで初めて施行された[*15]。こうした一連のスカーフをめぐる法規制に、イスラームを排除したいという共和主義者による政治的な意図を感じざるを得ない。

スカーフ禁止法制定などの具体的な過程については、鈴木の文章を参照してほしい。いずれにせよ、イスラムを排除しようとする共和主義者の思惑によって、ライシテー公の場における世俗化・脱宗教化が拡大解釈され、イスラムの規範にのっとってスカーフを着用するという「表現の自由」が踏みにじられたのである。

結局、フランスにおいては、宗教を攻撃する「表現の自由」はあるが、イスラムの規範に則して身体を装うという「表現の自由」はないのである。このように、フランスにおける「表現の自由」は「非対称」なのである。「表現の自由」をめぐる問題は、個々人が判断するように考えられるが、決してそうではなく、「共和国」つまりは国民国家の理念にそうかどうか、いや、もっと正確にいえば、政治家やメディアなど公的決定に関われる人びとの集団的国家規範に沿っているかどうかで決まるのである。それは、自らを左派と規定しているシャルリー・エブドすらもそうなのである。なお、これは、フランスだけではない。政教分離の原則を侵犯して靖国神社を参拝し、特定秘密保護法制定や、マスコミ統制、さらには教育への介入によって、表現・思想・教育の自由を制限しようとしながら、中国・韓国に対するヘイト・スピーチについては「表現の自由」をたてにおざなりな対応をしている日本の安倍政権の姿勢は、フランスの共和主義と一見反対のものに見える。しかし、どちらも、「自由」を、彼らの考える「国民国家」の理念によって制限するということでは同じ構造を有している。このような状況は、アメリカなどの他の国民国家においてもみられるであろう。

そして、ムスリムの「移民」たちにとって、フランスの状況は、自らの宗教は自由に罵倒され、自らの宗教的自己表現は禁止されるというディストピアとして認識されることになろう。さらに、イスラム圏の諸国でも同じように把握されよう。この状況においては、フランス国内でも、世界全体でも、「表現の自由」を含む近代国民国家の理念を攻撃しようとする人びとはまだまだ現れることになろう。

フランスにおいて共和国の理念を主張する人びとはエリートとその影響で形成されたマジョリティである。一方、フランス国内で「移民」とされているムスリムたちはマイノリティとしての「民衆」であり、差別にたえている。それは、世界的に考えても同じである。近代的国民国家の市民たちと、それらの国家の旧植民地であり、今なお圧力にたえている多くの人びと。この人びとはムスリムだけではない。そこにある「非対称的」な関係。この「非対称的」な関係をどのように考えていくかということに、全世界の運命がかかっているといえよう。まさに、現代世界の構図が、このシャルリー・エブド銃撃事件で表出しているのである。

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2012年に成立した原子力規制委員会は、2013年に次のような「組織理念」を発表している。

原子力規制委員会の組織理念

平成25年1月9日
原子力規制委員会

原子力規制委員会は、 2011年3月11日に発生した東京電力福島原子力発電所事故の教訓に学び、二度とこのような事故を起こさないために、そして、我が国の原子力規制組織に対する国内外の信頼回復を図り、国民の安全を最優先に、原子力の安全管理を立て直し、真の安全文化を確立すべく、設置された。

原子力にかかわる者はすべからく高い倫理観を持ち、常に世界最高水準の安全を目指さなければならない。

我々は、これを自覚し、たゆまず努力することを誓う。

使命

原子力に対する確かな規制を通じて、人と環境を守ることが原子力規制委員会の使命である。
(後略)
http://www.nsr.go.jp/nra/idea.html

これによると、福島第一原発事故を教訓として、国民の安全を最優先にして、原子力の安全管理を立て直し、真の安全文化を確立することが原子力規制委員会の設置目的であり、常に世界最高水準の安全をめざし、努力しなくてはならないとしている。「原子力に対する確かな規制を通じて、人と環境を守ること」が使命であるとまでされているのである。

この原子力規制委員会が策定し、2013年7月から施行された「実用発電用原子炉に係る新規制基準」(新規制基準と略記)について、同委員会は次のようにサイトで説明している。

新規制基準について
原子力規制委員会は、原子炉等の設計を審査するための新しい基準を作成し、その運用を開始しています。

今回の新規制基準は、東京電力福島第一原子力発電所の事故の反省や国内外からの指摘を踏まえて策定されました。

以前の基準の主な問題点としては、
地震や津波等の大規模な自然災害の対策が不十分であり、また重大事故対策が規制の対象となっていなかったため、十分な対策がなされてこなかったこと
新しく基準を策定しても、既設の原子力施設にさかのぼって適用する法律上の仕組みがなく、最新の基準に適合することが要求されなかったこと
などが挙げられていましたが、今回の新規制基準は、これらの問題点を解消して策定されました。
この新規制基準は原子力施設の設置や運転等の可否を判断するためのものです。しかし、これを満たすことによって絶対的な安全性が確保できるわけではありません。原子力の安全には終わりはなく、常により高いレベルのものを目指し続けていく必要があります。
https://www.nsr.go.jp/activity/regulation/tekigousei/shin_kisei_kijyun.html

新規制基準についての詳細は省略するが、上記の原子力規制委員会の主張によれば、津波・地震の自然対策や重大事故対策がはかられていなかったこと、新しい基準を策定して既設の原発に規制を適用できなかったなどの問題点を解消したものとされている。しかし、これは、「原子力施設の設置や運転等の可否を判断するためのもの」で、「絶対的な安全性」を確保するものではないとしている。いわば、原子力規制委員会が新規制基準が「暫定的」なものでしかないとしているのである。

この「暫定的」な新規制基準で、原発再稼働の審査が現在行なわれている。原子力規制委員会の定義によれば、これは「安全審査」ではなく、「適合性審査」なのである。

この「適合性審査」に川内原発はクリアしたと2014年7月16日に原子力規制委員会は発表した。このことを定例記者会見で発表した原子力規制委員会委員長田中俊一は、記者の質問にこたえて、注目すべき発言をしている。

私は、今はそういう数値だけで議論する、もちろん数値目標は大事ですけれども、そのことで、では国民が納得しているかというと、必ずしもそれはそうではないので、そこのところは、安全目標というのは決して国民と我々が合意して作ってた値ではないということだけは御理解いただかないといけないと思うのです。ただ、我々としては、全ての技術者がそうですけれども、あるレベルの安全性を確保しながらいくという意味で安全目標というのを持ったということで、これは大体、国際的にもそういうふうに思われているところですので、その辺も踏まえて御理解いただければ幸いです。
(中略)
安全審査ではなくて、基準の適合性を審査したということです。ですから、これも再三お答えしていますけれども、基準の適合性は見ていますけれども、安全だということは私は申し上げませんということをいつも、国会でも何でも、何回も答えてきたところです。

クリックして20140716sokkiroku.pdfにアクセス

田中は、彼らの「安全目標」は国民との合意によって形成されたものではなく、「あるレベルの安全性を確保しながらいく」というものであり、基準の適合性は審査したが、それで安全とは言えないと述べているのである。さらに、別のところでは、次のように話している。

こういったリスクがありますということが分かれば、それに対する対応ができるのですが、一般論として、技術ですから、これで人事で全部尽くしていますと、対策も尽くしていますということは言い切れませんよということです。
ただ、現段階で、いろいろなことを今日も後で私の方からもレクチャーしたように、相当のことを考えてリスクの低減化には努めてきたと、そのつもりではいます。

ゆえに、原子力規制委員会としては、基準の適合性以外は、すべて他者まかせという姿勢をとっている。川内原発の再稼働については、「これも何回も国会でもお答えしているのですけれども、私どもは再稼働をするか、しないかという判断についてはコミットしませんということを申し上げています。稼働を許可するかどうかということについては、もちろん事業者と、それから、地域の住民の方、それから、政府の考えとか、いわゆる関係者の合意で行われるのであって、そのベースとして私どもの審査があるということかと思います」とし、事業者・地域住民・国の合意にすべてまかせている。避難計画についても、「避難計画と再稼働というのは、ある意味では密接に関係はしていますけれども、規制委員会、規制庁がそれの関係をきちっと評価するという立場にはない」と、自身の権限外であることをことさらに強調しているのである。

また、電力会社に安全意識を高めて行くことについては「能力を高めるとか、安全に対する考え方を高めるというのは、事業者は事業者の努力がやはり基本になるのだということだと思います。そういう意味でJANSI(原子力安全推進協会)という組織を作ったので、そういったところを大いに活用して発展してもらって、事業者自身がそういう努力をしていただく必要はあろうかと思います。」と、電力会社側の「自主努力」に委ねるという姿勢をとっているのである。

さらに、防災時に作業員が退避してしまう可能性があることを例にして、事業者=電力会社に規制を守らせる担保はどこにあるのかと記者に質問されて、このように田中は述べている。

○記者 東京新聞のシミズです。これまでも誰が安全の責任をとるのかということは、一義的に事業者だということは再三おっしゃられていて、今回、こういう規制を作って、この規制を事業者が守ればある程度の安全は確保されるだろうということなのですけれども、結局、この規制を最後まで事業者が守るかどうかというのは、どうやって担保されるのでしょうか。要するに、ソフト面で、これは以前も質問があったかも知れないのですけれども、例えば、事故時に最悪の場合、作業をされている方が退避してしまうという可能性がないことはないわけですよね。
○田中委員長 防災のときの事業者の責任については、もう少しこれから確かめていく必要があることは事実です。だけれども、基本的には安全の担保は事業者にあるということも事実です。
○記者 確かめていくというのが、ちょっとよく分からないのですが。
○田中委員長 事故時の被ばく線量とか、そういうことについて、ある程度そういう場合に、事業者に対しては、従業員に対してきちんとそういう約束をしていただくとか、そういうことがいずれ必要になると思っていますけれども、まだそこまで届いていないというところもあります。
○記者 その状態で仮に動かしても、それは今の基準では仕方がないという、そこまで求められないということでしょうか。
○田中委員長 そうですね。そういうふうには私はならないと思いますし、先程も申し上げたような手順を踏んでおいた方が間違いないだろうということはありますけれども、今、そういうことについて、事業者の方から、そういうことがあるとは聞いていませんし、何かそんなことが問題になりそうですか、市村(市村知也 安全規制管理官)さん。ならないよね。

まず、防災の時の安全性確保は事業者側の責任であることを強調し、その際の手順を定めていないことは認めつつも、事業者側からそういうことは聞いていないし、そういうことは問題にならないと言い放っているのである。

そして、政権側が規制委員会が責任をもって安全かいなかをチェックしているのであるから、規制委員会の判断に全てを委ねると発言していると記者から質問されると、田中は次のように答えている。

政治家は政治家の発言がありますので、私から何か申し上げることではないと思っています。私どもは、ゼロリスクということはいつも申し上げられないから、安全というとゼロリスクと誤解されるので、そういうことを申し上げていますけれども、政治的にはわかりやすい意味で安全だということをおっしゃったのかも知れませんし、これは政治家と私の発言とが同じであることは多分ないと思います。

原子力規制委員会の任務は新規制基準の「適合性審査」であって、「安全審査」ではないという田中俊一原子力規制委員長の姿勢は、2014年12月17日に行なわれた高浜原発の「適合性審査」の発表のときにも見られた。この際、次のようなやりとりがなされている。

○記者 ロイターのハマダです。簡潔な質問です。高浜3・4号機の審査書案で両号機は安全と確認されたのでしょうか、そうでないのでしょうか、どちらでしょうか。
○田中委員長 我々の新しい安全要求というか、規制基準に適合しているということを認めたということです。
○記者 それは安全なのでしょうか、安全ではないのでしょうか。
○田中委員長 そういう表現の仕方は私は基本的にとらないと言っています。
○記者 では、安全だということではないということでよろしいですか。
○田中委員長 安全ではないとも言っていません。安全だとも言っていません。
○記者 ○か×かであれば、どちらでしょうか。
○田中委員長 ○か×かという言い方はしません。

クリックして20141217sokkiroku.pdfにアクセス

そして、再び、このようなことを言っている。

○記者 すみません。朝日新聞のカワダと申します。先程高浜の関係で、安全とも安全ではないとも言わないという話だったのですけれども、先日、安倍首相が会見で、いわゆる規制委が再稼働に求められる安全性を確認した原発については再稼働を進めるという表現をされたのですが、再稼働に求められる安全性というのは確認できたという理解でしょうか。
○田中委員長 言葉遊びになってしまうからね。総理は政治家だから、いろいろなそういう言い方をされますよ。分かりやすくという意味で。でも、私の方は、安全とか安全でないとか、安全が確認されたとか安全でないことが確認されたとかそういう言い方ではなくて、稼働に際して必要な条件を満たしているかどうかということの審査をしたということです。そのことイコール、では事故ゼロかというと、そんなことはないだろうというのは、どんな科学技術でもそういう側面がありますので、そこのところも誤解がないようにということで申し上げているし、逆にそう言ってしまうと、我々自身のワークフィットが典型的ですけれども、そういったことができなくなってしまうということがありますので、そこはやはり少し曖昧かも知れないけれども、そこが非常に大事な考え方だとは思っています。

なんというか…。ここまで田中俊一原子力規制委員会委員長の発言をおってみると、「原子力に対する確かな規制を通じて、人と環境を守ること」を使命とするという組織の長としては、あまりに無責任だと思わざるをえない。田中は、7月16日の会見で新規制基準の安全性は世界において「ほぼ最高レベルに近い」と述べており(ただ、ここでも断言はしていない)、以前よりは基準は厳しく、相対的には安全性は高まったといえる。しかし、田中自身が認めているように、3.11以後、原発への不安が高まった国民との合意によって新規制基準ができたとはいえず、前述したように、これとても絶対的に安全とは田中自身が断言できないものなのである。

もちろん、どんな規制も、現在の知見に依拠した「暫定的」なものでしかないともいえる。その意味で、原子力規制委員会の組織理念のいうように「原子力にかかわる者はすべからく高い倫理観を持ち、常に世界最高水準の安全を目指さなければならない。我々は、これを自覚し、たゆまず努力することを誓う」ことは必要なことだろう。しかし、前述してきたように、その姿勢はみられない。避難計画も電力会社への規制も自身の権限外として放置し、暫定的なものでしかない「新規制基準」がいつのまにか「金科玉条」とされ、その「適合性」のみを審査し、結果としての安全性の確保は等閑視しているのである。

そもそも、「新規制基準」自体が原子力規制委員会が策定したものであり、彼ら自身が見直しできるはずである。しかし、現行の新規制基準を再検討する姿勢はみられない。将来の検討課題にもなっていない。現行の新規制基準以上に安全性を確保することは、事業者=電力会社、自治体、国に丸投げなのである。もちろん、これは、委員長田中俊一の個人だけの問題ではないだろう。新規制基準をより厳しくすれば、田中の立場が危うくなるだろうと考えられる。それでも、田中個人には「辞任」という選択肢はあるだろう。組織理念とは全く違った運営になっているのだから。しかし、田中は、自身の責任は全く等閑視しているのである。

他方で、国は、前述してきたように、安全性の確保は原子力規制委員会の責任としている。安全性確保を組織理念でうたっている原子力規制委員会が絶対的安全は保障できないとし、国は原子力規制委員会が安全性について責任をもつという。両者とも、「権限への逃避」を行なって結果責任を回避しようとしている。それでは、原発の安全性については、どこが責任をもつのだろうか。

まさに、この局面において、丸山真男のいうところの「日本ファシズム支配の厖大なる『無責任の体系』」(『増補版 現代政治の思想と行動』、未来社、1964年)の一端が再現されているといえる。田中俊一の記者会見の速記録を読んでいると、丸山などが記述している東京裁判の被告や証人たちの証言を彷彿させる。ただ、一つ言えるのは、3.11以前には、たぶん、こういう言説を原子力規制当局は発しなかっただろう。彼らは、たぶん、安全性が確保できないと内心思っていても「安全神話」をふりまいていただろう。そういう「安全神話」が消滅した3.11以後、国にしても原子力規制委員会にしても電力会社にしても「危機」に直面しており、その「危機」によって、潜在的には内在していた「無責任の体系」が再び現出しているといえるのではなかろうか。

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このブログで、12月2日に福島県相馬市の相馬漁港で行った衆院選第一声で、安倍晋三首相は、福島第一原発の廃炉作業、汚染水対策、補償問題、避難指示解除問題などに触れないまま、雇用確保や中小企業対策、復興公営住宅建設、常磐道早期開通などの「福島」復興事業を提唱した。この第一声は、単に全国にむけてメッセージを発するというだけでなく、この相馬市や南相馬市・飯舘村・伊達市・福島市などが包含されている福島一区の自由民主党候補者亀岡偉民への応援演説でもあった。

とりわけ、この相馬漁港でとれた水産物を主な事例として、「風評被害」を打破して福島県産の農水産物を日本中に、いや世界中に売り広めることを安倍首相はこの第一声で強調している。重複になるが、その部分を抜き出しておこう。

昨年10月、この港にやってきて、おいしいシラスや、毛ガニや水たこやイカをごちそうになりました。本当においしい、このおいしい水産物をもっともっと多くの皆さんに食べてもらいたいな、風評被害を払拭しなきゃいけない。頑張ってまいりました。
(中略)
3月の1日に常磐道全線が皆さん、開通するんです。これを皆さん、これを皆さん、しっかりとこの東北の復興の起爆剤に活用させようではありませんか。常磐道を通って、日本中からこの地にやってきて、この漁港であのおいしいシラスやなんかを食べていただけるんではないかなと思います。試験操業についても魚種、そしてエリアを今、着実に拡大をしているところであります。
(中略)
そして、私たちは地方の良さを生かして、地方創生を進めていきたいと思います。地方創生、地方の良さ、この漁港で採れる、素晴らしい、おいしい水産物もありますし、福島県にはいろんな農産物もありますね。漢方未来米。体にもいいし、健康にもいいという付加価値の付いたお米があります。そして、またおいしい牛もあります。「あかつき」っていう桃もありますね。まだ亀岡さんからもらったことありませんが。
 今度は当選したらもらえるんではないのかな。このふうに思います。この輸出、なかなかまったく言われなき輸出規制が海外にあった。私は世界中回って、必ず首脳に直接おかしいと、私、毎日食べてんですよと言って、この輸出規制に対して撤廃、緩和をするように呼びかけてきました。シンガポールをはじめ多くの国々でやっと、撤廃緩和がスタートしまいした。今、このチャンスを生かして、福島の素晴らしい農産物を日本中に、水産物を世界中に、どんどん送り出していこうではありませんか。
http://thepage.jp/detail/20141202-00000013-wordleaf?page=1

この第一声の後、相馬双葉漁協の女性から安倍首相に塩焼きしたマガレイ一箱が贈呈された。そのメッセージで、相馬双葉漁協の女性は、普段であれば、「おとうさんたち」のとってきた魚を選別して市場に売っていたのだが、それができないのは残念であるとまず述べた。そして、「おとうさんたち」は「試験操業」で前向きに過ごしているが、「本操業」になって魚が売れるかどうかは心配でならないとして、安倍首相には放射能対策に対する取り組みをしっかりやってもらって、福島でとれる魚が安全・安心で食べられることをPRしてほしいとし、相馬で穫れたマガレイを用意したので、ぜひ食べて欲しいと発言した。

この「塩焼きカレイ」一箱(数匹は入っていたが)を受け取った安倍首相は、この塩焼きカレイの箱を観衆に披露した後、カレイの箱を片手に抱えつつ、カレイ1匹の尾を片手でつかみ、尾に近い側を口で直に齧る(たぶん背鰭か臀鰭も含んで)というパフォーマンスを行ったのである。この演説やパフォーマンスの一部始終は自由民主党のサイトがあげている次の動画で見ることができる。なお、カレイを手づかみで食べるというパフォーマンスは、この動画の終わりのほうである。

安倍晋三は、自身のツイッターで、次のような感想をもらしている。

さて、このパフォーマンスは、いろんな意味を含んでいる。私は自著『戦後史のなかの福島原発』(大月書店、2014年)において、原発建設の過程で原発のリスクと原発建設にともなう開発利益や交付金などのリターンがバーターされていたと論じた。このパフォーマンスも、この論理のなかで理解すべきであろう。福島第一原発事故がもたらしたリスクーここでは福島県産の水産物への「風評被害」という形で現出されているーを、首相自らが福島県の水産物の「安全・安心」をPRする広告を行うーこれを「放射能対策」を講じるということにされているのだがーという「リターン」とバーターすることがはかられているのである。そして、このことは、その前段の演説の中で「私は世界中回って、必ず首脳に直接おかしいと、私、毎日食べてんですよと言って、この輸出規制に対して撤廃、緩和をするように呼びかけてきました」と安倍首相自身が強調していたことでもあった。もちろん、福島県産の魚が売れて欲しいという要望は切実なものである。そして、その切実さを前提にこのパフォーマンスがなされたのである。いわそして、このようなパフォーマンスは支持基盤の強化につながると安倍陣営などは考えていたであろう。

考えてみると、これは、日本国全体の統治責任者である首相という立場であるからできることでもある。民主党の海江田万里代表がやっても意味はないし、たぶんやらない。言わば、現状の「放射能対策」は万全であり、それゆえに首相が食べて問題ないのだという意味をこめたパフォーマンスなのであろう。

とはいえ、このパフォーマンスは、福島県産の水産物を売り広めることにつながるのであろうか。汚染水対策も廃炉作業も除染も十分進展していない。これらのことは、究極的に福島県水産物への忌避感を継続させている。そして、今でもまた放射能100bq以上の魚が福島県沖でときどきとれている。もちろん、多くの水産物は「検出限界」以下であるとされている。こういう状況で確定的なことはいえないが、このようなパフォーマンスより、根拠を示して理性的に説得するほうが、まだ「風評被害」対策になりうるとも思えるのだ。そして、それは、せいぜいが「美味しい」としか言えない安倍首相(手づかみで鰭も含めて齧りついた魚が美味しいかどうかすら疑問なのだが)よりも、より理知的に説明できる専門家のほうが買い控えする消費者たちを納得させられると思う。しかし、そういう対策がとられているかどうか不明であり、安倍首相の演説を聞いていると、そういう体制をとることの必要性すら認識していないのではないかと思う。

時事通信は、安倍首相の第一声を聞いた相馬市の人びとの感想を次のように伝えている。

復興推進訴えも「上っ面」=首相演説に住民冷ややか-福島・相馬【14衆院選】

 安倍晋三首相が第一声の候補地として選んだのは、東京電力福島第1原発の汚染水問題を受け中止していた試験操業が昨年9月に再開した福島県相馬市の相馬原釜漁港。「この選挙を勝ち抜き、復興を進めていく」と訴えた。
 首相は白いコート姿で、強い寒風が吹き荒れる中、集まった支持者らを前に交通インフラの復旧や企業立地など原発事故からの復興の成果を強調。「経済が成長し、みなさんの生活が豊かになる。これがアベノミクスだ」と力説した。
 しかし、住民の反応は冷ややか。同県浪江町から南相馬市に避難し、漁業再開に向け準備している漁師高野武さん(64)は「上っ面だけきれいごとを並べている。具体的な話は何一つ出てこない」と批判した。
 相馬市で釣具店を経営する斎藤基次さん(73)も「復興の実感が湧かない中、成果だけ強調されてもアリバイ作りにしか聞こえなかった。期待外れだ」と漏らした。(2014/12/02-12:14)
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201412/2014120200741

福島第一原発事故のリスクを、安倍首相が福島県産のカレイを手づかみして食べるというパフォーマンスにより安全・安心を広告するというリターンとバーターするという論理。前述してきたように、これは、福島原発建設時にもみられた構造であった。そのような論理に期待をもつ人びとが多くいる。しかし、その論理の有効性自身が、福島第一原発事故の中で問われているのである。

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さて、やや旧聞になるが、『中央公論』2014年5月号に宮家邦彦(元外交官、現キャノングローバル戦略研究所研究主幹)・加茂具樹(慶應義塾大学准教授、現代中国政治学専攻)の「対談ー中国共産党崩壊のシナリオはありうるか」という記事が掲載された。特に、宮家の発言には、現在の「外交実務家」たちの中国をめぐる意識が露呈されているように思える。宮家は『語られざる中国の結末』(未見)という本を出しているそうであるが、この対談の中でその中身が紹介されている。それによると、宮家は、中国の今後を、中国が統一を保つか分裂するか、民主化するか独裁化するなど7つのケースに分けてシュミレーションしている。しかし、対談相手の加茂は「すべてのシュミレーションの前提として、米中の衝突を想定されていますね」と指摘した。それに対して、宮家は、このように答えている。

宮家 中国に民主化、あるいは崩壊の可能性があるとするなら、そのきっかけは現時点では外的要因しか考えられなかったからです。
 格差が広がったといっても、つい最近まで「10億総貧乏」だった国ですから、それによって人々が本気で怒りだして政権が崩壊するほどの暴動が起きるとは思えない。また、あれだけの国家ですから、局所的な暴動なら簡単に抑え込める。そして、少々の外圧なら耳を貸さなければいい。それで、米中の武力衝突を前提にしました。

加茂は、さらに「共産党政権が米国への挑戦を選択する理由は何ですか…共産党政権は、実際に、国際社会における影響力の拡大を一貫して追求していますが、どうやって米国と対話し、調整して共存していくかもずっと模索しています」と指摘した。宮家は、次のように応答している。

宮家 それは分かります。だからといって、米中衝突が「絶対ない」とは言えない。1930年代の日本をとっても、米国と武力衝突することでどれほどの利益があったのか。冷静に考えてみれば分かりそうなものですが、当時の日本人は戦争を選択してしまう。
 当時の日本もいまの中国もコントロールできないのはナショナリズムです。ただ、中国経済はまさに対外関係で持っているので、下手に動けば制裁される。そうなると資源がない分、ロシアより深刻です。そう考えれば米中の武力衝突の可能性は相当低い。とはいえ、ロシアは経済的なメリットがほとんどないにもかかわらずクリミア半島を軍に制圧させた。いつの時代もナショナリズムは判断を曇らせる厄介なもので、損得勘定を度外視させる危険がある。

宮家は、いわばナショナリズムの暴発によって利害をこえて中国がアメリカと衝突する可能性があるというのである。しかし、加茂は「僕は、中国における政治的な社会的な変化の重要な契機は、中国共産党内のエリート間の利害対立の先鋭化にある」と発言し、「宮家さんのシュミレーションに話を戻すと、それぞれ可能性を論じてみて、最終的には、当面、このまま変わらない蓋然性が高い」と指摘した。宮家も「このマトリックスをやってよかったと思っているのは、真面目に議論すればするほど、いまの中国のシステムがいかに強靭であるかということを再認識させられたことなんです」と述べている。

その上で、宮家は、次のように発言している。

宮家 ところで、日本にとって真に最悪のシナリオは、中国が民主化されて超優良大国になることだと思います。そうするとまず、日本の存在価値が低くなる。そして、いずれ米国はアジアから軍を引き揚げることになるでしょう。しかし、超優良大国になっても国内のナショナリズムがなくなるわけではありませんから、引き続き日本は中国に叩かれる。それなのに両国間の緊張が高まったときに、もうアジアに米国はいない、となったら悪夢です。日本はすべての国防政策を見直さなければなりません。それはバッドニュースです。ただ、グッドニュースは、縷々見てきたとおり、中国がそう簡単には民主化される可能性がないこと。(笑)

宮家の議論には、中国に対する大きなコンプレックスが見て取れる。彼からみれば、中国共産党政権は、内部抗争でも「少々の外圧」でも変わらないー「民主化」にせよ「崩壊」にせよーのである。つまりは日本側の作為でも変えることはできないのだ。そして、この「変わらない中国」の「ナショナリズム」によって日本は叩かれ続けるという。それを交渉によって変えようということは問題にもされていない。「強大な中国」と「卑小な日本」とでもいうべきイメージが垣間見えている。この中国に対抗するためには、アメリカに依存するしかないと宮家は考える。このように、中国に対するコンプッレクスは、アメリカへの依存を強めていくことに結果していくのである。そして、ここでも、「強大なアメリカ」と「卑小な日本」というイメージが表出されている。

そして、最終的には、次にような逆説に行きつく。中国に対抗するためには、東アジアにアメリカ軍がいてもらわなくてはならない。中国が「民主化」すれば、アメリカ軍が東アジアにいる必要がなくなる。ゆえに日本にとって「中国の民主化」は「最悪のシナリオ」なのだと宮家は主張するのである。他方で、宮家は、米中の衝突によって「中国が変わる」ことを「シュミレーション」という形で夢想するのである。

宮家は、現在のところ、外務省などの公職についていない。ただ日米安全保障条約課長や中国公使なども勤めており、安倍外交を現在担っているいわゆる外交実務家とかなり意識を共有しているだろうと考えられる。特定秘密保護法制定、憲法解釈の変更による集団的自衛権行使、普天間基地の辺野古移転強行などにより、「日米同盟強化」をめざす。その一方で、靖国参拝など中国のナショナリズムを刺激することで、米中関係を緊張させる。これらのことにより、政治・経済面で台頭していると意識されている中国に対して、アメリカに依存して対抗していこうとするのである。

それは「中国の民主化」をめざしてのことではない。あくまでも、彼らの考える日本の「国益」なるものが中心となっている。アメリカ政府の「民主化」要求は、もちろん、一種の大国主義的であり、欧米中心主義的なものではあるが、建前では「普遍主義的価値観」に基づいてもいるだろう。日本の元外交官である宮家は、そのような普遍主義的価値観を共有していない。むしろ、「中国の民主化」が挫折したほうが、日本にとって「グッドニュース」だというのである。この論理は、アメリカに依存して中国に対抗しようとしながら、アメリカの価値観とは共有しない自国中心主義なものといえよう。宮家が表明しているこの論理は、安倍外交の基調をなしているようにみえるのである。

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10月12日、ニューヨークタイムズは、安倍政権の教育政策を批判する記事を掲載した。その一部を下記に紹介しておこう。

日本の教育現場では国際感覚に優れた人材の育成が求められる一方で、同時に国家主義的教育の実施も要求され、教育政策の立案現場には困惑が生じています。
日本では『愛国的教育』の実践への圧力が強まる中、教科書の内容を書き換える作業が進められ、近隣諸国の不興を買っています。
しかし日本では同時に、大学の国際競争力を高めるためその国際化と広く門戸を開く取り組みが行われています(後略)
(マイケル・フィッツパトリック「安倍政権の教育現場への介入が生む混乱と困惑」 / ニューヨークタイムズ 2014年10月12日、日本語訳はhttp://kobajun.chips.jp/?p=20395より)。

この記事の主眼は、安倍政権においては、いわゆる教育の「国際化」をしているにもかかわらず、それとは矛盾した形で、教科書の書き換えなどの教育の愛国化が進められているということにある。本記事では、「アジアの近隣諸国は、新たな『愛国主義的教育』が日本を平和主義から国家主義体制へと変貌させ、戦争時の残虐行為については曖昧にしてしまう事を恐れています。そして戦後の日本で長く否定されてきた軍国主義について、その価値感を復活させたとして安倍首相を批難しています」とし、さらに「日本の新しい教科書検定基準と記述内容は、アメリカ合衆国を始めとする同盟国においてさえ、幻滅を呼んでいます」と指摘した。

このニューヨークタイムズの記事に対し、10月31日、下村博文文科相は文科省のサイトで反論した。下村は、反論の冒頭で、次のように述べた。

平成26年(2014年)10月12日のインターナショナル・ニューヨークタイムズ紙において、日本の教育戦略が分裂しているとの批判記事が掲載されました。記事では、「日本はナショナリズムとコスモポリタニズムを同時に信奉しており、教育政策立案者たちの不明瞭な姿勢を助長している。彼らは、彼ら自身が『愛国的』と呼ぶ主義にのっとって教科書を改訂し、その過程でアジアの近隣諸国を遠ざけている」としていますが、それは全く事実と異なっています。

我が国は、ナショナリズムを助長するのではなく、グローバル社会に適応するための人材の教育に大きく舵(かじ)を切って取り組んでいます。その改革のポイントは次の3つです。すなわち、英語教育、大学の国際化、そして日本人としてのアイデンティティの確立のための伝統、文化及び歴史の教育です。(下村博文文科相「平成26年(2014年)10月12日付 インターナショナル・ニューヨークタイムズ紙の記事について」、2014年10月31日)(http://www.mext.go.jp/b_menu/daijin/detail/1353247.htm)

これに続いて、いかに日本の教育が国際化に努力しているかを縷々述べている。このことについては省略する。

そして、「日本人としてのアイデンティティの確立のための伝統、文化及び歴史の教育」についてこのように述べている。

その際に、日本の学生は海外で日本のことを語れないとの経験者の声が沢山出ていますが、真のグローバル人材として活躍するためには、日本人としてのアイデンティティである日本の伝統、文化、歴史を学ばなければ、世界の中で議論もできませんし、日本人としてのアイデンディディも確立できません。残念ながら、日本の若者はこのような状況に遭遇することが多くなっています。

これは、日本の個々の学生の問題ではなく、日本の教育において、日本の伝統、文化、歴史をしっかりと教えてこなかった日本の学校教育の問題であるととらえています。各国・各民族には、当然相違があります。しかし、多様な価値観を持つ国際社会の中で、それらを認めながら生きていくためには、日本の価値観をしっかりと教えることで、他国の価値観を尊重する姿勢を持たせなければなりません。そうでなければ、伝統、歴史、文化の違いを語れません。

インターナショナル・ニューヨークタイムズ紙では、「ナショナリズム」との言葉を使って批判していますが、日本の伝統、文化、歴史を教えることは、「ナショナリズム」との言葉に当てはまらないと考えます。なぜなら、日本のアイデンティティを教えることは他国、特に近隣諸国を侮蔑、蔑視する教育ではないからです。日本古来の価値観としては、世界に先駆けて7世紀に聖徳太子が17条憲法を制定していましたが、その根本は「和の精神」です。

2011年の東日本大震災の被災者のその後の行動が象徴するように、日本人の精神の根底には、「絆(きずな)」、「思いやり」、「和の精神」があることは世界の人達にも認識していただいていると考えています。

つまり、日本の伝統、文化、歴史を学校教育で教えることは、「ナショナリズム」との表現に当てはまらないものです。我が国が古来の伝統、文化、歴史を大切にすることと、国際社会で共生することは、相矛盾せず、逆に、日本への理解を深める教育をすることがグローバル化した世界で日本人が活躍するために重要であると認識しています。

21世紀の国際社会において日本及び日本人が果たすべき役割は、日本古来から培ってきた「和の精神」、「おもてなしの精神」です。2020年の東京オリンピック・パラリンピックでは、是非、それを世界の人達に見てもらう、そのような教育をすることによって、より広く、日本の教育の方向性が世界の人達に共有性をもってもらえる改革を進めていきたいと考えています。

この文章では、日本人が国際化するために日本の価値観を学ばせており、他国ー近隣諸国を蔑視するものではないから「ナショナリズム」教育ではないとしている。「『愛国的教育』の実践への圧力が強まる中、教科書の内容を書き換える作業が進められ」ているというニューヨークタイムズの批判には全く答えていない。偏狭であるかどうかは別として、「日本の伝統、文化、歴史を教える」こと自体、ナショナリズムではないということはいえないと思う。

といっても、私が最も驚いたのは「日本古来の価値観としては、世界に先駆けて7世紀に聖徳太子が17条憲法を制定していましたが、その根本は『和の精神』です」というところであった。確かに「十七条憲法」の冒頭に、「一曰、以和爲貴、無忤爲宗(一に曰く、和(やわらぎ)を以て貴しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ)」(Wikipediaより)とかかげられている。「十七条憲法」については、聖徳太子が604年に作ったと720年に成立した国史である『日本書紀』に記述されているが、記述自体にさまざまな疑問が投げかけられている。ただ、聖徳太子が作ったどうかは別として、この時代の朝廷において、統治の重要な原則として「和を以て貴しと為す」が意識されていたとはいえよう。

しかし、これは、「日本古来の価値観」のものなのだろうか。儒家の祖である孔子(紀元前552-479年)とその門弟たちの言行を記録した「論語」には「有子曰。禮之用。和爲貴(有子曰く、礼の用は和を貴しと為す)」(http://kanbun.info/keibu/rongo0112.htmlより)とある。ここで、「和為貴」といっているのは、孔子の門弟である有子(有若)である。つまり、7-8世紀に「十七条憲法」が作られるはるか昔から、中国の儒家たちはいうなれば「和の精神」を主張していたのであった。それを取り入れて「十七条憲法」が作られたということになる。たぶん、全く意識していなかったであろうが、下村は「十七条憲法」を引き合いに出して「和の精神」を「日本古来の価値観」とすることによって、日本古来の価値観の淵源は「論語」にあると主張したことになるのだ。

これは、直接には下村もしくは文科省の「無知」に起因するといえる。しかし、そればかりではない。儒教的な倫理を日本古来のものと誤認している人々は日本社会に多く存在している。圧倒的な中華文明の影響のもとに成立してきた日本社会において、その文化的アイデンティティなるものを追求していくと、実際には中国起源のものになってしまうという逆説がそこにはある。そして、もし「和の精神」なるものが「世界の人達に共有性」をもってもらえるものならば、それは、日本古来の価値観であるからなどではない。中国においても日本においても通用していたという「普遍性」を有していたからといえよう。

付記:Wikipediaの「十七条憲法」の記述でも、その第一条で「論語」を引用していると指摘されている。

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昨年、安倍政権は、「安倍晋三の応援団」を自認している哲学者の長谷川三千子埼玉大学名誉教授をNHK経営委員につけた。同時にNHK経営委員になった百田尚樹には及ばないが、彼女の言動もしばしば問題になっている。その一つに、1993年に朝日新聞が揶揄的な報道をしたと抗議している中で拳銃自殺をした右翼団体代表野村秋介を称賛した文章を、2013年10月に配布されたその追悼文集に寄稿していたということがある。このことは、テロ行為を正当化するのかなどと批判された。

その文章を、朝日新聞が2014年2月5日に配信した記事に依拠して、一部抜書してみよう。

(前略)
人間が自らの死をささげることができるのは、神に対してのみである。そして、もしもそれが本当に正しくささげられれば、それ以上の奉納はありえない。それは絶対の祭りとも言ふべきものである。

野村秋介氏が二十年前、朝日新聞東京本社で自裁をとげたとき、彼は決して朝日新聞のために死んだりしたのではなかつた。彼らほど、人の死を受け取る資格に欠けた人々はゐない。人間が自らの命をもつて神と対話することができるなどといふことを露ほども信じてゐない連中の目の前で、野村秋介は神にその死をささげたのである。

「すめらみこと いやさか」と彼が三回唱えたとき、彼がそこに呼び出したのは、日本の神々の遠い子孫であられると同時に、自らも現御神(あきつみかみ)であられる天皇陛下であつた。そしてそのとき、たとへその一瞬のことではあれ、わが国の今上陛下は(「人間宣言」が何と言はうと、日本国憲法が何と言はうと)ふたたび現御神となられたのである。

野村秋介氏の死を追悼することの意味はそこにある。と私は思ふ。そして、それ以外のところにはない、と思つてゐる。
http://www.asahi.com/articles/ASG256WMVG25UCVL016.html

ある意味で言論機関への暴力をはらんでいる野村の行為を正当化しているという批判は当然だと思える。ただ、それよりも目立つことは、この文章の「異様さ」である。長谷川は、野村の行為を自身の死を「神に捧げる行為」であるとし、その死により、「天皇陛下」がふたたび現御神になったというのである。そこには、「死の影」が色濃く表明されている。なぜ、ここまで「死の影」を強調するのであろうか。そして、「死を捧げる」ことで出現するという「神」とは一体なんだろうか。

この論理は、何を意味しているのか。次回、長谷川三千子の近著『神やぶれたまはずー昭和20年8月15日正午』(中央公論新社、2013年)から「読み解いて」みることにしたい。

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