Feeds:
投稿
コメント

Posts Tagged ‘女川原発’

もう旧聞になるが、2015年8月11日、九州電力の川内原発が再稼働した。同日、菅義偉官房長官は次のようにコメントしている。

川内原発再稼働、菅官房長官「判断するのは事業者」
 
[東京 11日 ロイター] –
は11日の記者会見で、九州電力(9508.T)の川内原発1号機(鹿児島県薩摩川内市)について「再稼働を判断するのは事業者であり、政府は万が一事故が起きた場合に先頭に立って対応する責任がある」と述べた。川内1号は同日午前10時半に原子炉が再稼働した。

菅長官は、国際原子力機関(IAEA)の基本原則に「安全の一義的責任は許認可取得者にある」と明記されていると指摘。政府は、原子力規制委員会が新規制基準に適合すると認めた場合に、原発の再稼働を進めることを閣議決定していることから、災害の際には国が迅速に対応する責任があると語った。

その上で、「再稼働にあたっては地元の理解が得られるよう丁寧に取り組んでいくことが極めて重要」との見方を示した。http://jp.reuters.com/article/2015/08/11/suga-sendai-nuclear-idJPKCN0QG08U20150811

それ以来、伊方原発他、日本各地の原発再稼働への動きがさかんに報道されている。つい最近は、安倍改造内閣で新規に復興担当大臣となった福井県選出衆議院議員である高木毅が、10月7日の就任記者会見で東北の被災地にある女川原発と福島第二原発を再稼働させることもありうると話している。

「被災地原発 基準適合なら再稼働」 就任会見で高木復興相

2015年10月8日 朝刊(東京新聞)

 高木毅復興相(衆院福井2区)は七日夜の首相官邸での就任記者会見で、東日本大震災で被災した東北三県にある東京電力福島第二原発(福島県楢葉町、富岡町)と東北電力女川原発(宮城県女川町)を再稼働させる可能性について「原子力規制委員会が世界で最も厳しい水準の新規制基準に適合すると認めたもののみ、再稼働を進めるのが政府の一貫した方針で、私もそうした考えだ」と述べた。被災地以外の原発と同様に新規制基準を満たせば、再稼働することもあり得るとの考えを示した。
 安倍政権が進める原発再稼働路線を踏まえた発言。福島第一原発事故で大きな被害を出し、現在も多くの避難者がいる福島などの復興を担う閣僚の発言に対し被災地の住民や野党から批判が出る可能性がある。
 高木氏は原発が数多く立地する福井県選出。自民党では原発の早期再稼働を求める議連の事務局長も務めてきた。
 高木氏は会見で「私の地元は、原発とともに生きてきたといって過言ではない地域。非常に残念な福島の事故が起きてしまったことは、本当に重く受け止めなければならない」とも述べた。
 再稼働の手続きは、女川原発1~3号機のうち2号機のみ規制委の審査中。福島県議会は原発事故後の二〇一一年、福島第二原発の廃炉を求める請願を採択している。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201510/CK2015100802000127.html

これらの報道を見聞きするにつけ、政府側は原子力規制委員会の規制基準に適合するから再稼働を認めるというばかりで、なぜ再稼働が必要なのかということはほとんど言っていないという印象を受ける。菅官房長官にいたっては「再稼働を判断するのは事業者」と言い切っている。しかし、「政府は万が一事故が起きた場合に先頭に立って対応する責任がある」といっている。事故が起きたとき、責任をとるのは、事業者でなくて、政府なのだ。全く割に合わない。

野田政権が2012年に大飯原発の再稼働を決めたときは、電力不足により国民生活・国民経済に支障を来すためと、偽善的ではあったが、とにかく理由を述べて、人々の合意を得ようとしていた。安倍政権における再稼働については、原子力規制委員会により「安全」の保証が得られたというばかりで、人々の合意を得ようとは全くしていないのだ。今でも、半数程度が再稼働に反対という民意が各世論調査で示されているにもかかわらず、だ。

原発再稼働についての問題は重大事故時の安全性の確保だけではない。放射性廃棄物はどう処理するのか、老朽原発はどうするのか、平常の運転時でもまぬがれない労働者の被曝についてどのように対処するのか、いろいろな問題がある。そして、そもそも、汚染水、賠償、除染、避難、廃炉など、福島第一原発事故の処理はどうなっているのだろう。「政府は万が一事故が起きた場合に先頭に立って対応する責任がある」と口ではいうが、実際はこの通りだ。

そういうことすべてに、偽善的な言い訳すらしないのだ。安保法制制定過程でみられた、対話による合意獲得の努力を一切しない安倍政権の姿勢が、再稼働問題でも顕在化しているのである。

Read Full Post »

前のブログで述べたように、6月5日に、宮城県の被災地をみるために石巻・女川・牡鹿半島をめぐったが、その際、とりあえず、目標にしたのは女川原発であった。

女川原発(2011年6月5日)

女川原発(2011年6月5日)

いってみると、まわりが林で囲まれていて、ほとんどみられる状態ではなかった。多少残念ではあるが、福井県の美浜原発のように、直接、住民の住んでいる集落からみることができるというよりはいいだろう。直接、集落から目視できるということは、直接放射線が集落に遮蔽物なく達しうるということだから。

女川原子力PRセンター(2011年6月5日)

女川原子力PRセンター(2011年6月5日)

広報センター「女川原子力PRセンター」も閉鎖していた。なお、女川原発は避難所になっていた。下記の朝日新聞記事がそのことを報道している。

避難所は女川原発、「福島」に複雑な思い
2011年06月02日

 運転停止中の東北電力女川原発(女川町、石巻市)の敷地内で、避難生活を続けている被災者がいる。原発で暮らしながら、東京電力福島第一原発の深刻な事態を複雑な思いで受け止めている。

 女川原発で関係者以外入れない敷地を正門からバスで10分ほど走ると、避難所の体育館がある。暖房、水洗トイレ、自動販売機もある。火を使えないため炊き出しはないが、女川町からパンや弁当が届けられる。

 敷地内は自由に歩けないが、外出はできる。日中、自宅の片づけやがれき処理の仕事などに出かける避難者が多い。体育館に向かう最終バスが出る午後4時半の「門限」までに戻る。

 体育館にはテレビが1台。新聞も東北電力の従業員が持ってくる。避難者の男性(35)は「当初は原発のニュースも見ていたが、今じゃ避難者同士の話にも出ない」と話す。「原発より次の仕事が心配」(61歳男性)、「テレビも政府も原発ばかりでなく津波のことをちゃんと取り上げて」(44歳女性)。テレビでは子ども向けのビデオが流されることが多いという。

 周辺の集落はほとんどが壊滅状態で、東北電力は人道的配慮から被災者を受け入れた。ピーク時は360人ほどが避難し、いまも30人近くが暮らしている。女川原発の渡部孝男所長は「(避難所を解消する)期限は決めていない」と話す。

 女川町に原発計画が浮上したのは1965年ごろ。町は誘致を進めたが、地元の反対は根強く、建設決定まで10年余りかかった。

 原発の避難所で暮らした阿部七男さん(61)は、近くでカキ漁を営んでいた。建設前、原発が稼働する福島、福井両県を視察。漁獲物の風評被害がないことを確認し、賛成した。原発事故のニュースは耳にはするが、「女川原発は津波に備えて高い位置に造られた。福島第一原発とは違う」。

 一方、かつて建設に反対していた旧牡鹿町(現石巻市)の漁師の男性(68)は「俺たちは爆弾を抱えて暮らしているようなもの」と話す。原発が建った後、家族は原発関連の仕事に就いた。「お金をもらったら、もう反対とは言えないよ」

 福島第一原発の事故は、反対運動をしていた当時に懸念していた事態そのものだった。「形あるものは必ず壊れる。『絶対安全』なんてありえねえ」。男性は今、40年前に自ら叫んだ言葉をかみ締めている。(多知川節子、吉浜織恵)(http://mytown.asahi.com/miyagi/news.php?k_id=04000001106020004)

ただ、この地域には、結構「原発反対」の立看板がたっていた。私が発見しただけでも、四つ立っていた。原発建設地に、「原発反対」の立看板は立っていることは、あまり多くない。東海、敦賀、もんじゅ、美浜においては、少なくとも原発に直行する道には立看板はたっていなかった。浜岡では、一つみかけた。ここでは、四つも立っていた。

原発反対の看板(2011年6月5日)

原発反対の看板(2011年6月5日)

原発反対の看板の裏側(2011年6月5日)

原発反対の看板の裏側(2011年6月5日)

第一の看板は、女川原発正門に向かう道に立っていた。女川原発反対同盟の名前で「なくせ 原発 事故で止まるか みんなで止めるか」という、まるで、今を予兆したかのようなキャッチフレーズが書かれていた。

この看板の裏には墨書にて、「原発止めよう 九二女川行動」を記念して看板を1992年4月26日に建立したことなどが書かれていた。写真撮影に失敗して、全部解読できないのは残念である。

原発反対の看板(2011年6月5日)

原発反対の看板(2011年6月5日)

第二の看板は、「原発あっかんべえ!! 止□□う原発 子どもたちの未来のために」とある。この看板は、女川原発正門を通り越して、「女川原子力センター」に向かう道の途上にあった。

原発反対の看板(2011年6月5日)

原発反対の看板(2011年6月5日)

第三と第四の看板は、女川原発の南側に隣接する石巻市寄磯浜にあった。「原発反対 青年団 実業団」と書かれていた。全く同じものなので、第四の看板は撮影しなかった。

「青年団」はわかるが「実業団」とはなんだろうか。寄磯浜は、現在石巻市に編入されているが、以前は牡鹿町に属していた。牡鹿町の自治体史『牡鹿町誌』上巻(1988年)において、この地域には、年齢階梯組織である「契約講」というものが近世から存在し、1870年頃に「神風講社」というものに改称され、さらに1922年に「実業団」に改組されたと記述されている。この「実業団」は、15~43歳の男性が加入するもので、部落の基幹組織とされている。つまりは、近世に淵源する部落組織なのである。隣接部落は、まだ反対の意志を表示しているのだ。

『女川町誌』続編(1991年)によると、東北電力が女川を原発候補地と正式に発表したのは1967年であった。しかし、北側の雄勝町の漁協を中心に反対運動が展開し、雄勝・女川・牡鹿三町の反対派漁民を中心に「女川原子力発電所設置反対三町期成同盟会」が1969年に結成され、女川町漁協も同調した。

この反対運動のため、女川原発建設着工は10年遅延したとされている。女川漁協は1978年にようやく同意した。そして、隣接する牡鹿町寄磯浜の寄磯・前浜漁協が原発建設に同意したのは1979年であった。そして、同年女川原発は建設着工した。1984年にようやく第一号機の営業運転が開始されたのである。

漁協は同意しても、地域社会には、まだ反対への意識が根強く存在しており、それが、この四枚の立看板に現れているといえよう。

前述の朝日新聞の記事は、地元の人々の、微妙な感情をすくいとっている。今更、原発に反対できないという意識、安全であってほしいという願い。そこには、当の原発敷地に避難しているという現状把握もあろう。もちろん、東日本大震災に被災し、原発について考える余裕がないということもあろう。

一方で、原発に対する不安な感覚も増幅している。結局、非常に矛盾した意識の下にあるのではなかろうか。

この微妙な感情は、他の原発立地地域も、たぶん共有しているのではないかと思うのである。

Read Full Post »