Feeds:
投稿
コメント

Posts Tagged ‘大熊町’

これまで、放射線被ばくのリスクを少なくするため、原発ー原子炉の立地は低人口地帯ー過疎地に立地することが原子力委員会として原則とされることをみてきた。そして、東海村を事例にして、原発周辺地域を低人口地帯にすることは、原発立地以後も追求されていたことを述べてきた。東海村では、原発より2km以内はグリーンベルト地帯にするなど極力居住を制限し、2〜6km圏内も工場地帯などにして、人口集中を避けることが求められていた。

それでは、福島第一原発周辺地域はどうだったのだろうか。1968年3月、「双葉原子力地区開発ビジョン調査報告書」という報告書が出された。これは、福島県企画開発部の依頼により、早稲田大学教授の松井達夫を委員長として、建設省・農林省・通産省の官僚や東京電力・東北電力社員などを構成員とした双葉原子力地区調査委員会が結成され、福島第一原発周辺地域である双葉郡の開発構想を記したものである。これをもとに、福島第一原発周辺地域の開発構想はいかなるものであったのかをみていきたい。(なお、現在、この報告書自体を入手できず、日本科学者会議編『東電福島第2原発公聴会『60人の証言』資料追録』(1974年1月10日発行)に掲載された抜粋に依拠していることをここでことわっておく。)

まず、まえがきにおいて、双葉地区について、ほとんど開発されておらず、広大な原野や平地林が残され、零細な第一次産業が地区産業の過半をしめ、人口密度も平均して低く、住民の開発意欲も積極的ではなかったと指摘した。そのような地に、原発が立地されたことは住民に大きなショックを与えたであろうとし、次のように述べている。

低開発地域として取り残された感じを抱いていた地域住民が、この大きなショックを契機として、飛躍的な発展を期待することは当然であろう。地区内関係町村はいち早く協力して、地域開発の推進に当たろうとしている。

原発立地を契機に地域住民の開発意欲が高まったと指摘しているのである。そのような住民の要望に答えるために、この報告書が編集されたと続けて述べている。

そして、第一章「原子力地区としての立地条件」で、次のように原発の立地条件を述べている。

一般に、火力発電所は、電力消費の中心地に近く立地することが希望され、原子力発電所においてもこの面からは明らかに都市立地が要望される。
しかし、一方原子炉の立地条件については、諸外国において既に相当安全性が立証され、次第に都市立地の傾向に移りつつあるとはいわれるが、原爆被災国としてのわが国の特殊な国民感情等を考慮すれば、現状においては、どうしても僻遠地立地を中心に考えざるを得ない。つまり、原子力発電所の立地としては、送電コストを含めた発電原価の許す範囲で、人口密度、産業水準の低い地域を求めて立地するということである。

さらに、具体的に、(1)周辺に大都市がなく、人口密度の低いこと、(2)冷却水入手のための海浜立地、(3)消費地から離れすぎないこと、(4)地質・地盤が強固であること、(5)その他、土地造成などの土木工事費が低廉であること、という条件を提起している。これらの諸条件は、基本的には1964年の原子炉立地審査指針などで提起されていることと共通しているといえよう。まずは、低人口地帯であることが求められていたのだ。

そして、双葉地区をこのように位置づけている。

以上がその概要であるが、この双葉地区を原子力地区としての立地条件の面からみれば、人口密度が低いこと、地形は標高30m程度で比較的平坦であり、かつ地盤も十分な強度を有していることからいって、わが国においても原子力発電所の立地条件に恵まれた地域に属している。…さらに県をはじめ、地元一般が原子力発電所に対して極めて協力的であり、これが他の自然的・社会的条件にまさる最大の条件である。

現在になると、地形も地盤も「恵まれていなかった」ことが判明するのだが、それはよしとして、第一にあげられているのが、人口密度の低いことであるのだ。

さらに、第二章「地区適正産業の開発計画」の2−4の「地区開発は原子力を中心に」では、このように述べられている。

当地区は、前述したように、生産性の低い山林原野が多く、しかも都市的な集積が少なく、今後も急速に都市化、工業化が進展することもないと考えられる。一方、前述した諸条件と相俟って、本地区は原子力発電所、あるいは原子力産業の適地であると考えられる。

つまりは、今後とも、都市化・工業化が進展することはないとしているのである。その上で、この報告書では、福島第二原発、浪江・小高原発の建設計画があることに言及して、将来的には、「わが国有数の原子力発電地帯」「特色あるエネルギー供給基地」になるだろうとして、次のように主張した。

したがって、当地区は、原子力発電所、核燃料加工等の原子力関連産業、放射能を利用する各種の産業、原子力関連の研究所、研修所などが集積したわが国原子力産業のメッカとしての発展を指向することが最も適当であると考える。

都市化・工業化が急速に進展することのない双葉地区の発展は原子力産業のメッカとなることだと力説しているのである。ある意味では、東海村のような地域開発をめざせということなのだろう。

しかし、「むすび」で、まさに東海村の事例をあげながら、たとえ、周辺の相馬・いわきなどに巨大な工業集積がなされても「原子力地区という一種の土地利用上の規制的意識によって、近接地区における原子力産業関係以外の工業が、しめ出されるのではないか」と懸念を示している。原子力産業以外の産業は、隣接地域からの波及効果にしても、立地は難しいということなのである。そして、そもそもの原因は、そこが「原子力地区」だからなのだ。

さらに、このように述べている。

最後に、原子力施設に内蔵されている放射性物質が、人智をこえた事故の発生によって放散される恐れはないかという点である。原子力施設の設置に当たってはもちろん、この点を考慮に入れて技術的見地からは考えられない事故を仮想し、その場合においても安全性が確保されるよう、技術的解明と法的な規制が加えられているが、安全性を更に高める意味で、施設の周辺を整備することは望ましいことである。このような施設周辺の整備方策は、一般的な地震や火災の発生に対しても有効であり、地域開発と両立するものでなければならない。
施設周辺の整備計画には、道路、鉄道をはじめとして重量物運搬のための港湾、上下水道、住宅団地、ショッピングセンター、医療施設、通信施設、緑地等を考慮し、原子力開発と関連しての地域開発のモデルケースになることを期待する。

ここでも、結局、原発事故による放射性物質の被ばくというリスクが意識され、周辺地域の整備事業の実施が主張されているのである。ここでは、はっきり書いていないが、たぶん東海村の開発構想のようなものを考慮しているのだと思う。原発の隣接地域にはグリーンベルト地帯を設け、その外側でもなるべく住宅は立地させないというようなことが想定されていると考えられる。人口密度が低いことは、原発立地において、アルファでありオメガであった。

原発というもののリスクは、結局のところ、人口増加を抑制し、他産業の立地を阻害するものであったということになる。そして、「原子力産業のメッカ」ー原発モノカルチャーとしての開発に行き着かざるをえなくなっていくといえよう。それは、福島第一原発周辺地域でも同様のことが想定されたといえるのである。

広告

Read Full Post »

今まで、1950~1960年代の福島県議会において、原発問題がいかに扱われてきたのかをみてきた。

1950~1960年代の福島県議会の基調は、地域発展のため原発誘致に積極的であるというものであったといえる。しかし、すでに本ブログで述べたように、1968年の初めには、自民党の県議会議員すら、原発の危険性や経済性への懸念を口にするようになっていた。

そして、いよいよ、1968年9月30日、福島県議会で、原発誘致を批判した質問が行われるようになった。この日、社会党県議相沢金之丞(相馬郡鹿島町出身)は、社会党の代表質問の中で、このように述べた。

 

次に原子力発電所の問題であります。原子力基本法の制定によりまして、原子力の平和利用という名によって、わが国においては各地にあらゆる型の原子炉による電力開発計画が進められ、当県においても双葉地方を主体として原子力センターの設立が低開発地帯の底上げと本県産業分野の新しい開発として一石二鳥の評価のもとに着々進められております。この原子力発電所発電所設置地域ではどこでも、この未知数の原子力に大きな潜在的危機感を持っておるのであります。この潜在的危機感は原子力発電所による災害時の汚染や発生するところの事故に対してであります。原子炉は安全だともいわれております。また一方危険だともいわれております。事故が発生した場合決定的な被害をこうむることを予想するとき、住民の健康と安全を守ることが政治の本来の任務であるときに、この原子力発電所設立は単なる工場や企業の誘致と同一視し、経済的観念からのみこれをとらえるということはあまりにも近視眼的な見方であります。問題の原子炉とは膨大なエネルギー源であり、臨界量以上の核分裂性物質と大量の死の灰が共存するものであります。他に類を見ないきわめて潜在的な危険性の大きい装置であります。(『福島県議会会議録』)

このように、相沢の趣意は、原発の危険性を見据え、その上で、原発の設立を単なる工場や企業の誘致と同一視して、経済的観念からのみ把握してはいけないとするものであった。

ただ、相沢は、この時点では、「原子力の平和利用」自体の可能性は否定していない。「原子力の平和利用」を肯定しつつ、住民の健康と安全を守る措置が必要なのだというのが、相沢の立場といえよう。

かく言う論旨は、特に県内に設立される原子力発電所が平和利用である限り絶対反対するものではなく、ただ住民の健康と安全を守る、このことを政治の責任の中で一そうこれを保持するというためのわれわれの提言であります(『福島県議会会議録』)。

そして、具体的には、相沢は三点の質問をしている、第一点は、原子炉等規制法には知事の権限が認められておらず、原発の運営について自治体は発言権を有さないが、自治体の発言権を有するような立法措置を政府に働きかけるつもりはないかということである。

第二点は、原発から公害が出た場合、県の公害防止条例は適用されるのかということである。

第三点については、現在重要な問題となっているので、相沢の言葉をそのまま引用する。

 

第三点は原子力災害が異常に巨大な天災地変、あるいは社会的動乱によって生じたとき、原子力事業者は損害賠償をしなくてもよろしいという規定がありますが、条文上の判断からいっても、かなり住民への災害が予想されるのでありますが、この災害への保障はどこで行われるのか、このことをお尋ね申し上げたというふうに思うのであります。(『福島県議会会議録』)

この当時、福島第一原発一号機は建設途中であった。しかし、その際より、事故時の損害賠償はどのようにするのかが、問題になっていたのである。

この質問に対して、木村守江福島県知事は、相沢が指摘した原発の危険性についてには直接答えなかった。そして、原子炉規制法等については、関係知事と協議し、知事の発言権を確保する方向で法改正を促したいとした。また、原発が公害を起こした場合、県の公害防止条例よりも国の規制法のほうが厳しいので、県の公害防止条例が適用されることはないと答えている。

そして、原発事故の際の損害賠償について、木村守江はこのように答えている。

 

次には原子力発電所は御承知のように最大の自然災害に対しましては絶対的な安全の度を確保いたしまして、しかる後に、この建設を許可されてまいっておるのでございます。しかしながら、これは特に特異な社会騒乱、あるいはその他の異変によりまして災害が起こった場合にはこの事業主は賠償することがないということになっておりまするが、これは特異な社会的事変、その件の事変という場合にはそのほかの部分にも大きな災害も起こることでございまして、これは災害補償法第十七条におきまして、国においてこれを対処することになっておりますことを御了承を願います。(『福島県議会会議録』)

つまり、木村は、まず自然災害は起こりえないとしつつ、社会的騒乱などで災害が起きた場合は、事業主ではなく国が対処するといしているのである。

この相沢の原発誘致批判質問は、それまで誘致基調であった福島県議会における、論調の大きな変化であるといえる。「原子力の平和利用」の枠内ではあるものの、原発の危険性を指摘し、経済成長からのみ誘致を検討してはならないと相沢は主張している。その上で、自治体が原発の運営について、より発言権をもつべきとしているのである。県公害防止条例の適用問題も、このようなことが背景となっているといえる。

現在問題となっている原発災害の損害賠償についても、すでにこの時期から問題になっているのである。

そして、この演説以降、社会党議員を中心に原発批判の発言が福島県議会でぼつぼつみられるようになるのである。

Read Full Post »

3.11以前、私は、たぶんに、原発問題を軽視してきたと思う。かなり前、核兵器反対の反核運動があった時、そのような運動の集会には出てきたことがある。「平和」を求めることーこれは、私だけではないが、私の周囲にいた人びとの共通した意識であり、運動するかどうかは別だが、そのような取り組みには共感した。しかし、1990年代初め、「冷戦」が終結すると、「反核意識」がしだいに薄れていったといえる。

もちろん、すでに、このブログで述べたように、原発反対運動が展開していたことは知っていた。周囲にも、そのような運動に参加している人もいた。問われれば、私だって「原発反対」といっていただろう。しかし、少なくとも「反核」運動ほど、切迫感のある自分自身の課題として、原発反対運動をとらえてはいなかった。

3.11以降の福島第一原発事故ーこの時、私は過去の不明を恥じた。とりかえしのつかないことが起きることは、私だって予測できたことだ。しかし、私は、それについて、全く何も関与してこなかった。それが、このありさまだ。今まで、何をしてきたのであろう。福島第一原発の周辺には、知人もおり、かなり気に入った場所もあった。それが、今や、国家によって立ち入り禁止だ。その人びと、その場所について、何も具体的には私はできないのだ。

このブログで、福島第一原発のことについて書いているのは、そうした気持ちからだ。せめては、どうして、こうなったのかを、自分のスキルを使って調べてみたいー最終的に、何になるのかわからないのだが…

ここでとりあげる、1960年代の福島県議会における原子力潜水艦寄港反対論と「原子力の平和利用」論との相克は、単に、当時の福島県議会議員たちのことを語っているのではなく、今の自分の心情も重ねている。なぜ、私は「原子力の軍事利用」だけでしかみず「原子力の平和利用」を考えなかったのか。そのことが、どうしても、私の頭から離れない。

ここで、1960年代の福島県議会の叙述に入ろう。

前回までのブログで述べてきたように、1960年代中葉の福島県議会においては、知事や議員たちが、積極的に原発誘致を提起していた。選出時には社会党所属の県議だった山村基も、積極的に県議会において原発誘致を主張していた。

それでは、日本社会党や民主社会党に所属していた県議たちは、原発について、どのように対応していたのであろうか。基本的には、原発問題について沈黙していたといえる。ただ、彼らは、アメリカの核兵器持ち込みには強く反対していた。その一環で、アメリカの原子力潜水艦の寄港にも反対するようになった。その中で、原子炉についての見解も表明されるようになった。この社会党側の意見書提出に、自民党所属らの県議たちは著しく反発した。

その一例として、1963年7月10日の福島県議会に提出された「アメリカ原子力潜水艦日本寄港及びF150D水爆積載機配置反対に関する意見書」案をめぐる議論をみておこう。1963年1月にアメリカ大使ライシャワーは池田内閣の外相大平正芳に原子力潜水艦の日本寄港を申し入れた。5月には、水爆積載可能なF150Dジェット戦闘爆撃機が沖縄から板付(福岡空港)に配属された。この原子力潜水艦の寄港及びF150Dの配属をめぐって、日本社会党を中心として反対運動が展開された。この意見書案の提出は、その一環であるといえる。

まず、意見書案を紹介しておこう。

   

アメリカ原子力潜水艦日本寄港及びF150D水爆積載機配置反対に関する意見書(案)
 アメリカ政府は原子力潜水艦の日本寄港要請に引きつづきF150D水爆積載機の板付基地配備、さらに横田、三沢にもこれを配置準備中である。この現状をもって推移すれば日本本土は沖縄同様核武装基地化し、西ドイツと並んで核武装の拠点となるのではないかと深く憂慮されるものである。
 しかしながら、政府は国民各層の反対にもかかわらず、これを強行しようとしていることは恒久の平和を念願とし、諸国民との協和による安全を確保しようとする我が国にとってまことに遺憾にたえない。
 よって、政府並びに国会においては原子力潜水艦の日本寄港及び水爆積載機配置が極東の国際緊張を一段と高め、国民の信頼に背反することが考慮され、これら一連の圧力に対し強く反対するよう要望する。
 以上、地方自治法第九十九条の規定により意見書を提出する。
 昭和三十八年七月  日

 この意見書案について、「社会党の立場」を強調しながら、佐久間利秋(福島市選出)は提出理由を説明した。佐久間によれば、原子力潜水艦寄港を認めるということは、「日本がアメリカの極東戦略体制の中に入ったということを宣言するも同じような結果になる」と述べている。特に、日本においては「自民党政府といえども核兵器の持ち込みは禁じておるのであります」と付言している。その点から原子力潜水艦寄港などに反対すべきとしている。

さらに、佐久間は、「第二は、科学的立場から見ましても、政府や自民党があれこれ言いわけをしておりますけれども、安全が保証されておらないということであります…この原子力潜水艦そのものの安全性については、決して学者はこれを認めておらないのであります」と、原子力潜水艦自体の危険性を指摘している。佐久間は、

ことにアメリカの原子力委員会の中の学者でさえもが、この原子力潜水艦というものは人口稠密なところには、ほとんど絶対的に必要だという理由がない限りは、寄港せしめるべきものではないということを明言しておるのであります…こうした原子力潜水艦の事故による被害というものは、ほとんど絶対的なものであります。かりに横須賀にこの潜水艦が来まして一たび事故を起こしたならば、東京湾はおそらく永久に使用できない。百回寄港して一回も事故がなかったということは、今後の安全性を保証するものでは絶対にございません。

というのである。福島第一原発事故のことを思うと微妙な気がするのだが…

その上で、佐久間は、原子力開発は否定しないというのだ。

 

われわれ社会党は、決して原子力の開発を否定するものではありません。自民党のパンフレットにはまことに愛すべき表現がされております。原子力の開発をおそれるなどということは時代おくれでありまして、バスに乗りおくれますよ、昔は電信線をおそれて電話線の下を扇を持って通った者がある、こうした状態になりますよと言っておりますが、これはきわめて人を愚弄した議論であると言わなければなりません。商船に原子力につけることに対して反対はいたしません。ただ原子力を軍事的に利用されることについては絶対に容認できないのであります。

佐久間は、原子力の平和利用ならばいいというのである。商船に原子力をつけることですらかまわないというのだ。原子力潜水艦自体の「安全性」を議論してきたにもかかわらず、だ。

この意見書に対し、佐藤中行は自民党を代表して、反対意見を述べた。佐藤は、原発立地が予定されている大熊町・双葉町にほど近い原町市(現南相馬市)選出の議員である。佐藤は、原子力潜水艦寄港の反対意見には、「日米安保体制そのものに反対する安保反対闘争の継続としての反対論」と、「原子力潜水艦は、それ自体の構造上放射能による災害をもたらすおそれのある危険な兵器であり、それの安全性が確認されない」という反対論の二つがあると述べた。その上で、佐藤は、このように言っている。

しかもこの二つの反対論が互いに入り組み合い、補い合って、政治的、心理的反対論を形成しておるところに特異性があるのであります。ことに日本における最高の原子科学者と称せられる人々、また原子力に関する政府機関である原子力委員会よりの慎重論がますます問題を複雑にしておると同時に、原爆の洗礼を受け、原子力と名がつけば、原子炉であろうと原子爆弾であろうと、その区別なしに反対するという日本人の核アレルギーが結びつき、原子力時代にふさわしからぬ騒ぎを引き起こしておるのが現実の姿でないかと考えるものであります。

まず、佐藤は、日米安保体制に対する批判に基づく反対論を、「すなわち、日本の平和維持のための集団防衛体制を切りくずし、日本の安全保障力を弱め、ひいては自由国家間の弱点の傷口を広げんとする謀略にほかならないのであります」と断じる。

その上で、佐藤は、原子力潜水艦の安全性については、このようにまず述べる。

 

原子力潜水艦の安全性については、私はしろうとなるがゆえに、科学的に理論的に万人を納得せしめる理論の開陳などはやりようもないし、毛頭考えておりません。ただ、われわれが社会人として生活に営んでおる場合に、われわれを勇気づけ、あすへのかてとなるものは平凡な経験則であります。

そして、米ソの原子力潜水艦、アメリカの原子力空母エンタープライズ号や商船サバンナ号、ソ連の原子力砕氷船レーニン号が大きな事故もなく活躍しているとしている。その上で、

 

この現実を直視するとき、原子力艦船は危険だと逃避することがはたして許されるでありましょうか。むしろ動力源が原子力であるだけに、万全の注意のもとに操作されることにより、むしろ他から与えられた原子力艦船寄港というチャンスを生かして、日本人の宿命に近い核アレルギーからの脱却のために努力することが、日本をして原子力時代におくれをとらさない根本の問題であり、わが自由民主党に課された重大なる使命と信ずるものであります。

佐藤は、原子力艦船は経験的に危険ではなく、原子力潜水艦寄港はチャンスなのであり、これをいかして「核アレルギー」からの脱却をはかって「原子力時代」におくれをとらないようにしようというのである。原子力潜水艦寄港という「原子力の軍事利用」を前提として「原子力の平和利用」をはかるということになろうか。

その上で、佐藤は、アジア・アフリカ諸国の後進性からの脱皮のために行われているとする原子力開発を紹介し、さらに、福島第一原発の建設をその世界の動きの中に位置づけた。

 

かつて火に対する適応性を失って文明的進化の停止した原住民がオーストラリアに生き残っておるそうでありますが、石炭、石油エネルギーの利用におくれをとって、長く植民地としての立場を余儀なくされたアジア・アフリカ諸国が、原子力時代にこそその後進性から脱皮すべく、原子力開発の研究を進めており、インドでは第一号原子炉アブサラが運転され、コンゴではアフリカ最初の原子炉が動き出し、アラブ連合はアフリカ第二の原子炉を持つに至っております。近くは、韓国においても原子炉が稼働されておるわけであります。
 本県においても、双葉郡大熊町に東京電力の手によって原子力発電所が建設されんとしておるということを聞いております。この世界の動きに目をとめるとき、いまさら原子力船だからといって寄港反対などとは笑い話にもならないのではないでしょうか。

この意見書案につき、河沼郡選出の社会党県議斎藤実は賛成意見を表明したが、賛成少数で否決された。翌1964年10月6日にも、民主社会党県議越田和文雄(常磐市選出)より同様の意見書案が出され、社会党は賛成したが、賛成少数で否決されたのである。

ここで紹介した、社会党の佐久間利秋の原子力潜水艦寄港反対意見書案の提出理由と、自民党の佐藤中行の反対理由は、それぞれ、今日からみると、大きな問題点をはらんでいるだろう。

まずは、佐久間の意見から考えてみよう。佐久間は、原子力潜水艦の危険性を強調する。もし、横須賀で寄港している原子力潜水艦が事故を起こせば、東京湾は永久に使えないといっている。しかしながら、彼は、原子力の平和利用には賛成し、原子力商船なら反対しないとしている。あくまでも原子力の軍事利用のみ反対するというスタンスをとっている。

今日の福島第一原発事故からいえば、平和利用であろうが、原子炉は危険なものであった。軍事利用のみが危険だったわけではない。ある意味では、原水爆という核兵器への反対から生まれていた原水爆禁止への意識の当時のあり方をものがたっているといえる。日本において「反核」とは、まずは核兵器反対運動なのであったのだ。その意味で「原子力の平和利用」については、非軍事目的ということから批判は及ばなかったのである。

他方、佐藤中行の意見書への反対意見も、奇妙なジレンマをかかえているといえる。佐藤は、原子力潜水艦寄港という、いわば「原子力の軍事利用」を契機にして「核アレルギー」の克服を主張している。しかし、佐藤は、もちろん「原子力の軍事利用」を強く主張しているわけではない。原子力発電という「原子力の平和利用」をすすめようとしているのだ。「原子力の平和利用」が「原子力の軍事利用」を契機に進められようとしているといえる。このことは、実は、「原子力の平和利用」ということが、「原子力の軍事利用」と裏腹の関係であることを暗示しているといえる。それは、先ほどの佐久間が、「原子力の平和利用」に賛成しつつ、原子力潜水艦という「原子力の軍事利用」のみを対象として危険性を主張していることと対をなしているだろう。

そして、佐藤によれば、原子力潜水艦寄港を契機とした核アレルギーからの脱却は、福島第一原発の建設ともかかわる問題なのである。

これは、そもそも、1954年の、原子力開発の開始と原水爆禁止運動の開始にさかのぼる問題であるが、原水爆という核兵器ー「原子力の軍事利用」には反対するが、原発などの「原子力の平和利用」は推進するというメンタリティが形成されていた。しかし、実は、社会党・自民党の両県議がそれぞれ対極的に示しているように、「原子力の軍事利用」「原子力の平和利用」は裏腹の関係であったのである。「原子力の平和利用」も「原子力の軍事利用」も想定される事故の影響は甚大なものである。そして、「原子力の軍事利用」の推進が「原子力の平和利用」の促進にーひいては福島第一原発建設促進につながっていくのである。

このことは、たぶんに、日本における「反核」意識全体について検討すべき問題を提起しているといえる。そして、これは、私自身の問題でもあることを付記しておこう。

ただ、一応、社会党のためにいえば、1968年以降、福島県議会の社会党議員は、原発反対を主張するようになっているのである。

Read Full Post »

さて、再び、1960年代の福島県をみてみよう。福島県で正式に原発受け入れ方針を表明したのは、1960年である。もう一度、『東京電力三十年史』(1983年)をみてみよう。

 福島県の双葉郡は六町二か村からなり、南の小名浜地区は良港や工業地帯をもち、また北の相馬地区は観光資源のほか、小規模ながら工場もあるのに対し、双葉郡町村は特段の産業もなく、農業主導型で人口減少の続く過疎化地区であった。したがって、県、町当局者は、地域振興の見地から工業立地の構想を熱心に模索し、大熊町では三十二年には大学に依頼して地域開発に関する総合調査を実施していた。 
 こうした地域事情を勘案しつつ、当時の佐藤善一郎福島県知事は、原子力の平和利用に熱意を示し、三十三年には、商工労働部開発課に命じて原子力発電の可能性に関する調査研究を開始するとともに、三十五年には日本原子力産業会議に入会、企画開発担当部門のスタッフにより、県独自の立場から双葉郡内数か所の適地について原子力発電所の誘致を検討していた。そのうち大熊町と双葉町の境にあり、太平洋に面する海岸段丘上の旧陸軍航空隊基地で、戦後は一時製塩事業が行われていた平坦地約一九〇万平方メートルの地域を最有力地点として誘致する案を立て、当社に対し意向を打診してきた。
 当社は、前述の検討経緯もあり、三十五年八月、大熊町と双葉町にまたがる広範な区域を確保する方針を固め、県知事に対し斡旋方を申し入れた。知事は、この申入れをきわめて積極的に受け止め、同年十一月には原子力発電所誘致計画を発表した。
 このように、当社が原子力発電所の立地に着眼する以前から、福島県浜通りの未開発地域を工業立地地域として開発しようとの県、町当局の青写真ができており、この先見性こそ、その後の福島原子力にかかわる立地問題を円滑に進めることができた大きな理由といえよう。

このように、東京電力は、自身でも候補地選定を行いつつも、いわば工業立地による双葉郡の開発をめざした、福島県側の積極的な働きによって、福島第一原発建設を決めたとしている。

福島県企画開発部開発課長であった横須賀正雄も「東電・福島原子力発電所の用地交渉報告」(『用地補償実務例』(Ⅰ) 1968年)でこのように語っている。

 

さきに水力、火力発電に努力してきた本県では、さらに原子力利用による発電事業が、本県内で実施できるかどうかを調査することとし、昭和35年にこれを実施した。
 福島県の海岸線は、南部の小名浜地区、北部の相馬地区を除くとほとんど単調な海岸が南北に連なり、漁業の発展も比較的少ない。この海岸線に着目し、特に中央の双葉郡の海岸線を利用した発電所の建設が可能かどうかを調査した。県内でも双葉郡は別表のとおり産業活動がおくれ、人口も少なく、しかも海岸線は大体海面から30m程度の断崖になっている所が多く、適地がいくつかあることがわかったのでその調査書を作成した。
 調査を行った地点は、双葉郡の大熊町と双葉町にまたがる地点、双葉町、浪江町、この3地点を選び、その地点についての気象条件、気象状況、人口の分布状況、あるいは土地の形態、地目等を調査し、1冊の調査書を作成し、東京電力、東北電力、あるいは電子力産業会議(原子力産業会議の間違いであろう)等に話を持ち込み、検討を願ったのである。
 この結果、東京電力としては内々に原子力発電所建設を意図していたらしく、私どもが提出した資料では、まだ不十分な点があるということから、さらに幾つかの調査を東電から依頼された。当時、福島県では財団法人福島県開発公社を設置してあったために、以後の調査等については、この開発公社に依頼し、調査が進められた。その結果、原子力発電所建設地としては十分耐えられるという評価が出されたので、東京電力では、この場所(大熊町)に原子力発電所を建設しようとする意向がほぼ内定したわけである。

横須賀も、福島県側の積極的な働きかけによって福島第一原発の立地が決められたとしている。重要なことは、現在福島第一原発のある大熊町・双葉町だけではなく、より北方の双葉町、浪江町も候補地とされていたことである。さらに働きかけは、東京電力だけではなく、東北電力や日本原子力産業会議にもされていたことである。福島第一原発誘致と同時に他の原発も誘致されていたのである。そして、東北電力による福島県浜通りの原発建設計画は、1968年に浪江・小高原発建設計画として具体化されるが、すでにこの時期から、このことは進行していたのだ。

そして、福島県知事は1960年11月29日に、原発建設を受け入れ方針を正式に表明した。1960年11月30日付読売新聞朝刊は、次のように伝えている。

福島に原子力センター計画 東電が発電所建設へ

【福島発】東京電力はこのほど福島県夫沢地内旧陸軍飛行場と隣接海岸の旧塩田跡に営業用原子力発電所を建設するため地下水ゆう水量を測定するボーリング調査を行いたいと申し入れていたが、二十九日開かれた福島県開発公社第二回理事会(理事長、佐藤善一郎福島県知事)でこの調査を同公社が引き受けることを決めた。調査は来年五月までに終わるが、有望な水脈が確認されれば九電力会社による日本で初めての営業用原子力発電所が福島県に建設される公算が大きい。

 佐藤知事の話では旧飛行場跡と旧塩田を合わせて約三百三十万平方メートルもあり、海岸沿いであることから立地条件は茨城県東海村をしのぐほどで、東京電力は遅くとも十年後に百万キロワットの出力を持つ原子力発電所を設置する意向だという。

一方東北電力も東京電力の建設地の北隣に三十万キロワットの出力を持つ原子力建設計画を進め両社の話し合いは同知事のあっせんでついているので、これが実現すれば茨城県東海村の東海原子力センターにつづいて新しい東北原子力センターが生まれる見込みである。

この記事では、東電の建設計画を福島県が受け入れた形になっている。しかし、東電、福島県双方の記述とも、原発誘致における福島県側の積極的な働きかけを伝えている。その意味で、正式な発表では、福島県側の働きかけは隠蔽されたといえる。

他方、重要なことは、この記事でも福島第一原子力発電所の北側に東北電力が原発を建設する計画があることを伝えている。そして、二つの原発を建設することで、この地域を東海村に比肩する「原子力センター」とすることがうたわれている。後述するが、福島県としては、東電だけではなく、福島県内に電力を供給できる東北電力もこの地域で原発建設を行い、この地域を「原子力センター」とすることを要望したのである。

そして、この方針発表の場が「福島県開発公社」で行われたことにも注目したい。この公社は、調査だけでなく土地買収なども担当していくのである。

この福島県の対応につき、県議会はどのように反応したのか。次回以降みていきたい。

Read Full Post »

さて、また鉢呂経産相の問題に議論を戻してみよう。ここまで、鉢呂の「死のまち」発言の内容について、十分みていなかった。ここで、検討してみよう。なお、前述してきたように、ほぼ同時に「放射能つけちゃうぞ」発言も報道されているが、まずは「死のまち」発言にしぼってみていこう。

2011年9月10日付朝日新聞朝刊3面で、この発言の場について「鉢呂吉雄経済産業相の9日の閣議後会見での不適切発言は、福島視察の状況説明の中で出た」としている。まずは、公式の会見の場の発言であったことを指摘しておきたい。

そして、このように「死のまち」発言の要旨を紹介している。

【「死のまち」発言(要旨)】
 事故現場では、大変厳しい状況が続いている。福島の汚染が経済産業省の原点ととらえ、そこから出発すべきだと感じた。
 事故現場の作業員の方々は予想以上に前向きで、活力をもって取り組んでいる。しかし、残念ながら、周辺町村の市街地は、人っ子一人いない。まさに死のまちというかたちだった。野田首相の「福島の再生なくして、日本の元気な再生はない」を柱に、内閣としてやっていくと、至るところで話した。

 鉢呂の発言は、「福島の再生」という野田首相の発言を前提として、福島第一原発周辺町村の厳しい状況を述べ、その中で「死のまち」と表現したものだ。彼の主張は「福島の再生」を前提にしたものである。彼は、北海道泊原発を地元にかかえており、それなりに、原発については詳しかったのではないかと思う。原発事故がどのような性格をもつかは、通常の議員よりは理解していたのではないか。それゆえに、現状を厳しくみた上の発言になったと考えられる。それでも、彼は「再生」するということは前提にしていることは特筆しておきたい。

この発言について、朝日新聞は、まず、このように語っている。

 

原発周辺については、菅直人前首相も「長期にわたって住民の居住が困難な地域が生じる」との見解を示している。民主党内からは「そんなことを問題にしたら、口がきけなくなる。傷つけようと思って言ったわけではない」(幹部)と同情する声も出ている。

つまりは、菅政権の判断に従った発言と位置づけられるのである。このように、朝日新聞においても、鉢呂発言を問題にすべきではないという声も報道されているのである。

しかし、さらに、朝日新聞は、このように指摘するのである。

 

ただ、発言の不用意さは否めない。「死」という言葉には、再生を否定するイメージがある。長期避難を強いられ、帰郷の見通しすら立たない住民がいる中で、原発事故の補償問題担当の経産相が「死のまち」と表現すれば、被災者の感情を逆なでしかねない。

鉢呂の発言内容をみればわかることだが、鉢呂発言の趣旨とは全く相反したかたちで、「死」には「再生を否定するイメージ」があると主張している(なお、これ自身、意味不明だ。「死」というイメージには、「再生」を希求することと結びついている印象がある)。その上で、長期避難を強いられている被災者の感情を逆なでしかねないと述べている。「被災者」感情が問題だとしているのである。

その上で、野党指導者の鉢呂発言についてのコメントを紹介している。自民党の大島理森副総裁は「軽々しく言葉を吐いて、被災者から希望を奪うような発言をすること自体、大臣として失格に値する。深く反省しなければならない」とし、鉢呂経産相の辞任を求めた。公明党の井上義久幹事長は「一刻も早く住民を帰す努力をしなければいけない立場の大臣として、住民の気持ちを全く考えない発言で言語道断だ」と述べた。みんなの党の渡辺善美代表は「原発周辺の人たちにしてみれば、自分たちに責任がないのに避難生活を強いられている。感覚を疑う」と指摘している。

その上で、「地元」の声として、福島県の自治体関係者の反応をつたえている。

地元「好きで避難していない」

 東京電力福島第一原発が立地する福島県大熊町の渡辺利綱町長は、鉢呂経産相の発言について、「ふるさとを『死のまち』なんて言われたら、たまったもんじゃない。好きで避難しているわけではないんだから、避難者の気持ちも考えて発言してほしい」と話した。
 大熊町の課長の一人も「政府が『出ろ』と言った警戒区域に人がいないのは当たり前じゃないか」と切り捨てた。
 福島県議会の佐藤憲保議長は「状況説明とはいえ、被災者にとっては配慮に欠けた発言だ。抗議したい」と語った。

 このような調子で、鉢呂発言への批判が数多く報道されている。しかし、まずは、朝日新聞と同様に、「被災者感情」を根拠とした野党側の批判が出されている。そして、「地元」の声として、福島県の自治体関係者の発言が紹介されている。だが、この時点では、一般被災者は不在なのである。

朝日新聞・野党・福島県の自治体関係者は、自らを「被災者感情」を代弁するとしている。しかし、一般被災者の声は、ここにはない。鉢呂の発言の真意は、「福島の再生」にある。そして、その厳しさを説明するために「死のまち」として表現している。全く、真意とは違う形で、朝日新聞・野党・福島県の自治体関係者は、鉢呂発言をとらえている。そのように、曲解した結果を「被災者」に提示し、それに適合するような反応を求めているのである。

もし、このような形で報道されなかったら、どうであろうか。確かに「死のまち」と言われるのは不快であろう。しかし、真意まで説明されるならば、どのような対応があるだろうか。

このことは、今、「言葉狩り」としていわれている。しかし、今、ここで考えてみると「言葉狩り」以上である。「死のまち」を不適切とするのは、それを指摘する朝日新聞その他ではない。「被災者」なのであるとしている。そして、このような「被災者」の声ー現時点では不在であるーをつくりあげるために、情報を選択的にながしているのである。ある意味では、鉢呂を批判する「被災者」という主体を形成することが、朝日新聞他の発言にはめざされているといえる。

そして、何か問題があれば、すべてを「被災者感情」に抵触するという批判のしかたをしているのである。

言っておくが、別に政権に対して批判するなというのではない。批判するならば、「被災者感情」によりかかって「言葉狩り」をするのではなく、具体的な形で批判をしてほしいということである。例えば、「福島の再生」というが、「除染」はどうするのか。具体的には、どのような予算で、どのように行うのか。そのことにこたえられない大臣はやめてほしい、というような批判は正当といえよう。

結局、野田政権は、このような対応をすることになった。次のように、朝日新聞は伝えている。

 

首相は強く反応した。福島第一原発の周辺は現実に人が住めない状況だが、首相は「不穏当な発言」と断定。さらに謝罪と訂正を求めたうえで、更迭の可能性は打ち消した。藤村修官房長官も9日午後の会見で、「言葉を十分に選んで発言していただきたいと思うが、それがただちに適格性ということにつながるかどうかと指摘。これ以上、問題にはしない姿勢だ。

そして、鉢呂は、次のような形で、発言を取り消し、陳謝した。

【陳謝(午後の会見、要旨)】
 発言は表現が十分でなかった。全体の私の思いは皆さんにも理解いただけると思うが、被災者の皆さんに誤解を与える表現だった。真摯に反省し、表現を撤回させていただきたい。深く陳謝を申し上げる。被災されている皆さんが戻ってこられるように、除染対策などを強力に進めていくことを申し上げたかった。いま反省しながら陳謝する。

しかし、鉢呂については、発言の撤回と陳謝ではすまなかった。そのことは、後で述べておこうと思う。

Read Full Post »

さて、昨日(8月22日)より、原発周辺地については、あまりに高い放射線量を示しているため、政府が、居住を長期禁止し、政府が借り上げる方針を打ち出すことが報道されている。例えば、『朝日新聞』8月22日付朝刊は次のように伝えている。

菅政権は、東京電力福島第一原発の周辺で放射線量が高い地域の住民に対し、居住を長期間禁止するとともに、その地域の土地を借り上げる方向で検討に入った。地代を払うことで住民への損害賠償の一環とする考えで、すでに地元自治体に打診を始めた。菅直人首相は今週末にも福島県に入り、自治体関係者らに説明する見通しだ。

 政権は当面、立ち入りを禁止した原発から半径20キロ圏内の「警戒区域」の中で、継続して高い放射線量が観測される地域について警戒区域の指定解除を見送る方針。福島県双葉、大熊両町のうち、原発から半径3キロ圏内の地域が想定されるが、「3キロ圏外でも放射線量が高い地域があり、範囲が広がる可能性がある」(政権幹部)との見方もある。

 警戒区域の一部では、高い放射線量が観測されている。事故発生から1年間の積算放射線量の推計は、警戒区域内の50地点中35地点で、政権が避難の目安としている年20ミリシーベルトを超え、原発から3キロの大熊町小入野では508.1ミリシーベルトを記録した。
(なお、引用は、http://www.asahi.com/national/update/0821/TKY201108210385.htmlより行った。)

これに対し、対象地域の大熊町長は反発している。

 

政府が福島第一原発そばの一部地域の居住を長期間禁じる方針を検討していることについて、福島県大熊町の渡辺利綱町長は21日、「(放射線量を調べる)モニタリングも除染もこれからという段階。避難している町民が聞いたらどう思うだろうか」と不快感をあらわにした(『朝日新聞』8月22日付朝刊)。

 この大熊町長の反発は、心情としては当然であろう。しかし、原発周辺地の居住の可否の前提として、実際の放射性物質の状況はどうなっているのだろうか。もちろん、大熊町長のいうように、決定は詳細なモニタリングが必要である。ただ、現在発表されている文科省のデータをもとに、とりあえず、チェルノブイリ事故の際の対応区分と対比させて、土壌汚染を基準にここではみていきたい。

まず、次の表をみてほしい。これは、4月29日~5月1日に文科省が採取した土壌試料の分析結果である。5月19日にまず第一の発表があり、5月31日、6月13日に追加の発表があった。この調査結果の発表について、大々的に伝えた報道機関はなかったように記憶している。引用している図表は見にくいので、直接文科省のサイトにアクセスすることをおすすめする。

福島第一原発20km圏内の土壌試料分析結果(文科省)

福島第一原発20km圏内の土壌試料分析結果(文科省)

土壌測定ポイント

土壌測定ポイント

http://radioactivity.mext.go.jp/ja/monitoring_around_FukushimaNPP_radioactivity_level_inside_20km/より)

もちろん、私は、全く専門家ではないが、かなり多種多様の放射性元素が検出されていることに、まず驚いた。ストロンチウム89(半減期50.5日)、ストロンチウム90(半減期29.1年)、ヨウ素131(半減期8.04日)、セシウム134(半減期2.06年)、セシウム136(半減期13.1日)、セシウム137(半減期30年)、テルル129m(半減期33.6日)、ウラン234、ウラン235、ウラン238、プルトニウム239もしくは240、アメリシウム241(半減期432年)、キュリウム242(半減期162.8日)が検出されている。

このうち、ウラン類が検出されていることには、天然ウランであると説明している。また、プルトニウムとアメリシウムを検出したことについては、過去の核実験の影響であるとしている。やや疑問ではあるが、とりあえず、ここでは問題にしないでおこう。

半減期が短いヨウ素131が110000~7200Bq/kg、テルル129mが180000~7300Bq/kgも検出されていることも驚きである。福島第一原発事故が起きた当初の3月中旬においては、これらー特にヨウ素131は、はるかに多い量が存在していたといえる。

そして、現状の放射能汚染の中心となっている、セシウム134とセシウム137をみていくことにする。福島第一原発から2kmの大熊町夫沢(A13地点)では、セシウム134とセシウム137がともに270000Bq/kgずつ、合計で540000Bq/kg検出された。これに65をかけて(原子力安全委員会の計算方法)Bq/㎡を算出すると、3510万Bq/㎡となる。

チェルノブイリ事故の際の対応区分であると、148万Bq/㎡以上が、直ちに強制避難し立ち入りが禁止される強制避難区域となる。それを20倍以上も上回っているのである。

同様にセシウム134とセシウム137の合計値を比較していこう。福島第一原発から3kmの大熊町夫沢(41地点)では、セシウム134とセシウム137が合計で101000Bq/kg存在している。Bq/㎡に換算すると約656万Bq/㎡となり、やはりチェルノブイリ事故の際の強制避難区域に該当するのである。

福島第一原発から4kmの大熊町熊川(6地点)では、セシウム134とセシウム137の合計は35000Bq/kgとなった。Bq/㎡に換算すると約227万Bq/㎡となり、同じくチェルノブイリ事故の際の強制避難区域に該当する数値を示しているといえる。

福島第一原発から7kmの双葉町大字山田(A14地点)では、セシウム134とセシウム137の合計は10000Bq/kg、Bq/㎡に換算すると65万Bq/㎡となる。強制避難区域ではないが、これでも義務的に移住しなくてならない一時移住区域(55万5千Bq/㎡以上)には該当することになるのだ。

もちろん、これは、素人の私がチェルノブイリ事故の際の対応区分を機械的に文科省の土壌試料の分析結果にあてはめてみたにすぎない。より詳細に調査していく必要がある。もちろん、放射線量については、より詳細に政府は調査している。ただ、ある意味で、政府の避難基準があまり信用を得ていないので、チェルノブイリ事故時のソ連の対応と比較してみると、ある程度客観的な認識が得られると思う。

チェルノブイリ事故と福島第一原発事故を一緒にすべきではないという意見もあろう。もちろん、規模が違う。しかし、放射性物質の数量をもとに対応を比較することはできるであろう。チェルノブイリ事故時の避難も完璧ではなく、後に甲状腺がんなどの多発を免れえなかったことを考えると、チェルノブイリ事故時の対応以下では、やはり問題ではないかと思うのである。

政府や東電、または県などは、その時の情勢に応じて言を左右にする。専門家についても、「御用」というわけでなくても、それぞれの学説があるので、意見が一致しない。結局のところチェルノブイリ事故という「歴史」に依拠することによって、私たちの立ち位置を考えていくしかないと考えるのである。

このような点を前提として、この問題を今後とも折に触れてみていきたいと考えている。

Read Full Post »

さて、今回は、福島第一原発誘致に積極的だった大熊町長とその息子の話をしてみよう。本ブログにおいても、『現代思想』2011年6月号に掲載した拙稿「福島県に原発が到来した日―福島第一原子力発電所立地過程と地域社会」においても書いたが、原発立地において、当時の大熊町長は積極的であった。参考のため、拙稿「福島県に原発が到来した日」から、その部分を引用しておこう。

一九六三年になると、東電自身も具体的な調査を行った。この調査を担当したのが東電社員佐伯正治であり、彼は用地買収中であるので、現地の人にわからないように、若い女子社員とともにピクニックを装って調査を行ったと回想している 。そして、その年の暮には東電による現地測量が開始された。この時、測量を担当したのがこの佐伯である。その際は県の開発部から一人同行した。佐伯によると、宿舎に、突然大熊町長が四斗樽をもって現れたという。大熊町長は、「陣中見舞に酒を持ってきました。私は東電原子力発電所に町の発展を祈念して生命をかけて誘致している。本当に東電は発電所を造ってくれるのですか」(佐伯「当初の思い出」、樅の木会・東電原子力会編『福島第一原子力発電所1号機運転開始三〇周年記念文集』2002年所収)と問いかけ、その気迫に圧倒されたと佐伯は回想している。佐伯は、頭の中を整理して、「必ず建設しますからご安心下さい。我々土木屋が来たのは建設準備の第一歩です。基準点の測量するのが事の始まりです」と答えたという。しかし、その後も町長は、何回も「建設してくれますか」と尋ねたという。
町長は、測量するには足が必要であるから、私の車を使ってくださいと帰り際に言い置いた。翌朝、差し回された車は高級車デボネアの新車であった。また、それ以外、作業員も大熊町で世話してもらったということである。

このように、福島第一原発誘致につき、当時の大熊町長は涙ぐましい努力をしたのである。

この大熊町長は、誰であったのであろうか。

『朝日新聞』2011年5月27日付朝刊に掲載された、小島寛明・中井大助「『後進の町』共存の果てに 神話の陰に 福島原発40年」の中で、この大熊町長の息子の動向が伝えられている。

 

東電は64年12月、現在の原発敷地内に福島調査所」を設置。そこに臨時社員として加わったのが、大熊町民の志賀秀朗(79)だ。高校卒業後、長男として農業を継いでいたが、同町長だった父親の秀正(故人)の勧めで、東電に入った。

この記事中に出てくる、志賀秀朗の父親である故志賀秀正が、佐伯の回想にある原発誘致に積極的であった大熊町長なのである。志賀家は、原発が所在する大熊町においては、相馬藩の在郷給人―旧士族の一族である有力者であった。そして、息子の志賀秀朗は、この記事には出ていないが、後述するように、当時町役場職員であった。わざわざ町役場をやめて、東電で働くようになったのである。

息子の志賀秀朗は、『朝日新聞』記事において、福島第一原発を受け入れた当時の大熊町を次のように語っている。

 

「当時は何もない、福島県の中でも貧乏な場所だった」。志賀によると、夏は農作業をして、冬になると男の8割くらいが関東に出稼ぎに行っていた地域だった。太平洋に面しているが良港はなく、観光資源も他の産業もなかった。「所得が増える、働く場所もできると、町民の大部分が、原発を歓迎していた」と志賀は振り返る。

志賀秀朗は、「同町と双葉町にまたがる福島第一原発のため、波の向き、潮の流れなど、海洋調査に当たった」(『朝日新聞』)と、福島第一原発建設のため、努力していた。職務をみると、地域住民の特性を生かしたものだったといえる。親は町長として原発誘致に尽力し、息子は、福島第一原発建設の実務を担うーまるで「父子鷹」のようである。

『朝日新聞』は、息子の志賀秀朗を、このように表現している。

 「大熊町と東京電力の共存共栄の歴史だった」。こう話す志賀は、自身がそれを体現した存在だ。
 臨時社員の後は東電の正社員となり、87年まで1~6号機を建設する際などの土木関連業務に従事。同年9月には、父親の2代後の町長に当選。2007年までの5期20年、原発立地町の顔としてあり続けた。

つまりは、臨時社員から東電の正社員となり、やめてからは、町長になるという、絵に描いたようなサクセスストーリーを演じていたのである。

福島第一原発誘致の際、父の志賀秀正より心のこもった接待を受けていた東電社員の佐伯正治は、息子の志賀秀朗について、次のように語っている。

 

志賀現町長(志賀秀朗)は調査所が開設された時勤めていた町役場を止めて常傭員として土木課の一員になった。これは一軒の家で2人も役場に勤めていることに肩身の狭い思いをしていたので建設が終われば解雇という不安定な常傭員でも良いと決断したとのことである。
 土木課員として土木工事特に港湾工事の完成に情熱を注がれた。建設所になって小林健三郎副本部長が現地駐在となり、常傭員の人達の将来と原子力発電所の在り方を考慮され関係者の皆さんと協力され、1号機運開(1971年)後に常傭の人全員が社員に登用された。これは東電の水力、火力建設所では未だかつて無い快挙である。現志賀町長は社員となり土木課員として活躍され第一期工事完成後も増設工事、土木設備保守に従事し、やがて東電を退職して町長に選出され、現在に至っている。
 父が誘致し、息子が建設し、保守するという親子二代にわたる愛情を注がれた東電福島第一原子力は他に例を見ない幸運児といえよう(佐伯前掲書)。

佐伯は、「土木屋」を自認しており、たぶん志賀秀朗の上司になったであろう。

『朝日新聞』は、志賀秀朗の言葉を引用して、このように言っている。

 「徐々ににぎやかになった。出稼ぎもなくなったしな」。志賀の言葉を裏づけるように、原発での雇用が生まれ、町の人口は増加の一途をたどった。1965年に7629人だったが、国勢調査のたびに増え、2005年には1.5倍近い1万992人となった。

ただし、多少、これには私として異論がある。原発建設が雇用を増加することは確かではあるが、運転を開始してしまうと、平常時にはそれほど人員はいらない。除染・修繕・燃料交換などの定期点検時には雇用は増加するが、それは、下請け労働が主の非正規雇用でり、しかも、放射線被曝の恐れがある労働なのである。

日本原子力産業会議編『原子力発電所と地域社会・各論編』(1970年)によると、福島第一原発建設時の1969年3月末の時点で、電力会社常傭は、町内(大熊町・双葉町)45人、県内8人で、総計53人である。他方で工事業者の職員・労務者の総計は、町内704人、県内504人、あわせて1208人である。常傭自体が数少なく、正社員になるのは、原発労働者でも一握りの存在であった。

ある意味では、同じように皆が豊かになったわけではない。しかし、望ましいものではないかもしれないが雇用があり、さらに、数少ないまでもサクセスストーリーが存在するようになったということは、相対的にはプラスとして大熊町は受け取ったということなのであろう。

 しかし、3月11日は、二代にわたる志賀町長親子の思いを押しつぶした。

 

3月11日、東日本大震災による津波は、海岸から約300メートルに住む志賀の自宅も襲った。「バリバリッと、木の倒れる音がした」。辛くも難を逃れた志賀は親族を頼って、福島県葛尾村→福島市→川崎市と転々とし、現在は横浜市の親戚宅に身を寄せている。
 福島第一原発から大量の放射能がもれ出した事態に、「まさか、炉心溶融が起きるとは考えていなかった」。志賀は、「自分の人生上、東電の仕事は勉強になった。だから、今の自分がある」と、今も自分がある」と、今も東電への愛情をにじませる。町民についても、「長年、原発とともに生活をし、いい生活だったと考えている人もいるでしょう」と話した。
 だが、「町長として悔いはあるか」と問われ、こう答えをしぼり出した。私の人生は、3月11日をのぞけばよかった。こういう事態になって残念だ」(『朝日新聞』)

 志賀秀朗元町長の思いは、多少は想像できる。しかし、「歴史」とは残酷なものである。3月11日という結果が、すべての叙述の意味を変えてしまう。佐伯の回想などは、今聞いてみると痛ましい思いがする。私自身からみると、志賀秀朗元町長のいうように、原発との共存は全てがバラ色ではない。だが、志賀親子は、とりあえずでも地域社会を活性化しようとはしていたのだ。

それでも、「残酷な歴史」は、志賀親子の努力を、彼らの意図とは全く逆な形で位置づけるであろう。批判するつもりはない。ただ悲しいだけだ。

しかし、他の原発立地自治体の首長や住民たちは、自分たちがこの「残酷な歴史」の中で、将来、どのように位置づけられるのかを、自分自身の問題として、よく考えてもらいたいと思う。志賀町長親子は、原発の危険性をそれほど意識してはいなかった。今はそうではないだろう。

そして…今や、私たちは、福島第一原発事故において決死で処理を行っている人々の中に、志賀町長親子の後継者たちがいることを認識しなくてはならない。そう、原発立地町村から、社員や下請けで原発労働者として働いている人々である。皆が豊かに働いていたわけではなかっただろう。しかし、今は、彼らの営為に、将来がかかっているのだ。それだけは、言っておかねばならない。

*付記:拙稿「福島県に原発が到来した日」で福島第一原発は大熊町夫沢の南部にあるように書いたが、東部と表現するほうが適当であろう。正確な地理を承知しなかったことが悔やまれる。

Read Full Post »

« Newer Posts