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安倍晋三首相が、4月29日、欧州歴訪に出発した。そのことを伝える朝日新聞のネット配信記事を下記に掲載しておく。

安倍首相、ドイツに到着 欧州歴訪、EPAなど協議
小野甲太郎 小野甲太郎2014年4月29日17時36分

 安倍晋三首相は29日午後、ドイツ、英国、ポルトガル、スペイン、フランス、ベルギーの欧州6カ国訪問のため、政府専用機で羽田空港を出発し、同日夕(日本時間30日未明)、最初の訪問地ドイツ・ベルリンに到着した。30日昼(日本時間同日夜)にメルケル独首相と会談する。

 首相は出発に先立ち羽田空港で記者団に、「日本と価値観を共有する欧州との関係を強化し、日本の発信力を強化していきたい」と語った。

 首相は訪問先の各国首脳や、経済連携協定(EPA)交渉を進める欧州連合(EU)首脳と会談する。ロンドンの金融街シティーのギルドホールで演説するほか、経済協力開発機構(OECD)閣僚理事会では議長国として基調講演。北大西洋条約機構(NATO)理事会でも演説する。主要7カ国(G7)メンバーの各国首脳とはウクライナ情勢への対応も話し合う予定だ。(小野甲太郎)
http://www.asahi.com/articles/ASG4Y4J60G4YUTFK003.html?iref=com_alist_6_03

このニュースを聞いて気になったのは、出発直前に安倍首相が語った「日本と価値観を共有する欧州との関係を強化し、日本の発信力を強化していきたい」というフレーズである。さてはて、日本と欧州は、価値観を共有しているのだろうか。

例えば、2012年4月、まだ野党であった自由民主党が出した日本国憲法改正案を説明した「日本国憲法改正案Q&A」増補版において、自由民主党は基本的人権における改正の意味について、次のように説明している。

また、権利は、共同体の歴史、伝統、文化の中で徐々に生成されてきたものです。したがって、人権規定も、我が国の歴史、文化、伝統を踏まえたものであることも必要だと考えます。現行憲法の規定の中には、西欧の天賦人権説に基づいて規定されていると思われるものが散見されることから、こうした規定は改める必要があると考えました。
例えば、憲法 11 条の「基本的人権は、……現在及び将来の国民に与へられる」という規定は、「基本的人権は侵すことのできない永久の権利である」と改めました。
https://www.jimin.jp/policy/pamphlet/pdf/kenpou_qa.pdf

つまり、改憲案では、明確に「西欧の天賦人権説」を排除しているのである。憲法における基本的人権という最も根幹に存在する「価値観」において、自民党は「欧州」とはあえて異なった見解をもっている。そして、この自民党が中心になって組織されたのが、安倍政権にほかならないのである。

このように考えてみると、自民党ー安倍政権は、欧州との関係において、重大なアポリアをかかえているといえる。安倍首相としては、「日本の発信力を強化」するという一点で、欧州諸国との間では「価値観の共通」を強調しなくてはならない。しかし、「欧州との価値観の共通」を強調することは、憲法改正案で表出された自身の「価値観」を否定することにつながってくる。ある意味で、必然的に「自虐」が必要となってくるのである。他方で、すでに憲法改正案は公表されているのであって、欧州諸国の観察者においても、よく注視するならば、安倍政権の「価値観」における二重基準をみてとることができよう。それゆえ、どのように価値観の共通を安倍首相が強調しても、心からの信頼を得ることは難しくなるだろう。

しかし、安倍政権としては、アジアの隣国である中国・韓国に対抗している以上、欧米との連携を強めることにつとめざるをえない。結局、現代における「脱亜入欧」をはからなくてはならないのである。そして、このように「脱亜入欧」の立場をとることが、経済的な優越性を喪失した日本が、アジアにおける「大国」としての立場を保ちつづけるために必要とされていると、安倍政権はみているだろう。このように、「脱亜入欧」しているという意識があるがゆえに、中国・韓国などのアジア地域の人々に対する優越感を維持していけると認識していると考えられる。

だが、この戦略は、現在でも長期的に適用できるものなのだろうか。例えば、安倍晋三の祖父岸信介が首相をつとめていた冷戦期ならば、核戦争の恐怖の下、「社会主義圏」に対抗するという名目で、どれほど自由のない独裁国家でも価値観を共通する「自由主義圏」の一員として遇されることはありえただろう。しかし、「社会主義圏」が崩壊したポスト冷戦期の現在、いくら、中国の台頭に多くの諸国が警戒感をもつといっても、それだけで「価値観」を共通するというわけにはいかないのである。

「天賦人権」を西欧起源であるとして否定する価値観をもつ自由民主党が基盤となって成立している安倍政権が、「欧州と共通の価値観」を有していると強弁し、自身の価値観について「自虐」しつつ、欧州諸国を外遊するという不条理。近代初頭に「脱亜論」を提唱した福沢諭吉は、「天賦人権論」を主張した一人でもあった。もちろん、「脱亜論」自体を批判すべきであるが、福沢は「欧州の価値観」を積極的に日本社会において啓蒙していたことも忘れてならないだろう。安倍首相は、欧州から何を学んでくるのだろうか。安倍は全く自覚していないと思うが、彼の「脱亜入欧」論は、もはや、福沢諭吉の時代の「脱亜入欧」論の戯画としてしかみることができないのである。そして、この「戯画」こそが、現代日本の真の鏡像といえよう。さらにいえば、「脱亜入欧」それ自体の終わりを予兆しているとも考えられるのである。

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前からこのブログで述べているように、12月6日、特定秘密保護法が成立した。この法については、世論調査では多くの人びとが反対もしくは慎重審議を求めていた。また、多くの法律家や学者・文化人たちも多くの反対声明を出している。政府とその与党である自民・公明党だけが賛成している法律のなのである。

このような特定秘密保護法案についての反対が渦巻く中で、東京大学法学部教授長谷部恭男は、11月13日に衆議院国家安全保障に関する特別委員会に出席し、参考人として特定秘密保護法案に賛成する意見を述べている。いわゆる学者の中で、これほどはっきり賛成意見を述べているのは少数派に属する。ここでは、長谷部の賛成意見をみておこう。

冒頭で長谷部はこのように述べている。

まず第一に、そもそもこの日本という国には特別の保護に値する秘密など存在しない、そういう立場も理論的にはあり得るとは思いますが、余り常識的な立場ではないだろうと思われます。そして、そうした特別な保護に値する秘密、これを政府が保有しているという場合には、みだりに漏えい等が起こらないよう対処しようとすることには高度の緊要性が認められますし、それに必要な制度を整備すること、これも十分に合理的なことであり得ると考えております。ほかの国でも、御案内のとおり、類似の制度は少なくございません。
http://www.shugiin.go.jp/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/027418520131113012.htm

長谷部のこの発言は、政府においては秘密保護が必要である、ゆえに「特定秘密保護法」は成立しなくてはならぬということに換言できるだろう。これは、よく自民党などが「特定秘密保護法」の必要性を主張するときに使っている論理である。ここには二つの問題点があろう。第一に、すでに国家公務員法などで公務上の秘密は保護されているが、なぜ新しい法律を作ってまで、新たな保護措置をとらなくてはならないのかということである。第二に、言論・出版などの表現の自由は基本的人権であり、これらの基本的人権については「公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」(日本国憲法第十三条)とされているが、そのような基本的人権の尊重と「公共の福祉」を比較して検討しようとする姿勢が欠けていることである。特に、第二の点が重要である。かりに政府における秘密保護の必要性が「公共の福祉」とされた場合でも、それは、基本的人権を最大限に尊重するという背反する義務の中で比較されなくてならない。言論・出版の自由などの基本的人権を擁護することが本則であり、政府の秘密保護ということは、必要性があるにせよ、最小限の例外にすべきことなのではなかろうか。長谷部の賛成意見においては、基本的人権の尊重ということを明示的にみることができないのである。

次に、長谷部は、このように言っている。なお、ここでは、例示として独占禁止法をあげているところを省略しておいた。

それから第二に、この法案の別表の記載等によりまして、何が特別な保護に値する秘密なのか、基本的な考え方は示されているわけですが、より具体的に言って、どのような情報が特別な保護に値する特定秘密なのかがわからないではないか、よくわからない、これが批判の対象とされることもございます。

 ただ、これは、閣僚や国会議員の方々を含めまして、人はおよそ全知全能ではございませんので、何が特別な保護に値する秘密なのかをあらかじめ隅々まで確定する、これはおよそ不可能でございまして、その答えは、具体的な事例ごと、専門知識を持つ各部署で判断し、個別に指定をしていくしかない、そのことによるものではないかと考えております。

(中略)

 特定秘密につきましても事情は同様と考えることができるわけでございまして、誰が考えても特別な保護に値する情報だろう、誰が考えてもそれには当たらないだろう、そういう情報をあらかじめ例示することはできると思われますが、その他の情報、これは具体的な事例ごとに、専門知識を持つ各行政機関で的確、合理的に判断し、その都度指定をしていくしかないのではないかと思われます。いわば暗闇の中で立法者があらかじめ確定をしてしまうというわけには、なかなかいかないもののように思われます。

この議論は、かなり乱暴である。これならば、すべての法を立法時に詳細に規定する必要はなくなるだろう。特に問題なのは、この法は基本的人権を侵害するおそれがある法律であり、それゆえ、基本的人権を抑制する際において事例を限定しておかねばならないと考えられるが、逆に、特定秘密保護法案の無規定性を擁護してしまっているのである。これは、最初のことともつながるが、権利を抑制する際の規定は厳密にすべきであり、そこから漏れてしまった事例は、この法の対象外にすべきであろう。それが不都合であれば、法改正をすればいいだけの話である。はっきりいって、特定秘密保護法の対象にしなくても、公務員の守秘義務によって秘密は守られる。そもそも、基本的人権を尊重するという意識がないがゆえに、このような議論をしているといえよう。

次に長谷部はこのように議論している。

それから第三に、この法案は、ごらんのとおり、政府が保有する情報の中で、公になっていないものであって、かつ特定秘密として指定されたものにつきましては、それを漏えいする行為、あるいは漏えいを唆したり扇動したりする行為、それらを処罰の対象としております。

 ただ、世の中一般におきましては、民間の方が独自に収集をした情報でありますとか、既に公になっている情報についても、その保有が処罰の対象とされかねないという、言ってみれば、一種のホラーストーリーが流布をしております。

 もちろん、こんなことを処罰の対象にすることには私自身も絶対に反対でございますが、ただ、これはこの法案の内容とは違う話でございますので、この種のホラーストーリーも、この法案を批判する根拠には余りならないのではないかというふうに私は考えております。

確かに、本来は、政府機関の保有情報のみが保護対象とされている。ただ、その保護対象が広範で無限定である。例えば、原発警備関係もテロ関係で特定秘密保護法の対象となるとされている。原発警備が問題であるならば、核燃料の輸送も該当する可能性がある。例えば、もし、私が、原発関係者に核燃料輸送・コースなどを聞き出して、そのことを本ブログに掲載した場合、特定秘密保護法に抵触する可能性がある。こういうことは、全く杞憂ではない。私が、福井地方の原発を訪問し原発宣伝施設に入館した際、原発の取水口は撮影しないでほしいと要請されたことがある。その理由がテロ警備だった。もちろん、原発の取水口など秘密にできないものであるが、それでもテロ警備で撮影が禁止されたのである。こういうことが、たぶん横行するだろう。それこそ、今後は、原発撮影禁止の理由を聞いただけで、秘密の暴露を迫ったということになりかねない。「何が秘密なのかが秘密」なのである。

さらに、長谷部はこのように指摘している。

それから第四、それでも、この法案の罰則規定には当たらないはずの行為に関しましても、例えば、捜査当局がこの法案の罰則規定違反の疑いで逮捕や捜索を行う危険性、それはあるのではないかと言われることがございます。

 我が国の刑事司法は、御案内のとおり、捜索や逮捕につきましては令状主義をとっておりまして、令状をとるには、罪を犯したと考えられる相当の理由ですとか捜索の必要性、これを示す必要がございますので、そうした危険がそうそうあるとは私は考えておりませんが、もちろん、中には大変な悪巧みをする捜査官がいて、悪知恵を働かせて逮捕や捜索をするという可能性はないとは言い切れません。

 ただ、そうした捜査官は、実はどんな法律であっても悪用するでございましょうから、そうした捜査官が出現する可能性が否定できないということは、まさにこの法案を取り上げて批判する根拠にはやはりならないのではないか。むしろ、そうした捜査官が仮に出現するのでありましたら、そうした人たちにいかに対処するのか、その問題に注意を向けるべきではないかと考えております。

これも、かなり乱暴な議論である。人権保護の観点からいえば、このような拡大解釈の余地をなくして、不当な捜査が行われることを防ぐべきであろう。そして、悪用する捜査官がいるならばという議論を展開している。このような悪用する捜査官がいるのは、確かに脅威である。しかし、最も恐れるべきは、国家全体が組織的に不当逮捕を行うことである。むしろ、国家による人権侵害の可能性こそ、抑止されるべきものなのである。

さらに、長谷部は、次のように指摘している。

それから第五に、この法案、これは報道機関の取材活動に悪影響を及ぼすのではないかという懸念が示されることもございます。

 ただ、広く知られておりますとおり、いわゆる外務省秘密電文漏えい事件に関する最高裁の決定がございまして、これは平たく申しますと、よほどおかしな取材の仕方をしない限りは、報道機関が情報の開示を公務員に求めたからといって、処罰されることはないと言っております。

 この法案の第二十一条第二項の条文は、こうした判例の考え方はこの法案に対しても当てはまるのだ、そのことを改めて確認しているものと考えております。

 これは、報道機関に対しまして、一種、一般市民には認められないような特権を認める考え方のあらわれでございまして、報道機関の取材、報道活動、これが民主主義社会を支える重要な役割を果たす、それを根拠にするものでございます。

 ただ、この条項につきましても、具体的に言って、では誰が報道機関のメンバーと言えるかが明確ではないという批判が聞かれております。

 私自身は、これはさほど困った問題ではないと考えております。常識的に申しまして、誰が報道機関のメンバーであるか、これは大部分の場合は容易に判断できるはずでございます。

また、仮に判断の難しい事例が起こり得るといたしましても、そうした判断が求められますのは、実際に特定秘密の漏えいを唆す行為等がなされた場合でしょうから、そうした事件が実際に発生をしたときに、その具体的な状況に即して、果たしてその当事者が報道機関のメンバーと言えるのか、その行為が公益を図る目的からなされたもので、しかも、著しく不当な方法によるものと言えるかどうか、これを裁判所が個別に判断をすれば足りるのではないかと考えます。

これは、先ほど、一般の人がブログなど発信した場合、処罰されるのかということに関連している。この場合、報道機関関係者が情報を入手し発表した場合は処罰されないが、私などがブログで書いた場合は処罰されるということになるだろう。実際、米国愛国者法のもとで、アメリカでは多くのブログが閉鎖に追い込まれたそうである。著しく不公平としかいわざるをえない。

なお、この後、長谷部は、何を報道機関とするのかを今の段階で定義するのは適当ではないとしていることについて、また、「前にも申し上げましたとおり、人間は全知全能ではございませんので、あらかじめ法律の条文等でこの種の問題の結論を決め切ってしまう、それが賢明であるとは必ずしも言えないように思われます。」といっている。これが、いかに立法することの意義を阻害させるかについては、前述した通りである。さらに、情報の流通を独占的に認めさせることについて、そもそも定義していないということも、恣意的な運用の要因となりえよう。さらに、何をジャーナリストとするかについても、実際は多様である。ジャーナリストは、新聞社・テレビ局・雑誌などのマスコミに所属している者だけではない。フリージャーナリストも多く存在しており、さらには、政党機関紙の記者もいる。昨年、原子力規制委員会が日本共産党の機関紙「しんぶん赤旗」の記者を記者会見から排除しようとして物議をかもしていた。今後、こういうこともありうるのである。

最後に、長谷部はこのように述べている。

さらに、これが最後になりますが、こうした法律をつくること自体が、政府の保有する情報を取り扱う公務員の萎縮を招きまして、全体として報道機関の取材活動を困難にすると言われることもございます。ただ、この法案の目的がそもそも、特別な保護を必要とする政府保有情報に関しまして特に慎重な取り扱いを求めようとするものでございますので、慎重な取り扱いをしているということは、悪く言えば萎縮をしているということになるのかもしれません。ただそれだけのことのようにも思えるわけでございます。

 つまり、この問題は、そもそも日本という国には特別な保護に値する政府保有情報があるのかないのかという、冒頭の問題に戻っていくことになります。そんな情報はないという立場も理論的にはあり得ないわけではないとは思いますが、私は、それは余り常識的な立場ではないと考えております。

まあ、単純にいってしまえば、長谷部は、公務員の秘密保全を厳格するのが目的であって、その結果、報道機関の取材活動が困難になってもかまわないと主張しているのである。そして、長谷部は、冒頭の問題にもどって、厳格に保護しなくてはならない政府の秘密情報があるのは常識だと指摘しているのである。

ここで、また、私たちも最初の問題に戻らなくてはならない。そもそも、今までより厳格に秘密をなぜ保護しなくてはならないのかということ、そして、そのことが認められるとしても、基本的人権の尊重義務と比較して検討されているということである。

長谷部は、NHKが11月28日に配信した「視点・論点 特定秘密保護法案」においても、衆議院の意見陳述と同様の意見を述べた上で、最後に、このように指摘している。

つまり、この問題は、そもそも日本という国には、特別な保護に値する政府保有情報はあるのかないのか、という冒頭の問題に戻っていくことになります。国民の生命や財産の安全よりも知る権利の方が、いつも必ず大切だと、言い切ってしまっていいのかという問題です。
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/174326.html

この文章のほうが、より長谷部の主張が明確に表現されているといえよう。長谷部にいわせれば、政府保有情報の保護は「国民の生命や財産の安全」にかかわる問題であり、「知る権利」はそれを超えて主張すべきものではないというのである。人権よりも、政府保有情報の保護を優先する論理ということができよう。

この長谷部の主張は、彼の独特な人権観・憲法観に基づいており、機会があれば、そのことをみておきたい。ただ、ここでは、11月22日に表明された表現・言論の自由保護の国連特別報告者フランク・ラ・ルー(グアテマラ出身)と、健康の権利の国連特別報告者であるアナンド・グローバーによる、特定秘密保護法案に対するコメントの結論部分を再度引用して、長谷部恭男の特定秘密保護法案に対するコメントにかえておきたい。

「日本を含め、ほとんどの民主主義国は、国民の知る権利をはっきりと認識しています。例外的な状況では、国家安全保障の保護に機密性が必要になりうるとしても、人権基準は、最大限の開示という原則を常に公務員の行動指針としなければならないことを定めています」。
http://www.unic.or.jp/news_press/info/5737/

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