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Posts Tagged ‘地震’

さて、現在進行形で熊本では大地震が続いている。九州などの西南日本は、関東・東北・北海道などの東北日本と比べ、相対的には地震が少なかったと言われている。しかし、歴史的には、大地震がないというわけではない。国立科学博物館のサイトでは、「熊本地震」と題され、次のように記述されている。

1889(明治22)年7月28日、熊本県西部を強い地震が襲いました。震源は熊本市の西、マグニチュードは6.3と推定されています。死者20名、建物の全潰239棟の被害がありました。この地震は地震学会が1880年に日本で発足してからはじめて都市を襲ったものとして調査が行われ、また、遠くドイツのポツダムの重力計に地震波が記録され、遠い地震の観測のきっかけとなったといわれています。ここに掲げた写真は、わが国の地震の被害を写したもっとも古いものかもしれません。http://www.kahaku.go.jp/research/db/science_engineering/namazu/index.html

このサイトによると、いろいろな意味で熊本地震は科学的地震調査の契機となったとされている。そして、被災した地域の写真も掲載されているが、その中には熊本城の石垣が崩れた写真が何枚かあげられている。このサイトによると、日本で最も古い地震被害の写真なのかもしれないとされている。

この熊本の地震については、ウィキペディアでも紹介されている。特に興味深いのは、この熊本城の被災の記録をあげているところだ。

『防災くまもと資料 恐怖におののいた明治22年の大地震』[2]によると、五野保萬(ごのやすま)は、日記で次のように記している。

7月28日。夜大地震の事。さて、夜11時30分に地震起こり、一時は家も倒れる如く揺れ出し、実に稀なる大地震にて恐怖甚だし。8月4日 今度の大地震の原因は飽田郡金峰山より発せんと、もっぱら風評の談、山噴火の籠り居る由。8月7日、今日も震動一度をなす。今に熊本及近傍の人民は、山鹿町諸方に逃げ、家財を運搬して、身の要心をなす。熊本より山鹿町迄運送する車力人力等の賃銭六円も取り、実に滅法の賃金。(中略)急迫の場合は、やむをえないこと右の如し。(中略)熊本城百閒石垣古より大変ありといえども少しも動くことなし。今度の震動に合う長さ五間余崩落、城内の大なる石垣所々崩れ、依って鎮台兵も城内を出て、山崎練兵場或いは、川尻付近に出張あり。城内には哨兵のみ残しあり。皆28日の震動には鎮台兵死人負傷人多くあり。周章狼狽硝子石垣より落、身を傷くもあり、丁度大砲の音ぞなしずば、又合戦発せしと驚き誤りて死傷せりとぞ。

五野保萬は明治元年(1868年、数え年15歳)から昭和5年(1930年)に77歳で逝去するまで日記を残した。五野家は熊本県菊水町(現:和水町)にある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E6%9C%AC%E5%9C%B0%E9%9C%87_(1889%E5%B9%B4)

熊本城は西南戦争における激戦地の一つであり、その後も軍隊が駐屯していた。この熊本城が地震によって被災したが、単に地震被害だけではなく、戦争の記憶がよみがえり、そのための誤認攻撃もあって、駐屯していた軍隊に死傷者が出たというのである。

今回の地震は、1889年の地震よりもかなり大きい。しかし、100年程度のスパンで考えると、城の石垣が崩れるような地震は熊本ではないことではないのである。

このようなことは、かなり時代をさかのぼっても見ることができる。古代史研究者の保立道久は自著『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)の内容を紹介する「火山地震103熊本地震と中央構造線ーー9世紀地震史からみる」という記事をネットであげている。保立は、いわゆる東日本大震災と同等の規模だったとされる貞観地震(869年)は、大和などの地震と共に、肥後(熊本県)の地震を誘発したとsて、次のように指摘している。

 

より大きな誘発地震は、陸奥沖海溝地震の約二月後の七月一四日、肥後国で発生した地震と津波であった。その史料を下記にかかげる。 

 この日、肥後国、大風雨。瓦を飛ばし、樹を抜く。官舍・民居、顛倒(てんとう)するもの多し。人畜の圧死すること、勝げて計ふべからず。潮水、漲ぎり溢ふれ、六郡を漂沒す。水退ぞくの後、官物を捜り摭(ひろ)ふに、十に五六を失ふ。海より山に至る。其間の田園、数百里、陷ちて海となる。(『三代実録』貞観一一年七月一四日条)

 簡単に現代語訳しておくと、「この日、肥後国では台風が瓦を飛ばし、樹木を抜き折る猛威をふるった。官舎も民屋も倒れたものが多い。それによって人や家畜が圧死することは数え切れないほどであった。海や川が漲り溢れてきて、海よりの六郡(玉名・飽田・宇土・益城・八代・葦北)が水没してしまった。水が引いた後に、官庫の稲を検査したところ、半分以上が失われていた。海から山まで、その間の田園、数百里が沈んで海となった」(数百里の「里」は条里制の里。六町四方の格子状の区画を意味する)ということになろうか。問題は、これまで、この史料には「大風雨」とのみあるため、宇佐美龍夫の『被害地震総覧』が地震であることを疑問とし、同書に依拠した『理科年表』でも被害地震としては数えていないことである。

 しかし、この年の年末にだされた伊勢神宮などへの願文に「肥後国に地震・風水のありて、舍宅、ことごとく仆顛(たおれくつがえれ)り。人民、多く流亡したり。かくのごときの災ひ、古来、いまだ聞かずと、故老なども申と言上したり」とあったことはすでに紹介した通りで、相当の規模の肥後地震があったことは確実である。津波も襲ったに違いない。これまでこの史料が地震学者の目から逃れていたため、マグニチュードはまだ推定されていないが、聖武天皇の時代の七四四年(天平一六)の肥後国地震と同規模とすると、七.〇ほどの大地震となる。ただ、この地震は巨大な台風と重なったもので、台風は海面にかかる気圧を変化させ、高潮をおこすから被害は大きくなる。それ故にこのマグニチュードはあくまでも試論の域をでないが、それにしても、一〇〇年の間をおいて二回も相当規模の地震にやられるというのは、この時代の肥後国はふんだりけったりであった。
http://blogos.com/article/172078/?p=2

この保立の指摘については、いわゆる貞観地震が肥後国地震を誘発したのかなど、まだ検討すべき課題が残っているように思われる。ただ、保立の主張に従うならば、8世紀と9世紀、ほぼ100年間隔で熊本地方は大地震に見舞われたことになる。

よく、地震を引き起こす断層については、少なくとも数百年もしくは数千年単位でしか動かないとされる。多分、断層の一つ一つはそうなのだろう。しかし、断層が多く集中する地域ではどうなのだろうか。熊本地方は、日本最大の断層帯である中央構造線が通っているとされている。個々の断層が別々に地震を引き起こしたとしても、それぞれの断層が地震を発生する周期よりも短い間隔で地震は起きてしまうだろう。さらに、実際、今回の熊本地震がそうであるように、隣接した断層の地震を誘発する場合もあろう。

このように、100年を超えたスパンで考えるならば、熊本での地震はないことではなかったのだ。そして、それは、熊本など中央構造線に限らず、多くの断層帯があり、その断層の活動によっても形成された日本列島に所在している社会にとって、地震は逃れ得ない問題なのである。

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2016年4月18日現在、九州の熊本地方に地震が襲っている。4月14日夜、マグニチュード6.5、最大震度7の地震が起こり、16日未明にはマグニチュード7.3、最大震度6強の地震が発生した。16日以後、震源域は東側の阿蘇地方・大分地方にも拡大しつつ、最大震度6・5クラスの地震が相続いている。最大震度5以上の地震は4月14日に3回、15日に2回、16日に9回発生した。17日に大きな地震はなかったが、4月18日の夜、本記事を書こうとした際、最大震度5強の地震が発生したという報道に接した。

この地震については、地震の専門家である気象庁が「観測上例がない」と困惑を見せている。次の毎日新聞のネット配信記事を見てほしい。

<熊本地震>気象庁課長 観測史上、例がない事象を示唆
毎日新聞 4月16日(土)11時21分配信

<熊本地震>気象庁課長 観測史上、例がない事象を示唆

 ◇熊本、阿蘇、大分へと北東方面に拡大していく地震現象に

 気象庁の青木元(げん)地震津波監視課長は16日午前の記者会見で、熊本、阿蘇、大分へと北東方面に拡大していく地震現象について「広域的に続けて起きるようなことは思い浮かばない」と述べ、観測史上、例がない事象である可能性を示唆。「今後の(地震)活動の推移は、少し分からないことがある」と戸惑いを見せた。

 また、14日の最大震度7の地震を「前震」と捉えられなかったことについて、「ある地震が発生した時に、さらに大きな地震が発生するかどうかを予測するのは、一般的に困難だ」と述べた。

 熊本地方などを含む九州北部一帯は低気圧や前線の影響で、早い所で16日夕方ごろから雨が降り始め、16日夜から17日明け方にかけては広い範囲で大雨が予想されている。青木課長は「揺れが強かった地域は土砂災害の危険が高い。さらに雨で(地盤が)弱くなっている可能性があるので注意をしてほしい」と呼びかけた。【円谷美晶】
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160416-00000052-mai-soci

気象庁に言わせれば「観測史上例がないこと」なのだろう。しかし、本当に未曾有のことなのだろうか。熊本地震の報道に接しながら、地震学者石橋克彦著の『大地動乱の時代』(岩波新書、2014年)を想起した。本書の冒頭部分は「幕末ー二つの動乱」と題されている。嘉永6年(1853)にペリーの黒船艦隊が来航し、それ以来、日本は幕末の動乱を迎えていくことになる。石橋によると、この時期は日本列島で地震活動が盛んになった時期でもあった。ペリー来航より少し前の嘉永6年2月2日(1853)、マグニチュード7の「嘉永小田原地震」が発生した。
 
翌嘉永7年(1854)にペリーは再来航し、日米和親条約が締結される。この年の6月15日に、伊賀上野・四日市・笠置山地でマグニチュード7.2、6.7、6.8の地震が相次いで発生し、桑名から京都・大阪までの広い範囲で震度5以上の揺れとなり、1000人以上が死亡したという。11月4日には、駿河ー南海トラフを震源としたマグニチュード8.4の「安政東海地震」が発生した。東海地方の多くの地域が震度6以上の揺れとなり、さらに伊豆半島から熊野灘まで海岸に津波が襲来した。場所によっては津波は10m以上に達したという。
 
 そして、「安政東海地震」発生の約30時間後の11月5日、紀伊半島・四国沖の南海トラフを震源とするマグニチュード8.4の「安政南海地震」が発生した。紀伊半島南部と四国南部は震度6以上の揺れに見舞われ、伊豆半島から九州までの沿岸には津波が襲来した。大阪にも津波は及んだのである。そして、黒船来航、御所焼失とこれらの一連の地震を考慮して、11月27日に年号は「安政」に改元されたのである。

しかし、改元されても、地震は止まなかった。安政2年10月2日(1855)、安政江戸地震が発生した。マグニチュードは6.9であったが、都市直下型地震であったため、江戸市中を中心に震度6以上の揺れになった。火事も発生し、1万人以上が死んだとされている。そして、これらの地震活動は、石橋によると1923年の関東大震災にまで継続していったとされている。

このように、3年あまりの間で、日本列島は5回もの大地震に遭遇したのである。石橋は次のようにいっている。

江戸時代末の嘉永6年(1853)、日本列島の地上と地下で二つの激しい動乱が口火を切った。二つの激動は時間スケールこそ多少ちがっていたが、ともに、そのご十数年から数十年のあいだに日本の歴史を左右することになる。(石橋前掲書p4)

確かに、このような短い時期に大地震が集中したのは希有のことだっただろう。しかし、日本列島で、大地震が連続して発生することは未曾有のことではないと歴史的に言える。

石橋は次のように指摘している。

黒船に開国を迫られた幕末の動乱期、関東・東海地方の大地の底では、もう一つの「動乱の時代」が始まっていた。嘉永小田原地震を皮切りに、東海・南海巨大地震がつづき、安政大地震が江戸を直撃する。そして、明治・大正の地震活動期をへて、ついに大正12年の関東巨大地震にいたる。
 それから71年。東京は戦災の焦土の中から不死鳥のごとくに蘇り、日本の高度経済成長と人類史上まれにみる急速な技術革新の波に乗って、超過密の世界都市に変貌した。しかし、この時期は、幸か不幸か、大正関東地震によって必然的にもたらされた首都圏の「大地の平和の時代」(地震活動静穏期)にピタリと一致していた。敗戦による「第二の開国」のあと日本は繁栄を謳歌しているが、首都圏は大地震の洗礼を受けることなく、震災にたいする脆弱性を極限近くまで高めてしまったのである(石橋前掲書p1)

日本の戦後復興・高度経済成長・技術革新の時代は、石橋によれば首都圏の「大地の平和の時代」(地震活動静穏期)でもあった。「技術革新」の中には、地震科学の発展も含まれるであろう。気象庁などによる精緻化された「地震科学」は、「大地の平和の時代」における経験の産物なのであり、幕末のような「大地動乱の時代」にはそのままの形では対応しきれないのではなかろうか。

『大地動乱の時代』出版の翌年である1995年に阪神淡路大震災が発生した。2011年には東日本大震災が起きた。これ以外にも様々な地震が起きている。そして、今回の熊本地震の発生である。「大地動乱の時代」の再来を意識せざるをえない。そして、とにかく確認しなくてはならないことは、日本列島に住むということは、現状の科学で把握できるか否かは別として、このような地震の発生を覚悟しておかねばならないということである。

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よく、3.11後の福島の地域社会において「分断」があるとされている。この「分断」とは、どのようなものだろうか。基本的に考えれば、①東日本大震災の復興方針をめぐる対立、②福島第一原発事故における責任の所在、③放射能汚染の影響、この三つの要因によって「分断」が生じていると考えられる。

①の東日本大震災の復興方針をめぐる対立ということは、福島県だけでみられる問題ではない。深刻な地震・津波などの自然災害に見舞われた、岩手・宮城・福島3県を中心とする被災地全体でみられることである。大きくいえば、国・県・大企業などが企図している国家的・資本主義的な「復興」と、被災地住民の自生的・共同的な「復興」が相克しているとみることができるが、そればかりではなく、住民同士でも階級・地域・職種・ジェンダー・年齢によって「分断」されていると考えられよう。そして、例えば、宮城県女川町の漁港一本化問題や同県気仙沼市の巨大防潮堤建設問題のように、「分断」が顕在化してくるといえる。

このような「分断」も、また深刻な問題を惹起している。ただ、これらの問題は、多くは自然災害への人間社会の対応に端を発していることに注目しなくてはならない。東日本大震災における地震・津波などの自然災害は、人間社会の開発によって惹起された面を否定すべきではないが、基本的に、自然現象そのものである。通常の意味で、法的・社会的に責任を追及されるべき主体は存在していない。とりあえずは、自然災害に「人間」の側が対処しなくてはならないという論理は、「分断」されているといわれている国・県・大企業と住民、もしくは住民同士の中でも共有しているといえる。よく、「東日本大震災からの復興」が叫ばれているが、それは、おおむね、自然災害への人間社会の対応という論理で語られている。これは、大は安倍政権などの政府の「復興」方針から、歴史学界で広く取り組まれている「被災歴史資料レスキュー」などまで共通している。そして、そのような論理によって、福島県も含めて「復興」のスキームが形成され、資金・資材・人員が投入されている。そこにあるのは、「自然」と対峙した「人間」という認識枠組みなのだ。

もちろん、福島県でも、深刻な地震・津波被害からの「復興」をめぐる方針の対立をめぐって「分断」されている面はあるだろう。しかし、福島において特徴的なことは、②福島第一原発事故における責任の所在、③放射能汚染の影響、という後二者の要因があるということである。②の問題からみていこう。福島第一原発事故は、東日本大震災の地震・津波によって惹起されたものではあるけれど、そもそもこのような巨大な被害を与える原子力発電所をなぜ建設したか、そしてなぜ福島の地に集中立地したのか、津波災害などへの防護は万全であったのか、事故自体への対応や住民対策は適切であったのかなど、「人間社会」が責任を問われる問題である。天災ではなく人災なのだ。

そして、「人間社会」において、この人災において最も責任を負うべき主体は、国策として原発推進をすすめた国と、実際にその建設や運営に携わった東京電力である。これは、単に、国や東電のそれぞれの担当者の個人だけが担うべきではなく、国や東電というシステム全体が担うべき責任である。地震・津波などの自然災害において、全体としては責任をおうべき主体は存在しないといえる。しかし、福島第一原発事故では、責任をおうべき主体がいるのである。その点が、福島第一原発事故の特徴的な点の一つである。

ゆえに、福島県の場合、被災者の意味が違ってくる。福島第一原発事故の被災者の人的・物的被害は、国と東電の業務によってもたらされた損害である。その被害への損害賠償がなされなくてはならない。例えば、強制的に避難させられた被災者たちに国有化された東電が支払っている資金は、国と東電の業務によって生じた損害に対する賠償金であって、救援金や復興資金ではない。

それでありながらも、国や東電についての刑事責任の追及がなされず、福島第一原発事故の原因解明も十分はたされていない。また、国や東電の損害賠償も限定的であり、福島第一原発事故によって生じた多くの人びとの損害を十分補償しえるものになっていない。さらに、東日本大震災からの復興というスローガンのもとに、人災である福島第一原発事故が天災である東日本大震災全体への対応と混同され、責任主体がいるということすらあいまいにされている。

強制的に避難させられた人びとだけでなく、福島県(放射能汚染の及んだ他県も含めて)の人びとは、多大な損害をこうむった。例えば、強制的に避難させられた人びとだけではなく、福島県内にいて福島第一原発事故により被曝したり、被曝の影響をおそれて家族が離散したり、勤務先がなくなって失業したりするなどということも起こっている。このようなことの第一義的責任は国と東電にある。しかし、そのような損害については、ある程度補償されたとしても限定的でしかないのである。

このような中で、強制的に避難させられるがゆえに、ある程度の補償(これも十分とは思えないが)を得ている人びとと、被害をこうむったにもかかわらず、十分な補償を得ていないというと感じている人びととの間に「分断」が生じてくる。しかし、この「分断」は、国や東電が福島第一原発事故に対する責任をあいまいにしていることから発生しているといえるのである。

さて、次に、③の放射能汚染への影響ということについて考えてみよう。これもまた、福島に特徴的に示されている問題である。居住にせよ、農業・水産業の再開にせよ、全ての問題において、福島では放射能汚染の問題を考慮せざるをえない。この問題についていかに行動するかということに対しては、二つの方向性がある。一つの方向性は、放射能汚染を考慮し、放射線被曝を少しでも避けようとすることである。究極的には、高線量地域から移住するということになるが、高線量地域で生産された食品をなるべく食べない(これは、福島だけには限らないが)、高線量地域にはなるべく立ち入らないというような行動が具体的には考えられる。

他方で、放射能汚染の影響を「相対化」して、多少の高線量地域でも「帰還」してコミュニティを再建し、農業・水産業を再開させ、それらの地域で作られた食品も口にし、さらには観光客をよびこもうという方向性も存在する。というか、この方向性にしたがって、国・東電・福島県が福島第一原発事故対策をすすめているのである。もちろん、線量の高低で区域をわけ、さらには除染をし、食品の放射能検査を実施するなど、放射能汚染に対してなにも対応していないとはいえない。といっても、福島の広大な土地をすべて除染することなどできず、かなりの範囲が今なお除染基準(1時間あたり0.23μSv、年間1mSv)以上の空間線量のままだ。にもかかわらず、国の方針としては、除染基準の20倍の年間20mSvの線量地域まで帰還をすすめようというのである。

この二つの方向性も、「分断」の原因になっているといえよう。被災地に住民を帰還させ、コミュニティを再建させ、生業を復活させるというのは、自然災害ならば当然の対応である。この過程を「復興」といってよいだろう。しかし、自然の産物ではない放射能で汚染された地において、このような「復興」は自明なことではないのだ。

一つ、農地の復活という点で考えてみよう。東日本大震災における津波被害で、宮城県・岩手県の農地は海水につかり、塩害をうけた。この塩害を受けた農地に対し、土の入れ替えや淡水を流し込むことなどにより復活をはかることは、どれほどのコストがかかるかは別にして、方向性としては問題にはならない。塩は自然のものであり、海などに流しても問題ではないのだ。他方、放射性物質で汚染された農地の場合は、そもそも農地の除染だけで放射能を除去できるかということ、さらに除染により放射性廃棄物と化した土壌をどうするのかという問題が生じてくる。さらに、そのような土地で生産された農産物を商品として売ることがどこまで可能かということもある。このように、多くの面で問題をはらんでいるのである。

放射能汚染、これも人のもたらしたものであり、当然ながら「人災」である。そして、これは自然の循環にまかせてはならない。それは、すでに水俣病が示していたことであった。にもかかわらず、福島第一原発事故からの「復興」は自然災害のように扱われ、放射能汚染の面が軽視される。それがゆえに、放射能汚染を重大に考えている人びととの間に分断をうんでいるのである。

そして、ここにもまた、「人間の責任」ということが背景にあるといえる。放射能は人間が生み出したものであり、それに対処することも人間の責任である。その責任に目を背けたまま進もうとすること、それが分断の原因になっているといえる。

②と③の要因は、いずれにせよ、福島第一原発事故の「人災」としての性格から生じている。どちらも、本来、「人間社会」内部で担うべき責任があいまいにされ、それゆえに、福島県民内部に深刻な「分断」がもたらされるようになったといえるだろう。この「分断」を克服するのは容易なことではない。ただ、その第一歩は、福島第一原発事故は「天災」ではなく「人災」であり、「人間社会」内部において責任追及されるべき問題であることを認めることであると考えられるのである。

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福島第一原発事故は、どのように歴史的に語り得るのであろうか。その観点からみて、非常に興味深い実践が、茨城文化財・歴史資料救済・保全ネットワーク(略称:茨城史料ネット)で行われている。

この茨城史料ネットは、東日本大震災で被災した文化財・歴史資料を救済・保全するために、2011年7月に設立されたボランティア組織である。茨城史料ネットが出した『身近な文化財・歴史資料を救う、活かす、甦らせるー茨城史料ネットの活動紹介パンフレットー」(2014年5月23日発行、なお文引用や写真はここから行う)によると、茨城史料ネットは、ひたちなか市、筑西市、鹿嶋市、常陸大宮市、北茨城市、栃木県芳賀郡茂木町、常陸太田市、福島県いわき市で文化財・歴史資料の保全活動に携わった(なお、厳密にいえば、茂木町と常陸太田市での活動は直接には震災の被災資料を対象としていない)。

茨城史料ネットは、原発事故で警戒区域に指定された福島県浜通り地区の個人所蔵資料も保全活動の対象とするようになった。前述のパンフレットによると、三件実施しているということであるが、こここでは、双葉町の泉田家資料が紹介されている。泉田家は地震で家屋が半壊し、津波で床上浸水し、その後警戒区域に指定されたため、資料の管理ができなくなった。そこで、所蔵者の一時帰宅の際に資料を警戒区域外に運び出し、最終的には茨城大学に搬入された。

茨城史料ネットでは「地域コミュニティが崩壊し文化の担い手が地域から消失してしまった警戒区域では、泉田家のような個人所蔵資料の救出・保全し地域の歴史像を明らかにしていくことが今後の歴史・文化の継承の際に重要な意義を持つことになるでしょう」と前述のパンフレットで語っている。私もその通りだと思う。

福島県双葉町泉田家資料

福島県双葉町泉田家資料

さらに、茨城史料ネットでは、福島第一原発事故で埼玉県加須市の旧騎西高校に避難した双葉町役場と避難所の資料保全にも着手した。きっかけは、双葉町教育委員会の依頼をうけ、2012年に双葉町役場つくば連絡所で茨城史料ネットが生涯学習講座を開催したことだったという。2013年3月には、双葉町役場埼玉支所及び旧騎西高校避難所にある震災関係資料の保全を茨城史料ネットで行うことが決まったとされている。

保全された資料は、現在、筑波大学春日エリアに保管され、概要調査と資料整理の準備が進められているとのことである。資料の量は、資料保存箱で約170個に及んでいるという。

茨城史料ネットは、前述のパンフレットにおいて、次のように指摘している。

 

保全された資料は、避難生活の困難を物語る文書や資料、国の内外から双葉町へ寄せられた支援・慰問の品などです。この活動は今後も継続させ、東日本大震災による被災の記録・記憶を後世へ伝える一助にしたいと考えています。

双葉町役場・旧騎西高校避難所資料の保全

双葉町役場・旧騎西高校避難所資料の保全

災害時の避難所の資料が保全されるということは、稀有なことであろう。もちろん、一般的な災害ではなく、「全村避難」という過酷な状況で、役場自体も移さなければならないということが背景にあったといえる。

現在、日本社会全体にせよ、福島県にせよ、東日本大震災・福島第一原発事故を忘れさせようという志向が強まっている。3.11の衝撃をなかったものとして、なるべく以前のやり方を踏襲して社会を運営していこうというのである。原発は再稼働されるのかもしれないし、福島第一原発は「コントロール」されていると強弁して東京オリンピックは開催されるのかもしれない。しかし、東日本大震災にせよ福島第一原発にせよ、確かに被災し打撃を受けた地域社会は存在していたのだ。そして、そのことが明らかにするのが、茨城史料ネットなどが保全しようとしている資料なのである。このような営為は、他でも行われている。今後は、保全された資料の中で明らかになるであろう被災した地域社会のあり方をふまえて、社会全体が運営されていかねばならない。このような、資料を保全しようという人びとの思いも、歴史を動かす力の一つであると私は信ずる。

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今回もまた、2012年3月24日の歴史科学協議会主催のシンポジウム「原発震災・地震・津波ー歴史学の課題ー」で、石橋克彦氏の報告「史料地震学と原発震災」を聞いて考えたことを書いていくことにする。

石橋克彦氏は、2011年以前から、地震被災による原発事故の危険性を主張していたことでよく知られている。石橋氏の原発論の原点は、1997年10月に発表した「原発震災」(『科学』67巻10号、1997年10月所収)である。この論文の中で、石橋氏は、まず、「活断層がなければ直下のM7級大地震はおこらない」という当時の通産省の考え方を批判し、北丹後地震(1927年)、鳥取地震(1943年)、福井地震(1948年)を例に出して、活断層がなくても大地震は起こりえるとした。

さらに、M8級の東海巨大地震発生が懸念されている想定震源断層面のほぼ真上に位置している浜岡原発を事例にして、原発が大地震に直撃された際の原発災害の状況を石橋氏は次のように想定している。地震動、地盤変形、津波で原発の各施設が損傷し、外部電源が止まり、ディーゼル発電機やバッテリーが作動しないなどの故障が同時発生する。運転員も対処しきれない状態となる。その場合、原子炉建屋の耐震性は問題ではなく、配管・原子炉・制御棒・ECCSが破壊される可能性があると石橋氏は指摘している。そして、このような状況が現出するだろうと石橋氏は述べている。

原子炉が自動停止するというが、制御棒を下から押し込むBWR(沸騰水型炉)では大地震時に挿入できないかもしれず、もし蒸気圧が上がって冷却水の気泡がつぶれたりすれば、核暴走がおこる。そこは切り抜けても冷却水が失われる多くの可能性があり(事故の実績は多い)、炉心溶融が生ずる恐れは強い。そうなると、さらに水蒸気爆発や水素爆発がおこって格納容器や原子炉建屋が破壊される…その結果、膨大な放射能が外部に噴出される。(「原発震災」p723) http://historical.seismology.jp/ishibashi/opinion/9710kagaku.pdfより

石橋氏は、この論文の中で、浜岡原発が大事故を起こした場合、風下側であると17km以内で90%以上の人が急性死し、南西風であると首都圏を中心に434万人の人が晩発性障害(がん)で死亡するという推定を紹介している。また、チェルノブイリ事故の白ロシア共和国の基準であると、茨城県から兵庫県までが風下側ならば長期間居住不可になるとしている。

その上で、石橋氏は、このように述べている。

東海地震による”通常震災”は、静岡県を中心に阪神大震災より一桁大きい巨大災害になると予想されるが、原発災害が併発すれば被災地の救援・復旧は不可能になる。いっぽう震災時には、原発の事故処理や住民の放射能からの避難も、平時にくらべて極度に困難だろう。つまり、大地震によって通常震災と原発災害が複合する”原発震災”が発生し、しかも地震動を感じなかった遠方にまで何世代にもわたって深刻な被害を及ぼすのである。膨大な人々が二度と自宅に戻れず、国土の片隅でガンと遺伝的障害におよびながら細々と暮らすという未来図もけっして大袈裟ではない。(「原発震災」p723)

前もいったように、石橋氏のこの発言は1997年に行われた。そして、このことは、実際に2011年に福島で現出してしまったのである。福島の被災状況は、石橋氏のいう通常震災と原発災害が複合する「原発震災」といえるであろう。このような状況は、すでに1997年には予測可能であったのだ。

その上で、石橋氏は、もっとも焦眉の課題として、浜岡原発の廃炉をあげている。石橋氏は、このように主張している。

正常な安全感覚があるならば、来世紀半ばまでには確実に発生する巨大地震の震源域の中心に位置する浜岡原発は廃炉を目指すべきであり、まして増設を許すべきではない。(「原発震災」p723)

そして、浜岡原発以外でも原発震災が発生する可能性があるとして「防災基本計画」以下の防災対策を全国規模で、原発震災を具体的に想定したものに早急にかえるべきであると石橋氏は主張している。さらに、石橋氏は次のように述べている。

しかし、防災対策で原発震災をなくせないのは明らかだから、根本的には、原子力からの脱却に向けて努力すべきである。86年のチェルノブイリ原発事故によって日本まで放射能の影響を受けたことを考えれば、地震大国日本が原発を多数運転しているのは世界にたいしても大迷惑である。(「原発震災」p724)

石橋氏によれば、使用済み核燃料や廃炉の問題を考えると原発は経済的ではないし、地球環境問題にも有効ではないとし、電力の規制緩和をすすめ、ごみ焼却熱や自然エネルギーを活用すれば、適正な電力を供給できるとしている。そして、石橋氏は、次のように主張している。

電力需要の増加を当然のこととして、それを原発の増加でまかなうというやり方は、持続可能な人間活動が切実に求められるいま、もはや通用しない。(「原発震災」p724)

そして、石橋氏は、東アジア地域で原発が急増していることについて、「東アジアの原発で大事故がおこった場合、日本にも重大な影響がおよぶことは疑いないから、原子力に頼らないでほしいと思うが、日本が率先しなければ説得力はない」(「原発震災」p724)と述べている。

石橋氏は、脱原発の流れが定着しているヨーロッパと違い、民意が政策決定に反映されにくく、政府が原発推進を堅持し、原子力産業の圧力が強大で、立地地域の経済が原発に依存させられている日本では、脱原発にむけて歩みだすのは容易なことではないとし、「原発をめぐる社会的閉塞状況は、破局的敗戦に突き進むほかなかった昭和10年代と酷似しているようにも思える」(「原発震災」p724)という。だが、石橋氏は、次のように主張して、この論文を締めくくっている。

しかし、原子力開発最盛期以降の2,30年間に日本列島の地震発生様式の理解を深めた地震科学が、原発の直近で大地震はおこらないという楽観論を否定し、原発震災による破滅を避けるための具体策の必要性を示しているのである。全国の原発について、原発震災のポテンシャルが相対的に高い原子炉から順次廃炉にし、日本全体の原発震災の確率を段階的に下げていくというような道筋を、真剣に考えなくてはならない。(「原発震災」p724)

この思いが、石橋氏の原発問題への警告の出発点となったといえよう。結局、この警告は実質的にいかされることはなく、福島の原発震災は現実のものとなってしまった。石橋氏は、3月24日のシンポジウムの中で、そのことをくやんでいた。そして、今は、国会の事故調査委員会の一員として活動している。

石橋氏は、3月24日のシンポジウムの中で、このように指摘している。

地上の脆弱な高度文明社会が、地下の動乱時代に遭遇するのは、人類史上初である。

地球上で最も過酷な地震空間が、最も活動的時間にあるという、厳然とした自然条件。
→大自然の猛威を何とかすりぬけてきた日本人が、それに直撃される。

「人々の幸せのための物々交換」から「金儲けのための自由貿易至上主義」へ、「暮らしを支えるための技術」から「利潤追求のための欲望刺激型技術開発」へ、「大自然をよりよく知りたい科学」から「欲望実現の用心棒としての科学」へと発展してきた現代文明。それが「進歩」だったのか。

このような人類史を根底から問い直すべき秋が到来したのではないか?(石橋克彦「史料地震学と原発震災」報告レジュメより)

このような、いわゆる科学の分野から提起された課題は、現代における「歴史」の課題でもある。そして、どのように、この問いに応えていくか、私たちそれぞれ自身が考えていかねばならないのだ。

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さて、ここでもまた、2012年3月24日の歴史科学協議会主催のシンポジウム「原発震災・地震・津波ー歴史学の課題ー」で、石橋克彦氏の報告「史料地震学と原発震災」を聞いて考えたことを書いていくことにする。

石橋氏の主要な業績の一つに「歴史地震学」がある。歴史地震学とは、過去の歴史史料から、地震関連の記事(地震史料)を収集し、その記事内容から、過去の地震活動を復元することを第一の目的としている。近代においては、地震計により地震震度を計測することは可能となった。しかし、前近代においては地震計による観測データはない。そのため、地震史料から過去の地震活動による各地の震度を算定し、さらに震源域と規模を復元することが必要になっている。そして、過去の地震活動を認識することが、未来における地震活動を予測することにつながるのである。

石橋氏によると、すでに明治期より現代にかけてr、『大日本地震史料』『増訂大日本地震史料』『日本地震史料』『新収日本地震史料』『「日本の歴史地震史料」』などという形で地震史料集が編纂されているとのことである。石橋氏は「世界にも類を見ない歴史地震研究の「データ集」と表現している。

その上で、石橋氏は、彼自身の取り組みとして、「[古代・中世]地震・噴火史料データベース(β版)」(を共同研究によって実現したことをあげている。その目的として、今までの地震史料集ではキーワード検索ができないこと、編纂過程で史料の吟味や校訂が不十分であったことをあげている。特に、校訂の過程で実在しない地震が記録されていたことを、ニセ地震(fake earthquake)と呼んでいることは興味深い。

実際「[古代・中世]地震・噴火史料データベース(β版)」をつかってみた。基本的に年代順に地震や噴火がならんでいて、キーワードや年代検索が可能となっている。そして、その地震の項目をクリックすると、その地震史料の本文が出てくることになっている。ちなみに、869年(貞観11)に、東北地方を襲った貞観地震をみてみよう。

事象番号:08690713  種別:地震
貞観11年5月26日/869年7月9日(J)/869年7月13日(G)
(A)〔日本三代実録〕○新訂増補国史大系
《廿六日癸未》{(貞観十一年五月)}、陸奥國地大震動、流光如晝隠映、頃之、人民叫呼、伏不能起、或屋仆壓死、或地裂埋殪、馬牛駭奔、或相昇踏、城〓倉庫、門櫓墻壁、頽落顛覆、不知其數、海口哮吼、聲似雷霆、驚濤涌潮、泝〓漲長、忽至城下、去海數十百里、浩々不弁其涯〓、原野道路、惣為滄溟、乘船不遑、登山難及、溺死者千許、資産苗稼、殆無孑遺焉、
《七日辛酉》{(九月)}、(中略)以從五位上行左衛門權佐兼因幡權介紀朝臣春枝為檢陸奥國地震使、判官一人、主曲一人、
《十三日丁酉》{(十月)}、 詔曰、義農異代、未隔於憂勞、堯舜殊時、猶均於愛育、豈唯地震周日、姫文於是責躬、旱流殷年、湯帝以之罪己、朕以寡昧、欽若鴻圖、脩徳以奉靈心、莅政而從民望、思使率土之内、同保福於遂生、編戸之間、共銷〓於非命、而惠化罔孚、至誠不感、上玄隆譴、厚載虧方、如聞陸奥國境、地震尤甚、或海水暴溢而為患、或城宇頽壓而至殃、百姓何辜、罹斯禍毒、憮然《〓》{(愧イ)}懼、責深在予、今遣使者、就布恩煦、使與國司、不論民夷、勤自臨撫、既死者盡加收殯、其存者詳崇賑恤、其被害太甚者、勿輸租調、鰥寡孤、窮不能自立者、在所斟量、厚宜支濟務盡矜恤之旨、俾若朕親覿焉、
http://sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/erice/db/

これだけでは、よくわからないと思うので、中世史研究者保立道久氏による前半部の釈文をのせておこう。

陸奥国の地、大いに震動す。流光、昼の如く隠映す。このころ、人民叫呼して、伏して起きることあたわず。あるいは屋たおれて、圧死し、あるいは地裂けて埋死す。馬牛は駭奔(驚き走る)し、あるいは互いに昇踏す。城郭・倉庫、門櫓・墻壁など頽落して顛覆すること、その数を知らず、海口は哮吼し、その聲、雷霆に似る。驚濤は涌潮し、泝洄(さかのぼる)し、漲長す。たちまちに城下にいたり、海を去ること数十百里、浩々としてその涯を弁ぜす。原野道路、すべて滄溟となり、船に乗るいとまあらず、山に登るも及びがたし、溺死するもの千ばかり、資産苗稼、ほとんどひとつとして遺ることなし。
http://hotatelog.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/post-1e1c.html

なお、「城下」というのは、陸奥国府のあった多賀城のことである。現在、多賀城市にある。そして、東日本大震災でも、高台にある多賀城址は被災しなかったが、「城下」の多賀城市域は津波に被災した。

このように、石橋氏の主要業績の一部は、このような史料から過去の地震の震度・震源・規模を推定することであるといえる。

さて、ここからは、私の感想を記すことにしたい。人間の活動領域が存在することによって、地震・噴火・暴風雨などの自然現象が「災害」として認識されることになったことを前のブログで述べた。これは、地震史料にもいえる。人間がその災害を認識し、会話や史料などによって、他者に伝えようとすることによって、はじめて地震は「記録」されるのである。

といっても、地震史料が残されるということは、そこに人間が活動していたというだけにとどまらない。何らかの形で、情報を保存する手段をもっている人びとがそこにいるがゆえに、史料が作成されるのである。具体的には識字者がいるということである。そして、その史料が現代にまで残されるということも、簡単なことではない。

例えば、貞観地震の記録は、律令制国家によって編纂された正史である「六国史」の一つである「日本三代実録」に残されている。この「日本三代実録」は六国史の最後のもので、901年に完成した。編者は藤原時平・菅原道真・大蔵善行らであった。

この記録が残されるにあたっては、次の二つが必要である。まず、いまだ、この時期は、律令制国家による中央集権的地方行政は維持されており、多賀城にあった陸奥国府から京都の朝廷にあてて、何らかの形で報告があげられていたと考えられる。そして、律令制国家の正史編纂事業は続いていて、この年の特記事項である貞観地震を記録することができたのである。

この後、律令制国家による中央集権的地方行政は衰退していくと考えられる。そして、正史編纂事業も中止され、史料は、個人の日記や文書に限定されていくのである。それゆえ、京都から離れた陸奥の地震・津波はあまり記録されなくなる。近代になっても、4回は大津波に襲われた東北地方沿岸(陸奥)においては、中世でもかなり津波・地震に襲われたと思うが、データベースには次の地震しか貞観地震以後のものでは記録されていない。しかも、これも、鎌倉幕府の歴史書である『吾妻鏡』に収録されていることに注意されたい。なんらかの歴史編纂と関係しないと、この地域の地震史料は残すことが困難であった。

事象番号:12301129a  種別:地震
寛喜2年10月16日/1230年11月22日(J)/1230年11月29日(G)
(A)〔吾妻鏡〕○新訂増補国史大系
《八日》{(寛喜二年十一月)}乙未、晴、大進僧都観基参御所、申云、去月十六日夜半、陸奥国芝田郡、石如雨下云々、件石一進将軍家、大如柚、細長也、有廉、石下事廿余里云々、

そして、1611年(慶長16)の慶長三陸地震がこの地域の地震として記録されている。

石橋氏は、古代・中世よりも、近世のほうが地震が多く記録されているのはなぜかという質問に答えて、地震自体が多くなったというよりも、地震史料が多く残されるようになったためであろうと述べている。近世の幕藩制において、日本全国各地に大名が置かれ、さらに城下町を築くにつれ、地震史料も多く作成されたのであろうとしているのである。

このことは、重要である。近世の幕藩制においても、律令制国家とは違った形だが、村請制を基盤とする文書行政が行われた。そして、他方で、村落レベルでも、中世とは違って、識字者が増え、地方文芸が展開している。このような中で、地震が記録されていくことも増えていくのである。

そして、近代の地震史料の収集も、実は国家レベルでの修史事業と連動したものであった。近代において史料編纂所が設置され、『大日本史料』などが編纂されていくが、初期の地震史料集は、このような史料編纂所の修史事業と連動したもので、記事の形態すらも『大日本史料』などに依拠したものであったことを石橋氏は報告の中で述べている。

このように、「科学的データ」として利用されていく過去の地震史料は、実は、それ自身が「歴史」の産物であることがわかるであろう。このような地震史料は、当時の歴史的背景に左右されて作成された。そして、それが残され、利用可能のものになるためには、何らかの歴史編纂事業の中で取り上げられなければならなかったのである。そのことを、石橋氏の報告により再確認させてもらったといえる。

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もはや、旧聞に属するのかもしれないが、2012年3月24日に、東京にて歴史科学協議会(歴史学の学会団体)主催でシンポジウム「原発震災・地震・津波」が開催された。このシンポジウムでは、石橋克彦氏が「史料地震学と原発震災」、渡辺治氏が「戦後史のなかで大震災・原発事故と復旧・復興を考える」、西村慎太郎氏が「文書(もんじょ)の保存を考える」という報告を行った。それぞれ興味深いが、ここでは石橋氏の議論に触発されて考えたことを語っていこう。

石橋氏は、神戸新聞夕刊(2005年5月6日付)に掲載された随想「地震と震災」を報告資料の一部として提示した。その中で、このように語っている。

 

(地震の講演をする際…引用者注)いつも最初に話すのは、「地震と震災は違う」ということである。
 日常生活では、ふつう、私たちが感じる地面の揺れを「地震」という。しかし、地震や震災の問題を合理的に考えるためには、地震学や耐震工学の用語を理解しておくとよい。そこでは、揺れの原因となる地下の出来事、つまり、地下の岩盤が破壊して岩石の振動の波を放出する現象、を「地震」という。それによる地面の揺れは「地震動」と呼んで区別している。
 これに対して「震災」とは、激しい地震動を受けた人間社会に生ずる災害である。つまり、兵庫南部地震は地下の出来事で、阪神・淡路大震災は私たちの社会の現象であった。
 この違いがわかると「地震は自然現象だから止められないが、震災は社会現象だから私たちの努力で軽減できる」という大事なことがはっきり見えてくる。ただし、努力というのは、対処療法的な対策だけでなくて、私たちの暮らし方を自然と共生する方向に考え直すといった根本的なことを含む。

「地震は自然現象」とはどういう意味か。石橋が報告資料の一部として提示した神戸新聞夕刊(2005年7月7日付)の随想「0.5エムエイ」では、このように指摘されている。

 

大規模な地震や津波や火山噴火は、日常の時間感覚では突然わけもなく発生するように思えるが、Ma(百万年前…引用者注)を単位として見ると、一つ一つ必然性をもっている。そして、私たちの生活基盤である平野や盆地や山地は、それらによって造られてきたとも言える。

地震・津波・火山噴火は自然現象であって、逆にそれによって生活基盤である大地が形成されてきたということになるのである。

このことを私なりに敷衍して考えると、災害は、いわゆる天災であっても人災であっても、人間の生活に関わるがゆえに、「災害」として認識されたといえる。地震などの地殻変動、また台風や豪雪などの気象活動などにより引き起こされた「自然現象」は、対象地域に住む人間の生活に影響を及ぼすがゆえに、災害になるのである。例えば、ほとんど人の住まない南極大陸や無人島などで起こった地震・火山噴火・暴風雨などは、災害としては認識されない。

そして、人類史において、居住・利用する地域が拡大し、人口が増えていくにつれ、自然現象としての災害は拡大していくということができる。旧石器時代でも縄文時代でも、地震・津波・火山噴火・暴風雨などの災害は存在し、居住していた地域の人びとを襲ったであろう。しかし、農耕地や都市、交通路など大地を面的に利用する時代になって、より災害は深刻化したといえる。

しかも、それは、日常的にはより自然を制御することが可能になったがゆえともいうことができるのだ。農耕を中心とする経済が確立していく時代において、人びとは定住し、農耕地を開墾することによってより大きな規模で自然を制御していこうとする。そして、農業の生産物は、漁業・鉱工業・林業などの社会的分業を促し、より広範囲な地域が人間によって利用される。さらに、都市などを中心とした社会的分業の結集点を創出し、これらの人間の活動地域を結びつける交通路が設置される。このように、農業の開始以来、人間の活動地域は面的に拡大していく。そのことは、逆にいえば、より自然現象における災害を人間の生活が受けやすくなっていくことにもなる。そして、さらに、このように拡大した人間の生活領域内部において、人間の活動を契機とする戦災・火災・環境破壊などの人災が深刻な影響をもたらしていくことになった。

もちろん、このような災害について、何も対処しなかったわけではない。河川災害には堤防などが築かれ、低湿地は干拓され、海岸などには防潮堤が築造されていく。少々の規模の地震・津波などでは壊れない建物が建設されていく。これらの災害対策によって、日常的な規模の災害は防止されていくようなる。しかし、逆に、災害対策が行われるがゆえに、よりリスクの大きい地域が人間によって利用されるようになる。そして、想定外の規模の自然災害に襲われた時、破滅的な影響を人間社会にもたらしてくことになるといえるのである。

その意味で「地震と震災」は違うのだといえるのである。人間の活動が面的に拡大し、自然をより制御することによって、災害もまた拡大していくのであるといえよう。

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