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前回のブログで、町田市が朝鮮学校通学児童に対する防犯ブザーを配布しない決定をしたことを紹介した。しかし、昨日、町田市は一転して、防犯ブザーを配布することを決定した。次のNHKのネット配信記事をみてほしい。

東京・町田市 防犯ブザー朝鮮学校にも配付へ

4月8日 20時17分
東京・町田市 防犯ブザー朝鮮学校にも配付へ

 

北朝鮮を巡る社会情勢などを理由に朝鮮学校の児童に防犯ブザーを配付しない決定をした東京・町田市の教育委員会は、改めて対応を協議した結果、子どもの安全を守るのが教育委員会の役割と判断した、などとして、朝鮮学校の児童にも防犯ブザーを配付することを決めました。

町田市教育委員会は、北朝鮮を巡る社会情勢や国際情勢などを理由に小学校に入学する児童に無償で配付している防犯ブザーを今年度、町田市にある朝鮮学校、「西東京朝鮮第二幼初級学校」の児童に配付しない決定をしました。
しかし、この決定を疑問視する電話が相次いだことなどから、市教育委員会は改めて対応を協議した結果、配付しない決定を撤回し、朝鮮学校の児童にも防犯ブザーを配付することを決めました。
市教育委員会教育総務課の高橋良彰課長は「教育委員に諮ったうえで決定すべきところを教育委員会の事務局だけで決めてしまった。教育委員が改めて協議した結果、子どもの安全を守ることが教育委員会の役割だと判断した」と話しています。
また、今回の対応について高橋課長は「反省すべき点が多く、今後の対応に生かしていきたい」と話し、朝鮮学校に対して遺憾の意を伝えたということです。
朝鮮学校のリ・ジョンエ校長は「社会情勢や国際情勢と子どもたちの安全は関係なく、決定が撤回されて本当によかった。教育委員会には今回の対応の経緯を詳しく説明してほしい」と話しています。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130408/k10013768361000.html

この問題は、高校無償化などの朝鮮学校への補助問題と一緒にされてとらえられている向きがある。この問題は、朝鮮学校自体への補助ではない。朝鮮学校に通う児童の安全を保障するということである。児童の安全を保障するという点において、朝鮮学校とそれ以外の児童を北朝鮮を巡る社会情勢などを理由として平等な扱いをしなくてよいのかという問題である。それは、まさに、基本的人権の問題なのである。

こういうことを、教育委員会にもはからず、事務局だけで決めてしまったことは失態である。多くの人びとの抗議を受けて、「教育委員が改めて協議した結果、子どもの安全を守ることが教育委員会の役割だと判断した」ことは、当たり前ではあるが、こういうことを再確認したことは貴重だと思う。また、たぶん十分なものではないだろうが、町田市教委が朝鮮学校に対して「遺憾の意」を伝えたことも、それ自体は評価できるといえる。

町田市の朝鮮学校通学児童への防犯ブザー不配布については、さすがに大手マスコミでも賛意をあらわすような報道はしていない。朝鮮学校を高校無償化の対象外にしている安倍政権の文科相である下村博文も「自治体の判断であり、コメントは差し控えたいが、子どもたちがいじめに遭わないよう配慮してもらいたい」と述べている。(http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130405/k10013696541000.html)

その中で、ほぼ唯一、防犯ブザー不配布に賛意を示したのが産經新聞である。以前部分的に掲載した、産經新聞のコラムである「産経抄」2013年4月6日号をここで全文をあげておく。

4月6日
2013.4.6 03:10 [産経抄]
 若気の至りとは恐ろしいもので、初めて見たときは巨匠も老いたなぁ、という陳腐な感想しか浮かばなかった。黒澤明監督が晩年にメガホンをとった「夢」は、バブル真っ最中の平成2年に封切られた。

 ▼「こんな夢を見た」という字幕で始まる8つのエピソードは、自称黒澤ファンを大いにとまどわせた。「七人の侍」や「用心棒」のようなテンポの良い血湧き肉躍る演出は影も形もなく、何度も舟をこいだ。

 ▼そんな退屈な映画なのに、最終章で笠智衆が、天寿をまっとうして亡くなった老女を「祝う」ため村人たちと踊る場面は、今でも鮮烈に覚えている。2年前に福島第1原発事故が起こった直後は、富士山が原発の爆発で赤く染まるシーンをとっさに思い出した。

 ▼巨匠は「夢」で原発事故を予知したのだろうか。そんな夢の不思議が、科学的に解き明かされる日がやってくるかもしれない。京都府にある研究所が、世界で初めて夢の解読に成功したという。

 ▼将来は画像の再現も夢ではないそうだが、ろくな夢を見ない小欄は、夢の中身をわざわざ画像にするなぞまっぴら御免である。さりながら、あの人がどんな夢を見ているのかは、こっそり知りたい。「無慈悲な作戦」を承認し、核戦争の危機をあおりにあおっている北朝鮮の3代目である。

 ▼3代目は、ミサイルの発射ボタンを押し、ワシントンや東京が火の海になる画像を夜な夜な見ているのだろうか。東京都町田市では、教育委員会が朝鮮学校生徒への防犯ブザー配布をやめたが、当たり前の話である。かの地出身の同胞は「差別はけしからん」と騒ぐ前に、胸に手を当ててよく考えてほしい。子供に罪はないが、悪夢の発生源をいまだに崇拝している親たちの責任は重大である。

見れば見る程不思議な文章で、前半に書いていることは、なにを意図しているかよくわからない。そして、後半部分については、論理的に破綻しているといえる。北朝鮮の核政策への批判は当然である。しかし、それが、防犯ブザーを配布しないことによって、朝鮮学校通学児童にその責任を負わせることを正当化することになるのだろうか。ここでも書いているように「子供に罪はない」のである。それは、北朝鮮国家の罪なのである。所属国家の責任をなぜ罪のないと認めている「子供」に担わせるのであろうか、

町田市教委が「遺憾の意」を表明するならば、産經新聞もなんらかの形で「遺憾の意」を表明すべきだと思う。しかし、産經新聞に私が期待しても、あまり意味はないだろう。

ここでは、角度をかえてみておこう。産經新聞は、時事新報(1882年創刊)と日本工業新聞(1933年創刊)という二つの新聞を源流としている。前者の時事新報の創業者は福沢諭吉で、福沢は存命中時事新報の社説を書いていた。そのような社説の一つに「朝鮮独立党の処刑」(1885年2月23・26日号)というものがある。この社説は、福沢諭吉自身や朝鮮駐在の日本軍が援助した急進開化派による朝鮮政府のクーデターである甲申政変が1884年に挫折し、甲申政変に関係していた朝鮮の人びとが家族もろとも1885年に処刑されことについて論評したものである。

そのなかで、福沢は、こう言っている。「強者」は粗暴だから人を殺す、「弱者」は文を重んじているが故に人を害することがないと一般的に言われているが、そうではない。「強者」は「容易に殺すの術あるが故に殺すことを急がざるものなり」(『福沢諭吉全集』10巻p221、以後福沢の引用は同書から行う)としている。かえって「文弱なる者」のほうが、自分自身の力に自信がないので「機に乗じて怨恨を晴らし、且つは後難を恐るゝの念深くして、一時に禍根を断たんとするが為に惨状を呈するものなり」(p222)としている。そして、アレキサンダー大王の征服や源平合戦を事例にしながら、古代の歴史において、無辜の婦人や小児などまで多数の人びとを虐殺するということは「決して其人の強きが為には非ずして、却て弱きが為に然るものなりと断定せざるを得ず」(p222)としている。つまり、「弱者」と自覚している者たちであるが故に、機会があれば残虐なことをするのだというのである。

そして、福沢にとって、文明開化とは、武術を進歩させ「人を制し人を殺すの方便に富」ませるものであった。つまり、暴力の手段を拡大させるものが文明であった。しかし、暴力の手段を拡大したからといって、暴力が一般化するというわけではない。むしろ、家族などへの暴力は行なわれなくなっていく。西南戦争において、指導者の西郷隆盛の家族が処罰されかったことを事例にして、福沢はこのように述べている。

例へば戦争に降りたる者を殺さず、国事犯に常事犯(政治犯と一般刑事犯…引用者注)に、罪は唯一身に止まりて父母妻子に及ばざるのみか、其家の財産さへ没入せらるゝことは甚だ稀なり…一言これを評すれば、能く人を殺すの力あるものにして始めて能く人を殺すことなしと云て可ならん。之を文明の強と云ふ。(p222〜223)

福沢によれば、文明の武力によって鎮圧できる自信があるから、西南戦争において必要以上に人を殺さなかったとしている。それを「文明の強」とよんでいるのである。そして、日本と比較しながら、朝鮮の状況について、「野蛮の惨状」と評している。

吾々日本の人民は今日の文明に逢ふて、治にも乱にも屠戮の毒害を見ず。苟(いやしく)も罪を犯さゞる限りは其財産生命栄誉を全うして奇禍(思いがけない災難…引用者注)なきを喜ぶの傍に、眼を転じて隣国の朝鮮を見れば、其野蛮の惨状は我源平の時代を再演して、或は之に過ぐるものあるが如し(p223)

その上で、この社説は、甲申政変の関係者だけでなく、小さな子供も含んだ家族まで死刑にした朝鮮を批判しているのである。

単純化すれば、福沢諭吉は、文明/野蛮、強者/弱者の二項対立図式の上にたって、日本/朝鮮の関係をとらえている。その上で、責任のない子供に責任を担わせる行為は、野蛮であり弱者の行為としているのである。

このような福沢の世界観は、今日からいえば、文明/野蛮の二項対立的図式の上にたつオリエンタリズムの範疇に入るといえる。そのオリエンタリズムをより鮮明に現したのが、直後の3月16日の社説として執筆された「脱亞論」である。もちろん、現状において、福沢のオリエンタリズム的世界観は評価できるものではない。いわゆる「文明」国が、植民地戦争や20世紀の二度の大戦において、それ以前の社会をはるかに凌駕する残虐性を発揮してきたことは言うまでもないことである。それに、福沢も含めた甲申政変の日本側の関与は、10年後の日清戦争開戦の源流の一つにもなった。その意味でも評価できない。そして、また、このような福沢の認識は、朝鮮人や中国人への差別意識の一つの源流にもなっているといえる。

しかし、このような1885年における福沢のオリエンタリズム的世界観を基準として、「産経抄」の、国家の責任を罪のない子供に担わせるという論理を検討してみよう。1885年の福沢の論理からすれば、そのような行為は「野蛮」であり、「弱者」のものとされることになる。福沢によれば、そのような行為は、事態を合理的に制御できないということが前提となってなされるというのである。

そうしてみると、なぜ「産経抄」が、どのような形で考えても不合理な、北朝鮮の核兵器政策の責任を子供に負わせるという主張をしているのかが理解されてくるように思う。北朝鮮の核兵器政策にせよ、拉致問題にせよ、日本側がなんらかの強硬措置をとっても、事態の解決には役立たないといえる。その意味で、日本は「弱者」なのである。そして、このことは、「日本」なるものを代表すると称する「産経抄」などの主張が福沢のいう意味で「野蛮」に転化する契機になってしまうといえる。

このような論理は、産經新聞だけでないのだ。日本政府や自治体、さらに在日特権を許さない市民の会などにも共有されているといえる。もちろん、この問題は単純ではない。北朝鮮、韓国、中国にたいする大国意識とないまぜになっている。これらの諸国と比べて、日本は「大国」であり、優越する立場をもつはずだという意識もある。しかし、現実には、日本側が、これらの諸国の行動を制約する力は小さいという「弱者」意識もある。それゆえに、朝鮮学校通学児童にその責を負わせるようなある意味では「野蛮」な行為に転化していってしまうのだと考えられるのである。それこそ、1885年の福沢諭吉が批判したことであった。

前述したように、1885年の福沢諭吉はあまり評価できない。しかし、1885年の福沢諭吉よりも、現代の「産経抄」はより劣っているといえるのである。

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本ブログでもとりあげたことがあるが、在日特権を許さない会(在特会)などが主催する在日コリアンを排斥するデモが、東京の新大久保や大阪の鶴橋などを中心に行なわれている。そのことについて、新大久保も管轄している東京都の猪瀬直樹知事の2013年3月29日における記者会見で質問が飛んだ。産經新聞は3月31日付のネット配信記事で詳細に伝えているので、まず、その部分を紹介しておきたい。なおーーは記者の質問で、「 」が猪瀬の答である。

--新大久保のコリアンタウンで、在特会と称する人たちの主催による、在日コリアン排斥を目的とする街宣デモが行われている。200人ほどで練り歩き「朝鮮人は皆殺し」「首をつれ」などのプラカードを掲げ、「ゴキブリ」「日本から出て行け」といったシュプレヒコールをあげている。地元、観光客はみなおびえきっている。一部の国会議員はこれを憂慮し、民族差別デモを許可しないよう、東京都公安委員会に要請している。民族差別デモが平然と行われているこの国で、民族の祭典であるオリンピックを誘致する資格があるのかどうか。知事の見解を。

 「僕も見たことないが、品がない表現。ただ、デモは届け出をして手続きをやれば、できることはできる。人を傷つけるなどしなければ、とりあえずは合法活動ということになる」

 --ただ、外国では民族を扇動するようなデモは固く禁じる法律があるところもある

 「だからそれは法律のバックがあるからね。今のところ日本の法律では、人に危害を加えたりしなければ、警察の取り締まりの対象にならない」

 --それについて知事はどう考えているか。

 「だからそういう下品なデモで、品のない言葉を吐くわけ。でもわずか200人ぐらいの人。東京の1300万人のうちのわずか200人。もちろんそれはよろしくないとは思う」

 --知事として何か具体策をとるとか。

 「対策というのは、法律に基づかないとできないから。もちろんそういうことに対して『それはおかしいじゃないか』ということを僕は思っている」

 --東京都公安委員会は都が管轄だと思うが

 「それは公安委員会の方が判断しなければいけない問題だから」

 --知事が働きかけるとかそういうことは考えていないか

 「今のところ法律的にそれを取り締まるものがないということ」

 --都政としてはこのままか

 「都政の問題じゃなくて、警察とか法規に基づいてデモが暴走したりしたらそれは逮捕とかできるわけだが、相手に危害を加えるとか器物を破損しているとか、そういうことが起きているかどうか注意深く見守りたいと思う」

 --見守るということですね

 「見守るというか、そういうことが起きているかどうか。そういうことが起きていれば、それは犯罪になるから」
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130331/lcl13033107010000-n3.htm

簡単にいれば、結局、取り締まる法律がないから、犯罪行為にならない限り、「「朝鮮人は皆殺し」「首をつれ」などのプラカードを掲げ、「ゴキブリ」「日本から出て行け」といったシュプレヒコールをあげている」在特会の人種差別的なデモを見守るということにつきるだろう。猪瀬は、「ただ、デモは届け出をして手続きをやれば、できることはできる。」としている。そして、「民族差別デモが平然と行われているこの国で、民族の祭典であるオリンピックを誘致する資格があるのかどうか」という問いについても、都民1300万人に対して、200人の集団に過ぎないと答えているのである。

まず、このような猪瀬の見解が、現在の日本政府が、人種差別に対してとっている姿勢をベースにしているということをここでは確認しておきたい。1965年に採択された「あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約」(人種差別撤廃条約)に、日本は1995年に批准した。しかし、この条約では、第四条で、人種差別思想の流布、人種差別の煽動、人種差別にもとづく暴力行為、それに対する資金援助、人種差別を助長・煽動する団体の組織的宣伝活動を法律で禁止することを求めているのであるが、日本政府は、この第四条に対し、次のような「留保」をつけた。

「日本国は、あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約第4条の(a)及び(b)の規定の適用に当たり、同条に「世界人権宣言に具現された原則及び次条に明示的に定める権利に十分な考慮を払って」と規定してあることに留意し、日本国憲法の下における集会、結社及び表現の自由その他の権利の保障と抵触しない限度において、これらの規定に基づく義務を履行する。」http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/jinshu/99/4.html

そして、具体的には、名誉棄損その他、刑法など現行法で取り締まることができる範囲内でしか規制しないとしたのである。猪瀬の発言は、大枠では、日本政府の解釈にそったものとしてみることができる。

この日本政府の「留保」自体が問題であり、人種差別撤廃委員会から、人種差別の言動を取り締まる立法を迫られている。このことについては、別の機会にみてみたい。

ここでは、猪瀬個人にしぼってみておきたい。猪瀬は「ただ、デモは届け出をして手続きをやれば、できることはできる。」と主張している。しかし、本当に、猪瀬は、そのような対応をとっていたのであろうか。

猪瀬が副知事であった2012年11月、東京都は、日比谷公園を出発地とする反原発デモを、公園の一時使用を許可しない形で阻止した。このことを『週刊金曜日』が11月21日にネット配信した記事でみておこう。

毎週金曜日の首相官邸前デモなどを主導してきた首都圏反原発連合が一一月一一日に予定している「11・11 反原発1000000人大占拠」は、東京都が日比谷公園の一時使用を不許可としているため開催が危ぶまれる状況となっている。

 二日、衆議院第一議員会館で行なわれた会見で反原連のミサオ・レッドウルフさんらが経緯を説明した。これまでと同じやり方で日比谷公園の指定管理者に使用許可書を提出した際、「東京都から、デモの一時使用受付はしないよう言われた」という。反原連は一〇月二六日、都に対し使用許可の申請をしたが、都は三一日、「公園管理上の支障となるため」として不許可の通知を出した。

 主催者らは「(実現できなければ)運動全体にとってかなりのダメージになる」「(圧力に屈して)できなくなるという前例はつくりたくない」として東京地裁に申し立てる決断をしたという。しかし二日夕刻、東京地裁は主催者らの主張を却下。主催者側は即時抗告を出したが、五日には東京高裁が地裁判決を支持したことで一一日の日比谷公園でのデモは不可能となった。

 東京都は八月より従来の方針を切り替え、日比谷公園をデモの出発地点とする場合、日比谷公会堂や日比谷野外音楽堂の使用を条件につけることにしている。国際政治学者の五野井郁夫氏は「大きな場を借りなければ集会ができないとすれば、お金がない人間は集会ができなくなる」と訴えた。

 中東の民主化デモ「アラブの春」などを取材してきたジャーナリストの田中龍作氏は「独裁政権下にあるエジプトでもタハリール広場の使用を認めてきた。東京都の実態は異常としか思えない」と話す。

(野中大樹・編集部、11月9日号)
http://www.kinyobi.co.jp/kinyobinews/?p=2670

もちろん、この時、猪瀬は副知事にすぎない。最大の責任者は石原慎太郎都知事(当時)である。しかし、猪瀬もまた、11月8日、彼のツイッターで次のように述べている。

亀井静香氏から1カ月ほど前に電話があり、日比谷公園を反原発デモの出発地として許可しろと言うから、あなたお巡りさん出身だから知っているでしょ、学生運動が盛んな時代、明治公園に集まり青山通りから国会付近へ行き日比谷公園は流れ解散の「一時使用」でしょ、と記憶を確かめてやりました。
日比谷公園でなく日比谷野外音楽堂はメーデーなどいろいろ利用されている。亀井さん、野音を取れば?と勧めたら、もう埋まっているのだよと言うからそれは単に不手際でしょと返して、明治公園から日比谷公園までデモする根性なくてなにが反原発だ、日比谷から国会なんてやる気があるの?です。
デモの常識。明治公園は日本青年館横のかなり広いスペース、数万人は集まれる。地面はコンクリート。休日にフリーマーケットなどで使われている。青山通りから虎ノ門経由で国会周辺、日比谷公園へ。日比谷は花壇と噴水だから流れ解散の場。集会の自由あたりまえ、やる側の根性とセット。
http://matome.naver.jp/odai/2135261591756465301より転載。

つまり、猪瀬は、このツイッターにおいて、反原発デモに介入し、阻止した石原都知事の側にたって、反原発デモの阻止を正当化しているのである。「ただ、デモは届け出をして手続きをやれば、できることはできる。」ということは、反原発デモには適用されていないのである。

このように、猪瀬は、人種差別的な在特会のデモは「見守り」、反原発デモは「阻止」しているのである。いわば、デモに対して、猪瀬は二重基準で行動しているといってよいだろう。

ただ、どのような形で、このような人種差別に対応していくかということについては、より慎重に考えていかねばならないだろう。在特会デモへの規制が、一般のデモ規制強化につながっていく危険性もあるのである。

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本書は、大阪のコリアンタウン鶴橋における、「在日特権を許さない市民の会」(在特会)の街頭宣伝の情景から始まる。

コリアンの人びとがたくさん住み、生活している鶴橋の街角で、在特会の人びとは、「日の丸」を打ち振りながら、このように叫んでいる。

「大阪ではね、1万人を超える外国人が生活保護でエサ食うとるんですよ。生活保護でエサ食うとるチョンコ、文句あったら出てこい」

「チョンコどもは、厚かましく生活保護を申請するんです。なんで外人に生活保護支給しなくちゃならないんですか。いいですか、みなさん、日本では一年間に3万人が自殺しています。その多くが自殺しています。その多くが生活苦で自殺しているんですよ。日本人がね、生活が苦しくて死んでいる状況で、大阪では1万人の外人が生活保護もらってるんです。だったら、せめてチョンコは日本人に感謝せえよ! 強制連行で連れてこられただのなんだの、日本に対して謝罪や賠償ばかり求めているのが朝鮮人じゃないですか。オマエたちに民族としての誇りはないんか? 祖国に戻って生活保護をもらえ! 日本人からエサもらいたかったら、日本に感謝しろ!」

「何百人も北朝鮮に拉致されたんですよ、日本人が! 外人がね、いきなり日本に入ってきて拉致なんかできますか? 日本で手を引いたチョンコと反日日本人がおるんですよ。だから何百人もやられたんだ! こいつらね、ぶち殺さないとあかんのです! 怒れ、日本人! 立ち上がれ、日本人! 聞いてるか、こら、チョンコ!」

「在日朝鮮人は強制連行だなんだと、いまだにわけのわからないことを言ってます。謝罪だ、賠償だと騒いでいる! 日本人は在日にバカにされているんです! そんなに日本が嫌いならば、在日は祖国に帰ってください! ウソまでついて、そんなにお金が欲しいのですか。在日は!」
(本書p4〜5より抜粋)

このようなクライムが、日本の街頭で公言されているのである。そして、それは、鶴橋だけでなく、東京の新大久保や、市井のパチンコ屋の前などでも叫ばれているのである。ここでは、安田の著書から引用したが、同種のクライムは、在特会のサイトにアップされている動画でいくらでもみることができる。このような街頭でのクライムを動画にアップすることで、在特会はポピュラリティを獲得してきたと安田は述べている。実際、本日(2013年3月17日)、新大久保における在特会のデモを私はみたのだが、そこにおいても、「朝鮮人皆殺し」というプラカードを掲げていたり、「チョンコ」などと連呼している人を発見したりした。

安田は、このように書いている。

 

彼らは「ファシスト」「レイシスト」「ネオナチもどき」などと非難されることが多い。私もその通りだとは思う。彼らが街頭でしていることは「レイシズム」以外の何者でもない。容赦ない言葉の暴力で、どれだけの人が傷ついたことだろうか。その被害者の怒りを私は共有したい。(本書p316)

しかし、このような集団である在特会の人びとにたいして、安田は一方的につきはなしていない。安田は在特会の一人一人はどんな人間なのかと聞かれた際、「活動の場を離れれば、普通の人たちですよ。いろんなことに悩んだり、喜んだり……。要するに僕と同じです」(本書p8)と答えている。もちろん、「普通」だからいいというわけではない。安田は、「いや、ファシズムもレイシズムも、実際にはそうした『フツー』の人々によって育まれていくものなのだろうかとも考えてみる」(本書p316)

そして、在特会の個人個人に対する綿密でかつ人間的な取材を行い、それぞれの個人がなぜ在特会の活動を担うようになっていったのかを分析している。本書の優れた点は、ある意味では、在特会のような集団を内在的に分析していたということにあるといえる。

安田は、在特会の多くの人びとについて、自身は被害者であるという意識が強いと指摘する。彼らは、大手メディア、公務員(教師を含む)、労働組合、グローバル展開する大企業、その他左翼一般、外国人を加害者として措定し、それらの被害者だと自らを位置づける。そして、この「加害者」への「階級闘争」を実践していく彼ら自身は思っているとしている。彼らは、彼ら自身が生きづらい世の中をつくった「戦後体制」への反逆者として自認しているとしている。その底には、このような「闘争」を担うことによって人びとから認められたいという「承認要求」があると安田は指摘する。

その反面に、安田は「本来、『奪われた』と感じる者の受け皿として機能してきたのは左翼の側だった。ところが、いまやその左翼がまるで機能していない」(本書p345)ということがあると主張している。

そして、在日コリアンなどを攻撃する理由について、安田はこのように述べている。

 

その一方で彼らが在日コリアンや部落解放同盟を執拗に攻撃するのは、それが「タブー破り」の快感であると同時に、「朝鮮人のくせに」「被差別部落の住民のくせに」一定の発言力と影響力が担保されていると思い込んでいるいるからである。
 会員のなかには、世の中の矛盾をひもとくカギを、すべて「在日」が握っていると思い込んでいる者が少なくなかった。一部の者は、政治も経済も裏で操っているのは在日だと、本気で信じている。それを前提に、在特会こそが虐げられた人々の味方なのだと訴える。(本書p355)

もちろん、こういうことは「ありえないこと」なのだが、こういう「ありえないこと」こそ「真実」とし、「逆さまの世界」を在特会の人びとは生きているといえよう。そして、必ずしも在特会が組織したわけではない、2011年のフジテレビに対する「嫌韓流デモ」など、在特会以外にも、こういう雰囲気が流通していると安田は指摘している。

このように、安田の分析は、在特会の人びととある意味で「人間的な交流」をしながら、その意識を内在的につかもうとしているといえる。ある意味で、等身大な「在特会」像を創造したといえる。そして、それは、安田自身も、読者である私にも通底している存在として、在特会を描き出しているのである。

それでも、釈然としない思いが残る。彼らが、自分たちを虐げてきた「加害者」たちへの「闘争」を行い、そのことによって、人びとからの承認を得ようとしている内在的な動機は理解できる。しかし、なぜ、その攻撃対象の一番手に「在日」コリアンがあがるのだろうか。

それは、冒頭で引用した、在特会の街頭宣伝を読んだり、彼らの動画をみていても感じる。なぜ、ここまで、在日コリアンに対して「差別的」なんだろうかと。

さらに、「在日」コリアンが「日本」を支配しているという「思い込み」についても、不思議な思いがする。マスコミ、公務員、労働組合、左翼一般が支配しているというなら、「思い込み」でも了解はできる。しかし、その最初に、なぜ「在日」コリアンがあがるのだろうか。

このことは、それこそ、関東大震災の朝鮮人虐殺にまでさかのぼることができ、在特会が存在する以前からあった、在日コリアンへの差別意識を前提にしなくては、理解できないのではなかろうか。といっても、それが、どのように作用しているのか、ここでは、提示できないのだが。

ナチスドイツの反ユダヤ主義も、ナチスがすべて創出したというわけではないだろう。ドイツ社会にすでにあった反ユダヤ意識と、第一次世界大戦後から大恐慌にかけてのドイツ社会の苦境が結びついて確立していったものではなかろうか。

安田は、本書のプロローグに次のように書いている。

しかし、いつまでたっても消えることのない疑問が頭のなかを駆け巡る。
そもそも、いったい何を目的に闘っているのか。いったい誰と闘っているのか。
相槌の代わりに、私もまた、ため息を漏らすしかなかった。(本書p9)

安田の書は、この問いにかなり答えたといえる。しかし、読み終わっても、いまだ、もやもやした思いが消え去ることはないのである。

安田浩一『ネットと愛国 在特会の「闇」を追いかけて』(講談社 2012年 1700円)

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