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Posts Tagged ‘在日特権を許さない市民の会’

福島第一原発事故による放射性物質汚染の影響については、政権も福島県庁もマスコミも可能な限り小さくみせようとしている。例えば、日本テレビは次のような記事をネット配信している。

安倍首相、福島県産野菜の安全性をアピール

 安倍首相は24日、東日本大震災の風評被害対策の一環として福島県産の野菜を試食し、安全性をアピールした。

 安倍首相が試食したのは、福島県産のキュウリやトマトで、風評被害対策のキャンペーンの一環として首相官邸を訪れた福島県の佐藤知事らから贈られたもの。

 安倍首相「(福島の野菜は)安全安心でおいしい。良い値段で売れるように、風評被害をみんなで吹き飛ばす。みなさん頑張って。応援します」

 また、この後、経団連の夏季フォーラムに出席した安倍首相は、福島県産の食品ついて、「やっと店頭では買っていただけるようになったが、贈呈品としてはちゅうちょする方が多い。お歳暮にはぜひ福島県産品を」と呼びかけた。
http://news24.jp/articles/2014/07/24/04255827.html

こういう「福島は安全」キャンペーンの背後には、いろいろな思惑があるだろう。官邸は原発再稼働を目論み、福島県庁は住民の「早期帰還」をめざし、農業者たちは生産物の購買忌避を解消しようとしている。

他方で、福島の危機を主張する人びとについては、全力をふるって攻撃する。少し前にあった「美味しんぼ」をめぐる騒動がそうだった。このことについては、よくも悪くも周知のことであろうが、確認のため、NHKがネット配信した福島県知事のコメントを紹介しておこう。

2014年05月12日 (月)
美味しんぼ 福島県知事が「残念」と不快感

12日発売の雑誌に連載されている漫画「美味しんぼ」の今週号の中で、登場人物が「福島県内には住むな」などと発言する場面があり、福島県の佐藤雄平知事が、「復興に向かって県民が一丸となっているときに風評を助長するような内容で、極めて残念だ」と不快感を示しました。

「美味しんぼ」は、小学館の漫画雑誌「週刊ビッグコミックスピリッツ」で昭和58年から連載されている雁屋哲さん原作で、花咲アキラさんが描く漫画です。
12日発売の今週号の中で、福島県双葉町の前町長や、福島大学の准教授が実名で登場し、「福島県内には住むな」とか、「人が住めるようにすることはできない」などと発言する場面が描かれています。
これに対し12日、さいたま市内で福島の復興支援を訴える講演を行った福島県の佐藤雄平知事が、講演のあとで報道各社の取材に応じました。
この中で佐藤知事は、「全国の皆さんが復興を支援してくださって、福島県民も一丸となって復興を目指しているときに、全体の印象として風評を助長するような内容で、極めて残念だ」と述べ、不快感を示しました。
そのうえで、今後の対応については、状況を見ながら検討すると答えました。
「美味しんぼ」を巡っては、先月発売された号でも、主人公が福島第一原発を取材したあとに鼻血を流し、双葉町の前町長が「福島では同じ症状の人が大勢いますよ」と語る場面が描かれ、双葉町が「そのような事実はなく、福島県民への差別を助長させることになる」として小学館に抗議しています。
http://www9.nhk.or.jp/kabun-blog/700/187648.html

また、「在日特権を許さない市民の会」などのヘイトスピーチを行っている人びとも、反原発デモなどを「反日」として槍玉にあげている。現時点でも世論調査では日本社会の半分程度の人びとは、原発再稼働について反対であり、原発については不安を感じている。しかし、原発への不安が具現化した福島第一原発事故の影響については「否認」し、それを主張する人びとについて攻撃することが、一つの規範となっているようなのである。

さて、私の考える問題は、福島県における放射性物質汚染の影響を否認し、影響を主張する人びとを攻撃する認識論的根拠がどこにあるのかということである。このことについて、ドイツの社会学者ウルリッヒ・ベックの『危険社会』(法政大学出版局、1998年)を手がかりに考えてみよう。

以前、何度か、本書の内容を紹介した。本書は、自然破壊による「危険」を現代社会の最大の問題としてとらえたもので、チェルノブイリ事故直後の1986年に原著がドイツで出版され、大きな反響を読んだ。いま、本書を読み返しているが、私としても違和感のあるところもある。しかし、まだまだ教えられることも多い。

ベックは、本書の中の「スケープゴート社会」という項目で次のようにいっている。

危険に曝されても、必ずしも危険の意識が成立するとは限らない。その反対に、不安にかられて危険を否定することになるかもしれない。危険に曝されているという意識自体を排除しようとするかもしれない。これが富の分配に対して危険の分配が異なる点である。飢えを否定解釈してもそれによって胃袋を満たすことはできない。しかし、危険は(現実化していないかぎり)いつでも、ないものと否定解釈することできる。物質的な困窮の場合は、事実上の被害と主観的な体験や被害とが解きがたく一つになっている。危険の場合はそうではない。逆に、危険について特徴的なのは、まさに被害そのものが、危険を意識しない状態を引き起こす可能性があることである。危険の規模が大きくなるにつれて危険が否定され、過小評価される可能性が大きくなるのである。

これは、重要な指摘である。危険に曝されていればいるほど、かえって危険を否認する可能性があるというのである。それはなぜなのだろうか。ベックは次のように論じている。

危険は知識の中で成立するのだから、知識の中で小さくしたり大きくしたり、あるいは意識から簡単に排除したりすることができる。飢えにとってはそれを満たす食物にあたるものは、危機意識にとって、危険を排除することであり、あるいは危険がないと解釈することである。危険の排除が(個人のレベルでは)不可能な分だけ、危険を否定する解釈が重要性を増す。

ベックは本書の各所で述べているが、放射性物質その他有害物質などによる自然破壊における「危険」は、人間の感覚では通常感知されるものではなく、科学的な観測によって得られる数値を通じて認識される。例えば、シーベルトで表現される放射線量、ベクレルで表現される放射能は、急性症状が出るほどのものでない限り、人間の感覚で認識されるものではない。それは、その他の有害物質でもそうである。水俣病の発生の原因となった有機水銀で汚染された魚は、人間にせよ猫にせよ、食べてそのことが認識できるものではなかった。しかしながら、そのような目に見えない危険に曝された結果は、致命的なものと推測されている。よく、「言語論的転回」がさけばれた近年の歴史学で「表象」ということばが使われているが、まさに放射性物質などの有害物質による「危険」は「表象」なのである。

そして、このような「危険」は、スケープゴートを見つけ出すことによって解消されることが可能である。ベックは、さらに、このように指摘している。

飢えや困窮の場合と違って、危険の場合は、不確実性や不安感がかきたてられても、それを解釈によって遠ざけてしまうことも多い。生じる不安を現場で処理する必要はない。こちらへあちらへと引きずり回して、いつかその不安を克服する象徴的な場所や事物や人を捜して見つけられればよいのである。したがって、危険意識においては別の思考や行動にすりかえたり、別の社会的対立にすりかえたりすることが頻繁に起こりやすい。またすりかえることが必要とされる。そのかぎりで、政治的な無為無策とそれに伴う危険の増大が示すように、危険社会は「スケープゴート社会」への内在的な傾向を含んでいる。危険そのものではなくて、危険を指摘する者が世間の動揺を突然引き起こすのである。目に見える富によって目に見えない危険の存在が隠されてしまっているのではなかろうか。すべては知的な空想の産物ではなかろうか。知的な怖がらせ屋や、危険の脚色家のでっち上げではないのだろうか。本当は東ドイツのスパイや共産主義者、ユダヤ人、アラブ人、トルコ人、難民が結局のところ、裏で糸を引いているのではないか。まさに危険が理解しがたいもので、その脅威の中で頼るものもないため、危険が増大すると、過激で狂信的な反応や政治思潮が広がる。こうした反応や政治動向によって、世間のなんでもない普通の人々を「避雷針」にして、直接に処理することが不可能な目に見えない危険を処理することが行われてしまう。

私たちが直面しているのは、こういう事態なのではないか。放射性物質汚染の「危険」による「不安」を、それを指摘する人びとへの攻撃によって解消する。さらに、すべては「知的な空想の産物」で「知的な反日左翼のでっちあげ」であり、「本当は中国のスパイや共産主義者、朝鮮人、韓国人、在日が結局のところ、裏で糸を引いているのではないか」と思い込む。福島の放射性物質汚染は、個人どころか国家のレベルでも現時点では解消不可能だと思う。しかし、解消不可能であるがために、放射性物質汚染の危険性を過小評価し、その不安を「スケープゴート」をみつけることに解消しようとしているのである。このような論理は、ドイツのベックが、チェルノブイリ事件直前に考えていたことだが、2014年の日本社会でも残念ながら該当しているといえよう。

 

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さて、今回も、韓国・聖公会大学日本学科教授権赫泰氏のインタビュー記事である「現代日本の『右傾化』と『平和主義』について」(京都大学新聞2013年4月16日号、5月16日号掲載)を紹介していくことにしたい。前回は、権氏の日本の平和主義批判を中心にみてきたが、今回は権氏の日本の反原発運動批判を中心にみていくことにする。

反原発運動の状況については、京都大学新聞のインタビュアーがかなり主導的に議論を引き出そうとしている。まず、インタビュアーは、このように問いかけた。

ー日本国内では震災・原発事故という全社会的な危機があった。その後、反原発運動を中心に社会運動が盛り上がってもいる。しかしそれがそれが新しいかたちでの国家主義、たんなる戦後社会礼賛になる危険性も極めて一部からであるが指摘されています(※16)。ここで指摘されている日本左派の「変質」について韓国では知られているのでしょうか。(京都大学新聞2013年5月16日号)

単に、「反原発運動をどう思いますか」と訊ねたのではない。「反原発運動における左派の変質について韓国では知られているのでしょうか」と質問したのである。そして、京都大学新聞では、わざわざ(※16)の注記で、官邸前デモは、労働組合や市民運動の団体旗の持ち込みや「脱原発以外の事柄」についてアピールが禁止されている一方で、脱原発で一致するならば右翼団体も受け入れており、日の丸の持ち込みも許容されていることを付記している。

この質問に対し、権氏は、韓国では自分しかそういうことは言っていないと述べた。そして、韓国では、自国の反原発運動を進めるために、日本の反原発運動を過大評価している傾向があるとしつつ、権氏は「韓国の反原発運動やっている連中は、日本で起っている情報を、僕に言わせればすごくウソついている」(京都大学新聞2013年5月16日号)と指摘する。

権氏は、日本の反原発運動の問題点を三つあげている。第一は、反原発運動で人が集まり、世論調査では原発反対が多数をしめるにもかかわらず、選挙では原発支持派がおおむね当選するという問題である。第二は、日本社会では「被害者(被爆者)としての選民意識」があり、それが日本の「平和主義」を根拠づけてきたとする問題である。これは、前回紹介した権氏の日本の平和主義への批判に通底しているといえる。

第三には、京都大学新聞のインタビュアーが指摘していた、「日本左派」の「変質」の問題である。権氏は、このように言っている。

 

最近反原発デモを見ていて感じるのは、それはそれとして良いのだけれど、右の人も大分入っているじゃないですか。西部邁なんかもいるし。つまりあらゆるこれまでの争点の上に、反原発が乗っかっているという。そうすると、百歩譲って反原発に成功してもね、全ての政治的争点というのは解決しないわけですよ。
 デモする社会になって反原発成し遂げても、歴史的問題、憲法問題それはどこに行くか分らなくなっちゃう。しかもエネルギーが全部そこに吸収されちゃいますので。それで僕は常に、反原発が今の観点で捉えるならば、当然そこには朝鮮高校無償化の問題なりね、そういうのも全部含めてやらなきゃなんないんだって。そこに「変な奴等」が入ってくるのなら排除しなければならないんだって言っているわけ。なんか反原発主義一本(※17)でやっていくとこれはどうなるか怖い。(京都大学新聞2013年5月16日号)

権氏は、日本の反原発運動は、シングルイッシューであるがゆえに、その他の政治的争点を無視していると述べている。本来は、朝鮮高校無償化の問題なども含めて反原発運動は取り組むベきとしている。そして、そこに「変な奴等」が入ってくるならば、排除しなくてはならないと権氏は主張している。その点からいえば、シングルイッシューであるがゆえに右翼も入っている反原発運動は「警戒対象」でしかないのである。

そして、ここで、インタビュアーは「在日特権を許さない市民の会」へのカウンターの問題を提起し、権氏は次のように答えている。

ー今のお話をお聞きして、反原発のみならず「在特会」に反対する社会運動での「左右連帯」を想起しました。この場合も、在特会が主張しているような根本の問題は解決されないどころか温存されてしまう。

 ショックだったよ。日の丸が出てきたりねえ。
 それで反原発を勝ち取ったらまだ「マシ」なんだけれども。
 そういう感じはありますね。しかもね、原発運動というのは、基本的にエコロジーですから一歩間違っちゃうと、生態主義、天皇主義とくっつく可能性がすごく高いね。ロジックとして。そもそも気をつけなくてはいけない。つまり「天皇様から譲り受けたこれだけ綺麗な国土を、西洋白人どもが持ってきた原発によって汚れちゃたまんない」という、実際そういう内容がありますから。しかも日本人共同主義みたいになっちゃって…。
 見ていてね、まあ原発無くなってくれればいいのだけれど、ただ見ていて良いのかな?という心配。であらゆる政治的争点は全部どっか吹っ飛んじゃって。(京都大学新聞2013年5月16日号)

結局、シングルイッシューの名の下に政治的争点を無視して右翼と日の丸を許容した反原発運動は、生態主義・天皇主義に結びつく可能性が高いとし、すでに日本人共同主義になっている指摘しているのである。

権氏の反原発運動についての批判を、とりあえず、権氏の論理にそって紹介してみた。まず、第一に指摘しなくてはならないのだが、権氏の反原発運動に対する情報は、かなり歪曲された形で受容されているのではなかろうかということである。例えば、官邸前抗議行動において、日の丸持ち込みが許容されているのは事実だが、日の丸だけが認められたわけではない。実際、抗議行動に出てみると、日の丸よりも数多く、赤旗、赤黒旗、ゲバラ旗、レインボーフラッグなどが掲げられているのである。主催者の首都圏反原発連合が下記のようなコードによって官邸前抗議行動における政党・組合などの旗をもってくることを歓迎しない姿勢を示しているが、そこには、前記のような旗は含まれていないのである。

(1) 原発問題と直接関連しない文言を掲示することはお控えください。下ろしていただくよう、スタッフがお願いする場合があります。「直接関連しない」とは、その文言だけを見たときに、一般に原発問題と認識されないものを言います。

(2) 市民団体その他で、団体の名称そのものが特定の政治的テーマに関する主張となっている場合も(1)に準じます。

(3) その他の団体名の旗や幟については現場で下ろしていただくことはしませんが、首都圏反原発連合はそれらの幟旗を歓迎しません。所属よりも主張を!ということを強く提案します。
http://coalitionagainstnukes.jp/?p=789

首都圏反原発連合の一員である野間易通は『金曜官邸前抗議』(2012年)の中で、「首都圏反原発連合は日の丸やこれらの旗を『特定の政治的テーマに関する旗や幟』と見なしていなかった。こうしたシンボルに関しては、特定の解釈を押し付けるべきではないと考えていた」(p172)と述べている。

といっても、このような認識は、韓国の権氏だけではない。私も時々そのような質問を受ける。直接反原発デモに行かない人たちの間で、そのような認識がひろまっているのかもしれない。京都大学新聞のインタビュアーも、そのような認識にたっているといえよう。

ただ、たぶん、このように言っても、権氏は納得しないであろう。結局、シングルイッシューで、脱原発一本で、他の政治的争点を無視して、右翼を(つまり日の丸を)受け入れること自体が問題だと答えるだろう。前回のブログで述べたように、権氏の議論は徹底的に原則主義にたつべきとするものであり、「現実主義的対応」すべてが警戒すべきものなのである。それは、慰安婦の問題でもそうであり、自衛隊・在日米軍の問題でもそうであり、この反原発運動でもそうなのである。

ある意味で、確かにすべての問題は関わっている。しかし、それぞれの社会運動はそれぞれの活動対象がある。例えば、朝鮮高校無償化を求める運動において、「反原発」に対する意見があわないといって排除することはできないだろう。それぞれの社会運動はそれぞれの活動対象をもっており、その中で戦略をたてているのだ。シングルイッシューもその戦略の一つである。最小限共有できることで、多くの人びとを運動に参加させていくということなのである。私たちは、自分たちの狭い価値観だけで生きていくことはできない。多様な人びととつながりあうことによってより豊かに生きていけるのである。

しかし、それは、それぞれの社会運動に参加する人びとがそれぞれシングルイッシューしかもっていないということではない。反原発運動に参加する人びとは、それとは別の在特会デモに対するカウンターにも参加するし、生活保護制度改悪の集会にも出席し、沖縄へのオスプレイ配備への抗議行動にも加わる。もちろん、それぞれの人により、関与の度は違うだろう。ただ、全く関心がないということはない。それぞれの個によって支えられているネットワークがあり、それを基盤にして、それぞれの社会運動が成り立っているのである。

さて、もう少し権氏の議論をみていこう。権氏は、インタビュアーの「日本社会内部においては思想の「左右」が溶け合い反戦や反差別についての実質的な対立軸が失われている、そして実質的に韓国なり中国が日本の政権に対する野党勢力の役割を果しているように感じました」という質問に対し、次のように答えている。

だから、国内の政党なりがしっかりやってくれないと、攻撃の対象が全部韓国・中国人になっちゃうわけ。日本の左翼政党がだらしないんで全部が日本人と韓国人・中国人の人種対立みたいになっちゃうわけ…「平和と民主主義」のもとでつくられた戦後日本社会の資産はどこにあるのか。最近ね、僕は日本に対する視点がこれまでずっと批判的だったんだけれど、それでも最近見ていると、僕の予想以上に速くダメになってきたんで悲しいですよ、本当に。怖いし。軍事化、民主主義の後退、生活水準の低下、日本で生活している人が不幸になることじゃないですか、結局。韓国も似たような状況になりつつあるけれど。(京都大学新聞2013年5月16日号)

こうやってみてくると、権氏は「国内の政党」「左翼政党」の復権を求めているということになる。それならば、ある意味では多くの政治的争点を運動が包含すべきだと主張している意図も理解できる。彼にとっては、多くの政治的争点に対しての態度を共有する政党を基盤とした政治運動が中心となるべきと考えているのであろう。確かに、シングルイッシューでしかない反原発運動において、多様な争点をもつ「政治」への関与が課題であることは事実なのだ。しかし、とはいっても、それこそ、自立した個によるネットワークに基づいた形で、従来の「左翼政党」とは違った形の政党が必要とされているのである。そして、その際、それぞれの社会運動、それぞれの個の自立性を認めていくこともまた課題なのであるといえよう。

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前回のブログで、町田市が朝鮮学校通学児童に対する防犯ブザーを配布しない決定をしたことを紹介した。しかし、昨日、町田市は一転して、防犯ブザーを配布することを決定した。次のNHKのネット配信記事をみてほしい。

東京・町田市 防犯ブザー朝鮮学校にも配付へ

4月8日 20時17分
東京・町田市 防犯ブザー朝鮮学校にも配付へ

 

北朝鮮を巡る社会情勢などを理由に朝鮮学校の児童に防犯ブザーを配付しない決定をした東京・町田市の教育委員会は、改めて対応を協議した結果、子どもの安全を守るのが教育委員会の役割と判断した、などとして、朝鮮学校の児童にも防犯ブザーを配付することを決めました。

町田市教育委員会は、北朝鮮を巡る社会情勢や国際情勢などを理由に小学校に入学する児童に無償で配付している防犯ブザーを今年度、町田市にある朝鮮学校、「西東京朝鮮第二幼初級学校」の児童に配付しない決定をしました。
しかし、この決定を疑問視する電話が相次いだことなどから、市教育委員会は改めて対応を協議した結果、配付しない決定を撤回し、朝鮮学校の児童にも防犯ブザーを配付することを決めました。
市教育委員会教育総務課の高橋良彰課長は「教育委員に諮ったうえで決定すべきところを教育委員会の事務局だけで決めてしまった。教育委員が改めて協議した結果、子どもの安全を守ることが教育委員会の役割だと判断した」と話しています。
また、今回の対応について高橋課長は「反省すべき点が多く、今後の対応に生かしていきたい」と話し、朝鮮学校に対して遺憾の意を伝えたということです。
朝鮮学校のリ・ジョンエ校長は「社会情勢や国際情勢と子どもたちの安全は関係なく、決定が撤回されて本当によかった。教育委員会には今回の対応の経緯を詳しく説明してほしい」と話しています。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130408/k10013768361000.html

この問題は、高校無償化などの朝鮮学校への補助問題と一緒にされてとらえられている向きがある。この問題は、朝鮮学校自体への補助ではない。朝鮮学校に通う児童の安全を保障するということである。児童の安全を保障するという点において、朝鮮学校とそれ以外の児童を北朝鮮を巡る社会情勢などを理由として平等な扱いをしなくてよいのかという問題である。それは、まさに、基本的人権の問題なのである。

こういうことを、教育委員会にもはからず、事務局だけで決めてしまったことは失態である。多くの人びとの抗議を受けて、「教育委員が改めて協議した結果、子どもの安全を守ることが教育委員会の役割だと判断した」ことは、当たり前ではあるが、こういうことを再確認したことは貴重だと思う。また、たぶん十分なものではないだろうが、町田市教委が朝鮮学校に対して「遺憾の意」を伝えたことも、それ自体は評価できるといえる。

町田市の朝鮮学校通学児童への防犯ブザー不配布については、さすがに大手マスコミでも賛意をあらわすような報道はしていない。朝鮮学校を高校無償化の対象外にしている安倍政権の文科相である下村博文も「自治体の判断であり、コメントは差し控えたいが、子どもたちがいじめに遭わないよう配慮してもらいたい」と述べている。(http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130405/k10013696541000.html)

その中で、ほぼ唯一、防犯ブザー不配布に賛意を示したのが産經新聞である。以前部分的に掲載した、産經新聞のコラムである「産経抄」2013年4月6日号をここで全文をあげておく。

4月6日
2013.4.6 03:10 [産経抄]
 若気の至りとは恐ろしいもので、初めて見たときは巨匠も老いたなぁ、という陳腐な感想しか浮かばなかった。黒澤明監督が晩年にメガホンをとった「夢」は、バブル真っ最中の平成2年に封切られた。

 ▼「こんな夢を見た」という字幕で始まる8つのエピソードは、自称黒澤ファンを大いにとまどわせた。「七人の侍」や「用心棒」のようなテンポの良い血湧き肉躍る演出は影も形もなく、何度も舟をこいだ。

 ▼そんな退屈な映画なのに、最終章で笠智衆が、天寿をまっとうして亡くなった老女を「祝う」ため村人たちと踊る場面は、今でも鮮烈に覚えている。2年前に福島第1原発事故が起こった直後は、富士山が原発の爆発で赤く染まるシーンをとっさに思い出した。

 ▼巨匠は「夢」で原発事故を予知したのだろうか。そんな夢の不思議が、科学的に解き明かされる日がやってくるかもしれない。京都府にある研究所が、世界で初めて夢の解読に成功したという。

 ▼将来は画像の再現も夢ではないそうだが、ろくな夢を見ない小欄は、夢の中身をわざわざ画像にするなぞまっぴら御免である。さりながら、あの人がどんな夢を見ているのかは、こっそり知りたい。「無慈悲な作戦」を承認し、核戦争の危機をあおりにあおっている北朝鮮の3代目である。

 ▼3代目は、ミサイルの発射ボタンを押し、ワシントンや東京が火の海になる画像を夜な夜な見ているのだろうか。東京都町田市では、教育委員会が朝鮮学校生徒への防犯ブザー配布をやめたが、当たり前の話である。かの地出身の同胞は「差別はけしからん」と騒ぐ前に、胸に手を当ててよく考えてほしい。子供に罪はないが、悪夢の発生源をいまだに崇拝している親たちの責任は重大である。

見れば見る程不思議な文章で、前半に書いていることは、なにを意図しているかよくわからない。そして、後半部分については、論理的に破綻しているといえる。北朝鮮の核政策への批判は当然である。しかし、それが、防犯ブザーを配布しないことによって、朝鮮学校通学児童にその責任を負わせることを正当化することになるのだろうか。ここでも書いているように「子供に罪はない」のである。それは、北朝鮮国家の罪なのである。所属国家の責任をなぜ罪のないと認めている「子供」に担わせるのであろうか、

町田市教委が「遺憾の意」を表明するならば、産經新聞もなんらかの形で「遺憾の意」を表明すべきだと思う。しかし、産經新聞に私が期待しても、あまり意味はないだろう。

ここでは、角度をかえてみておこう。産經新聞は、時事新報(1882年創刊)と日本工業新聞(1933年創刊)という二つの新聞を源流としている。前者の時事新報の創業者は福沢諭吉で、福沢は存命中時事新報の社説を書いていた。そのような社説の一つに「朝鮮独立党の処刑」(1885年2月23・26日号)というものがある。この社説は、福沢諭吉自身や朝鮮駐在の日本軍が援助した急進開化派による朝鮮政府のクーデターである甲申政変が1884年に挫折し、甲申政変に関係していた朝鮮の人びとが家族もろとも1885年に処刑されことについて論評したものである。

そのなかで、福沢は、こう言っている。「強者」は粗暴だから人を殺す、「弱者」は文を重んじているが故に人を害することがないと一般的に言われているが、そうではない。「強者」は「容易に殺すの術あるが故に殺すことを急がざるものなり」(『福沢諭吉全集』10巻p221、以後福沢の引用は同書から行う)としている。かえって「文弱なる者」のほうが、自分自身の力に自信がないので「機に乗じて怨恨を晴らし、且つは後難を恐るゝの念深くして、一時に禍根を断たんとするが為に惨状を呈するものなり」(p222)としている。そして、アレキサンダー大王の征服や源平合戦を事例にしながら、古代の歴史において、無辜の婦人や小児などまで多数の人びとを虐殺するということは「決して其人の強きが為には非ずして、却て弱きが為に然るものなりと断定せざるを得ず」(p222)としている。つまり、「弱者」と自覚している者たちであるが故に、機会があれば残虐なことをするのだというのである。

そして、福沢にとって、文明開化とは、武術を進歩させ「人を制し人を殺すの方便に富」ませるものであった。つまり、暴力の手段を拡大させるものが文明であった。しかし、暴力の手段を拡大したからといって、暴力が一般化するというわけではない。むしろ、家族などへの暴力は行なわれなくなっていく。西南戦争において、指導者の西郷隆盛の家族が処罰されかったことを事例にして、福沢はこのように述べている。

例へば戦争に降りたる者を殺さず、国事犯に常事犯(政治犯と一般刑事犯…引用者注)に、罪は唯一身に止まりて父母妻子に及ばざるのみか、其家の財産さへ没入せらるゝことは甚だ稀なり…一言これを評すれば、能く人を殺すの力あるものにして始めて能く人を殺すことなしと云て可ならん。之を文明の強と云ふ。(p222〜223)

福沢によれば、文明の武力によって鎮圧できる自信があるから、西南戦争において必要以上に人を殺さなかったとしている。それを「文明の強」とよんでいるのである。そして、日本と比較しながら、朝鮮の状況について、「野蛮の惨状」と評している。

吾々日本の人民は今日の文明に逢ふて、治にも乱にも屠戮の毒害を見ず。苟(いやしく)も罪を犯さゞる限りは其財産生命栄誉を全うして奇禍(思いがけない災難…引用者注)なきを喜ぶの傍に、眼を転じて隣国の朝鮮を見れば、其野蛮の惨状は我源平の時代を再演して、或は之に過ぐるものあるが如し(p223)

その上で、この社説は、甲申政変の関係者だけでなく、小さな子供も含んだ家族まで死刑にした朝鮮を批判しているのである。

単純化すれば、福沢諭吉は、文明/野蛮、強者/弱者の二項対立図式の上にたって、日本/朝鮮の関係をとらえている。その上で、責任のない子供に責任を担わせる行為は、野蛮であり弱者の行為としているのである。

このような福沢の世界観は、今日からいえば、文明/野蛮の二項対立的図式の上にたつオリエンタリズムの範疇に入るといえる。そのオリエンタリズムをより鮮明に現したのが、直後の3月16日の社説として執筆された「脱亞論」である。もちろん、現状において、福沢のオリエンタリズム的世界観は評価できるものではない。いわゆる「文明」国が、植民地戦争や20世紀の二度の大戦において、それ以前の社会をはるかに凌駕する残虐性を発揮してきたことは言うまでもないことである。それに、福沢も含めた甲申政変の日本側の関与は、10年後の日清戦争開戦の源流の一つにもなった。その意味でも評価できない。そして、また、このような福沢の認識は、朝鮮人や中国人への差別意識の一つの源流にもなっているといえる。

しかし、このような1885年における福沢のオリエンタリズム的世界観を基準として、「産経抄」の、国家の責任を罪のない子供に担わせるという論理を検討してみよう。1885年の福沢の論理からすれば、そのような行為は「野蛮」であり、「弱者」のものとされることになる。福沢によれば、そのような行為は、事態を合理的に制御できないということが前提となってなされるというのである。

そうしてみると、なぜ「産経抄」が、どのような形で考えても不合理な、北朝鮮の核兵器政策の責任を子供に負わせるという主張をしているのかが理解されてくるように思う。北朝鮮の核兵器政策にせよ、拉致問題にせよ、日本側がなんらかの強硬措置をとっても、事態の解決には役立たないといえる。その意味で、日本は「弱者」なのである。そして、このことは、「日本」なるものを代表すると称する「産経抄」などの主張が福沢のいう意味で「野蛮」に転化する契機になってしまうといえる。

このような論理は、産經新聞だけでないのだ。日本政府や自治体、さらに在日特権を許さない市民の会などにも共有されているといえる。もちろん、この問題は単純ではない。北朝鮮、韓国、中国にたいする大国意識とないまぜになっている。これらの諸国と比べて、日本は「大国」であり、優越する立場をもつはずだという意識もある。しかし、現実には、日本側が、これらの諸国の行動を制約する力は小さいという「弱者」意識もある。それゆえに、朝鮮学校通学児童にその責を負わせるようなある意味では「野蛮」な行為に転化していってしまうのだと考えられるのである。それこそ、1885年の福沢諭吉が批判したことであった。

前述したように、1885年の福沢諭吉はあまり評価できない。しかし、1885年の福沢諭吉よりも、現代の「産経抄」はより劣っているといえるのである。

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最近、朝鮮学校への差別的待遇が強まっている。2010年の高校無償化においては、高等学校等に対する就学支援金の対象外とされた。また、朝鮮学校への補助金支給を打ち切る地方公共団体が増加してきている。

そんな中、町田市では、市立小学校や私立小学校に通っている児童に配布している防犯ブザーを、朝鮮学校通学の児童には配布しないという決定を下した。次のNHKがネット配信した記事をみてほしい。

町田市教委 防犯ブザーを朝鮮学校に配らず
4月5日 12時54分

北朝鮮が挑発的な言動を続けるなか、東京・町田市の教育委員会は、社会情勢や国際情勢などを理由に小学校に入学する児童に配付している防犯ブザーを今年度、朝鮮学校の児童に配付しない決定をしていたことが分かりました。

町田市教育委員会は、小学校に入学する児童を対象に防犯ブザーを無償で配付する事業を9年前から行っています。
町田市にある朝鮮学校の児童に対しては学校から要望があれば配付し、ことし2月にも新入学の児童6人と在校生の故障分など合わせて45個を配付するよう要望を受けたということです。
これに対し、市教育委員会は、今年度、朝鮮学校の児童に防犯ブザーを配付しないことを決め、先月28日に伝えました。
その理由について、市教育委員会教育総務課の高橋良彰課長は「北朝鮮を巡る社会情勢や国際情勢を踏まえて市の事業を進めるのはふさわしくないと判断した」と説明しています。
この決定に対し、町田市にある「西東京朝鮮第二幼初級学校」のリ・ジョンエ校長は「社会情勢を理由に子どもの安全を脅かすような対応で、残念に思います」と話していました。
市教育委員会には、今回の対応を疑問視する電話が4日までにおよそ40件、寄せられているということで、市教育委員会は、対応を見直すかどうか検討を進めることにしています。

「いじめに遭わないよう配慮を」
下村文部科学大臣は、閣議のあと、記者団に対し、「自治体の判断であり、コメントは差し控えたいが、子どもたちがいじめに遭わないよう配慮してもらいたい」と述べました。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130405/k10013696541000.html

朝日新聞は、やや詳しく、この背景を4月5日にネット配信した。

市教委は今年2月下旬、前年度までと同様、同校にも防犯ブザー(1個299円)の必要個数を知らせるように連絡。同校から3月上旬、この春に初級部に入学する6人と在校生の故障分など計45個の要望を受けた。だが、2月中旬の北朝鮮の核実験などで安倍政権が北朝鮮への強硬姿勢を強める中、市教委の職員から「市民の理解が得られない」「今はまずい」との声が上がり、3月下旬に学校に配布の中止を伝えた。
http://www.asahi.com/national/update/0404/TKY201304040485.html

このような町田市の措置を、産經新聞はコラム「産経抄」4月6日付で擁護した。このコラムでは、前半に黒沢明の映画「夢」が原発事故を予感していたのではないかと述べている。しかし、その話と全くかかわらないかたちで、このように主張している。

▼将来は画像の再現も夢ではないそうだが、ろくな夢を見ない小欄は、夢の中身をわざわざ画像にするなぞまっぴら御免である。さりながら、あの人がどんな夢を見ているのかは、こっそり知りたい。「無慈悲な作戦」を承認し、核戦争の危機をあおりにあおっている北朝鮮の3代目である。

 ▼3代目は、ミサイルの発射ボタンを押し、ワシントンや東京が火の海になる画像を夜な夜な見ているのだろうか。東京都町田市では、教育委員会が朝鮮学校生徒への防犯ブザー配布をやめたが、当たり前の話である。かの地出身の同胞は「差別はけしからん」と騒ぐ前に、胸に手を当ててよく考えてほしい。子供に罪はないが、悪夢の発生源をいまだに崇拝している親たちの責任は重大である。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130406/plc13040603110003-n1.htm

この文章は、全体でも意味が貫徹せず、学校の作文レベルでも、たぶん評価できないと思われる。そして、引用した部分でも、論理が破綻している。北朝鮮の核兵器政策への批判がなぜ、「教育委員会が朝鮮学校生徒への防犯ブザー配布をやめたが、当たり前の話である」ということにつながるのか。「子供に罪はないが、悪夢の発生源をいまだに崇拝している親たちの責任は重大である」としているが、なぜ罪のない子供が責任をとらなくてはならないのか。

この産経抄の論理の破綻は、そもそも、このような決定を下した町田市の姿勢にも共通しているだろう。「北朝鮮を巡る社会情勢や国際情勢を踏まえて市の事業を進めるのはふさわしくないと判断した」とするが、産経抄においても認めるように「子供に罪はない」のであり、「北朝鮮を巡る社会情勢や国際情勢」とは別次元の話である。ある意味では、朝鮮学校通学児童は、法的に保護しないと宣言したことに等しい。他方で、朝鮮学校には婉曲な廃校を促していることになるだろう。

しかも、問題は、「北朝鮮を巡る社会情勢や国際情勢」のために、朝鮮学校に通学する児童・生徒に対して、より危険な状態になっているということである。人種差別撤廃委員会に提出した「人種差別撤廃条約 第3回・第4回・第5回・第6回 政府報告 」(2008年8月) で、日本政府自体が、次のようにいっている。

 

(3)児童・生徒等に対する嫌がらせ等の行為への対応
26.2002 年 9 月 17 日の日朝首脳会談において、北朝鮮側が拉致事件の事実を正式に認めたこと等から、在日韓国・朝鮮人児童・生徒に対する嫌がらせ等の行為が発生したため、全国の法務局・地方法務局では、各地で啓発ポスターを掲示したり、JRの駅頭や繁華街等において啓発パンフレットや啓発物品を配布する等の啓発活動を実施したほか、嫌がらせ等に対する人権相談等を通じて適切な措置を講じた。
また、2006 年 7 月、北朝鮮によりミサイル発射が行われたとの報道がされた際、及び2006 年 10 月、北朝鮮により核実験が行われたとの報道がされた際にも、在日韓国・朝鮮人児童・生徒に対する嫌がらせ等の行為が発生したため、同様に適切な対応を実施した。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/jinshu/pdfs/hokoku3-6.pdf

また、「人種差別撤廃条約 第7回・第8回・第9回 政府報告 」(2013年1月)でも、次のように述べている。

(4)児童・生徒等に対する嫌がらせ等の行為への対応
40.第3回・第4回・第5回・第6回政府報告パラグラフ26参照。
41.さらに、2009年4月に北朝鮮によるミサイル発射が行われたとの報道がされた際、同年5月に北朝鮮による地下核実験が行われたとの報道がされた際並びに2012年4月及び12月に北朝鮮によるミサイル発射が行われたとの報道がされた際にも、在日韓国・朝鮮人児童・生徒に対する嫌がらせ等の行為の発生を防ぐため、啓発活動を実施するとともに、嫌がらせ等に対する人権相談等を通じて適切な措置を講じた。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/jinshu/pdfs/houkoku_789_1.pdf

日本政府自体が、「北朝鮮を巡る社会情勢や国際情勢」によって「在日韓国・朝鮮人児童・生徒に対する嫌がらせ等の行為が発生」したことを認めているのである。そして、上記の措置が有効なものかどうかは不明であるが、少なくとも、形式的には対応しなくてはならないものであることを表明しているのである。もちろん、日本政府は、高校無償化において朝鮮学校を除外しており、それ自身差別的である。しかし、そのような政府ですら、「在日韓国・朝鮮人児童・生徒に対する嫌がらせ等の行為」は抑止しなくてはならないという姿勢を建前では方針としている。現状では、朝鮮学校通学の児童は、よりその保護を徹底すべき対象といえる。その意味で、町田市や産経抄の認識は、政府方針にすら反しているのものなのである。

1965年の国連総会で採択され、日本が1995年に加入した人種差別撤廃条約(あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約)の第5条は、次のように規定している。

第5条
 第2条に定める基本的義務に従い、締約国は、特に次の権利の享有に当たり、あらゆる形態の人種差別を禁止し及び撤廃すること並びに人種、皮膚の色又は民族的若しくは種族的出身による差別なしに、すべての者が法律の前に平等であるという権利を保障することを約束する。

(a)裁判所その他のすべての裁判及び審判を行う機関の前での平等な取扱いについての権利
(b)暴力又は傷害(公務員によって加えられるものであるかいかなる個人、集団又は団体によって加えられるものであるかを問わない。)に対する身体の安全及び国家による保護についての権利
(c)政治的権利、特に普通かつ平等の選挙権に基づく選挙に投票及び立候補によって参加し、国政及びすべての段階における政治に参与し並びに公務に平等に携わる権利
(d)他の市民的権利、特に、
(i)国境内における移動及び居住の自由についての権利
(ii)いずれの国(自国を含む。)からも離れ及び自国に戻る権利
(iii)国籍についての権利
(iv)婚姻及び配偶者の選択についての権利
(v)単独で及び他の者と共同して財産を所有する権利
(vi)相続する権利
(vii)思想、良心及び宗教の自由についての権利
(viii)意見及び表現の自由についての権利
(ix)平和的な集会及び結社の自由についての権利
(e)経済的、社会的及び文化的権利、特に、
(i)労働、職業の自由な選択、公正かつ良好な労働条件、
   失業に対する保護、同一の労働についての同一報酬
   及び公正かつ良好な報酬についての権利
(ii)労働組合を結成し及びこれに加入する権利
(iii)住居についての権利
(iv)公衆の健康、医療、社会保障及び社会的サービスについての権利
(v)教育及び訓練についての権利
(vi)文化的な活動への平等な参加についての権利
(f)輸送機関、ホテル、飲食店、喫茶店、劇場、公園等一般公衆の使用を目的とするあらゆる場所又はサービスを利用する権利
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/jinshu/conv_j.html

このように、「暴力又は傷害(公務員によって加えられるものであるかいかなる個人、集団又は団体によって加えられるものであるかを問わない。)に対する身体の安全及び国家による保護についての権利」「教育及び訓練についての権利」などは平等に保障しなくてはならないことになっている。先の日本政府の見解は、このことをふまえたものなのである。もちろん、日本政府は自発的にこのような見解を主張しているのではないと考えられる。人種差別撤廃委員会の勧告のもとで、このような見解を表明しているのである。

日本政府と人種差別撤廃委員会との関係はまた後述したい。ここで確認すべきことは、町田市にしても産経抄にしても、国籍などの出自に関わらず基本的人権は平等に保障しなくてはならないという意識を欠如しているということである。そして、このような欠如は、在日朝鮮人・韓国人に対するヘイト・スピーチを繰り返す「在日特権を許さない市民の会」(在特会)にも共通している。在特会のヘイト・スピーチは、日本社会のレイシズム的傾向を白日のもとにさらしたが、町田市や産経抄の言動は、このような傾向は在特会だけでなく、よりエスタブリッシュの人たちにも共有されていることを示しているのである。

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