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日本の原子力開発は、1955年の原子力基本法制定当時から「平和利用」を旗印としていた。そして、政治的には核不拡散NPT条約体制構築に協力していた。他方、核兵器に転用可能なプルトニウム利用も含む原子力利用の包括的拡大に固執してきた。そのために、経済的には引き合わないにもかかわらず、もんじゅが建設され、再処理工場が設置され、軽水炉におけるプルサーマル計画が推進されてきた。吉岡斉氏は『新版 原子力の社会史』(2011年)において、次のように指摘している。

こうした原子力民事利用の包括的拡大路線への日本の強いコミットメントの背景に、核武装の潜在力を不断に高めたいという関係者の思惑があったことは、明確であると思われる。たとえば1960年代末から70年代前半にかけての時代には、 NPT署名・批准問題をめぐって、日本の国内で反米ナショナリズムが噴出した。NPT条約が核兵器保有国に一方的に有利な不平等条約であり、それにより日本は核武装へのフリーハンドが失われるばかりでなく、原子力民事利用にも重大な制約が課せられる危険性があるという反対論が、大きな影響力を獲得したのである。とくに自由民主党内の一部には、核兵器へのフリーハンドを奪われることに反発を示す意見が少なくなかったという。こうした反対論噴出のおかげで日本のNPT署名は70年2月、国会での批准はじつに6年後の76年6月にずれ込んだのである。(吉岡前掲書p175)

さて、原子力予算が初めて付けられた1954年頃は、どうだったのであろうか。本ブログでも述べたが、1954年に初めて原子力予算をつけたのは、当時の与党である自由党の吉田内閣ではない。当時、重光葵が総裁をつとめていた改進党の中曽根康弘らであった。当時、アメリカは日本に対して、MSA(相互安全保障)援助により、経済的・軍事的に日本にてこ入れを行い、アジア地域における米軍配備を一部肩代わりすることを望んでいた。吉田内閣は、漸進的に自衛力を増強することにして、MSAもその意味で受け入れることを方針としていた。一方改進党や、自由党から分かれた鳩山一郎を中心とする鳩山一郎は、MSA援助を受け入れることにより積極的であり、最新鋭兵器を導入して本格的再軍備を行うことを期待していた。ちなみに、日本社会党は当時右派と左派に分かれていたが、どちらも再軍備反対であった。

こういう情勢において、アイゼンハワー大統領の「アトムズ・フォア・ピース」演説(1953年)を受けて、中曽根らが「原子力の平和利用」を主張したことに、吉岡氏は奇異の念を抱いている。

 

もっとも当時、民族主義的な核武装論者とみられていた中曽根が、アメリカの核物質・核技術の移転解禁のニュースを聞いて、ただちにアメリカからの核物質・核技術の導入を決断したというのは、常識的にはややわかりにくいストーリーである。なぜならアメリカ依存の核開発をとることによって、日本の自主的な核武装がかえって困難となる可能性もあったからである。真の核武装論者ならば、開発初期における多大な困難を承知のうえで自主開発をめざすほうが筋が通っている。当時の中曽根の真意がどこにあったかは不明である。(吉岡前掲書p73)

もちろん、中曽根は、当時も今も、この疑問には答えてくれていない。ただ、中曽根の同僚である小山倉之助代議士(宮城二区選出)が、1954年3月4日の衆議院本会議で、原子力予算を含む改進党による予算案組み替えに賛成する演説を行っている。次をみてほしい。

第四は国防計画についてでありますが、政府は、日本の経済力に順応して漸増すると言うばかりであつて、依然消極的態度に出ております。従つて、保安隊は自衛隊と改名いたしましても、依然として日陰者の存在であるということは免れません。国民は自衛隊に対する愛敬の念薄く、かつまた彼らに栄誉を与える態度に出ておりません。従つて、彼らは国民の信頼を受けているということを意識しないのであります。信頼なき、栄誉なき存在は公の存在とはならぬのでありまして、彼らがその責任を自覚せず、従つて、士気の上らないことは当然であると言わなければなりません。ゆえに、国民は、保安隊を腐敗堕落の温床であるかのごとく、むしろその増強に対して恐怖の念を抱く者さえあることを認めなければなりません。国会においてもしばしば論議の中心となつたのであります。
 しかるに、米国は、日本の国防の前線ともいうべき朝鮮からは二箇師団の撤退を断行し、大統領のメツセージにおいては、友邦に対して新兵器の使用法を教える必要があると声明しておるのであります。私、寡聞にして、いまだ新兵器の発達の全貌を知る由もありませんが、近代兵器の発達はまつたく目まぐるしいものでありまして、これが使用には相当進んだ知識が必要であると思います。現在の日本の学問の程度でこれを理解することは容易なことではなく、青少年時代より科学教育が必要であつて、日本の教育に対する画期的変革を余儀なくさせるのではないかと思うのであります。この新兵器の使用にあたつては、りつぱな訓練を積まなくてはならぬと信ずるのでありますが、政府の態度はこの点においてもはなはだ明白を欠いておるのは、まことに遺憾とするところであります。また、MSAの援助に対して、米国の旧式な兵器を貸与されることを避けるがためにも、新兵器や、現在製造の過程にある原子兵器をも理解し、またはこれを使用する能力を持つことが先決問題であると思うのであります。私は、現在の兵器でさえも日本が学ばなければならぬ多くの点があると信じます。
 元来、軍需工業は、科学並びに化学の粋を集めたものでありまして、平和産業に利用する部分も相当あると存じます。第二次世界大戦では、日本の軍人は世界の科学の進歩の程度に盲目であつて、日本人同士が他の日本人よりすぐれておるというばかりで優越感を覚え、驕慢にして他に学ぶの謙虚な精神の欠乏から大敗を招いたことは、われわれの親しく経験したところであります。MSA援助の中にも大いに学ぶところがあり、学ばなければならぬと思います。これはわが国再興の要諦であると信じます。
 わが党は、原子炉製造のために原子力関係の基礎調査研究費として二億三千五百万円、ウラニウム、チタニウム、ゲルマニウムの探鉱費、製錬費として千五百万円を要求し、三派のいれるところとなつたのでありますが、米国の期待する原子力の平和的使用を目ざして、その熱心に推進しておる方針に従つて世界の四十箇国が加盟しておるのでありまして、これは第三次産業革命に備えんとするものでありまするから、この現状にかんがみ、これまで無関係であつた日本として、将来原子力発電に参加する意図をもつて、優秀な若い学者を動員して研究調査せしめ、国家の大計を立てんとする趣旨に出たものであります。(拍手)(国会会議録検索システム)

引用した部分の前半部では、小山は、吉田内閣の打ち出した漸進的な防衛力増強方針を批判し、このままでは自衛隊は日陰者になってしまうとした。さらに、小山は、米軍は朝鮮半島から部隊を一部撤収することを宣言し、その代替として、友邦の国に米軍の新兵器の使用法を教えるとしていると述べた。MSAは、米軍のプレゼンスを日本その他で代替するためのものとして、小山は理解していたのである。しかし、米軍の新兵器はかなりすすんだもので、教育・訓練がされないと導入できないと小山はいっている。小山によれば、そのために、米軍のより旧式な兵器が押し付けられてしまうのではないかとしている。それをさけるためにも「新兵器や、現在製造の過程にある原子兵器をも理解し、またはこれを使用する能力を持つことが先決問題であると思うのであります。」と小山は述べているのである。

この発言は重要である。小山は、MSAによって、アメリカは順次新兵器を供与するとしている。その中には、原子兵器も含まれているのである。しかし、そのためには、原子兵器を含む新兵器について「教育」されてなくてはいけないと小山は主張しているのである。

この後、小山は、軍事技術の平和転用を主張し、その前提で原子力の平和利用の必要性を主張している。この点は、アイゼンハワーの「アトムズ・フォア・ピース」演説の精神に即しているといえるだろう。しかし、他方で、すでに述べてきたように、MSA援助で順次核兵器も供与されると小山は考えーアメリカがこの段階で日本に核兵器を供与するとは思い難いのだがー、そのための「教育」として「原子力の平和利用」があったと考えられないのであろうか。その意味で、当時の中曽根康弘らの改進党の原子力政策はそれなりに首尾一貫していたといえるのである。そのように仮説的に考えられるのである。

もちろん、この方針がそのまま通ったわけではない。前述したように、アメリカが日本に核兵器を供与するとは思いがたい。また、国会でも社会党は左右とも再軍備反対であり、この時期、実際の原子力開発の主体として考えられていた日本学術会議の科学者たちも、原子力技術の軍事転用を忌避していた。その中で、ある意味曲折しながら、日本の原子力開発は開始されたといえよう。

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科学史家であり、現在、政府の「東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会」委員を勤めている吉岡斉が『新版 原子力の社会史』(2011年、朝日新聞出版)を出版した。吉岡は、本書旧版を1999年に出版している。新版と旧版との最大の違いは、新版においては、2011年の福島第一原発事故に至る過程まで執筆していることである。

ここで、吉岡が本書で提起している原子力開発利用の時代区分をみていこう。吉岡は、次のように原子力開発を時期区分している。

第Ⅰ期  戦時研究から禁止・休眠の時代(1939〜53)
第Ⅱ期  制度化と試行錯誤の時代(1954〜65)
第Ⅲ期 テイクオフと諸問題の噴出の時代(1966〜79)
第Ⅳ期 安定成長と民営化の時代(1980〜94)
第Ⅴ期  事故・事件の続発と開発利用低迷の時代(1995〜2010)
第Ⅵ期 原子力開発利用斜陽化の時代(2011〜)
(本書p29)

第Ⅰ期(1939〜53)は、いうまでもなく、戦時期から占領期にあたる。アメリカなどと同様に、日本においても戦時期には核兵器開発をめざして原子力開発が開始された。しかし、1945年の敗戦により、日本は占領され、原子力開発は基本的に禁止された。1952年に発効したサンフランシスコ講和条約は原子力開発を禁止していなかったが、科学界の大勢は慎重論が強く、しばらく原子力開発は休眠されていた。

第Ⅱ期(1954〜65)は、高度経済成長期の前半にあたる。1954年に改進党の中曽根康弘らによって原子力開発予算が提案され、可決された。このことは、原子力開発開始の契機となった。この時期には、一方で、原子力委員会、科学技術庁、日本原子力研究所、原子燃料公社(後に動力炉・核燃料開発事業団となる)などが設立された。他方で、電力業界ー通産省を中心とした原子力利用の推進体制が形作られた。吉岡は、日本の原子力開発利用体制を「二元体制的国策共同体」とよび、一方の極を高速増殖炉・核燃料再処理工場などを独自技術で開発する科学技術庁グループ、もう一方の極を、アメリカなどの技術導入により商業用原子炉建設などの原子力利用を推進する電力ー通産連合とし、その二つの極の関係で、日本の原子力開発利用体制を分析している。吉岡によると、第Ⅱ期において、このような二元体制が確立したとしている。最初の商業炉である東海第一原発は1960年に建設されたが、営業運転が開始されたのは1966年である。福島第一原発については、この時期の1960年に立地が決定され、1963年に用地買収が始まった。しかし、実際の着工は、次の第Ⅲ期である1967年であり、営業運転は1971年からである。この時期だけでいえば、いまだ実験的な段階にとどまっていたといえる。

第Ⅲ期(1965〜79)は、高度経済成長期の後半から石油ショック以後の景気後退期にあたる。この時期、電力・通産連合は、アメリカの軽水炉技術を導入し、さかんに商業炉建設を進めた。福島第一原発の立地や用地買収は第Ⅱ期から開始されているが、実際の建設や営業運転の開始はこの時期であり、この軽水炉技術の導入によるものである。現存する商業炉はこの時期以降のものであることにも注目されたい。福島第二原発や浪江・小高原発(建設予定)の立地計画も1969年である。この時期は、毎年2機のベースで商業炉は増設を続けられた。他方、科学技術庁グループも、動力炉・核燃料開発事業団を中心に、新型転換炉、高速増殖炉、核燃料再処理などの諸事業を本格的に推進するようになった。

しかし、第Ⅲ期は、さまざまな問題を抱えていた。各地で建設された原発は、故障・事故を続発し、設備利用率が低迷する一方で、反対運動を惹起し、新規立地は困難になっていた。1974年の電源交付金制度創設は、その状況に対処するものであったといえる。他方で、科学技術庁グループが開発していた核燃料サイクル事業は、核兵器拡散防止のためプルトニウムの国際管理を進めようとしていたアメリカとの外交的摩擦を招いた。また、科学技術庁グループの開発していた諸事業を商業的に実用化することについても壁にぶちあたっていた。

第Ⅳ期(1980〜94)は、1990年前後のバブル期を中心とする時代である。第Ⅲ期に噴出した諸問題をとりあえず克服して、原子力開発・利用は、安定成長を続けた。商業炉は毎年1.5基のベースで増設されていった。廃棄物処理なども着手された。科学技術庁グループの諸事業も高速増殖炉を除いて民営化され、電力ー通産連合によって、経済的採算がとれないまま、実用化が企画されるようになった。

しかし、この時期、欧米においては、スリーマイル島原発事故(1979)、チェルノブイリ原発事故(1986)などを契機として、原発建設が停滞状況にはいった時期であった。日本が推進していた高速増殖炉事業についても、欧米諸国は撤退するようになった。吉岡は、この時期を「国際的孤高」と表現している。

第Ⅴ期(1995〜2010)は、ポストバブル期といえる時期である。この時期には、もんじゅ事故(1995)、東海村再処理工場事故(1997)、東海村JCO臨界事故(1999)、美浜原発事故(2004)、柏崎刈谷原発地震被災(2007)など、原発関連の事故が相次ぎ、事故を隠蔽しようとする電力会社の姿勢もあいまって、世論の批判を招いた。原発建設はスローダウンし、設備利用率も落ち込んだ。そして、もんじゅ事故などの責任をとらされる形で科学技術庁が解体され、いわば、電力ー経産(通産省の後身)連合に一元化することになった。他方で、電力の自由化論が提起され、電力会社の独占が脅かされた。電力会社は、国策としての原子力推進を人質にとる形で、電力の自由化を克服しようとしたと吉岡はいう。そして、福島第一原発事故直前において、原発は地球温暖化に対応する経済的でクリーンなエネルギー源という宣伝がなされ、成長戦略として開発途上国などへの原発輸出が推進されようとしていた。

第Ⅵ期(2011〜)は、原子力開発利用の見直しの時期であると吉岡は述べている。福島第一原発事故の直接の影響で、十数基の原発は廃炉せざるをえず、原発開発に偏重したエネルギー対策は見直されざるをえないだろうとしている。特に核燃料サイクル事業の継続は困難になるであろうとしているのである。

この時代区分をみていてまず感じたのは、アメリカの資源・技術導入による軽水炉などの原子力利用と、自前で独自技術を確立しようとする原子力開発の矛盾である。前者が電力ー通産連合、後者が科学技術庁グループで表現されていると思う。戦後日本においては、アメリカへの従属と、日本の主体性の確立がせめぎ合いながらも、混在して存在している。1954年、そもそも、アメリカへの従属姿勢が強い吉田政権に反発し、本格的再軍備を主張した改進党の中曽根らのグループが、ある意味で、新たなアメリカへの従属を意味する原子力開発・利用を主張するということに、まずそのことが表明されていると思う。

さらに、当たり前だが、原子力開発・利用が強く推進された時期は、高度経済成長期・バブル期などの成長を指向した時期に重なっているということである。この時期は、経済成長ー電力需要増大ー新規原発建設というサイクルがまわっていたといえる。反対運動を硬軟ともにおさえこんで、原発建設が進められたといえる。

しかし、1995年以降のポストバブル期には、すでに原発建設は曲がり角であった。原発事故は続出するとともに、低成長により電力需要は伸び悩んだ。また、電力の自由化論が台頭し、原子力発電の優位性は脅かされていた。こうなってみると、福島第一原発事故は、ポストバブル期の原発建設にからんだ問題を今一度表現したものといえる。

以上、とりあえず、私見も多少交えながら、吉岡の時代区分を総体としてみてきた。自分自身としては、より細かく、原子力開発・利用の歴史的経過を今後みていきたい。

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ここで、チェルノブイリ事故(1986年)の衝撃を日本社会はどのようにうけとめたのかをみておこう。チェルノブイリ事故においては、原発所在地周辺は住民の居住を許さないほど高濃度の放射性物質による汚染がみられ、その後、周辺住民の中で放射性物質に起因するとみられるガン・白血病が発生したことは、周知の通りである。他方、これは、あまり意識されていないことであるが、チェルノブイリ事故による放射性物質の汚染は、ソ連だけでなく、ヨーロッパを中心に広範囲にみられ(部分的には日本にも及んだ)、放射性物質による汚染に対する恐怖は、ヨーロッパ各国においてもまきおこった。このことについては、以前、本ブログの中でも、田代ヤネス和温の『チェルノブイリの雲の下で』(1987年)に依拠して紹介した。

日本においても、チェルノブイリ事故を契機として、原発の危険性を警戒する声が高まった。このような動きの中心にいたのが、ジャーナリストであった広瀬隆であった。広瀬隆は、チェルノブイリ事故以前から原発や核実験の危険性を警告していた。『東京に原発!』(1981年)においては、過疎地に建設されていた原発を過密地である東京に建設するという想定をしつつ、原発の危険性を訴えた。『ジョン・ウェインはなぜ死んだか』(1982年)では、アメリカ・ネバタ州の原水爆実験場周辺において、ロケにきたハリウッドの俳優や住民においてガンが多発したことをとりあげ、単に核戦争だけではなく、原水爆実験自体も危険性を有していることを主張した。

チェルノブイリ事故直後、広瀬は日本各地で、チェルノブイリ事故にみられる原発の危険性を訴えた講演会活動を精力的に展開した。当時、広瀬隆の講演は広範囲に聞かれており、そのさまは「ヒロセ・タカシ現象」とよばれたとのことである。そして、この講演会活動で話した内容を『危険な話―チェルノブイリと日本の運命』(1987年4月26日、八月書院)という形でまとめた。

ここでは、本書の内容を紹介しながら、本書のもつ原発の危険性への「警告」の意義と、その「警告」を「実証」することの難しさをみていきたい。

本書の最初は、このような形ではじまっている。

御紹介いただきました広瀬です。司会者の方にお言葉を返すようですが、私は作家でも先生でもありません。これは、チェルノブイリの事故についての報道に関係することでもありますので、最初にお断りしておかねばなりません。
私はただ、自分の身を守る、と言うよりむしろ正直に申しあげれば二人の娘の命を守りたいという、父親としての生物本能から、このような所に立っています。ですから、おそらく今日ここに来られた皆さんは、この世ではかなり意識の高い人が集まり、ある人はジャーナリズムに係わり、ある人は環境問題や消費者問題を心配し、ある人は政治的な活動に関係するなど、さまざまな活動をしているのではないかと想像しますが、そのようなことは一切忘れて、今日はすべて過去の知識をいったん白紙に戻して話を聞いてください。
大切なことは運動ではありません。事実を知ることです。たった一人の自分個人に立ち返っていただきたいのです。日本人はすぐに運動をはじめますが、今は、もう運動だとかジャーナリズムだとか、そのような次元を超えた時代、つまり生きるか死ぬかの断崖に人類が立たされているのです。(p8)

ここで、広瀬は、自分を作家でも先生でもなく、二人の娘の命を守りたい父親の立場にたって、この講演を行っているといっているのである。いわば、作家・学者として、聴衆に啓蒙を行うのではなく、放射性物質による汚染を自分の娘のために防がなくてはならないという「当事者」の立場にたっていると宣言しているといえる。そして、聴衆にも、運動の立場なのではなく、「たった一人の自分個人」にたちかえれとよびかけているのである。つまりは、他者のための「運動」ではなく、当事者としての自分個人を自覚せよというのである。

 まず、チェルノブイリ事故について、いろんな意味で情報隠蔽がされていると、広瀬は述べている。それは、日本において、もっともはなはだしいと指摘している。

…いったいソ連でどのような事故が起こったのかということについて、テレビや新聞ではほとんど報道されていない部分があります。実は、重大な事実が秘密にされています。実は、私たちが今食べている食べ物の中に、チェルノブイリからまきちらされました大量の死の灰が現実に入ってきて、それを私たちが食べなければならないという状況が起きております。そのために食べ物を作っている人たちが全世界的に大打撃を受けております。
 それで、この事故をなんとか小さく見せようということで、ジャーナリズムもほとんどそれを報道しないできました。しかし、現実にはもっと怖いことが進行しています。特にこの日本ではジャーナリズムが原発問題ではひじょうに遅れていまして、…ですから日本人ほどほとんど何も知らされていない国民は世界でも珍しい、完全に世界から取り残されている、という状況に置かれているわけです。(p9)

 特に、広瀬は、1986年にソ連が発表したチェルノブイリ事故の報告書の信憑性に疑問を呈している。例えば、この通りだ。

ソ連はいまだに「炉心溶融は起こらなかった」と言っているが、さきほどのソ連のレポートには、「燃料の一部が下の部屋に溶け落ちている」と自分で書いている。ものは言いようですね。(p25)

この本を、福島第一原発事件以前に読んだことはなかった。しかし、今は…。そう、今にいたってもおこっていることなのである。

ソ連の報告書自体を信用しない広瀬は、むしろ、新聞に出ている情報を、彼なりの分析を行うことで、「事実」を把握しようとする。例えば、北欧で非揮発性のルテニウムなどが検出されたという新聞記事を根拠に、金属であるルテニウムの蒸発温度などを手がかりにして、広瀬は、チェルノブイリ事故で、炉心溶融―メルトダウンが起こっていたと結論づける。

わずかひとつの記事、「北欧でルテニウムなどが大量に検出された」という事実から、これだけの壮大な現実が透視できることを、知っておいてください。(p25)

その上で、彼は、チェルノブイリ事故におけるソ連やIAEAの情報操作について、このように指摘している。

ソ連が八月にIAEAに提出したレポートは、どこから解析しても嘘また嘘ですね。なぜこれほど嘘をつかねばならないか。ここで私の意見をひとこと述べさせていただきますが、報告書を書いたのはソ連でなく、IAEAが書かせたに違いありません。
(中略)
すべて嘘なのです。実はそれまで正常だった原子炉がいきなり異常になると、わずか四秒で爆発してしまった。一、二、三、四、ドカン。これでは全世界のいかなる緊急安全装置も爆発を防ぐことができない。アメリカだろうと日本だろうと、再びチェルノブイリと同じ大爆発を起こすという現実が暴露されてしまった。これは全世界の原子力産業にとってきわめて具合が悪い。そこでとんでもない“実験のシナリオ”を作り、「お前はこう言え」とソ連にレポートを書かせた。(p37~41)

そして、その情報操作の結果について、広瀬隆は、このように主張している。

学者の多くが、このレポートを中心に論争をたたかわせています。IAEAの思う壺ではないですか。(p43)

科学史家の吉岡斉は『新版 原子力の社会史』(2011年)の中で、広瀬の指摘を先見の明のあふれるものとし、現在まで基本的に反証されていないものとしている。ここでは、あまりふれないが、広瀬隆の指摘について、ある意味では「学術的な」ソ連の報告書に依拠しない非科学的なものであり「嘘」なのだという批判がなされたことがある。たぶん、私自身ならば、ソ連による「情報操作」それ自体を「実証」する史料が提示されていないと批判するかもしれない。

しかし、広瀬の主張は、少なくとも、合理的な推論もしくは仮説であり、「嘘」とはいえない。そして、すべての史料がその時点で手に入らないならば、その時点で入手可能な史料に基づいて結論をだし、その結論によって行動するということが必要であろう。そして、彼の推論もしくは仮説をふまえつつ、いわゆる専門的研究者は事後的に分析すればよいのではないだろうか。

たぶんに「学術的な」体裁をもつ報告書に依拠して議論するしかない、いわゆる科学者たちの「存在根拠」を、広瀬は厳しく追及しているともいえるのである。

さて、広瀬は、原発の放射性物質による汚染の深刻さをこのように指摘している。

 

チェルノブイリの事故は終った、もうソ連やヨーロッパでは正常な生活に戻っている、と皆さんは思っているでしょう。とんでもない。たった今、ヨーロッパ全土で莫大な数の人たちが、この被害に巻きこまれはじめたところです。食べ物のなかに、たとえば牛肉などにぞくぞくと危険なセシウムが入りはじめ、いよいよ逃げられない所まで大汚染が広がってきたのです。さあ、これから何が起こるでしょう。これについて、過去の悲しい人類の体験から、おそろしい未来を推理することができます。(p10)

 彼にとっては、核戦争という「将来の危機」だけでなく、「原発」による放射性物質の汚染という現実的危機に対応しなくてはならないということを「原子炉のなかで静かに核戦争が行われてきた。」という卓抜なレトリックでこのように表現している。

多くの人が反核運動に情熱を燃やし、しかもこの人たちは大部分が原子力発電を放任している。奇妙ですね。核兵器のボタンを押すか押さないか、これについては今後、人類に選択の希望が残されている。ところが原子炉のなかでは、すでに数十年前にボタンを押していたことに、私たちは気づかなかったわけです。原子炉のなかで静かに核戦争が行われてきた。いまやその容れ物が地球の全土でこわれはじめ、爆発の時代に突入しました。爆発して出てくるものが深刻です。(p54~55)

特に、彼は、放射性ヨウ素による甲状腺障害について、ビキニ環礁の事例をあげて説明し、チェルノブイリ事故においても甲状腺がんが多発することを「警告」した。

南太平洋のビキニ海域で核実験がおこなわれ、その一帯に住んでいた人のほとんどが甲状腺に障害を持っている。この住民を追跡してきた写真家の豊崎博光さんと先日会って話を聞いたのですが、この人たちがヨード剤を飲んでいたというのです。危険なヨウ素を体内に取りこむ前に、ヨード剤を飲んで体のなかをヨウ素で一杯にしておけば、危険なものは入りこみにくい、という原理ですね。ところが、それが効かなかった。つまりチェルノブイリやヨーロッパの子どもたちには、間違いなく甲状腺のガンがすさまじい勢いで発生する。もうすでに、兆候は出はじめているでしょう。(p60~61)

これは、いやなことだが、広瀬の「警告」通りとなった。ヨーロッパ全土ではないにせよ、チェルノブイリ周辺で甲状腺ガンが多発したこと、これは、現在は周知のことである。しかし、以前、本ブログで、児玉龍彦『内部被曝の真実』(2011年)において、そのことを実証するのに20年かかり、それから対処していたのでは患者の役に立てないと指摘していたことを紹介した。このように、広瀬のいう「警告」を「実証」するのは、そう簡単なことではないのである。

特に、彼が強調していたことは、放射性物質の摂取による内部被曝の危険性である。

プルトニウムの出す放射線は遠くまで飛びません。ということは逆にいいますと、近くにある細胞だけに全エネルギーを集中し、完全破壊してここに完全なガン細胞をつくる。これがプルトニウムのおそろしさです。そのガン細胞が幾つかできると、それが知らないうちにだんだん増殖してゆき、もちろんすぐに明日にも肺ガンになるわけではありません。何年かたってこのガン細胞が増殖します。そしてある日気がついたときには肺ガンに襲われて息もできない。しかもその因果関係はとうてい実証できないというような形で苦悶するわけです。まさに当局にとっては、何人殺そうが“安全”な基準ではありませんか。(p64~65)

この内部被曝は、現在、日本にいる多くの人たちが懸念していることである。しかし、ここで、広瀬がいっているように、その多くは「実証」されていない。ある意味では、かなり明確にみえた放射性ヨウ素と甲状腺がんの因果関係ですらも、「実証」するのに20年かかったのである。そして「実証」のないことは、それそのものが存在しないことになってしまうのである。結局、「実証」の欠如は対策の欠如を「正当化」する根拠になっていく。

その上で、広瀬隆は、日本の原発の危険性を強く主張する。「メルトダウンが起こってから、すべての事実に気づき、泣き叫ぶでしょう。」-私たちがいま経験していることである。

日本の技術は世界一、という話が通り相場になっていますが、これは壮大なトリックです。…メルトダウンが起こってから、すべての事実に気づき、泣き叫ぶでしょう。最初に申し上げておきます。日本の原発は、この数年以内に大惨事を起こします。いま最高の技術によって運転されているのではなく、いよいよ部品が寿命に近づき、危険な時代に突入しているのです。私たちが、たまたま生きているにすぎないことを、具体的に証明してみます。(p10~11)

 

彼は、茨城県にある東海原発が爆発したことを想定して、このように書いている。

 

レポートに書かれている“最も平均的な風速―毎秒七メートル”で計算すると、この絵で示したように放射能の雲はわずか五時間で都心の上空に姿を現わし、ガンマ線がすべての物を射抜いて私たちに襲いかかります。
 こうなると、四百万人どころではない。首都圏だけで三千万人。この人たちが全滅です。全滅と言ってもすぐコロリと死ぬわけではありませんよ。(p182)

その時の死の状況も、想像力豊かな筆致で、このように描き出している。

 

こうして私たちは、大事故のときにはどこへも逃げられず、政府の出してくれる安全宣言を耳にし、それを内心で疑いながら、食料は全滅と知りながらそれを口に入れます。腹が減れば、人間は何でも食べます。子どもを飢え死にさせるわけにゆかない。目の前には食べ物がある。危険と知りつつ食卓に並べる。ひと口食べてみる。すると意外なことに、体には何の異状も起こらない。大丈夫ではないか。なんだ、危ないという話は嘘だったのではないか。こうして食べ、やがて壮絶な未来が待ち受け、病室のなかでもがき苦しみながらバタバタと倒れてゆく。
 皆さんは今、これを空想の物語として聞いていらしゃいます。違うのです。これこそ今、ソ連とヨーロッパで実際に起こりつつある出来事なのです。(p184~185)

本書の最後の部分では、原子力開発をすすめた、世界や日本の財閥について分析している。

最後に、そう、これだけ大変な事実がなぜ隠され、誰がマスコミの口封じをしているのか、その裏の世界を暴露します。これがエネルギー問題や平和利用でないことは、人間と金の流れを追えばすぐに分ります。おそるべき無知な人間が、しかも旧軍閥に直結する人間たちが、われわれを地獄に招こうとしている、そのために欺かれてきた現実が見えてくるでしょう。(p11)

広瀬隆の『危険な話』をどのように評価すべきであろうか。私は、いわば自分自身の問題ではない専門家―非当事者たちの言説ではなく、自身も原発の危険性にさらされているという聴衆―いわば民衆一般と同じ運命をもつ当事者の立場に意識的にたつことを前提にした言説として本書を位置づけておきたい。そして、その観点から、合理的な推論によってソ連の報告書などの欺瞞をあばき、被曝の危険性を「警告」したものといえるだろう。

3.11以降、マスコミの論調でも脱原発の集会・デモにおいても個人的な会話でも、かなり広瀬隆と共通した主張がなされたといえる。政府・東電の情報隠蔽、内部被曝の危険性など、これはすでに広瀬が主張していたものだ。

しかしながら、広瀬の「警告」は、合理的ではあっても、推論・仮説であるといえるのである。ソ連・IAEAの情報隠蔽についても、内部被曝についても、現象的には承知できるのであるが、それを資料的に本書で「実証」しているかといえば、まだ、そうとはいえないように思われる。放射性ヨウ素と甲状腺がんの因果関係についても「実証」するのには20年かかった。広瀬に批判的な人びとからは、単なる不安感の醸成というかもしれない。

しかし、それでは、現実の課題には対処しえないともいえるのである。その意味で、直近の課題に対処するための推論・仮説の重要性を自覚しなくてはならない。現実の民衆がかかえている課題―不安を含めてーを聞き取り、そして、今入手できる資料で推論・仮説をたてながら、とりあえず対処方法を考えていくことの重要性を理解すべきなのだ。その点において、広瀬隆の『危険な話』を評価していかねばならないと思う。

そして、これは、広瀬隆だけの問題ではなく、現に、私たちがかかえている課題なのであることを痛切に自覚していかねばならないだろう。

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