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Posts Tagged ‘原発災害’

2011年は、人びとの「生存」が、三つの面で日本社会において問われたといえる。一つは東日本大震災における地震・津波の側面である。もちろん、人は何人であっても死は免れ得ない。しかし、近代化の過程において、ある程度、人為によって自然を制御し、地域社会の多くの人びとの生存を保障しようと努力を続けてきた。例えば、古代・中世においては、東北の海辺において恒久的な都城は作り得ず、古代の多賀城や中世の石巻城のように高地が選択されていた。近世・近代においては、自然をある程度制御し、より海辺の地域を干拓し、防潮堤や排水路などを作りながら、可住域を拡大していった。日常的には、確かに自然は制御され、それらの地域社会の人びとの生存は保障され、生活は発展していった。しかし、東日本大震災による地震・津波は、人為によって自然を制御し、人びとの生存を保障することの限界をまざまざとみせつけた。過去の津波データから予想された以上の津波が、海辺の集落、港湾、農地を遅い、古代・中世の都城である多賀城・石巻城などの麓を洗った。むしろ、日常的に、自然を制御することによって、リスクのある地域を開発してきたことが、震災被害をましたということがいえよう。
東日本大震災による原発災害は、ある意味では、一般の津波・地震災害と重なりつつも、別の側面を有している。原発災害は、人の手で作り出したものだ。そして、すでに1950〜1960年代の原子力開発の初期から、原発被害が立地する地域社会の人びとの生存を脅かすものであることが想定されていた。1986年のチェルノブイリ事故は、地域社会どころか世界全体の人びとの生存を脅かすものであった。人の手で作り出した災害は、人びと総体の生存を脅かすことになったのだ。しかし、チェルノブイリ事故の契機は、ヒューマンエラーとされてきた。その意味で、人の努力によって抑止できるものと認識されたといえる。チェルノブイリ事故が起きたソ連自体がかかえていた体制の問題もあって、より安全運転を心がけていると称しているー歴年の事故隠しをみているとそれ自体が怪しいがー日本では起こりえないものとされてきた。しかしながら、今回の原発災害の直接の契機は、ヒューマンエラーではなく、地震動もしくは津波による施設水没とされている。いくら努力しても、原発災害は避け得ないのだ。もちろん、これは火力発電所やその他の工場でも同様である。ただ、原発については、一度大規模事故が起きてしまえば、局所的に影響を封じ込めるという意味ですら、人為によって制御することが不可能という側面を有している。そもそも、人びとの生存に脅威を与えるものが原発であったが、事故を防止することも、事故後の事態を制御することも、不可能であることが露呈してしまった。事故後の備えはいくらあっても不十分であり、もっとも効果的なことは、東海村で構想されたように、無人地帯を設けることぐらいである。そのために、原発は低人口地帯に設置されてきた。人の手で作り出したものが、制御もできず、人自体の生存を脅かしているのである。
もう一つ、震災とは別に、2011年の日本社会において、「生存」が問われてきた。利潤を極大化しようという目的のもとに、労働者は正規雇用と非正規雇用に分断された。また、グローバリズムの名の下に、いわゆる先進国と後進国の「格差」が作り上げられ、さらに「格差」を前提として、資本輸出を通じて、労働者への所得分配が切り捨てられている。さらに、TPPなどの自由化交渉によって、大資本の生産物が押し付けられ、農民や中小企業の経営は破滅に追いやられている。そして、この過程を正当化する哲学として、「自力救済」を旨とし、このことをレッセフォールによる「自然的過程」とする新自由主義が唱えられている。資本主義的利潤の極大を人為によって社会におしつける仕組みとして、これらの枠組みは洗練されているといえる。しかし、これらの枠組みは、人びとの「生存」を保障するものでは全くなく、むしろ、人びとの生存を脅かすことによって作動しているものといえる。そのことがまた、新自由主義的な意味での社会への介入の限界をなしているといえる。生存を脅かされた人びとは、そもそも生産物への需要を喚起しない。そして、労働力の直接の再生産すら難しい所得においては、家族を構成できず、人口が減少していく。個々人の生存が危険に脅かされていることが、まわりまわって社会全体の生存の脅威となる。その中では、経済成長どころか経済衰退が生じ、資本主義的な利潤をまっとうに確保することすら難しくなる。数年おきに、ほとんど詐欺のようなバブル投機が生じるのはそのためだ。安定した投資先すら確保できないのである。
これら三つの面は、それぞれ違った位相をもつであろう。ただ、一ついえるのは、たぶんにこれまでの人為による自然・社会の制御が限界を有しているということだ。地震や津波の脅威は、人びとの生存を保障する自然の制御自体がいかに困難であるかを示しているといえる。他方、新自由主義的な社会への介入は、資本主義的利潤の極大化を目的とし生存を保障しない人為がいかにそれ自体の基盤を掘りくずしているかを示していると考えられる。その二つの交点として、原発災害がとらえられるであろう。
もちろん、自然にせよ社会自体にせよ、限界はありながらも今後ともなんらかの「人為」による制御は必要であると考えられる。しかし、それは人びとの生存それ自体を目的したものでなくてはならないといえる。そのことを、今後、より精緻な形で考えていこうと思う。

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