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Posts Tagged ‘原水爆禁止運動’

大飯原発再稼働決定、それに対する反対運動、消費増税法案をめぐる国会内の折衝など、いわば、現在、日本の政治は慌ただしくなっている。

この中で、重要な決定が、ひっそりと目立たない形で行われた。2012年6月20日、原子力規制委員会設置法が参院で可決され、成立したが、その付則で、より上位にある原子力基本法が改変されたのだ。しかも、それは、原子力基本法の基本原則である「民主」「自主」「公開」の原子力三原則の部分である。その部分に「わが国の安全保障に資する」という文言が書き加えられたのだ。

そのことを詳細に伝えているのが、東京新聞朝刊6月21日号である。

「原子力の憲法」こっそり変更

2012年6月21日 朝刊

 二十日に成立した原子力規制委員会設置法の付則で、「原子力の憲法」ともいわれる原子力基本法の基本方針が変更された。基本方針の変更は三十四年ぶり。法案は衆院を通過するまで国会のホームページに掲載されておらず、国民の目に触れない形で、ほとんど議論もなく重大な変更が行われていた。 
 設置法案は、民主党と自民、公明両党の修正協議を経て今月十五日、衆院環境委員長名で提出された。
 基本法の変更は、末尾にある付則の一二条に盛り込まれた。原子力の研究や利用を「平和の目的に限り、安全の確保を旨として、民主的な運営の下に」とした基本法二条に一項を追加。原子力利用の「安全確保」は「国民の生命、健康及び財産の保護、環境の保全並びに我が国の安全保障に資することを目的として」行うとした。
 追加された「安全保障に資する」の部分は閣議決定された政府の法案にはなかったが、修正協議で自民党が入れるように主張。民主党が受け入れた。各党関係者によると、異論はなかったという。
 修正協議前に衆院に提出された自公案にも同様の表現があり、先月末の本会議で公明の江田康幸議員は「原子炉等規制法には、輸送時の核物質の防護に関する規定がある。核燃料の技術は軍事転用が可能で、(国際原子力機関=IAEAの)保障措置(査察)に関する規定もある。これらはわが国の安全保障にかかわるものなので、究極の目的として(基本法に)明記した」と答弁。あくまでも核防護の観点から追加したと説明している。
 一方、自公案作成の中心となった塩崎恭久衆院議員は「核の技術を持っているという安全保障上の意味はある」と指摘。「日本を守るため、原子力の技術を安全保障からも理解しないといけない。(反対は)見たくないものを見ない人たちの議論だ」と話した。
 日本初のノーベル賞受賞者となった湯川秀樹らが創設した知識人の集まり「世界平和アピール七人委員会」は十九日、「実質的な軍事利用に道を開く可能性を否定できない」「国益を損ない、禍根を残す」とする緊急アピールを発表した。
◆手続きやり直しを
 原子力規制委員会設置法の付則で原子力基本法が変更されたことは、二つの点で大きな問題がある。
 一つは手続きの問題だ。平和主義や「公開・民主・自主」の三原則を定めた基本法二条は、原子力開発の指針となる重要な条項だ。もし正面から改めることになれば、二〇〇六年に教育基本法が改定された時のように、国民の間で議論が起きることは間違いない。
 ましてや福島原発事故の後である。
 ところが、設置法の付則という形で、より上位にある基本法があっさりと変更されてしまった。設置法案の概要や要綱のどこを読んでも、基本法の変更は記されていない。
 法案は衆院通過後の今月十八日の時点でも国会のホームページに掲載されなかった。これでは国民はチェックのしようがない。
 もう一つの問題は、「安全確保」は「安全保障に資する」ことを目的とするという文言を挿入したことだ。
 ここで言う「安全保障」は、定義について明確な説明がなく、核の軍事利用につながる懸念がぬぐえない。
 この日は改正宇宙航空研究開発機構法も成立した。「平和目的」に限定された条項が変更され、防衛利用への参加を可能にした。
 これでは、どさくさに紛れ、政府が核や宇宙の軍事利用を進めようとしていると疑念を持たれるのも当然だ。
 今回のような手法は公正さに欠け、許されるべきではない。政府は付則を早急に撤廃し、手続きをやり直すべきだ。(加古陽治、宮尾幹成)
<原子力基本法> 原子力の研究と開発、利用の基本方針を掲げた法律。中曽根康弘元首相らが中心となって法案を作成し、1955(昭和30)年12月、自民、社会両党の共同提案で成立した。科学者の国会といわれる日本学術会議が主張した「公開・民主・自主」の3原則が盛り込まれている。原子力船むつの放射線漏れ事故(74年)を受け、原子力安全委員会を創設した78年の改正で、基本方針に「安全の確保を旨として」の文言が追加された。

この原子力基本法における原子力三原則とは、日本の原子力開発の黎明期にさかのぼるものである。1954年、いわば科学者たちを出し抜いた形で中曽根康弘ら改進党が原子力研究予算を要求し実現させたが、このことを憂慮した日本学術会議が同年4月23日に「原子力の研究と利用に関し、公開、民主、自主の原則を要求する声明」を可決した。そして、翌1955年、中曽根らが中心として、原子力基本法が議員立法で制定されたが、その第二条に、この原子力三原則が取り入れられた。原子力基本法の最初の部分は、次のようなものである。

第一章 総則
(目的)
第一条  この法律は、原子力の研究、開発及び利用を推進することによつて、将来におけるエネルギー資源を確保し、学術の進歩と産業の振興とを図り、もつて人類社会の福祉と国民生活の水準向上とに寄与することを目的とする。
(基本方針)
第二条  原子力の研究、開発及び利用は、平和の目的に限り、民主的な運営の下に、自主的にこれを行うものとし、その成果を公開し、進んで国際協力に資するものとする。

いわゆる、原子力基本法に規定された原子力三原則とは、原子力の利用を「平和目的」に限定し、そのために「民主・自主・公開」という三原則を守ることを規定したものである。具体的には、原子力技術を軍事転用させないことを眼目とし、そのために、権力的な秘密研究をさせないこと(民主・公開)、さらにアメリカの核兵器戦略に依拠しないこと(自主)としたのである。

このように、原子力三原則は、原子力研究・開発・利用は「平和利用」に限ることを意図したものである。原子力の研究・開発・利用は、軍事利用が先行して行われており、原発のような「平和利用」といえども、軍事利用は可能である。そもそも中曽根らは、本格的な再軍備を主張しており、核兵器配備・開発も視野に入れていたと考えられる。しかしながら、日本は広島・長崎において原爆に被爆しており、特に1954年においては、ビキニ環礁におけるアメリカの水爆実験で第五福竜丸などが被曝し、原水爆禁止運動が始まっていた。この状況において、原子力開発を開始するためには、「平和利用」を強調するしかなかったであろう。その意味で、第二次世界大戦と冷戦を前提とした、日本における「戦後の初心」の一つといえる。

この原子力三原則が、非民主的な原子力推進に対する一定の歯止めになっていたとはいえるだろう。少なくとも、現在まで、おおっぴらに、非核三原則もあいまって、日本の原子力技術が軍事転用されたことはなかったといえる。そして、この原子力三原則が、各地の原発建設反対運動においても、根拠にされてきた。例えば、1974年5月30日、日本社会党所属の福島県議であり相双地方原発反対同盟議長であった岩本忠夫は、参議院商工委員会によばれ、次のように述べて、当時審議されていた電源三法に反対している。

私は、そのような危険な原子力発電所を、電源開発促進税法などというもので、あめをもって反対住民を押しつける、なだめる、こういう意図的な法案には私は反対であります。いまこそ私は、原子力基本法にある自主、民主、公開という、その平和三原則を守りつつ、原子力発電所の安全性をさらに大きく見直していく必要があるだろうというふうに考えます。

他方、原子力三原則は、両刃の刃でもある。「平和利用」に限るという歯止めがつけられたのだが、そのことは、逆にいえば、「平和利用」における問題点が見過ごされることになった。一番大きな問題は「安全」である。この「安全」は、後述するように、1978年まで原子力基本法において規定されてこなかった。その意味で、原子力開発の黎明期において、それを正当化するイデオロギーの一つとして機能していたとはいえる。

「安全」については、ようやく1978年に原子力基本法が改正され、「安全の確保を旨として」という文言が書き加えられた。この経過については、別個に検討してみたいと考えている。しかし、この「安全」は、原子力安全委員会が設置されるために付け加えられたものだ。原子力安全委員会による「安全」とはいかなるものか。それは福島第一原発事故の経過をみても了解できることであろう。形骸化された「安全」でしかなかったといえる。

第二条
 原子力の研究、開発及び利用は、平和の目的に限り、安全の確保を旨として、民主的な運営の下に、自主的にこれを行うものとし、その成果を公開し、進んで国際協力に資するものとする。

他方、日本政府は、暗黙の形であるが、原子力技術をいわゆる「安全保障に資すること」にするよう意図してきた。以前、本ブログで吉岡斉氏の『新版・原子力の社会史』(2011年)の見解を紹介したが、ここでも再度、掲載しておこう。

こうした原子力民事利用の包括的拡大路線への日本の強いコミットメントの背景に、核武装の潜在力を不断に高めたいという関係者の思惑があったことは、明確であると思われる。たとえば1960年代末から70年代前半にかけての時代には、 NPT署名・批准問題をめぐって、日本の国内で反米ナショナリズムが噴出した。NPT条約が核兵器保有国に一方的に有利な不平等条約であり、それにより日本は核武装へのフリーハンドが失われるばかりでなく、原子力民事利用にも重大な制約が課せられる危険性があるという反対論が、大きな影響力を獲得したのである。とくに自由民主党内の一部には、核兵器へのフリーハンドを奪われることに反発を示す意見が少なくなかったという。こうした反対論噴出のおかげで日本のNPT署名は70年2月、国会での批准はじつに6年後の76年6月にずれ込んだのである。(吉岡前掲書p175)

そして、吉岡氏は、「日本は自国の核武装の技術的潜在力を、非常に高い水準にまで高めてきた」(吉岡前掲書p119)と指摘している。例えば、原爆の材料になるプルトニウムを生産し使用する核燃料再処理工場、高速増殖炉もんじゅ、プルサーマル計画などがそれにあたるだろう。これらの経済的にはひきわない諸事業が存続した一つの要因としては、「核武装の技術的潜在力」を保持するという意図があったと考えられる。その意味で、政府内部においては、「原子力の平和利用」について、「安全保障」的意味も含意していたといえる。

このような背景を前提として、今回の原子力基本法における原子力三原則改変をみていこう。まず、どのように、その部分が変わったか。次に示す。「 」の部分が今回改変された部分である。

(目的)
第一条
 この法律は、原子力の研究、開発及び利用(「以下『原子力利用』という」と付け加えられる)を推進することによつて、将来におけるエネルギー資源を確保し、学術の進歩と産業の振興とを図り、もつて人類社会の福祉と国民生活の水準向上とに寄与することを目的とする。
(基本方針)
第二条
 「原子力利用」(「原子力の研究、開発及び利用」を修正)は、平和の目的に限り、安全の確保を旨として、民主的な運営の下に、自主的にこれを行うものとし、その成果を公開し、進んで国際協力に資するものとする。
「2 前項の安全の確保については、確立された国際的な基準を踏まえ、国民の生命、健康及び財産の保護、環境の保全並びに我が国の安全保障に資することを目的として、行うものとする。」

一番大きな修正項目は「前項の安全の確保については、確立された国際的な基準を踏まえ、国民の生命、健康及び財産の保護、環境の保全並びに我が国の安全保障に資することを目的として、行うものとする。」という項目が入ったことである。いうなれば、「安全確保」をより詳細に定義したといえる。しかし、そこに「我が国の安全保障に資する」という文言が入っていること、それが大きな「改変」項目といえるのである。

この「改変」の経過、そして考えられる「安全保障」の意味については、追々述べていくつもりである。しかし、ここでは、次のことを確認しておこう。原子力三原則は「平和利用」に原子力開発の目的を限定としたものであり、「安全保障」という文言が付け加えられることは、原子力三原則の精神と相反するといえる。例えば、戦争の放棄を規定した日本国憲法第9条に「安全保障」という文言を付け加えるようなものである。原子力三原則は両刃の刃であり、問題点をはらんでいるが、それも含めて、日本国憲法と同様の「戦後の初心」であった。その意味で東京新聞が原子力基本法を「原子力の憲法」と表現していることは、正しい比喩といえる。それが、「原子力規制委員会設置法」の付則という形で、それ自身が国会においても社会においても十分な議論なしで改変されてしまった。まず、このことを「記憶」しておかねばならない。

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このブログで、原発の歴史をめぐる主要参考文献を掲載した。今回、このリストを増補したので、ここで紹介しておきたい。最近入手した『震災・核災害の時代と歴史学』や「史創』2号所載論文などや、開沼博氏が著書であげている文献を付け加えた。なお、まだ、入手していない文献もあり、それらについては、私自身が今後内容を確認してつもりである。今後も本リストの拡充につとめていきたい。

原発の歴史をめぐる主要参考文献(2012年6月1日増補)

朝日新聞いわき支局編『原発の現場 東電福島第一原発とその周辺』(朝日ソノラマ、1980年)
有馬哲夫『原発・正力・CIA―機密文書で読む昭和裏面史』(新潮社、2004年)
石橋克彦「原発震災」(『科学』67巻10号、1997年)
伊藤宏「原子力開発・利用をめぐるメディア議題ー朝日新聞社説の分析(上)(中)(下)」(『プール学院大学研究紀要』44・45・49号、2004・2005・2009年)
茨城新聞編集局編『原子力村』(那珂書房、2003年)
岩本由輝『東北開発120年』(増補版、刀水書房、2009年)
梅本哲世「九電力体制の成立と外資導入」(『経済』194号、2011年)
恩田勝亘『原発に子孫の命は売れないー舛倉隆と棚塩原発反対同盟二三年の闘い』(七つ森書館、1991年)
恩田勝亘『東京電力・帝国の暗黒』(七つ森書館、2007年)
開沼博『「フクシマ」論―原子力ムラはなぜ生まれたのか』(青土社、2011年)
樫本喜一「宇治原子炉設置反対運動の考察—原子力研究開発最初期における住民運動」(『大阪民衆史研究』57号、2005年)
樫本喜一「『原子力平和利用三原則と『幻の安全性新原則』ー関西研究用原子炉設置問題から見た原子力平和利用の問題点』(『戦争と平和』15号、2006年)
樫本喜一「リスク論導入の歴史的経緯とその課題—関西用原子炉の安全性に対する日本学術会議の見解を事例に」(『人間社会学研究集録』1号、2006年)
樫本喜一「初期原子力政策と戦後の地方自治—相克の発生 関西研究用原子炉交野案設置反対運動を事例に」(『人間社会学研究集録』2号、2007年)
樫本喜一「研究用原子炉の都市近郊立地に関する歴史的考察—関西研究用原子炉と武蔵工業大学研究用原子炉の比較考察」(『人間社会学研究集録』3号、2008年)
樫本喜一「幻の“原子力安全保障委員会”構想—1958年の坂田昌一と日本学術会議」(『科学』79巻10号、2009年)
樫本喜一「都市に建つ原子炉ー日本原子力平和利用史のミッシングリンクが暗示する安全性のジレンマ構造」(『科学』79巻11号、2009年)
加藤哲郎「占領下日本の情報宇宙と『原爆』『原子力』ープランゲ文庫のもうひとつの読み方」(『インテリジェンス』12号、2012年)
鹿野政直『鳥島は入っているか』(岩波書店、1988年)
鎌田慧『日本の原発地帯』(河出書房新社、1988年)
川村湊『原発と原爆—「核」の戦後精神史』(河出書房新社、2011年)
北村洋基「日本の原子力産業と研究開発—昭和30年代の赤字問題を中心にして」(『経済論叢』114号5−6号、1974年)
橘川武郎「電力自由化とエネルギー・セキュリティー歴史的経緯を踏まえた日本の電力業の将来像の展望」(『社会科学研究』58巻2号、2007年)
橘川武郎「日本の原子力発電ーその歴史と課題」(『一橋商学論叢』3巻1号、2008年)
久野収編『現代人の思想 19 核の傘に覆われた世界』(平凡社、1967年)
熊取町教育委員会編「『京都大学研究用原子炉』の誕生」(『熊取町史紀要』4号、1996年)
熊取町史編さん委員会編『熊取町史』本文編(熊取町、2000年)
小路田泰直「ヒロシマからフクシマへ」(『史創』1号、2011年)
小路田泰直「安全神話の政治学」(『史創』2号、2012年)
小林啓治「原子力開発・原発問題から戦後国家を再考する」(『史創』2号、2012年)
佐野真一『巨怪伝―正力松太郎と影武者たちの一世紀』(文芸春秋、1994年)
佐野真一『津波と原発』(講談社、2011年)
住友陽文「戦後民主主義の想定領域―原子力開発と55年体制―」(『史創』1号、2011年)
清水修二「電源立地促進財政制度の成立—原子力開発と財政の展開(1)」(『商学論集』59巻4号、1991年)
清水修二「電源開発促進対策特別会計の展開—原子力開発と財政の展開(2)」(『商学論集』59巻6号、1991年)
清水修二「電源立地促進財政の地域的展開」(『福島大学地域研究』3巻4号、1992年)
清水修二『差別としての原子力』(リベルタ出版、1994年)
清水修二『NIMBYシンドローム考ー迷惑施設の政治と経済』(東京新聞出版局、1999年)
高橋哲哉『犠牲のシステム 福島・沖縄』(集英社、2012年)
武田徹『私たちはこうして「原発大国」を選んだ』(増補版、中央公論新社、2011年)
田原総一朗『原子力戦争』(講談社、1981年)
土屋雄一郎『環境紛争と合意の社会学—NIMBYが問いかけるもの』(世界思想社、2008年)
中川かおり「原子力施設反対住民運動における訴訟利用」(『本郷法政紀要』7号、1998年)
中澤秀雄『住民投票運動とローカルレジームー新潟県巻町と根源的民主主義の細道』(2005年、ハーベスト社)
中嶋久人「福島県に原発が到来した日―福島第一原子力発電所立地過程と地域社会」(『現代思想』39巻8号、2011年)
中嶋久人「原発と地域社会—福島第一原発事故の歴史的前提」(『歴史学研究』884号、2011年)
中村政雄『原子力と報道』(中央公論新社、2004年)
西川雅史「原子力発電所の建設と地方財政」(『公共選択の研究』34号、2000年) 
日本科学者会議編『危機における原子力発電と地域開発ー1976年原子力発電問題シンポジウム(福島)報告集ー』(1976年)
日本科学者会議東北地方区編・発行『東北地方区シンポジュウム報告集ー新段階の東北開発と住民』(1986年)
日本科学者会議福島支部・福島県教連教育研究所編・発行『東北地方の「地域開発」政策と公害—東北地方「地域開発と公害」シンポジゥムの記録ー原発・火発問題を中心に』(1973年)
布川弘「『冥王』プルトニウムの誘惑―ヒロシマからフクシマへー」(『史創』1号、2011年)
長谷川公一『脱原子力社会の選択』(1996年、新曜社)
長谷川公一「『六ヶ所村』と『巻町』のあいだー原子力施設をめぐる社会運動と地域社会」(『社会学運動』28号、1999年)
林尚之「原子力時代における日本国憲法の『革命』ー核問題と憲法全面改正論ー」(『史創』2号、2012年)
広瀬隆『東京に原発を!』(集英社文庫版、集英社、1986年)
福武直編『地域開発の構想と現実』Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ(東京大学出版会、1965年)
藤田裕幸「戦後日本の核政策史」(槌田敦ほか『隠して核武装する日本』、影書房、2007年)
藤原修『原水爆禁止運動の成立—戦後日本平和運動の現像—』 (明治学院国際平和研究所、1991年)
布施哲也『福島原発の町と村』(七つ森書館、2011年)
舩橋晴俊ほか編『巨大地域開発の構想と帰結—むつ小川原開発と核燃料サイクル施設』(東京大学出版会、1998年)
ウルリヒ・ベック『危険社会—新しい近代への道』(東廉・伊藤美登里訳、法政大学出版局、1998年)
ウルリヒ・ベック「この機会にー福島、あるいは世界リスク社会における日本の未来」(『リスク化する日本社会ーウルリッヒ・ベックとの対話』、岩波書店、2011年)
丸浜江里子『原水禁署名運動の誕生―東京・杉並の住民パワーと水脈』(凱風社、2011年)
宮本憲一『地域開発はこれで良いか』(岩波書店、1973年)
三好ゆう「原子力発電所と自治体財政—福井県敦賀市の事例—」(『立命館経済学』58巻4号、2009年)
三好ゆう「原子力発電所所在地自治体の財政構造 ― 福井県若狭地域を事例に―」(『立命館経済学』60巻3号、2011年)
武藤一羊『潜在的核保有と戦後国家—フクシマ地点からの総括』(社会評論社、2011年)
室田武『原子力の経済学 暮らしと水土を考える』(日本評論社、1981年)
諸冨徹「原発震災から地域再生へ」(『現代思想』39巻8号、2011年)
山川充夫「原発立地推進と地域政策の展開」(一)(二)(『商学論集』55巻2・3号、1986・1987年、福島大学経済学会)
山室敦嗣「原子力施設立地地域における地域集団と施設の関係性ー茨城県・東海村農業者クラブの事例から」(『地域社会学会年報』12集、2000年)
吉岡斉『新版・原子力の社会史』(朝日新聞社、2011年)
歴史学研究会編『震災・核災害の時代と歴史学』(青木書店、2012年)
渡辺精一「原子力発電所と自治体財政」(『都市問題』72巻10号、1981年)

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もはや、旧聞に属するが……。2012年5月5日、泊原発が定期点検のため運転停止となり、大飯原発他、定期点検が終了した原発も、世論の反発にあって、野田政権のもくろみに反して再稼働できず、結果的に国内において原発がすべて停止することになった。

その日、私は芝公園からの出発したデモの中にいた。このデモは、鎌田慧・澤地久枝・落合恵子氏などがよびかけ人になっているが、参加者のもつ幟からみると、労働組合、生協、社民党などの人たちが多く参加しているようだった。最近、デモに出てみると、ミュージシャンが大音量のサウンドを響かせる「サウンド・デモ」や、参加者自体がドラムなどの打楽器を打ち鳴らす「ドラム・デモ」などが多く、いずれにせよ、サウンドの大きさに圧倒されることが多い。しかし、この芝公園からのデモは、全体では静かなデモだった。シュプレヒコールのリズムも、旧来のデモの様式にそった形で行なっていた。参加者の年齢層も、比較的高いような印象があった。「子どもの日」ということで、「こいのぼり」がイメージアイテムになっていた。

ただ、その中でも異色なグループがいた。このグループだけが打楽器をうちならし、踊りながら、「みんなの力で 原発とめたぞ」「子どもを守ろう」などととかけ声をかけていた。のぼりをみると「●●非正規ユニオン」などとあって、たぶん全員ではないのだろうが、その関係者が多かったようだ。皆かなり若い。中には「不当解雇反対」「労働組合が ストライキで 原発とめよう」「ともに闘い ともに生きよう」「革命」などと、ドラムデモなどでよくみられるリズムにのってかけ声をかけていた。まさに。このグループの「自己主張」が打ち出されていたといえよう。まさに「デモの中のデモ」という印象がある。

芝公園(2012年5月5日)

芝公園(2012年5月5日)

脱原発といっても、このデモの一般的参加者と、このグループとは、かなり違っているといえよう。この芝公園のデモ全体は、すでに述べたように、ある程度、年齢が高く、安定した生活を送っている人びとが中心になっていたといえる。その意味で、「労働組合が ストライキで 原発とめよう」という発想は、このデモの参加者一般のものではないと思う。他方で、「不当解雇」の圧力に日常的に接している「●●非正規ユニオン」の人びとにとっては、単に原発を止めるだけではなく、それこそ、「みんなの力」で「労働組合が ストライキで 原発とめよう」ということ、つまりは、自らの力を自覚し、解放への道筋をつけていくことも課題なのだ。そして、あのドラムの響きも、そのためのメッセージなのだといえる。

もちろん、年長で安定した生活を送っている人たちだって、「解放願望」はあるだろう。しかし、それは、自らの所属している政党・組合・生協などが構成している日常的な秩序を前提としながら、それを脅かすと想定されている国家権力からの解放をメインにしていると考えられる。その意味で、まさに「政治的な解放」を希求しているのである。そして、ドラムやサウンドなどが、ある意味で、自らの力を具現化するパーフォマンスとしてとらえられていることには気づかないのではないかと思った。

ただ、このように異質な人びとが、少なくとも互いの存在に気づくためには、ある種の共通項が必要であった。それが、「脱原発」という旗印なのである。もちろん、原発をなくすという意味での「脱原発」だけでは、不十分である。福島第一原発事故の放射能汚染や、被曝労働問題も、それだけでは解決しない。さらに、脱原発デモの中に表明されている多様な解放願望も、「脱原発」だけでは満たされない。しかし、それでも、「脱原発」ということを共通項として、それぞれの解放願望を知り合えることはできるだろう。まさしく、「脱原発」は「糸口」にすぎないが、しかし、これを通じて、多様な「解放」を希求していくことができると思われるのである。

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あるところで報告するので、現時点(2012年5月4日)で、私個人が把握した日本における原発の歴史を語る研究文献リストを作成した。参考になるかもしれないので、ここで紹介しておこう。

日本における原発の歴史を語る研究文献リスト(2012年5月4日時点)

有馬哲夫『原発・正力・CIA―機密文書で読む昭和裏面史』(新潮社、2004年)
石橋克彦「原発震災」(『科学』67巻10号、1997年)
岩本由輝『東北開発120年』(増補版、刀水書房、2009年)
恩田勝亘『原発に子孫の命は売れないー舛倉隆と棚塩原発反対同盟二三年の闘い』(七つ森書館1991年)
開沼博『「フクシマ」論―原子力ムラはなぜ生まれたのか』(青土社、2011年)
樫本喜一「宇治原子炉設置反対運動の考察—原子力研究開発最初期における住民運動」(『大阪民衆史研究』57号、2005年)
樫本喜一「『原子力平和利用三原則と『幻の安全性新原則』ー関西研究用原子炉設置問題から見た原子力平和利用の問題点』(『戦争と平和』15号、2006年)
樫本喜一「リスク論導入の歴史的経緯とその課題—関西用原子炉の安全性に対する日本学術会議の見解を事例に」(『人間社会学研究集録』1号、2006年)
樫本喜一「初期原子力政策と戦後の地方自治—相克の発生 関西研究用原子炉交野案設置反対運動を事例に」(『人間社会学研究集録』2号、2007年)
樫本喜一「研究用原子炉の都市近郊立地に関する歴史的考察—関西研究用原子炉と武蔵工業大学研究用原子炉の比較考察」(『人間社会学研究集録』3号、2008年)
樫本喜一「幻の“原子力安全保障委員会”構想—1958年の坂田昌一と日本学術会議」(『科学』79巻10号、2009年)
樫本喜一「都市に建つ原子炉ー日本原子力平和利用史のミッシングリンクが暗示する安全性のジレンマ構造」(『科学』79巻11号、2009年)
鹿野政直『鳥島は入っているか』(岩波書店、1988年)
鎌田慧『日本の原発地帯』(河出書房新社、1988年)
熊取町教育委員会編「『京都大学研究用原子炉』の誕生」(『熊取町史紀要』4号、1996年)
熊取町史編さん委員会編『熊取町史』本文編(熊取町、2000年)
小路田泰直「ヒロシマからフクシマへ」(『史創』1号、2011年)
佐野真一『巨怪伝―正力松太郎と影武者たちの一世紀』(文芸春秋、1994年)
佐野真一『津波と原発』(講談社、2011年)
住友陽文「戦後民主主義の想定領域―原子力開発と55年体制―」(『史創』1号、2011年)
清水修二「電源立地促進財政制度の成立—原子力開発と財政の展開(1)」(『商学論集』59巻4号、1991年)
清水修二「電源開発促進対策特別会計の展開—原子力開発と財政の展開(2)」(『商学論集』59巻6号、1991年)
清水修二「電源立地促進財政の地域的展開」(『福島大学地域研究』3巻4号、1992年)
清水修二『差別としての原子力』(リベルタ出版、1994年)
高橋哲哉『犠牲のシステム 福島・沖縄』(集英社、2012年)
中嶋久人「福島県に原発が到来した日―福島第一原子力発電所立地過程と地域社会」(『現代思想』39巻8号、2011年)
中嶋久人「原発と地域社会—福島第一原発事故の歴史的前提」(『歴史学研究』884号、2011年)
西川雅史「原子力発電所の建設と地方財政」(『公共選択の研究』34号、2000年) 
布川弘「『冥王』プルトニウムの誘惑―ヒロシマからフクシマへー」(『史創』1号、2011年)
広瀬隆『東京に原発を!』(集英社文庫版、集英社、1986年)
福武直編『地域開発の構想と現実』Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ(東京大学出版会、1965年)
藤原修『原水爆禁止運動の成立—戦後日本平和運動の現像—』 (明治学院国際平和研究所、1991年)
布施哲也『福島原発の町と村』(七つ森書館、2011年)
ウルリヒ・ベック『危険社会—新しい近代への道』(東廉・伊藤美登里訳、法政大学出版局、1998年)
ウルリヒ・ベック「この機会にー福島、あるいは世界リスク社会における日本の未来」(『リスク化する日本社会ーウルリッヒ・ベックとの対話』、岩波書店、2011年)
丸浜江里子『原水禁署名運動の誕生―東京・杉並の住民パワーと水脈』(凱風社、2011年)
宮本憲一『地域開発はこれで良いか』(岩波書店、1973年)
三好ゆう「原子力発電所と自治体財政—福井県敦賀市の事例—」(『立命館経済学』58巻4号、2009年)
三好ゆう「原子力発電所所在地自治体の財政構造 ― 福井県若狭地域を事例に―」(『立命館経済学』60巻3号、2011年)
諸冨徹「原発震災から地域再生へ」(『現代思想』39巻8号、2011年)
山川充夫「原発立地推進と地域政策の展開」(一)(二)(『商学論集』55巻2・3号、1986・1987年、福島大学経済学会)
吉岡斉『新版・原子力の社会史』(朝日新聞社、2011年)

ここでは、基本的に、資料的なものは収録していない。『福島県史』他『大熊町史』など、自治体史や社史で参考となる記述があるものは多いのだが、ここでは収録していない。また、自治体史や社史などについては、まだすべてを調査したわけでもない。今後の課題である。

また、チェルノブイリ事故などの外国の原発についての文献や現段階における原発の技術的もしくは社会的問題をあつかったものもここでは省いた。あまりにも多すぎるので、専門外の私では把握しきれないということもある。

歴史的な記述に限っても、まだまだ見落としはあるだろうと思う。例えば、鎌田慧氏は、ここであげた以上の文献を発表されているが、すべてを見ることはできなかった。

このリストを作成することによって、新たな研究文献を私は発見できたと思う。特に、1950〜1960年代の関西研究用原子炉反対運動とそれを契機にして生じた日本学術会議における原発の安全性について検討した樫本喜一氏の研究は、非常に興味深かった。関西研究用原子炉は、結局大阪府熊取町に建設されるのだが、その過程については、『熊取町史』『熊取町史紀要』4号などが記述している。自治体史は省略したのだが、ここでは例外的にあげておいた。『熊取町史』編さんに関わった小路田泰直氏、住友陽文氏などの論考とあわせてみていただきたいと思う。

他方、電源交付金制度を中心とした原子力立地自治体財政については、清水修二氏、三好ゆう氏が精力的に検討している。特に清水氏の論考は、電源交付金制度を知る上の必読文献だと思う。

原発に批判的な人たちの一般的な見解を表明するものとして、高橋哲哉氏の『犠牲のシステム 福島・沖縄』をあげることができる。この書は、2月25日に開催された原発民衆法廷でも「証拠」として使われていた。私自身は異論をもつ部分もあるが、原発問題の法的責任を追求する論理をよくあらわしている。地域社会のために今後とも原発を否定できないとしている開沼氏の論考と比較して読むと興味深い。

とりあえず、ここで挙げた文献は、私個人が把握したものである。もちろん、不備があるのであり、ご承知の文献があればご教示いただきたいと思う。

なお、大都市に居住しているとか、学術機関に所属しているとか、それらのメリットがない人たちには入手しがたい文献があるかもしれない。あまり高い本は多くないが、安い本でもたくさん買うとコストはある。特に、雑誌論文は、入手しづらい場合もあるだろう。

今、居住地の公立図書館が他館から取り寄せてくれるシステムがあるようである。コストをかけないで、閲覧することはできる。そこまでして閲覧したものはないが、一般的な文献では、公立図書館で借り出したものもある。

また、雑誌論文においては、近年、執筆者が所属する学術機関から PDFなどでネット公開することがある。実際、結構、この手段で収集した文献はある。ネットで執筆者と題名を検索すれば、集められる場合もあるのだ。

なお、資料収集においても、ネット検索で集めたものもある。国会会議録や近年の自治体議会の会議録はネット検索で集めることができる。日本原子力産業協会(日本原子力産業会議の後身)の発行物は電子化されている。国や県の行政上の通達も、かなりネットで読むことができる。ネットであげている情報がすべてではないし、正誤訂正のために現物をみる必要もあるが、とりあえず、手がかりにはなると思う。

できれば、可能な手段で、ここであげている文献や、今まで、本ブログで紹介した資料などに、自身でアクセスして、みてもらうことをおすすめしたい。

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福島第一原発事故以後、よくいわれることは、日本は広島・長崎に原爆投下されて、原子力の危険性はよくわかっているにもかかわらず、なぜ、原発開発を全面的に押し進めたということである。

このことについては、さまざまな要因が考えられるであろう。日本人といっても、一概には概括できない。原子力予算を1954年にはじめて提起した中曽根康弘らは、保守党の中でも本格的な再軍備を指向したグループ(改進党)だった。一方で、1955年の原子力基本法の制定については、彼らだけでなく、この時点での本格的再軍備を望まなかったといわれている吉田茂に近いグループ(自由党)や、再軍備に反対していた日本社会党の人びとも参画していた。このことについては、また、詳論しなくてはならない。

ただ、総じていえば、これらの人びとに共通して、「原子力の平和利用」へのあこがれがあったといえるだろう。それは、例えば、1954年に成立した原水爆禁止運動においても通底していた。このブログでも前に紹介したが、1954年5月28日に中野区議会において「原子兵器放棄並びに実験禁止その他要請の決議」が提案され、これも全会一致で可決した。提案者近藤正二は、決議の趣旨について、次のように語っている。

(前略)
 今般のビキニにおきますところの伝えまするところの実況と申しますものは、そのビキニ環礁におきますところの爆発点におきましては、地下百七十五フィート半径一マイルの大きな穴を起しまして、そこの噴火口から爆発いたしました所の珊瑚礁の飛沫というものが富士山の三倍の高さまで到達し、それが今日見ますような空から灰が降る、あるいはもらい水であるところの雨水にまでもその放射能によるところの被害というものが感ぜられるわけでございます。
 翻って考えまするに、原子力の破壊力というものは、七年前に比べますると、その力は一千倍の惨害を呈するところにまで至っておりまして、今日の日進月歩の科学の力をもっていたしまするならば今後その猛烈な破壊力の到達するところは、これを戦争目的あるいは破壊的な形において実験するならば、人類は真に破滅に瀕するということは、もはや明瞭な事実でございます。しかるに人類は現在この原子力を持ちましたことによりまして、かつて人類の歴史に見なかったところの光栄ある未来を築き、精神的にもまた物質的にも偉大な繁栄が、この原子力の平和的な利用ということにかかって存在し得るのでありまして、逆な形で今申したごとく、これを破壊目的に使用するならば、人類は破滅に瀕するという、まことに人類の歴史にとって、かつてない重大な危機に立っておると言っていいのであります。
(後略 『中野区史』昭和資料編二 1973年)

核戦争には恐怖を示す一方で、「原子力の平和利用」には多大な期待をもっていたのである。

このような意識は、戦前核兵器を開発していた科学者にもみられた。このブログでもとりあげた武谷三男は、京都帝国大学を卒業し、湯川秀樹、朝永振一郎などと素粒子論を研究していた。戦時期においては、反ファシズムを主張した雑誌『世界文化』『土曜日』などに関係して検挙される一方で、原爆開発研究にも関与していた。そして、戦後においては、民主的科学者として数々の発言を行った。

その武谷は、「原子力を平和につかえば」という文章を『婦人画報』1952年8月号に寄稿している。この文章は、武谷の『戦争と科学』(1958年1月刊)に収録されている(なお、引用は『武谷三男著作集』3、1968年より行った)。

この文章が掲載されたのは、サンフランシスコ講和条約が1952年4月に発効した直後のことであった。GHQは日本における原子力研究を禁止していたが、講和条約においては原子力研究を禁止しておらず、講和条約発効後は、原子力研究・開発は可能になった。その時点で、武谷は、「原子力の平和利用」を主張したのである。中曽根らの原子力予算提起よりも2年近く前のことである。

武谷は、まず、核戦争の脅威と悲惨を、このように述べている。

 

原子力という名が、われわれ日本人にあたえる感じは、決してよいものではない。広島、長崎の無残な記憶がますます心のいたみを強くしているのに、ふたたび日本をもっとすさまじい原子攻撃の標的にしようという計画がおしすすめられている。そのような計画は権力と正義の宣伝によって行われるので、国民の多数がこれはいけないと気がついたときには、手おくれになるかも知れない。
 キュリー夫人、ジュリオ=キュリー夫人、マイトナー女史、このような平和主義的母性の名をもって象徴される原子力が、このような、人類の破滅をも考えさせるものにどうしてなったのだろうか。原子力は悲惨を生むためにしか役立たないのだろうか。
 初期の原子爆弾の1発だけで高性能火薬2万トンのエネルギーをもっている。今日研究が進められている水素爆弾1発で関東地方全域に被害をおよぼすことができる。(『戦争と科学』p129)

この武谷の考えを図像化したものが、次の図の左側部分である。キュリー夫人らの原子物理学の発展が原子工場をへて、原水爆投下につながっていくことがここで描かれている。図の中には「水素爆弾一発で関東地方全滅」というキャプションも挿入されている。

武谷三男『戦争と化学』p,p130-131

武谷三男『戦争と化学』p,p130-131

しかし、ここで、武谷は、次のように主張する。

 

このような大きなエネルギーを、人類の破滅のためにではなく、人類の幸福のために使えないのだろうか。そうだ! 原子力はほんとは人類の幸福のために追求され、また人類の将来の幸福を約束している それを現実化するためには、戦争をほっする人々に権力を与えないだけで十分なのだ。(『戦争と科学』p129)

武谷は、原子力は本来人類の幸福のために使うものであると、ここで提起したのである。武谷は、地上の自然力、水力も風力も、石炭も石油もすべてみなもとは太陽の光であり、その根源が原子力であることを研究者は解き明かしたとした。「そして、間もなく、地球上で原子の奥ふかくひそむ巨大なエネルギーを解放することに成功したのであった」(『戦争と科学』p134)と述べている。このことを示しているのが、先の図の右側部分である。たぶん、上の方に描かれているのが太陽である。それは、石油、水力、石炭などのエネルギーの源泉なのだ。さらに、もう一度左側部分にもどれば、この太陽の光は、原水爆とも通底していることになろう。

その上で、武谷は、原爆製造をしているアメリカの原子炉では、100万キロワットの電力に相当する熱を冷却水を通じて捨てている、このような原子炉を使った発電所が10基あれば、当時の日本の発電総量(700万キロワット)は凌駕することになる、ウラニウム40トンで日本の1年間の電力をまかなうことができる、飛行機で運べる程度の燃料しか要しないので、全世界どこでも発電所が建設可能になると述べている。

その上で、下図に示すような、「原子力の平和利用」がもたらす、「明るい未来」を提示した。

武谷三男『戦争と化学』p.p132-133

武谷三男『戦争と化学』p.p132-133

武谷は、次のように述べている。

 

だから原子力が利用されるようになると北極や南極のような寒い地方、絶海の孤島、砂漠などが開発され、そういう地方にも大規模な産業が行なわれ、大都市を作ることができるようになる。また、ロケットで地球外にとび出すこともできるようになろう。全く太陽に相当したものを人間が手に入れたのだから当然だろう。(『戦争と科学』p.p134-135)

今や、なにかめまいのしそうなほど、楽天的な未来予想図である。これらについては、先の図の中に、ロケットや原子力による砂漠開発として描かれている。

そして、日本についても、武谷は、このように主張している。

 

日本なども電力危機は完全に解消されるだろう。そして電力をもっと自由に家庭に使用することができる。今日の日本の一般家庭では電灯とラジオ位にしか使われていないが、台所の電化はもちろん、煖房、冷房、洗濯、掃除もすべて電力で行われることになるだろう(『戦争と科学』p135)

このような家庭電化は、原発だけのことではないが、実現している。さらに、次のような電力の農業利用を主張している。これも戦後日本で実現したことであった。これは、先の図の中にも出ている。

 

農業にも電力がふんだんに使われると、これまでできにくかったことができる。大規模な温室、太陽灯を使って、いつでも新鮮な野菜や果物ができるだろう。また、砂漠や水のない地方にも、地下水を深い所からどんどん汲みだして、農業を行なうことができるだろう(『戦争と科学』p135)

武谷にとっては、放射性廃棄物も有効利用されるべきものなのである。次のようにいっている。

 

原子力の副産物として、大量にそしていろいろな種類の放射性元素が得られる。これも軍事的には恐るべき放射線戦争に使おうと考えられている。しかし、平和的に使うならばいろいろな化学変化の研究や医学に使われる。例えば、植物が行なっている同化作用もこれを使って大分明らかになった。しまいに澱粉の人工合成ができるようになるかも知れない。
 また人体の新陳代謝の機構も放射性元素で明らかにされつつある。きっと近い中に肥った人がやせたり、やせる人が肥ることも自由になるだろう。また皮膚が美しくするような化粧法も実現するだろう。(『戦争と科学』p.p135-136)

もちろん、その後の放射線医療などには放射線元素などが使われているのだが…。先の図の「アトミック整形医院」などはそれにあたるだろう。

基本的に、原子力のリスクは軍事利用のものとし、「平和利用」については、放射性廃棄物までプラスのものとしてみているのである。その上で、将来の近代化の願望を実現するものとして、「原子力の平和利用」をとらえているのである。

武谷は、このような近代化を実現する「原子力の平和利用」は、被爆国日本の権利であると、『改造』1952年11月号に掲載した「日本の原子力研究の方向」(『武谷三男著作集』2、1968年、p471より引用)で提言している。

 

日本人は、原子爆弾を自らの身にうけた世界が唯一の被害者であるから、少くとも原子力に関する限り、最も強力な発言の資格がある。原爆で殺された人びとの霊のためにも、日本人の手で原子力の研究を進め、しかも、人を殺す原子力研究は一切日本人の手で絶対に行なわない。そして平和的な原子力の研究は日本人は最もこれを行う権利をもっており、そのためには諸外国はあらゆる援助をなすべき義務がある。
 ウランについても、諸外国は、日本の平和的研究のために必要な量を無条件に入手の便宜を計る義務がある。
 日本で行う原子力研究の一切は公表すべきである。また日本で行う原子力研究には、外国の秘密の知識は一切教わらない。また外国と秘密な関係は一切結ばない。日本の原子力研究所(なお、この時点では日本原子力研究所は設置されていない)のいかなる場所にも、如何なる人の出入も拒否しない。また研究のためいかなる人がそこで研究することを申込んでも拒否しない。

武谷は、被爆国日本であるからこそ、原子力の平和利用をすすめる権利があるとしている。そして、それは、軍事目的で行うアメリカなどの研究から秘密情報を得ることなく自主的に進めるべきであり、研究自体公表すべきものとした。さらに、どのような人が日本の研究所に立ち入っても拒否しないとしている。これらの原則は、軍事利用に転用せず平和利用に日本の原子力開発は限定しなくてはならないというところからたてられているといえよう。この提言は、最終的に、「公開」「民主」「自主」からなる原子力三原則という形でまとめられた、1954年の日本学術会議声明の源流となった。そして、この原子力三原則は、1955年に策定された原子力基本法にも取り入れられたのである。

さて、もう一度、武谷の議論に立ち返ってみよう。一方で「原子力の平和利用」への大きな願望があり、他方で被爆国としての核兵器・核戦争への忌避観が、この武谷の議論の二つの柱であったといえる。そして、この段階での武谷の議論は、原子力のリスクをもっぱら軍事利用に即してとらえ、平和利用においてはリスクをほぼ無視しているといえるのである。

武谷自身は、このブログでも多少ふれたように、1950年代後半には原子力のリスクを認識し、原子力開発のあり方を強く批判していくようになる。その意味で、武谷について、ここで批判するつもりはない。ただ、一つ、言いたいことは、この時点での武谷の議論は、武谷個人のものというよりも、この当時の日本社会の原子力に関する意識構造をある意味ではクリアにみせているのではないかということである。被爆国であるがゆえに、核兵器としての軍事利用には強く反対しつつ、その反対物として平和利用を称揚し、被爆国の権利としてしまう。そして、「原子力の平和利用」においてもさけることができないリスクを無視する。これは、武谷に限定できることではなかった。そして、このような意識が、日本の原子力開発・利用の根底に流れているのではなかろうか。そのような思いにかられるのである。

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以前、本ブログで、チェルノブイリ事故(1986年)に直面した共産党の人びとが、政府の進める原発建設政策に個別の問題では反対しつつ、原発自体は認める姿勢をもっていたこと、そして、反原発の立場をとっていた日本社会党系の原水禁の人びとの対抗から、原発批判を強めていた広瀬隆に批判的になっていったことを述べた。

日本共産党の影響力の強かった科学者の団体である日本科学者会議も、共産党同様微妙な位置にあった。日本科学者会議の会員たちの一部は、日本各地の反原発運動を担っており、その機関誌である『日本の科学者』には、反原発運動への参加が語られている。他方で、日本科学者会議もまた、広瀬隆批判を行うようになった。

1988年5月22日、日本科学者会議は、東京の学士会分館で、「原子力をめぐる最近の諸問題」というシンポジウムを開催した。このシンポジウムでは、①広瀬隆『危険な話』は危険な本、②「非核」と「反原発」の違いは……、③新日米原子力協定をめぐる諸問題という三つがテーマとなった。①については、原沢進(立教大学)と野口邦和(日本大学)が報告した。このシンポジウムで、原沢は、広瀬隆の『東京に原発を』『ジョン・ウェインはなぜ死んだか』などを分析し、「きわめて恣意的な引用などに基づく推定や結論でちりばめられており、科学的な検討に値するものは一つもない」(「科学者つうしん」、『日本の科学者』第23号第8号、1988年8月、p57)と結論づけた。また、野口は、「原発推進者を事実上免罪する『危険な話』の危険な結論、自然科学的な間違い、広瀬隆氏の用いている手法の矛盾点などを詳細に分析し、きわめてデタラメかつ危険な書物であると指摘」(同上)した。

このシンポジウムの野口報告は、『文化評論』1988年7月号(新日本出版社)に「広瀬隆『危険な話』の危険なウソ」と題されて掲載された。『文化評論』の本号には、本ブログで前述した、共産党の人びとによる「座談会・自民党政府の原発政策批判」もまた掲載されている。この座談会とあいまって、野口のこの報告は、共産党系の人びとによる広瀬隆への批判的な姿勢を強く印象づけるものとなったといえよう。

他方、野口の報告は、反共産党系な論調をもつ『文藝春秋』1988年8月号にも「デタラメだらけの広瀬隆『危険な話』」と題して掲載されている。『文化評論』掲載ヴァージョンと『文藝春秋』ヴァージョンは全く同じものではない。多くの文章が使い回されているが、構成は異なる。『文藝春秋』ヴァージョンのほうは、省略された部分が多い。そして、どの部分が省略されたのかということが問題なのだが、それは後述しよう。

ここでは『文化評論』ヴァージョン(文化評論版と略述する)をまずみていこう。ここで、野口邦和が日本大学の助手であったこと、専門が放射化学であったことがわかる。つまりは、専門家なのである。野口は、広瀬隆の「真の問題は、愚かな原子力関係者にあるのではなく、その先兵をつとめるジャーナリズムと知識人にあるのです」(広瀬隆『危険な話』p284)と述べているところをひいて、「つまり、ここには無謀な原発の大規模開発計画を推進する原発推進者を事実上免罪し、国民の批判の目をジャーナリズムと知識人に集中させることに躍起になっている広瀬隆氏の姿が見えるのではないか。これを危険と呼ばないで何と呼ぼうか」(文化評論版p115)と批判している。たぶん、広瀬の真意とかみ合っていないのであるが、それはそれとしておくとして、野口の広瀬に対する批判の眼目は、たぶんに「ジャーナリズムと知識人」を広瀬が攻撃していることにあるといえる。

ある意味で、野口が、共産党の人びとと同じ立場にたっていたといえる。野口は、自分自身の原発に対する姿勢について、原子力の平和利用に反対しないが、現状の原発の安全性には問題があるので、原発増設はやめるべきであり、既存の原発の運転も最低限にすべきと思っていると述べている。大きくいえば、「座談会・自民党政府の原発政策批判」で表明された、共産党の原発政策の枠内にあるといえる。そして、また、「多くの人が反核運動に情熱を燃やし、しかもこの人たちは大部分が原子力発電を放任している」(『危険な話』p137)という部分を引用して、「私の周囲にいる決して多くはないが、『反核運動に情熱を燃やし』ている人々は、『大部分が原子力発電を放任してい』ない。核兵器の廃絶と原発反対の課題とを対立させることはなく、非常に熱心に活動している」(文化評論版p138)と述べ、広瀬の先の主張は全然間違っていると断言した。この論理も、先の「座談会・自民党政府の原発政策批判」に出てきたものである。

しかし、野口の批判は、共産党の人びとの「座談会・自民党政府の原発政策批判」における批判よりも過激なものになっている。座談会では、広瀬への名指しの批判はさけている。また「座談会」での広瀬らへの批判の中心は、核兵器廃絶よりも原発撤廃を優先させているようにみえることにあり、広瀬の主張の妥当性については、端々で批判的な言辞がちらつくものの、正面から批判していたわけではない。野口の批判は、広瀬隆の主張を「ウソ」と判定することが中心であり、ある意味では政策的な違いに還元できる共産党の人びとの批判より辛辣なものであるといえる。

『文化評論』に掲載された野口の論考は、最初から最後まで、広瀬隆の『危険な話』の各部分を「ウソ」と断じることから成り立っている。正直いって、よくあきもせず批判できるものだなと思う。その中で、特に、重要なことは、チェルノブイリ事故後に出されたソ連の事故報告書を信頼して、チェルノブイリ事故を語ることができるかどうかということである。広瀬は、徹頭徹尾、ソ連の報告書は全世界的に原発を推進しているIAEAによって書かされたものであり、それに依拠して事故を論じることこそIAEAの思うつぼであるとして、断片的に伝えられた新聞報道から、事故の実態を推測するという手法をとっている。しかし、野口は、その問いには答えようとせず、「私が『ソ連の報告書』によって基づいてお教えしよう」(文化評論版p121)と、ソ連の報告書に全面的に依拠して広瀬に反駁している。あまつさえ、「もう少し『ソ連の報告書』をちゃんと読みなさい、広瀬さん」(同上p122)と説教までするのだ。

本ブログで、広瀬隆について述べたが、その際「科学史家の吉岡斉は『新版 原子力の社会史』(2011年)の中で、広瀬の指摘を先見の明のあふれるものとし、現在まで基本的に反証されていないものとしている。」と指摘した。吉岡は、さらに、野口邦和の批判について、次のように述べている。

そこには広瀬の文章のなかに少なからず含まれる単純化のための不正確な記述に対する執拗な攻撃がくり返されている。しかし野口の最も基本的な主張は、ソ連報告書をフィクションと断定する広瀬の主張は、広瀬自身がソ連報告書を反証するだけの解析結果を示さない限り、説得力がないという主張であった。つまり野口は事実上、ソ連報告書の内容の全面的な擁護をおこなったのである。ソ連政府による事故情報独占体制のもとで、広瀬がソ連政府の公式見解を反証する解析結果を示すことが不可能であることを承知のうえで、野口はソ連政府を全面的に擁護したのである。(『新版 原子力の社会史』p227〜228)

吉岡の主張は、野口への批判として、極めて要を得たものといえる。今の時点で付け加えさせてもらえば、今回の福島第一原発事故に関して、いかに政府の「公式見解」は、事態の隠蔽に奔走するものであることが了解できた。その意味で、吉岡の発言はより重く感じさせられたのである。

野口の批判は多岐にわたるが、ここでは、放射性ヨウ素と甲状腺障害との因果関係についての広瀬の文章を、野口が批判している部分をここではみておこう。野口は「 」において広瀬の文章を引用した上で、その何倍にもわたる量の批判を書いている。

③「㋐南太平洋のビキニ海域で核実験がおこなわれ、その一帯に住んでいた人のほとんどが甲状腺に障害を持っている。㋑この住民を追跡してきた写真家の豊崎博光さんと先日会って話を聞いたのですが、この人たちがヨード剤を飲んでいたというのです。㋒危険な(放射性)ヨウ素を体内に取りこむ前に、ヨード剤を飲んで体のなかをヨウ素で一杯にしておけば、危険なものは入りこみにくい、という原理ですね。㋓ところが、それが効かなかった。㋔つまりチェルノブイリやヨーロッパの子どもたちには、間違いなく甲状腺のガンがすさまじい勢いで発生す(ママ)。㋕もうすでに、兆候は出はじめているでしょう」(六〇~六一頁、㋐~㋕に記号と括弧内の挿入は私)
先ず、㋐の文章であるが、ウソである。甲状腺被曝により発生し得る疾病は甲状腺ガンおよび甲状腺結節である。一九七七年国連科学委員会報告書『放射線の線源と影響』(アイ・エス・ユー社)によると、被曝したマーシャル諸島の住民(ビキニ海域一帯の島の住民のこと)二百四十三人のうち七人から甲状腺ガンが発生している。甲状腺結節のデータはここには掲載されていないが、この数倍はあると思う。つまり大雑把に見積って、合計すると二百四十三人中三十~四十人から甲状腺ガンまたは甲状腺結節が発生していることになる。被曝したマーシャル諸島の住民の何と八分の一~六分の一が甲状腺ガンまたは甲状腺結節を患っているのである。これだけでも実は大変な状況なのである。しかし、一九七七年以降の甲状腺ガンまたは甲状腺結節の発生数について私は知らないが、それらを加えても「住んでいた人のほとんどが甲状腺に障害を持っている」と言えないことは確かである。広瀬隆さん、それなのになぜあなたは「住んでいた人のほとんどが甲状腺に障害を持っている」などと、すぐに分かるウソをつくのか。あなたのようなウソなど全然つかなくとも、被曝したマーシャル諸島の住民が大変深刻な状況にあることは容易に想像できることなのである。すぐに分かるウソではなく、被曝したマーシャル諸島の住民の状況をあるがままに伝えることのほうがずっとずっと大切なことであると思う。
(中略)
 ㋔の文章、「つまりチェルノブイリやヨーロッパの子どもたちには、間違いなく甲状腺のガンがすさまじい勢いで発生する」中の「甲状腺ガンがすさまじい勢いで発生する」は、文学的表現であろうか。文学的表現であるならば、私としてはノーコメントである。何も言うことはない。しかし「稀にみる真実」であると主張するのであれば、このように情緒的な表現だけを用いるのは間違いの元で、避けるべきであると思う。チェルノブイリやヨーロッパの子どもたちの甲状腺の推定被曝線量はどのくらいか、将来発生し得る甲状腺ガン患者数(または死亡者数)はどの程度かを明記すべきである。さらに、自然発生甲状腺ガンの発生者数(または死亡者数)が分かるのであれば、それも付け加えるとなお一層よい。その上で、「甲状腺ガンがすさまじい勢いで発生する」と言いたければ、そう言えばよいと思う。私は常にそうするようにしている。
 ㋕の「もうすでに、兆候が出はじめているでしょう」も間違いである。ロザリー・バーテル女史の「放射能毒性事典」(技術と人間社)によると、甲状腺ガンおよび甲状腺結節の潜伏期はともに十年である。ただしバーテル女史によると、良性の腫瘍の場合には十年の潜伏期を経ずに発生することもあり得るという。いずれにしても、『危険な話』の第一刷が発行されたのはチェルノブイリ原発事故から一年しか経過していない一九八七年四月のことであり、それ以前から広瀬さんは「(甲状腺ガン)の兆候は出はじめている」(括弧内の挿入は私)とあっちこっちで講演して回っているわけだから、完全なウソ、作り話である。なお、先程の㋐のところに触れたことに関係するが、甲状腺結節は甲状腺ガンより三倍発生率が高いとバーテル女史は評価していることを、参考までに指摘しておく(文化評論』版、p142~144)

最初のほうは、大気中核実験が行われたマーシャル諸島の住民における甲状腺障害の問題である。広瀬はビキニ海域の住民に限定して「住民のほとんどが甲状腺障害をもっている」と語り、野口はより広範囲のマーシャル諸島全体を対象にした報告書から引用している。まずは、たぶん両者は同一のデータからみていないのではないかと推測される。その上、野口も、マーシャル諸島全体の統計でも甲状腺障害が平常よりかなり多いことは認めている。確かに、広瀬が「住民のほとんどに甲状腺障害がある」と主張しているのは誇張といえるかもしれない。ただ、広瀬としては、たぶんに核実験の死の灰による影響をアピールするためのレトリックだったとも思える。核実験の死の灰に起因する甲状腺障害の深刻さは決して「ウソ」とはいえないのだ。野口の批判では、広瀬の主張全体が「ウソ」となる。そして、それは、核実験の死の灰におけるマーシャル諸島の住民の苦しみを見過ごしていくことにつながってしまいかねないのだ。

後段のほうは、チェルノブイリ事故後、ヨーロッパやソ連で甲状腺ガンが子どもたちの間で多く発生するだろうと広瀬が予測している部分についてである。野口は、そのような推定データを広瀬はつけていないし、甲状腺ガンが発生するのは時間がかかるから、広瀬がそのように主張していることは「ウソ」であると断じている。

確かに、広瀬の主張に根拠があるのかといえば、形式的には野口のいう通りともいえる。しかし、現在、私たちは、チェルノブイリ事故後、実際にチェルノブイリ周辺の子どもたちに甲状腺ガンが発生したことを知っている。その意味では、専門家である野口よりも、野口によれば科学的とはいえない広瀬のほうが現実の事態を予見していたともいえる。いずれにしても「ウソ」とはいえないであろう。そして、このことを主張する広瀬を「ウソツキ」と断ずる以前に、とりあえず広瀬の主張を「仮説」としてとらえ、その真偽を自ら実証してみるべきではなかったかと思えるのである。

野口の批判は、これ以外も枚挙の暇がないほど続くのであるが、このあたりでやめておく。野口の広瀬隆批判は、確かに共産党の人びとの広瀬批判に触発されたものであろうと思えるのだが、実は、それとは別個の問題が提起されていると思う。野口の批判は、広瀬隆のジャーナリズムと知識人批判に対して、広瀬の主張総体を「ウソ」と断ずることによってなされる、「学知」の側からの反撃ともいえるのである。『文藝春秋』に掲載された版では、共産党や原水協などの原発政策に関わる部分は削除されているのだが、全体の印象は文化評論版とそれほど変わらない。そのことは、この野口の広瀬批判の眼目が「学知」の側からの反撃というところにあったからだと思われる。

この野口の広瀬批判をどうとらえるか。重要な問題なので、項をあらためて検討することにしたい。

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以前、本ブログにおいて『加藤哲郎氏の報告「日本マルクス主義はなぜ『原子力』にあこがれたのか」を聞いてー東日本大震災の歴史的位置』(2011年12月10日)と題して、同日に加藤氏が行った講演につき、戦後の日本共産党が綱領などの政策文書の上では原発を容認していたとするという内容の紹介を行った。

ただ、綱領などの政策文書だけで、日本共産党の総体の原子力政策を論じることは、たぶんに一面的であるとも思う。実際に原発事故に直面した際の状況によって、日本共産党の人びとの行動もまた変わっていったと思われる。その揺れも含めて考えなくてはならないのではないか。

そして、このような共産党の対応は、私自身の意識の問題とも結びついていると思う。私自身は共産党員ではなかったが、ある意味で、私が育ってきた空間は、共産党の人たちと無縁なものではなかった。もしかすると、共産党の人たちを傷つける記述になっているかもしれない。その場合はお詫びしなくてはならない。ただ、私は、こういいたいのだ。私もまた、こういう問題を一部共有していると。私は、なぜ、自分が原発問題を意識しなかったのか、そのことを強く意識している。そのために、ここで、共産党の人たちのことをみてみるのは、その一環である。早い話、3.11以前ならば、このようなことを考えもしなかったのだ。

今回は、1986年のチェルノブイリ事故をうけて『文化評論』1988年7月号(新日本出版社)に掲載された「座談会・自民党政府の原発政策批判」をみておこう。この座談会には、中島篤之助(中央大学教授)、矢島恒夫(日本共産党衆議院議員)、柳町秀一(日本共産党科学技術局)、松橋隆司(「赤旗」科学部長)が参加した。中島は、原子力などを専攻しており、日本原子力研究所に勤務した経験をもち、共産党系の科学者が結成した日本科学者会議で原子力問題研究委員会委員長を当時勤めていた。座談会に出席したのはそのためであるといえる。もとより、この座談会はなんらの強制力もなく、共産党が正式に表明した方針ではない。しかし、逆に、共産党の人びとが、チェルノブイリ事故をめぐって、具体的にどのように認識し、行動しようとしていたのかを考える一つの材料となるだろう。

まず、中島篤之助は、「われわれがかねて言ってきたことですが、原子力発電の技術が決して成熟した技術ではないということを印象づけました」(p59)と指摘した。そして、日本の原子力安全委員会のチェルノブイリ事故調査特別委員会の最終報告書を批判して、次のように述べた。

 

要するに日本ではこういう事故が起きないということを強調することに終始していて、しかもその根拠が、たとえば、炉形が違いますから起きませんとか、あるいは検討はしました、しかしだいじょうぶです、というような調子で一貫している。繰り返し安全性を強調しているのですが、それをまた国民が全然うけつけていないという現実がある、両者の間のギャップが非常に大きい。(p59)

そして、衆議院議員の矢島恒夫も、チェルノブイリ事故については、国会でも取り上げられているが、政府側は「非常に非科学的な答弁しか行っていない」と述べ、「日本政府は、原子力発電を基軸エネルギーとしてやっていくという方針に固執しています」(p60)と指摘した。その他、チェルノブイリ事故における食品汚染問題、国内外での原発事故の続出、莫大な広告料を使っての原発安全PR、苛酷な炉心損傷事故を想定しないがための防災対策の遅れなどが、当時の原発をめぐる問題としてとりあげられた。基本的に、現在の原発においても、同様なことが指摘されているといえよう。

中島篤之助は、原子力発電は未成熟な技術ということについて、軽水炉は炉心溶融事故が起こりやすい不安定な原子炉であり、より安全な「固有安全炉」というものが必要であると指摘している。そして、中島は、「これ以上は軽水炉を増やしていくことはやっぱりよくない。それから既存の原発の古くなっているものは危ない。」(p73)と主張した。

また、原発は、産油国の資源主権論に対抗する先進工業国による「一種の新植民地主義的十字軍」であり、「日本の場合には、アメリカのビッグビジネスの商売の道具になって原発をつくったわけです」(p74)と中島篤之助は発言した。

このように、実際に建設された原発について、日本共産党の人びとは賛成していたわけではなく、むしろ問題点を指摘していたのである。そして、赤旗記者の松橋隆司は、このように指摘している。

日本共産党の不破(哲三…後に議長となる)副議長が、十数年前から、国会で原子力問題について先見的な警告を発しつづけてきたことは、振り返ってみると、いま問題になっているほとんどのことの根本を追及しており、非常に重要な意味をもっていることがわかります。」(p71)

つまりは、すでに共産党は、原発の個々の問題点を国会で追及していたというのである。現実の原発に直面した際、共産党においても、原発批判を行うようになったということができる。

しかしながら、この座談会では、反原発を反核運動の中心とすることに対する警戒感も強く表出されている。日本社会党系の人びとが組織していた原水爆禁止運動の機関である原水禁(原水爆禁止日本国民会議)は、1969年頃より反原発を運動の中にとりいれてきた。そして、共産党と共産党系の人びとが原水爆禁止運動の機関として結成していた原水協(原水爆禁止日本協議会)は、社会党ー原水禁と対抗関係にあった。

この対抗関係を前提にして、この座談会における発言をみていこう。共産党科学技術局の柳町秀一は「いま核兵器廃絶に「原発廃絶」を意識的に対置しようというグループは、その歴史的経過を無視して原発だけを大きく出そうとしているわけですね」(p75)と批判した。その上で、共産党の立場をこのように説明した。

さっきの「核絶対否定」の問題ですが、私たちのところに寄せられる意見や質問にもこの立場からのものが少なくない。共産党も見切りが悪すぎやしないか、いいかげんあきらめたらどうだ、廃棄物を考えたら研究だってだめじゃないかという言い方です。確かに、軍事の落とし子ということでの経済性の無視・安全性の無視を背負った原発が未成熟なまま実用化されている。これへの批判は当然ですが、だからといって、原子力のいっさいの平和利用を否定する見地はとらない。現在の原子力の平和利用の研究開発は、国際的には、核兵器開発にほとんど動員されていて、平和利用の道は、まだ端緒を開いたにすぎない。核兵器を廃絶して国際的英知を集めるのはこれからです。共産党の政策では「構造的に安全な原子炉」の開発をすすめることを強調しています(p76~77)

ある意味では、加藤氏の指摘したように、共産党の全体の政策文書によっていると思われるが、核兵器を廃絶することが原子力の平和利用につながるというロジックなのである。

他方、「反原発運動」は「ラッダイト運動」と同一視されていく。中島篤之助は、IMF条約(中距離核戦力全廃条約、1987年)で廃棄される核兵器からでるプルトニウムは、平和利用・原子力発電で使わないと、他の核兵器に転用される可能性があると指摘した。その上で、中島はこのように主張した。

だから日本の反核運動のなかには、実はプルトニウムをなくすことが核兵器をなくすことだみたいな誤解があるわけですね。プルトニウムがこわい、原発がこわい。だからいわば現代の「反原発運動」は、一種のラッダイト運動みたいなものです。機械ぶちこわしでは何事も変わらない。(p78)

その上で、中島は「ほんとの原子力の平和利用の展望は、核兵器がなくならなければ出てこない」(p78)と宣言したのである。

そして、松橋隆司は、チェルノブイリ事故後の総評・「原水禁」の「被爆四十一周年大会基調」について、このように言及した。

この「基調」には、その具体的な活動のなかには、どこにも核兵器廃絶を正面から要求するものがはいっていないかわりに、冒頭からソ連のチェルノブイリ原発事故を取り上げ、「核戦争の被害に匹敵する」などとのべ、核兵器も原子力発電も「核」ということでひとくくりにし、「核絶対否定」の立場を強く押し出しているのが特徴でした。
 「核絶対否定」論にもとづいた「原発反対」などを原水禁運動の目標に潜り込ませるなら、「原発反対」の立場以外の人は運動から離れざるをえず、運動は著しく切りちぢめたものにならざるをえないのは明らかです。結局、「核絶対否定」論は、核兵器固執勢力を助ける結果になり、客観的には反動的な役割を果たすことになりますね。(p80~81)

そして、その関連で、『東京に原発!』(1981年)、『ジョン・ウェインはなぜ死んだか』(1982年)、『危険な話』(1987年)で、原発や放射性物質の危険性を強く主張していた広瀬隆もまた批判された。松橋隆司は、このように述べた。

また「原発の危険性」という重大な問題を取り上げながら、原子力の平和利用をいっさい否定する立場から、「核兵器より原発が危険」とか、「すでに原発のなかで核戦争が始まっている」といった誇張した議論で、核兵器廃絶闘争の重大性から目をそむけさせる傾向もみられます。(p80)

これは、言及はされていないが、広瀬隆の『危険な話』の一節を批判したものである。その部分をあげておこう。

多くの人が反核運動に情熱を燃やし、しかもこの人たちは大部分が原子力発電を放任している。奇妙ですね。核兵器のボタンを押すか押さないか、これについては今後、人類に選択の希望が残されている。ところが原子炉のなかでは、すでに数十年前にボタンを押していたことに、私たちは気づかなかったわけです。原子炉のなかで静かに核戦争が行われてきた。いまやその容れ物が地球の全土でこわれはじめ、爆発の時代に突入しました。爆発して出てくるものが深刻です。(広瀬『危険な話』p54~55)

広瀬も『ジョン・ウェインはなぜ死んだか』は、核実験の話を中心としており、広い意味で核兵器廃絶を主張していたといえる。しかしながら、松橋は、広瀬の議論を核兵器廃絶よりも原発廃絶を優先したものとして把握し、その観点から批判したのである。

このように、この当時の共産党は、原発問題について微妙なスタンスをとっていた。共産党は、既存の原発の問題点について確かに厳しく追及していたといえる。実際、日本科学者会議の機関誌である『日本の科学者』には、各地の反原発運動がかなり紹介されている。他方で、「反原発」を反核運動の中心におくということについては、社会党ー原水禁との対抗関係から強く警戒し、まさしく、原子力の平和利用が可能であるという共産党の立場を堅持した。そして、その意味で、原発廃絶を強く訴えていた広瀬隆などの論調を批判するようになったといえる。

そして、『文化評論』の同号には、野口邦和「広瀬隆『危険な話』の危険なウソ」が掲載された。これは、まさしく、「反原発」を反核運動の中心に置くことに対する共産党の人びとの警戒感に端を発しつつ、「学知」の立場で広瀬隆ーひいては「反原発運動」の真偽を「判定」するというものである。このことについては、次回以降検討していきたい。

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